彼の目には涙が流れていた。
麓から山道の家までは徒歩で帰った。降雨は日が暮れてからも続いた。夏のものとは思われぬほど清々しく、冷たい雨だった。風に抗って傘を差しているのが、どうにも億劫な心地になって、それは土方にとっては非常に珍しい感情の動きに違いなかったが、途中からは傘を閉じ濡れて歩いた。この時間が永遠に続けばいいと思ったが、闇の中に紫色の火花のような、小さなアガパンサスの群れをぬけ、糊空木の湿った芳醇のなかを泳いで行くと、玄関扉の窓から灯りがオレンジ色に漏れているのが見えて、安堵したような、虚脱したような、奇妙な感慨に襲われた。
扉をあけ、土方は帰ってきた。
夫人はホールにて、小さな椅子に座し、一人きりで待っていた。膝の上に読みかけの本を伏せ、階段の踊り場に設けられた高窓窓に、流れる雨の粒を眺めている。藤色の着物の胸に松葉が、孤独の象徴であるかのように、いく筋もとがっている。土方を見ると、色素の薄い目を溢れんばかりに見開き、立ち上がった。本が滑り落ち、床に叩きつけられるのも構わず、小さな足で駆け寄ってきた。
平生なら、まだ議事堂か陸軍省にいる時刻だった。
「歳」
冷たい手が、濡れた頬を滑る。
「どうしたの、そんなに濡れて」
「辞めてきた」
「何を……」
「全てだ」
夫人の呼吸が波うつ。恐れを込めた瞳で土方を見るので、土方は、彼女に慈しみを覚え静かに微笑した。
軍履を脱ぎ、外套を脱ぎ、詰襟を外そうとする土方を手伝って夫人も、濡れた軍衣の胸に手を伸ばした。右胸の元帥徽章を外そうとして、指先が小さな金具の上で何度か滑った。
土方は、その手を両の指で包み込んでとらえ、
「もう行かない」
いかなる抵抗も許さず、強く強く握りしめた。
「どこにも行かない。ここにいる」
「歳」
土方は彼女が呼ぶ声を聞いて、身体の中に、不意に熱を感じた。古い種火が再燃したのである。多摩の畦道で初めてこの女の手を握った日の沸るような火である。夫人が土方の胸に腕を回し、しがみついてきた。彼女の身体はこんなにも小さかったかと思いながら、土方も、それに応えて彼女に、ねんごろな接吻をあたえた。
触れ合う唇だけが生々しく体温を持ち、他のすべては虚ろな絵画のごとく背後に退く。
ふたりは一つの影になり、つまり、離れがたく、ぶつかるようにして抱き合いながら、階段を上った。その間にも、袂から袖口へ、優しい手が滑り込み、堅く厚い軍衣の下の身体を探るように撫でていた。何度も何度も、土方がそこにいることを確かめていた。土方も、いささか乱暴な手つきで彼女の羽織を、帯を、解いていった。貞淑な女の身体は、まるで分厚い藤色の雲に幾重にも阻まれているかのようだ。まだ遠い。まだ。裸足のつま先がはしたなくも、床板をしきりに掻いているのを見たとき、たまらなくなって、土方は女を抱き上げていた。
その謎めいた洞窟のような寝室へと踏み込んだ。温もりのない暖炉にはめ込んだタイルガラスが、蝋燭の火に鈍くきらめき、ベッドサイドの白い薔薇は実に静謐に神秘的に香った。寝台の上には稠密な闇が、ひたりひたりと漂っている。
秋は足早に立ち去ろうとしていた。いささか急な出立だった。木枯らしが吹くようになり、花の落ちた庭は急に寒々として、枯蔦の絡む鉄柵すら、どことなく凄絶な恰好で立ち竦んで見えた。クロッカスの球根を植えに、枯れ葉の上を柔らかく踏んで回る夫人は、寂しい晩秋の三日月、薄明の天幕の下で、まるでもう一つの月のごとく、白く発光しているかのように感じられた。彼女の肌の白さゆえか、それとも、人の身を離れつつある魂の生来の発光なのか、判断しかねた。
「かごの中に、黄色、桃色、白に紫色、色々な種類の球根を、混ぜて入れてあるんです」
球根二つの重みさえ、今の夫人には堪える。一つきりを、両手で、嬉しそうに抱きしめていた。
「そうすると、春、どこに何が咲くかわからなくて楽しいでしょう。リスに食べられないように、少し深いところに埋めてね」
場所を検分するうちに彼女に疲労が訪れたので、ガーデンチェアに腰掛けさせた。雪がかごを持って、あちこちにかがみ、彼女が言う通りに球根を埋めた。冬の終わりには芽吹き、春になれば、色とりどりの花を咲かせるだろう。雪は、土方を伴って、それを嬉しそうに眺める彼女のことを想像した。空想は甘く、生暖かくて、心地よかった。それで、気付くのが遅れた。
夫人は、土の上に蹲り、言葉もなく静かに目を閉じていた。
顔にも身体にも血色がなく、青白く褪色して、透明で無機的だった。極めて美しい硝子の抜け殻のようだった。微動だにしない。呼吸がない。雪は悲鳴をあげ、彼女の肩に飛びついてゆすった。
「奥さま!」
「…………大丈夫、大丈夫です」
抜け殻がかすかに笑う。
「よくあること。本当ですよ。近頃、本当に体力がなくなってしまって」
彼女を抱き上げてなんとか寝室までむかった。あまりにも軽い、紙のような身体で、それなのに横たわらせるとまた笑って雪を安心させようとするので、ついに涙が喉から鼻先までを突いた。溢れようとするのを下瞼で必死に押し留めていた。
「旦那さまにはお話にならないのですか。きっと心配されています。あの方は、何よりも奥さまを大切に思っていらっしゃいますから」
「やさしいね。お雪さん。私は、あなたを、あの人の……、あの人に……」
青白い顔に、唇の赤色だけが、いまにも消えそうな蝋燭の火のように、艶やかに残っている。目はうるんで雪を切なく見つめている。
「……願ったら、叶ってしまったの」
愛しているのだ。
「あの人に抱かれながら、たった一度、このまま終われたらって」
七十年前の夏の夜、もうどこにも行かないという彼の手に優しく抱かれ、ただ生きていくために失ったはずのすべてのものが、彼女の腕の中に戻ってきて小さな星になった。彼は言葉以外のあらゆるしごとで愛しているとささやき、彼女は、この瞬間、心から安堵し満たされていた。しかし永遠の愛など存在しないのだ。いつか、彼は気まぐれな漣のように、またどこかへ遠ざかっていくかもしれない。いつかこの歓びを忘れるかもしれない。そうであるならばせめて、愛が美しくまばゆい星であるうちに、終わりたかった。
祈りは結実した。七十年のうちに忘れられたはずのそれが、遠くの星から届く光のように、いま彼女の命を終わらせようとしている。
「あの人には秘密にしてね」
その声は、もう声というよりは、そよ風が肌をかすめるような、かすかな空気の振動に過ぎなかった。
夫人が眠ると、書斎から呼び鈴が鳴った。珈琲の時間だ。
雪は調理室で珈琲を淹れた。いつものように、粗挽きの豆に湯を注ぎ、フィルターの滴りを待つあいだ、湯気の中で土方の好む濃さを量った。珈琲の匂いにはどうしても慣れない。こんなものを飲む土方の気がしれない。しかし、夫人の語る愛の言葉はいささか甘やかすぎて、こんなものでもなければ、彼の曲がった腹は受付ないのかもしれないと思った。
書斎に入ると、土方はこちらに背を向け、イチョウの枝から最後の葉が落ちていくところを見ていた。
「奥さまは、お休みになりました」
雪は、声が裏返らなかったかどうか、自分でも確信が持てないでいた。土方はなんでもなさそうにマグを受け取り、少し啜って、何か思案するような顔つきになる。いまだに、雪の淹れる濃さにしっくりきていないのだ。
そのまま廊下へ下がろうとして、すくむ足に気づいた。夫人の告白はいまだ耳の奥で反響し続けている。
願ったら、叶ってしまったの。
「……あの、奥さまは。奥さまは……おひとりで行かれようとしています。あなたには秘密で、どこか遠いところに……」
「知っている」
「止めないのですか?」……彼女に生きろと命じないのか、という問いが、土方の既知に対する驚きよりも先行した。土方が一言命じれば、道理や秩序を超えて彼女はそうするだろう。微笑んで春を迎え、クロッカスの花を夫とともに見るだろう。
彼の表情が灰に埋もれていく。上から下へ、流れ落ちるように無くなっていく。そして彼生来の暴力的なほどの美貌が、薄青い闇の中に鋭利になった。月砂漠の色が頬に沈みこみ、唇にも血の気配がない。目は極夜の湖のように静かだったが、その底に、赤く火花が点滅するのを認めた。それは、飢餓であった。
どうしてもあの女は己のものにならない。女の美しい身体には自我が棲み、女の清らかな精神には肉体が寄生して、土方との同化を阻んでいる。裸で抱き合っても、粘膜を擦り合わせても、常に何か名状し難いものが女を支配していて土方の手をすげなく跳ねつける。女は己のものにならない。一度脚の骨を抜き砕いて食らったことがあるが、満潮はかなたにあって遠い。そしてそのために女は一度死んだ。この世の、土方以外のあらゆる部分が彼女であればよかった。そうであれば、女との境界のことなど考える必要はなかった。
「もう十分だ」
二百年近くにわたる支配はついに、彼女を侵犯することはなかった。女の善性に土方は敗れたのだ。
雪は書斎を離れた。手持ち無沙汰になり、箒を持ってあちこちうろうろした。階段を降りてすぐ直面するホールの正面に、普段は閉ざされた両開きの扉がある。かつて外国使節を迎えたという大客間である。丸いテーブルにむかう四つの安楽椅子、黒壇のグランドピアノ、シルクロードをやってきたペルシア絨毯。南に丸く張り出した出窓には分厚いカーテンが引かれ、細い隙間から入る月光が、長い寄木張りの床を一筋だけ照らしている。
その光の先に、土方歳三が立っていた。
暗色の正衣をまとい、佩刀へ片手を添え、胸を勲章で覆った、ほとんど等身大の肖像である。画布には細かな亀裂が走り、ニスも琥珀色に変じているが、確かにあの男である。その頭上に、黒い星が、光なく翳っている。