作業ブログ

 

 

 

ナッシング・トゥ・マイネーム

1 2 3 4 5 6 7 完成

 

もしも純太が(仮)

A

B-1 B-2

 

ライラックのワルツ ——La valse des Lilas

1 2 3 4

 

菩提樹苑の丁たち

1

予告編:樹下の三人

 

ムーンライト・イン・シドニー

完成

予告編:被虐

 

神の子らはみな踊る

1 2 3 4 5 6 7 完成

 

アテンの標本の月(仮)

リンク

 

祈りの作法

1 2 3 4 5  

特別編

センチメンタル・フラグメンツ

 

Campanula

Makuai

Iju's Parasite Egg

 

GenuineA.Š.A. 

構想メモ

ScrapTrinity

 

パーフェクトワールドエンド(改)

あらすじと登場人物

A

B-1 B-2 B-3 B-4  B

C-0 C-1 C-2 C-3 C-4  C

D-1 D-2  D

E

完成

予告編:悪夢(D-2に回収済)

 

父の秋扇

1 2  


エスペランサ

A-1 A-2 A-3 A-4 A-5 A-6  A

B-1 B-2 B-3

 

 

ナッシング・トゥ・マイネーム

 

 

予告編(いつかどこかで回収されます)

:スイス

:ガールフレンド

:女(回収済)

:港

:王国

:ロマンス

:サテライト

:ハイヒール

:宇宙人の花嫁

:秋

XI:空胸の部屋

XⅡ:悪魔と修道女

XIII:人妻

 

 

設定メモ

画像資料

 

 

ナッシング・トゥ・マイネーム



 青い真珠が一粒、清潔なシーツの上に横たわっているものと思われた。
 純子はためらいとやましさの浜辺に、畏怖の波が押し寄せてくるのを、心中に確かに感じていた。彼女の美しさはたびたび純子をそのような思いに駆り立てた。分厚い遮光カーテンの外は夏まっさかり、湿気を帯びて重たくなった亜熱帯の空気が都市全体に滞留し、森から追いやられた蝉がコンクリートの壁で窮屈そうに鳴き、ほとんど直上の太陽が、人やものをみんなバーベキュー台にかけている、そうした季節が猛威を振るう中、青八木一は、いっそ冷たさすら覚えるほどの怜悧な美徳をたたえて、床上にて恋人を待っていた。
 薄いドアの向こうで、エレベーターのチンと鳴る音がする。男女カップルの下世話な会話が通り過ぎる。そうした俗世のものから遠ざかるかのように、一歩、純子はベッドへと近づいた。うつ伏せになっていたはじめが、首をもたげて純子を見た。ねじを絞ったウォールランプの、かすかなオレンジ色の光が、彼女の小麦色の髪やまつ毛の上に幻想的に踊った。
「純子、おいで」
 前のめりになった身体を膝で支えると、安物のベッドはそれだけで悲鳴をあげた。プリーツスカートの重厚な生地から伸びた、白妙のような色の腿に、腰を挟まれて引き寄せられる。肉の柔らかさに声をあげる間もなく、つんと尖らせた悪戯な唇に退路をふさがれて、純子はただ目を閉じ、彼女の唾液の味を脳の底まで染み渡らせる。日々の練習のあと、空腹を持て余し、恥も外聞も忘れて肉を貪ることに終始する、彼女の唇。口許へ垂れたソースをなんとはなしに舐めとる肉厚な舌。骨をとらえ、繊維を剥ぎ取る犬歯、取り込んだものをすり潰す奥歯、そうしたものの姿形を、自らの舌を持ってしてたしかめる。はじめとのキスはちょっとおっかない。
 貪り食うように二つの唇が交接し、靴下を脱ぎ捨てた生足どうしも、同様にからみあった。純子の、骨と皮ばかりの貧相な鷺脚は、はじめの柔らかい肉に包まれ汗で濡れた。甘い痺れと渇き。境界なく混じり合う女たちの呼気。そのうち、二人の肌を隔てるあらゆるものが邪魔と感じられて、純子は目の前の身体から制服を奪い去ろうと動いた。リボンをほどき、ボタンを取ってブラウスを脱がせてしまうと、豊かに成熟した乳房が小気味よくまろびでた。すぐさま乳頭に齧り付いて啜った。
「純子、純子」
 我を忘れた子供のような純子の頭を、はじめの脚が柔らかく拘束した。可愛らしいつまさきが純子の肩の後ろでせわしなく宙を掻いている。
「はじめのおっぱい、おいしい」
「ん……ん……」
「大好き。吸ってると出てくるの、かわいいのよ」
 硬くなった乳頭の側面を舌で押し潰し、かすかに色づいた乳輪を前歯で食む。谷間に鼻先を突っ込んで大きく深呼吸をしては、ふっと息を吐くと、それだけではじめがせつない呻き声をあげた。頭の動きにあわせて、肉惑的な輪郭の腰がもどかしく揺れる。思わずといった様子で擦り合わせられる両膝に、ぬるついた膣液が滑り落ちてくる。
「純子……わたしもしたいよ」
「いいわ、来なさい」
 震えるはじめの指を手伝って、純子も、自らブラウスをはだけてゆく。骨の浮いた肋の上に、そっけなく乗った薄い乳房、自分ではあまり好きではないが、はじめは純子の腰に抱きつくと、嬉しそうに乳頭を吸った。まだ男を知らない、あいまいで核心をつかない愛撫が、純子にはこの上なく愛おしい。
「おいしい?」
「うん……おいし、純子、大好き」
「あたしも」
 純子の胸元に、無邪気に戯れるはじめの、股の間に脚をくぐり込ませた。膝頭を持ち上げて探るような動きを取ると、尾瀬の湿地を思わせる豊かなぬかるみが、すぐさま布越しに滲んできた。
「や! やだ、やだあ」
 ぐずりながらも、はじめはあられもなく両脚を拡げて純子を挑発しにかかる。泣き顔は小さな子どものものなのに、熟れた身体はとても無垢からはかけ離れている。倒錯した感興が純子の喉元にまで迫り上がってきた。
「感じてるの? パンツの中から、くちゅくちゅ聞こえるよ」
「やだ、純子、意地悪しないで……」
「気持ちいいでしょ。ね、素直になりなよ、べつにはじめてってわけでもないんだし」
 はじめは答えない。堅くつぶった目から、涙が一筋、薄くかけたアイシャドウのラメを頬まで運んだ。
 自動運転のエアコンが、部屋の気温の変動を感じ取ったか、風量を一段上げた感じがする。背中に吹き付ける風が冷たい。膣までがからからに乾いていくようだ。反して、はじめはすっかり全身の皮膚を桃色に上気させ、甘ったれた喉声で嗚咽している。健康的に肉のついた手指が、ピンクのマニキュアでさりげなくはなやいだつま先が、シーツの上で感じやすい生き物のように悶えている。
「素直になれないはじめのパンツ、破いてやろうかな。そうしたら、あんた、ノーパンで家に帰るんだよ。いいの?」
 純子への接待を忘れ、役立たずの木偶と化したはじめの耳殻に囁きこむ。
「むり……やだ……」
「正直に言いなさいよ。あたしにこうされて、どうなのか、これからどうして欲しいのか」
「うん……ん……じゅんこ」
 人差し指の腹で、堪え性のない股を乱暴にさすると、はじめは夢見ごこちでこくこくと首肯した。
「ねえ、はじめ」
「純子……きもちいい。だいすき。もっとして」
 従順な共犯者の顔を仰ぎ見ると、神仏めいた穏やかな表情で彼女は目を細めていた。
 最後のインターハイが終わり、よるべなく泳ぎ出した心、卒業を前にして少しずつ降りてくる不安や疑念といったものから遠ざかり、二人は視線から、吐息から、皮膚から混ざり合う。純子の言葉がはじめの官能の炉を燃え上がらせ、はじめのあえやかな悲鳴が、純子の本能を理性から解いていく。愛の言葉をささやく代わりに、なりふりかまわぬ肉のふれあいで激情を示した。濡れた部分で擦れ、乾いた部分でつながり合った。
「はじめ、あたしたち世界の終わりまで一緒よ」
 純子がそう言うと、はじめが答えた。
「わたしも、愛してる、純子」
 眼球の裏で白い光が弾ける。

 純子は、高校の渡り廊下の、組み木の特徴的な床に、言葉もなく立ち尽くしていた。
 大判のガラス窓から、赤い西陽が真っ直ぐに、制服を着た純子に突き刺さった。頬や頸が爛れたように熱く痛んだ。心拍が酷く落ち着かない。握り込んだ手のひらにじくじくと汗をかいている。最終下校時刻を回り、校内は生徒の気配もなくひっそりとしていたが、それだけに、背後から差し向けられた強い意識を、純子は背中へと克明に感じていた。
「帰らないの」
 やっとの思いで吐き出した言葉は、年頃の少女らしい怯えを伴ったものだった。震えていたのだ。
「俺に頼みがあるんだろう」
 ぞっとするほど低い、押しこもった男の声が、淡々と答えた。
「心当たりないんだけど」
「俺にはある。おまえは回りくどいが、わかりにくいというほどじゃない」
「あるとして、あんたはどうしてくれるの。古賀」
 部室棟を背後に、男子生徒が、仰々しく包帯で覆った左肩を庇って立っている。古賀公貴は酷薄に、純子を嘲笑した。
「無論、その要求を呑むつもりだ、手嶋。俺たちはたった三人きりの同期だからな」
「——生真面目なあんたに、うまくできるとは思えないんだけど」
「できるさ」傲岸不遜に鼻を鳴らし、公貴、「今までおまえが指で絡め取った男たちのようにな。なぜ俺が、その輪の中に入らなければならないのか、理解したくもないが」
 眼鏡越しに、冷たい目が赫々と光を帯びる。純子は、自身ですらそれと気づかないうちに、教室棟へと上履きの足を後退させていた。身体中が冷たい汗で覆われていて不愉快だった。
「細かいことはこの際いいさ。さっさと済ませよう」
 長身がずんと純子の目前に迫る。無防備な手首を掴まれて、上履きが床板を擦る。つんのめるようにして、公貴に引きずられるまま、来た道を遡る。
 一年四組の教室で、制服を脱ぎ、痩せた身体のすべてを公貴に見せた。汗に塗れながら膣穴を開き、彼の大きな性器をその中へ入れた。公貴は純子をもののように乱暴に扱い、純子は、瞼をきつく閉じたまま一度として公貴に視界を許さなかった。瞼の裏には、清らかなはじめの微笑を刻みつけていた。純子の意に反して、男を歓待しようと降ってきた子宮口を乱暴に塞がれ、すがりついた窓はいてつくように冷たい。冬もたけなわ、素肌には厳しく凍みる晩だった。
 ことの終わりには、公貴と折り重なるようにして床に倒れていた。
「……あんたが、はじめに一番近しい男だからよ」
 手のひらで顔を覆ったまま、指の間からひきしぼるような声で言った。公貴が、右手指で神妙そうにとがった顎を触る。
「それは、さっきの、俺の問いかけに対する答えか」
「そうよ。あんたって最低」
「おまえが勝手に吐いたんだろう」
 どこかが、しくしくと痛む。壁一面に不揃いの「雲海」の字が張り付いたこの教室で、息をすることすら億劫だ。のそのそと身体を起こすと、デオドラントのミントの香る無骨な指が、裸の肩にブラウスを優しくかけおとした。勝手に、などという乱暴な言葉を吐きながら、公貴の顔には、耐え難い暗愁が押し包まれているのだった。
 腕を伸ばし、裸の左胸、迫り出した肋骨に公貴の頬を押し付けた。彼は何も言わなかった。
「古賀、あんたの存在は、あたしにとっては最後の砦だったのよ」
「……自分で台無しにしたくせに」
 眼鏡を外したこの男の、伏せた睫毛が存外に長いこと、きっと、はじめですら知らないだろう。短い髪を梳き、血管の浮いた首、傷ついた左肩に、つとめて軽く触れる。
「あの子を受け容れられない」
 本心だった。
「ほんとうに愛しているのに……」


   ナッシング・トゥ・マイネーム


 あれから秋が来て、冬が過ぎ去り、また春になって、デスクの上で小さな影が舞った。顔を上げると、影の正体が窓から入り込んだ黄色い蝶であることが分かった。手のひらでそっと捕まえると、包み込んだ手の中で翅がまたたいて、むず痒くいたたまれない思いがした。窓から外に出してやると蝶は飛び去り、荘厳たるイスティクラル・モスクの方角へ、見えなくなった。二十五歳の純子はその様子を、寡黙なまま、見ていた。
 ラップトップのテキストアプリでは、美しく奔放な十七歳の少女が、同窓生の女子生徒をいたずらに弄ぶさまがあけっぴろげに描かれていたが、キャレットは七日前から同じところを打ち続けている。少女は無邪気にも同窓生の肩に小さな頭を預けたまま、動かない。焦れて純子はレッドブルのプルタブを開け、薄い炭酸液を勢いよくあおるが、直ぐにでも無用の二万ルピアになることは自明とすら思われた。
 東南アジア、インドネシア。日本から遠く離れた、赤道直下の熱帯の国で、手嶋純子の人生は、どうしようもなく停滞している。
 このままでは押しつぶされてしまうと、危機感に駆り立てられて日本を脱出したのが、十九歳のころ。かねてより、日本の風土に自分にそぐわないものを感じていたうえ、一般入学試験で進学した都立大学の気風にも馴染めていなかった。青八木一は、純子の決意を聞くやいなや頷き、純子のしたいようにすればいい、と言った。
「純子と、世界の終わりまで一緒にいる、そういう約束だから」
 とはいえ彼女は、一年の浪人の末、念願叶って都内の芸術大学に進学したばかりだった。純子は、自らの彼女への執着と、大人としての理性を天秤にかけ、重たく左へ傾いたのを指で押し返したりまでして、結局、一人で旅券を取り、一人で家を出た。出発ロビーのさみしいベンチで一人、搭乗受付を待っていたが、はじめはいつの間にその隣に座っていた。自らの腰ほどもある大きなスーツケースに肘をついて、愛らしい琥珀色の目で、純子を眺めていた。
 ハノイ、クアラルンプール、シンガポールを経由して、中央ジャカルタに落ち着いた。猥雑で窮屈な土地だが、空っぽの純子にはむしろ相応しいものだろうと思われた。一月十万ルピアの、コストと呼ばれる賃貸アパートに詰め込まれ、純子は観光客向けホテルのベーカリーに、はじめは土着広告会社のデザイン部門に、薄給で雇われた。理想と幸福に程近い生活であると思う。誰よりも愛おしく美しい恋人と、一つ屋根の下で暮らしているのだから。しかし純子は日を追うごとに、加速度的に病んでいく自らを確かめていた。はじめとの関係は、ほとんど時をおかずして常軌を逸したものとなっていった。

 およそひと月前、六年ぶりに日本へと帰国する運びとなったのは、高校で同級生だった古賀公貴に、名指しで呼び出されたからだった。
 公貴とは、はじめと三人でよくつるんだ仲だった。インドネシア渡航する際に、純子はアドレス帳からはじめ以外の全ての連絡先を削除し着信拒否に設定したのだが、今でも手を替え品を替え、しつこくコンタクトを取ってくる物好きなやつだった。やれ病気してないかだの、はじめに優しくしているかだの、スマトラ島で大規模なデモが起きているらしいから近寄るなだの、カリマンタン島の地価が急上昇しているから買っておけだの、こちらが何の返信もよこさないというのに、三日おきのペースでメールを打ってくる。大手コンサルティング会社に就職し、昨年にはついに所帯を持つに至った彼だ、多忙であるに違いないのに、海の向こうの旧友のことにも細やかに心を配る、彼の生真面目さを純子は嫌いではなかった。だから、言いにくそうに告げられた彼の申し出にも、
「いいわよ」
 そう答えた。
「いやにあっさりしてるな、ふつう何か、あるだろう、他に」
「あたしたち、もうそういう、回りくどい仲でもないでしょ、それとも断った方が良かった?」
「いや……」
 公貴は、田舎のチェーン・レストランにそぐわぬスキャバルの黒いプルーネラ織りで全身を引き締め、腕に真新しいオイスター・パーペチュアルなんてつけていたが、純子と目があうとやりにくそうに強肩をすくめるのが、学生の時の仕草そのままでおかしかった。所在なく放り出された彼の右手に、薄っぺらい身体の、いかにも幸薄そうな女が、言葉もなく寄り添う。
「結婚祝いもまだだしね。良い機会でしょ」
「わざわざエアメールで招待状を出したのに、おまえ、来なかったからな」
「そうだったかしら。あっちだと、郵便がうまく来ないこともあるし。そういう事務作業は全部はじめに任せてるから、あたし、よく把握してないのよね」
「メールでも知らせたぞ」
「じゃあ行きたくなかったんだ」
 純子の露骨な言い草に、慣れっこの公貴はともかく、女の方が鼻白む。立ち上がりかけた彼女の肩を、こいつはこういうやつなんだ、とばかりに、骨ばった手のひらがなだめた。
 ワイシャツに黒のタイを結んだ若いウエイトレスが、盆を両手によたよたとテーブルに近づいて、赤肉のステーキ、カルボナーラ、ハニーバターのホットケーキにいちごミルクのソルベージュを、一つ残らず純子の前に並べ、丸めた伝票をプラスティックの筒に突っ込んだ。去ろうとする彼女に、直截的で愛想のない口調で公貴が、ホットコーヒーをオーダーした。彼の妻は何も注文しなかった。
 春の午後、当たり障りのない晩晴の光の中で、眼鏡の奥の細い目がしばらく、食事を摂る純子を見ていた。いつかの部活帰り、はじめと三人でこの店のボックス席に収まり、空腹の促すままに暴食したことを、思い出しているのかもしれない。
「それで、日取りはいつにするの?」
 早々にステーキを片付けた純子が切り出す。「急かしてるわけじゃないのよ。帰りの飛行機を決めちゃいたいから」
「おまえが良いなら明日にでも。まさか快諾されるとは思ってなかったから、何も準備してないんだが」
「あたしは、やること済ませれば、もう帰ってもいいのよね?」
「ああ。書類手続きなんかは全てこちらに任せてくれていい」
「わかった」
「ありがとう、散々迷ったが、おまえに相談して良かった。兎にも角にも何か礼をさせてくれ」
「別にいいわよ。結婚祝いだって言ったでしょ」
「そういうわけにはいかない」
 大義そうに眼鏡のブリッジを押し上げる左手指に、マリッジリングが炯然ときらめく。
「おまえは俺たち夫婦の恩人だ、純子。俺にできることならなんでもしよう。言ってみろ」
「公貴って、昔っから超絶くそ真面目よね。損な性格」
「そういうおまえは捻くれ者だな。何も成長が見られない」
「失礼な男」
「難儀な女」
「ねえ、当てがないわけじゃないのよ。でも超絶くそ真面目のあんたにそれができる?」
 ソルベージュをマドラーでかき混ぜると、赤い氷の粒が白い練乳と混ざって、境界からピンク色になっていく。小さな氷のとがりに光が通って、純子の鼻先に青く乱反射する。公貴が深く呼吸するのが、顔を伏せている純子にもありありと知れた。また、女が不安がって、夫の肩にますます縋りついているだろうということも。
ブレンドコーヒーでございます」
 公貴は黙って左手でカップの取っ手をつまみ、口許に運んだ。
「できるさ」
 白くたちのぼる煙の中で、上品な唇が微笑みの形をとった。つくづく底知れぬ男だった。
「俺たちは地獄の果てまで、共犯者だからな」

 何も書けないまま夜になった。せっかくの休日を無為に過ごした、という実感が、重石となって純子の肩にどっとのしかかる。
 外では、重厚な歌にも似たアザーンが、定刻を迎えたイスラム教信者たちに対して礼拝サラート)を呼びかけている。このコストの、すぐ向かいにモスクがあり、二階部分にアザーンのための拡声器が取り付けられているので、太いバリトンボイスは窓を閉めていてもよく響く。びりびりと、振動が床からデスクから純子の骨張りの身体を揺さぶり、彼女は辟易として立ち上がった。五十センチもないところに置いたセミダブルベッドに突っ伏し、薄い毛布をかぶって、神の国への誘いからのがれた。
 三十分もしないうちに、表の戸鍵が降りる音、スニーカーの靴底がタイル床を踏み込む気配がして、純子は愛する女の帰宅を悟った。
「おかえり」
「ただいま、純子」
 布団から突き出した手を、はじめの、ひやりとした小さな右手にそっと包まれる。ついで、繊細な唇がネイルのはげた爪先を掠める感覚。毛布を跳ね除けると、純子は身体を捻ってようよう起き上がり、ベッドの縁に腰掛けて革のライダースを脱ごうとしているはじめの背後に腕を回した。
「寂しかった」
 純子の、甘ったれた泣き言を、はじめは笑わない。ほっそりと優美な首を回して、ねんごろなキスをくれる。
「寝てたの? 起こしてごめん」
「いや……ぼんやりしてただけよ。はじめ、身体が冷たいわ」
「走ってきたから、汗ですこし冷えたかも。でも大丈夫」
 唇同士で触れ合いながら、零距離で、秘密を打ち明けるような囁き声で会話する。これほどまでに近しいところで眺めていても、はじめの涼しげな美貌は、まったく完全無欠だった。長い睫毛に縁どられた鋭いまなじり、トパーズ色の香気たつ虹彩、こぶりな鼻と健康的な朱色の唇。若い豹の鋭さとしなやかさ。それでいて、甘いミルク色の靄を、目元口元に豊かに滴らせているのが無垢だった。純子の、鬱屈とした劣等感も、彼女の前では憚るほかない。
「ごはんはもう食べた?」
「まだ。昼から何も食べてないのよ」
「そうだと思って、スーパー・インドで色々買ってきた。一緒に食べよ」
「うん……」
 彼女が抱えてきた巨大なビニール袋から出てくるのは、日本のカップラーメンにも似たカラフルなポップミー、ココナッツジュース、バナナ、マンゴーやスイカなどのフルーツ、大豆を発酵して揚げたテンペ、ポテトチップス、オレオ味のポッキー、乾麺のインドミー、乾麺のミースダップ……二人いて、そのどちらもインスタント麺の割合に疑問を抱かない。他者から見れば、いっそ異様なほどだろう。
 居室は狭く、キッチンはおろか調理台すら存在しないので、廊下に出て一階に降り、コスト共用のキッチンスペースを利用する。ポップミーのためにカセットコンロで湯を沸かしながら、水道会社のマグネットやキャラクターのシールなんかがゴテゴテと貼り付けられた背の低い冷蔵庫を覗き込んでみる。一昨日ここに入れた牛乳のパックが空になっている。そのかわり、屋台で売り叩かれている類の揚げチキンアヤムゴレン)がいくつか、大皿に詰め込まれていたので、二つほど拝借し、ケチャップ・マニスをぶちまけたのにかじりついた。
「仕事はどうなの」
「うん……こんど、中国の偉い人とイベントをやるからって、ポスターのデザインを任せてもらえることになった。でも中国のことあまりわからない……」
 洗面台に骨を吐き出す。沸騰した湯を、プラスティックカップの中のミー)に注ぐと、すぐに湯気が立ち上ってきて純子の鼻先にただよう。
「純子は今日どうだった」
 ポップミー・カリー・アヤムに付属しているのは、揚げ玉ねぎと調味油、粉末スープに、サンバルと呼ばれる大量の香辛料、その全てを考えなしに突っ込んで蓋を閉じ、備え付けのカトラリーで塞ぐ。
「そうね、とくに何も」
「明日から仕事でしょ。ゆっくり休めた?」
「ん……」
 調理台で三分を待つ純子の背中に、はじめがぴったりとくっついてきた。
 肩越しに振り返り、顔を傾けて薄く唇を開く。背伸びしたはじめが純子の下唇を食み、舌を入れてきて、彼女の甘い唾液が喉の方へ流れ込んでくる。純子も同じようにする。
「何するの、ここ、外だけど」
「だって純子、寒そうだから……こうしたら暖かいでしょ」
「そうね、でももう三分たったわよ」
 はじめは長い前髪の向こうで、切れ長の美しい目を毬のように見開いている。
「だめ?」
「ダメなわけないじゃない」
 はじめに向き直り、無防備に緩んだTシャツの裾から手を入れて、柔らかい腹を撫でた。耳の横で息を呑む気配がした。そうする間にも純子の指は侵略を進める。腹から肋、脇の柔らかい肉を触って、すこしずつ核心に近づいてゆく。
「あっ、あ、純子」
「牛乳がもうないみたいだから……」
 スポーツ下着を押し上げて、ずっしりと質量のある乳房を揉みしだいた。
「はじめのおっぱい貰っちゃおうかな」
「変態」
「変態はどっちよ」
 はじめは耳を赤くしてうつむき、うにみたいな小さな舌で唇を舐めた。
 Tシャツをたくし上げ、二つの乳房を露出させる。未成熟の椿の蕾を思わせる小ぶりな乳頭は、性的な刺激に反応し、すでに固く勃起し白っぽい乳汁をだらしなく分泌していた。純子はアヤムの油でつやつやと濡れた唇を開き、一も二もなく、片方の乳輪全体を口に含んだ。歯で緩く齧りながら、唇の皮膚でしゃぶりついて、啜る。甘く、またほのかに塩っけのある味が、口腔内に生ぬるく広がった。感じやすいはじめは素足の指で床のタイルを掻きながら、血色の良い額を純子の肩に擦りつけている。
 しっとりと、汗をかきはじめた身体を反転させ、冷蔵庫の壁面に押し付ける。誰か、二階の住人が、外階段を上がりながら高い声で歌っているのが、冷却装置のモーター音に紛れてかすかに聞こえてくる。うっとりと倦怠をただよわせる彼女の、半開きの唇にキスをねだられて、純子は半身を伸び上がらせてそれに応じた。
「おっぱいの味、おいしい?」
「うん、うん、純子——」
「堪え性のない女。ほら、だらしない、腰が揺れてるわよ」
 ショートパンツから伸びた、真っ白な内腿を爪でひっ掻かれて、はじめはもう泣き出さんばかりだ。
「ごめんなさい、ねえ、ね、純子、部屋に……」
「ここでいいじゃない」
「やだあ、じゅんこ……おねがい……」
 純子は立って、調理台に残してあったプラスティックのカップを二つ、まとめて洗面台に放り出した。伸び切った麺がスープと一緒にステンレスのシンクを流れ、ストレーナーに滞留した。

 マッチを三本擦って、ようやく火が回った。灰で満たした陶器の香炉に移すとすぐに、フランキンセンスにも似た樹脂の香りが立ち上り、重く、やわらかく、狭い部屋に充満する。
 月明かりばかりがほの明るいベッドの上ではじめは、なめした麻縄に縛り付けられ、完全に自由を奪われた状態で侵略者の到来を待っている。膝を折りたたむ形で腿と脛とを固定されて、彼女はむっちりとした大きな臀部を突き出すような姿勢を取らざるを得ず、そのために、勃起した陰核や空気刺激にさえ過敏に反応して泣き濡れる性感帯なんかも、純子からつまびらかに見てとれた。嫌、痛い、恥ずかしい、そうした彼女の自己申告に反して、若い身体のあらゆる部分がすでに悦に入っていると見える。事実、純子が膝でベッドに乗り上げて、スプリングの軋む音がかすかにしたばかりに、彼女の膣穴はだらしなく痙攣して、白く濁ったバルトリン腺液を分泌した。
「かわいいわよ、ねえ、はじめ、興奮しているの?」
 純子はたわむれに、哀れな奴隷に発言の自由を許した。「あんたの穴、ぐちょぐちょに濡れてる」
「わ……わかんない」
「縛られてほっとかれただけなのに。今日こそはって、期待しているのね?」
 徹底して剃毛を強要されてきた、子供のような恥骨部を指の腹で撫でる。それにも敏感に反応して彼女の穴は、ぬるぬると湿り気を帯びてくる。
「やだ、いじめないで、優しくして——」
 年々美貌の冴えわたる身体を、昂奮のために激しく震わせくねらせながら、哀願するはじめの甘え声を聞く。
「嫌? あたしにされることが、はじめは、嫌なの?」
「ん……いやじゃない、純子、大好き。でも……」
「でもはなし。イエスか、ノーかで、きいてるのよ、あたしは」
「して——純子にされたい。いっぱい、いやらしいこと……」
 薄紫色の煙の漂う暗い部屋で、女たちの性欲は壮絶に、苛烈になってゆく。洗練され純度を増してゆく。純子は彼女の股座にかがみ込んで、みじろぎひとつでくちょくちょと淫らな音を立てる陰唇に口と鼻とを近づけ、蒸れた女のにおいを肺いっぱいに吸い込んだ。拍子に唇の皮膚が陰核に触れたのではじめは、死にかけの蛙みたいに仰け反ってむせいだ。純子は、ふっくらとほどよい脂肪を蓄え、侵略者の強行を歓待する媚肉を含み、粘膜のあらゆるところでたっぷりと舐めた。溢れる蜜を吸い込み、強く吸引しながら、時おり膣襞の小さな突起を舌で弾く。中途半端な愛撫をもたらされて焦れ切った陰核は、鼻先でつついて甘やかに揶揄う。
「じゅん、う、うう、うぁ……」
「……」
「うあっ、あっ」
 ぬるぬると、口腔内に塩っぽい体液が泳ぐ。煙と、女の匂いでくらくらと、頭が回る。きたならしく交わる粘膜と粘膜。水に溺れる虫のように、無力で、無様な純子の恋人。
 いや、この場合、溺れているのは純子の方なのか?
「あうっ……い……いく、いく」
「だめ」
「むり、喋らないで、じゅんこ!」
 はじめの身体が強張って硬くなり、びく、びくと数度跳ねた。純子がゆっくりと面を上げると、はじめは髪を乱して頭を仰け反らせながら、放尿でもするみたいに潮を吹いているところだった。
「ダメって言ったでしょ」
 腫れきった陰核ごと、恥部を平手で思い切り叩くと、濡れた皮膚から飛沫が上がった。ごめんなさい、と、従順に謝罪するくぐもった声、ぐずぐずと鼻を鳴らす音。純子は無情な支配者然と身を引いて、すぎた快楽に痙攣する身体をただ見下ろした。血圧が急速に低下していくのを感じる。実際、沸るように熱くなっていた中枢から、血の気が引いているものと思われる。ベッドから身を乗り出し、白いタイルの床に開けておいた小さな飾り箱から、ダマスカス柄のレリーフを施したチタンのペーパーナイフを取り出した。はじめは、欲情しきった恥部を隠すこともできないままに身悶えていたが、ナイフが飾り箱の底を離れるかすかな音を聞いただけで、さっと顔色を変えた。
 純子が注視しているのは、はじめの、うっすらと筋肉のついた柔らかそうな腹。日に焼けない真っ白な皮膚。眼下の身体が、今度は怯えのために震え出した。
「純子……」
 煙が肺胞から血管に取り込まれ、純子の全身に回る。恋人の怯えが、ほのかな期待が、純子の官能に染みてくる。いやに冷えた首の裏の神経が、生きているという、ただそれだけで、苦痛と不安に苛まれる自らについて考える。
「はじめ、大好きよ」
「純子、じゅん、あっ!」
 ナイフの刀身に指を添え、はじめの腹に、言い訳のしようもないほど深く食い込ませた。
 刻んだ皮膚から、まもなく血が流れ出した。純子の唇はすぐにそこへやってきて新鮮な血を啜った。唇で傷口を圧迫すればするほど、温い、むず痒い、虫のように生きている体液が、純子の喉奥に噴いてきて、純子はそれを飲み下す。はじめの乳汁、バルトリン腺液、汗、そのどれより、甘い。塩辛い。辛い。苦い。愛情、性欲、憎しみ、悔恨……食道でないまぜになり、純子の孤独は束の間の癒しを得る。生きていてよかったと思う。陶然と、純子は中枢神経を自ら狂わせた。鼻歌なんか歌い出す始末だった。
「あたしたち二人で一つよね」
 過半部が灰になったものが、香炉の中でパチンと音を立てる。
「ね? はじめ」
 もう一度、濡れ光るペーパーナイフの先端を、今度はよりへそに近い部分に切り入れた。ぬらぬらと流れ出す血を、今度は舌まで入れて貪り尽くした。ぴくぴくとひきつれを起こす腹の皮膚とは裏腹に、はじめの膣は、濁った塊を断続的に吐き出す。
「早く一つになりたいなあ、ね、はじめ、はじめもそう思う?」
「うん」
 はじめは従順に頷くが、痛みと失血のために四肢は冷えはじめ、その応答も理性によるものではないと思われた。「うん、うん」
「やだ、はじめ、一つになりたい、なりたいよお」
「うん、そばにいる、じゅんこ」
「はじめえ」
 純子はペーパーナイフを投げ捨てると、血塗れの手で、はじめの首を強くつかんだ。皮膚を絞り、気管を押しつぶし、頸骨を軋ませた。緊縛され手足を動かすこともままならないはじめは、恋人からの虐待を、涙に滲む目で見ているしかない。そのか弱い痙攣、せんかたない命の顫動。純子は急に、ひどく淋しくなってきた。

 全身は氷のように冷えている。純子は、全裸に毛布を巻き付けただけの姿で、壁にもたれてベッドに座り込んでいる自身を発見した。
 デスクから椅子を離してベッドの方へ向けたのに座り、膝を立てて、スケッチブックを抱えているのははじめだった。彼女は覇気なく脱力する純子の裸身を、鉛筆で熱心に描いているところだった。長い前髪が、額から紙面へと、麦の穂のように垂れている。柔らかく張り詰めた全身の皮膚に、縄で縛り付けたあとが赤く残っている。臍の下には、ハローキティが印刷された子ども用の絆創膏が何枚か、繋ぎ合わせるようにして貼り付けてあった。
「動いていい?」
 存外に、湿気のない声が出た。はじめは顔を上げないまま、うん、と一つ首肯する。
「もう描き終わる」
「ずっとそうしてたの?」
「うん。純子、寝るならちゃんと寝たほうがいい」
「そう……あたし寝てたのね」
「少しね」
 デスクの上の、花柄の置き時計を見て、あれから、三十分ほどだろうか、と見当をつける。喉がからからに渇いていたが、今から服を着て、下階のキッチンスペースまでミネラルウォーターを取りにいくのは億劫だ。すこしの逡巡ののち、ベッドを降りて手洗いに行き、水道水で唇を濡らすにとどめた。部屋に戻ると、はじめはすでに、鉛筆をポーチに戻しているところだった。
 開けたままのスケッチブックには、毛布を腰に纏わせた状態の女が、壁にもたれ、そっけなく目を閉じているさまが精緻に描かれていた。はじめの描く純子はいつも、天使のように清らかで美しかった。
「綺麗」
「自分でもそう思う」
 後ろから覗き込もうとする純子に気づいて、はじめが婉然と微笑した。
 無垢で美しいはじめを、純子も小説に書きたかった。だが書けない。純子の意識はいつでもぼやつき、感性は死の淵にある。有史以来生まれ、死んでいったあらゆるものが憎いのに、はじめだけがひどく愛おしい、その矛盾を受け止めきれていない。受容できなければ、書けない。道理だった。
 純子ははじめから離れてベッドに戻り、サイドテーブルの引き出しを開けた。手のひら台のガラス瓶に詰めた、夥しい量の白い錠剤、五つほど取って、水もないまま喉奥に押し込んだ。

 ラッフルズ・パティスリーでの、ウエイトレスの仕事を終え、従業員エレベーターから直接ジャカルタ市街に出る時、純子はえもいわれぬ神妙な気持ちになる。巨大なホテルビル周辺は、似たり寄ったりの観光客向け施設が多いが、有料道路の高架を潜って向こうへ渡れば、南国の猥雑で湿っぽい空気が顔面へと押し寄せてきて、確信もより強まる。観光客の目を避けるように、張り巡らされた高いコンクリートの壁、並ぶのはトタンと端材で作られた家、家、家、たまにプラスティックの椅子とテーブルを置いただけの飲食店や、手押し車の屋台、軒下にジュースの粉を大量にぶら下げた雑貨店なんかがある。ほとんど路地と言って良いほど狭い道を、人と車と、何よりオートバイが、忙しなく行き来を繰り返す。子どもがビーチボールでサッカーの真似事をし、大人の男たちはコンクリートに座り込んで、タバコを吸ったり、敬虔なものは分厚いクルアーンを暗唱していたりする。女の姿はない。そういう街並みが一キロ近く繰り返される。
 純子はノースリーブにミニスカート、素足にサンダルを引っ掛けた格好のまま、夜のジャカルタをあてもなく歩いた。東アジアの無知蒙昧な観光客をカモにしようと、時折、アロハシャツ姿の軽薄な若者が近寄ってくるが、純子が闊達なインドネシア語で応対すれば、全て承知したとばかりに引き下がる。子供を連れた雌猫に、ポテトチップスの袋に残ったかすをやる。顔見知りの飲食店の男主人が、ジュンコ、君のためにビンタン仕入れておいたんだが、どうかな、と呼んだので、今夜はそこに入ることにした。
 ほとんどオープンスペースと化した掘建小屋に、小さなカウンターテーブル、椅子が三つほど。切れかけの裸電球。純子の他には、明らかにムスリムと見られる若い友人同士が二人、おしゃべりを楽しんでいたが、女の剥き出しの素足や二の腕を見て、閉口したとばかりに黙った。純子は二人に微笑んだ。
「女の子と話すのは初めて?」
「いいえ」手前、眼鏡をかけた短髪の少年ががぶっきらぼうに答えた。「学校の子と、母さんと、妹」
「ふうん、じゃあまだ高校生エスエムアー)かあ」
「おねえさんインドネシア語上手だね。コリアン?」
 奥の席に座っていた、刈り上げ頭のほうは、不審な女にもフレンドリーだ。揚げたナマズ素手でかぶりつきながら快活に訊いてくる。
「ジャパニーズ。でも、日本より、ここの方がずっと好きよ」
「住んでもう長いの?」
「五、六年くらいかな。そこのホテルで働いてるの」
 ジャパニーズか、信じらんないくらい美人だね、と刈り上げ頭が言った。純子がミニスカートの裾を軽くつまんでカーテシーの真似事をすると、目を落としそうなくらい見開いて凝視するのでおかしかった。
 カウンターの向こうで黙々と料理していた男主人が、グリーンの瓶に国旗色のラベルが貼られたビンタンビールと、ナシゴレン、それからサービスのバナナを、純子の前によこした。ナシは米、ゴレンは揚げた状態を表す形容詞、チャーハンにも似たナシゴレンのことが、純子は好きだ。電球の下でたっぷりと油を吸った米がツヤツヤしている。
「すげえ、オレ、ビールなんて初めて見たよ」
「おいあんまり馴れ合うな」
 眼鏡の方が、刈り上げのシャツの襟を掴んで諌めるも、ハイになった彼は止まらない。
「どんな味するの?」
「そうね……麦の味、土の味?って感じかな。そうおいしいものじゃないわよ」
「変なの、美味しくないのに飲んでるのかよ」
「おかしくなりたい時だって」唇についた油を親指で拭い、舐めとる。少年たちに視線をよこす。「あるのよ、女にはね。あなたたちもそうでしょ? 神さまなんていない、と、思うことはない?」
「オレは……あるよ。たまにだけどね」
「おい」
「おねえさんはおかしくなりたいの、今?」
「そうね。あなたたちが一緒にいてくれたら、もっといいと思ってるけど」
 一皿とひと瓶を片付け、「おじさん、ありがと」純子が立ち上がると、刈り上げ頭も、一緒になって椅子をひいた。彼の目が熱っぽく潤んでいるのを、純子は敏く感じ取っていたが黙殺した。無口な主人に多めの代金を渡して店を出る。スニーカーの足音が二つ、それを追ってくる。
「おねえさん、家どこ? もう遅いし、危ないからさ、オレら送ってくよ」
 純子は行き交う車からのヘッドライトに浮かび上がった少年たちの輪郭を検分した。刈り上げ頭はよく喋る。薄っぺらい身体に若い勢いを持て余している。対して、無口な眼鏡の方は、長身に分厚い筋肉を蓄えて、何かスポーツを嗜んでいるだろうことを思わせる。同級生の暴走を嗜めながらも、彼もまた確かに、薄いガラスの奥の目を純子からそらすことができないでいる。
 敬虔で無垢な二人の少年の人生に嵐を巻き起こす愉悦に、純子は知れず、喉を鳴らしていた。果たして神は審判の日、この女悪魔めを許すだろうか? ノーだ。確信を持って言える。
 タダ同然に安い地元のラブホテルに、二人まとめて連れ込んだ。刈り上げ頭は、部屋に入るや否やキスをしてきて、それも激しく舌を絡ませるようなものだったが、稚拙だった。純子の薄い胸に吸い付きながら、モノ相手にするように、単調に腰を振った。すぐにへばって水を求めた。彼が外の自販機にミネラルウォーターを買い求めて出た間に、それまで木偶の如く突っ立っていた眼鏡のほうをベッドに誘った。彼はキスも、自分に対する愛撫も固辞したが、純子の膣をよくほぐし、挿入してからも極めて緩やかに動いた。彼のものは太く、質量があって、バックでしたときにはプレスされる廃材の気分で喘いだ。刈り上げ頭が戻ってきたあと、二人のものを同時に舐めた。精と尿の入り混じった強烈な味の体液を嚥下してやった。最後にもう一度、眼鏡に抱かれて、夜明けになった。学校に行かなければならないという二人を見送り、純子はひとり、部屋に残された。
 全身、汗や精液にまみれ、癖の強い髪までが白いもので固まっている。とんだ野蛮人だと、歪んだ唇に自嘲が走る。壊れているせいでほとんど洗車機みたいな勢いのシャワーを浴び、昨日の服をそのまま着てホテルを出た。
 アンコタと呼ばれる乗合バスが通りがかるのを、大通り沿いで待っている間、フライドチキンの店に立ち寄ってチキンの詰め合わせを買った。店を出るとき、ひび割れのひどい携帯電話に着信があった。
「純子」
 低く押しこもった声は公貴のものだ。
「調子はどうだ」
「悪くはない。よくもないけど。何、生存確認?」
 誰にでもそれとわかるほどあからさまな、不機嫌な日本語で対応すると、スピーカーから特大のため息が返ってきた。
「月経前か」
「あんた、早く死ねばいいのに」
「インハイ前、おまえたち三年レギュラーのメディカルチェックは俺の仕事だった。把握していてもおかしくないだろう。ああ、先々月、持たせた土産の中に養命酒を入れておいたんだ。あれはすごいぞ。おまえみたいな神経質の痼疾もちでも、飲んで一晩寝れば速攻快晴だ。試してみろ」
「そんなことを言うために電話してきたわけ? 切るわよ」
「成功したよ」
 あまりにも端的な彼の真意を、一瞬、純子は捉えかねた。すぐに、三ヶ月前、日本で彼とその妻に会ったことを思い出し、緊張はほぐれた。道の向こうから、スライドドアを開けっぱなしで走る青い小型バス、アンコタがやってくる。身をかがめ、耳にスピーカーを当てたままの格好で乗り込んだ。
「そう、よかった」
「おまえから採取した卵子は状態がよかった。無事彼女の子宮に着床して、いま一ヶ月だそうだ」
「いくつか取ったよね、他のはどうなったの?」
「遺伝子検査の段階で、悪いが選別させてもらった。一応、培養器で保管してはいるが、このまま何事もなければ廃棄だ」
「あ、そ……」
 狭い車内で、ヒジャブをつけた若い女や、多弁の子供たちにぎゅうぎゅうと圧迫されながら、純子はあの、幸薄そうな彼の妻のことを思った。かわいそうに、愛する男の子を自力で孕めないばかりか、その子宮にどこのものとも知れぬ虫の卵を産みつけられたのだ。この虫の卵は、いつしか若い夫婦の家庭に侵入し、内側から跡形もなく食い尽くすだろう、と、純子は予感した。破綻者の夫、夫に近づく女の影、困惑と不安の中で、膨らんでゆく腹を抱えて立ち尽くす彼女の姿が、まぶたの裏に浮かんでくるようだった。
「俺とおまえの子だ。どんな怪物になるか、楽しみだな」
「公貴、あんた、それ奥さんの前で言ったら殺されるわよ」
「そうだろうな。キャリアも台無しだ。ああ、でも、彼女の怒った顔を、俺はまだ見たことがないんだよな。そう思えば……」
 ぷつんと音を立てて、通話は終了した。純子によって強制終了されたのだ。若い陰茎を受け入れたばかりの膣が、初物でもないというのに、ちくちくと痛む。
 アンコタは果てしなく不機嫌な純子を乗せて北上する。棕櫚と椰子の並木、赤と白の細長い旗の群れ、大量のオートバイ、型落ちの日本車にツヤツヤした黒いリムジン、東京ディズニーシーの、貝の城に似た形のバス停、敬礼するスディルマンの立像、噴水を一周する環状道路を抜けて、独立記念のオベリスクが彼方に見えてくる。ガソリンのベンゼン臭が、開けたドアの方から入ってきて車内に充満している。向かいの老婆は仕切りに咳き込んでいた。ゲダング・サリナというショッピングモールの前でアンコタを降り、そこからコストまでは歩いた。
 自室へ戻ると、はじめは留守にしているようだった。そういえば、何か大きな仕事を任されたと言っていたような。帰りは遅くなるだろうか。喉の渇きを覚えたので、一度開けた玄関ドアに再び鍵をかけ、キッチンスペースに向かう。
 例の古い冷蔵庫は、下の段は冷蔵室だが、上の段は冷凍庫になっている。とはいえ住民の消費スピードが早いのでほとんど使用されることはない。純子はその、冷凍庫の立て付けの悪い戸を、音を立ててこじ開けた。日本式の、蓋が青い透明タッパー、その中に、古賀公貴の精液が凍っている。

 ジャカルタを居住地と定めたとき、真っ先に問題に上がったのは言語だった。インドネシア語は、品詞の変格や複雑な区分をほとんど持たないため往々にして安易な言語といわれるが、まったくの無学だった二人には、つっかかりさえしない難解なフェータルエラーとなった。はじめは、なんとか英語の通じる友人を見つけて、彼女とのコミュニケーションを解決策として見出したが、純子にその勇気はなかった。結局、NHKワールドのユーチューブ・チャンネルを、インドネシア語で視聴することが、彼女の最適解だった。今も、日本の情勢を知ろうと思ったら、まず一番にNHKワールドをチェックしている。
 カーテンを閉め切った暗い部屋、上半身だけをベッドに投げ出した中途半端な姿勢で、携帯電話の小さな液晶を眺める。画面の中では、白のサイクルジャージを着た若い男が、忙しなく落ち着かない様子で、インタビュアーの質問に答えている。
「ええ? そうすね、やっぱ、準備できてない? っつうか、みたいなのもあったんですけど、爪痕というか、結果、残せてよかったす。チームのみんなに、あざすって、言いたいとゆーか……あの、一生懸命走れたんで。はい」
 ハンドルにまきつけたバーテープのほつれを仕切りにいじり回しながら、歯切れ悪く答える彼の言葉を、通訳テロップが、「準備不足が懸念されたが、結果を残せて安心した」、単純なインドネシア語に置き換えている。スプリント後の興奮に慣れない取材への緊張が重なって、あがり症めいた振る舞いを見せる彼だが、グランツールと名高いジロ・デ・イタリアを好成績で完走した、日本人チームのホープである。三週間にも渡るジロの完走は、歴戦の欧米人選手であっても難しい。加えて、第二ステージではポイント賞を獲得し、先日も大きなニュースになっていた。派手なオレンジ色の染髪が、ローマの強い日差しに反射して眩しい。
 そういえば、彼はよくはじめに懐いていたっけ。卒業前など、わざわざ三年の教室まで通い詰められて、はじめと二人の時間を取りたい純子はすっかり困り果てていた。日本を出るとき、純子ははじめにも連絡先の全削除を求めたが、その後、二人の親交はどうなったのだろう。……詮ないことだとかぶりを振る。見終わらないまま携帯電話の電源を落とし、ベッドから立ち上がってカーテンを開けた。
 純子のキャノンデールは、輪行袋に入れて、コスト共用の倉庫に格納してある。もう半年は様子を見ていないから、盗まれたか壊れたかしていてもおかしくない。そうでなくとも、そろそろしかるべきところに売却してしまって、生活費とスペースの足しにしようかと考えている。足が必要になっても、はじめのコラテックがあれば十分事足りるだろう。

 黒いアイバンドで目隠しをしたはじめの、ギリシャの水瓶のように健やかな身体を、狭い手洗い部屋のタイルに強く押し付ける。しみひとつない真っ白な背中には今ごろ、タイルの目の跡がくっきりと浮かび上がっていることだろう。
 何をされるかわからず、彼女は生まれたばかりの子羊のように震えている。優美な唇は強く噛み締められて、食い込んだ八重歯のために破れた皮膚からは、かすかに血が滲んでいる。それでも、
「悪いようにはしないから、怖がらないで」
 と純子が囁くと、怖くないとばかりに、気丈に首を横に振ってみせるのだった。
 生々しく張り詰めた腿からショートパンツを抜き取ると、純子の命令の通りに下着をつけないまま過ごし、すっかり飢えた性器が露わになる。膣口はすっかり泥濘と化し、会陰から肛門までバルトリン腺液が垂れ流しになっている。唾液で濡らした指で肉襞を開くと、未だ彼女が純潔である証左に、サーモンピンクの薄い皮が純子から内部を隔てていた。純子はひとまず内部への侵略作戦からは身を引き、こんどは、重たく腫れきって痛々しいほどの陰核に狙いを定めた。
 親指の腹で先端に軽く触れる。それだけで、はじめの身体は大袈裟にびくつく。足の指が快感につっぱり、内腿全体にぶ厚い筋肉が浮き上がる。スプリンターとして、彼女はまだ自らの脚を鍛え続けているのかもしれない。
「純子、そこはっ」
「好きだもんねはじめ。クリいじめられるの」
 言いながら純子は、身をかがめ、舌の粒だった表面を使って、はじめの陰核をヌルヌルと舐めた。上がる悲鳴。視界を奪われたはじめには強すぎる刺激だったろう、止めようと伸ばされる手を、左の方へ無情にはたき伏せる。奴隷の主権者たる純子はその上、爪の先を使って、陰核包皮をあっという間に剥いてしまった。充血し、薄紅色に尖った核心を、こんどは直接ねぶり回す。
「あ、ぅあっ、じゅんこ、許して……」
 喉を引きつらせてすすり泣く、かわいそうなはじめ。アイバンドもすぐに湿ってくる。しかし彼女の腰はさらなる快楽を求めて貪欲に揺れ動き、純子の唇を仕切りに圧迫する。純子の口の中へ尖った部分を押し込もうとする。それに応えて、純子は彼女の突起を歯で軽く噛んでやった。
「ぐ、っぁあん」
 感じやすいはじめは太刀打ちすらできずに上り詰めた。純子の頭を抱き込む両肢が硬直し、弛緩したと思うと力なくタイルに投げ出された。びしょびしょと吹き出した潮で、至近距離にあった純子の顔全体が濡れる。
「ああ、今日のメインはそこじゃないのよ、はじめ。ごめんね。無駄撃ちさせちゃったわね」
「あう、あうう、うー……」
 自ら身体を折りたたみながら、はじめは不規則な呼吸を切なく繰り返す。アイバンドの縁で桃色に上気した頬が扇情的だった。
「こんなの作ったんだけど。わかるかなあ、どう?」
 健気な彼女は、純子の一言に身体を持ち上げ、首を傾げた。
 インドネシアには、サラクと呼ばれる土着の果物があって、一目見た時から純子には、それを使ってやりたいことがあった。やわらかい棘の無数にある、蛇皮のような、特徴的な模様の殻に、ニンニク片を思わせる白い果実が入っている。大きさはキウイフルーツ一個分ほど。味はヨーグルトのような、あるいは水分の少ない梨のような感じで、ほのかに甘酸っぱい。だがそれはあまり問題にならない。そのサラクを四つほど、細い紐で連結したのを、視界の不自由なはじめにさわって確かめさせた。
 はじめは最初、何のことだかさっぱりわかりませんというような顔でいたが、棘の部分をさわっているうちにみるみる青ざめ、怯えだした。
「これをね、はじめのここに入れようと思うの」
 言いながら純子が指でなぞるのは、膣の代わりに、すでに何度か開かれている肛門。
「やだ、純子、入んない!」
「大丈夫よ、ちゃんとぬるぬるにほぐすから」
「純子……!」
「嫌? はじめ、怖いの?」
 はじめが首を上下にかくかく振る。アイバンドの縁からぼろぼろと涙が零れる。
「やだ……」
「そう? おしりの穴の壁から、あんたのナカと、赤ちゃんの部屋を、ごりごり押しつぶすの。すっごく気持ちいいと思う。きっと癖になっちゃうわよ。ね、あたしが嘘言ったことある?」
 蚊の鳴くような声が答えた。「ない……」
 純子は、自分でもそれと知れぬうちに、唇の端に愉悦の笑みを浮かべていた。従順でかわいいはじめ。純子を慕うあまり盲目的にのめり込みすぎたはじめ……便器横に設置された、ホース型のシャワー設備を引き寄せてきて、彼女の直腸を洗う。粘膜に激しく冷水を浴びせかけられて、彼女は居心地悪そうに、純子の左肩にしがみつく。その吐息は、排泄器官を丹念に洗浄される恥辱に、すでに陶酔の色が濃くなりはじめている。下腹を押して排水させたあとは、インド・マレットで叩き売られていたビオレのハンドクリームで、凍えきって、胡桃のように固く閉じた穴を、宥め広げていく。そうして準備の整った縦割れの肛門を、えもいわれぬ感情で眺める純子だった。
「えらいよ、はじめ、ちゃんとできてるわよ」
「……うん、純子……」
「おしりさみしいでしょ? すぐ入れてあげるからね」
 鼻先にまで血の気を集めて、控えめに、はじめが首肯した。
 口に含み、たっぷりと唾液でぬめらせた一つ目のサラクを、入り口に優しくあてがう。無数のとげが、敏感な皮膚に触るのがわかって、それだけではじめの身体は落ち着きを失う。「大丈夫だから」……実をくるくると回して、最適なポジションがわかったところですぐさま挿入した。きついのは肛門を押し広げる一瞬だけで、少し力を加えて押し込めば、直腸が余裕を持って果実全体を飲み込んだ。
 腸壁を掻かれる快楽に、はじめがようやく、色のある吐息をもらした。彼女が激しく呼吸するたびに肛門が閉じたり広がったりして、サラクの皮の褐色も見え隠れする。同様に、二つ、三つ、焦らすことも忘れて押し込めば、子宮にも圧がかかったか、あっ、と短く哀切な声が上がる。くねくねと死にかけの蛇みたいに、タイルの上ではじめの身体がよじれる。
「純子、純子」
「心配しなくても、ちゃんと入ってるわよ。ほら三つ、四つめも……」
 四つめは、前の三つよりも一回り大きい。形状も、単純な球形ではなく、レモンにも似て二端が尖っている。純子は、ただでさえ感じやすい恋人にこの奇形を押し込むのかと躊躇ったが、すでに三つの果実を蓄えた肛門が貪欲に収縮を繰り返しているのを見て思考を放棄した。果たしてはじめは、この凶悪な形状の奇形をも、腹の中にしっかりと飲み込んでしまった。
 手洗いの、そっけない白のタイル床で、美しく高潔な恋人が、目隠しをされ、肛門にフルーツを詰め込まれて、麻のひもだけを外へ垂らした状態で泣き濡れている。惨憺たるその姿態、獣性を多分に含んだ艶やかさにくらくらする。
「じゅんこ……」
 発作的な加虐欲に駆られる純子を、呼び止めるか細い声があった。
「その、トイレ……いきたい」
 羞恥と苦痛の汗にぐっしょりと濡れた手が、すがりつくものを求めてよるべなく伸ばされる。異物に膀胱を圧迫されて尿意を催したのだということはすぐに察された。便器は、はじめが横たわるところの、すぐ付近にある。壁に縋って立ち上がり、三十センチも歩けば彼女はすぐにでも落ち着けるだろう。だが加虐に志向して尖りきった純子はそれを許さない。
「そこでしていいわよ」
 冷たく命令した。
「聞こえなかった? そこでおしっこしてよ」
「えっ、純子? でも」
「でもって何。あんたいまあたしとセックスしてるんでしょ。セックスの途中に、立って、おしっこ行かせてください、なんて、ありえないでしょ」
 一語ずつはっきりと発音しながら、針でちくちく刺すように、強く言い含める。
「そうしたらあたしが飲んであげるから」
「……純子、恥ずかしい……」
「恥ずかしい? いつももっと恥ずかしいことしてるのに、今更じゃない? おしっこしなさいよ」
「う……」
「出てすぐのおしっこって無毒なのよ、酸化して有毒な物質ができるわけだから、酸化させなければ良いのよ。あたしがあんたの穴から直接啜って飲んであげるから」
 折り畳まれた脚を掴んで大きく広げさせ、まだ絆創膏を貼り付けたままの下腹を指で圧迫する。はじめは押し寄せる波を逃れようとしてか、つま先を丸めて何か力を込めたが、そのひょうしに括約筋が緩み、サラクを一粒排泄してしまう。
「あたししか見てないわ」外に出た分を、締まる肛門に無理やり押し戻す。「はじめ。おしっこしなさい、今、ここで」
 顔を引きつらせ、嗚咽しながら、はじめは女主人の命令に忠実に従った。手嶋純子の命じることに、彼女が反抗できるはずもないのだ。純子はぐず濡れの性器にむしゃぶりついてそれを飲んだ。目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように、はじめが自分の口腔内に放尿する音を聞いていた。

 二ヶ月前は毎晩四錠飲んでいた。それで事足りた。でも、次第に効き目が悪くなってきて、先月五錠に増やした。それもすぐに効かなくなったから、今は七錠飲んでいる。手のひらに載せた分を、ほとんど数えることもしないまま口に放り込み、ミネラルウォーターで喉奥へ押し込んだ。
 デスクから離れてベッドを振り返れば、未だ裸で横たわったままのはじめが、カーテンの隙間から月を眺めていた。月は、まだ東の空に近く、煌々と黄金色を帯びていて、その光が彼女の髪や肌や夢のような色あいの虹彩に、細雨のように降り注いでいた。はるか彼方の天体を望む表情はあどけない。シーツの上に投げ出した小さな手が、内側へかすかに丸まっているのが、赤ん坊のようで愛くるしい。床に投げ出され丸まっていた毛布を取り上げ、肩からかけてやると、肌寒かったのだろう、はじめはすぐにそれへくるまり、浅い息を吐いた。
「ありがと」
 毛布の裾からちょこんとつき出た顔が可憐に笑う。
 純子もはじめに微笑んで、同じ毛布の中に潜り込んだ。暴風のように純子の心を渦巻かせていた暴風はすっかり去ってしまい、後には凪いだ湖面が、彼女への恋情を静かに湛えているばかりだった。毛布の中に抱き込んだ、彼女の上半身のあらゆる場所に口づけする。産毛の生えた真っ白な頸、肩甲骨、浮き出た鎖骨、トパーズ色の燐光を散らす細い髪、純子の歯形、吸いつけた鬱血痕、彼女は気にする様子もなく、くすくすと無邪気に笑う。
「はじめ好きよ」びっくりするほど甘い声が純子の唇をついて出た。感慨に鼻の奥がツンと痛くなり、あるいは胸が引き絞られるように痛んで、それを悟られるのを恐れて、急いで唇を噛む。瞼を伏せ、毛布の塊ごとはじめを抱き寄せる。裸の胸同士が触れて柔らかく形を変える。「大好きなの……」
「わたしも大好き、純子。突然どうしたの」
「なんでもない……なんでもないの。ねえ、はじめ、今でも学校や部のみんなと連絡を取ったりする?」
「しないよ、純子もしてないんでしょ」
「公貴とも?」
「うん」
「じゃあ、男の子と話したりはする? 職場とか、街とか、お店とかで」
「しないし、相手にもされない、純子と付き合ってるってちゃんと言ってるし」
 薄い肩に顎を乗せ、間近に恋人の横顔を見つめながら、純子は自らの小狡さについて思う。清廉潔白で、途方もなく清らかなはじめと、ずるくて矮小な純子。
「わたしには、純子しかいらない。純子を愛してるから」
 泣くかもしれない、と思ったが、泣けなかった。
 純子ははじめを、シーツの海の上に解放した。ふしぎそうに見上げてくる目は、純子の手がはじめの右脚を掴んで、つま先を唇にくっつけてみても、ぼんやりと倦怠をたたえたまま咎めることをしなかった。
「あたし、はじめの足が好き」
 うとうとと首を振りながら、はじめの右足の小指を舐め、しゃぶる。ネイルもしたことのない少女の足、日々クリームで手入れを施しているからか、ほのかにミルクのような香りがする。
「汚い……」
「はじめの身体に汚いところなんてない。はじめはきれいよ、何よりも……ねえあたし幸せ。ずっとそばにいてね」
「もちろん、純子」
「目が覚めたら、久しぶりに外に食べに行かない? 買い物もしたいな、ディオールの新しいアイシャドウ、きっとはじめに似合うと思うの……」
 優しい腕の中で、何の不安もなく、眠った。

 まだあてどなくアジアの海を彷徨っていたころ、純子は二十歳、はじめに至っては二月に誕生日を控えた身で、まだ十九だった。二人はジョグジャカルタ国際空港からインドネシアに上陸し、市街地の民宿二ヶ月ほど滞在したあと、こんどは東ティモールに渡るつもりで手続きを進めていた。東ティモールインドネシアから独立した小国で、同国と領島を共有していることもあって空路の便がよく、治安状態も安定していた。平たく言えば、インドネシアは終の住処としては不格であると、二人は考えていたのである。
 このときジョグジャカルタでは、独立記念日に関連した観光客向けのイベントが多数開催されており、出国一週間前まで娯楽にも摂食にも不足しなかった。純子は、ブリンハルジョという大地下市場で、日本人の男子大学生一団と知り合い、親しくなった。彼らとよくパーティーに出かけ、食事をし、現地の歌手のコンサートに赴いて夜を踊り明かしたりもした。そのとき、純子とはじめは彼らと地元の屋台で食事をしていたが、彼らもまた、二人の出国に合わせてジョグジャカルタを出発し、北のスマランという街に行くのだと明かした。列車を四度も乗り換えて、三時間半かけて北上するのだという。その中途で、ボロブドゥールという、ジョグジャカルタ郊外の施設を訪れるのだということも。
「ボルブドル?」
 はじめが辿々しい発音でそう聞き返すと、彼らは大笑いした。
「ボロブドゥールだよ。なんだ、きみら、まだ行ってなかったの。ジョグジャカルタまできてボロブドゥールに行かないなんて、極楽寺だけ見て、石清水を見ないで帰るようなものだよ」
 すぐにチケットを手配した。このとき、感染症の流行のためにボロブドゥールは入場規制を行っていて、一日二百人までしか入場できないきまりになっていたから、チケットの日取りは出国の前日になった。
 当日、バスで現地に向かった。バスは水田の並ぶ肥沃なジャングル地帯を一時間半かけてくぐり、土産物屋の殺到する表通りを窮屈そうに抜けて、ボロブドゥール寺院遺跡公園に到着した。規制のためか、入場口はとてもすいていた。受付の男性にチケットをよこすと、椰子編みのサンダルと、トートバック、それからバーコードの印刷されたリストバンドを手渡され、公園内はこのサンダルで歩くようにと英語で指示を受けた。サンダルは、とてもではないが歩ける代物ではなかった。薄い靴底に、申し訳程度の薄っぺらい甲バンド、前坪の代わりなのか、木で作った留め具のようなものが、親指と人差し指の間で挟めるようになっているが、痛かった。特に砂利の上を歩くときなど、痛いわ滑るわで、しばらく二人難儀して歩いた。練習がてら観光客たちの間をうろうろしていると、職員がやってきて、公園内に入るよう誘導をはじめた。
 ボロブドゥールは、八世紀の後半から九世紀前半にかけて建立されたと言われる世界最大級の仏教遺跡である。大噴火で、気の遠くなるほどの時間火山灰の下に埋もれていたが、十九世紀初頭にイギリスの提督らがこれを発見し、発掘・修復作業が行われて今に至る。そうしたパンフレットの説明をほとんど読み流しながら、歩きにくいサンダルで、本殿に向かう通りを歩いた。菩提樹の葉がそよそよと風に擦れる音を立て、千年前に作られたという石畳や、白い貝の床面装飾などにやわらかく木漏れ日を振り撒いていた。純子はというと、飽きていた。未開拓の土地も多いアジア地域において、古典古代の遺跡などそう珍しいものではない。ベトナムにはタンロン遺跡があるし、ミャンマーにはバガンがある。カンボジアにはアンコールワットがあって、これには純子も深い感銘を受けたが、逆に言えば、感銘を受けただけで終わった。だいたい、自分の一生にすら責任をもって向き合えない純子に、古代人のよくわからない信仰を受容できる余裕などないのだ。
 本殿は、丘の上に安山岩や粘板岩を積み上げて形成された、十一層からなるピラミッド状建築である。寺院として利用されていたというが、外部に張り巡らされた幅二メートルの露天の回廊が主な施設であり、内部空間を持たない。RPGゲーム的探索を期待していたらしいはじめが、隣であからさまにがっかりしていた。
「暑いし、登るの大変そうだし。もう帰る?」純子が気を遣ってそう提言するほどだった。はじめは少し逡巡した様子だったが、結局、すぐに頭を横に振った。
 二人の肌を撫でる空気が、明らかに変わったものと思われたのは、高い階段を登って第一層に到着したそのときだった。
 回廊の壁面もまた石作りで、精緻なレリーフが一面に施されていた。右から左へ、壁伝いに歩いていくと、物語を読み取ることができるという、いわば絵巻物的な仕掛けが施されているのだった。はじめが見上げる先に、右手で空を、左手で大地を指差して立つ、やたら不遜な赤ん坊が彫られている。
「お釈迦さまだ」
 重たい感慨と敬服をもって、はじめがつぶやいた。
 三層目から上は、色界といって、人間ではないが神にもなれない、中途半端な有情たちの領域となる。ここからは、欲望も物質的条件も超越した精神世界、無色界たる八層以上をめざして、急で狭い石段をひたすらに登っていかなければならない。西洋人と思しき大柄な観光客と、押し合いへし合い、這うようにして登っていく。日差しは強いが不思議と汗は流れない。ただ全身の産毛が、何か大きな圧力のようなものを感じけばだっている。いやいや、妖気レーダーでもあるまいしと、純子は一人ごちる。はじめは先から異様なほど寡黙でいる。
 八層を目前とした第七層で、ついに、純子をひどい浮遊感が襲った。石畳の突っかかりに足を取られてふらつき、あっという間にバランスを失って倒れた。壁面に背を酷くぶつけたが、そんなことも気にならないほど、頭から血の気が引き切ってしまって、みぞおちのあたりにはひどい嘔吐感があった。
「純子……水飲んでた?」坐禅を組んだ大きな仏像のために、ちょうど日陰になったところに純子を座らせて、はじめ、「汗かいてない」
「そういえば、忘れてた、かも……」
熱中症。ごめん、わたし、純子のことぜんぜん気にしてなかった」
「気にしないで。こちらこそごめんね。あたしはここで休んでるから、はじめだけでも上まで行ってきなよ」
「でも……」
 八層以上、無色界は、円形の回廊になっていて、ストゥーパと呼ばれる巨大な仏塔が七十二基も並べられている。目透かし格子状に石を積み上げて作った釣鐘状の空間の中に、曼荼羅を模した仏像が一体ずつ納められ、この構造じたいが悟りの世界を表現する、いわばこの寺院の中核にあたるものとされる。
 ぐったりと座り込む恋人に、当初はじめは遠慮した様子でいたが、純子が促すとためらいがちに頷いて踵を返した。すぐ戻るからと、言い終わらぬうちに彼女の姿は上層へと消え、それから十五分ほど、純子は一人でいた。組んだ石と石の間から、丘陵からの風がさわやかに吹き込んで、純子の首を冷やした。
 はじめは、今までのどの表情ともことなる、奇妙な顔つきになって戻ってきた。どの言葉も、彼女のそのときの様子を示すのにふさわしいものはないと思われた。
「純子、この国に住もう」
 彼女はそう言って純子を困らせた。

 はじめが、恋人に対して愚直と言っていいほど正直で、従順な女であることは、十分すぎるほど知れていることである。だがそれとは別に、ごく個人的な満足のために、純子は彼女とメールアカウントを共有させていた。
 最初は、電話番号もメールアドレスも、いっさい与えないつもりでいた。しかし、彼女が広告会社で働くようになって、連絡先がまったく存在しないという状況が、社会的信用のためにもよくないのだということがわかってきた。デザイナーはクライアントと接する仕事なのだから、当然、連絡先を付記した名刺を作らなければならない。ある程度社内でも幅を利かせられるようになれば、家に持ち帰って仕事をするということもあるだろうし、そうなれば遠隔でやり取りできるツールは必須になってくる。このような事情を鑑みて純子は、アカウントを自分に共有するということを条件に、はじめにメールアドレスを持たせることにしたのだった。
 彼女のアドレスに日々届くのは、会社のものと思われる、事務的なインドネシア語のメール、広告メール、それからよくわからないアラビア語の迷惑メール。人の息の感じられない、無機質な受信ボックスを眺めるのは、純子にとってほとんど日課のようになっていた。彼女の交友関係が非常に限られたものであること、それすら自分の監視下にあるということは、純子の不安と執着を慰撫し、十分な満足をもたらした。はじめは純子以外の誰のことも愛さない。純子だけを見つめ、純子だけにすがりつく。その事実を何度も何度も反芻し確かめてようやく、純子は安心して日常を過ごすことができるのだった。
 ——青八木さん、お元気ですか、
 だがこれはどうしたことだろう。純子は唇を強く噛み締める。犬歯が食い込んだために、唇の皮膚が破れ、滲み出した血液が顎を伝ってデスクへと滴った。
 ——俺は元気です、元気というか、すげえ元気というか、とにかく絶好調です、
 おそらく、このことを、ベッドで眠るはじめは知らないだろう。だから純子の燃えたぎるような怒りと嫉妬は、彼女には謂れもないのだが、理性ではそうとわかっていても、自らを抑えることができそうもない。デスクから探り当てたビニールの小袋を歯で齧り開け、白いカルシウム粉末を勢いよく呷る。
 徹底して口語調で、周りくどいが、飾り気のない正直な文体だった。それはかつて、学生時代の純子が、好ましく思っていた彼の印象とそのまま合致した。
 ——いまでも、どんな女の子を見ても、青八木さんはああだったなとか、考えてダメなんです。早く結婚しろって、みんなは言うけど、俺はまだぜんぜん待てます。いつ千葉に帰ってくるんですか。顔見せてくださいよ。そんで、また一緒に走りましょう……
 ほとんど反射で迷惑メールフォルダに叩き込み、椅子を跳ね除けて立ち上がった。スニーカーを履くこともそこそこに外廊下へ出て、怒りのためにぶるぶる震える指で携帯電話を操作する。歯軋りが止まらない。靴底がアルミの床を激しく打つ。
 公貴はほとんど半コールのうちに応答した。彼が何か言うより早く、
「おまえだな、はじめのアドレスを鏑木によこしたのは!」
 半狂乱で叫んだ。
「おいおい、穏やかじゃないな、どうした?」
「しらばっくれるな。あたしはおまえにしか、はじめのアドレスを教えてないんだ。それも緊急時の連絡のためだって何度も何度も何度も何度も何度も何度も言い含めたのに。それでおまえはうんと言ったのに、なんで、日本から、鏑木がメールを送ってくるんだ!」
「純子、弁えろ。夜中だぞ」
 彼の声はあくまで鷹揚で、だからこそ、純子の憤慨はヒートアップする一方だった。
「そんなことはどうでもいい。言え。おまえだろう」
「そうさ、俺が、鏑木にはじめのアドレスを教えた」
「なんで!」
「なぜ? 教えてくださいと言われたからに決まってるだろ」
「おまえに限ってそれだけのわけないだろ。あたしは誰にも教えるなって言ったんだ。本当のことを言え、今、すぐに!」
「面白くなりそうだったから……と言えば、おまえは満足するのか? まあ……フフ、そっちが本音と言えなくもないんだが」
「死ね!」
 へし折らんばかりに握りしめていた携帯電話を、階下に向けて力の限りに投げつけた。
 あまりの怒りに目が眩む。全身に静電気が立ち、内臓までがぐずぐずと煮立ってくるような思いだった。憤懣。憎悪。嫉妬。それらを一緒くたに煮詰めた釜が、何の前触れもなく頭の上に落ちてきて、純子は脳味噌ごと押しつぶされる。苦しい。熱い。痛い。惨めだ。今度こそ、涙が溢れると思ったが、下瞼はからからに乾いて、本来の機能を果たすことすら困難だった。外気に触れ、急速に冷えてゆく自らの身体を抱きしめる純子の背に、聖別された天使の声が降ってきた。
「じゅんこ……?」
 はじめだった。
 目が覚めたとき、隣に純子がいないから、心配して探しにきたのだろう。つややかで痛々しい、まだ生まれおちて間もないみたいな裸の肉体に、毛布一つ巻きつけただけの格好で、玄関扉からこちらを覗いている。純子と目が合うと、飼い主を見つけた子犬のような表情で破顔した。純子の胸に目まぐるしくさまざまな思いが去来した。這うようにして駆け寄り、小さな身体をはがいじめにした。豊かな胸に頬を寄せる。心臓の上に耳をつける。拍動している。
「ねえはじめ、はじめはあたしのこと愛してる?」
 何も介在させたくはない。二人の間には皮膚ですら邪魔だ。
「? 愛してる。純子、大好き」
「あたしだけ? あたしだけを愛してる? どんな人間でもあたしを許せる? あたしと一つになってくれる?」
「純子どうしたの? 純子だけだよ、純子とずっと一緒だよ……」
「はじめ、はじめ、はじめ——」
「純子、大丈夫……ゆっくり息をして、そう……大丈夫……」

 万物は流転する。誰も、同じ川に二度と入ることはできない。
 二十五歳の純子は、十九歳の純子とは違う。
 十九歳のはじめは、十五歳のはじめとは違う。
 耐え難く思って純子は頭を抱え、ひとりうずくまっていた。せっかく、骨を砕き、皮膚をむしり、手のひらにピンを刺して留めおいたのに。ただ一人、純子だけのものにしたのに。捕らえた蝶は、標本箱の中にあってもたえず細胞分裂アポトーシスを繰り返し、いつのまにか、異質な存在へとすりかわっている。美しい肉体は美しいまま、純子の知らない果てへと去っていく、そんな空想に怯えた。
 看護師が純子を呼びにくる。事務的な口調で名前と年齢を確認すると、顎を軽く傾けて、診察室に入るように指示する。
 飾り気も何もないリノリウムの床、白い壁、消毒液のツンとした匂い、そっけなく置かれたアルミの丸椅子。いっそ病的なほどの静寂の中で、空調装置のファンだけが無機質な音を立てて回っている。医師は相変わらず無償髭を生やしたまま、やる気のなさそうな表情で純子を迎える。今日はどうしましたか?
「あの、もう耐えきれません。死にたいんです——」
 お薬増やしときますね、それだけ言って医師は、赤ボールペンで何かカルテに書き込んだ。

 エンマル・ジャパニーズ・レストランは、中央ジャカルタ近郊ではもっとも評判の良い日本料理店のひとつだ。もっとも、日本生まれ日本育ちの純日本人たる純子からしてみれば、この店のメニューに正統な日本食は一つもない。あるのは、アメリカの文化に多分な影響を受けたと見られるカリフォルニア・ロール、ナマズティラピアや鯉なんかを刺身にして、ごちゃごちゃと詰め込んだ海鮮丼、見た目は良いのに味がなんか違うラーメン、七輪のようなもので焼く鶏肉の焼き鳥もどき、ステーキ、インドネシアン・タフ、ケチャップ・マニスで味をつけた穴子のどんぶり……それでも、二人が文句を言わず常連をやっているのかと言ったら、日本食でないにしても、この店の料理が美味であるからだった。ほとんどミー・ゴレンだろうと笑ってしまいそうになる〈ヤキソバ〉も、口にすればそこそこおいしいし、刺身を食べれば、それがどんな種類の魚であろうとも日本を懐かしく思い出すことができる。そういうわけで、ちょっと良いものが食べたいと二人が合意したとき、足を向けるのはいつもこの店なのだった。
 プラザ・オフィスタワーの四十六階、ジャカルタの夜景を一望する贅沢なソファ席。はじめは、いつものTシャツ姿とはうって変わって、クバヤという青いビロードのブラウスに真珠のブローチをつけた出立ちで、清楚な美貌にはうっすらと化粧さえしていた。春の花びらを張り合わせたような唇には、いつか買い与えたロムアンドのリップグロス、薄青い瞼にはほのかにラメの入ったクリオのアイシャドウ、プチプライスで統一されているにも関わらず、向かい合う彼女の品格は決して打ち消されない。小麦色の長い髪を耳元でとめ、いっしょうけんめいラーメンを啜る美しい恋人を、純子は半ば夢見心地で眺めた。
 純子の視線に気がついたはじめが、龍とパンダが描かれたどんぶりから顔を上げ、上目遣いにこちらを伺う。純子は微笑するだけで返事に代え、自らも箸でステーキを口に運んだ。あまり味がしない。
「仕事、うまくいきそうなんだ。中国の……インドネシア大学で中国語を教えてるっていう先生が、デザインを見てくれて。今日、これなら多分大丈夫だって」
「そう、よかったじゃない」
「うん……」
 さっきからずっとそうだった。会話が、続かない。生来多弁のはずの純子がほとんど喋らず、無口なはじめが何か話そうと努め、結果、うまくいっていない。純子は、二人でいるあいだの沈黙を気まずいと感じたことはないが、はじめのほうはそうではないようだ。いたたまれないといった様子で、ラーメンスープの水面をじっと覗き込んでいる。
「あの、純子……元気ない?」
 気負うあまり、結局直球で切り出してしまうのは、いかにもはじめらしい。
「そんなことないわよ」
「でも……」
「……そうね、少し頭痛がするの。でもはじめが気にすることじゃないわ」
「言って、純子。わたしたち二人でひとつでしょ。純子が辛いなら、わたしも一緒に分け合いたい。そのためならなんでもする」
 強い意志に満ち溢れた明晰なまなざしが、テーブル越しに純子へと降ってくる。はじめのまっすぐな想い、言葉が、純子の傷ついた細胞に触れ、浸透してゆく。
 純子はふうとあからさまに嘆息し、ベルベットのソファに深く腰掛けた。はじめから視線を逸らす。夜のジャカルタは、大通りを中心に青や金やピンク色にライトアップされ、神聖な祈りの場であるイスティクラル・モスク、その白亜のドームでさえ、エメラルドの照明に煌々と光を帯びている。夥しい数の人や、車や、オートバイが、空へと伸び上がったビル群の間を、せこせこと過ぎてゆく。ひとつ道を外れれば全盲の物乞いが、プラスティックの椀を行き交う人々に向かって差し伸べ、女たちがほとんど軟禁状態で家庭に縛られている。純子はそれを、四十六階から神のように、無感動に見下ろし、目の前の恋人は純然たる美徳をたたえてただ座っている。
「なんでも?」
 存外に低く、アパシーな問いかけが、はじめに差し向けられた。
「なんでもしてくれるのね」
「うん」
 それでも彼女は頷く。純子は、肘を張って伸び上がり、美しい顔へと鼻先を近づけた。額から頬へ垂れた長い前髪を指でさらい、顕になった瞳に、青い陰質の花のように微笑した。
「……お願いしたいことがあるの。きっと、してくれるわね」

 ちょっと待ってください、と通話を辞して、三十分ほど経過したあと、彼は律儀にも折り返しの電話をよこしてきた。
「すみません、イシャー)の礼拝の途中だったので。いま、あいつも一緒にいます。このあいだのホテルでいいですか?」
「いいわ。ごめんね、突然、大丈夫だった?」
「はい。大丈夫じゃないとしたら……それは、あのとき、あなたについていくことを決めた俺たちに責任があるので。じゃあまた後ほど」
 彼がほとんど一方的に畳み込み、三十秒ほどで通話は終了した。事前に、こちらの要望は概ね伝わっているので、大した問題ではないが、彼のひどく簡明であるさまはどうしても公貴を想起させる。過ぎ去ったはずの嵐が再び戻ってきて腹の中を荒らしはじめたので、舌打ちして、純子はデスクを荒っぽく探った。手のひらに触れたビニールの小袋を二つ、まとめてちぎり開け、中のカルシウム粉末を吸い込むようにして飲む。
「はじめ、行くわよ。何してるの」
 空の小袋をゴミ箱に叩き込み、純子は声を張り上げた。照明を落とし、カーテンもすっかり閉め切ってしまった暗い部屋、手洗いでもじつく彼女の小麦色の髪だけが、玄関扉の隙間から明かりを拾ってかすかに光を帯びていた。「本当に行くの?」ほとんど消えかかりの、引き攣ったような声が、茫漠とした闇の中から聞こえてくる。
「あんたが言ったんじゃない。なんでもしてくれるって」
「そうだけど……」
「別にいいわよ。無理しなくても。今から電話して、行けません、ごめんなさい、って言えばいいだけなんだから」
 糸を緩められた操り人形みたいな、ぎこちない動きで、手洗いの壁からはじめが現れた。
 光の中につまびらかになった彼女の姿態を、知らず、純子は嘲笑していた。ほどよく脂肪のついた甘い情調の肉体、その皮膚に赤くでかでかと書かれているのは、口にするのも憚られるような、ひどい侮蔑の言葉の数々。卑猥な意味を帯びた記号、絵文字。はじめには見当もつかないだろうが、この九年間、神経質に記録をとってきた純子には重大な意味をもつ三桁の数字。全て純子が、ディオールの口紅をほとんど半量使って描いたものだ。ほとんど玩具のような扱いを受けた自らの身体を、必死に抱き込む細い腕が悲しい。
 のろのろとした動きに焦れて、純子が右手に持っていた麻紐を強く引くと、陰核に引っかけたピアスが突っ張って、はじめは短く悲鳴をあげる。緩み切った尿道から、尿とも潮ともつかない液体が滴る。
「純子……」
 哀願に潤んだ目がためらいがちにこちらを伺う。純子がかぶりを振って、あらゆる申し立てを受け入れない姿勢を示せば、今度こそ、彼女はもう何も言わなくなった。うつむきかげんに、足枷を引きずるみたいな重い足取りで歩き出す。玄関扉に鍵をかける。肩に薄手のサマーコートをかけてやると、震える指が、胸の前で襟をしっかと握りしめた。
 大通りの賑わい、地元屋台街の喧騒からも遠く、奇妙な程に静まり返った細い路地裏を、犬とその主人のように歩く。窓が割れ、ほとんど廃墟同然の低所得者向けコスト、誰も使わなくなったカトリック教会、乗り捨てられた古い日本製オートバイ、意味不明のスプレー落書き。月明かりすら届かない。靴を履くことを禁止された小さな足は、砂利やガラス片の散乱する悪路を踏みしめて、うっすらと血が滲みはじめている。それで歩調が鈍れば、リードを引かれ陰核を虐待されるので、彼女は諾諾と歩き続けるしかない。
 少年たちは、いつかのラブホテルの一室で、ベッドに腰掛けて待っていた。廊下から引き摺り込まれたはじめの姿を一目見て、刈り上げの方は目に見えて取り乱したが、眼鏡は寡黙なまま純子を見、かすかに眉を寄せるにとどめた。
「この格好で連れて来たんですか」
「そうだけど?」
 ほとんど剥ぎ取るみたいにしてコートを取り、玄関扉のフックにかける。全裸にされたはじめは、まぶたや耳までを真っ赤にして、力なくその場にうずくまってしまった。
「あなたの恋人でしょう、いいんですか」
「この子、あたしのためになんでもしてくれるんですって。だからきっといいんでしょう」
「純子、だれ……?」
「発言を許した覚えはないわよ、はじめ」
 リードを強く引き、ぴしゃりと言い伏せれば、奴隷の気性を子宮に持て余す彼女は、もう何も言えなくなってしまう。野良犬がするみたいに顔を伏せ、熱い息を吐きながら、半開きの口からぬるぬると唾液をこぼす。股の間で赤いカーペットが湿っている。豊かな胸は下垂し、乳頭から滲み滴った乳汁が、行儀良く並べておいた可愛らしい膝へと伝った。
「なあこれなんて書いてあるの? ジャパニーズ?」スラックスの下でゆるく勃起しはじめた様子の刈り上げが、場違いに無邪気な調子で聞いてくる。
「どうしようもない淫乱女、って書いてあるのよ」
「うわ」
「あんたって最低だ、本当に……」
「最低なのは二人も同じでしょ。礼拝のあとに、澄ました顔で女を抱きに来てるんだから。ブルネイではね、あなたたちみたいなのは石打ちで殺されるのよ、脚を切られて、町中を引き摺り回されるのよ、知ってた?」
「そういうあんたは地獄ジャハンナ)に行きますよ、確実に」
「なんとでも言えば。あたしは、あなたたち二人が今日、この子を陵辱してくれたら、何の不足もないんだから」
「純子!」
 上がる悲痛な叫びを、黙殺した。
「膣にさえ挿れなければほかは好きにしていいわ。どこもかしこも感じるマゾだから、二人もじゅうぶん楽しめると思う。後ろもほぐしてあるけど、けっこう具合いいのよ、それが嫌なら口に突っ込めばいいし」
「純子、やだ、じゅん……」
「ねえはじめ、あんた、なんでもしてくれるって言ったじゃない、嘘だったの。それとも、あれはただのその場しのぎだったってわけ? あたしのこと好きなんでしょ? どんなあたしのことも愛してくれるんでしょ? それなら早くほんとのあたしを受け容れてよ。あたしの罪を一緒に背負ってよ。どうして泣くのよ。あたしが悪いことしてるみたいじゃないのよ」
「純子以外としたくない、純子じゃなきゃいや」
 ぽろぽろと、下瞼から大粒の涙をこぼして、はじめは純子のハイヒールの足にすがりつく。汗と鼻水で無様に濡れた頬を、唾液でつやつやと潤んだ唇を、骨と皮ばかりの鷺脚に押し当て、祈るように訴えた。
「純子を愛してる。純子だけなの。純子とじゃなきゃ、いや」
「……」
「純子が嬉しいことは、わたしも嬉しい。できるだけのことはしたい。でも……純子、さっきから泣きそうな顔してる」
「……ああ、それはね、はじめ」
 不意に、純子の口許へ、快哉の笑みが駆け上がる。純子は膝をついてかがみ込み、いまだくるぶしにくっついて泣いている美しい恋人の顎を、指の先でやさしくすくった。キスをする。カルシウム粉末でほのかに白くなった唇で、柔らかい皮膚をはさみ、小さな舌を前歯で甘噛みし、涙の香る頬と頬を擦り寄せる。手のひらでつややかな髪からうなじまでをおもむろに撫でる。純子が回した腕の中ではじめは、安堵と心弛びのために静かに嘆息した。およそ気が触れたかとさえ思われた純子の、奇妙なほど懇切な態度……それにすっかり気を緩めてしまった彼女は咄嗟のことに反応すらできない。純子は、いままでねんごろに扱っていた恋人の身体を、ベッドの方へ思い切り突き飛ばした。
「はじめがあたし以外の手でけがれることが、泣きたくなっちゃうくらい嬉しいからよ」
 仰向けに倒れ込んだはじめの、茫然とした表情。ついで、彼女の瞳にうつろう、云い知れぬ失望の色。純子は顎を引いて、少年たちに然るべき対応を求めた。

 ダブルベッドに、裸の少年二人が、窮屈そうに折り重なりながら眠っている。
 そのすぐ足下、埃汚れの溜まった赤いカーペットの床の上で、純子の恋人は気を失っていた。呼吸は浅く、身じろぎすることもないので、ともすれば死んでいるのではないかと思われた。琥珀を漉いて作ったような、淡い黄金色の髪から、ほのかな銀色の光を帯びて透き通るような皮膚に至るまで、尿や精液や、そのほかあらゆる種類の体液に塗れ、汚れている。縦割れの肛門は緩んで、白っぽい粘液を垂れ流し、手のひらや指先にまで擦り付けられたものが乾いている。昨晩、純子がほどこした最低の落書きもほとんど消えてしまうほどの壮絶さで彼女は少年たちに陵辱された。だというのに、彼女の肉体は、絶えず白く清冽な冷たい香りを放ち、軽く瞼を閉じた寝顔には神的なものさえ感じられた、窓から差し込む清らかな朝の光にむかって、彼女は、今まさにほころんだ青い花の神秘に静かに志向していた。
 残酷なことだった。母親の胎内で、受精した細胞が二つに分裂した、まさにそのときから、拭っても拭い去れぬ原罪を抱えた純子と、尊厳と実体とを踏み躙られてもなお神聖な彼女は別の生き物だった。命に貴賎はないというのは嘘だ。幻想だ。二十世紀にアメリカで、アルジャーノンが訴えてきたことそのものではないか。そうでなければ、バラバのかわりに処刑されたキリストが、三日後復活して天にあげられるものか。ヴィシュヌがブッダになって地上へ降りてくるものか。ブラウスのボタンを上まで留めて、純子はベッドに背を向けた。サイドテーブルに十万ルピア札を何枚か叩き置き、靴を履いて、ホテルから静かに立ち去った。
 巨大な駐輪場、高いコンクリート壁の路地を抜けて、ジャラン・サトリア大通りへ出る。液晶のひび割れのために、文字の判読すら困難となった携帯電話に、一件、着信が入っている。午前七時。迷ったが、純子はその知らない番号に折り返し電話をすることにする。三コール目で、細く囁くような女の声が、純子の問いかけに応答した。
「手嶋純子さん?」
 初めて聴く声だったが、純子にはそれが誰であるのか、はっきりとわかった。
「純子さんですよね?」
「そういうあなたは、公貴……さん、の奥さん」
「そうです、まあ、折り返しくださったのね。ありがとうございます。正直、期待していなかったのだけれど。嬉しいわ」
「どういう用件? あたし、そんなに暇じゃないんですけど」
 このあいだ、酷い取扱い方をしたためか、スピーカーからの声にはひどく雑音が入っていて聞き取りづらい。雑音というのは、タバコの包み紙のセロファンを揉みこんだ時のような音だ。
「夫とあなたが過去に、性的な関係を持っていたということは、知っていました。それで、半年前夫があなたを頼ると言い出したとき、ひどく不安になって、礼を欠いたのを、申し訳なく思っているの。ごめんなさい」
「そうですか、あなたは、欲求不満の解消のためにいま、あたしに電話をかけてるのね」
「そのとおりだけど、気を悪くなさらないで。お礼をしようと思っています。夫からは、すでに何か差し上げたみたいだけど、わたくし個人として、あなたにお礼申し上げたいの。何か入り用のものはありますか?」
「ありませんし、あったとしても、あなたには教えません」
「そうおっしゃらないでください。なんでもいいのよ、お金でも、ものでも、人の心でも」
「人の心? ……じゃあ、あたしが今、公貴と離婚してもう彼に近寄らないでくださいと言ったら、あなたはそうするの?」
「もちろん」
 吐息だけで、彼女が笑ったのだとわかった。「わたくしの知らない相手だったら難しいかもしれないけど、公貴さんのことは、じゅうぶん知っているもの」
「食えない女」
「そうでなければ、あの人と結婚してうまくいくはずがないわ。公貴さんが、どうしようもない破綻者だということは、あなたもよく知っているでしょう。いまどこにいらっしゃるの?」
ジャカルタ
ジャカルタ、そう、懐かしいわ、あの人と新婚旅行でアジアを巡ったとき、一週間だけ滞在しました。排気ガスがひどくて、わたくしずっと寝込んでいたんです。リッツ・カールトンがあるでしょう?」
「あります」
「そこの、いやに広いキングツイン、七十二階だったかしら、アスパラガスを四つ並べたみたいなビルが東に見えるのよ」
「じゃあ、あなたがいま、孕んでいるその子どもをください。産まれたらすぐにあたしに、インドネシアによこして、そうして、二度とかかわらないでください。あたしがあなたに求めるのはそれだけです。できますか?」
「それで、自分のもとに戻ってきた娘を、あなたはどうするの?」
「殺します、殺して、あたしも死ぬわ、あたしの系譜が、もうこの世に残っていて良いはずがないんです。あなたに托卵したのは間違いだった。あたしの遺伝子が、いま、あなたの腹の中で転写されているということも、悍ましい間違いなんです」
「良いわ、そのようにします」
「早くしてください」
「焦っているの。無理もないですね。そう、あなたに一つ、サジェストしておきましょう」
 純子は、往来で足を止め、ひどい雑音の中の彼女の声に耳を澄ませた。
「バリに行きなさい」
 カルシウム粉末を、小袋ごと齧りながら、従業員用エレベーターに乗り込み九十階まで上がる。ブラウスの襟をただし、ストッキングのほつれをうまくスカートの中に隠して、更衣室を出る。ラッフルズ・パティスリーの厨房には、気難しく、いつも不機嫌な若いパティシエがいて、純子の顔を見ていると気が滅入ると声を荒げることもあれば、今夜一緒に食事をしないかと甘ったるい声で誘いをかけてくることもある。その彼が、今日は殊更にへそを曲げていて、厨房で顔を合わせた瞬間に訳のわからないことで怒鳴りつけてきた。純子は急いでスカートのポケットを探るが、小袋はなかなか出てこない。パティシエは喚き続け、純子以外のウエイトレスたちはどうすることもできず、隅でおろおろしている。
 ついに、指先がプラスティックの袋に触れた。それと同時にパティシエの平手が純子の頬を打った。純子は右へ軽くよろけたが、すぐに後ろ足で立ち直り、彼を刺し貫くほど睨みつけた。厨房にはコニャック・ナポレオンの、でっぷりと太ったレッドゴールドの瓶が、三つほど並べて置かれている。そのうちの一本を掴んで厨房を飛び出し、ホールの、照明で金色に輝くケーキショーケースに振り下ろして、力の限りに叩き割った。

 明けてもなお霞んでいるような春の空だった。この町にも桜が咲き、緩慢とした春風が日光を絹のように漉して流れていた。
 十五歳の手嶋純子はすべてを諦めて、新品のローファーを履いた重たい足で、正門坂を上っている。右肩にかけたスクールバッグの根革で、間抜けに口を開いた小猿のストラップが揺れている。この坂を登った先には、かねてより彼女が進学を希望していた高校があって、今日はその入学式であるのだが、気分はもやついたまま晴れることはない。もはやロードを降りた身である自分に展望はない、そうした怯懦が、純子の骨ばかりの身体へ泥のようにまとわりついて離れない。なにかほかに、そう、アルバイトをして、男の子と遊ぶというのはどうだろう? 純子は、人より痩せてこそいるが、顔はそう悪いほうじゃない。むしろかわいい方だと自分でも思う。あとはよく食べて肉をつけて、イケメン、そう、キムタクみたいな男の子を見つけて、得意のカラオケで惚れさせてやるというのはどうだろう。相手はキムタクなんだから、当然、歌の上手い女の子が好きに決まってる……空想は、背後の女子高生たちのひそひそ声で不意に、とぎれた。
 色素の薄い髪が、舞う花の中で音もなく翻ったと思えば、坂の上の方へ急速に遠ざかっていった。言葉もなく、純子はその後ろ姿を見ていた。肉付きの悪い脚が、低速ギアのままぐるぐるとペダルを回す。つやつやした白いフレームに、青いコラテックのロゴが誇らしげに輝いている。リュックの金具にゲームキャラクターのストラップがふたつ、ジャラジャラと揺れている。腿の横で縛ったプリーツスカートの裾から、ユニクロの、三枚九九〇円の下着がのぞく。
「きみ、けっこう登るじゃん」
 駐輪場で、ロードを降り、スカートの裾をせっせと直す、その女の子の背中に声をかけていた。
「自転車やってたの? 見てたよ、のぼってくるの。あたし南中出身の手嶋純子。きみは?」
 やってしまった、焦りを募らせる心中とは裏腹に、唇からはぽろぽろと言葉が溢れて止まらなかった。ロードをスタンドにかける女の子は寡黙だった。べらべらと話す純子に視線もくれない。どころか、聞こえているかどうかすらわからないほどの無反応。だんだん不安になってきて、忙しなくスカートの裾を弄ったり、靴底を鳴らしてみたりする純子を、ふと、小さな頭がかえりみた。長い前髪に、意志の強そうな瞳が透けているのが印象的だった。
 ぼそぼそと、抑揚のない声が言う。純子は耳を澄ませる。
「青……八木、は……一、はじめは」
 春霞の中に、彼女が、細い人差し指を一本たてた。
「いちばんの、いちだ」
 その爪先に、あらゆる時間、空間、光、運命が収束してゆくと、ひととき、純子は錯覚した。

「やめて! 純子、やめて!」
「うるさい!」
 追い縋る手を、力のままにたたき伏せる。頼りなく放り出され、ベッドの上へ崩れ落ちたはじめの眦から涙が散る。
 はじめが抵抗しようとすればするほど、純子の絶望は谷底を深め、錯乱はますます混線を極めた。全身の血管という血管が、リンパ管が、神経が、筋が、折り重なりひきつれあい、絡まり、ちぎれて、自我はばらばらになっていく。否、自我など、ないのだ、人の身体の中は空洞だ、まったくなにもない。純子はどこにも着地できない。耳元で常に何かが囁いているが、わからない、光は乱反射して視神経を焼き、うらはらに、背骨はしんしんしんと冷えてゆく。はじめがまた身体を起こそうとするのを押さえつける、力を加え、ねじ伏せる、そうして、純子と彼女とを隔てる着衣をほとんど破るみたいにして取り去り、彼女を裸にした。
 バリに行きなさい。
 はじめが腕を伸ばし、純子になにかしらの力ではたらきかけようとするが、純子にはそれがわからない。頬に触れる指が氷のように冷たいのも知覚できない。股を開かせ、未だ未開の膣穴を指で広げた。純潔の証に、彼女の穴は粘膜の薄い皮で守られている、それをかき分けて中を覗き込む。女の機関が確かに息づいているのを確かめる。
「ねえはじめ、あたしを愛してる?」
 うわごとが、ふと、唇をついて出た。瞼を涙で濡らしながらはじめは頷いた。
「純子を愛してる」
「ねえあたしってダメなのよ、あんたみたいに清らかじゃないの、汚れてるのよ、それでもあたしを愛せる? 一緒に罪を背負ってくれる?」
「愛してる、純子、わたしは、世界の終わりまでいつも純子と一緒にいる」
「嘘つかないで!」
 無遠慮に指を挿入されて、はじめの、美しい顔が痛みに歪む。
「一人きりじゃ耐えきれない、はじめ、愛してるなら穢れてよ!」
「純子……!」
「どうしてあんたは、青八木一なの、どうして男に生まれてこなかったの、どうしてあたしは女に生まれてきてしまったの、なぜ、さいしょから嵌まるはずのないパズルに、こんなにも……一人で清らかでいないでよ!」
「純子、愛してる、ほんとよ」
「あたしは、あんたのこと、本当に愛したことなんて一度もない!」
 シーツの中から、透明な青い蓋のタッパーを探り当てた。先ほどまで冷凍室の中にあって、いま、常温に触れ白い中身がわずかに溶け始めていた。はじめは——唇をかすかに震わせたまま放心している。抵抗はない。左手だけで器用に蓋を開け、中のものが半液体状になっているのを確かめる。それを彼女の膣口に当てがい、傾ける。果たしてそれは滞りなく膣へと流し込まれた。子宮口はわけもわからないままただ本能のプログラムに従って蠢き、古賀公貴の精液を飲み込んだ。
 腹の底から開き切った喉に胃液がつき上げてきて、純子はそのままひどく嘔吐した。




 ——あんたのこと、本当に愛したことなんて一度もない!
 頭蓋骨の裏にぽっかりとあいた空洞に、その声は絶えることなく反響する。
 胸が引き絞られるように痛み、続いて、込み上げてきた言いようのない感情が、下瞼からあふれ滲むように伝った。頬を冷たいものが流れる感覚で、二十五歳の青八木一は覚醒の浜辺へ静々と漕ぎ着けた。いつの間にか眠ってしまったようだ。パイプ椅子に座った格好のまま、全身を放り投げ、漂白剤の強く匂うベッドシーツに右の頬を預けて放心する自らを、はじめは発見した。
 右手だけが何者かと繋がっていた。見れば、それは女の左手で、およそ生きているとは思われぬほど生白く、骨ばって痩せていた。長らく手入れをされず、爪先の青いネイルアートは剥げはじめていて、ラインストーンの星もいくつか取れかけている。リスター結節のくぼみに滞留する陰湿な影。肘窩の皮膚を覆う分厚いガーゼ、その内側から伸びて輸液バッグにつながるチューブの管。鎮静剤がよく効いているらしい、はじめが指を絡めて握り直しても、ぴくりとも反応を示さない。
「純子……」
 返事はない。手嶋純子は、青白い唇で無機質に呼吸を繰り返すばかりで、はじめの呼びかけに応えることもない。
 幻惑的で異国情緒ある、創造主がいっぺんの無駄も予断も許さずに拵えたような、美しい顔、それが、すっかり痩けて見る影もなかった。白昼の光の中で豊かに波打っていた黒髪は乾燥し、ちりちりと枕の上を這い回るばかり、はじめが何よりも好きだった北天のオーロラを思わせる瞳も、よそよそしく瞼に覆われて久しい。はじめは、純子の八面玲瓏の心に対してほど、彼女の美しさには関心がなかったが、今、失われてゆくその美徳を想って、胸を軋ませずにはいられなかった。
 鍵のかかった小さな窓から、東雲の光がうすぼんやりとさしてきて、純子の彫りの深い顔へとかすかな青い影をもたらした。にわかに憂愁に取り憑かれた心臓を持て余しながら、触れていた指先から離れた。何もかもが言葉にならないまま、ベッドへ身を乗り出し、白い歯の覗く唇に、自らの唇でねんごろに触れた。
 病室から出る。まだ薄暗く、エマージェンシー・イグジットの蛍光色の明かりばかりを光源とするリノリウムばりの廊下には、人の気配こそないものの、消毒液や殺菌剤の刺激臭と、鬱屈とした空気がぬるぬると混ざり合って停滞している。朝方だというのに、患者の独り言、叫び声、心理療法師が患者を落ち着かせようと語る声、拳で壁をしきりに叩く音、神経質にカチャカチャと金具を鳴らす音、監視装置のピープ音。三つあるカウンセリングルームのうち二つは使用中のランプが点灯している。ナースステーションでは、夜勤の看護師が何人か、ばたばたと忙しなく動き回っていたが、カウンターに立つはじめに気づいた一人が振り返って、「あら、アオヤギさん、おはようございます」、薄笑いを浮かべた。
「おはようございます。すみません、寝てしまったみたいで」
「いいんですよ。もうお帰りになられます?」
「はい。あの、純子のこと、よろしくお願いします」
 そうは言っても、彼女たちにできることは、純子に鎮静剤と栄養補給の点滴を打ち、バイタルを測り、あの部屋から出られないように閉じ込めておくことくらいだと、はじめも十分承知していた。今は眠らせておくことしかできない。彼女を苦痛から救う手立てを誰も持っていないから。彼女に最も近しいと思われるはじめでさえも。
「ええ、アオヤギさんもお気をつけて」
 何が正しいのか、何が間違っていたのか、考える。エレベーターに乗り込み、七階から地上へと降下する。出会ってから十年近く、はじめは純子という殻の中に守られて、その居心地の良さに甘え、外で彼女がどのように感じているのか、考えようともしなかった。はじめは純子のことを愛していて、それは彼女も同様だと、信頼はいつしか盲信となり、彼女の首を絞めていたのかもしれなかった。純子ははじめのことなど愛していなかったのだろうか? 本当に? 考える。考えていると、腹の底の柔らかい部分に巨大なスプーンを入れられて、ごちゃごちゃとかき混ぜられているような気分になり吐きそうになる、今すぐ手洗いに駆け込んで便器にしがみつき、泣きながら全て嘔吐してしまいたくなる。嫌な脂汗が首に滲みはじめたころ、エレベーターのベルが目的階への到着を告げた。
 ヒジャブをかぶった女とその子ども、医療券を握りしめた浮浪者の男、包帯で左足をぐるぐると覆った松葉杖の少年などの間を抜け、警備員に会釈をして、夜間診療入口から外に出た。熱帯の空気がはじめの肺を満たし、ひと時、後顧の憂いを忘れさせた。ジャカルタ都心の夜明けは存外に静かだ。総合病院、建設中のオフィスビル、ホテルなどが並び立つ向こうに薄明の空、金星がひときわ明るく輝いている。巨大なオートバイ駐輪場の傍らに、あるかないかというくらい狭い自転車駐輪場、そのラックの一つからロックを外し、白いコラテックを担ぎ出す。
 屋台や雑貨店のひしめき合う中をしばらく走り、メリディアンホテルの、全面ガラス張りのビルが建つ交差点を左折すると、中央ジャカルタ、つまりイスティクラル・モスクの方角へと伸びる大通りに入る。そこから、自宅コスト付近の交差点まで、およそ四キロ直進することになる。車やオートバイと並走しながら、はじめはようやく、すっかり腹を空かせている自分に気がついた。そういえば、昨日の夕方に病棟へと入ってから何も口にしていない。どこかで朝食を取ろうと、考える、インド・マレットでいつものようにインスタント麺を購入しても良いし、KFCでチキンを買い込んで独り占めする贅沢をしても良い、屋台に入って現地料理を食べるも、ホッカ・ベンで日本の弁当もどきを試すも良し、なんでも良い、どうだって良いのだ、どうせひとりなのだから……ドロップハンドルを握り込む手にいやな力が入る。下瞼が震え、鼻先につんと軽い圧力がかかる、どうも子どものようでいけないと思いながらも、ともすれば押しつぶされそうな自らをはじめはすっかり持て余している。今傍らにない温もりのことを想った。純子ははじめを、強くてやさしいとよく誉めた、それもすべて、純子がいてこそだったのに!
「あっ」
 進路前方に、排水溝の大きな窪みを発見したが、はじめはその認知にわずかな遅れをとった。慌ててハンドルを右に逸らすも間に合わない。細身のホイールはまんまと窪みにハマり、勢いづいたフレームは力を逃し切ることができずに振り切れ、はじめの身体は思い切り前方へと投げ出された。どうすることもできずに、ただ瞑目する。コンクリートに激しく打ち付けられると思われたはじめの身体は、しかし、
「っぶねえ!」
 たくましく引き締まった腕の中へ、すっぽりと抱き留められていた。
「…………おまえ、バカだろ! 何ぼけっとしてんだよ! このへんっつうか、この国、道めちゃくちゃ悪いから、気をつけて走れって言われてるだろ!」
「あ、ああ。すまん……」
「すまんじゃすまねえよ! バカ! オレがいなかったらおまえ、今頃頭打って死んでたんだぞ! 気をつけろよ! バカ! わかってんの、か……よ……」
 激しく鼓動する心臓、緊張のあまりの荒い呼吸をなんとか抑えつけながら、見上げたその人の顔に、ひととき、時間を忘れた。汗に濡れて跳ね上がった、オレンジ色の染髪。よく日に焼けた雄々しく精悍な面構え。太く、切りだった眉、怜悧にとがった鼻梁、それらとは裏腹に、まだ幼さの残る赤らんだ頬。鍛え上げられたアスリートの半身。彼もまた、あどけなく大きな瞳を限界まで見開いて、穴が開くほどはじめの顔を見つめていた。
「青八木さん……?」
 分厚い唇が、ポツリと、はじめの名前を口にする。はじめもまた、愛おしい青春時代の記憶の中から、その人の名前を拾い上げて確かめた。
「鏑木」
「あっ、あ、青八木さん! えと、オレ、あの……青八木さぁん!」
「耳元で騒ぐな。喚くな。ちょっと落ち着け。うるさい」
「さーせん! あの、嬉しくて! え、本物! 本物すか! まじで! うわあああ青八木いぃいい」
 日本自転車競技チームのホープにして、はじめが、かつて最も目をかけて育てた後輩。鏑木一差は、その場に崩れ落ちて子どものように泣き出し、往来の人々の注目を一身に浴びた。

 一月、つまり来年の冬、アジア自転車競技選手権のトラック部門大会が、ここインドネシアジャカルタにて開催される。フランス・バイヨンヌ地方土着チームのエーススプリンターとして、ロードレースのワールドマッチを走っていた一差だが、来シーズンからトラック競技への出場をも検討しており、今回はその視察のために単身インドネシアを訪れた。彼の、取り留めもないおしゃべりの中から重要なエッセンスだけを取り上げると、概ね、そういった内容にまとめることができるだろう。
 はじめは、何も知らなかった。ジャカルタに定住するようになってからは、純子以外との交流をほとんど絶っていたし、彼女だけを見、彼女だけを愛する日々を送るうちに、いつしか他の情報に関心を払わなくなっていたのだった。聞けば彼は、今年のジロでポイント賞を獲得し、グリーンゼッケンをつけて走ったのだという。そういう重要なニュースすら、はじめのところには入ってきていない。
「ひどいですよ、オレ青八木さんに褒めてもらいたくてがんばったのに」
 体育座りになり、頬を膝にくっつける子どものような格好で、一差はぷうと頬を膨らませる。
 二週間の視察の間、彼のためにマネージャーが手配したという部屋は、広さ一千フィートほどのキャピタルスイートで、しかもグランドハイアットだった。ブンダランHIと呼ばれる巨大な記念碑、それを取り囲むエメラルドグリーンの美しい噴水、シティビューを一望できるアルコーブに二人腰かけて、一差が頼んだ大量のルームサービスを楽しんだ。黒胡椒で味をつけたナシゴレンサニーサイドアップつきミーゴレン、ナシ・チャンプル、土製の小型こんろに載ったサテ、油で揚げたロールチキン、キヌアとチョリソーのサラダ、大豆を発酵して作るテンペ、付け合わせの香辛料サンバル。一差の、男らしく節くれだった指がテンペをつまんで、真っ赤なサンバルにディップする。それが素早く厚い唇へ運ばれる。
「悪い。鏑木、おまえはよくやってると思う」
「青八木さんもそう思いますか? えへへ、もっと褒めてください」
 手のひらで短い髪をかき混ぜてやれば、口のまわりを汚したまま、とろりと目尻を下げ、甘ったれた顔で一差は笑う。「マジで嬉しいっす。青八木さんに会えるなんて思ってなくて。メール送っても返事してくんないし」
「メール?」
 はじめは、この国に渡航してきてから作成した、事務用のメールアドレスのことを思い出す。届くのはいつも、会社からの事務的なメール、ショッピングモールやスーパーからの広告メール、それからよくわからないアラビア語の迷惑メール。日本語のものと言ったら、純子が、おふざけで送ってくる短いラブレターくらいのもので、そういうのはブックマークしてファイリングするようにしているから、見逃すはずもないのだが。
「そうですよ、二ヶ月くらい前に……届いてない? 古賀さんオレにウソ教えたのかな……」
「見てない、なんて書いたんだ」
「え? えっと、それは……、……マジ尊敬してます、また一緒に走りましょう、って書きました! 青八木さんまだロード続けてるんすか?」
「……あんまり乗ってないかも」
「ええー」
「乗ってたとしても、現役選手のおまえにはもう勝てないよ。勝負どころか、サイクリングにすらならないから、一緒に走ってもきっと退屈させる」
「そんなことないです!」
 サンバルだらけの指が、はじめの両手を、まるで壊れものでも扱うかのように優しく握り込んだ。
「青八木さんと走るのオレ好きです、大好き! ていうか遠慮するとか青八木らしくねえ、やめてくださいよ! 気持ち悪いな!」
「気持ち悪いって、おまえな……」
「そうだ! 今から一緒に会場見に行きませんか? そんで試走しましょうよ、そしたら一石二鳥? でしょ!」
「バカ。だめだ。おまえもう明日には出国するんだろう」
「そうですけどお」
 大きな手のひらからのがれた両手は、サンバルでべったりだった。それをティッシュでぬぐい、ゴミ箱に放り投げて、はじめも大皿の中からサテの串を一つとって食べた。
 一差と、十年越しにこうして額を突き合わせて話し、食事を共にするのは楽しかった。彼は高校生の頃そのままのやんちゃな口ぶりではじめを楽しませ、はじめも、まったくの自然体で軽口を言ったり、笑ったりすることができた。まだ昼だというのに、ウエイターが、ビンタンビールのライムグリーンの瓶を盆に置いて運んできて、二人分のバカラグラスに恭しく注いだ。すぐにこれを飲み干しつぎたしした一差の頬はにわかに赤らみ、会話もハイになってきた。はじめのほうでも、美味な現地料理を中心に、普段はなかなかありつけないアルコールをちまちまと楽しんだ。
「ねえ明日、夜フライトなんですけど、青八木さん見送りに来てくれますか? ていうか、食事しませんか? 今度はもっとちゃんとしたところで」
「わかった」ふわふわと回る頭で、何も考えず、はじめは彼に微笑した。
「ほんとすか? 約束ですよ、破ったらハリセンボン飲ませますからね。十一時に迎えに行くんで、住所、教えてください」
「わかった」
「おしゃれしてきてくださいね。今日みたいなのでも……可愛いけど、もっと可愛くしてきてください。わかりましたか?」
「わかった」
「ほんとにわかってます? 頭ぐらぐらしてますけど」
「わかってる。あした、十一時に、おしゃれして待ってるから。鏑木……」

 浅慮だったかもしれない、そんな不安を、はじめはすぐに打ち消した。相手は一差だ、無心にこちらを慕ってくれるかわいい後輩。どうかしている。かぶりを振りながら、おぼつかない足取りで、コストの外階段をのろのろと上がる。頭痛と耳鳴りがひどい。胸と腹のちょうど中間、鳩尾のあたりに、もやもやと言いようのない不快感が立ち込めている。すでに喉や舌の付け根あたりにまで胃酸が上がってきていて、気を抜けばこの場で嘔吐してしまうだろう。大して食べたつもりも、飲んだつもりもなかったが……こうした原因不明の不愉快な感じが、近頃度々はじめを苦しめていた。
 一人きりで雪崩れ込んだ部屋は暗い。カーテンは閉め切られ、掃除を怠った床には、白い埃が膜のように積もっている。ピンク色の花柄の玄関カーペットの上でなんとかスニーカーを脱ぎ捨て、リュックを床へ放り出し、ベッドの方へ駆け寄ろうとしたが、不意に脚から力が抜けずるずるとその場へ崩れ落ちた。頭痛はことさらにひどく、脈打つように痛み、こめかみを締め付けるような圧迫感が不愉快な感覚をさらに強めた。
 ——仕方ないわね、はじめ。ほら顔を上げて
 優しい声の記憶が、床に寝そべって放心するはじめの上に、やわらかく降ってくる。
 長い黒髪を悠然とかきあげ、陶器のつくりものみたいに綺麗な白い顔に慈愛をたたえて、純子ははじめを抱き起こしてくれる。頭を預けた肩口から立つ、幻想の国の花の香り。無邪気に頬をくすぐる優美な指先。彼女は、赤い唇にミネラルウォーターを含んで、涎や胃液で汚れたはじめの口許に、コマドリがするかのような繊細な仕草で口づけた。冷たい水が喉を潤し、はじめは、安堵のために深く嘆息する、
 ——はじめ、あんた、弱いのに、すぐ無理して飲むからダメなのよ。よしよし……おいで、一緒に寝ましょう
「うん、純子……」
 愛おしい名前を微吟する。うっとりとして瞼を開ける。茫漠と広がる黒染の闇、彼女はいない。はじめは立ち上がり、緩慢な足取りでベッドに近づき、今度こそうつ伏せに倒れ込んだ。
 すがりついた毛布に残る、アイコニックでコケティッシュなシプレーは彼女の香りだ。髪や、手の甲の薄い皮膚、裸で抱き合うときには細くたおやかな腰から、はじめはその香りをたしかめた。腹のあたりに腕を回してまどろんでいると、くすぐったいわ、と言って、彼女は小鳥のように笑う、調子に乗って鼻先を押し付けたり擦り付けたりすれば、いたずらな手がやってきてはじめをシーツの上に縫い付けてしまう。
 ——欲しいの?
「じゅんこ」
 ——本当に、仕方のない子、
 まな板の上のうさぎみたいな格好で、あおむけにされると、はじめは身体も精神も全てを彼女の手の中に委ねようという気になってしまう。Tシャツの中に指が入ってきて、臍や、脇腹や肋骨の上など、感じやすい皮膚をくすぐられる。感じやすくだらしない乳房は、散々焦らされたあとのお楽しみ。早く核心に触れて欲しいという思いと、ずっとこの、淫らでまどかな時間に浸っていたいという思いがないまぜになって、はじめは陶然と、視線を伏せる。
 指が空想を追いかけて動く。乳頭を責めるときには、直接触れたりせず、まず乳輪の粒だった皮膚を触ったり爪で引っ掻いたり、歯で軽くかじったりする。そうすると、あさましくも乳腺は喜び勇んで収縮し、不能の乳汁が大きな乳房全体を湿らせはじめる。それも彼女はきれいになめてくれる。純子、早く、早く……そうしてはじめがほとんど極まりかけるころになって、不意に核心を突かれる。はじめはどうすることもできず、陸に上げられた魚みたいにのたうつ。湿った息を吐くのに混じって、あられもない媚声がつぎつぎに溢れていってしまう。膣口も、すぐにぬるぬると湿り気を帯びてきて、ショートパンツの白い生地をぐず濡れにする。それを純子は目ざとく見つけて、
 ——いけない子ね、……お仕置きしてほしいの?
「ん、ん、ぅん……」
 必死で頷く。純子は余裕たっぷりに口許を釣り上げると、ショートパンツと下着を脱がせてはじめの股の間にひざまずく。露わになった部分に鼻孔を寄せて深く息を吸い込み、凝り固まったクリトリスに優しく息を吹きかけながら、全体をその口に含み込む。舌を押し当ててねぶり回し、何度も吸引してはきまぐれに離し、純子のいじわるにはじめは翻弄されてゆく。唇が勃起を擦る粘着質な音に耳を犯される。羞恥に赤くなるはじめとは裏腹に、両膝は勝手に服従の姿勢をとってしまう。膣口からは絶えず何かが溢れ出し、純子はそれすら熱い舌で残らず啜り切ってしまう。
「純子、純子、純子」
 ——まだ足りないのね、
「純子好き、好き、純子、もっとして」
 ——この、淫乱、ちょっと反省しなさい、
「う、っ……ッ」
 指と、空想だけで、はじめは快楽を極めた。呼吸を引きつらせながら身悶えし、やがて弛緩した肢体をシーツの上に投げ出す。大量に分泌した乳汁でシャツはすっかり濡れそぼり、握りしめていた毛布や、シーツにもじっとりと染みている。膣はいまだに痙攣し、直腸までもが彼女の不在に飢え、空虚を懸命に食い締めていた。前触れもなく涙が溢れてきた。寂しい。愛おしい。悲しい。流れた雫が、頬から耳の方へと伝ううちに冷たくなる。
「純子……」
 純子に会いたい。
 いつも首の後ろにあって、ことあるごとにはじめを苦しめる、あの非情な声が、再び反響をはじめる。夏も盛りだというのに部屋は恐ろしく寒い。はじめは一人だ。毛布を頭まで被り、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらはじめは、こちらに笑いかける純子の記憶を腕いっぱいにかき集めようとつとめた。美味しいものを食べて嬉しそうにする純子。はじめを抱きしめて、後ろから耳元に愛の言葉を囁く純子。おかしな思い出話で二人して大笑いした時の純子。はじめのトンチンカンな発言を許してくれる純子。倒錯的な変態プレイをはじめが受け入れた時、自分から申し入れたくせに、ちょっと引いてしまう純子。ウィンドウショッピングを楽しむ純子。無精のはじめのために、コスメを買ってくれようとする純子。自分が書いた小説について語る純子。
 はじめのことなど愛していないと、純子は言った。それでも、どうしようもなくはじめは、純子のことが大好きだった。純子を愛していた。忘れることなどできようはずもなかった。

 目が覚めたとき、時刻は十時を回っていた。
 最初、はじめは、毛布を身体に巻きつけた芋虫のような格好で覚醒し、しばらく呆然としていた。こめかみに鈍痛が残っていた。デスクの上の、花柄の置き時計を見て、十時だということは認識したが、それだけだった。気だるさも取れないままだったので、考えることを放棄して少しうとうとしていた。このとき、実家の犬のことを夢に見た。尻尾を振ってはじめにじゃれてくる可愛いやつだった。
 次に意識が浮上してきたころには、約束の時間まで残り三十分を切っていた。それでも、なお、ぼんやり放心していた。ふと、もう一度時計を見て、全てを思い出したはじめはほとんど飛び上がりながらベッドを出た。遅刻だ! ひどく寝汗をかいていたので、服を脱ぎ、簡易シャワーと固形石鹸とで全身を洗い流した。ほとんど濡れた身体のまま手洗いを飛び出し、クローゼット兼収納となっている箪笥を開け、いちばん上の段に入っていたフェラガモの青いミニドレスを掴みだした。アクセサリーには、ブルーパールのネックレスにイヤリング、再び手洗いに駆け込んでディオールショウ・サンク・ククールのミッツァ、グリッダーにアメリ、リップにはロムアンドといった国籍混交っぷり、思い出したみたいに歯を磨いて、リップを塗り直していたらあっという間に五分前。考えて、再び箪笥を眺めて取り出したのは、真鍮のバングル。鏡の前に立ち、そういえばこれ、ほとんど純子のコーディネイトだ、との思いがよぎったのも束の間、戸を控えめに叩く音が表から聞こえてきた。慌ててマイクロバックを左手に、白のハイヒールを焦ったく履いて、ほとんど転がり出るようにドアを開けた。
 深い藍色の美しいホップサックのスーツに本皮の編み上げ靴、オートクチュールのネクタイ、金のタイピン、腕にはオクト・フィニッシモのシルバーカラーを堂々と輝かせ、あらゆる男を劣等感の中に叩き込まんばかりの出立ちのその男は、
「誰すか、あんた?」
 余計な一言でムードというムードを台無しにした。無礼極まりない男の耳を、思い切りつまんで引っ張ってやった。
「もう一度はっきり言ってみろ、しばき倒してやる」
「……青八木! 青八木かよ! どうしたんだ、青八木、そのカッコ……ってかメイク!」
「おまえがおしゃれしてこいって言ったんだろ」
「そうだけど……」
 じろじろと一差は、はじめの上から下まで眺め回す。それから何か喉に詰まらせたみたいな顔つきになり、ふう、と一つ息をつくと、実に嬉しそうににっこりと破顔した。
「かわいいから、青八木さんじゃないかと思いました」
「バカ」
 狭い廊下、外階段を、エスコートされて歩く。こちらの右手を握る大きな左手から、高いところで元気よく揺れる染髪に至るまでを、どこか他人事な気持ちで眺めた。あれから十センチ近く背が伸びている。重く張り詰めた筋肉のためにスーツは窮屈そうにつっぱり、広い背中には、肩甲骨が雄々しく隆起して生地を持ち上げている。スプリンターらしく鍛え上げられた大腿。大きな足。いつもは顔も見せないコストの住人たちが窓から顔を出し、異国からやってきたアッパークラスの男を、芸術館の彫刻でも見るような目で追っている。その彼に手を引かれるはじめのことも。居心地悪く肩をすくめたまま、促され、通りに停まった黒いメルセデスの後部座席に乗り込んだ。
「何たべたいですか?」
「なんでもいい」
「じゃあ肉にしましょ、肉、青八木さん肉好きでしょ」なんの伺いたてもしないままはじめの隣に収まった一差が、この辺で一番美味しい肉の店に連れて行ってくれ、と黒服の運転手に英語で指示をする。ジャカルタに、こんな良い車種のタクシーは走らない。ホテル付けのサービスなのかもしれない。空調が車内の空気を循環させ、はじめはようやく、一差が何か香水の類をつけていることに気がついた。
 運転手が、最上級の顧客のために選択した店は、ラ・カルティエという、ちょうどスカルノハッタ国際空港にほど近い立地のフレンチレストランだった。ロマン主義風の立派なエントランスを備えた、白い二階建ての小洒落た建物で、青い窓枠に建国記念日に備えた赤と白の旗を飾ってあった。褐色のボーイが、はじめのためにうやうやしくドアを開け、ロビーへと続くブルーカーペットへと導く。続いて車を降りた一差は、てっきり焼肉屋ステーキ屋に連れて行ってもらえるものと思っていたのだろう、あからさまながっかり顔だ。直情家なところは、高校生の時分からあまり変わっていないようだった。
 たわいもない話をしながら、ボーイに案内されて二人はドーム天井のロビーを横切り、アンティークの陶器を飾ったガラス棚のある廊下を歩いて、奥の個室へと案内された。ロイヤルブルーのクロスがかかった小さなテーブルに、名も知れぬピンク色の花が二房、ガラスの花瓶に入って飾られているのが、シャンデリアの華やかな灯りを反射して虹色の光を帯びていた。二人は向かい合って座り、ボーイがそれぞれコースメニューをよこしてきたが、はじめのものは値段の表記がなかった。
「うーん、よくわかんねえ、コースでいいですか?」
 事もなげに言う。
「……ちょっと貸してみろ」
「やですよ、こういうのって、見せちゃいけない決まりなんでしょ!」
「いいから」
 半ばひったくるようにして、取り上げたメニューには、そっけなく五百万ルピアとの表記があった。日本円にして四万五千円。ランチで。卒倒しそうになる。
 一差は、そばに控えていたボーイに、ランチコースを二人分オーダーした。程なくして、黄色いラベルのマグナムボトルが運ばれてきて、ヴーヴ・クリコというシャンパン、ソムリエールがこれを恭しく二人のグラスに注いだ。アミューズは、極厚のトリュフを栗のペーストと溶かしたグリュイエールチーズで包み込み、ジャガイモで挟んだもの。パンはミニバゲット、フランス産の発酵バター付き。続いて、何も考えていないらしい一差がオーダーしたのは、ドメーヌ・ルフレーヴの白ワイン、二〇〇八年のもの。シトラスやリンゴ、白桃などの果物に、ローストしたナッツのような香りの混ざる、甘やかで芳醇な舌触り、恐ろしく上等なものだろう。一皿目がくるころには、はじめはほとんど前後不覚で、無邪気な一差のおしゃべりに耳を傾けていた。
「はじめて来たんですけどいいとこですね、ここ」
「ああ……」
「これ、茶色いタワーみたいなやつ、めっちゃうまいすよ。緑のタレにつけて……こっちはなんだ? 魚?」
 彼がフォークでつついているのはジャガイモのカルパッチョ、茶色いタワーは鰻とアンキモのミルフィーユ、ほかに、リンゴと大根のサラダ、グリーンマスタードのソルベ、カニとエビのジュレに大量のキャビア。二皿目にあわびのソテー、金箔やカラフルな小花の散ったカリフラワー。三皿目に、ジャガイモのピュレとケール、ブロッコリーロマネスコ。手長海老のラヴィオリ。セルフィーユ香るロワールのホワイトアスパラガス、モリーユ茸。ボタン海老のスープ。キャラメリゼされたブラック・コッド。カリフラワーのムースを完食して、ようやく、前菜が終了する。
「やっと肉ですよ!」
 金でオー・ソメットと箔押しされた黒い箱の中に、巨大な肉塊。それを、ボーイが二人がかりで取り分けてゆく。一差は理解していないのか、はたまた歯牙にも掛けていないのか、子供のように喜んでいるが、きちんとメニューに目を通したはじめにはわかる。あれは牛フィレ肉とフォアグラを抱き合わせたロッシーニである。もしこの場に純子がいたら、一差の頭を叩いて、このロッシーニがいかに上等な料理であるかということ、お子様プレートのテンションで適当に食すべき代物ではないのだということを滔々と語ったことだろうが、前菜ですでに押し切られてしまったはじめにはその元気が残されていない。ワインを舐めつつ、付け合わせのポテトを齧ってなんとか凡庸な胃腸をやり過ごすしかない。と、ボーイの去り際に、一差が次のワインをオーダーした。漆黒のボトルに真っ白なエチケット、ラ・トゥール、一九九四年のもの。ボルドーワインの中でも第一級にランクインする、世界屈指のシャトーである。
「か、鏑木、大丈夫か?」
「ん? 大丈夫すよ、今日は魔法のカードを持ってきたので!」
 カード出せばなんでも買えるんです、すごいですよね、嬉々として語る彼の手綱を握る名もしれぬマネージャーに、深く同情するはじめであった。

 デザートワゴンに追い詰められ、ミニャルディーズにノックアウトされて、へとへとのはじめが店の外に出たころには、すでに十六時になっていた。訳がわからなかった。ただ、ちょっとそこ行きましょう、で提供されるランチのクオリティ、量、価格ではないことだけが確実だった。一差は宣言通りに〈魔法のカード〉で一括支払いを済ませ、はじめを伴って外に待たせておいたメルセデスに再び乗り込んだ。
「青八木大丈夫すか? 食あたり?」
「いや……」下町の屋台食じゃあるまいしと、呆れ返りながらシートベルトを装着する。「まさか、こんな食事を、おまえとすることになるとはと驚いていたんだ」
 車は一度湾岸に出てから有料道に入り、スカルノハッタ国際空港第二ターミナルを目指す。彼の、バイヨンヌ行きのフライトは十八時半発、少なくとも十七時にはチェックインを済ませなければならない。
「パスポートは持ったか? チケットは? 忘れ物はないか?」
「大丈夫です、オレ、もう大人なので! 忘れ物とかしません! ……あ。青八木さん」
「ん?」
 カーステレオからはいつのまに、古いアメリカのラブバラードがしめやかに流れている。ジャワ海は夕暮れの斜めの光線を受けて、オレンジ色の鏡のように光っている。
 鼻先同士が触れ合うほどの至近距離で、一差の円な琥珀色の目が、はじめをじっと覗き込んでいる。大きな手が、不意に首の後ろへ伸びたので、ひととき、はじめは呼吸を忘れる。ざらついた指の腹が、頸の、薄い皮膚に触れ、喉に抜けた無防備な声をすんでのところで押し留める。一差は何も言わない。指は首から背へと下降し、露出した部分を探るような動きをしてから、ミニドレスの、背中のファスナーを、……力いっぱいに持ち上げた。
「青八木さんこそ、後ろのチャックちゃんと閉まってなかったですよ!」
「……、……!」
「もう大人でしょ、しっかりしてください!」
 まるきり子供の仕草で、一差が胸を張って威張った。あまりのことにはじめは二の句がつげない。このバカ、と鼻先を小突くことだってできたのに、しばしの間身動きを取ることができずにいた。車がちょうどゲートに到着したからよかったようなものの、そうでなければ何か決定的な、取り返しのつかないことが起こりうるシチュエーションだったかもしれないと思った。
 スカルノハッタ国際空港は、いつかはじめが降り立った時のものとは、全く違う建物のように思われた。巨大な全面ガラス張りの壁から差し込む西陽で、幾何学模様の印象的な天井も、よく磨かれた石の床も深いオレンジ色の中に沈んでいる。ゲートから出発ロビーまで一緒に荷物を運んでやった。ガードマンが二人並び立つ保安検査場の前で、チェックインを済ませた彼を見送ることにした。
「じゃ、オレ行くんで。今日はあざした! また日本で会いましょっ」
 そう言って、彼はあっさり背を向けてしまう。はじめは俯いて、ヒールの先を眺めながら言葉を探した。何か言わなくてはならないのに、言うべきことがわからないのだった。もし……彼が、
「待て!」
 もし彼が……青八木さん、好きです、オレについてきてください、と言ったら、
「何か、わたしに言いたいことがあるんじゃないのか」
 自分はついていくかもしれないと思い、その恐ろしい空想に怯えた。そして今、薄暮の中ではじめは、彼の背中を見送りながらその確信を強めていた。なぜ呼び止めてしまったのだろう。自分は、純子を愛しているのに。
「ないです」
 項垂れるはじめの頭上に、歌うように、一差の声が降ってくる。
「青八木さん、元気なかったんで。励ましたかっただけです。すみません、手嶋さんたいへんなのに、オレ……オレは……」
「……鏑木、おまえ」
「ちょっとまずいかなって思う瞬間もありましたけど。手嶋さんと青八木さんが仲良いの、オレ、いつも嬉しかったんで、これからもそうでいてください」
 無骨な親指が優しく唇をなぞってから、離れた。
「ありがとう」目を細めて微笑する。「青八木さんのおかげで楽しかったです」
 保安検査場の前で、はじめは一人取り残された。
 自分は前に進めるだろうか? 考える。あの陰気臭くじめついた病棟で、純子を眠らせているのは、医師でも鎮静剤でもなく、はじめ自身だ。はじめが、彼女から目を逸らしたくて、寒々とした白昼夢の世界に彼女を押し込め続けていた。今なら、純子の思いに、真っ直ぐに向き合うことができるだろうか? 不安と恐怖の中から彼女を引き摺り出すことができるだろうか? いつもの、攪拌、悪寒を伴う吐き気のようなものがやってきてはじめの全身をかきむしるが、もはや深い思惟の中に潜り込んだ彼女には預かりしれぬことだった。金色の余光の中で、ただひたすらに、考えていた。
 ……保安検査場前を警備していたガードマンの一人が、男を見送ってから三十分近く、同じ姿勢で立ち尽くすミニドレスの女を不審に思って近づいた。彼が女の肩に触れ、もしもし、大丈夫ですか、と声をかけるやいなや、その身体は吊っていた糸を切られた人形さながらに、その場に崩れ落ちた。抱き止めた腕の中で、細い首がかくんと曲がる。額に触る。ひどい熱だ。女は立ったまま、もう十五分も前に気を失っていたのだ。

 いつか、純子が、鏡に映る自分を見て、ひどく取り乱したことがあった。
 雨季の頃だったかもしれない。湿気が強くいうことを聞かない髪を持て余して、朝から彼女は、櫛とヘアオイルを両手に難儀そうな顔つきで鏡の前に立っていた。背の大きく開いたシアーシャツを着ていて、はじめは裸のままベッドに寝そべりながら、作り物のように細く美しい彼女の背中やウエストをぼんやりながめていた。しばらく、窓から吹き込む風の音や、彼女が髪をいじくり回しながらぶつぶつと唇に蓄えた独り言なんかを聞いていたが、不意に、櫛がタイル床に激しく音を立てて叩きつけられたので、はじめはきゅうりを見せられた猫のように飛び上がった。
「誰?」
 褪色した唇を振るわせて、彼女は鏡の中の自分を食い入るように見つめていた。「この人だれ?」
「純子?」
「あたし……あたしの顔じゃない、この人は誰? どうしてあたしと同じ動きをするの?」
 彼女が髪を摘めば、鏡の中の彼女も自分の髪を摘む。肩をすくめれば同様の動きが返ってくる。そのようなことを繰り返しながら、彼女の顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。不意に、激しく歯を鳴らし嗚咽したかと思うと、背を弓形にそらし、膝を折ってその場に崩れ落ちた。純子の錯乱は、大して珍しいことでもなかったが、このパターンは初めてだった。
「どうしたの。鏡の中に知らない人がいるの?」
 はじめの腕の中で浅く呼吸しながら、生理的な涙で濡れた目で純子は頷いた。「そうよ、さっきまで自分の顔が映っていたのに、突然知らない人になっちゃったの」
「純子、大丈夫、わたしには本当の純子が見えてる」
「ほんとうのあたしってどこ? どんな顔なの? 年齢はいくつで身長はどれくらい? 性格ってどんなふう? あたしははじめの何? どこから来てどこに行こうとしているの?」
 迷子になった子どものように怯える純子のために、彼女の絵を、はじめが描いてあげることにした。
 窓辺のデスクに腰掛ける裸の彼女を、ベッドに膝を立てて座り、スケッチブックを抱え込むような姿勢になって描いた。時刻は正午過ぎ、向かいのモスクのスピーカーからアザーンが流れ出し、家々から信者たちがぞろぞろと集まってくるころだった。薄い曇り雲に濾されてやわらかくなった白昼の光が、彼女の華奢な骨格、角ばった関節や鶴のようにしなやかな手腕、小ぶりで慎ましい乳房、くるくると渦を巻きながら肩口へ落ちてゆく濡羽色の髪などを、部屋の薄闇の中へ白く浮かび上がらせていた。その、白痴と思われるほど無抵抗で、運命的に美しい肉体を、鉛筆と水彩絵の具とで描いた。彼女は一時間あまり、言葉もなくはじめを待っていた。
 はじめが満足してスケッチブックを頭上に掲げ見るころには、純子の錯乱は恐れをなし、薄い腹の中へと逃げ帰ってしまったあとだったが、彼女はこの上なく嬉しそうに、見せてよ、はじめ、とデスクから身を乗り出した。はじめができたばかりの自作を見せてやるととても喜んだ。
「すごいわ、はじめ、あたしだけど、あたしじゃないみたい。ちょっと綺麗すぎるくらい」
「純子は、わたしの神さまだから」
「はじめはいつも大袈裟ね、ばか」
「……思い出した?」
「うん……ごめんね。もう平気。ねえ、この絵、あたしにちょうだいよ」
 首を縦に振って了承すると、「ありがとう」、見開きのスケッチブックを胸に抱き締め、いっぺんの曇りもなく微笑する純子だった。
「いつか道に迷ったとき、この絵を見て、きっと行き先を思い出すわ」
 純子はスケッチブックから自分の絵をちぎり取ると、額に入れて、しばらく部屋に飾っていた。以降、彼女が鏡を見て取り乱すことは二度となかった。

 チャンギ国際空港第二ターミナルを出るや否や、黒服のバトラー二人に迎えられ、黒いクライスラー・リムジンの上等なシートに腰掛けるよう促されたとき、はじめは自らの浅慮であることを心底後悔していた。
 住む世界が違う、というのが、率直な感想だった。クライスラーシンガポール海峡を左手に湾岸線を十キロほど走り、アート・サイエンス・ミュージアムをすぎて、かの有名なマリーナベイ・サンズホテルの敷地へと滑り込んだ。近未来風の青い照明がソフィスティケートな雰囲気を演出するロータリー、大粒のクリスタルが上から下へ滝のように流れる巨大なシャンデリアのロビーで、バトラー二人に挟まれ萎縮する東アジア人の女はひどく注目された。はじめは、いつものロゴTシャツにショートパンツ、履き古したスニーカー姿で、途方もなく場違いな格好と言っても良かったが、それが返ってアッパークラスの住民たちの興味をそそるということらしかった。
 専用のエレベーターに乗せられ、数十階分を一息に上がる。かき氷を食べたときみたいに耳がきんと痛む。五十四階、ザ・プレジデンシャル、普通に生きていたらまず目にかかれない最高級のスイートルームに、エレベーターは程なくして到着した。幾重もの波形の美しいシャンデリアにウォールナットの壁、金糸の織り込まれたカーペットの廊下を進むと、急に視界がひらけた。人間が使うには、あまりにも広大すぎるリビングルームだ。座り切れないほどのソファや椅子、溢れんばかりの花が飾られたホワイトオニキス製ダイニングテーブル、右手奥にはサムスンの八五インチテレビ、左手奥には白い花の描かれた金屏風にグランドピアノ、背後には趣味の良いモダンなミニバー、何より、眼前に広がるシンガポールの見事な夜景! 湾曲するマリーナの向こうで、競い合うようにして伸び上がったビル群が、赤や青やゴールドの照明でライトアップされている。都会の夜景はジャカルタで見慣れていると思っていたが、それではとても比較にならない、本物の、贅を尽くした都会といった趣だ。
「言っておくけど、俺の趣味じゃないからな」
 心外だとばかりの口ぶりでそう言うのは、部屋付きのゴルフシュミレーターで、今しがたホールインワンを出した公貴だ。
「違うのか」
「違うに決まってるだろ。出張が決まったとき、会社の方から割り当ててきたんだ。どうせほとんど不在にするんだし、寝られれば良いと言ったんだが……余計な金が有り余ってるんだろうな」
 テーラーメイド製のゴルフクラブを人工芝の上でくるくると弄びながら彼は、シングルソファに居心地悪く座るはじめを振り返った。何も変わっていない。人好きのする柔和な笑顔。見上げると首が痛くなるほどの長身、がっしりと重たい筋肉を乗せた強肩、短く刈り込んだ黒髪に角ばった顔、特徴的な黒縁眼鏡。いや、最後に会ったときから七年、また少し背が伸びたかもしれない。エックスエルサイズのポロシャツが二の腕で窮屈そうに張っている。後ろ髪を触る無骨な手指に繊細なシルバーリングがきらめく。
「久しぶり、はじめ」
 クラブを置いた彼と、七年ぶりの抱擁を交わす。
「元気にしてたか」
「ああ、公貴も」
「悪くないよ。毎年人間ドック受けてるけど成績良いし」
「にんげんドッグ?」
 公貴が、インドネシアの隣国であるシンガポールに長期滞在しているということを知ったのは、本当に偶然だった。純子が倒れたとき、救急車を呼ぼうと思ったのだが、はじめは緊急連絡先を知らないどころか電話番号すら持っていなかった。焦燥し、何を思ったか純子の携帯電話を取って、彼女の発信履歴のいちばん上にリコールしたところ、公貴の細君を名乗る女性に繋がった。彼女の手引きで、はじめは無事救急車を呼び、純子は病棟へと入院することができたのだった。
「その節は、どうもありがとうございました」
「いいんですよ、どうかそんなに畏まらないで」いかにも繊細そうな白い手が、ルザーン製のソーサーにティーカップ、銀のスプーンをはじめの前に音もなく置き、ポットからハーブティーを注いでくれる。「はちみつはご入用?」
「えと……結構です」
「ミルクは?」
「……おねがいします」
 細君は承知したとばかりにたおやかな微笑を見せ、可愛らしいミルクピッチャーから少量を注いでくれた。ペリドット色の水面にミルクが混ざってマーブル模様になり、やがて落ち着いた。彼女がティーセットを盆に乗せてリビングルームを離れると、公貴と二人きり、奇妙な沈黙が室内に充満した。よるべなく、ハーバルミルクティーで唇を濡らす。おいしい。カモミールのフローラルな香りに、ミルクの優しい舌触りがよく似合う。
「こんど、はちみつ入りも試してみろ。なかなか悪くないぞ」
「……公貴もこういうの飲むんだな」
「彼女の悪阻がひどかったときは、コーヒーの匂いも禁物だったからな」
 彼がティーカップをソーサーに戻す。カチリと小さな音が弾けた。
「どうなんだ、最近、純子のやつは」
「連絡取ってたんじゃなかったの?」
「二ヶ月ほど前まではな。ちょっとしたことで言い争いになって、それきりなんだ」
「純子は……」辿々しいはじめの言葉を、公貴は、遮ることなく聞いてくれる。「……ずっと不安定だったんだけど、わたしはそれに気づかなかった。たぶん、わたしのせいで……幻覚を見たり、すごく気分が昂るのと、すごく沈むのを繰り返したりして……このあいだすごく大きな発作を……起こして、それからずっと病院にいる」
「通院していたんだろう、かかりつけの医者はなんて言ってる」
 イスラム教信者の医師の話はとりとめのないものばかりだ。精神的な問題は、神の意思に反する行動をとってきたことへの警鐘であり、イスラム教に帰依するか、このまま狭い部屋に縛り付けておいて外に逃げられないようにするか、選択肢は二つにひとつしかない、といったような内容だったが、はじめの中ではとても咀嚼しきれないのだった。
「どうすれば良いか、考えているんだが、正解が出ない」
「帰国して、然るべき高度医療を受けさせるというのはどうだ」
「考えなかったわけじゃないけど……いちどは状況が改善しても、最終的に、純子にとってもわたしにとっても、良い結果にはならないと思う……いや、たぶん、わたしにできることは一つなんだ。でもそれが、純子にとっての正解となるかどうか、わからないから踏み出せない」
「なあ、はじめ、俺にまだ話していないことがあるだろう」
 不意に、精悍な顔から笑みを消して彼が告げたので、はじめはひととき、継ぐ言葉を失った。
「今回はそのために、わざわざ飛行機を取って来てるんじゃないのか」
 彼の眼鏡の薄いガラスが、ランプシェードのオレンジ色の光を帯びて硬質な光を放つ。細い目が、おまえが何を言っても俺にはその真偽がわかるんだぞ、とばかりに、厳粛に細められる。はじめは視線を膝下に落とし、いつのまにか空になったティーカップの縁を、なお舌で舐め続けた。カップを握りしめる両手の指がソワソワと落ち着かなかった。
「……まあいいさ。明日の昼まではこっちにいるんだろう。その時までに話してくれよ」
 はじめさん、いらっしゃる? 細君がベッドルームからはじめを呼んだ。時間切れだ。

「女の子のお友だちとショッピングをするの、わたくし、夢だったんです。うれしいわ。どこから見ようかしら」
 ザ・ショップス・アット・マリーナベイ・サンズは、ホテル付けの巨大なショッピングモールで、ショップはほとんどがハイブランド、そればかりか中を運河が走っていてゴンドラが何台も周遊している。全面ガラス張りのドーム天井に取り付けられたダウンライトから、金色の光がまぶしく降り注ぐ中で、先行する彼女のフレアスカートが優雅に翻った。
「あの、でもわたし、あまりお金を……」
「お気になさらないで。あの人から、たくさんお小遣いをいただいているの。わたくし一人ではとても使いきれないから、お手伝いしてくださるとうれしいわ。純子さんにもお土産をひとつ、なんてどうかしら?」
 身体が弱く、家からほとんど出たことがないという公貴の細君が、一生のお願いまで使ってはじめに依頼したのは、このショッピングモールで一緒に買い物をすることだった。
「公貴とは、出かけたりしない……んですか」
「畏まらないでください。わたくし、はじめさんより二つも年下なんですからね。公貴さんは、お買い物に誘っても、目に入るものみんな買えばいいと勧めてくるんです、うんざりしちゃうでしょう。それに殿方だから、女性の繊細な好みのことなんかわかってもくれないのよ」
 典雅にも指をそろえて唇を覆い、目を細めておかしそうに笑う。
「妊娠がわかってからは、あの人が止めるから一人で出かけることもできなくて、退屈していました。あなたがきてくれると知ってわたくし、とても嬉しかったんですよ」
 純子の身体つきにも似て、細く、肉付きの乏しい彼女だが、現在公貴の第一子を妊娠しているのだという。事前に公貴から話は聞いていたし、そのための配慮を求められてもいたが、本人の口から事実を聞き、はじめは改めて驚く。タサキ、ディオールセリーヌバーバリーバレンシアガ、名だたる高級ブランド店を通り過ぎたり、のぞいたりしながら、少女たちは他愛のないおしゃべりに耽る。
「公貴は、あまりにものに興味がないみたいだから、しかたない。デートに誘うなら、ロードレース……の大会がいいと思う」
「素敵。たしかお三方は、自転車競技の部活で一緒だったんですよね」
「そう……公貴はいつもああいう感じだけど、ロードに乗ると、人が変わったみたいになることがある。こう、チーターがウサギを捕食するみたいな感じで……面白い」
「本当ですか? 信じられないわ。わたくしまだ、優しい公貴さんしか見たことないんですもの」
 ジミーチュウの、ガラス張りのブティックの前を通りがかった時、プレゼントボックスを模したディスプレイ台の上に、ちょんと置かれていたサテン・パンプス、ポインテッドトゥと一〇〇ミリヒールにメタルとクリスタルのスタースタッズをあしらったものを見つけた彼女が、即座に反応した。純子さんて、ヒールは履かれるの? 質問の真意を掴めないままはじめが頷くと、続いて、サイズは? と訊いた。
「二十五センチ」
「ちょうど良いわ、これにしましょう。おそろいのトートバッグもひとつ」
 唖然とするはじめを取り残したまま彼女は、現地人のファッションアドバイザーに英語で話しかけ、ディスプレイされていた例のパンプスと、奥のガラス棚に飾られていた水色のレザーのトートバッグを指差した。計算機で店員が明示した金額にほとんど目もくれないまま、子どもがトレーディングカードを交換するみたいなきやすさで、財布から金のクレジットカードを出してよこした。商品はすぐさまコットンバッグに包まれ、サテンのリボンをかけられ、分厚い灰色のショッパーに入れられて彼女に手渡される。
「絶対に、純子さんに似合うと思うの。ほら、あの方、脚がとても綺麗なんでしょう?」
 会ったこともない純子へのプレゼントを、嬉しそうにはじめに手渡してくる。ほとんど茫然自失で礼を言いながら、住む世界が違うと、つくづくと反芻するはじめであった。
 彼女は続けて、ラルフローレンで公貴のためのサマーセーターをオーダーし、はじめにも何か買うよう勧めたが、結局何も購入せずにショッピングは終了した。夕食には若干遅かろうとも思われたが、彼女もまだ食事をしていないとのことだったので、帰りがけにフードコートへ立ち寄ることにした。シンガポールをはじめとする、アジア各国の名物料理の店が一堂に会し、濃い調味料の匂いがコート外にまで漂っていた。
 はじめはここにきて、チクチクと、あるいはむかむかと、例の不愉快な予兆が腹に湧いてくるのを感じていた。果たして、コート内に入るや否や強い匂いが鼻腔から気管へともぐり込み、空っぽの胃を散々にかき混ぜて、はじめは耐えきれずその場にうずくまった。鳩尾のあたりを強く圧迫されている。頭痛と、耳鳴りが、かわりばんこにやってくる。彼女ははじめの異変に気づくと、特に焦る様子もなく、薄手のシルクショールをはじめの肩にかけ、優しく背中をさすってくれた。
「何かご病気?」
 首を振る。
「では、やはり。そんな気はしていたの。今回シンガポールにいらしたのも、このことを公貴さんに伝えたかったからなんでしょう?」
 頷く。顎を引いた拍子に、眼球を厚く覆いはじめていた涙が滴り、顎の柔らかいところを流れた。
「……あなたと公貴を傷つけてしまう」
「いやだわ、わたくしたち、そんなやわじゃありませんよ。一番つらかったのは、たったひとりでここまできたあなたのほうでしょう」
「…………純子……」
 しゃがみ込んだまま、たおやかな腕に肩を抱かれる。ショールを胸に抱き寄せると、知らない香水の匂いが立ち上り、それにもはじめはむせ返ってしまう。純子に会いたい。本当は純子に抱かれていたかった。全身が震えて止まらなかった。

 ホワイトグースの羽毛を贅沢に使ったマットレストッパー、カシミヤの手触り心地よい布団の中で、意識は快く浮上した。
 寸刻、放心していた。身動きを取ることすら億劫だ。いま、自分はシンガポールにいて、この部屋は公貴が宿泊しているホテルの、おそらくセカンドベッドルームにいる、という事実を確認するまでにも、かなりの時間を要した。緩慢に視線を投げかけた天井をぼんやりと、間接照明の光が覆う。左右の、アールデコのウォールランプは、眠るはじめに配慮してかどちらも消灯されている。まだ深夜か。それほど時間は経過していない様子だった。
 公貴は、ベッドサイドのカウチに腰掛け、古いロシア文学を読んでいたが、はじめが目を覚ましたことを知ると、文庫をサイドテーブルに置いて立ち上がった。
「気分はどうだ」
「……さっきよりは、良い」
 やっとの思いで捻り出した声は、低く、かさついていた。
「水飲むか?」
 はい、とも、いいえとも返事をしなかったが、公貴は水差しからグラスに注いだミネラルウォーターを、慎重な手つきでよこしてきた。ひどく喉が渇いていたためか、一息で三分の一ほど飲み干してしまう。唇から漏れたぶんが胸元を濡らし、はじめは、自分が白のシルクのネグリジェに着替えさせられているのに気がついた。
「すまん、ひどく汗をかいていたから、妻に着替えさせたんだ」
「いや……ありがとう」
「もとの服はランドリーに出した。明日の朝には戻るはずだ」
 公貴がそう言ったきり、二人は再び居心地の悪い沈黙の中へと追いやられた。
 飛行機がほど近くを通り過ぎる音がする。サイドテーブルには、重厚な玻璃の花瓶、雄蕊を取った立派な白百合が一抱えほど、華やかな香りが漂う。再び強い吐き気が襲ってきて、はじめは思わず手のひらで口元を押さえた。揃えた指に生暖かい液体が散った。無駄のない仕草で公貴が、タオルを手渡し、背中をさすってくれた。グラスに残った水を、今度は唇を湿らせる程度に含む。
「……妊娠したみたいなんだ。おまえの子どもを」
 放り出たのは言葉だけではなかった。激しく咳き込んだ拍子に、魂までもが、外へと彷徨い出てしまったような気がしていた。背中をさする手が止まるのを感じたが、はじめは俯いたまま公貴の顔を見ることができない。
「連絡があったときから、まあそういう話じゃないかとは思っていた。一応確認するが、俺とおまえは、昨日七年ごしに再会したばかりの親友同士だよな?」
「ああ、間違いない」
「とするならば、純子の手引きか」
「そうだ、純子が、おまえの精液を冷凍して保管していた。……おまえのものという確証があったわけじゃないが、その反応からして、わたしの仮説は間違っていないんだろう。それをこの間膣に流し込まれた。うちの冷蔵庫は性能の良いものじゃないし、保存状態も良くなかったから、まさかのことはないだろうと思って……それどころじゃなかったというのもあって、処置を怠った。いま、五週目だそうだ」
「あいつはそのことを?」
 唇を固くむすび、首を振る。「知るわけがない。ずっと眠っているんだ」
「そうか、あいつ、そういうことだったのか……なかなかどうしてやるじゃないか」
 視界の端で、冷や汗に濡れた彼の喉元が、かすかに引き攣れるのを見た。
「——公貴?」
 笑っている? 
「いやなに……すまん……そうだな、困ったな。俺は妻帯の身で、住む場所も遠く離れている。おまえが必要とする支援を一〇〇パーセント行うことは極めて難しい」
 はじめがようやく首をもたげ、仰ぎ見た顔に笑みの気配はない。当たり障りのない、生真面目で引き締まった顔つきで、彼は自らの顎を触った。
「わかってる。公貴にどうこうしてもらおうなんて思ってない。ただ、伝えておかないと、後々まずいことになるだろうと思っただけだ」
「もうすでにまずいことになってるんじゃないのか」
「……この子はわたしが育てる」
「無理だ。おまえにも純子にもその素養はない」
「わたしだってもう次の春には二十六になる。働いて自立もしている。立派な大人だ」
「そういうことじゃない。いいかよく聞け、内閣府の調査で、子どもをひとり育てるのに、二十年で四千万ほどかかるという試算が出ている。世帯年収でいえば八百万程度だ。日本円でだぞ。はじめ、おまえはこの七年、インドネシアで一体いくら稼いだんだ? 年収は? 純子と合わせてみてどうだ? 住む場所は? 今の狭いアパートに親子三人で暮らすつもりか? 教育は? おまえたちは二人とも高卒だ、子どもが大学に行きたいと言い出したらどうする?」
「で、でも」
「さらにいえば、この話はおまえたち二人が協力して立ち回れる状況下での話だ。だが、今の純子は、とてもじゃないが子育てに関われる状態じゃない。むしろマイナス要素になりうると言っていい。おまえは一人で、一年に八百万もの大金を稼ぎながら、純子と赤ん坊の面倒を見続けなければならない。簡単とか難しいとかいう話じゃない、無理なんだよはじめ、おまえに子どもを育てるのは無理だ」
「じゃあ! どうすればいいんだ!」
「簡単な話さ。純子と別れろ。それで、鏑木と結婚するんだ」
「は、…………純子と? 別れる……?」
 硬直するはじめを露ほども気にかけることのない様子で、公貴が淡々と続ける。
「俺が独り者ならもらってやれたが、現状では難しい。だが幸い鏑木はまだ独身だ。彼に会って話をしたんだろう。好きだと、言われたんじゃないのか?」
「そんな……」言葉が出ない。「……鏑木を、利用するみたいな……」
「結婚は、所詮利害の一致による契約関係にすぎない。鏑木はおまえに長年好意を抱いていて、おまえは財力に富んだパトロンを必要としている。言っておくが、あいつは半年で俺の年収の倍近く稼ぐぞ。ウィン・ウィンだろう」
「……できない……、わたしには、純子と別れることなんて……」
「他にも選択肢はある。今なら、妊娠を諦めることもできるし、認知の上で俺が引き取っても良い。よく考えて決断しろ。時間はまだ十分残されているからな」
 背中から、公貴の手のひらの重みがふっと離れていく。彼はサイドテーブルの固定電話脇に置かれていた、ホテルのロゴの入ったメモ用紙を一枚切り取って、ボールペンで何か書き付けたのをはじめによこした。〇六からはじまり、以後二桁ずつ区切って表記された数字はフランス式の携帯電話番号だ。
 まあ、今夜はゆっくり休め、それだけ言い残して、彼ははじめのそばを離れた。その背中を呆然と見送るはじめだったが、おもむろに身体を捻り、固定電話へと重たい腕を伸ばした。青い筆跡をなぞる爪先がひどく凍えていた。国コード、三十三からダイヤルを押し込み、受話器をとる。明るく快活な声が応答するのに三コールもかからない。
「もしもし……わたしだ、青八木一。いま何してる? ……いや、公貴が、おまえの番号を教えてくれたから、ためしにかけてみただけ。それだけ……ほんとうにそれだけなんだ……」

 一日分の下着に生活必需品、チョコレートのかかったスナックピーナッツ、パスポートだけが入ったリュックサックと、ジミーチュウの巨大なショッパーを両腕に抱えたまま、後部座席の窓に額を押し付けていた。スカルノハッタ国際空港を出てからもう三十分近くそうしていた。中央ジャカルタに向かう大通りはひどく混雑し、自家用車やトラック、バスにアンコタ、オートバイなどが押し合いへし合いしている。各々が無遠慮に吐き出す排気ガスのために一時的に空気が澱み、道の向こうは白く霞んでよく見えない。一日と十二時間ぶりに眺めるジャカルタの街並みは、手垢に塗れた、猥雑なもののように、はじめには思われた。道路脇に植えられたプルメリアの灌木、白い花が茶色くなって枯れていた。
「あの人にいじめられたのね」
 マリーナベイ・サンズを出てからシンガポールを出国するまで、身重のはじめを慮って、公貴の細君が付き添ってくれていた。よほどひどい顔をしていたのだろう、クライスラーの無駄に広い車内で、並んで腰掛けていたとき彼女はそのようなことを言った。
「顔色が悪いわ。それに、この一日で少しやつれたみたい」
 木綿のハンカチで、冷や汗に濡れた首を優しく拭われる。穏やかで理知的な目が、はじめを慈しみ深く、見ていた。
「あの人の言うことを、間に受けてはいけませんよ。ほら、理にかなっているということが、かならずしも正解とは限らないでしょう? あの人がどう言おうとも、あなたの人生はあなたが選択するべきだわ」
「……公貴の言うことは正しい。わたしにも純子にも、子どもを育てるだけの能力はない。何か手を打つか、全てを諦めるかしなければ、わたしたちに未来はない」
「一人きりの腕の中に、たくさんのものを抱え込んでいるのですね。でも、ねえ、はじめさん、ひとつひとつ向き合わなければ、見えるものも見えないことだってありますよ。時間が必要です。純子さんと、会っておはなしなさい」
「純子と……」
「バリに行くのがいいと、以前、彼女に提案したことがあります。あなたにも同じことを思うわ。二人で旅行でもしたらどう。そうね、新しくてかっこいい車をレンタルして、ジャカルタから東へ、何日かかけてドライブするの。バリ本島へは、パニュワンギの街からフェリーが出ていますから、そこで車を降りて、二人で海を渡るのよ。素敵でしょう?」
 白昼夢の中で、彼女の上品な笑い声が、しばらく、寄せては返す波のように響いていた。タクシーが道路脇で停止する、そのブレーキ音で、はじめはふいに現実へと揺り戻される。メーターを止めた運転手に十万ルピア札を支払い、お釣り代わりのキャンディを受け取って、後部座席から外に出る。雨季特有の重く湿った風が、長く伸びた前髪をくすぐる。三角柱形の、青いガラス張りのビル、まるでホテルのエントランスのような、立派な正面玄関からロビーへと立ち入る。受付で在留カードを見せ、七階A病棟、ジュンコ・テシマとの面会希望の旨を伝えると、受付嬢がそっけない手つきで面会許可証を手渡してくる。エスカレーターから一度二階に上がり、すぐ右手側のエレベーターに乗り込んで七階のボタンを押す。つかのまの浮遊感。
 ほとんど一週間ぶりに、はじめは、この薄暗く陰気臭い精神科病棟に戻ってきた。いつものように、ナースステーション右の通路に入り、よく磨かれたリノリウム床を踏み締めて、純子の眠る病室をめざした。スニーカーの足は、いつしか走り出していた。患者の独り言、叫び声、心理療法師が患者を落ち着かせようと語る声、拳で壁をしきりに叩く音、神経質にカチャカチャと金具を鳴らす音、監視装置のピープ音、みな意識の外にあった。果たして、純子は覚醒状態にあった。まるで示し合わせたかのようなタイミングだ。看護師が、投与を終えた輸液バッグをとり外し、新しい鎮静剤を投与しようとする、まさにそのときだった。
「純子!」
 リュックもショッパーも床へ放り出し、半ば押しのけるようにして看護師の脇を抜け、投げ出した腕を漫然と眺めていた純子の身体を、思い切り抱きしめた。全身の肉という肉が落ち切って、干物のようになった身体からは、それでも快いふくよかな香りがした。
「…………はじめ?」
「純子、純子、純子!」
「どうしたの、はじめ? 何があったの?」
 ジャワ訛りのインドネシア語で、太った女看護師が何か言ったが、構わなかった。薄い肩に額を押し付けて擦り、ふたたび顔を上げて、状況を飲み込めない様子でぱちぱちと瞬きを繰り返す純子の顔を見た。
「純子、おはよう。調子はどう?」
 伸び切って、額の辺りでくるくると渦巻いている黒髪を、耳の方へそっと避けてやる。
「え……ふつう、かな……? というか、あたし、なんでこんなところにいるんだっけ?」
「細かいことは気にしないで。ここを出よう。看護師さんラワット)、この人、今日付けで退院させてください。純子、シャワーを浴びて、着替えてきて。荷物はわたしが支度してくるから」
「ずいぶん急ね。どこか行きたいところでもあるの?」
「うん」
 カーテンを開けると、すがすがしい朝の光が、埃っぽい病室の隅々までを白く浮かび上がらせた。純子が眩しそうに目をすがめ、額の上に骨っぽい手のひらをかざした。
「わたしも、仕事辞めてきたから。旅に出よう。バリに行こう」

 純子が、半ば押し切るような形で退院の手続きをしているあいだ、一度コストの自室に戻って旅支度をする。
 部屋は、相変わらず埃っぽくじめついていたが、かんぬきを引き抜いて窓を開ければ、白昼の光とともに強い風が吹き入ってきて床の埃を舞い上がらせた。箪笥から、二人で着まわしている定番のTシャツ、大きくエクスクラメーションマークの入ったものから、やたら高額だったトミーヒルフィガーのもの、子猫が三匹団子になったイラストの入ったもの、いちごオレの描かれたもの、判読不能の中国語が大きくプリントされたもの、男の子が三人で線路の上を歩く写真入りのもの、青い蝶が全面に飛んでいるものなどを一度に出して、無難なものから順に三つほど畳んで右に避けておく。ショートパンツは三種類、デニムと、黒と白がそれぞれ一つずつ、それから薄手のワンピース、靴はいつものスニーカー、サンダルも二セット、下着類、純子はおしゃれなセットのもの、はじめにはユニクロのスポーツ下着、薄手の靴下、サングラス、生理用品に基礎化粧品。すでに床は物に溢れて足の踏み場もなかったが、おしゃれな純子を見たくて、ラインナップにクリスタルを散りばめたディオールのショートドレスと、ジミーチュウのパンプスも追加する。
 体重をかけてなんとかスーツケースに全てを収めたら、シャワーを浴び、軽く髪を拭きながら今日のスタイルについて検討する。腹や肩口にアイレット刺繍の入った、白いレースワンピース……胸が突っかかって、ウエストが太く見えるので却下。大きな花柄が散りばめられたオールオーバーのドレス……柄が古臭いので却下。Vネックやスリットから肌が大きく露出するタイプの、バタフライスリーブ・ワンピース……いささか大胆すぎないかと思わないわけでもなかったが、はじめが大胆であればあるほど純子も喜ぶのだということを思いだし、思い切った選択に踏み込んだ。青いボヘミアン風のパターンに合わせて、編み上げのサンダルに、つばの広い麦わら帽子を選んだ。鏡の前で一回転、胸を強調するような扇情的なポーズをとってみる。恥ずかしい。しばらく扉の前でウロウロしていたが、意を決して、スーツケースを片手に家を飛び出した。
 午前九時半、ホスピタルの正面玄関に現れた純子は、まずはじめの開放的なスタイルを見、続いて彼女の操る車を見て、拍子抜けしたみたいな、素っ頓狂な声をあげた。
「なにこれ!」
「借りた。これで、ジャワの東まで行くの」
 平たいカーブを描くボンネットに開放的なコンバーチブル、強い日差しにつやつやと光を帯びる赤いボディ、はじめがレンタルショップで借りてきたのは、往年の名車、マツダロードスターだった。
「借りたって、あんた、こんな良い車……」
「純子、前、オープンカー乗ってみたいって言ってたから」
「それは、そうだけど」
「荷物後ろに入れて、乗って。まず買い物に行く」
 口を半開きにしたまま、トランクに少量の荷物を詰め込む純子を傍目にはじめは、カーオーディオに入っていたプレイリストを適当に再生した。インドネシアでも、日本でもない、どこか異国のラブソングをハスキーな女の声が歌った。ジャカルタから隣島にあたるバリ島まで、一二〇〇キロ、目的地以外さだかでない、およそ正気とは思えぬ旅だが、はじめにはなぜだか不可能ではないという確信があった。ここからひたすら東へと向かい、五百キロほどで中部ジャワ、スマランという街に到着する。そこからしばらく南下、緩やかな山道に入り、いつか二人で行ったボロブドゥールにほど近い、スラカルタ町を経由、ふたたび東へ向かってスラバヤ、パニュワンギ、港からフェリーに乗れば、一時間もしないうちにバリへと上陸できる。ウブドゥ、クタ、最南のワルワトゥ、さらに東のロンボク島、どこへ行ったって良い。純子と一緒なのだから。
 インドマレットに立ち寄って、スナック菓子を大量に買い込んだ。朝食を食いっぱぐれたという純子には、アヤムゴレンが六ピースと、ストロベリーチョコレートのドーナツ、クロワッサン、それからバナナひと房が、はじめからプレゼントされた。
「あたし、こんなに食べられない」文句を言いながらも、ホスピタルでの点滴生活ですっかり小さくなってしまった胃に、一生懸命栄養を詰め込もうと頬を膨らませる彼女は可愛かった。
 買い物を終え、ふたたびジャカルタ市外に出て、テレコム・ランドマーク・タワー付近のジャンクションから有料道路に入った。青いセンサーにEマネーカードを触れさせると、電光掲示板に赤く、一万ルピアの表示が出て、左右のゲートが上に跳ね上がった。思いのままにスピードを上げる。時速六十キロを超え、二人の長い髪は風の中に鳥の羽のように舞い上がる。
「だんだん、思い出してきた。あたし、暴れたのよ、あんたの前で……」
 フロントドアの淵に腕をかけ、バナナを齧りながら、ぎこちなく硬質な声で純子がポツリと言った。「ひどいこと言ったわね」
「いい。気にしてない」
「うそつき」
「……本当は、ちょっと気にしてるけど、でも純子のこと、わたしが一番よく知ってるから。わたしがわからないことは、純子にだってわからなくて仕方がないと思う」
「あんたのこと、愛してないって言ったのよ?」
 黒曜石色の美しい巻毛が耳横から流れて、純子の物憂げな顔、マリアのような目顔の形や、ビーナスのような伏目を隠した。リップを塗った赤い唇ばかりが、やりにくそうに言葉を紡ぐ。
「愛してるかどうかはわからないけど、大好きでしょ、純子、わたしのこと」
「どうしてそう思うの」
「エッチのとき、純子、いつもわたしのこと大好きって言うから」
「ああ……そういうこと……」
「それに、純子たまに、はじめがいないと死んじゃう、どこにも行かないで、っていう目をするの。かわいくて好き。わたしには、友情と愛情の違いとか、好きと愛してるの違いとか、よくわからないから、それでいい」
 市街地を一般道と並走し、チャワング・インターチェンジを通過したあたりで、周囲の景色は一変する。棕櫚やパームラジャなどの樹木林、百日紅、赤い飾り屋根の村が点在する中に、要塞のような形の工場が散見される。周囲からオートバイがほとんどいなくなった代わりに、長距離輸送のためのトラックや石油を運ぶタンクローリー、観光バス、自家用車が増え、制限速度も一度に跳ね上がる。それ自体が、家一軒分ほどもある巨大な広告看板、群がる子供達の写真に、英語で〈未来のために〉との付記がなされ、貧困層の子供への寄付を呼びかけている。
「あたしのこと、簡単に許せちゃうのね」
「許す、許さないの話じゃない。ぜんぶ純子が好きだからだよ」
「はじめは、あたしのことまだ愛してるの?」
「もちろん。純子、愛してる」
「取り返しのつかないことをしたと思ってるわ。処女のあんたを、無理やり男に抱かせたり、ひどい言葉を浴びせたりした。あたしがあんた以外の男と関係を持っていたことだって、もう知ってるでしょうね。それでもあんたの、あたしへの気持ちは変わらないの」
「うん」
「あんたってバカね」流れる髪の向こうで、寂しく眇めた目が瞬く。「いつか痛い目を見るわ、きっとそうよ……」
 金のドームを三つ戴いた、立派なドームの左横を時速百キロで通過する。二人のロードスターは今、ジャカルタ市街を出、西ジャワ州へと突入した。

 ヤシばたけを背景に広がる緑の棚田、静かに泥をたたえた沼、そこで腰を屈めて米を収穫する人々、枝を抱えて、畦道の悪路をバイクで走る人、たなびく白や黒の旗、インベーダーゲームのモンスターみたいな形の電信柱、オレンジの瓦葺きの小屋、風の形に靡いた棕櫚、彼方に見える山嶺は浅い藤色に染まって美しい。乾いたコンクリートの高速道路は彼方まで続く。純子は、素足を横に組んで、腕をフロントドアにかけた姿勢でぼんやりと向こうを眺めている。
 足下のゴミ袋には、バーベキュー味のポテトチップスの空袋に、バナナの皮が五本分。空腹も、そろそろ誤魔化しきれなくなってきた。次のレストエリアに入る決意をしっかりと固めたはじめは、程なくして、左手脇にレストエリア・KM228Aの表示を発見した。KM228Aというのは、ジャカルタから約二二八キロの距離にある下り方面のレストエリアである、という意味だ。ウィンカーを出して左折し、簡易礼拝所や雑貨店、コーヒーショップ、インドマレット、レストランなどで、ちょっとした街のような様相をなすレストエリアの駐車スペースにロードスターを停めた。
「純子、昼ごはんにしよう」
 各々手洗いを済ませたあと(自動水洗式でもないのに、二人で一万ルピアも徴収された)、インドマレットのスナックコーナーをのぞいたり、レストランのメニューを眺めたりして、結局、新しくできたらしい小さな定食屋に入ることを決めた。客足もまばらな時間帯で、カウンターでは若い少年が一人、昼寝を決め込んでいたが、二人が入店するとうっすら目を開けて注文を聞いてきた。壁に掛けられたメニューには、数十種類の品目、その中の半分は具材を選べるセットメニューになっている。純子は、バクソと呼ばれる、牛肉のすり身のミートボールのスープと、付け合わせのミー)、はじめは揚げエビゴレンウダン)に白米、中華エビ煎餅クルプック)をオーダーし、ソファ席に向かい合って座った。
 明るい黄色の壁に、なぜか、葛飾北斎の作画〈神奈川沖浪裏〉が、大胆な筆致で模写されている。左上にはきちんと漢字の題字や署名までが書き写されている。少年が、ソスロのフルーツティーを二瓶、サービスだと言って出してくれた。
「気づいた? あの子、はじめのおっぱい見てたわよ」
「気にしすぎ」
「そういうはじめはもうちょっと頓着してよ。あんたが無防備なせいで、あたしがいつもどんな思いでいるか、わかって」
 注文した料理は、盆に乗って二人のところにすぐさま到着した。はじめの目の前で、可愛らしい赤い尻尾の出たエビの揚げ物が、ケチャップ・マニスに浸されてつやつやしていた。
「純子に、かわいいって思われたくて。でも気になるならもう着ない」
 尻尾をつまんで持ち上げた一尾を前歯でかじってみる。店の立地が海に近いからか、エビの方も臭みがなく、おいしい。
「すごくかわいい。はじめ、あんまりオシャレしないから、なおさらよ。でもそういうのはあたしと二人きりの時だけにして」
「かわいい? ほんと?」
「ほんと。そのワンピース、ベトナムにいたころに市場で買ったやつでしょ、そういうのは特にね、ぐっとくるものなの。だからこそ男には見せたくないのよ。あたしの言ってることわかる?」
「わかる」
 たしかに……純子が、真っ白な脚やうなじを露出させて、寄ってきた男に粉をかけられていたら、はじめもムッとしてしまうかもしれない。たとえそれが勘違い甚だしいことだったとしても。純子は器用にスプーンを使って、ミートボールと麺の両方を、まとめて口の中に放り込んだ。
「二人でちゃんとしたごはん食べるの、久しぶり」
「そもそも話すのが久しぶりよね。あたし、何週間あそこにいたの?」
「一ヶ月とちょっとくらい」
「はじめてじゃない? そんなに話さないでいたの……」
「そんなことない。大学行きはじめたころは、忙しくて、メールしかしてなかった気がする。それに、わたしは、寝てる純子にずっと話しかけてたから、あんまり実感ない」
「起こしてくれればよかったのに」
「医者が……いや、わたしが……純子と直接話す勇気がなくて。ごめん。もう少し早く迎えに行けばよかった」
「あたし、寝てるあいだ、あんたの夢を見てたのよ、たくさんね」クルプックを一つ、はじめの皿から浚いながら、純子、「成人式に行くか行かないかで揉めたの、覚えてる?」
「もちろん」
 純子二十歳、はじめはまだ十九歳だった冬、母校主催で成人式をするとの知らせが、公貴から純子にもたらされた。純子は行くのを散々渋ったが諭されて、結局一月初旬に格安航空のチケットを取っていた。しかし当日、スカルノハッタ国際空港に到着するその時になって突然、純子はタクシーの運転手に進路変更を命じ、二人が帰国することはなかった。
「はじめが珍しくヘソまげちゃって、あたし困ったのよね」
「ホテルのご馳走、食べたかったし……」
「あたしが作ってあげるって言ったじゃない」
「それとこれとは別」
「あのあと夜ご飯奢ってあげたし」
「屋台の……あそこのアヤム食べてお腹壊した」
「それは、はじめの店のチョイスがよくなかっただけじゃないの?」
 目の前でホテルのオードブルを取り上げられた挙句、腹を壊し、熱と悪寒に苛まれながらベッドで悶えるはじめのために、純子はバクソを作ってくれた。この店のものとは違って、ミートボールとスープに白米、パクチー、ライム、ニンニクや玉ねぎのチップなどが入っていて、熱っぽい身体にもやさしい味わいだったのを、今でもはっきりと思い出せる。
「懐かしいね」
 純子が微笑した。

 西ジャワから中部ジャワ州に入った。さとうきびやタロ芋の畑、バナナ農園、棚田なんかを後ろへと見送る二人に、夜の気配がたしかに迫ってきていた。有料道とは言っても、ジャカルタから離れれば離れるほど街路は少なくなり、道の状態も悪くなる。特にはじめのようなペーパードライバーにとって、夜間の運転は避けるに越したことはない。軽い渋滞に巻き込まれたということもあって、結局、KM391地点のレストエリアで車中泊をすることにした。
 インドマレットやレストランだけでなく、フードコート、スターバックスまで備えた大きなところで、簡易のモスクにはトラックドライバーや旅行中のイスラム教信者たちが大勢詰めかけて日没マグリブ)の礼拝を行なっていた。手洗いも、プレハブ個室のきれいなところだった。大して空腹でもなかったので、インドマレットでスイカやパイナップルのカットフルーツを購入し、スターバックスにも立ち寄ってグリーンティ・フラペチーノを二人で半分こした。アカシアの植林が、日没後の、コバルトブルーから濃いオレンジ色のグラデーションの空に、黒く影絵のようになっているのを、アルミのベンチに座って二人眺めた。
「いまどのあたり?」
 はじめの右手からパイナップルを齧り取りながら、純子が訊いてきた。
「パテボンの南。今日にはスマランにつきたかったけど、渋滞があったから……」
「そう……この格好だと、夜は少し冷えそうね」
 駐車スペースには他に、緑や青に塗装されたタンクローリー、オレンジのトラック、見覚えのある日本車が何台か、その他自家用車、巨大な観光バスなどが泊まっているが、礼拝中であるためか人の姿はまばらだ。小さな店舗などは店員がおらず、店ががら空きになっているところもある。
「日没を、ただ眺めるだけなんていつぶりかしら」
「うん……きれい。描いてみたい」
「持ってきたの、スケッチブック?」
「持ってきたけど車の中」
「ちょうどいいわ。はじめのこと、独り占めしてるみたいで、うれしい」
「ほんと?」
 純子の胸元に潜り込んで、至近距離でその目を覗き込んだ。彼女の瞳は不自然なくらいに澄んでいて、向こう側の世界、彼女の精神世界までがすけて見えそうなほどだった。ゆったりとした瞬きを二、三度繰り返した後、彼女ははじめにとびきり優しい笑顔をよこしてみせた。
「本当よ」
 はじめは、細い首に両腕をまわし、ほんの少しだけ目を閉じて、大好きな純子とキスをする。ほっぺに。鼻の頭に。そして唇に。はじめ、と呼ぶ声を、唇の中に閉じ込めてしまう。これまで幾度か身体を重ねたにもかかわらず、奇妙な感慨が込み上げて胸郭の内側を微震させた。すぐに頭の芯がぼうっとなって、身体ぜんたいの力がすっかり抜けてしまうみたいだった。
「純子、純子」
「仕方のない子、大好きよ」
「じゅんこ」
 下唇を、熱い舌でやさしく舐められるとたまらない気持ちになった。バターのように溶けて一つになりたい。
 夜は車中泊をすることになる。ロードスターのソフトトップを閉め、申し訳程度のリクライニングを倒して、毛布にくるまって眠る。純子は助手席で、膝を抱えて眠ろうとしていたが、その身体はかすかに震えていた。鎮静剤が切れたいま、身体が薬による強制的な睡眠を求めているのだろうと、はじめは勘づいた。「眠れないの?」
「違うの、寒いのよ……」
 膝に頬を乗せて彼女が笑おうとした。はじめは、狭い車内で身を屈めるようにしながら立ち、ワンピースの背中のファスナーを開けた。ぎょっとして目を見開く純子の前で肩からワンピースを落とし、続いて、胸を締め付けていたスポーツ用のブラジャーを外してしまう。純子が何か言おうとするのを、視線だけ抑えて、さいごに……迷ったが、結局、ショーツまで脱いだ。純子の命令がなくとも従順に剃毛してきた無毛の恥丘が、駐車スペースの無機質な照明に白く光を帯びた。
「純子も脱いで」
「なに、したいの?」
「違うよ、一緒に寝るだけ。裸で寝たほうがあったかいから」
 純子が顔を赤くしながらシャツの前を開けるのを見ていると、反射的に膣が濡れてくる。しかし今日、傷ついた純子とセックスをするつもりは、はじめにはなかった。
 助手席に座る純子の膝をまたぐようにして腰掛け、痩せた身体にしがみつく。骨が浮き出てごつごつと隆起する背中をさすり、純子の身体から余計な力が抜けてきたのをみて、首筋や肩などにたくさん唇を寄せる。毛布を二枚重ねたのにくるまる。狭い。純子が、はじめの胸元に頬を寄せて、やわらかくて、あったかい、夢見心地につぶやいた。はじめにも、純子の薄い皮膚から彼女の拍動を感じていた。彼女が眠るまではじめは、日本の古い子守唄を歌った。

 翌朝八時にレストエリアを出て、九時半ごろには中部ジャワ州の州都スマランに到着した。十九世紀、オランダの手でインドネシア最初の鉄道が整備されて以来、インドネシア最大の都市の一つとして機能する、古き好き大都市だ。住民も、ジャワ人、オランダ人、中国人、アラビア人と幅広く、それに応じて、異国情緒ある建築や、世界各国のレパートリー豊かな料理屋などが揃う。スマランのシンボルとされるラワン・セウ、東インド鉄道会社の旧オフィスは、赤いドーム屋根や白亜の壁面のまばゆいオランダ様式建築だし、タイルで細かく装飾された両開き扉の美しい大覚寺道教の寺院だ。ガソリンを給油するついでに中華街へと立ち寄り、ルンピアと呼ばれる春巻きのようなものを食べた。
 主に観光バスやオートバイによる渋滞に難儀しながらスマラン市街を抜け、郊外で再び有料道路に乗る。ここからしばらくは緩やかな山道になり、標高も少しずつ上がっていくため、寒がりの純子のためにソフトトップを締めておいた。小さな丘や渓谷をいくつも越え、山間の街サラティガで休憩を取ったりしながら、マルバブ山、ムラピ山といった火山を傍目に進んだ。まだ日の高いうちに、スラカルタ、通称ソロの街に到着した。日本で言えば京都のような立ち位置にある、小さいが歴史ある文化の街だ。マンクヌガラン王宮やカスナナン王宮をはじめとする史跡、郊外にはミステリアスな雰囲気が漂うスクー寺院、ジャワ原人が発見されたサンギラン博物館、南に降ればボロブドゥールがある。
 街には霧がたち込めていた。公共駐車場にロードスターを停め、二人は昼食のための定食屋を探すついでに、フルーツジュースの屋台で薄いスイカのジュースを飲んだり、できたばかりだというパラゴンモールでおやつを買い込んだり、バティックという、インドネシアの伝統的なろうけつ染めの職人が集まるカウマン地区を見学したりした。石作りの狭い工房で、壮年の男性が半裸になって、ろうをつけた銅板を型押しして布に模様をつけている。女性たちは呉座の上にあぐらをかき、子供の腰ほどの高さの木枠にかけた布に直接、手書きで、ろうを垂らして緻密な絵柄を描きこむ。純子が、手伝いをしているらしい若い女性の一団に、この子と、おそろいでワンピースを仕立てたくて、素敵な布を探しているんだけど、と声をかけた。彼女たちが奥から出してきた中に、真っ白なシルクに、ネイビーブルーとゴールドで尾長鶏や花を点描しているのがあって、純子はそれを七万ルピアで買い上げた。チップにも同じ額を出した。
 購入した生地を、地元の仕立て屋に押し込んで、ようやく、昼食を食いっぱぐれたことに気がついた二人だった。散々歩き回ったが、最終的には、マンクヌガラン王宮付近に立地する、オマ・シンテン・ヘリティッジホテルのレストランに落ち着いた。伝統的なオープンエアの木造建築、木目の美しいテーブルについて、牛テールスープソトブントゥット)やアヤムゴレンを食べた。めずらしく、メニューにビンタンビールがあったので追加で注文し、二人で乾杯した。運転できないことに後から気づいたが、それでも良かった。急ぎ行くような旅ではないのだ。時間はまだ十分残されている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)

 結局、ヘリティッジホテルの一番安い部屋で一晩過ごすことに決めた。昨夜の車中泊で、無理な姿勢を長時間維持し続けたために、二人して身体がガチガチだったからだ。
 ホテルは、かつてここ一帯を治めていた王国貴族の古い邸宅を改装して作られた、ジャワ建築の名残ゆかしいところだった。ジョグロと呼ばれる、ピラミッド型が特徴的なオレンジ色の屋根、ゆとりを持って組まれた梁や柱などの木材、古代日本建築にもよく見られる高床式構造と、熱帯のジャワ島においても快適に過ごせるよう知恵と工夫が凝らされている。二人が案内されたのは、ダブルベッドを一つ置いただけの簡素な二人部屋だったが、それ一つとっても、キルト生地のクッションやバティック柄の施されたヘッドボード、蝶や花が緻密に描かれたランプシェード、藍で染めたカーテンなど、細やかなこだわりと愛情を感じさせるつくりになっていた。
 整えられたベッドに純子が、勢いをつけてダイブした。決して頑丈ではなさそうなスプリングがぎしぎしいう。
「もうだめ歩けない……布団最高……」
 クッションに顔を埋めたままよくわからない唸り声を上げる。はじめも、几帳面にサンダルを脱いでそろえ、スーツケースを玄関脇に寄せて置くと、純子の上に折り重なるようにして横たわった。そのまま彼女の細い身体を思い切り抱きしめたかったが、胸が突っかかってうまくできない。そのうち腕を動かすのにも疲れてくる。しかたがないので、彼女の耳たぶを齧り、しゃぶりついて甘えた。
「はじめ、さてはだいぶ酔ってるでしょ」
「ん……ちょっと……飲みすぎたかも」
 しばらく夢中になって、純子の耳殻を味わい続けた。やわらかくて、ぬるくて、軟骨の部分だけが緩く反発してくるのが面白かった。頭にふわふわと奇妙な浮遊感があった。このままどこまでもいけそうな気がする。
「寝るの?」
「ねる」
「あたし今日はシャワー浴びたいから、ちょっと、はじめ、どいてよお」
「んふふ、じゅんこ」
 じゃれあうようにして転がって、ワンピースの上から身体を擦り付け合う。彼女の夜色の瞳が、ランプシェードの山吹色の光をたたえて、静かに潤んでいる。うっとりと、淡い口づけ。冷たい唇に酩酊するはじめの熱がすこしずつ移っていくのを感じる。舌の裏をくすぐられて腰が抜けそうになった。息が苦しくなり、今度ははじめの方が、純子の腕から逃げようとするが力が入らない。
 ふいに唇が離れ、二人は間近で顔を見合わせた。お互いの瞳に萌した性の気配を見とった瞬間、堰が切れたようにゲラゲラと笑いながら転げ回った。
「ちょっとお、ほんとに、もう全身汗まみれだから」
「汗まみれやだ、早くシャワー行って」
「あのね言っとくけど、あんただってそうなんだからね、この服いつから着てるのよ、早く脱ぎなさいよ」
「もうねむい、うごきたくない」
「ばか、寝るな、ほらあんたも行くの! 洗ったげるから!」
 剥ぎ取るみたいにしてお互いの服を脱がせ、タイルの床に放り出す。ブラジャーもショーツも、靴下も脱いで、足だけでひとまとめにして壁の方へ追いやる。シャワールームは、ガラスで仕切られた欧米式の小さなものだったが、絡まりあうようになりながら二人で入った。はじめが泡立ちの悪いシャンプーで純子の癖毛を泡立てている間、純子は屈んだ姿勢になり、ボディーソープで泡立てたスポンジで、はじめの腹から腰のくびれを撫でさすっていた。
「もうすっかり閉じてるね」
 繊細な指が、かすかに膨らみ始めた腹をなぞったので、ひととき、どきんと心臓が跳ねた。額に濡れた前髪を張り付かせた純子が、鶴のように首を伸ばしてはじめを見上げる。
「……何のこと?」
「前、あたし、あんたのお腹を切るのにハマってたことあるでしょ、覚えてない?」
 純子が、ペーパーナイフではじめの腹に傷を開き、滲んだ血を啜ることに執心していたことがあった。彼女がはじめに加虐することで性的興奮を覚えるたちであることは承知の上だったし、ほかにも言葉にすることすら憚られるようなプレイを享受してきた身であるから、いちいち気に留めてもいなかった。だが今思えば、
「すごく痛かった」
「それは、まあ、そうでしょうね。あたしもされたら嫌だもん」
「……じゃあなんでしたの」
「そうねえ」
 首を傾げ、昆虫が翅を畳むように、長いまつげを伏せる。
「もうすごく昔のことみたいな気分だわ。はじめがね、もうあたしの生きている世界のものじゃないんじゃないかって、いつも、怖かったのよ。あるでしょう、映画にも、大事にしていたものがいつの間にかすり替わっていて、本物はずっと遠ざかってしまっていた、みたいな話が。今だって怖いわ。はじめが消えてしまう前に、はやく溶け合って一つのものになりたい」
「わたしは消えないよ、純子」
 はじめの腹と無邪気に戯れる純子を、たまらない気持ちで見下ろした。
「そう、そうね……知ってるわ……おかしいわね、今は、あのときほど切羽詰まってはいないの。ふしぎと、そういう気分にもなれないのよ」
 それは、嵐の中の、束の間の晴れ間であるかもしれない。はじめが腹の中にしまった秘密は、きっと純子を傷つける。
 風呂上がり、柔らかいバスタオルの感触を堪能していると、サイドテーブルに置いてあった純子の携帯電話に着信があった。裸のまま浴室を出た彼女が、割れた液晶から発信者の名前を判読するのを諦めて応答するや否や、聞こえてきた声に思い切り顔を顰めた。
「だれ?」
「公貴。……何の用? あたし、あんたのこと着信拒否にしたつもりだったんだけど」
「まあそう言うな。そろそろ動いた頃だろうと思ってな。二人きりの旅行はどうだ?」
 バスの効いた低い声。スピーカー越しに、まるで二人のことを見ているかのような口ぶりで、公貴は言った。
「最高よ、はじめはかわいいし、ご飯はおいしいし。あんたからの電話がなかったらもっと良かったかも」
「純子、公貴と喧嘩したの」
「喧嘩っていうか……まあ、たいしたことない話よ。それで? いつもお忙しくていらっしゃる古賀公貴さんが、暇人チーム二人に一体何のご用?」
「なに、ただの近況確認さ。はじめ、身体の調子はどうだ。ちゃんと食ってるか。辛いことがあったらすぐ俺に言うんだぞ」
「…………ちょっと。なにそれ。どういうこと?」
「面倒な女につるまれた気の毒な同級生を労っているんだが、何か?」
「気持ち悪い。何のつもり? あんた、もしかして、はじめに粉かけてるわけ?」
「まさか。俺は妻帯者だぞ。冬には父親にもなる」
「あんたが生やさしいこと言ってると気味悪いのよ。もういい? あたしたちもう寝たいから」
「はじめ、花を選ぶのは」公貴はもったいぶって言葉を切った。「早ければ早い方が良い。花はいつか確実に、枯れるものだからな」
 彼が言い終わるより早く、呆れた様子の純子が、通信を切断した。彼女が携帯電話を置くと、室内の静けさはくっきりと輪郭を持って押し寄せてくる。はじめは、濡れた裸身にバスタオルを巻きつけたまま立ち尽くしていたが、純子の怪訝そうな視線を浴びてはじめて、自分の身体が末端から冷え始めていることに気がついた。
「変なの。はじめ、もう寝よ」
「うん……」
 バスタオルを軽く畳み、ソファの背もたれにかける。裸のままベッドに入ると、純子も嬉々としてタオルを脱ぎ、同じシーツの中に潜り込んできた。

 ひさしから、何かが滴る音で目が覚めた。
 覚醒してからもしばらくは、身体も頭もうまく動かず、シーツの中からただ窓の外を眺めていた。雨が降っているようだ。灰色に立ち込めた雨雲から、目に見えぬほど細かな雨がしとしとと地上に注がれていた。心なしか気温も低いように感じられる。隣にぴっとりと寄り添うようにして横たわる身体だけが温かい。
 純子は、骨ばった腕をはじめの腰に回し、胸に頬を押し付けるような格好で寝入っていた。無防備な寝顔が、年頃の少女のようにあどけなかった。額は瀬戸もののように白くすきとおり、頬は豊かな血色をたたえ、薄い唇は、盛りを迎えたばかりの薔薇の花びらが重なるような繊細さでかすかに開いて、その奥に整然と並んだ小さな前歯をのぞかせている。伏せた瞼は青い静脈を透かし、通常はっきりと利発に釣り上がっている黒い眉は、優しい夢を見ているのか、今はほのかに垂れている。窪んだ鎖骨、ささやかな乳房、外気に触れて僅かに兆した乳頭、しなやかな筋肉に包まれた腹部から太腿の張り、うっすらと陰毛に覆われた恥部。腰から脚にかけての優美な曲線。
 まだはっきりしない意識とは裏腹に、すっかり日照りの女の器官は、みるみるうちに熱と潤みを帯びてくる。たまらず、瞼を閉じて夢の続きを追いかけようと試みるも、内腿のあいだでこもる湿った空気に、言いようのない気持ちをかき立てられる一方である。感覚器官ばかりが尖っていく。純子が何か唸りながら頭を振り、彼女の癖毛が乳頭をくすぐったので、はからずも、食いしばった歯の間から頼りない吐息が彷徨いでる。
 純子に求めることは、できない。であるならばと、横たわったままの体制で自らの肉体を慰める。自由になる右手の人差し指で、すでに硬く勃起した陰核に、つとめて軽く触れた。微弱な電気が走るような快感。期待に腰が揺れるのを止められない。いよいよ思い切って包皮の上から指の腹を宛がい、小刻みに揺すりだすと、強い痺れが全身に広がり、神経系を酩酊させた。
「っ……」
 足りない。純子から与えられる、ほとんど虐待のような愛撫に比べたら、声を殺し片手だけで行う自慰など児戯にも等しい。彼女の熱い舌でやさしく弾かれたい。拳で強めに叩いてもらいたい。穴にも、指を入れて、爛れるほど引っ掻き回されたい。爪や歯で際限なく苛んでほしい。
「純子……じゅんこ……」
「うん、おはよ。はじめ」
 応える声は、妙に平板だった。……声? 焦燥し、状況を把握しようと見開いたはじめの目に、純子に悪戯っぽくウインクが飛び込んでくる。
「はじめが呼ぶから、目、覚めちゃった」
「あ……じ、純子」
「あたしがまだ寝てるのに、我慢できなかったのね」
 体中が燃えているみたいだ。居た堪れない。涙さえ滲んできた。
「はじめ、かわいい。大好きよ」
 彼女の親指が、いちばん敏感なところをかすめて、瞬間、シーツを蹴って裸の腰が激しくしなった。はじめは悲鳴を上げて起きあがろうとするが、どこにそんな力があるのか、片腕一本で難なく抑え込まれる。背中に腕を差し込まれ、がっちり固定されるやいなや、続けざまに両の指で陰核をつままれ、指先で器用にしごかれた。すぐに包皮も剥かれて、剥き出しになった神経核に爪を立てられると、許容量を超えた快感が意識さえ曖昧なものにする。
 痛い、気持ちいい。もっとしてほしい、やめないでほしい。目の裏がハレーションを起こしたみたいに白くなったり、プリズムを透かした時の虹色になったりする。太腿の皮膚を引き攣らせながらはじめはのけぞった。自分の身体なのにどこもかしこも制御不能だった。
「脚ひらいて。もっとしてあげるから」
 体重をかけて、純子がのしかかってくる。彼女の言葉に否と答える機関をはじめは持たない。
「このあいだ酷いことしたから、もうしたくないかなって、あたし、我慢してたのに」
 糸の切れた人形がするみたいに、だらしなく腿を開く。
「いい匂いよ。はじめのここ、甘くて酸っぱい匂いがする……」
「あう、う……」
 耳に唇をぴったりと密着させて直接囁き込まれると、舌の動きや息づかいまでが鼓膜を直に震わせておかしくなりそうだった。
 指が、内部へと容赦なく分け入ってくる。すっかり熟れて蕩々と液体を溢れさせている女の入口を掻き回される。へそから恥丘までを焦ったく降ってきた舌が陰唇の湿る中身を啜って、それにも、前後不覚になって身体をよじるはじめだった。前触れなく、あの整った美しい歯列が、核の部分を噛み締める。ぎゅっと閉じた瞼の裏で精神が放蕩した。ほとんど絶叫しながら、脚で純子の頭を挟み込みながら、はじめは感極まって泣いた。
「純子……」
「安心した。あたしがいない間も、あんたはなんにも変わらなかったのね」
「純子、じゅんこ、わたしもしたい」
 まだおぼつかない指先で、覗き込んでくる頬に触った。
「いいわよ」
 女の唇が、二羽の鳥がするようにねんごろに折り重なる。深海の生き物のように純子の舌が入ってこようとするのを、押し留めて、こちらから彼女の口腔に侵入を果たした。とくに抵抗もなく彼女は侵略を受け入れた。存外に硬い口蓋で、舌で、つやつやとした小さな歯で、湿った粘膜で、たどたどしいはじめの舌を歓待した。彼女の背中に腕を回し、体勢を入れかえる。無害そうな顔で横たわる彼女の上にまたがる。彼女の伏目がちな瞼の青白いことだけを見つめながら、五本の指で彼女の手のひらを探す。繋がる。唇の中では純子がはじめの唾液をサックしている、頬の筋肉で強く啜られて、背中の産毛が逆立つ。
 純子の中に入っていきたい。深く溺れたい。
「これがしたかったの」
「ちがう……そうじゃなくて、純子にもきもちよくなってほしい……」
「あたしはいつも十分満足してるわよ」
 裏腹に、左手で探り当てた彼女の陰部は、紙のように乾いている。ひだを広げて、指でさすってみても、膣は少しも濡れてこない。
「うまく感じられないの」
 気まずそうに顎を逸らした純子から、珍しい泣き言がもたらされた。
「痛い?」
「痛くないけど、そんなに……あ、ちょっと」
 尿道の上にぽつんと、小さく頼りないクリトリスが、包皮から少しばかり顔を出しているのをみた。吸い寄せられるように口に含む。唇をぴたりと張りつかせ、唾液を溜めた舌を、肉と皮の間に差し込むようにして擦り付ける。
「何するの、くすぐったいからやめ……あっ、あ」
 彼女の控えめなあえぎは、鍵盤で和音を押さえるような甘やかさだった。
 柔らかかったそこも、芯を持ち、充血しはじめる。苔から水が滲んでくるみたいに、少しずつ、旱魃の荒れ地が潤いはじめる。淫らなにおいがかすかに鼻から抜けてくる。優しい手のひらに頭をそっと撫でられる。飾り気のない愛おしさに包まれながら、はじめは、不器用な愛撫を続けた。
 昼ごろには、雨脚もだいぶ弱まっていた。十二時を回ってようやく、フロントから内線で電話がかかってきて、二人は慌てて荷物をまとめて出て行く羽目になった。

 スラバヤ近郊の料金所を出てからは、海沿いの国道に乗り、あとはパニュワンギ港までの二百キロをひたすら東に向かう。ロマンチックなオーシャンビューを期待していたらしい純子は、それまでと大して変わらない道行きにがっかりしていたが、はじめは、高いフェンスで囲われた広大な駐車場や船着場の巨大なコンテナ、ひしめき合うように並ぶ家々の向こうからかすかに潮の香りが漂ってくるのに、少なからず高揚していた。開けた場所でスケートボードをして遊ぶ少年たち。雑貨屋の庇の下で休むタクシーの運転手たち。棕櫚の幹の間で戯れるように飛ぶ二匹の蝶。パラソルの下で木琴を演奏し小銭を稼ぐ人。しぜん、ハンドルを握る手にも力がこもる。
 国道とはいえ、整備の行き届かない部分も多い田舎道だ。ただでさえ道幅は狭いというのに、脇から迫り出した灌木の枝や砂利などで、ロードスターが通行可能な領域は制限されてくる。歩行者やオートバイの往来も多い。三人乗り、四人乗りのオートバイが、ほとんど接触しかねない至近距離を平気ですり抜けていく。
 助手席の純子は風で絡まる自らの癖毛に不平を言っている。今日の彼女は、オリーブグリーンのツイストフロント・タンクトップに白のホットパンツをあわせた、露出の多いリゾートスタイルで、昨晩はじめが散々齧り付いた耳元には小ぶりな白い貝のピアスをつけていた。彼女が美しいのではじめは、料金所を通過する際に減速したとき、信号に停められたとき、歩行者の横断を待っているときなど、隙を見てたくさんキスをした。彼女もまた、正面ばかり見ている恋人を揶揄うみたいにして、頬や頸にたっぷりと唇を浴びせてきた。
「やあ、お嬢さん」
 シトゥポンドの市街地に差し掛かったころ、三人もの少年を乗せたBMWモトラッドが後ろから速度を上げて近づいてきた。少年たちはみな、裕福な生まれを思わせる西洋人で、そのうちの赤毛のひとりが、助手席の純子を口説きにかかったのだった。「今何時だか聞いてもいいかい?」
「何時?」
 向かい風がひどく、はじめには、純子と少年の会話を完全に聞き取ることができない。純子は、彼の質問を、そのままそっくりはじめの方にパスした。
「四時五十分」
「四時五十分ですってよ」
 すげない純子の態度にも、少年はめげない。懐から時計を出して確認すると、大袈裟な身振りで額を抑え、オー、なんという偶然だ、と叫んだ。
「僕の時計も同じ時間をさしてる。これは運命に違いない。お嬢さん、僕と一緒に食事でもいかがですか」
「つまりあたしはデートに誘われてるわけね?」
「そうだね」
「ごめんなさい、そういうことならお答えできないわ」
 純子は悪戯っぽく片目を瞑ると、両腕ではじめの首を引き寄せ、驚きのために開いた唇に思い切り音を立てて吸い付いた。
「あたしのガールフレンドが焼きもちを焼いちゃうから!」

 答えは出ない。
 恋人との、存外に優しい時間、優しい指先に、不安や悪意は誤魔化され輪郭を失いつつある。何も知らないまま、無邪気に、楽しそうにはじめと接する彼女が、少しずつ光の方へと向かいつつあるのが恐ろしい。愛と生命をとした賭けだった。はじめはどのカードを選べばいいのだろう。差し出された手の中には三枚あって、そのどれを引いてきても純子との未来はない。あるいは全てを諦めることが最適解とすら考える頭を、軽く横に振ることで諌めた。
 はじめは、まだ柔軟剤の香りが強く残るシーツの上に横たわっている。全裸だがふしぎと不愉快ではない。寒さも暑さもない。ただほんのりと、心地よいぬるさが、組んだ脚の先に滞留している。胸中に、毛布にくるまって深い眠りに落ちるときの、一瞬の虚にも似た空白が広がる一方で、意識のほうはむしろはっきりと冴え渡っていた。周囲の環境へと敏感に張り巡らされた神経は、ここがどこか宿泊施設の客室であること、浴室で誰かがシャワーを浴びていることを感知した。
 五分も経たないうちに、まだ全身をしっとりと湿らせたままの純子が、冴えざえとした夜色の目ではじめを覗き込んだ。
「はじめ? 寝ちゃったの?」
「寝てない」
「うふふ、目、しょぼしょぼしてる」
 薄い皮膚に包まれた細く優美な指先が、下瞼のきわを優しく撫でた。彼女がかがみ込んだ拍子に、ゆるく螺旋を描く前髪から湯が滴って、仰向けになったはじめの頬へと滴った。キスをされる。腹の底まで空くような、心地よくおだやかなキスだった。
「今日はやめとく?」
「やだ……」張り上げたつもりの声はうっすらと掠れて、嗄れている。「したい」
 軽やかな声を上げて純子が笑った。指の背ではじめの頬を数度こすると、胸元へ寄りかかるようにして体重をあずけてくる。平たい裸の胸に押しつぶされて、はじめの、ふくよかな乳房が大きく潰れる。
 彼女の左手ははじめの右手と絡み合い、彼女の右手は、無抵抗のはじめの全身を無遠慮にはいまわる。脇の肉の柔らかいところから、肋骨、脇腹を思わせぶりな手つきで降りてきて腰、寛骨の出っ張り、筋肉のついた腿から膝、遡って恥丘部分。あくまで羽毛が掠めるような軽さ、しかし確実に、はじめの肉体は熱を上げ湿り気を帯びてくる。早くも、膣からは白く濁った粘液が溢れ出して、会陰から肛門までをぐずぐずに濡らしていく。喉をつっかからせながらはじめは荒っぽく呼吸する。
 婀娜っぽい微笑を唇に蓄えながら彼女は、花の蕾を優しく手解いていく。目前でしなやかに伸びる頸の皮膚に、小さなほくろがあるのを、はじめは見た。こんなところにほくろなんてあっただろうか? もう長い付き合いだし、何度も互いの裸を見た仲だというのに、いまの今まで気が付かなかった。空いた左手指で感慨深く触れてみると、「やだあ、ちょっと、もう……じっとしててよ!」純子にしてはいささか明朗すぎるくらいの声がそれを咎めた。やり場のない手はそのまま薄い背に、はじめはじっと身を固め、彼女の指で開かれるのを待つ。
 小陰唇の中身を探られて息が詰まる。陰核から、尿道、膣の入り口をからかうように撫でられると、泣き笑いに似た声が押し出される。揺れる黒髪からは西の国の花の香りがする。ほどなくして、未開の湫地に指が入ってきた。ネイルアートの星型のラインストーンが、膣壁に引っかかるのが異様なほど気持ちよかった。
「濡れてる、よかった」
「うん、んんん、じゅんこ……」
「はじめてだと、緊張で濡れないこともあるらしいの。でも、はじめ、あんたって感じやすいのね、これなら大丈夫そう」
「……、……?」
「挿れてもいい?」
 はっとして顔を上げた。挿れる? 何を? 不安と疑念を湛えて見上げてくる恋人に、純子は微笑をもって応えた。
「あんたのはじめてをもらってもいい?」
 見開いた目から、ほろりと、涙が一粒溢れて落ちるのをたしかめた。喉から彷徨い出る呼吸は嘆息となり、ほどなくして嗚咽に変わった。ついに、ついに抱かれるのか。一生に一度の恋、この人のためになら死んでも良いとさえ願った、他でもない手嶋純子に。
「うん、うん、純子、純子に抱かれたい……」
「本当? はじめ、本当にいいの?」
「いい、純子がいい。純子じゃなきゃいや。純子……わたしを純子のものにして」
 無我夢中で頷いた。限界まで腕を伸ばし、肩や首にしがみついて、耳元で、泣きじゃくりながら懇願した。ねんごろな手つきで涙を拭われる。慈しみに潤う瞳に覗き込まれている。キスをして、二人思い切り抱き合った。幸福だった。
「あざす、青八木……はじめさん。オレ、あなたのこと、ずっと大事にするんで」
 ——耳元に囁き込まれた声音、言葉に、ひととき、はじめは全てを忘れた。
「は……」
 全身からサッと血の気が引いていく。冷たく、かたくなった四肢が、言いようもない負の感情のために震える。
「ずっとこの日を夢見て生きてきました」
「待て、おまえ……鏑木?」
「愛しています、はじめさん」
 耳の横で快活に揺れる、オレンジ色の染髪。押し潰すという言葉が適当なほどに、強く、重くのしかかってくる、彫像のような肉体。低い声。大きく骨ばった手。そのどれもが、純子とは程遠いところにある男のものだった。どっと全身に汗が滲む。抵抗するまもなく、押し当てられた先端が、薄い粘膜を突き破って内部に侵入してきた。刃物で抉られるような痛み。喉から出ていくのは死にかけのカエルのようなうめきばかりで、言葉も悲鳴も形にならない。純子、純子! 攪拌され取り止めもなくなっていく思考、愛おしい恋人の姿をまだつなぎとどめていたくて、はじめは必死にもがき震えた。

 闇の中に目をさました。恐ろしい悪夢のなごりは、激しく拍動する心臓にたしかに残っていた。
 まだ小刻みに震える自らの肩を抱きながら、申し訳程度に傾いたシートから背を起こす。……今晩にはパニュワンギ港に到着し、フェリー乗船所で一晩を明かす予定だった二人だが、日没までに雨林を抜けられず、結局、バルラン国立公園沿いのレストエリアで車中泊することになったのだった。とはいえ、ジャワ島最東端の、ほとんど山道に近い田舎のレストエリアだ。礼拝のために石床が設けられた東屋が二つと、粗末なテントの定食屋、それから道から奥まった場所にある公衆トイレが一つまばらに配置されただけの質素なもの。店員のいない定食屋のカウンターで野生の猿が、衛生状態の悪い生肉に齧り付いている始末だった。三つきりの駐車スペースには、二人のロードスターのほかに、ヒジャブをつけた女の顔がデカデカとペイントされた軽トラックが一つ、アイドリング状態で駐車されている。
 夜も深く、鬱蒼と茂る巨大な熱帯樹がこずえを風に戦がせて立てる葉擦れのほかに、音もない。はじめを膝に乗せた格好で、生まれたままの姿の純子は静かに寝息を立てている。日常から遠く離れた東の土地で、恋人を胸に抱いてようやく、心からの安息を得たとばかりに、唇にほんのりと微笑をたたえて眠っている。その平和で、無垢であること、つい二ヶ月前に狂乱しながらはじめを虐げた女とはとても思えなかった。一方、はじめの右手で長らくスリープモードになっていた携帯電話は、軽く振るとロックを解除し、あるインターネットニュースの記事を表示した。日本のイッサ・カブラギが来月のツール・ド・ボローニュに、チームのエーススプリンターとして出場するとの旨が、簡潔な英語と一枚の写真で報道されていた。
「……こんなことを聞くのも、おかしなことかもしれないけど」
 夕方、運転席のはじめと右手でつながっていた純子の言葉を思い出す。
「何かあたしに隠してることない?」
「ないよ」
 そのとき、ほとんど被せるようにしてはじめは答えた。彼女は、それを問いただすことも、咎めることもなく、じゃああたしの勘違いか、というふうに肩を落として笑った。はじめの悪夢、腹に抱えた罪悪、傾きつつある天秤の存在を知ったら、彼女はまた嵐の中へ躍り出てゆくことになるのだろうか。呪いが解け、行くところがなくなったロットバルトの娘のように?
 白いフレームを担ぎ上げ、白昼の強い日差しの中で、握りしめた拳を高らかに掲げる彼の姿を見ていると、またあの不愉快な感覚が腹にとぐろを巻きはじめ、空っぽの胃から濃度の高い胃酸が一息に駆け上がってくる。慌てて純子の膝から立ち上がり、適当なワンピース一枚を羽織って車の外に出た。やけに生ぬるく湿った風が頸を撫でる。定食屋に屯していた猿どもが一斉に雑木林の方へと逃げていく。砂利が敷き詰めてあるのでかろうじてそうとわかる小道の向こうに、ミント色の塗料で塗られた小さな荒屋がひっそりと建っているのが見える。駆け寄って見れば、男女の区分けも、利用料金の設定もない、管理がなされていないことが一目でわかるような汚らしい公衆トイレだった。
 すえた匂いのする和式便器に、半ばすがりつきながら嘔吐した。びちゃびちゃと落ちていく吐瀉物、口腔にこびりつく強い匂い、涙を流しながら、ソロのホテルで純子と交わした清潔なキスのことを思った。遅れてまた、突き刺すような胃痛を感じた。腹を押さえて蹲った。痛みのあまりに、紙を引き裂くような猿の悲鳴や、砂利を踏み締めて近づいてくる足音などに、はじめは気づくことができなかった。
 苦心しながら立ち上がって個室を出、なんとかして手洗い場に近づく。錆び付いた蛇口をひねろうとしたとき、不意に、背後に気配を感じて、振り返ろうともたげた頭を激しく打たれた。写真機のシャッターがおりるように、急に闇がやってきた。


 いつのことだっただろう。一年の冬か、あるいは二年の春ごろか、降雪で洗われた大気が一層澄みわたっていく季節に、手嶋純子は理解した。
 そのとき、純子にはつきあって三週間めの恋人がいたが、飽きていた。ルックスよし、運動神経よし、競技選手としての純子を慮ってプラトニックな関係でいてくれる優良物件の彼だったが、飽きていた。最初から惹かれていなかったというのが正しいかもしれない。周囲は人気者同士のカップルに過剰なほど盛り上がっていたし、唯一無二の親友である青八木一が、べつに、いいと思う、と言ったので、純子には彼の申し出を断る理由がなくなってしまったのだった。七回デートして、キスも済ませた。純子は、自分自身の意に反して、また一つ、女として成熟していく自らを確かめていた。
 はじめは純子が男といても動揺しない。純子が目的を違えないうちは口を出さない。寡黙に、従順に、純子の青写真どおりに動く。そのさまに、どうしようもなく高揚し、一方で焦れてもいた。彼女の処女性、清らかな美しさがその錯乱に拍車をかけた。汚らしいものの一切から遠い世界で、彼女は透明な翅を少しずつ広げて、蛹から羽化しようとしている、それをケースの外から見て純子は苛立っていた。恋人に対してよりもずっと強い感度で純子は彼女に求心していた。
「おまんこを見せて欲しいの」
 日没迫る夕刻の教室、一つの机を挟んで向かい合うはじめに、純子はそのように要請した。
 はじめは、純子が書いた戦略ノートを神妙そうな顔つきで見下ろしていたが、純子の言葉に顔をあげた。あまりにも不躾であけすけな発言を浴びせかけられたにも関わらず、彼女の表情はまったく無表情の域を出ないままだった。首を傾げると、雑に切り揃えた色素の薄い髪が、肩から二の腕の方へと流れる。学校指定の白いブラウスに色気のないスポーツブラが透けている。
「おまんこ?」
「女性器、股のあいだってこと」
「見せてどうなるの」
「……青八木って、ペース配分下手でしょ。それは戦略の問題もあるだろうけど、あんたの、下半身の鍛え方にも不足があるとあたしは思ったの、そこで今後どういうメニューを組めばいいか、肉のつき方を見て、決めたいのよ、それでね、おまんこの神経が集まっているところを見れば一目で判断がつくから……」
 すらすらと、もっともらしい言い訳がいくらでも口を突いて出た。はじめはしばらく大きな目で瞬きを繰り返していたが、純子が事実無根の大嘘を大業そうに言い終えると、分かった、と言って頷いた。
「えっ、本当に見せてくれるの」
「? 手嶋が必要だって言った」
 椅子を引いて立ち上がる。だいぶ傾いた陽が、腰横のファスナーを下げるはじめの影法師を、細長く斜めに木床へ映した。生白く細い脚から、生真面目な丈のプリーツスカートが取り払われる。色気も何もない、ユニクロで叩き売られている灰色のショーツを脱いで、彼女は純子の前で完全に下半身を露出した。
「これでいい?」
「う、うん、もっとこっちにきて、よく見えない」
「こう?」
 机のへりに手をかけて、腰を突き出すような姿勢になった。彼女の、子どものような無毛の恥丘、未成熟の性器、そのサーモンピンクの中身が、純子のまえに無防備にさらされていた。指で触れてみる。かすかな肉の反発、皮膚越しに感じられる恥骨の硬さ、新しい餃子の皮を重ねたみたいな滑らかな陰唇を開くと、乾燥した粘膜が外気に触れる。はじめの無知であることに反して、膣はその本懐を果たすべくして痙攣している。
「どう」
「待って」逸る自らをを、もはや純子は制御しきれない。「上半身も見せて。ちゃんと全身の肉のつき方も見ておきたいの」
 心得たとばかりに顎を引く。今度は胸元のリボンを解いて机に置き、ブラウスの前ボタンを、何の躊躇いもなくはずしはじめる。袖を片側ずつ抜き、ブラジャーも同様にする。膨らみかけの平たい胸、骨の浮いたあばらにすとんと落としたみたいなウエスト、丸みに乏しい腰。上履きと靴下も脱がせれば、作り物みたいに小さな足までがオレンジ色の光の中に詳らかになる。少年のような無垢な身体を前にして、純子はすんでのところで叫び出しそうになる自らを押さえ込んだ。はじめは、何の躊躇いもなく、純子の前で全裸になった。
 たしかに女の身体であるのに、女の性とは程遠い、清潔な肉体だった。男はおろか初潮さえまだ迎えたことのないものと思われた。
 純子がはじめて月経を経験したのは小学校六年生のとき。中学に上がってすぐ、初めての恋人に乱暴に拓かれて、男の肉体は生臭くて硬くて気持ち悪いものだと知った。女の性を根拠とする気づきを得るたびに、恐ろしくて悲しくて、一晩中泣いていたこともあった。はじめは、そうしたあらゆる苦痛から遠く、ただ不思議そうに首を傾げて立っていた。
「何かわかった?」
 わかったとも、純子は観念のほぞを固める。純子は彼女とわかりあうことができない。永遠に。それでも、純子の頷きひとつで、春の花が開くような柔らかさで笑う彼女にどうしようもなく縛りつけられていた。混ざり合うこともなければ、反発しあうこともできない運命だった。ほどなくして純子は恋人と別れ、はじめは純子に「大好き」と言うようになり、それはそう時のたたないうちに「愛してる」へと変わった。

 取り止めもない夢から覚めて、すぐ、形状しがたい悪寒が尾骶骨から脛骨までを駆け上がり、ほとんど本能的に助手席から外へ飛び出していた。純子の敏感な聴覚神経は、雑木林の向こう、砂利道をしばらく行ったところから、一度きりの悲鳴を確かに聞き取った。以降は不自然なほどに静かだった。これが、タチの悪い虫や動物なんかに驚いただけだったらどんなに良かっただろう。だが純子の嫌な予感は必ず当たる。一年四組の教室で公貴と寝て以来、ずっとそうだった。裸足のまま砂利道に飛び込んだ。
 こいつ処女だぜ、膜張ってやがる、
 どうだかな、縦に割れてる、アナルファックに狂ってんだ、
 どうでもいいだろ、早くしろよ、
 今やってる、黙ってろ、
 公衆トイレの手洗い場で、口汚い、ジャワ語混じりのインドネシア語が応酬される。レイピストは二人だった。一人がはじめの頭と肩を抱え込むようにして抑え、もう一人が脚を担ぎ上げて彼女の穴を検分していた。殴られたのだろう、はじめは、額から血を流して気を失っていた。閉じた瞼が真っ青に青ざめていた。いつか純子は、自分と同じだけ泥に塗れたはじめを見下ろせば、救われるかもしれない、という希望を抱いていたことがある。だがそれはこのような形で成就されて良いものではなかった。純子は砂利の中から手頃な石をひとつ、拾い上げて、こちらに背後を向けた男の後頭部を思い切り殴りつけた。
「おいおい、冗談じゃないぜ」
 はじめの頭部を押さえつけていたもう一人は、純子の姿を見るなり、アルコールで赤らんだ目元に皺を寄せて嘲笑した。純子が全裸だったからだ。「一人でどうにかなるとでも思ってるのか」
「あんたたち、イスラムの信者でしょ、女を犯して良いって神さまアッラー)が言ったわけ?」
「神は女に人権をお認めにならない」
 イスラムの派閥の中には、クルアーンイスラム法シャリーア)に対して独自の解釈を持つものもある。純子はあくまで冷徹に振る舞うよう自らを律しながら、適切な言葉を手探りでさがした。
「ああそう、じゃあいいこと教えてあげるけど、その子いま男の子を妊娠しているの。立場ある成人男性の正式な嫡子よ。嘘だと思う? あたしは別に、その子がどうなろうが知ったことではないけど、あんたは違うでしょ。成人男性の妻を寝取った挙句、その嫡子を殺したとなったらあんた、確実に地獄に行くわよ」
「ありえねえ、処女だぞ」
「あら、イーサーが母親からどんなふうに産まれたか、知らないとは言わせないわよ。それよりいま、善いことをなしなさいよアムル・ビル・マアルーフ)、誰の妻でもない独り身の女が裸で来たんだから、することはひとつでしょ」
 自分が口達者で良かったと、これほどまでに思ったことは生涯で一度もない。今後もないだろう。ジャカルタを出るとき、純子を愛してる、と囁くように言ったはじめのことが思い返された。自分もそのように彼女を愛せたらと思っていた。そしていま、ひとりでは心さえ満足によこすことのできない純子は、その身体を持って、不完全な愛に殉じる。神よ、勇気を授けてください、それさえいただけたらあたしはいつでも死を受け入れます。
「言っておくけど、その子より、あたしの方がずっと具合はいいわよ、ちょっとやそっとじゃ壊れたりしないし。もし、うっかり殺しちゃったとしても、あんたたちの法律だったら問題ないんでしょ。いいじゃない、進んでリスクを犯すことなんかないわ」
 男はしばらく黙っていたが、不意にはじめの上半身を投げ出すと、恐怖と興奮で顔を歪ませて純子に近づいてきた。ビール臭い息を吐きながら左手で純子の肩を掴み、右膝で腹を蹴り上げてきた。胃が喉元まで迫り上がってきたような感じがして息ができなくなる。泥で薄汚れたタイル床に崩れ落ちる。うめきながら浅い呼吸を繰り返しているうちに、ビール瓶らしきもので左脚を三度殴りつけられ、これまで経験したことがないほど鋭い痛みが心臓に突き刺さった。おそらく、確実に、骨をやられた。もう二度と自転車に乗れないかもしれない。
 髪を掴まれ、上向かされたと思えば、さっき殴りつけて気絶させたはずのもう一人が、怒張したものを掴んで顔の前に突き出していた。鼻をつまみたくなるような臭気に、口に含むのをためらった一瞬、男の不況を買ったらしく勢いをつけて頭を投げ出されていた。頭蓋骨を強かに打ちつけて目が回った。粘膜を切ったらしくすぐに口腔内へ血の匂いが充満した。そこへ、ぶよぶよした陰茎の肉が、容赦なく押し込まれた。
 立てよ、男が言う、お望み通り殺してやるからよ。もう一人は純子の口の中で頻りに腰を振っている。酸欠でぼやける視界の端に、はじめの白い身体、清らかな寝顔を見つけて、純子ははからずもその唇に微笑を上らせていた。
「何笑ってんだよ」
 瓶で、今度は腹を殴られて、内臓がいくつか破裂したものと思った。身体を折り曲げて咳きこみながら、喉の奥から苦い胃液が込み上げてくるのをなんとか堪えた。まだ、まだだ。まだだめだ。口の中で射精される。間髪入れずに膣にも男のものが入ってくる。口から膣から侵入を許し、精液に汚れながら純子は聖別されていく。肉を裂かれ、骨を砕かれるたびに、神の国の近いことを感じる。
 ふと、雑木林の中から、白い服を着た少年がやってきて、純子の前に静かに立った。つやつやした癖の強い黒髪に、決して恵まれた方ではない、筋肉の乏しい身体付き、吊り上がったまなじりを気障にすがめて、純子に微笑んだ。純子も、彼に対して笑いかけようとしたが、陰茎を含んで引き攣った頬ではうまく笑顔を作ることができなかった。かわりに下瞼から一粒、涙が頬へ滲むように伝った。彼は全て承知しているとばかりに頷き、純子の前にひざまづくと、その肩に寄り添うようにのしかかってきて、やがて純子自身と完全に重なった。

















 あれから秋が来て、冬が過ぎ去り、また春になって、デスクの上で小さな影が舞った。顔を上げると、影の正体が窓から入り込んだ黄色い蝶であることが分かった。手のひらでそっと捕まえると、包み込んだ手の中で翅がまたたいて、むず痒くいたたまれない思いがした。窓から外に出してやると蝶は飛び去り、荘厳たるサラスウァティー寺院の方角へ、見えなくなった。純子はその様子を、寡黙なまま、見ていた。
 朝から執筆作業に熱中していて、気にも留めなかったが、すでに日が高くなって久しいようである。ふと壁掛けの時計に視線をやれば、時刻はすでに午後一時を回っていた。嫌な予感がする。気が急ぐままにラップトップを閉じ、デスクから立ち上がるや否や、階下から悲鳴が上がって、純子はその予感が正しかったことを即座に理解した。
「おかあさん!」
 甲高い子供の声が純子を呼ぶ。肺の底から空気を入れ替えるような、大きなため息を一つつく。
 吹き抜けから、ちょうど見下ろすことのできるキッチンスペースからは、天井でファンが盛んに回っているにもかかわらず、ものの焦げるいやな匂いが漂ってくる。木製の階段を踏み締めながら階下へ降ると、果たして、黒焦げのフライパンを握り締めたはじめが、よるべなく泣きそうな顔で立ち尽くしていた。傍らに、飛び散った残骸をもろに受けた小さな男の子。煤で汚れ、真っ黒になった花崗岩のキッチンセット、壁紙、大理石の床。中庭の方へ開け放ったワイドオープンサッシからは、場違いにやわらかい風が吹き込み、ウッドデッキに掘り込んだプライベートプールではのどかに波が立っている。棕櫚や蘇轍の葉はそよそよと葉擦れの音をたて、キンボウジュは可憐な赤い花をふさふさと茂らせ、がくからちぎれたプルメリアの花が、所在なげに室内へと舞い込んでくる。すべてを察しながらも、つとめてやさしい声音で純子は、自らの妻にこのように尋ねた。
「何があったの」
「……今度はうまくいくと思った」
「一人で料理しないようにって、あたし、前にもきつく言ったよね」
「だって」
「だってじゃない」
 きつく、含めるようにして言うと、たちまちしょげかえってしまうはじめはかわいい。この顔を見ると、キッチンの後始末をするのも、昼食を作り直すのも自分だということをすっかり忘れてしまって、胸の中に思い切り抱き込んでしまいたくなる。だが今日はそういうわけにもいかない。情けは人のためにならないのだ。
「見なさいよ、この顔」
 ほとんど涙目になりながら、はじめが息子を見た。つやつやしたミルクティ色の髪を煤汚れだらけにした息子は、目に入ったゴミを取り除こうと瞬きを繰り返していたが、母親二人が自分を注視していることに気がつくと、何やら嬉しそうな照れ笑いを浮かべた。
「真っ黒じゃない。あんたにそっくりの、可愛い顔、やけどでもしたらどうするの」
「ごめん」
「謝るのはあたしにじゃないでしょ」
「おかあさん、もういいよ。ママ、ママは、おかあさんにいいとこ見せたかっただけなんだよね」まだ七歳にも満たないというのに、純子の一人息子は呆れ返るほど大人びている。「早く片付けちゃおうよ」
 三人で手分けして、煤だらけになったキッチンにかたをつける。息子は濡らした布巾で壁や床を拭き、はじめがキッチンセットを磨いている横で、すでに綺麗になったコンロを用いて純子が昼食の作り直しを図った。エシャロットやニンニク、赤唐辛子などのスパイスを、植物油でじっくり炒める。香りが立ってきたころに溶き卵と塩少々を流し入れ、完全に固まり切る前に鶏肉と長粒米を素早く加えてかき混ぜる。冷蔵庫から昨晩のうちに仕込んでおいた牛煮込みルンダン)の鍋を取り出してコンロにかけ、ココナッツミルクの匂いが濃くなってくるまで再加熱する。その間に、隣のフライパンで米と肉に火が通るので、醤油とケチャップ・マニスを加えて、ナシゴレンの完成。青い釉薬で花を描いた陶器の大皿に盛り付け、空いたフライパンで、今度は串に通した鶏肉のマリネを並べる。鶏肉が茶色になるまで待つ間に、ピーナッツバター、ケチャップ・マニス、ブラウンシュガーを混ぜてソースを作る。
「純子、すごい、シェフみたい」
 花崗岩にこびりついた油を一生懸命こすり取りながら、はじめが感嘆の声を上げる。
「そりゃあね、もう五年も、あんたたちの食事を作ってるのよ、これくらいできなくて何が主婦よ」
「でもおかあさん、掃除とか片付けとかほんとに下手だよね」
「……そこはまあ、夫婦でバランスとってるのよ」
 計画性なくものを引き出したまま、あちこちに放置しがちな純子の持ち家が、清潔なまま保たれているのは間違いなくはじめの功績だ。それがなんだか無性に嬉しいことのように感じて、串をひっくり返す手指が自然踊った。
 午前二時、ちょうど純子が全ての料理の支度を済ませたころに、表で真鍮のベルが軽やかに鳴った。エプロンを外し、早足で玄関に向かう。扉を開くと、白々とした昼の光の中に、見知った長身が尊大に足を広げて立っていた。その傍らに寄り添うほっそりとしたシルエット。
「久しぶりだな、純子」
「お邪魔します」
 古賀夫妻は、今回も予定時刻きっかりに手嶋邸を訪れた。
「まーこれはこれは、遠路はるばる、ようこそおいでくださいましたね、公貴さん」
「そうでもないさ。カリマンタンからバリまでは直行便が出ているからな」
「あ、そう……靴はここで脱いでね」
 公貴は、インドネシア政府の首都移転事業に関わるコンサルタントチームに参加するのに伴って、去年から居をボルネオ島に構えている。はじめが言うには、目が飛び出るほど高級なホテルのペントハウスを、まるまるワンフロア使って暮らしているらしい。信じがたい話だが、土産だと言いながらショッパーから六十一年もののシャトーマルゴーをボトルで出してくるのをみていると、あながち嘘とも言えないのが恐ろしい。
「小父さん、小母さん」
 純子の背後、ダイニングルームの扉の陰からひょっこり頭を出した息子が、夫妻を見るなり顔を綻ばせて駆け寄ってくる。古賀が破顔して膝をつき、幼い息子に視線を合わせて応えた。「やあ、こんにちは」
「こんにちは。ねえさんは?」
「娘とはね、さっきまで一緒にいたんだが……」
「パパ! ママ! 見てー!」
 竹を組んで作った門戸越しに上がる、威勢の良い子どもの声。がちゃがちゃと焦ったく間抜きを外す音。間髪おかず、外側から門が開かれて、パーマヘアを陽光にきらめかせながら、青いスモッキングワンピースの女の子が走り入ってきた。長いまつげで縁取られた目を限界まで見開き、指に摘んだ小さな虫を父親の鼻先に突き出してくる。
「パパ! パパ! ちょうちょ! ちょうちょ捕まえたの! きいろい! かわいい!」

 はじめの、作り物のように優美な白い手からデキャンタージュされたマルゴーが、大人たちの手に渡る。色を見る前より広がる肉付きのよい、エロティックな香り。鼻から喉へ抜けてゆく時のエレガントな余韻。深いルビーレッドの水面。シャトーバカラの洗練されたグラスで乾杯すれば、さながらフランスの超一級レストランを貸し切ったディナーパーティの様相である。
 あまりにも隙のないワインの味わいに、内心冷や汗をかく純子だったが、彼女の手料理もまずまず夫妻を楽しませたようである。美味しいです、と細君が微笑み、それに同意するような形で公貴が静かに顎を引いた。
「おまえにしては、やるじゃないか。バリでの生活がすっかり板についてきたな」
「ほんと、おかげさまでずいぶん遠回りすることになったけど」
「いやなに、イロモノのネズミが二匹、俺の周りでちょろちょろするのを眺めているのは、実に楽しかった」
「ほんと、失礼な男、早く死ねばいいわ」
「いいのか? おまえたち二人のスポンサーはこの俺だぞ」
 大皿に盛り付けたルンダンは、完璧なミディアムウェルに仕上がっている。肉汁したたる分厚い牛肉を食いちぎりながら公貴は、相変わらずの調子で、噛み付く純子を軽くあしらう。
「何の話してる?」
「わたくしたちには関係のない話ですよ、はじめさん」
 子どもたちはというと、窓辺に敷いたトライバル・ラグにごろごろと寝転がりながら、小学校エスデー)の宿題に勤しんでいた。
「もうジャパニーズってイヤ!」
 公貴の娘は、先んじて七歳を迎えていたが、難解な日本語の学習にすっかりご機嫌を損ねている。表紙に着物の女性が描かれたテキストを、床に向かって思い切り振りかぶり、放り投げた。純子の息子はというと、うつ伏せの姿勢で黙々と鉛筆を動かしている。
「嫌いよ、この言語。まわりくどいしなんか湿ってる。もっとズバッと言い切れないの」
「ねえさんうるさいよ」
「何よ、あたしより年下のくせに」
「でもぼくのほうがねえさんより三ページも進んでるよ」
「最低、レディーファーストって言葉知らないの?」
「いいからやりなよ。教えてあげるからさ」
 余裕ぶってそう言うが、彼は彼で、昨晩四以降の漢数字がわからないと言って母親二人に教えを乞うてきた身である。姉が来ると知って必死にテキストを進めたのだ。娘は何か言い返そうとして、弟、というより幼なじみにこれ以上やり込められてはたまらないと思ったか、唇を噛みしめると再びテキストに向かった。そうした様子を、純子の隣ではじめが、愛おしくてたまらないとばかりのまなざしで眺めているのが、またこの上なく愛おしいのだった。
 中庭から室内へ風が吹き抜けて、はじめが編んだ、繊細なレースのカーテンをふわりと持ち上げる。ラタン編みのテーブルの上に飾られた赤いハイビスカスがかすかに揺れ、子どもたちが戯れ合うラグの床へはちみつ色の木漏れ日が散る。冠白椋の求愛の声、はばたき、鼻先へ甘く漂いくる渓谷の霧、眩しくて眉の間がこそばゆい。この上なく平和だと思った。少し前までは考えられなかったことだ。

 はじめが息子を妊娠していることは、それとなく察してはいたが、その不自然な振る舞いが公貴の意趣によるものであると気づいたのは、彼女が泣きながら告白してきたまさにそのときだった。彼が無知なはじめに提示した選択肢からは、最も明快で重要なファクターが意図的に除外されていた。純子であれば、真っ先にそのことを嗅ぎつけた上で、さらなる利潤の上乗せを企てていただろうが、純真で無邪気な彼女には考えもつかなかったのだろう。さんざ悩み抜いたに違いない。不安がる彼女を連れて純子はついに日本への帰国を果たし、家庭裁判所に乗り込んで、公貴へ大々的な宣戦布告を行った。よせばいいのに公貴がそれに乗ったので、二人は大々的な喧嘩騒ぎを起こし、半年後、まるでそうと決めていたかのようにあっさりと彼が引いた。順風満帆すぎる人生に退屈していたらしい。
「良い刺激になったよ」審判確定後、やけに清々しい笑顔で彼が言ったので、純子はその頬を握り拳で思い切り殴りつけてやった。
 とはいえ、その後彼が二人にもたらした暮らしは、なに一つ不足のないものだった。バリの神聖な土地ではじめは心身ともに解放され、ますます美しくなってゆくし、息子は文句なしにかわいい。公貴やその細君との腐れ縁はなんだかんだ続いている。自分の血を引いた唯一の娘が、歳を増すごとに自分に似てくるのを見るのも、悪くないと思えた。嵐の如し苦痛も胸を貫き通るような錯乱も、今ではあまりにも遠かった。
 宵の口特有の、青く冷えた甘い空気が、二人の寝室に充ちている。シルクのシーツにくるまると、裸の皮膚が、水圧にも似た不思議な穏やかさに包まれる。うっとりするような肌触りを手で味わい、足を絡めて妻の隣へ潜り込む。
「はじめ……」
 後ろから抱きつくと、はじめは純子の腕の中でおもむろに振り返り、優しさと官能が豊かに織りなされたまなざしでこちらを見つめた。籐を編んだウィッカーランプから散った光が、彼女の琥珀色の虹彩にもぐりこみ、虹になって反射するのがこの上なく美しかった。まだしっとりと濡れたままの小麦色の髪。かすかに上気する頬。清楚に結ばれた唇。女性らしく均整美を保ったふくよかな乳房。引き締まったウエスト。子どもを一人産んだとはとても思えないほどみずみずしく、生命力に充ちた彼女の全身を、純子は我が身に吸収するような思いで抱擁した。顎の下に唇を押し当てると、くすぐったがって彼女が笑った。
「純子、こそばゆい」
「嫌?」
「好き」
 言いながら、はじめもまた純子の顎をついばんだ。小さな歯が下唇の皮膚をねんごろに掠める。探るようにして触れ合った純子の右手とはじめの左手が、貝殻つなぎの形でしっかりと結びつく。全身の皮膚という皮膚で触れ合う。お互いの髪が混ざり合って、絡まって取れなくなるくらいに、繋がっている。彼女の薬指に、プラチナのエタニティを見つけて、純子はひそかに、胸の奥底を熱く泡立たせた。
 幸福だ。夢かもしれないが、それでもよかった。
「ねえはじめ、愛してるわ」
 本心だった。
 はじめは、陶然と嘆息し、伏せた薄い瞼を心もとなく濡らしていた。
「もっと」
「愛してる」
「もっと……もっと、言って」
「愛してる……泣いちゃいそうなの、はじめ、愛してる……愛してるわ」
「わたしも愛してる」
「はじめ」
「純子……」
 はじめはわずかに顎をそらすと、静かに目を閉じた。純子は一瞬虚を衝かれる思いがしたが、すぐに何もかもを承知し、その志向の中に溺れた。


 何かを握りしめようとして、そのまま放り出されたとばかりの、生白く、荒れた手のそばに、パテントレザーのオックスフォードが近づく。満足か、こぼれた声が思いの外寂寞としていることに、しぜん、自嘲の笑みが漏れた。


 冬の浜辺、霧で霞む岬の方へ愛し合う二人が駆けて行く。
 冬の浜辺、霧で霞む岬の方へ愛し合う二人が駆けて行く。
 冬の浜辺、霧で霞む岬の方へ愛し合う二人が駆けて行く。
 あらゆる祈りは受け入れられ、あるゆる願いは捨て去られる。


〈終〉

2024/02/06

 


 背中から、公貴の手のひらの重みがふっと離れていく。彼はサイドテーブルの固定電話脇に置かれていた、ホテルのロゴの入ったメモ用紙を一枚切り取って、ボールペンで何か書き付けたのをはじめによこした。〇六からはじまり、以後二桁ずつ区切って表記された数字はフランス式の携帯電話番号だ。
 まあ、今夜はゆっくり休め、それだけ言い残して、彼ははじめのそばを離れた。その背中を呆然と見送るはじめだったが、おもむろに身体を捻り、固定電話へと重たい腕を伸ばした。青い筆跡をなぞる爪先がひどく凍えていた。国コード、三十三からダイヤルを押し込み、受話器をとる。明るく快活な声が応答するのに三コールもかからない。
「もしもし……わたしだ、青八木一。いま何してる? ……いや、公貴が、おまえの番号を教えてくれたから、ためしにかけてみただけ。それだけ……ほんとうにそれだけなんだ……」

 一日分の下着に生活必需品、チョコレートのかかったスナックピーナッツ、パスポートだけが入ったリュックサックと、ジミーチュウの巨大なショッパーを両腕に抱えたまま、後部座席の窓に額を押し付けていた。スカルノハッタ国際空港を出てからもう三十分近くそうしていた。中央ジャカルタに向かう大通りはひどく混雑し、自家用車やトラック、バスにアンコタ、オートバイなどが押し合いへし合いしている。各々が無遠慮に吐き出す排気ガスのために一時的に空気が澱み、道の向こうは白く霞んでよく見えない。一日と十二時間ぶりに眺めるジャカルタの街並みは、手垢に塗れた、猥雑なもののように、はじめには思われた。道路脇に植えられたプルメリアの灌木、白い花が茶色くなって枯れていた。
「あの人にいじめられたのね」
 マリーナベイ・サンズを出てからシンガポールを出国するまで、身重のはじめを慮って、公貴の細君が付き添ってくれていた。よほどひどい顔をしていたのだろう、クライスラーの無駄に広い車内で、並んで腰掛けていたとき彼女はそのようなことを言った。
「顔色が悪いわ。それに、この一日で少しやつれたみたい」
 木綿のハンカチで、冷や汗に濡れた首を優しく拭われる。穏やかで理知的な目が、はじめを慈しみ深く、見ていた。
「あの人の言うことを、間に受けてはいけませんよ。ほら、理にかなっているということが、かならずしも正解とは限らないでしょう? あの人がどう言おうとも、あなたの人生はあなたが選択するべきだわ」
「……公貴の言うことは正しい。わたしにも純子にも、子どもを育てるだけの能力はない。何か手を打つか、全てを諦めるかしなければ、わたしたちに未来はない」
「一人きりの腕の中に、たくさんのものを抱え込んでいるのですね。でも、ねえ、はじめさん、ひとつひとつ向き合わなければ、見えるものも見えないことだってありますよ。時間が必要です。純子さんと、会っておはなしなさい」
「純子と……」
「バリに行くのがいいと、以前、彼女に提案したことがあります。あなたにも同じことを思うわ。二人で旅行でもしたらどう。そうね、新しくてかっこいい車をレンタルして、ジャカルタから東へ、何日かかけてドライブするの。バリ本島へは、パニュワンギの街からフェリーが出ていますから、そこで車を降りて、二人で海を渡るのよ。素敵でしょう?」
 白昼夢の中で、彼女の上品な笑い声が、しばらく、寄せては返す波のように響いていた。タクシーが道路脇で停止する、そのブレーキ音で、はじめはふいに現実へと揺り戻される。メーターを止めた運転手に十万ルピア札を支払い、お釣り代わりのキャンディを受け取って、後部座席から外に出る。雨季特有の重く湿った風が、長く伸びた前髪をくすぐる。三角柱形の、青いガラス張りのビル、まるでホテルのエントランスのような、立派な正面玄関からロビーへと立ち入る。受付で在留カードを見せ、七階A病棟、ジュンコ・テシマとの面会希望の旨を伝えると、受付嬢がそっけない手つきで面会許可証を手渡してくる。エスカレーターから一度二階に上がり、すぐ右手側のエレベーターに乗り込んで七階のボタンを押す。つかのまの浮遊感。
 ほとんど一週間ぶりに、はじめは、この薄暗く陰気臭い精神科病棟に戻ってきた。いつものように、ナースステーション右の通路に入り、よく磨かれたリノリウム床を踏み締めて、純子の眠る病室をめざした。スニーカーの足は、いつしか走り出していた。患者の独り言、叫び声、心理療法師が患者を落ち着かせようと語る声、拳で壁をしきりに叩く音、神経質にカチャカチャと金具を鳴らす音、監視装置のピープ音、みな意識の外にあった。果たして、純子は覚醒状態にあった。まるで示し合わせたかのようなタイミングだ。看護師が、投与を終えた輸液バッグをとり外し、新しい鎮静剤を投与しようとする、まさにそのときだった。
「純子!」
 リュックもショッパーも床へ放り出し、半ば押しのけるようにして看護師の脇を抜け、投げ出した腕を漫然と眺めていた純子の身体を、思い切り抱きしめた。全身の肉という肉が落ち切って、干物のようになった身体からは、それでも快いふくよかな香りがした。
「…………はじめ?」
「純子、純子、純子!」
「どうしたの、はじめ? 何があったの?」
 ジャワ訛りのインドネシア語で、太った女看護師が何か言ったが、構わなかった。薄い肩に額を押し付けて擦り、ふたたび顔を上げて、状況を飲み込めない様子でぱちぱちと瞬きを繰り返す純子の顔を見た。伏した下睫毛が、肉のそげた頬へとけだるく重たい影を落としていた。
「純子、おはよう。調子はどう?」
 伸び切って、額の辺りでくるくると渦巻いている黒髪を、耳の方へそっと避けてやる。
「え……ふつう、かな……? というか、あたし、なんでこんなところにいるんだっけ?」
「細かいことは気にしないで。ここを出よう。看護師さん(ラワット)、この人、今日付けで退院させてください。純子、シャワーを浴びて、服を着替えてきて。荷物はわたしが支度してくるから」
「ずいぶん急ね。どこか行きたいところでもあるの?」
「うん」
 カーテンを開けると、すがすがしい朝の光が、埃っぽい病室の隅々までを白く浮かび上がらせた。純子が眩しそうに目をすがめ、額の上に骨っぽい手のひらをかざした。
「わたしも、仕事辞めてきたから。旅に出よう。バリに行こう」

 純子が、半ば押し切るような形で退院の手続きをしているあいだ、一度コストの自室に戻って旅支度をする。
 部屋は、相変わらず埃っぽくじめついていたが、かんぬきを引き抜いて窓を開ければ、白昼の光とともに強い風が吹き入ってきて床の埃を舞い上がらせた。箪笥から、二人で着まわしている定番のTシャツ、大きくエクスクラメーションマークの入ったものから、やたら高額だったトミーヒルフィガーのもの、子猫が三匹団子になったイラストの入ったもの、いちごオレの描かれたもの、判読不能の中国語が大きくプリントされたもの、男の子が三人で線路の上を歩く写真入りのもの、青い蝶が全面に飛んでいるものなどを一度に出して、無難なものから順に三つほど畳んで右に避けておく。ショートパンツは三種類、デニムと、黒と白がそれぞれ一つずつ、それから薄手のワンピース、靴はいつものスニーカー、サンダルも二セット、下着類、純子はおしゃれなセットのもの、はじめにはユニクロのスポーツ下着、薄手の靴下、サングラス、生理用品に基礎化粧品。すでに床は物に溢れて足の踏み場もなかったが、おしゃれな純子を見たくて、ラインナップにクリスタルを散りばめたディオールのショートドレスと、ジミーチュウのパンプスも追加する。
 体重をかけてなんとかスーツケースに全てを収めたら、シャワーを浴び、軽く髪を拭きながら今日のスタイルについて検討する。腹や肩口にアイレット刺繍の入った、白いレースワンピース……胸が突っかかって、ウエストが太く見えるので却下。大きな花柄が散りばめられたオールオーバーのドレス……柄が古臭いので却下。Vネックやスリットから肌が大きく露出するタイプの、バタフライスリーブ・ワンピース……いささか大胆すぎないかと思わないわけでもなかったが、はじめが大胆であればあるほど純子も喜ぶのだということを思いだし、思い切った選択に踏み込んだ。青いボヘミアン風のパターンに合わせて、編み上げのサンダルに、つばの広い麦わら帽子を選んだ。鏡の前で一回転、胸を強調するような扇情的なポーズをとってみる。恥ずかしい。しばらく扉の前でウロウロしていたが、意を決して、スーツケースを片手に家を飛び出した。
 午前九時半、ホスピタルの正面玄関に現れた純子は、まずはじめの開放的なスタイルを見、続いて彼女の操る車を見て、拍子抜けしたみたいな、素っ頓狂な声をあげた。
「なにこれ!」
「借りた。これで、ジャワの東まで行くの」
 平たいカーブを描くボンネットに開放的なコンバーチブル、強い日差しにつやつやと光を帯びる赤いボディ、はじめがレンタルショップで借りてきたのは、往年の名車、マツダロードスターだった。
「借りたって、あんた、こんな良い車……」
「純子、前、オープンカー乗ってみたいって言ってたから」
「それは、そうだけど」
「荷物後ろに入れて、乗って。まず買い物に行く」
 口を半開きにしたまま、トランクに少量の荷物を詰め込む純子を傍目にはじめは、カーオーディオに入っていたプレイリストを適当に再生した。インドネシアでも、日本でもない、どこか異国のラブソングをハスキーな女の声が歌った。ジャカルタから隣島にあたるバリ島まで、一二〇〇キロ、目的地以外さだかでない、およそ正気とは思えぬ旅だが、はじめにはなぜだか不可能ではないという確信があった。ここからひたすら東へと向かい、五百キロほどで中部ジャワ、スマランという街に到着する。そこからしばらく南下、緩やかな山道に入り、いつか二人で行ったボロブドゥールにほど近い、スラカルタ町を経由、ふたたび東へ向かってスラバヤ、パニュワンギ、港からフェリーに乗れば、一時間もしないうちにバリへと上陸できる。ウブドゥ、クタ、最南のワルワトゥ、さらに東のロンボク島、どこへ行ったって良い。純子と一緒なのだから。
 インドマレットに立ち寄って、スナック菓子を大量に買い込んだ。朝食を食いっぱぐれたという純子には、アヤムゴレンが六ピースと、ストロベリーチョコレートのドーナツ、クロワッサン、それからバナナひと房が、はじめからプレゼントされた。
「あたし、こんなに食べられない」文句を言いながらも、ホスピタルでの点滴生活ですっかり小さくなってしまった胃に、一生懸命栄養を詰め込もうと頬を膨らませる彼女は可愛かった。
 買い物を終え、ふたたびジャカルタ市外に出て、テレコム・ランドマーク・タワー付近のジャンクションから有料道路に入った。青いセンサーにEマネーカードを触れさせると、電光掲示板に赤く、一万ルピアの表示が出て、左右のゲートが上に跳ね上がった。思いのままにスピードを上げる。時速六十キロを超え、二人の長い髪は風の中に鳥の羽のように舞い上がる。
「だんだん、思い出してきた。あたし、暴れたのよ、あんたの前で……」
 フロントドアの淵に腕をかけ、バナナを齧りながら、ぎこちなく硬質な声で純子がポツリと言った。「ひどいこと言ったわね」
「いい。気にしてない」
「うそつき」
「……本当は、ちょっと気にしてるけど、でも純子のこと、わたしが一番よく知ってるから。わたしがわからないことは、純子にだってわからなくて仕方がないと思う」
「あんたのこと、愛してないって言ったのよ?」
 黒曜石色の美しい巻毛が耳横から流れて、純子の物憂げな顔、マリアのような目顔の形や、ビーナスのような伏目を隠した。リップを塗った赤い唇ばかりが、やりにくそうに言葉を紡ぐ。
「愛してるかどうかはわからないけど、大好きでしょ、純子、わたしのこと」
「どうしてそう思うの」
「エッチのとき、純子、いつもわたしのこと大好きって言うから」
「ああ……そういうこと……」
「それに、純子たまに、はじめがいないと死んじゃう、どこにも行かないで、っていう目をするの。かわいくて好き。わたしには、友情と愛情の違いとか、好きと愛してるの違いとか、よくわからないから、それでいい」
 市街地を一般道と並走し、チャワング・インターチェンジを通過したあたりで、周囲の景色は一変する。棕櫚やパームラジャなどの樹木林、百日紅、赤い飾り屋根の村が点在する中に、要塞のような形の工場が散見される。周囲からオートバイがほとんどいなくなった代わりに、長距離輸送のためのトラックや石油を運ぶタンクローリー、観光バス、自家用車が増え、制限速度も一度に跳ね上がる。それ自体が、家一軒分ほどもある巨大な広告看板、群がる子供達の写真に、英語で〈未来のために〉との付記がなされ、貧困層の子供への寄付を呼びかけている。
「あたしのこと、簡単に許せちゃうのね」
「許す、許さないの話じゃない。ぜんぶ純子が好きだからだよ」
「はじめは、あたしのことまだ愛してるの?」
「もちろん。純子、愛してる」
「取り返しのつかないことをしたと思ってるわ。処女のあんたを、無理やり男に抱かせたり、ひどい言葉を浴びせたりした。あたしがあんた以外の男と関係を持っていたことだって、もう知ってるでしょうね。それでもあんたの、あたしへの気持ちは変わらないの」
「うん」
「あんたってバカね」流れる髪の向こうで、寂しく眇めた目が瞬く。「いつか痛い目を見るわ、きっとそうよ……」
 金のドームを三つ戴いた、立派なドームの左横を時速百キロで通過する。二人のロードスターは今、ジャカルタ市街を出、西ジャワ州へと突入した。

 ヤシばたけを背景に広がる緑の棚田、静かに泥をたたえた沼、そこで腰を屈めて米を収穫する人々、枝を抱えて、畦道の悪路をバイクで走る人、たなびく白や黒の旗、インベーダーゲームのモンスターみたいな形の電信柱、オレンジの瓦葺きの小屋、風の形に靡いた棕櫚、彼方に見える山嶺は浅い藤色に染まって美しい。乾いたコンクリートの高速道路は彼方まで続く。純子は、素足を横に組んで、腕をフロントドアにかけた姿勢でぼんやりと向こうを眺めている。
 足下のゴミ袋には、バーベキュー味のポテトチップスの空袋に、バナナの皮が五本分。空腹も、そろそろ誤魔化しきれなくなってきた。次のレストエリアに入る決意をしっかりと固めたはじめは、程なくして、左手脇にレストエリア・KM228Αの表示を発見した。KM228Αというのは、ジャカルタから約二二八キロの距離にあるレストエリアである、という意味だ。ウィンカーを出して左折し、簡易礼拝所や雑貨店、コーヒーショップ、インドマレット、レストランなどで、ちょっとした街のような様相をなすレストエリアの駐車スペースにロードスターを停めた。
「純子、昼ごはんにしよう」
 各々手洗いを済ませたあと(自動水洗式でもないのに、二人で一万ルピアも徴収された)、インドマレットのスナックコーナーをのぞいたり、レストランのメニューを眺めたりして、結局、新しくできたらしい小さな定食屋に入ることを決めた。客足もまばらな時間帯で、カウンターでは若い少年が一人、昼寝を決め込んでいたが、二人が入店するとうっすら目を開けて注文を聞いてきた。壁に掛けられたメニューには、数十種類の品目、その中の半分は具材を選べるセットメニューになっている。純子は、バクソと呼ばれる、牛肉のすり身のミートボールのスープと、付け合わせの麺(ミー)、はじめは揚げエビ(ゴレンウダン)に白米、中華エビ煎餅(クルプック)をオーダーし、ソファ席に向かい合って座った。
 明るい黄色の壁に、なぜか、葛飾北斎〈神奈川沖浪裏〉が、大胆な筆致で模写されている。左上にはきちんと漢字の題字や署名までが書き写されている。少年が、ソスロのフルーツティーを二瓶、サービスだと言って出してくれた。
「気づいた? あの子、はじめのおっぱい見てたわよ」
「気にしすぎ」
「そういうはじめはもうちょっと頓着してよ。あんたが無防備なせいで、あたしがいつもどんな思いでいるか、わかって」
 注文した料理は、盆に乗って二人のところにすぐさま到着した。はじめの目の前で、可愛らしい赤い尻尾の出たエビの揚げ物が、ケチャップ・マニスに浸されてつやつやしていた。
「純子に、かわいいって思われたくて。でも気になるならもう着ない」
 尻尾をつまんで持ち上げた一尾を前歯でかじってみる。店の立地が海に近いからか、エビの方も臭みがなく、おいしい。
「すごくかわいい。はじめ、あんまりオシャレしないから、なおさらよ。でもそういうのはあたしと二人きりの時だけにして」
「かわいい? ほんと?」
「ほんと。そのワンピース、ベトナムにいたころに市場で買ったやつでしょ、そういうのは特にね、ぐっとくるものなの。だからこそ男には見せたくないのよ。あたしの言ってることわかる?」
「わかる」
 たしかに……純子が、真っ白な脚やうなじを露出させて、寄ってきた男に粉をかけられていたら、はじめもムッとしてしまうかもしれない。たとえそれが勘違い甚だしいことだったとしても。純子は器用にスプーンを使って、ミートボールと麺の両方を、まとめて口の中に放り込んだ。
「二人でちゃんとしたごはん食べるの、久しぶり」
「そもそも話すのが久しぶりよね。あたし、何週間あそこにいたの?」
「一ヶ月とちょっとくらい」
「はじめてじゃない? そんなに話さないでいたの……」
「そんなことない。大学行きはじめたころは、忙しくて、メールしかしてなかった気がする。それに、わたしは、寝てる純子にずっと話しかけてたから、あんまり実感ない」
「起こしてくれればよかったのに」
「医者が……いや、わたしが……純子と直接話す勇気がなくて。ごめん。もう少し早く迎えに行けばよかった」
「あたし、寝てるあいだ、あんたの夢を見てたのよ、たくさんね」クルプックを一つ、はじめの皿から浚いながら、純子、「成人式に行くか行かないかで揉めたの、覚えてる?」
「もちろん」
 純子二十歳、はじめはまだ十九歳だった冬、母校主催で成人式をするとの知らせが、公貴から純子にもたらされた。純子は行くのを散々渋ったが諭されて、結局一月初旬に格安航空のチケットを取っていた。しかし当日、スカルノハッタ国際空港に到着するその時になって突然、純子はタクシーの運転手に進路変更を命じ、二人が帰国することはなかった。
「はじめが珍しくヘソまげちゃって、あたし困ったのよね」
「ホテルのご馳走、食べたかったし……」
「あたしが作ってあげるって言ったじゃない」
「それとこれとは別」
「あのあと夜ご飯奢ってあげたし」
「屋台の……あそこのアヤム食べてお腹壊した」
「それは、はじめの店のチョイスがよくなかっただけじゃないの?」
 目の前でホテルのオードブルを取り上げられた挙句、腹を壊し、熱と悪寒に苛まれながらベッドで悶えるはじめのために、純子はバクソを作ってくれた。この店のものとは違って、ミートボールとスープに白米、パクチー、ライム、ニンニクや玉ねぎのチップなどが入っていて、熱っぽい身体にもやさしい味わいだったのを、今でもはっきりと思い出せる。
「懐かしいね」
 純子が微笑した。

 西ジャワから中部ジャワ州に入った。さとうきびやタロ芋の畑、バナナ農園、棚田なんかを後ろへと見送る二人に、夜の気配がたしかに迫ってきていた。有料道とは言っても、ジャカルタから離れれば離れるほど街路は少なくなり、道の状態も悪くなる。特にはじめのようなペーパードライバーにとって、夜間の運転は避けるに越したことはない。軽い渋滞に巻き込まれたということもあって、結局、KM391地点のレストエリアで車中泊をすることにした。
 インドマレットやレストランだけでなく、フードコート、スターバックスまで備えた大きなところで、簡易のモスクにはトラックドライバーや旅行中のイスラム教信者たちが大勢詰めかけて日没(マグリブ)の礼拝を行なっていた。手洗いも、プレハブ個室のきれいなところだった。大して空腹でもなかったので、インドマレットでスイカやパイナップルのカットフルーツを購入し、スターバックスにも立ち寄ってグリーンティ・フラペチーノを二人で半分こした。アカシアの植林が、日没後の、コバルトブルーから濃いオレンジ色のグラデーションの空に、黒く影絵のようになっているのを、アルミのベンチに座って二人眺めた。
「いまどのあたり?」
 はじめの右手からパイナップルを齧り取りながら、純子が訊いてきた。
「パテボンの南。今日にはスマランにつきたかったけど、渋滞があったから……」
「そう……この格好だと、夜は少し冷えそうね」
 駐車スペースには他に、緑や青に塗装されたタンクローリー、オレンジのトラック、見覚えのある日本車が何台か、その他自家用車、巨大な観光バスなどが泊まっているが、礼拝中であるためか人の姿はまばらだ。小さな店舗などは店員がおらず、店ががら空きになっているところもある。
「日没を、ただ眺めるだけなんていつぶりかしら」
「うん……きれい。描いてみたい」
「持ってきたの、スケッチブック?」
「持ってきたけど車の中」
「ちょうどいいわ。はじめのこと、独り占めしてるみたいで、うれしい」
「ほんと?」
 純子の胸元に潜り込んで、至近距離でその目を覗き込んだ。彼女の瞳は不自然なくらいに澄んでいて、向こう側の世界、彼女の精神世界までがすけて見えそうなほどだった。ゆったりとした瞬きを二、三度繰り返した後、彼女ははじめにとびきり優しい笑顔をよこしてみせた。
「本当よ」
 はじめは、細い首に両腕をまわし、ほんの少しだけ目を閉じて、大好きな純子とキスをする。ほっぺに。鼻の頭に。そして唇に。はじめ、と呼ぶ声を、唇の中に閉じ込めてしまう。これまで幾度か身体を重ねたにもかかわらず、奇妙な感慨が込み上げて胸郭の内側を微震させた。すぐに頭の芯がぼうっとなって、身体ぜんたいの力がすっかり抜けてしまうみたいだった。
「純子、純子」
「仕方のない子、大好きよ」
「じゅんこ」
 下唇を、熱い舌でやさしく舐められるとたまらない気持ちになった。バターのように溶けて一つになりたい。
 夜は車中泊をすることになる。ロードスターのソフトトップを閉め、申し訳程度のリクライニングを倒して、毛布にくるまって眠る。純子は助手席で、膝を抱えて眠ろうとしていたが、その身体はかすかに震えていた。鎮静剤が切れたいま、身体が薬による強制的な睡眠を求めているのだろうと、はじめは勘づいた。「眠れないの?」
「違うの、寒いのよ……」
 膝に頬を乗せて彼女が笑おうとした。はじめは、狭い車内で身を屈めるようにしながら立ち、ワンピースの背中のファスナーを開けた。ぎょっとして目を見開く純子の前で肩からワンピースを落とし、続いて、胸を締め付けていたスポーツ用のブラジャーを外してしまう。純子が何か言おうとするのを、視線だけ抑えて、さいごに……迷ったが、結局、ショーツまで脱いだ。純子の命令がなくとも従順に剃毛してきた無毛の恥丘が、駐車スペースの無機質な照明に白く光を帯びた。
「純子も脱いで」
「なに、したいの?」
「違うよ、一緒に寝るだけ。裸で寝たほうがあったかいから」
 純子が顔を赤くしながらシャツの前を開けるのを見ていると、反射的に膣が濡れてくる。しかし今日、傷ついた純子とセックスをするつもりは、はじめにはなかった。
 助手席に座る純子の膝をまたぐようにして腰掛け、痩せた身体にしがみつく。骨が浮き出てごつごつと隆起する背中をさすり、純子の身体から余計な力が抜けてきたのをみて、首筋や肩などにたくさん唇を寄せる。毛布を二枚重ねたのにくるまる。狭い。純子が、はじめの胸元に頬を寄せて、やわらかくて、あったかい、夢見心地につぶやいた。はじめにも、純子の薄い皮膚から彼女の拍動を感じていた。彼女が眠るまではじめは、日本の古い子守唄を歌った。

 翌朝八時にレストエリアを出て、九時半ごろには中部ジャワ州の州都スマランに到着した。十九世紀、オランダの手でインドネシア最初の鉄道が整備されて以来、インドネシア最大の都市の一つとして機能する、古き好き大都市だ。住民も、ジャワ人、オランダ人、中国人、アラビア人と幅広く、それに応じて、異国情緒ある建築や、世界各国のレパートリー豊かな料理屋などが揃う。スマランのシンボルとされるラワン・セウ、東インド鉄道会社の旧オフィスは、赤いドーム屋根や白亜の壁面のまばゆいオランダ様式建築だし、タイルで細かく装飾された両開き扉の美しい大覚寺道教の寺院だ。ガソリンを給油するついでに中華街へと立ち寄り、ルンピアと呼ばれる春巻きのようなものを食べた。
 主に観光バスやオートバイによる渋滞に難儀しながらスマラン市街を抜け、郊外で再び有料道路に乗る。ここからしばらくは緩やかな山道になり、標高も少しずつ上がっていくため、寒がりの純子のためにソフトトップを締めておいた。小さな丘や渓谷をいくつも越え、山間の街サラティガで休憩を取ったりしながら、マルバブ山、ムラピ山といった火山を傍目に進んだ。まだ日の高いうちに、スラカルタ、通称ソロの街に到着した。日本で言えば京都のような立ち位置にある、小さいが歴史ある文化の街だ。マンクヌガラン王宮やカスナナン王宮をはじめとする史跡、郊外にはミステリアスな雰囲気が漂うスクー寺院、ジャワ原人が発見されたサンギラン博物館、南に降ればボロブドゥールがある。
 街には霧がたち込めていた。公共駐車場にロードスターを停め、二人は昼食のための定食屋を探すついでに、フルーツジュースの屋台で薄いスイカのジュースを飲んだり、できたばかりだというパラゴンモールでおやつを買い込んだり、バティックという、インドネシアの伝統的なろうけつ染めの職人が集まるカウマン地区を見学したりした。石作りの狭い工房で、壮年の男性が半裸になって、ろうをつけた銅板を型押しして布に模様をつけている。女性たちは呉座の上にあぐらをかき、子供の腰ほどの高さの木枠にかけた布に直接、手書きで、ろうを垂らして緻密な絵柄を描きこむ。純子が、手伝いをしているらしい若い女性の一団に、この子と、おそろいでワンピースを仕立てたくて、素敵な布を探しているんだけど、と声をかけた。彼女たちが奥から出してきた中に、真っ白なシルクに、ネイビーブルーとゴールドで尾長鶏や花を点描しているのがあって、純子はそれを七万ルピアで買い上げた。チップにも同じ額を出した。
 購入した生地を、地元の仕立て屋に押し込んで、ようやく、昼食を食いっぱぐれたことに気がついた二人だった。結局、マンクヌガラン王宮付近に立地する、オマ・シンテン・ヘリテージホテルのレストランに落ち着いた。伝統的なオープンエアの木造建築、木目の美しいテーブルについて、牛テールスープ(ソトブントゥット)やアヤムゴレンを食べた。めずらしく、メニューにビンタンビールがあったので追加で注文し、二人で乾杯した。運転できないことに後から気づいたが、それでも良かった。急ぎ行くような旅ではないのだ。時間はまだ十分残されている。

2024/02/02

 


 いつか、純子が、鏡に映る自分を見て、ひどく取り乱したことがあった。
 雨季の頃だったかもしれない。湿気が強くいうことを聞かない髪を持て余して、朝から彼女は、櫛とヘアオイルを両手に難儀そうな顔つきで鏡の前に立っていた。背の大きく開いたシアーシャツを着ていて、はじめは裸のままベッドに寝そべりながら、作り物のように細く美しい彼女の背中やウエストをぼんやりながめていた。しばらく、窓から吹き込む風の音や、彼女が髪をいじくり回しながらぶつぶつと唇に蓄えた独り言なんかを聞いていたが、不意に、櫛がタイル床に激しく音を立てて叩きつけられたので、はじめはきゅうりを見せられた猫のように飛び上がった。
「誰?」
 褪色した唇を振るわせて、彼女は鏡の中の自分を食い入るように見つめていた。「この人だれ?」
「純子?」
「あたし……あたしの顔じゃない、この人は誰? どうしてあたしと同じ動きをするの?」
 彼女が髪を摘めば、鏡の中の彼女も自分の髪を摘む。肩をすくめれば同様の動きが返ってくる。そのようなことを繰り返しながら、彼女の顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。不意に、激しく歯を鳴らし嗚咽したかと思うと、背を弓形にそらし、膝を折ってその場に崩れ落ちた。純子の錯乱は、大して珍しいことでもなかったが、このパターンは初めてだった。
「どうしたの。鏡の中に知らない人がいるの?」
 はじめの腕の中で浅く呼吸しながら、生理的な涙で濡れた目で純子は頷いた。「そうよ、さっきまで自分の顔が映っていたのに、突然知らない人になっちゃったの」
「純子、大丈夫、わたしには本当の純子が見えてる」
「ほんとうのあたしってどこ? どんな顔なの? 年齢はいくつで身長はどれくらい? 性格ってどんなふう? あたしははじめの何? どこから来てどこに行こうとしているの?」
 迷子になった子どものように怯える純子のために、彼女の絵を、はじめが描いてあげることにした。
 窓辺のデスクに腰掛ける裸の彼女を、ベッドに膝を立てて座り、スケッチブックを抱え込むような姿勢になって描いた。時刻は正午過ぎ、向かいのモスクのスピーカーからアザーンが流れ出し、家々から信者たちがぞろぞろと集まってくるころだった。薄い曇り雲に濾されてやわらかくなった白昼の光が、彼女の華奢な骨格、角ばった関節や鶴のようにしなやかな手腕、小ぶりで慎ましい乳房、くるくると渦を巻きながら肩口へ落ちてゆく濡羽色の髪などを、部屋の薄闇の中へ白く浮かび上がらせていた。その、白痴と思われるほど無抵抗で、運命的に美しい肉体を、鉛筆と水彩絵の具とで描いた。彼女は一時間あまり、言葉もなくはじめを待っていた。
 はじめが満足してスケッチブックを頭上に掲げ見るころには、純子の錯乱は恐れをなし、薄い腹の中へと逃げ帰ってしまったあとだったが、彼女はこの上なく嬉しそうに、見せてよ、はじめ、とデスクから身を乗り出した。はじめができたばかりの自作を見せてやるととても喜んだ。
「すごいわ、はじめ、あたしだけど、あたしじゃないみたい。ちょっと綺麗すぎるくらい」
「純子は、わたしの神さまだから」
「はじめはいつも大袈裟ね、ばか」
「……思い出した?」
「うん……ごめんね。もう平気。ねえ、この絵、あたしにちょうだいよ」
 首を縦に振って了承すると、「ありがとう」、見開きのスケッチブックを胸に抱き締め、いっぺんの曇りもなく微笑する純子だった。
「いつか道に迷ったとき、この絵を見て、きっと行き先を思い出すわ」
 純子はスケッチブックから自分の絵をちぎり取ると、額に入れて、しばらく部屋に飾っていた。以降、彼女が鏡を見て取り乱すことは二度となかった。

 チャンギ国際空港第二ターミナルを出るや否や、黒服のバトラー二人に迎えられ、黒いクライスラー・リムジンの上等なシートに腰掛けるよう促されたとき、はじめは自らの浅慮であることを心底後悔していた。
 住む世界が違う、というのが、率直な感想だった。クライスラーシンガポール海峡を左手に湾岸線を十キロほど走り、アート・サイエンス・ミュージアムをすぎて、かの有名なマリーナベイ・サンズホテルの敷地へと滑り込んだ。近未来風の青い照明がソフィスティケートな雰囲気を演出するロータリー、大粒のクリスタルが上から下へ滝のように流れる巨大なシャンデリアのロビーで、バトラー二人に挟まれ萎縮する東アジア人の女はひどく注目された。はじめは、いつものロゴTシャツにショートパンツ、履き古したスニーカー姿で、途方もなく場違いな格好と言っても良かったが、それが返ってアッパークラスの住民たちの興味をそそるということらしかった。
 専用のエレベータに乗せられ、数十階ぶんを一息に上がる。かき氷を食べたときみたいに耳がきんと痛む。五十四階、ザ・プレジデンシャル、普通に生きていたらまず目にかかれない最高級のスイートルームに、エレベーターは程なくして到着した。幾重もの波形の美しいシャンデリアにウォールナットの壁、金糸の織り込まれたカーペットの廊下を進むと、急に視界がひらけた。人間が使うには、あまりにも広大すぎるリビングルームだ。座り切れないほどのソファや椅子、溢れんばかりの花が飾られたホワイトオニキス製ダイニングテーブル、右手奥にはサムスンの八五インチテレビ、左手奥には白い花の描かれた金屏風にグランドピアノ、背後には趣味の良いモダンなミニバー、何より、眼前に広がるシンガポールの見事な夜景! 湾曲するマリーナの向こうで、競い合うようにして伸び上がったビル群が、赤や青やゴールドの照明でライトアップされている。都会の夜景はジャカルタで見慣れていると思っていたが、それではとても比較にならない、本物の、贅を尽くした都会といった趣だ。
「言っておくけど、俺の趣味じゃないからな」
 心外だとばかりの口ぶりでそう言うのは、部屋付きのゴルフシュミレーターで、今しがたホールインワンを出した公貴だ。
「違うのか」
「違うに決まってるだろ。出張が決まったとき、会社の方から割り当ててきたんだ。どうせほとんど不在にするんだし、寝られれば良いと言ったんだが……余計な金が有り余ってるんだろうな」
 テーラーメイド製のゴルフクラブを人工芝の上でくるくると弄びながら彼は、シングルソファに居心地悪く座るはじめを振り返った。何も変わっていない。人好きのする柔和な笑顔。見上げると首が痛くなるほどの長身、がっしりと重たい筋肉を乗せた強肩、短く刈り込んだ黒髪に角ばった顔、特徴的な黒縁眼鏡。いや、最後に会ったときから七年、また少し背が伸びたかもしれない。エックスエルサイズのポロシャツが二の上で窮屈そうに張っている。後ろ髪を触る無骨な手指に繊細なシルバーリングがきらめく。
「久しぶり、はじめ」
 クラブを置いた彼と、七年ぶりの抱擁を交わす。
「元気にしてたか」
「ああ、公貴も」
「悪くないよ。毎年人間ドック受けてるけど成績良いし」
「にんげんドッグ?」
 公貴が、インドネシアの隣国であるシンガポールに長期滞在しているということを知ったのは、本当に偶然だった。純子が倒れたとき、救急車を呼ぼうと思ったのだが、はじめは緊急連絡先を知らないどころか電話番号を持ってすらいなかった。焦燥し、何を思ったか純子の携帯電話を取って、彼女の発信履歴のいちばん上にリコールしたところ、公貴の細君を名乗る女性に繋がった。彼女の手引きで、はじめは無事救急車を呼び、純子は病棟へと入院することができたのだった。
「その節は、どうもありがとうございました」
「いいんですよ、どうかそんなに畏まらないで」いかにも繊細そうな白い手が、ルザーン製のソーサーにティーカップ、銀のスプーンをはじめの前に音もなく置き、ポットからハーブティーを注いでくれる。「はちみつはご入用?」
「えと……結構です」
「ミルクは?」
「……おねがいします」
 細君は承知したとばかりにたおやかな微笑を見せ、可愛らしいミルクピッチャーから少量を注いでくれた。ペリドット色の水面にミルクが混ざってマーブル模様になり、やがて落ち着いた。彼女がティーセットを盆に乗せてリビングルームを離れると、公貴と二人きり、奇妙な沈黙が室内に充満した。よるべなく、ハーバルミルクティーで唇を濡らす。おいしい。カモミールのフローラルな香りに、ミルクの優しい舌触りがよく似合う。
「こんど、はちみつ入りも試してみろ。なかなか悪くないぞ」
「……公貴もこういうの飲むんだな」
「彼女の悪阻がひどかったときは、コーヒーの匂いも禁物だったからな」
 彼がティーカップをソーサーに戻す。カチリと小さな音が弾けた。
「どうなんだ、最近、純子のやつは」
「連絡取ってたんじゃなかったの?」
「二ヶ月ほど前まではな。ちょっとしたことで言い争いになって、それきりなんだ」
「純子は……」辿々しいはじめの言葉を、公貴は、遮ることなく聞いてくれる。「……ずっと不安定だったんだけど、わたしはそれに気づかなかった。たぶん、わたしのせいで……幻覚を見たり、すごく気分が昂るのと、すごく沈むのを繰り返したりして……このあいだすごく大きな発作を……起こして、それからずっと病院にいる」
「通院していたんだろう、かかりつけの医者はなんて言ってる」
 イスラム教信者の医師の話はとりとめのないものばかりだ。精神的な問題は、神の意思に反する行動をとってきたことへの警鐘であり、イスラム教に帰依するか、このまま狭い部屋に縛り付けておいて外に逃げられないようにするか、選択肢は二つにひとつしかない、といったような内容だったが、はじめの中ではとても咀嚼しきれないのだった。
「どうすれば良いか、考えているんだが、正解が出ない」
「帰国して、然るべき高度医療を受けさせるというのはどうだ」
「考えなかったわけじゃないけど……いちどは状況が改善しても、最終的に、純子にとってもわたしにとっても、良い結果にはならないと思う……いや、たぶん、わたしにできることは一つなんだ。でもそれが、純子にとっての正解となるかどうか、わからないから踏み出せない」
「なあ、はじめ、俺にまだ話していないことがあるだろう」
 不意に、精悍な顔から笑みを消して彼が告げたので、はじめはひととき、継ぐ言葉を失った。
「今回はそのために、わざわざ飛行機を取って来てるんじゃないのか」
 彼の眼鏡の薄いガラスが、ランプシェードのオレンジ色の光を帯びて硬質な光を放つ。細い目が、お前が何を言っても俺にはその真偽がわかるんだぞ、とばかりに、厳粛に細められる。はじめは視線を膝下に落とし、いつのまにか空になったティーカップの縁を、なお舌で舐め続けた。カップを握りしめる両手の指がソワソワと落ち着かなかった。
「……まあいいさ。明日の昼まではこっちにいるんだろう。その時までに話してくれよ」
 はじめさん、いらっしゃる? 細君がベッドルームからはじめを呼んだ。時間切れだ。

「女の子のお友だちとショッピングをするの、わたくし、夢だったんです。うれしいわ。どこから見ようかしら」
 ザ・ショップス・アット・マリーナベイ・サンズは、ホテル付けの巨大なショッピングモールで、ショップはほとんどがハイブランド、そればかりか中を運河が走っていてゴンドラが何台も周遊している。全面ガラス張りのドーム天井に取り付けられたダウンライトから、金色の光がまぶしく降り注ぐ中で、先行する彼女のフレアスカートが優雅に翻った。
「あの、でもわたし、あまりお金を……」
「お気になさらないで。あの人から、たくさんお小遣いをいただいているの。わたくし一人ではとても使いきれないから、お手伝いしてくださるとうれしいわ。純子さんにもお土産をひとつ、なんてどうかしら?」
 身体が弱く、家からほとんど出たことがないという公貴の細君が、一生のお願いまで使ってはじめに依頼したのは、このショッピングモールで一緒に買い物をすることだった。
「公貴とは、出かけたりしない……んですか」
「畏まらないでください。わたくし、はじめさんより二つも年下なんですからね。公貴さんは、お買い物に誘っても、目に入るものみんな買えばいいと勧めてくるんです、うんざりしちゃうでしょう。それに殿方だから、女性の繊細な好みのことなんかわかってもくれないのよ」
 典雅にも指をそろえて唇を覆い、目を細めておかしそうに笑う。
「妊娠がわかってからは、あの人が止めるから一人で出かけることもできなくて、退屈していました。あなたがきてくれると知ってわたくし、とても嬉しかったんですよ」
 純子の身体つきにも似て、細く、肉付きの乏しい彼女だが、現在公貴の第一子を妊娠しているのだという。事前に公貴から話は聞いていたし、そのための配慮を求められてもいたが、本人の口から事実を聞き、はじめは改めて驚く。タサキ、ディオールセリーヌバーバリーバレンシアガ、名だたる高級ブランド店を通り過ぎたり、のぞいたりしながら、少女たちは他愛のないおしゃべりに耽る。
「公貴は、あまりにものに興味がないみたいだから、しかたない。デートに誘うなら、ロードレース……の大会がいいと思う」
「素敵。たしかお三方は、自転車競技の部活で一緒だったんですよね」
「そう……公貴はいつもああいう感じだけど、ロードに乗ると、人が変わったみたいになることがある。こう、チーターがウサギを捕食するみたいな感じで……面白い」
「本当ですか? 信じられないわ。わたくしまだ、優しい公貴さんしか見たことないんですもの」
 ジミーチュウの、ガラス張りのブティックの前を通りがかった時、プレゼントボックスを模したディスプレイ台の上に、ちょんと置かれていたサテン・パンプス、ポインテッドトゥと一〇〇ミリヒールにメタルとクリスタルのスタースタッズをあしらったものを見つけた彼女が、即座に反応した。純子さんて、ヒールは履かれるの? 質問の真意を掴めないままはじめが頷くと、続いて、サイズは? と訊いた。
「二十五センチ」
「ちょうど良いわ、これにしましょう。おそろいのトートバッグもひとつ」
 唖然とするはじめを取り残したまま彼女は、現地人のファッションアドバイザーに英語で話しかけ、ディスプレイされていた例のパンプスと、奥のガラス棚に飾られていた水色のレザーのトートバッグを指差した。計算機で店員が明示した金額にほとんど目もくれないまま、子どもがトレーディングカードを交換するみたいなきやすさで、財布から金のクレジットカードを出してよこした。商品はすぐさまコットンバッグに包まれ、サテンのリボンをかけられ、分厚い灰色のショッパーに入れられて彼女に手渡される。
「絶対に、純子さんに似合うと思うの。ほら、あの方、脚がとても綺麗なんでしょう?」
 会ったこともない純子へのプレゼントを、嬉しそうにはじめに手渡してくる。ほとんど茫然自失で礼を言いながら、住む世界が違うと、つくづくと反芻するはじめであった。
 彼女は続けて、ラルフローレンで公貴のためのサマーセーターをオーダーし、はじめにも何か買うよう勧めたが、結局何も購入せずにショッピングは終了した。夕食には若干遅かろうとも思われたが、彼女もまだ食事をしていないとのことだったので、帰りがけにフードコートへ立ち寄ることにした。シンガポールをはじめとする、アジア各国の名物料理の店が一堂に会し、濃い調味料の匂いがコート外にまで漂っていた。
 はじめはここにきて、チクチクと、あるいはむかむかと、例の不愉快な予兆が腹に湧いてくるのを感じていた。果たして、コート内に入るや否や強い匂いが鼻腔から気管へともぐり込み、空っぽの胃を散々にかき混ぜて、はじめは耐えきれずその場にうずくまった。鳩尾のあたりを強く圧迫されている。頭痛と、耳鳴りが、かわりばんこにやってくる。彼女ははじめの異変に気づくと、特に焦る様子もなく、薄手のシルクショールをはじめの肩にかけ、優しく背中をさすってくれた。
「何かご病気?」
 首を振る。
「では、やはり。そんな気はしていたの。今回シンガポールにいらしたのも、このことを公貴さんに伝えたかったからなんでしょう?」
 頷く。顎を引いた拍子に、眼球を厚く覆いはじめていた涙が滴り、顎の柔らかいところを流れた。
「……あなたと公貴を傷つけてしまう」
「いやだわ、わたくしたち、そんなやわじゃありませんよ。一番つらかったのは、たったひとりでここまできたあなたのほうでしょう」
「…………純子……」
 しゃがみ込んだまま、たおやかな腕に肩を抱かれる。ショールを胸に抱き寄せると、知らない香水の匂いが立ち上り、それにもはじめはむせ返ってしまう。純子に会いたい。本当は純子に抱かれていたかった。全身が震えて止まらなかった。

 ホワイトグースの羽毛を贅沢に使ったマットレストッパー、カシミヤの手触り心地よい布団の中で、意識は快く浮上した。
 寸刻、放心していた。身動きを取ることすら億劫だ。いま、自分はシンガポールにいて、この部屋は公貴が宿泊しているホテルの、おそらくセカンドベッドルームにいる、という事実を確認するまでにも、かなりの時間を要した。緩慢に視線を投げかけた天井をぼんやりと、間接照明の光が覆う。左右の、アールデコのウォールランプは、眠るはじめに配慮してかどちらも消灯されている。まだ深夜か。それほど時間は経過していない様子だった。
 公貴は、ベッドサイドのカウチに腰掛け、古いロシア文学を読んでいたが、はじめが目を覚ましたことを知ると、文庫をサイドテーブルに置いて立ち上がった。
「気分はどうだ」
「……さっきよりは、良い」
 やっとの思いで捻り出した声は、低く、かさついていた。
「水飲むか?」
 はい、とも、いいえとも返事をしなかったが、公貴は水差しからグラスに注いだミネラルウォーターを、慎重な手つきでよこしてきた。ひどく喉が渇いていたためか、一息で三分の一ほど飲み干してしまう。唇から漏れたぶんが胸元を濡らし、はじめは、自分が白のシルクのネグリジェに着替えさせられているのに気がついた。
「すまん、ひどく汗をかいていたから、妻に着替えさせたんだ」
「いや……ありがとう」
「もとの服はランドリーに出した。明日の朝には戻るはずだ」
 公貴がそう言ったきり、二人は再び居心地の悪い沈黙の中へと追いやられた。
 飛行機がほど近くを通り過ぎる音がする。サイドテーブルには、重厚な玻璃の花瓶、雄蕊を取った立派な白百合が一抱えほど、華やかな香りが漂う。再び強い吐き気が襲ってきて、はじめは思わず手のひらで口元を押さえた。揃えた指に生暖かい液体が散った。無駄のない仕草で公貴が、タオルをてわたし、背中をさすってくれた。グラスに残った水を、今度は唇を湿らせる程度に含む。
「……妊娠したみたいなんだ。お前の子どもを」
 放り出たのは言葉だけではなかった。激しく咳き込んだ拍子に、魂までもが、外へと彷徨い出てしまったような気がしていた。背中をさする手が止まるのを感じたが、はじめは俯いたまま公貴の顔を見ることができない。
「連絡があったときから、まあそういう話じゃないかとは思っていた。一応確認するが、俺とおまえは、昨日七年ごしに再会したばかりの親友同士だよな?」
「ああ、間違いない」
「とするならば、純子の手引きか」
「そうだ、純子が、おまえの精液を冷凍して保管していた。……おまえのものという確証があったわけじゃないが、その反応からして、わたしの仮説は間違っていないんだろう。それをこの間膣に流し込まれた。うちの冷蔵庫は性能の良いものじゃないし、保存状態も良くなかったから、まさかのことはないだろうと思って……それどころじゃなかったというのもあって、処置を怠った。いま、五週目だそうだ」
「あいつはそのことを?」
 唇を固くむすび、首を振る。「知るわけがない。ずっと眠っているんだ」
「そうか、あいつ、そういうことだったのか……なかなかどうしてやるじゃないか」
 視界の端で、冷や汗に濡れた彼の喉元が、かすかに引き攣れるのを見た。
「——公貴?」
 笑っている? 
「いやなに……すまん……そうだな、困ったな。俺は妻帯の身で、住む場所も遠く離れている。おまえが必要とする支援を一〇〇パーセント行うことは極めて難しい」
 はじめがようやく首をもたげ、仰ぎ見た顔に笑みの気配はない。当たり障りのない、生真面目で引き締まった顔つきで、彼は自らの顎を触った。
「わかってる。公貴にどうこうしてもらおうなんて思ってない。ただ、伝えておかないと、後々まずいことになるだろうと思っただけだ」
「もうすでにまずいことになってるんじゃないのか」
「……この子はわたしが育てる」
「無理だ。おまえにも純子にもその素養はない」
「わたしだってもう次の春には二十六になる。働いて自立もしている。立派な大人だ」
「そういうことじゃない。いいかよく聞け、内閣府の調査で、子どもをひとり育てるのに、二十年で四千万ほどかかるという試算が出ている。世帯年収でいえば八百万以上だ。日本円でだぞ。はじめ、おまえはこの七年、インドネシアで一体いくら稼いだんだ? 年収は? 純子と合わせてみてどうだ? 住む場所は? 今の狭いアパートに親子三人で暮らすつもりか? 教育は? おまえたちは二人とも高卒だ、子どもが大学に行きたいと言い出したらどうする?」
「で、でも」
「さらにいえば、この話はおまえたち二人が協力して立ち回れる状況下での話だ。だが、今の純子は、とてもじゃないが子育てに関われる状態じゃない。むしろマイナス要素になりうると言っていい。おまえは一人で、一年に八百万もの大金を稼ぎながら、純子と赤ん坊の面倒を見なければならない。簡単とか難しいとかいう話じゃない、無理なんだよはじめ、おまえに子どもを育てるのは無理だ」
「じゃあ! どうすればいいんだ!」
「簡単な話さ。純子と別れろ。それで、鏑木と結婚するんだ」
「は、…………純子と? 別れる……?」
 硬直するはじめを露ほども気にかけることのない様子で、公貴が淡々と続ける。
「俺が独り者ならもらってやれたが、現状では難しい。だが幸い鏑木はまだ独身だ。彼に会って話をしたんだろう。好きだと、言われたんじゃないのか?」
「そんな……」言葉が出ない。「……鏑木を、利用するみたいな……」
「結婚は、所詮利害の一致による契約関係にすぎない。鏑木はおまえに好感を抱いていて、おまえは財力に富んだパトロンを求めている。言っておくが、あいつは半年で俺の年収の倍近く稼ぐぞ。ウィン・ウィンだろう」
「……できない……、わたしには、純子と別れることなんて……」
「他にも選択肢はある。今なら、妊娠を諦めることもできるし、認知の上で俺が引き取っても良い。よく考えて決断しろ。時間はまだ残されている」

 

2024/02/01

 

 

 


 ——あんたのこと、本当に愛したことなんて一度もない!
 頭蓋骨の裏にぽっかりとあいた空洞に、その声は絶えることなく反響する。
 胸が引き絞られるように痛み、続いて、込み上げてきた言いようのない感情が、下瞼からあふれ滲むように伝った。頬を冷たいものが流れる感覚で、二十四歳の青八木一は覚醒の浜辺へ静々と漕ぎ着けた。いつの間にか眠ってしまったようだ。パイプ椅子に座った格好のまま、全身を放り投げ、漂白剤の強く匂うベッドシーツに右の頬を預けて放心する自らを、はじめは発見した。
 右手だけが何者かと繋がっていた。見れば、それは女の左手で、およそ生きているとは思われぬほど生白く、骨ばって痩せていた。長らく手入れをされず、爪先の青いネイルアートは剥げはじめていて、ラインストーンの星もいくつか取れかけている。リスター結節のくぼみに滞留する陰湿な影。肘窩の皮膚を覆う分厚いガーゼ、その内側から伸びて輸液バッグにつながるチューブの管。鎮静剤がよく効いているらしい、はじめが指を絡めて握り直しても、ぴくりとも反応を示さない。
「純子……」
 返事はない。手嶋純子は、青白い唇で無機質に呼吸を繰り返すばかりで、はじめの呼びかけに応えることもない。
 幻惑的で異国情緒ある、創造主がいっぺんの無駄も予断も許さずに拵えたような、美しい顔、それが、すっかり痩けて見る影もなかった。白昼の光の中で豊かに波打っていた黒髪は乾燥し、ちりちりと枕の上を這い回るばかり、はじめが何よりも好きだった北天のオーロラを思わせる瞳も、よそよそしく瞼に覆われて久しい。はじめは、純子の八面玲瓏の心に対してほど、彼女の美しさには関心がなかったが、今、失われてゆくその美徳を想って、胸を軋ませずにはいられなかった。
 鍵のかかった小さな窓から、東雲の光がうすぼんやりとさしてきて、純子の彫りの深い顔へとかすかな青い影をもたらした。にわかに憂愁に取り憑かれた心臓を持て余しながら、触れていた指先から離れた。何もかもが言葉にならないまま、ベッドへ身を乗り出し、白い歯の覗く唇に、自らの唇でねんごろに触れた。
 病室から出る。まだ薄暗く、エマージェンシー・イグジットの蛍光色の明かりばかりを光源とするリノリウムばりの廊下には、人の気配こそないものの、消毒液や殺菌剤の刺激臭と、鬱屈とした空気がぬるぬると混ざり合って停滞している。朝方だというのに、患者の独り言、叫び声、心理療法師が患者を落ち着かせようと語る声、拳で壁をしきりに叩く音、神経質にカチャカチャと金具を鳴らす音、監視装置のピープ音。三つあるカウンセリングルームのうち二つは使用中のランプが点灯している。ナースステーションでは、夜勤の看護師が何人か、ばたばたと忙しなく動き回っていたが、カウンターに立つはじめに気づいた一人が振り返って、「あら、アオヤギさん、おはようございます」、薄笑いを浮かべた。
「おはようございます。すみません、寝てしまったみたいで」
「いいんですよ。もうお帰りになられます?」
「はい。あの、純子のこと、よろしくお願いします」
 そうは言っても、彼女たちにできることは、純子に鎮静剤と栄養補給の点滴を打ち、バイタルを測り、あの部屋から出られないように閉じ込めておくことくらいだと、はじめも十分承知していた。今は眠らせておくことしかできない。彼女を苦痛から救う手立てを誰も持っていないから。彼女に最も近しいと思われるはじめでさえも。
「ええ、アオヤギさんもお気をつけて」
 何が正しいのか、何が間違っていたのか、考える。エレベーターに乗り込み、七階から地上へと降下する。出会ってから十年近く、はじめは純子という殻の中に守られて、その居心地の良さに甘え、外で彼女がどのように感じているのか、考えようともしなかった。はじめは純子のことを愛していて、それは彼女も同様だと、信頼はいつしか盲信となり、彼女の首を絞めていたのかもしれな買った。純子ははじめのことなど愛していなかったのだろうか? 本当に? 考える。考えていると、腹の底の柔らかい部分に巨大なスプーンを入れられて、ごちゃごちゃとかき混ぜられているような気分になり吐きそうになる、今すぐ手洗いに駆け込んで便器にしがみつき、泣きながら全て嘔吐してしまいたくなる。嫌な脂汗が首に滲みはじめたころ、エレベーターのベルが目的階への到着を告げた。
 ヒジャブをかぶった女とその子ども、医療券を握りしめた浮浪者の男、包帯で左足をぐるぐると覆った松葉杖の少年などの間を抜け、警備員に会釈をして、夜間診療入口から外に出た。熱帯の空気がはじめの肺を満たし、ひと時、後顧の憂いを忘れさせた。ジャカルタ都心の夜明けは存外に静かだ。総合病院、建設中のオフィスビル、ホテルなどが並び立つ向こうに薄明の空、金星がひときわ明るく輝いている。巨大なオートバイ駐輪場の傍らに、あるかないかというくらい狭い自転車駐輪場、そのラックの一つからロックを外し、白いコラテックを担ぎ出す。
 屋台や雑貨店のひしめき合う中をしばらく走り、メリディアンホテルの、全面ガラス張りのビルが建つ交差点を左折すると、中央ジャカルタ、つまりイスティクラル・モスクの方角へと伸びる大通りに入る。そこから、自宅コスト付近の交差点まで、およそ四キロ直進することになる。車やオートバイと並走しながら、はじめはようやく、すっかり腹を空かせている自分に気がついた。そういえば、昨日の夕方に病棟へと入ってから何も口にしていない。どこかで朝食を取ろうと、考える、インド・マレットでいつものようにインスタント麺を購入しても良いし、KFCでチキンを買い込んで独り占めする贅沢をしても良い、屋台に入って現地料理を食べるも、ホッカ・ベンで日本の弁当もどきを試すも良し、なんでも良い、どうだって良いのだ、どうせひとりなのだから……ドロップハンドルを握り込む手にいやな力が入る。下瞼が震え、鼻先につんと軽い圧力がかかる、どうも子どものようでいけないと思いながらも、ともすれば押しつぶされそうな自らをはじめはすっかり持て余している。今傍らにない温もりのことを想った。純子ははじめを、強くてやさしいとよく誉めた、それもすべて、純子がいてこそだったのに!
「あっ」
 進路前方に、排水溝の大きな窪みを発見したが、はじめはその認知にわずかな遅れをとった。慌ててハンドルを右に逸らすも間に合わない。細身のホイールはまんまと窪みにハマり、勢いづいたフレームは力を逃し切ることができずに振り切れ、はじめの身体は思い切り前方へと投げ出された。どうすることもできずに、ただ瞑目する。コンクリートに激しく打ち付けられると思われたはじめの身体は、しかし、
「っぶねえ!」
 たくましく引き締まった腕の中へ、すっぽりと抱き留められていた。
「…………おまえ、バカだろ! 何ぼけっとしてんだよ! このへんっつうか、この国、道めちゃくちゃ悪いから、気をつけて走れって言われてるだろ!」
「あ、ああ。すまん……」
「すまんじゃすまねえよ! バカ! オレがいなかったらおまえ、今頃頭打って死んでたんだぞ! 気をつけろよ! バカ! わかってんの、か……よ……」
 激しく鼓動する心臓、緊張のあまりの荒い呼吸をなんとか抑えつけながら、見上げたその人の顔に、ひととき、時間を忘れた。汗に濡れて跳ね上がった、オレンジ色の染髪。よく日に焼けた雄々しく精悍な面構え。太く、切りだった眉、怜悧にとがった鼻梁、それらとは裏腹に、まだ幼さの残る赤らんだ頬。鍛え上げられたアスリートの半身。彼もまた、あどけなく大きな瞳を限界まで見開いて、穴が開くほどはじめの顔を見つめていた。
「青八木さん……?」
 分厚い唇が、ポツリと、はじめの名前を口にする。はじめもまた、愛おしい青春時代の記憶の中から、その人の名前を拾い上げて確かめた。
「鏑木」
「あっ、あ、青八木さん! えと、オレ、あの……青八木さぁん!」
「耳元で騒ぐな。喚くな。ちょっと落ち着け。うるさい」
「さーせん! あの、嬉しくて! え、本物! 本物すか! まじで! うわあああ青八木いぃいい」
 日本自転車競技チームのホープにして、はじめが、かつて最も目をかけて育てた後輩。鏑木一差は、その場に崩れ落ちて子どものように泣き出し、往来の人々の注目を一身に浴びた。

 一月、つまり来年の冬、アジア自転車競技選手権のトラック部門大会が、ここインドネシアジャカルタにて開催される。フランス・バイヨンヌ地方土着チームのエーススプリンターとして、ロードレースのワールドマッチを走っていた一差だが、来シーズンからトラック競技への出場をも検討しており、今回はその視察のために単身インドネシアを訪れた。彼の、取り留めもないおしゃべりの中から重要なエッセンスだけを取り上げると、概ね、そういった内容にまとめることができるだろう。
 はじめは、何も知らなかった。ジャカルタに定住するようになってからは、純子以外との交流をほとんど絶っていたし、彼女だけを見、彼女だけを愛する日々を送るうちに、いつしか他の情報に関心を払わなくなっていたのだった。聞けば彼は、今年のジロでポイント賞を獲得し、グリーンゼッケンをつけて走ったのだという。そういう重要なニュースすら、はじめのところには入ってきていない。
「ひどいですよ、オレ青八木さんに褒めてもらいたくてがんばったのに」
 体育座りになり、頬を膝にくっつける子どものような格好で、一差はぷうと頬を膨らませる。
 二週間の視察の間、彼のためにマネージャーが手配したという部屋は、広さ一千フィートほどのキャピタルスイートで、しかもグランドハイアットだった。ブンダランHIと呼ばれる巨大な記念碑、それを取り囲むエメラルドグリーンの美しい噴水、シティビューを一望できるアルコーブに二人腰かけて、一差が頼んだ大量のルームサービスを楽しんだ。黒胡椒で味をつけたナシゴレンサニーサイドアップつきミーゴレン、ナシ・チャンプル、土製の小型こんろに載ったサテ、油で揚げたロールチキン、キヌアとチョリソーのサラダ、大豆を発酵して作るテンペ、付け合わせの香辛料サンバル。一差の、男らしく節くれだった指がテンペをつまんで、真っ赤なサンバルにディップする。それが素早く厚い唇へ運ばれる。
「悪い。鏑木、おまえはよくやってると思う」
「青八木さんもそう思いますか? えへへ、もっと褒めてください」
 手のひらで短い髪をかき混ぜてやれば、口のまわりを汚したまま、とろりと目尻を下げ、甘ったれた顔で一差は笑う。「マジで嬉しいっす。青八木さんに会えるなんて思ってなくて。メール送っても返事してくんないし」
「メール?」
 はじめは、この国に渡航してきてから作成した、事務用のメールアドレスのことを思い出す。届くのはいつも、会社からの事務的なメール、ショッピングモールやスーパーからの広告メール、それからよくわからないアラビア語の迷惑メール。日本語のものと言ったら、純子が、おふざけで送ってくる短いラブレターくらいのもので、そういうのはブックマークしてファイリングするようにしているから、見逃すはずもないのだが。
「そうですよ、二ヶ月くらい前に……届いてない? 古賀さんオレにウソ教えたのかな……」
「見てない、なんて書いたんだ」
「え? えっと、それは……、……マジ尊敬してます、また一緒に走りましょう、って書きました! 青八木さんまだロード続けてるんすか?」
「……あんまり乗ってないかも」
「ええー」
「乗ってたとしても、現役選手のおまえにはもう勝てないよ。勝負どころか、サイクリングにすらならないから、一緒に走ってもきっと退屈させる」
「そんなことないです!」
 サンバルだらけの指が、はじめの両手を、まるで壊れものでも扱うかのように優しく握り込んだ。
「青八木さんと走るのオレ好きです、大好き! ていうか遠慮するとか青八木らしくねえ、やめてくださいよ! 気持ち悪いな!」
「気持ち悪いって、おまえな……」
「そうだ! 今から一緒に会場見に行きませんか? そんで試走しましょうよ、そしたら一石二鳥? でしょ!」
「バカ。だめだ。おまえもう明日には出国するんだろう」
「そうですけどお」
 大きな手のひらからのがれた両手は、サンバルでべったりだった。それをティッシュで拭い、ゴミ箱に放り投げて、はじめも大皿の中からサテの串を一つとって食べた。
 一差と、十年越しにこうして額を突き合わせて話し、食事を共にするのは楽しかった。彼は高校生の頃そのままのやんちゃな口ぶりではじめを楽しませ、はじめも、まったくの自然体で軽口を言ったり、笑ったりすることができた。まだ昼だというのに、ウエイターが、ビンタンビールのライムグリーンの瓶を盆に置いて運んできて、二人分のバカラグラスに恭しく注いだ。すぐにこれを飲み干しつぎたしした一差の頬はにわかに赤らみ、会話もハイになってきた。はじめのほうでも、美味な現地料理を中心に、普段はなかなかありつけないアルコールをちまちまと楽しんだ。
「ねえ明日、夜フライトなんですけど、青八木さん見送りに来てくれますか? ていうか、食事しませんか? 今度はもっとちゃんとしたところで」
「わかった」ふわふわと回る頭で、何も考えず、はじめは彼に微笑した。
「ほんとすか? 約束ですよ、破ったらハリセンボン飲ませますからね。十一時に迎えに行くんで、住所、教えてください」
「わかった」
「おしゃれしてきてくださいね。今日みたいなのでも……可愛いけど、もっと可愛くしてきてください。わかりましたか?」
「わかった」
「ほんとにわかってます? 頭ぐらぐらしてますけど」
「わかってる。あした、十一時に、おしゃれして待ってるから。鏑木……」

 浅慮だったかもしれない、そんな不安を、はじめはすぐに打ち消した。相手は一差だ、無心にこちらを慕ってくれるかわいい後輩。どうかしている。かぶりを振りながら、おぼつかない足取りで、コストの外階段をのろのろと上がる。頭痛と耳鳴りがひどい。胸と腹のちょうど中間、鳩尾のあたりに、もやもやと言いようのない不快感が立ち込めている。すでに喉や舌の付け根あたりにまで胃酸が上がってきていて、気を抜けばこの場で嘔吐してしまうだろう。大して食べたつもりも、飲んだつもりもなかったが……こうした原因不明の不愉快な感じが、近頃度々はじめを苦しめていた。
 一人きりで雪崩れ込んだ部屋は暗い。カーテンは閉め切られ、掃除を怠った床には、白い埃が膜のように積もっている。ピンク色の花柄の玄関カーペットの上でなんとかスニーカーを脱ぎ捨て、リュックを床へ放り出し、ベッドの方へ駆け寄ろうとしたが、不意に脚から力が抜けずるずるとその場へ崩れ落ちるはじめだった。頭痛はことさらにひどく、脈打つように痛み、こめかみを締め付けるような圧迫感が不愉快な感覚をさらに強めた。
 ——仕方ないわね、はじめ。ほら顔を上げて
 優しい声の記憶が、床に寝そべって放心するはじめの上に、やわらかく降ってくる。
 長い黒髪を悠然とかきあげ、陶器のつくりものみたいに綺麗な白い顔に慈愛をたたえて、純子ははじめを抱き起こしてくれる。頭を預けた肩口から立つ、幻想の国の花の香り。無邪気に頬をくすぐる優美な指先。彼女は、赤い唇にミネラルウォーターを含んで、涎や胃液で汚れたはじめの口許に、コマドリがするかのような繊細な仕草で口づけた。冷たい水が喉を潤し、はじめは、安堵のために深く嘆息する、
 ——はじめ、あんた、弱いのに、すぐ無理して飲むからダメなのよ。よしよし……おいで、一緒に寝ましょう
「うん、純子……」
 愛おしい名前を微吟する。うっとりとして瞼を開ける。茫漠と広がる黒染の闇、彼女はいない。はじめは立ち上がり、緩慢な足取りでベッドに近づき、今度こそうつ伏せに倒れ込んだ。
 すがりついた毛布に残る、アイコニックでコケティッシュなシプレーは彼女の香りだ。髪や、手の甲の薄い皮膚、裸で抱き合うときには細くたおやかな腰から、はじめはその香りをたしかめた。腹のあたりに腕を回してまどろんでいると、くすぐったいわ、と言って、彼女は小鳥のように笑う、調子に乗って鼻先を押し付けたり擦り付けたりすれば、いたずらな手がやってきてはじめをシーツの上に縫い付けてしまう。
 ——欲しいの?
「じゅんこ」
 ——本当に、仕方のない子、
 まな板の上のうさぎみたいな格好で、あおむけにされると、はじめは身体も精神も全てを彼女の手の中に委ねようという気になってしまう。Tシャツの中に指が入ってきて、臍や、脇腹や肋骨の上など、感じやすい皮膚をくすぐられる。感じやすくだらしない乳房は、散々焦らされたあとのお楽しみ。早く核心に触れて欲しいという思いと、ずっとこの、淫らでまどかな時間に浸っていたいという思いがないまぜになって、はじめは陶然と、視線を伏せる。
 指が空想を追いかけて動く。乳頭を責めるときには、直接触れたりせず、まず乳輪の粒だった皮膚を触ったり爪で引っ掻いたり、歯で軽くかじったりする。そうすると、あさましくも乳腺は喜び勇んで収縮し、不能の乳汁が大きな乳房全体を湿らせはじめる。それも彼女はきれいになめてくれる。純子、早く、早く……そうしてはじめがほとんど極まりかけるころになって、不意に核心を突かれる。はじめはどうすることもできず、陸に上げられた魚みたいにのたうつ。湿った息を吐くのに混じって、あられもない媚声がつぎつぎに溢れていってしまう。膣口も、すぐにぬるぬると湿り気を帯びてきて、ショートパンツの白い生地をぐず濡れにする。それを純子は目ざとく見つけて、
 ——いけない子ね、……お仕置きしてほしいの?
「ん、ん、ぅん……」
 必死で頷く。純子は余裕たっぷりに口許を釣り上げると、ショートパンツと下着を脱がせてはじめの股の間にひざまずく。露わになった部分に鼻孔を寄せて深く息を吸い込み、凝り固まったクリトリスに優しく息を吹きかけながら、全体をその口に含み込む。舌を押し当ててねぶり回し、何度も吸引してはきまぐれに離し、純子のいじわるにはじめは翻弄されてゆく。唇が勃起を擦る粘着質な音に耳を犯される。羞恥に赤くなるはじめとは裏腹に、両膝は勝手に服従の姿勢をとってしまう。膣口からは絶えず何かが溢れ出し、純子はそれすら熱い舌で残らず啜り切ってしまう。
「純子、純子、純子」
 ——まだ足りないのね、
「純子好き、好き、純子、もっとして」
 ——この、淫乱、ちょっと反省しなさい、
「う、っ……ッ」
 指と、空想だけで、はじめは快楽を極めた。呼吸を引きつらせながら身悶えし、やがて弛緩した肢体をシーツの上に投げ出す。大量に分泌した乳汁でシャツはすっかり濡れそぼり、握りしめていた毛布や、シーツにもじっとりと染みている。膣はいまだに痙攣し、直腸までもが彼女の不在に飢え、空虚を懸命に食い締めていた。前触れもなく涙が溢れてきた。寂しい。愛おしい。悲しい。流れた雫が、頬から耳の方へと伝ううちに冷たくなる。
「純子……」
 純子に会いたい。
 いつも首の後ろにあって、ことあるごとにはじめを苦しめる、あの非情な声が、再び反響をはじめる。夏も盛りだというのに部屋は恐ろしく寒い。はじめは一人だ。毛布を頭まで被り、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらはじめは、こちらに笑いかける純子の記憶を腕いっぱいにかき集めようとつとめた。美味しいものを食べて嬉しそうにする純子。はじめを抱きしめて、後ろから耳元に愛の言葉を囁く純子。おかしな思い出話で二人して大笑いした時の純子。はじめのトンチンカンな発言を許してくれる純子。倒錯的な変態プレイをはじめが受け入れた時、自分から申し入れたくせに、ちょっと引いてしまう純子。ウィンドウショッピングを楽しむ純子。無精のはじめのために、コスメを買ってくれようとする純子。自分が書いた小説について語る純子。
 はじめのことなど愛していないと、純子は言った。それでも、どうしようもなくはじめは、純子のことが大好きだった。純子を愛していた。忘れることなどできようはずもなかった。

 目が覚めたとき、時刻は十時を回っていた。
 最初、はじめは、毛布を身体に巻きつけた芋虫のような格好で覚醒し、しばらく呆然としていた。こめかみに鈍痛が残っていた。デスクの上の、花柄の置き時計を見て、十時だということは認識したが、それだけだった。気だるさも取れないままだったので、考えることを放棄して少しうとうとしていた。このとき、実家の犬のことを夢に見た。尻尾を振ってはじめにじゃれてくる可愛いやつだった。
 次に意識が浮上してきたころには、約束の時間まで残り三十分を切っていた。それでも、なお、ぼんやり放心していた。ふと、もう一度時計を見て、全てを思い出したはじめはほとんど飛び上がりながらベッドを出た。遅刻だ! ひどく寝汗をかいていたので、服を脱ぎ、簡易シャワーと固形石鹸とで全身を洗い流した。ほとんど濡れた身体のまま手洗いを飛び出し、クローゼット兼収納となっている箪笥を開け、いちばん上の段に入っていたフェラガモの青いミニドレスを掴みだした。アクセサリーには、ブルーパールのネックレスにイヤリング、再び手洗いに駆け込んでディオールショウ・サンク・ククールのミッツァ、グリッダーにアメリ、リップにはロムアンドといった国籍混交っぷり、思い出したみたいに歯を磨いて、リップを塗り直していたらあっという間に五分前。考えて、再び箪笥を眺めて取り出したのは、真鍮のバングル。鏡の前に立ち、そういえばこれ、ほとんど純子のコーディネイトだ、との思いがよぎったのも束の間、戸を控えめに叩く音が表から聞こえてきた。慌ててマイクロバックを左手に、白のハイヒールを焦ったく履いて、ほとんど転がり出るようにドアを開けた。
 深い藍色の美しいホップサックのスーツに本皮の編み上げ靴、オートクチュールのネクタイ、金のタイピン、腕にはオクト・フィニッシモのシルバーカラーを堂々と輝かせ、あらゆる男を劣等感の中に叩き込まんばかりの出立ちのその男は、
「誰すか、あんた?」
 余計な一言でムードというムードを台無しにした。無礼極まりない男の耳を、思い切りつまんで引っ張ってやった。
「もう一度はっきり言ってみろ、しばき倒してやる」
「……青八木! 青八木かよ! どうしたんだ、青八木、そのカッコ……ってかメイク!」
「おまえがおしゃれしてこいって言ったんだろ」
「そうだけど……」
 じろじろと一差は、はじめの上から下まで眺め回す。それから何か喉に詰まらせたみたいな顔つきになり、ふう、と一つ息をつくと、実に嬉しそうににっこりと破顔した。
「かわいいから、青八木さんじゃないかと思いました」
「バカ」
 狭い廊下、外階段を、エスコートされて歩く。こちらの右手を握る大きな左手から、高いところで元気よく揺れる染髪に至るまでを、どこか他人事な気持ちで眺めた。あれから十センチ近く背が伸びている。重く張り詰めた筋肉のためにスーツは窮屈そうにつっぱり、広い背中には、肩甲骨が雄々しく隆起して生地を持ち上げている。スプリンターらしく鍛え上げられた大腿。大きな足。いつもは顔も見せないコストの住人たちが窓から顔を出し、異国からやってきたアッパークラスの男を、芸術館の彫刻でも見るような目で追っている。その彼に手を引かれるはじめのことも。居心地悪く肩をすくめたまま、促され、通りに停まった黒いメルセデスの後部座席に乗り込んだ。
「何たべたいですか?」
「なんでもいい」
「じゃあ肉にしましょ、肉、青八木さん肉好きでしょ」なんの伺いたてもしないままはじめの隣に収まった一差が、この辺で一番美味しい肉の店に連れて行ってくれ、と黒服の運転手に英語で指示をする。ジャカルタに、こんな良い車種のタクシーは走らない。ホテル付けのサービスなのかもしれない。空調が車内の空気を循環させ、はじめはようやく、一差が何か香水の類をつけていることに気がついた。
 運転手が、最上級の顧客のために選択した店は、ラ・カルティエという、ちょうどスカルノハッタ国際空港にほど近い立地のフレンチレストランだった。ロマン主義風の立派なエントランスを備えた、白い二階建ての小洒落た建物で、青い窓枠に建国記念日に備えた赤と白の旗を飾ってあった。褐色のボーイが、はじめのためにうやうやしくドアを開け、ロビーへと続くブルーカーペットへと導く。続いて車を降りた一差は、てっきり焼肉屋ステーキ屋に連れて行ってもらえるものと思っていたのだろう、あからさまながっかり顔だ。直情家なところは、高校生の時分からあまり変わっていないようだった。
 たわいもない話をしながら、ボーイに案内されて二人はドーム天井のロビーを横切り、アンティークの陶器を飾ったガラス棚のある廊下を歩いて、奥の個室へと案内された。ロイヤルブルーのクロスがかかった小さなテーブルに、名も知れぬピンク色の花が二房、ガラスの花瓶に入って飾られているのが、シャンデリアの華やかな灯りを反射して虹色の光を帯びていた。二人は向かい合って座り、ボーイがそれぞれコースメニューをよこしてきたが、はじめのものは値段の表記がなかった。
「うーん、よくわかんねえ、コースでいいですか?」
 事もなげに言う。
「……ちょっと貸してみろ」
「やですよ、こういうのって、見せちゃいけない決まりなんでしょ!」
「いいから」
 半ばひったくるようにして、取り上げたメニューには、そっけなく五百万ルピアとの表記があった。日本円にして四万五千円。ランチで。卒倒しそうになる。
 一差は、そばに控えていたボーイに、ランチコースを二人ぶんオーダーした。程なくして、黄色いラベルのマグナムボトルが運ばれてきて、ヴーヴ・クリコというシャンパン、ソムリエールがこれを恭しく二人のグラスに注いだ。アミューズは、極厚のトリュフを栗のペーストと溶かしたグリュイエールチーズで包み込み、ジャガイモで挟んだもの。パンはミニバゲット、フランス産の発酵バター付き。続いて、何も考えていないらしい一差がオーダーしたのは、ドメーヌ・ルフレーヴの白ワイン、二〇〇八年のもの。シトラスやリンゴ、白桃などの果物に、ローストしたナッツのような香りの混ざる、甘やかで芳醇な舌触り、恐ろしく上等なものだろう。一皿目がくるころには、はじめはほとんど前後不覚で、無邪気な一差のおしゃべりに耳を傾けていた。
「はじめて来たんですけどいいとこですね、ここ」
「ああ……」
「これ、茶色いタワーみたいなやつ、めっちゃうまいすよ。緑のタレにつけて……こっちはなんだ? 魚?」
 彼がフォークでつついているのはジャガイモのカルパッチョ、茶色いタワーは鰻とアンキモのミルフィーユ、ほかに、リンゴと大根のサラダ、グリーンマスタードのソルベ、カニとエビのジュレに大量のキャビア。二皿目にあわびのソテー、金箔やカラフルな小花の散ったカリフラワー。三皿目に、ジャガイモのピュレとケール、ブロッコリーロマネスコ。手長海老のラヴィオリ。セルフィーユ香るロワールのホワイトアスパラガス、モリーユ茸。ボタン海老のスープ。キャラメリゼされたブラック・コッド。カリフラワーのムースを完食して、ようやく、前菜が終了する。
「やっと肉ですよ!」
 金でオー・ソメットと箔押しされた黒い箱の中に、巨大な肉塊。それを、ボーイが二人係で取り分けてゆく。一差は理解していないのか、はたまた歯牙にも掛けていないのか、子供のように喜んでいるが、きちんとメニューに目を通したはじめにはわかる。あれは牛フィレ肉とフォアグラを抱き合わせたロッシーニである。もしこの場に純子がいたら、一差の頭を叩いて、このロッシーニがいかに上等な料理であるかということ、お子様プレートのテンションで食すべき代物ではないのだということを滔々と語ったことだろうが、前菜ですでに押し切られてしまったはじめにはその元気が残されていない。ワインを舐めつつ、付け合わせのポテトを齧ってなんとか胃腸をやり過ごすしかない。と、ボーイの去り際に、一差が次のワインをオーダーした。漆黒のボトルに真っ白なエチケット、ラ・トゥール、一九九四年のもの。ボルドーワインの中でも第一級にランクインする、世界屈指のシャトーである。
「か、鏑木、大丈夫か?」
「ん? 大丈夫すよ、今日は魔法のカードを持ってきたので!」
 カード出せばなんでも買えるんです、すごいですよね、嬉々として語る彼の手綱を握る名もしれぬマネージャーに、深く同情するはじめであった。

 デザートワゴンに追い詰められ、ミニャルディーズにノックアウトされて、へとへとのはじめが店の外に出たころには、すでに十六時になっていた。訳がわからなかった。ただ、ちょっとそこ行きましょう、で提供されるランチのクオリティ、量、価格ではないことだけが確実だった。一差は宣言通りに〈魔法のカード〉で一括支払いを済ませ、はじめを伴って外に待たせておいたメルセデスに再び乗り込んだ。
「青八木大丈夫すか? 食あたり?」
「いや……」下町の屋台食じゃあるまいしと、呆れ返りながらシートベルトを装着する。「まさか、こんな食事を、おまえとすることになるとはと驚いていたんだ」
 車は一度湾岸に出てから有料道に入り、スカルノハッタ国際空港第二ターミナルを目指す。彼の、バイヨンヌ行きのフライトは十八時半発、少なくとも十七時にはチェックインを済ませなければならない。
「パスポートは持ったか? チケットは? 忘れ物はないか?」
「大丈夫です、オレ、もう大人なので! 忘れ物とかしません! ……あ。青八木さん」
「ん?」
 カーステレオからはいつのまに、古いアメリカのラブバラードがしめやかに流れている。ジャワ海は夕暮れの斜めの光線を受けて、オレンジ色の鏡のように光っている。
 鼻先同士が触れ合うほどの至近距離で、一差の円な琥珀色の目が、はじめをじっと覗き込んでいる。大きな手が、不意に首の後ろへ伸びたので、ひととき、はじめは呼吸を忘れる。ざらついた指の腹が、頸の、薄い皮膚に触れ、喉に抜けた無防備な声をすんでのところで押し留める。一差は何も言わない。指は首から背へと下降し、露出した部分を探るような動きをしてから、ミニドレスの、背中のファスナーを、……力いっぱいに持ち上げた。
「青八木さんこそ、後ろのチャックちゃんと閉まってなかったですよ!」
「……、……!」
「もう大人でしょ、しっかりしてください!」
 まるきり子供の仕草で、一差が胸を張って威張った。あまりのことにはじめは二の句がつげない。このバカ、と鼻先を小突くことだってできたのに、しばしの間身動きを取ることができずにいた。車がちょうどゲートに到着したからよかったようなものの、そうでなければ何か決定的な、取り返しのつかないことが起こりうるシチュエーションだったかもしれないと思った。
 スカルノハッタ国際空港は、いつかはじめが降り立った時のものとは、全く違う建物のように思われた。巨大な全面ガラス張りの壁から差し込む西陽で、幾何学模様の印象的な天井も、よく磨かれた石の床も深いオレンジ色の中に沈んでいる。ゲートから出発ロビーまで一緒に荷物を運んでやだの。ガードマンが二人並び立つ保安検査場の前で、チェックインを済ませた彼を見送ることにした。
「じゃ、オレ行くんで。今日はあざした! また日本で会いましょっ」
 そう言って、彼はあっさり背を向けてしまう。はじめは俯いて、ヒールの先を眺めながら言葉を探した。何か言わなくてはならないのに、言うべきことがわからないのだった。もし……彼が、
「待て!」
 もし彼が……青八木さん、好きです、オレについてきてください、と言ったら、
「何か、わたしに言いたいことがあるんじゃないか」
 自分はついていくかもしれないと思い、その空想に怯えた。そして今、薄暮の中ではじめは、彼の背中を見送りながらその確信を強めていた。なぜ呼び止めてしまったのだろう。自分は、純子を愛しているのに。
「ないです」
 項垂れるはじめの頭上に、歌うように、一差の声が降ってくる。
「青八木さん、元気なかったんで。励ましたかっただけです。すみません、手嶋さんたいへんなのに、オレ……オレは……」
「……鏑木、おまえ」
「ちょっとまずいかなって思う瞬間もありましたけど。手嶋さんと青八木さんが仲良いの、オレ、いつも嬉しかったんで、これからもそうでいてください」
 無骨な親指が優しく唇をなぞってから、離れた。
「ありがとう」目を細めて微笑する。「青八木さんのおかげで楽しかったです」
 保安検査場の前で、はじめは一人取り残された。
 自分は前に進めるだろうか? 考える。あの陰気臭い病棟で、純子を眠らせているのは、医師でも鎮静剤でもなく、はじめ自身だ。はじめが、彼女から目を逸らしたくて、寒々とした白昼夢の世界に彼女を押し込め続けていた。今なら、純子の思いに、真っ直ぐに向き合うことができるだろうか? 不安と恐怖の中から彼女を引き摺り出すことができるだろうか? いつもの、攪拌、悪寒を伴う吐き気のようなものがやってきてはじめの全身をかきむしるが、もはや深い思惟の中に潜り込んだ彼女には預かりしれぬことだった。金色の余光の中で、ただひたすらに、考えていた。
 ……保安検査場前を警備していたガードマンの一人が、男を見送ってから三十分近く、同じ姿勢で立ち尽くす女を不審に思って近づいた。彼が女の肩に触れ、もしもし、と声をかけるやいなや、その身体は吊っていた糸を切られた人形さながらに、その場に崩れ落ちた。額に触る。ひどい熱だ。女は立ったまま、もう十五分も前に気を失っていたのだ。

 

2024/01/30

 

 

 


 強い意志に満ち溢れた明晰なまなざしが、テーブル越しに純子へと降ってくる。はじめのまっすぐな想い、言葉が、純子の傷ついた細胞に触れ、浸透してゆく。
 純子はふうとあからさまに嘆息し、ベルベットのソファに深く腰掛けた。はじめから視線を逸らす。夜のジャカルタは、大通りを中心に青や金やピンク色にライトアップされ、神聖な祈りの場であるイスティクラル・モスク、その白亜のドームでさえ、エメラルドの照明に煌々と光を帯びている。夥しい数の人や、車や、オートバイが、空へと伸び上がったビル群の間を、せこせこと過ぎてゆく。ひとつ道を外れれば全盲の物乞いが、プラスティックの椀を行き交う人々に向かって差し伸べ、女たちがほとんど軟禁状態で家庭に縛られている。純子はそれを、四十六階から神のように、無感動に見下ろし、目の前の恋人は純然たる美徳をたたえてただ座っている。
「なんでも?」
 存外に低く、アパシーな問いかけが、はじめに差し向けられた。
「なんでもしてくれるのね」
「うん」
 それでも彼女は頷く。純子は、肘を張って伸び上がり、美しい顔へと鼻先を近づけた。額から頬へ垂れた長い前髪を指でさらい、顕になった瞳に、青い陰質の花のように微笑した。
「……お願いしたいことがあるの。きっと、してくれるわね」

 ちょっと待ってください、と通話を辞して、三十分ほど経過したあと、彼は律儀にも折り返しの電話をよこしてきた。
「すみません、夜(イシャー)の礼拝の途中だったので。いま、あいつも一緒にいます。このあいだのホテルでいいですか?」
「いいわ。ごめんね、突然、大丈夫だった?」
「はい。大丈夫じゃないとしたら……それは、あのとき、あなたについていくことを決めた俺たちに責任があるので。じゃあまた後ほど」
 彼がほとんど一方的に畳み込み、三十秒ほどで通話は終了した。事前に、こちらの要望は概ね伝わっているので、大した問題ではないが、彼のひどく簡明であるさまはどうしても公貴を想起させる。過ぎ去ったはずの嵐が再び戻ってきて腹の中を荒らしはじめたので、舌打ちして、純子はデスクを荒っぽく探った。手のひらに触れたビニールの小袋を二つ、まとめてちぎり開け、中のカルシウム粉末を吸い込むようにして飲む。
「はじめ、行くわよ。何してるの」
 空の小袋をゴミ箱に叩き込み、純子は声を張り上げた。照明を落とし、カーテンもすっかり閉め切ってしまった暗い部屋、手洗いでもじつく彼女の小麦色の髪だけが、玄関扉の隙間から明かりを拾ってかすかに光を帯びていた。「本当に行くの?」ほとんど消えかかりの、引き攣ったような声が、茫漠とした闇の中から聞こえてくる。
「あんたが言ったんじゃない。なんでもしてくれるって」
「そうだけど……」
「別にいいわよ。無理しなくても。今から電話して、行けません、ごめんなさい、って言えばいいだけなんだから」
 糸を緩められた操り人形みたいな、ぎこちない動きで、手洗いの壁からはじめが現れた。
 光の中につまびらかになった彼女の姿態を、知らず、純子は嘲笑していた。ほどよく脂肪のついた甘い情調の肉体、その皮膚に赤くでかでかと書かれているのは、口にするのも憚られるような、ひどい侮蔑の言葉の数々。卑猥な意味を帯びた記号、絵文字。はじめには見当もつかないだろうが、この九年間、神経質に記録をとってきた純子には重大な意味をもつ三桁の数字。全て純子が、ディオールの口紅をほとんど半量使って描いたものだ。ほとんど玩具のような扱いを受けた自らの身体を、必死に抱き込む細い腕が悲しい。
 のろのろとした動きに焦れて、純子が右手に持っていた麻紐を強く引くと、陰核に引っかけたピアスが突っ張って、はじめは短く悲鳴をあげる。緩み切った尿道から、尿とも潮ともつかない液体が滴る。
「純子……」
 哀願に潤んだ目がためらいがちにこちらを伺う。純子がかぶりを振って、あらゆる申し立てを受け入れない姿勢を示せば、今度こそ、彼女はもう何も言わなくなった。うつむきかげんに、足枷を引きずるみたいな重い足取りで歩き出す。玄関扉に鍵をかける。肩に薄手のサマーコートをかけてやると、震える指が、胸の前で襟をしっかと握りしめた。
 大通りの賑わい、地元屋台街の喧騒からも遠く、奇妙な程に静まり返った細い路地裏を、犬とその主人のように歩く。窓が割れ、ほとんど廃墟同然の低所得者向けコスト、誰も使わなくなったカトリック教会、乗り捨てられた古い日本製オートバイ、意味不明のスプレー落書き。月明かりすら届かない。靴を履くことを禁止された小さな足は、砂利やガラス片の散乱する悪路を踏みしめて、うっすらと血が滲みはじめている。それで歩調が鈍れば、リードを引かれ陰核を虐待されるので、彼女は諾諾と歩き続けるしかない。
 少年たちは、いつかのラブホテルの一室で、ベッドに腰掛けて待っていた。廊下から引き摺り込まれたはじめの姿を一目見て、刈り上げの方は目に見えて取り乱したが、眼鏡は寡黙なまま純子を見、かすかに眉を寄せるにとどめた。
「この格好で連れて来たんですか」
「そうだけど?」
 ほとんど剥ぎ取るみたいにしてコートを取り、玄関扉のフックにかける。全裸にされたはじめは、まぶたや耳までを真っ赤にして、力なくその場にうずくまってしまった。
「あなたの恋人でしょう、いいんですか」
「この子、あたしのためになんでもしてくれるんですって。だからきっといいんでしょう」
「純子、だれ……?」
「発言を許した覚えはないわよ、はじめ」
 リードを強く引き、ぴしゃりと言い伏せれば、奴隷の気性を子宮に持て余す彼女は、もう何も言えなくなってしまう。野良犬がするみたいに顔を伏せ、熱い息を吐きながら、半開きの口からぬるぬると唾液をこぼす。股の間で赤いカーペットが湿っている。豊かな胸は下垂し、乳頭から滲み滴った乳汁が、行儀良く並べておいた可愛らしい膝へと伝った。
「なあこれなんて書いてあるの? ジャパニーズ?」スラックスの下でゆるく勃起しはじめた様子の刈り上げが、場違いに無邪気な調子で聞いてくる。
「どうしようもない淫乱女、って書いてあるのよ」
「うわ」
「あんたって最低だ、本当に……」
「最低なのは二人も同じでしょ。礼拝のあとに、澄ました顔で女を抱きに来てるんだから。ブルネイではね、あなたたちみたいなのは石打ちで殺されるのよ、脚を切られて、町中を引き摺り回されるのよ、知ってた?」
「そういうあんたは地獄(ジャハンナム)に行きますよ、確実に」
「なんとでも言えば。あたしは、あなたたち二人が今日、この子を陵辱してくれたら、何の不足もないんだから」
「純子!」
 上がる悲痛な叫びを、黙殺した。
「膣にさえ挿れなければほかは好きにしていいわ。どこもかしこも感じるマゾだから、二人もじゅうぶん楽しめると思う。後ろもほぐしてあるけど、けっこう具合いいのよ、それが嫌なら口に突っ込めばいいし」
「純子、やだ、じゅん……」
「ねえはじめ、あんた、なんでもしてくれるって言ったじゃない、嘘だったの。それとも、あれはただのその場しのぎだったってわけ? あたしのこと好きなんでしょ? どんなあたしのことも愛してくれるんでしょ? それなら早くほんとのあたしを受け容れてよ。あたしの罪を一緒に背負ってよ。どうして泣くのよ。あたしが悪いことしてるみたいじゃないのよ」
「純子以外としたくない、純子じゃなきゃいや」
 ぽろぽろと、下瞼から大粒の涙をこぼして、はじめは純子のハイヒールの足にすがりつく。汗と鼻水で無様に濡れた頬を、唾液でつやつやと潤んだ唇を、骨と皮ばかりの鷺脚に押し当て、祈るように訴えた。
「純子を愛してる。純子だけなの。純子とじゃなきゃ、いや」
「……」
「純子が嬉しいことは、わたしも嬉しい。できるだけのことはしたい。でも……純子、さっきから泣きそうな顔してる」
「……ああ、それはね、はじめ」
 不意に、純子の口許へ、快哉の笑みが駆け上がる。純子は膝をついてかがみ込み、いまだくるぶしにくっついて泣いている美しい恋人の顎を、指の先でやさしくすくった。キスをする。カルシウム粉末でほのかに白くなった唇で、柔らかい皮膚をはさみ、小さな舌を前歯で甘噛みし、涙の香る頬と頬を擦り寄せる。手のひらでつややかな髪からうなじまでをおもむろに撫でる。純子が回した腕の中ではじめは、安堵と心弛びのために静かに嘆息した。およそ気が触れたかとさえ思われた純子の、奇妙なほど懇切な態度……それにすっかり気を緩めてしまった彼女は咄嗟のことに反応すらできない。純子は、いままでねんごろに扱っていた恋人の身体を、ベッドの方へ思い切り突き飛ばした。
「はじめがあたし以外の手でけがれることが、泣きたくなっちゃうくらい嬉しいからよ」
 仰向けに倒れ込んだはじめの、茫然とした表情。ついで、彼女の瞳にうつろう、云い知れぬ失望の色。純子は顎を引いて、少年たちに然るべき対応を求めた。

 ダブルベッドに、裸の少年二人が、窮屈そうに折り重なりながら眠っている。
 そのすぐ足下、埃汚れの溜まった赤いカーペットの床の上で、純子の恋人は気を失っていた。呼吸は浅く、身じろぎすることもないので、ともすれば死んでいるのではないかと思われた。琥珀を漉いて作ったような、淡い黄金色の髪から、ほのかな銀色の光を帯びて透き通るような皮膚に至るまで、尿や精液や、そのほかあらゆる種類の体液に塗れ、汚れている。縦割れの肛門は緩んで、白っぽい粘液を垂れ流し、手のひらや指先にまで擦り付けられたものが乾いている。昨晩、純子がほどこした最低の落書きもほとんど消えてしまうほどの壮絶さで彼女は少年たちに陵辱された。だというのに、彼女の肉体は、絶えず白く清冽な冷たい香りを放ち、軽く瞼を閉じた寝顔には神的なものさえ感じられた、窓から差し込む清らかな朝の光にむかって、彼女は、今まさにほころんだ青い花の神秘に静かに志向していた。
 残酷なことだった。母親の胎内で、受精した細胞が二つに分裂した、まさにそのときから、拭っても拭い去れぬ原罪を抱えた純子と、尊厳と実体とを踏み躙られてもなお神聖な彼女は別の生き物だった。命に貴賎はないというのは嘘だ。幻想だ。二十世紀にアメリカで、アルジャーノンが訴えてきたことそのものではないか。そうでなければ、バラバのかわりに処刑されたキリストが、三日後復活して天にあげられるものか。ヴィシュヌがブッダになって地上へ降りてくるものか。ブラウスのボタンを上まで留めて、純子はベッドに背を向けた。サイドテーブルに十万ルピア札を何枚か叩き置き、靴を履いて、ホテルから静かに立ち去った。
 巨大な駐輪場、高いコンクリート壁の路地を抜けて、ジャラン・サトリア大通りへ出る。液晶のひび割れのために、文字の判読すら困難となった携帯電話に、一件、着信が入っている。午前七時。迷ったが、純子はその知らない番号に折り返し電話をすることにする。三コール目で、細く囁くような女の声が、純子の問いかけに応答した。
「手嶋純子さん?」
 初めて聴く声だったが、純子にはそれが誰であるのか、はっきりとわかった。
「純子さんですよね?」
「そういうあなたは、公貴……さん、の奥さん」
「そうです、まあ、折り返しくださったのね。ありがとうございます。正直、期待していなかったのだけれど。嬉しいわ」
「どういう用件? あたし、そんなに暇じゃないんですけど」
 このあいだ、酷い取扱い方をしたためか、スピーカーからの声にはひどく雑音が入っていて聞き取りづらい。雑音というのは、タバコの包み紙のセロファンを揉みこんだ時のような音だ。
「夫とあなたが過去に、性的な関係を持っていたということは、知っていました。それで、半年前夫があなたを頼ると言い出したとき、ひどく不安になって、礼を欠いたのを、申し訳なく思っているの。ごめんなさい」
「そうですか、あなたは、欲求不満の解消のためにいま、あたしに電話をかけてるのね」
「そのとおりだけど、気を悪くなさらないで。お礼をしようと思っています。夫からは、すでに何か差し上げたみたいだけど、わたくし個人として、あなたにお礼申し上げたいの。何か入り用のものはありますか?」
「ありませんし、あったとしても、あなたには教えません」
「そうおっしゃらないでください。なんでもいいのよ、お金でも、ものでも、人の心でも」
「人の心? ……じゃあ、あたしが今、公貴と離婚してもう彼に近寄らないでくださいと言ったら、あなたはそうするの?」
「もちろん」
 吐息だけで、彼女が笑ったのだとわかった。「わたくしの知らない相手だったら難しいかもしれないけど、公貴さんのことは、じゅうぶん知っているもの」
「食えない女」
「そうでなければ、あの人と結婚してうまくいくはずがないわ。公貴さんが、どうしようもない破綻者だということは、あなたもよく知っているでしょう。いまどこにいらっしゃるの?」
ジャカルタ
ジャカルタ、そう、懐かしいわ、あの人と新婚旅行でアジアを巡ったとき、一週間だけ滞在しました。排気ガスがひどくて、わたくしずっと寝込んでいたんです。リッツ・カールトンがあるでしょう?」
「あります」
「そこの、いやに広いキングツイン、七十二階だったかしら、アスパラガスを四つ並べたみたいなビルが東に見えるのよ」
「じゃあ、あなたがいま、孕んでいるその子どもをください。産まれたらすぐにあたしに、インドネシアによこして、そうして、二度とかかわらないでください。あたしがあなたに求めるのはそれだけです。できますか?」
「それで、自分のもとに戻ってきた娘を、あなたはどうするの?」
「殺します、殺して、あたしも死ぬわ、あたしの系譜が、もうこの世に残っていて良いはずがないんです。あなたに托卵したのは間違いだった。あたしの遺伝子が、いま、あなたの腹の中で転写されているということも、悍ましい間違いなんです」
「良いわ、そのようにします」
「早くしてください」
「焦っているの。無理もないですね。そう、あなたに一つ、サジェッションを与えましょう」
 純子は、往来で足を止め、ひどい雑音の中の彼女の声に耳を澄ませた。
「バリに行きなさい」
 カルシウム粉末を、小袋ごと齧りながら、従業員用エレベーターに乗り込み九十階まで上がる。ブラウスの襟をただし、ストッキングのほつれをうまくスカートの中に隠して、更衣室を出る。ラッフルズ・パティスリーの厨房には、気難しく、いつも不機嫌な若いパティシエがいて、純子の顔を見ていると気が滅入ると声を荒げることもあれば、今夜一緒に食事をしないかと甘ったるい声で誘いをかけてくることもある。その彼が、今日は殊更にへそを曲げていて、厨房で顔を合わせた瞬間に訳のわからないことで怒鳴りつけてきた。純子は急いでスカートのポケットを探るが、小袋はなかなか出てこない。パティシエは喚き続け、純子以外のウエイトレスたちはどうすることもできず、隅でおろおろしている。
 ついに、指先がプラスティックの袋に触れた。それと同時にパティシエの平手が純子の頬を打った。純子は右へ軽くよろけたが、すぐに後ろ足で立ち直り、彼を刺し貫くほど睨みつけた。厨房にはコニャック・ナポレオンの、でっぷりと太ったレッドゴールドの瓶が、三つほど並べて置かれている。そのうちの一本を掴んで厨房を飛び出し、ホールの、照明で金色に輝くケーキショーケースに振り下ろして、力の限りに叩き割った。

 明けてもなお霞んでいるような春の空だった。この町にも桜が咲き、緩慢とした春風が日光を絹のように漉して流れていた。
 十五歳の手嶋純子はすべてを諦めて、新品のローファーを履いた重たい足で、正門坂を上っている。右肩にかけたスクールバッグの根革で、間抜けに口を開いた小猿のストラップが揺れている。この坂を登った先には、かねてより彼女が進学を希望していた高校があって、今日はその入学式であるのだが、気分はもやついたまま晴れることはない。もはやロードを降りた身である自分に展望はない、そうした怯懦が、純子の骨ばかりの身体へ泥のようにまとわりついて離れない。なにかほかに、そう、アルバイトをして、男の子と遊ぶというのはどうだろう? 純子は、人より痩せてこそいるが、顔はそう悪いほうじゃない。むしろかわいい方だと自分でも思う。あとはよく食べて肉をつけて、イケメン、そう、キムタクみたいな男の子を見つけて、得意のカラオケで惚れさせてやるというのはどうだろう。相手はキムタクなんだから、当然、歌の上手い女の子が好きに決まってる……空想は、背後の女子高生たちのひそひそ声で不意に、とぎれた。
 色素の薄い髪が、舞う花の中で音もなく翻ったと思えば、坂の上の方へ急速に遠ざかっていった。言葉もなく、純子はその後ろ姿を見ていた。肉付きの悪い脚が、低速ギアのままぐるぐるとペダルを回す。つやつやした白いフレームに、青いコラテックのロゴが誇らしげに輝いている。リュックの金具にゲームキャラクターのストラップがふたつ、ジャラジャラと揺れている。腿の横で縛ったプリーツスカートの裾から、ユニクロの、三枚九九〇円の下着がのぞく。
「きみ、けっこう登るじゃん」
 駐輪場で、ロードを降り、スカートの裾をせっせと直す、その女の子の背中に声をかけていた。
「自転車やってたの? 見てたよ、のぼってくるの。あたし南中出身の手嶋純子。きみは?」
 やってしまった、焦りを募らせる心中とは裏腹に、唇からはぽろぽろと言葉が溢れて止まらなかった。ロードをスタンドにかける女の子は寡黙だった。べらべらと話す純子に視線もくれない。どころか、聞こえているかどうかすらわからないほどの無反応。だんだん不安になってきて、忙しなくスカートの裾を弄ったり、靴底を鳴らしてみたりする純子を、ふと、小さな頭がかえりみた。長い前髪に、意志の強そうな瞳が透けているのが印象的だった。
 ぼそぼそと、抑揚のない声が言う。純子は耳を澄ませる。
「青……八木、は……一、はじめは」
 春霞の中に、彼女が、細い人差し指を一本たてた。
「いちばんの、いちだ」
 その爪先に、あらゆる時間、空間、光、運命が収束してゆくと、ひととき、純子は錯覚した。

「やめて! 純子、やめて!」 
「うるさい!」 
 追い縋る手を、力のままにたたき伏せる。頼りなく放り出され、ベッドの上へ崩れ落ちたはじめの眦から涙が散る。
 はじめが抵抗しようとすればするほど、純子の絶望は谷底を深め、錯乱はますます混線を極めた。全身の血管という血管が、リンパ管が、神経が、筋が、折り重なりひきつれあい、絡まり、ちぎれて、自我はばらばらになっていく。否、自我など、ないのだ、人の身体の中は空洞だ、まったくなにもない。純子はどこにも着地できない。耳元で常に何かが囁いているが、わからない、光は乱反射して視神経を焼き、うらはらに、背骨はしんしんしんと冷えてゆく。はじめがまた身体を起こそうとするのを押さえつける、力を加え、ねじ伏せる、そうして、純子と彼女とを隔てる着衣をほとんど破るみたいにして取り去り、彼女を裸にした。
 バリに行きなさい。
 はじめが腕を伸ばし、純子になにかしらの力ではたらきかけようとするが、純子にはそれがわからない。頬に触れる指が氷のように冷たいのも知覚できない。股を開かせ、未だ未開の膣穴を指で広げた。純潔の証に、彼女の穴は粘膜の薄い皮で守られている、それをかき分けて中を覗き込む。女の機関が確かに息づいているのを確かめる。
「ねえはじめ、あたしを愛してる?」
 うわごとが、唇をついて出た。瞼を涙で濡らしながらはじめは頷いた。
「純子を愛してる」
「ねえあたしってダメなのよ、あんたみたいに清らかじゃないの、汚れてるのよ、それでもあたしを愛せる? 一緒に罪を背負ってくれる?」
「愛してる、純子、わたしは、世界の終わりまでいつも純子と一緒にいる」
「嘘つかないで!」
 無遠慮に指を挿入されて、はじめの、美しい顔が痛みに歪む。
「一人きりじゃ耐えきれない、はじめ、愛してるなら穢れてよ!」 
「純子……!」
「どうしてあんたは、青八木一なの、どうして男に生まれてこなかったの、どうしてあたしは女に生まれてきてしまったの、なぜ、さいしょから嵌まるはずのないパズルに、こんなにも……一人で清らかでいないでよ!」
「純子、愛してる、ほんとよ」
「あたしは、あんたのこと本当に愛してたことなんて一度もない!」
 シーツの中から、透明な青い蓋のタッパーを探り当てた。先ほどまで冷凍室の中にあって、いま、常温に触れ白い中身がわずかに溶け始めていた。はじめは——唇をかすかに震わせたまま放心している。抵抗はない。左手だけで器用に蓋を開け、中のものが半液体状になっているのを確かめる。それを彼女の膣口に当てがい、傾ける。果たしてそれは滞りなく膣へと流し込まれた。子宮口はわけもわからないままただ本能のプログラムに従って蠢き、古賀公貴の精液を飲み込んだ。
 腹の底から開き切った喉に胃液がつき上げてきて、純子はそのままひどく嘔吐した。

 

 

2024/01/29

 

 

 


 純子は、自分でもそれと知れぬうちに、唇の端に愉悦の笑みを浮かべていた。従順でかわいいはじめ。純子を慕うあまり盲目的にのめり込みすぎたはじめ……便器横に設置された、ホース型のシャワー設備を引き寄せてきて、彼女の直腸を洗う。粘膜に激しく冷水を浴びせかけられて、彼女は居心地悪そうに、純子の左肩にしがみつく。その吐息は、排泄器官を丹念に洗浄される恥辱に、すでに陶酔の色が濃くなりはじめている。下腹を押して排水させたあとは、インド・マレットで叩き売られていたビオレのハンドクリームで、凍えきって、胡桃のように固く閉じた穴を、宥め広げていく。そうして準備の整った縦割れの肛門を、えもいわれぬ感情で眺める純子だった。
「えらいよ、はじめ、ちゃんとできてるわよ」
「……うん、純子……」
「おしりさみしいでしょ? すぐ入れてあげるからね」
 鼻先にまで血の気を集めて、控えめに、はじめが首肯した。
 口に含み、たっぷりと唾液でぬめらせた一つ目のサラクを、入り口に優しくあてがう。無数のとげが、敏感な皮膚に触るのがわかって、それだけではじめの身体は落ち着きを失う。「大丈夫だから」……実をくるくると回して、最適なポジションがわかったところですぐさま挿入した。きついのは肛門を押し広げる一瞬だけで、少し力を加えて押し込めば、直腸が余裕を持って果実全体を飲み込んだ。
 腸壁を掻かれる快楽に、はじめがようやく、色のある吐息をもらした。彼女が激しく呼吸するたびに肛門が閉じたり広がったりして、サラクの皮の褐色も見え隠れする。同様に、二つ、三つ、焦らすことも忘れて押し込めば、子宮にも圧がかかったか、あっ、と短く哀切な声が上がる。くねくねと死にかけの蛇みたいに、タイルの上ではじめの身体がよじれる。
「純子、純子」
「心配しなくても、ちゃんと入ってるわよ。ほら三つ、四つめも……」
 四つめは、前の三つよりも一回り大きい。形状も、単純な球形ではなく、レモンにも似て二端が尖っている。純子は、ただでさえ感じやすい恋人にこの奇形を押し込むのかと躊躇ったが、すでに三つの果実を蓄えた肛門が貪欲に収縮を繰り返しているのを見て思考を放棄した。果たしてはじめは、この凶悪な形状の奇形をも、腹の中にしっかりと飲み込んでしまった。
 手洗いの、そっけない白のタイル床で、美しく高潔な恋人が、目隠しをされ、肛門にフルーツを詰め込まれて、麻のひもだけを外へ垂らした状態で泣き濡れている。惨憺たるその姿態、獣性を多分に含んだ艶やかさにくらくらする。
「じゅんこ……」
 発作的な加虐欲に駆られる純子を、呼び止めるか細い声があった。
「その、トイレ……いきたい」
 羞恥と苦痛の汗にぐっしょりと濡れた手が、すがりつくものを求めてよるべなく伸ばされる。異物に膀胱を圧迫されて尿意を催したのだということはすぐに察された。便器は、はじめが横たわるところの、すぐ付近にある。壁に縋って立ち上がり、三十センチも歩けば彼女はすぐにでも落ち着けるだろう。だが加虐に志向して尖りきった純子はそれを許さない。
「そこでしていいわよ」 
 冷たく命令した。
「聞こえなかった? そこでおしっこしてよ」
「えっ、純子? でも」
「でもって何。あんたいまあたしとセックスしてるんでしょ。セックスの途中に、立って、おしっこ行かせてください、なんて、ありえないでしょ」
 一語ずつはっきりと発音しながら、針でちくちく刺すように、強く言い含める。
「そうしたらあたしが飲んであげるから」
「……純子、恥ずかしい……」
「恥ずかしい? いつももっと恥ずかしいことしてるのに、今更じゃない? おしっこしなさいよ」 
「う……」
「出てすぐのおしっこって無毒なのよ、酸化して有毒な物質ができるわけだから、酸化させなければ良いのよ。あたしがあんたの穴から直接啜って飲んであげるから」
 折り畳まれた脚を掴んで大きく広げさせ、まだ絆創膏を貼り付けたままの下腹を指で圧迫する。はじめは押し寄せる波を逃れようとしてか、つま先を丸めて何か力を込めたが、そのひょうしに括約筋が緩み、サラクを一粒排泄してしまう。
「あたししか見てないわ」外に出た分を、締まる肛門に無理やり押し戻す。「はじめ。おしっこしなさい、今、ここで」
 顔を引きつらせ、嗚咽しながら、はじめは女主人の命令に忠実に従った。手嶋純子の命じることに、彼女が反抗できるはずもないのだ。純子はぐず濡れの性器にむしゃぶりついてそれを飲んだ。目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように、はじめが自分の口腔内に放尿する音を聞いていた。

 二ヶ月前は毎晩四錠飲んでいた。それで事足りた。でも、次第に効き目が悪くなってきて、先月五錠に増やした。それもすぐに効かなくなったから、今は七錠飲んでいる。手のひらに載せた分を、ほとんど数えることもしないまま口に放り込み、ミネラルウォーターで喉奥へ押し込んだ。
 デスクから離れてベッドを振り返れば、未だ裸で横たわったままのはじめが、カーテンの隙間から月を眺めていた。月は、まだ東の空に近く、煌々と黄金色を帯びていて、その光が彼女の髪や肌や夢のような色あいの虹彩に、細雨のように降り注いでいた。はるか彼方の天体を望む表情はあどけない。シーツの上に投げ出した小さな手が、内側へかすかに丸まっているのが、赤ん坊のようで愛くるしい。床に投げ出され丸まっていた毛布を取り上げ、肩からかけてやると、肌寒かったのだろう、はじめはすぐにそれへくるまり、浅い息を吐いた。
「ありがと」
 毛布の裾からちょこんとつき出た顔が可憐に笑う。
 純子もはじめに微笑んで、同じ毛布の中に潜り込んだ。暴風のように純子の心を渦巻かせていた暴風はすっかり去ってしまい、後には凪いだ湖面が、彼女への恋情を静かに湛えているばかりだった。毛布の中に抱き込んだ、彼女の上半身のあらゆる場所に口づけする。産毛の生えた真っ白な頸、肩甲骨、浮き出た鎖骨、トパーズ色の燐光を散らす細い髪、純子の歯形、吸いつけた鬱血痕、彼女は気にする様子もなく、くすくすと無邪気に笑う。
「はじめ好きよ」びっくりするほど甘い声が純子の唇をついて出た。感慨に鼻の奥がツンと痛くなり、あるいは胸が引き絞られるように痛んで、それを悟られるのを恐れて、急いで唇を噛む。瞼を伏せ、毛布の塊ごとはじめを抱き寄せる。裸の胸同士が触れて柔らかく形を変える。「大好きなの……」
「わたしも大好き、純子。突然どうしたの」
「なんでもない……なんでもないの。ねえ、はじめ、今でも学校や部のみんなと連絡を取ったりする?」
「しないよ、純子もしてないんでしょ」
「公貴とも?」
「うん」
「じゃあ、男の子と話したりはする? 職場とか、街とか、お店とかで」
「しないし、相手にもされない、純子と付き合ってるってちゃんと言ってるし」
 薄い肩に顎を乗せ、間近に恋人の横顔を見つめながら、純子は自らの小狡さについて思う。清廉潔白で、途方もなく清らかなはじめと、ずるくて矮小な純子。
「わたしには、純子しかいらない。純子を愛してるから」
 泣くかもしれない、と思ったが、泣けなかった。
 純子ははじめを、シーツの海の上に解放した。ふしぎそうに見上げてくる目は、純子の手がはじめの右脚を掴んで、つま先を唇にくっつけてみても、ぼんやりと倦怠をたたえたまま咎めることをしなかった。
「あたし、はじめの足が好き」 
 うとうとと首を振りながら、はじめの右足の小指を舐め、しゃぶる。ネイルもしたことのない少女の足、日々クリームで手入れを施しているからか、ほのかにミルクのような香りがする。
「汚い……」
「はじめの身体に汚いところなんてない。はじめはきれいよ、何よりも……ねえあたし幸せ。ずっとそばにいてね」
「もちろん、純子」
「目が覚めたら、久しぶりに外に食べに行かない? 買い物もしたいな、ディオールの新しいアイシャドウ、きっとはじめに似合うと思うの……」 
 優しい腕の中で、何の不安もなく、眠った。

 まだあてどなくアジアの海を彷徨っていたころ、純子は二十歳、はじめに至っては二月に誕生日を控えた身で、まだ十九だった。二人はジョグジャカルタ国際空港からインドネシアに上陸し、市街地の民宿二ヶ月ほど滞在したあと、こんどは東ティモールに渡るつもりで手続きを進めていた。東ティモールインドネシアから独立した小国で、同国と領島を共有していることもあって空路の便がよく、治安状態も安定していた。平たく言えば、インドネシアは終の住処としては不格であると、二人は考えていたのである。
 このときジョグジャカルタでは、独立記念日に関連した観光客向けのイベントが多数開催されており、出国一週間前まで娯楽にも摂食にも不足しなかった。純子は、ブリンハルジョという大地下市場で、日本人の男子大学生一団と知り合い、親しくなった。彼らとよくパーティーに出かけ、食事をし、現地の歌手のコンサートに赴いて夜を踊り明かしたりもした。そのとき、純子とはじめは彼らと地元の屋台で食事をしていたが、彼らもまた、二人の出国に合わせてジョグジャカルタを出発し、北のスマランという街に行くのだと明かした。列車を四度も乗り換えて、三時間半かけて北上するのだという。その中途で、ボロブドゥールという、ジョグジャカルタ郊外の施設を訪れるのだということも。
「ボルブドル?」
 はじめが辿々しい発音でそう聞き返すと、彼らは大笑いした。
「ボロブドゥールだよ。なんだ、きみら、まだ行ってなかったの。ジョグジャカルタまできてボロブドゥールに行かないなんて、極楽寺だけ見て、石清水を見ないで帰るようなものだよ」
 すぐにチケットを手配した。このとき、感染症の流行のためにボロブドゥールは入場規制を行っていて、一日二百人までしか入場できないきまりになっていたから、チケットの日取りは出国の前日になった。
 当日、バスで現地に向かった。バスは水田の並ぶ肥沃なジャングル地帯を一時間半かけてくぐり、土産物屋の殺到する表通りを窮屈そうに抜けて、ボロブドゥール寺院遺跡公園に到着した。規制のためか、入場口はとてもすいていた。受付の男性にチケットをよこすと、椰子編みのサンダルと、トートバック、それからバーコードの印刷されたリストバンドを手渡され、公園内はこのサンダルで歩くようにと英語で指示を受けた。サンダルは、とてもではないが歩ける代物ではなかった。薄い靴底に、申し訳程度の薄っぺらい甲バンド、前坪の代わりなのか、木で作った留め具のようなものが、親指と人差し指の間で挟めるようになっているが、痛かった。特に砂利の上を歩くときなど、痛いわ滑るわで、しばらく二人難儀して歩いた。練習がてら観光客たちの間をうろうろしていると、職員がやってきて、公園内に入るよう誘導をはじめた。
 ボロブドゥールは、八世紀の後半から九世紀前半にかけて建立されたと言われる世界最大級の仏教遺跡である。大噴火で、気の遠くなるほどの時間火山灰の下に埋もれていたが、十九世紀初頭にイギリスの提督らがこれを発見し、発掘・修復作業が行われて今に至る。そうしたパンフレットの説明をほとんど読み流しながら、歩きにくいサンダルで、本殿に向かう通りを歩いた。菩提樹の葉がそよそよと風に擦れる音を立て、千年前に作られたという石畳や、白い貝の床面装飾などにやわらかく木漏れ日を振り撒いていた。純子はというと、飽きていた。未開拓の土地も多いアジア地域において、古典古代の遺跡などそう珍しいものではない。ベトナムにはタンロン遺跡があるし、ミャンマーにはバガンがある。カンボジアにはアンコールワットがあって、これには純子も深い感銘を受けたが、逆に言えば、感銘を受けただけで終わった。だいたい、自分の一生にすら責任をもって向き合えない純子に、古代人のよくわからない信仰を受容できる余裕などないのだ。
 本殿は、丘の上に安山岩や粘板岩を積み上げて形成された、十一層からなるピラミッド状建築である。寺院として利用されていたというが、外部に張り巡らされた幅二メートルの露天の回廊が主な施設であり、内部空間を持たない。RPGゲーム的探索を期待していたらしいはじめが、隣であからさまにがっかりしていた。
「暑いし、登るの大変そうだし。もう帰る?」純子が気を遣ってそう提言するほどだった。はじめは少し逡巡した様子だったが、結局、すぐに頭を横に振った。
 二人の肌を撫でる空気が、明らかに変わったものと思われたのは、高い階段を登って第一層に到着したそのときだった。
 回廊の壁面もまた石作りで、精緻なレリーフが一面に施されていた。右から左へ、壁伝いに歩いていくと、物語を読み取ることができるという、いわば絵巻物的な仕掛けが施されているのだった。はじめが見上げる先に、右手で空を、左手で大地を指差して立つ、やたら不遜な赤ん坊が彫られている。
「お釈迦さまだ」
 重たい感慨と敬服をもって、はじめがつぶやいた。
 三層目から上は、色界といって、人間ではないが神にもなれない、中途半端な有情たちの領域となる。ここからは、欲望も物質的条件も超越した精神世界、無色界たる八層以上をめざして、急で狭い石段をひたすらに登っていかなければならない。西洋人と思しき大柄な観光客と、押し合いへし合い、這うようにして登っていく。日差しは強いが不思議と汗は流れない。ただ全身の産毛が、何か大きな圧力のようなものを感じけばだっている。いやいや、妖気レーダーでもあるまいしと、純子は一人ごちる。はじめは先から異様なほど寡黙でいる。
 八層を目前とした第七層で、ついに、純子をひどい浮遊感が襲った。石畳の突っかかりに足を取られてふらつき、あっという間にバランスを失って倒れた。壁面に背を酷くぶつけたが、そんなことも気にならないほど、頭から血の気が引き切ってしまって、みぞおちのあたりにはひどい嘔吐感があった。
「純子……水飲んでた?」坐禅を組んだ大きな仏像のために、ちょうど日陰になったところに純子を座らせて、はじめ、「汗かいてない」
「そういえば、忘れてた、かも……」
熱中症。ごめん、わたし、純子のことぜんぜん気にしてなかった」
「気にしないで。こちらこそごめんね。あたしはここで休んでるから、はじめだけでも上まで行ってきなよ」
「でも……」
 八層以上、無色界は、円形の回廊になっていて、ストゥーパと呼ばれる巨大な仏塔が七十二基も並べられている。目透かし格子状に石を積み上げて作った釣鐘状の空間の中に、曼荼羅を模した仏像が一体ずつ納められ、この構造じたいが悟りの世界を表現する、いわばこの寺院の中核にあたるものとされる。
 ぐったりと座り込む恋人に、当初はじめは遠慮した様子でいたが、純子が促すとためらいがちに頷いて踵を返した。すぐ戻るからと、言い終わらぬうちに彼女の姿は上層へと消え、それから十五分ほど、純子は一人でいた。組んだ石と石の間から、丘陵からの風がさわやかに吹き込んで、純子の首を冷やした。
 はじめは、今までのどの表情ともことなる、奇妙な顔つきになって戻ってきた。どの言葉も、彼女のそのときの様子を示すのにふさわしいものはないと思われた。
「純子、ここに住もう」
 彼女はそう言って純子を困らせた。

 はじめが、恋人に対して愚直と言っていいほど正直で、従順な女であることは、十分すぎるほど知れていることである。だがそれとは別に、ごく個人的な満足のために、純子は彼女とメールアカウントを共有させていた。
 最初は、電話番号もメールアドレスも、いっさい与えないつもりでいた。しかし、彼女が広告会社で働くようになって、連絡先がまったく存在しないという状況が、社会的信用のためにもよくないのだということがわかってきた。デザイナーはクライアントと接する仕事なのだから、当然、連絡先を付記した名刺を作らなければならない。ある程度社内でも幅を利かせられるようになれば、家に持ち帰って仕事をするということもあるだろうし、そうなれば遠隔でやり取りできるツールは必須になってくる。このような事情を鑑みて純子は、アカウントを自分に共有するということを条件に、はじめにメールアドレスを持たせることにしたのだった。
 彼女のアドレスに日々届くのは、会社のものと思われる、事務的なインドネシア語のメール、広告メール、それからよくわからないアラビア語の迷惑メール。人の息の感じられない、無機質な受信ボックスを眺めるのは、純子にとってほとんど日課のようになっていた。彼女の交友関係が非常に限られたものであること、それすら自分の監視下にあるということは、純子の不安と執着を慰撫し、十分な満足をもたらした。はじめは純子以外の誰のことも愛さない。純子だけを見つめ、純子だけにすがりつく。その事実を何度も何度も反芻し確かめてようやく、純子は安心して日常を過ごすことができるのだった。
 ——青八木さん、お元気ですか、
 だがこれはどうしたことだろう。純子は唇を強く噛み締める。犬歯が食い込んだために、唇の皮膚が破れ、滲み出した血液が顎を伝ってデスクへと滴った。
 ——俺は元気です、元気というか、すげえ元気というか、とにかく絶好調です、
 おそらく、このことを、ベッドで眠るはじめは知らないだろう。だから純子の燃えたぎるような怒りと嫉妬は、彼女には謂れもないのだが、理性ではそうとわかっていても、自らを抑えることができそうもない。デスクから探り当てたビニールの小袋を歯で齧り開け、白いカルシウム粉末を勢いよく呷る。
 徹底して口語調で、周りくどいが、飾り気のない正直な文体だった。それはかつて、学生時代の純子が、好ましく思っていた彼の印象とそのまま合致した。
 ——あのときはまだ若かったんで、言えなかったすけど、俺、あなたのことがずっと好きです。いまでも、どんな女の子を見ても、青八木さんはああだったなとか、考えてダメなんです。早く結婚しろって、みんなは言うけど、俺はまだぜんぜん待てます。いつ千葉に帰ってくるんですか。顔見せてくださいよ。そんで、また一緒に走りましょう……
 ほとんど反射で迷惑メールフォルダに叩き込み、椅子を跳ね除けて立ち上がった。スニーカーを履くこともそこそこに外廊下へ出て、怒りのためにぶるぶる震える指で携帯電話を操作する。歯軋りが止まらない。靴底がアルミの床を激しく打つ。
 公貴はほとんど半コールのうちに応答した。彼が何か言うより早く、
「おまえだな、はじめのアドレスを鏑木によこしたのは!」
 半狂乱で叫んだ。
「おいおい、穏やかじゃないな、どうした?」
「しらばっくれるな。あたしはおまえにしか、はじめのアドレスを教えてないんだ。それも緊急時の連絡のためだって何度も何度も何度も何度も何度も何度も言い含めたのに。それでおまえはうんと言っただろ。それなのに、なんで、日本から、鏑木がメールを送ってくるんだ!」
「純子、弁えろ。夜中だぞ」
 彼の声はあくまで鷹揚で、だからこそ、純子の憤慨はヒートアップする一方だった。
「そんなことはどうでもいい。言え。おまえだろう」
「そうさ、俺が、鏑木にはじめのアドレスを教えた」
「なんで!」
「なぜ? 教えてくださいと言われたからに決まってるだろ」
「おまえに限ってそれだけのわけないだろ。あたしは誰にも教えるなって言ったんだ。本当のことを言え、今、すぐに!」
「面白くなりそうだったから……と言えば、お前は満足するのか? まあ……フフ、そっちが本音と言えなくもないんだが」
「死ね!」
 へし折らんばかりに握りしめていた携帯電話を、階下に向けて力の限りに投げつけた。
 あまりの怒りに目が眩む。全身に静電気が立ち、内臓までがぐずぐずと煮立ってくるような思いだった。憤懣。憎悪。嫉妬。それらを一緒くたに煮詰めた鍋が、何の前触れもなく頭の上に落ちてきて、純子は脳味噌ごと押しつぶされる。苦しい。熱い。痛い。惨めだ。今度こそ、涙が溢れると思ったが、下瞼はからからに乾いて、本来の機能を果たすことすら困難だった。外気に触れ、急速に冷えてゆく自らの身体を抱きしめる純子の背に、聖別された天使の声が降ってきた。
「じゅんこ……?」
 はじめだった。
 目が覚めたとき、隣に純子がいないから、心配して探しにきたのだろう。つややかで痛々しい、まだ生まれおちて間もないみたいな裸の肉体に、毛布一つ巻きつけただけの格好で、玄関扉からこちらを覗いている。純子と目が合うと、飼い主を見つけた子犬のような表情で破顔した。純子の胸に目まぐるしくさまざまな思いが去来した。這うようにして駆け寄り、小さな身体をはがいじめにした。豊かな胸に頬を寄せる。心臓の上に耳をつける。拍動している。
「ねえはじめ、はじめはあたしのこと愛してる?」
 何も介在させたくはない。二人の間には皮膚ですら邪魔だ。
「? 愛してる。純子、大好き」
「あたしだけ? あたしだけを愛してる? どんな人間でもあたしを許せる? あたしと一つになってくれる?」
「純子どうしたの? 純子だけだよ、純子とずっと一緒だよ……」
「はじめ、はじめ、はじめ——」
「純子、大丈夫……ゆっくり息をして、そう……大丈夫……」

 万物は流転する。誰も、同じ川に二度と入ることはできない。
 二十五歳の純子は、十九歳の純子とは違う。
 十九歳のはじめは、十五歳のはじめとは違う。
 耐え難く思って純子は頭を抱え、ひとりうずくまっていた。せっかく、骨を砕き、皮膚をむしり、手のひらにピンを刺して留めおいたのに。ただ一人、純子だけのものにしたのに。捕らえた蝶は、標本箱の中にあってもたえず細胞分裂アポトーシスを繰り返し、いつのまにか、異質な存在へとすりかわっている。美しい肉体は美しいまま、純子の知らない果てへと去っていく、そんな空想に怯えた。
 看護師が純子を呼びにくる。事務的な口調で名前と年齢を確認すると、視線を軽く傾けて、診察室に入るように指示される。
 飾り気も何もないリノリウムの床、白い壁、消毒液のツンとした匂い、そっけなく置かれたアルミの丸椅子。いっそ病的なほどの静寂の中で、空調装置のファンだけが無機質な音を立てて回っている。医師は相変わらず無償髭を生やしたまま、やる気のなさそうな表情で純子を迎える。今日はどうしましたか?
「あの、もう耐えきれません。死にたいんです——」
 お薬増やしときますね、そう言って医師は、赤ボールペンで何かカルテに書き込んだ。

 エンマル・ジャパニーズ・レストランは、中央ジャカルタ近郊ではもっとも評判の良い日本料理店のひとつだ。もっとも、日本生まれ日本育ちの純日本人たる純子からしてみれば、この店のメニューに正統な日本食は一つもない。あるのは、アメリカの文化に多分な影響を受けたと見られるカリフォルニア・ロール、ナマズティラピアや鯉なんかを刺身にして、ごちゃごちゃと詰め込んだ海鮮丼、見た目は良いのに味がなんか違うラーメン、七輪のようなもので焼く鶏肉の焼き鳥もどき、ステーキ、インドネシアン・タフ、ケチャップ・マニスで味をつけた穴子のどんぶり……それでも、二人が文句を言わず常連をやっているのかと言ったら、日本食でないにしても、この店の料理が美味であるからだった。ほとんどミー・ゴレンだろうと笑ってしまいそうになる〈ヤキソバ〉も、口にすればそこそこおいしいし、刺身を食べれば、それがどんな種類の魚であろうとも日本を懐かしく思い出すことができる。そういうわけで、ちょっと良いものが食べたいと二人が合意したとき、足を向けるのはいつもこの店なのだった。
 プラザ・オフィスタワーの四十六階、ジャカルタの夜景を一望する贅沢なソファ席。はじめは、いつものTシャツ姿とはうって変わって、クバヤという青いビロードのブラウスに真珠のブローチをつけた出立ちで、清楚な美貌にはうっすらと化粧さえしていた。春の花びらを張り合わせたような唇には、いつか買い与えたロムアンドのリップグロス、薄青い瞼にはほのかにラメの入ったクリオのアイシャドウ、プチプライスで統一されているにも関わらず、向かい合う彼女の品格は決して打ち消されない。小麦色の長い髪を耳元でとめ、いっしょうけんめいラーメンを啜る美しい恋人を、純子は半ば夢見心地で眺めた。
 純子の視線に気がついたはじめが、龍とパンダが描かれたどんぶりから顔を上げ、上目遣いにこちらを伺う。純子は微笑するだけで返事に代え、自らも箸でステーキを口に運んだ。あまり味がしない。
「仕事、うまくいきそうなんだ。中国の……インドネシア大学で中国語を教えてるっていう先生が、デザインを見てくれて。今日、これなら多分大丈夫だって」
「そう、よかったじゃない」
「うん……」
 さっきからずっとそうだった。会話が、続かない。生来多弁のはずの純子がほとんど喋らず、無口なはじめが何か話そうと努め、結果、うまくいっていない。純子は、二人でいるあいだの沈黙を気まずいと感じたことはないが、はじめのほうはそうではないようだ。いたたまれないといった様子で、ラーメンスープの水面をじっと覗き込んでいる。
「あの、純子……元気ない?」
 気負うあまり、結局直球で切り出してしまうのは、いかにもはじめらしい。
「そんなことないわよ」
「でも……」
「……そうね、少し頭痛がするの。でもはじめが気にすることじゃないわ」
「言って、純子。わたしたち二人でひとつでしょ。純子が辛いなら、わたしも一緒に分け合いたい。そのためならなんでもする」
「なんでも?」

 

2024/01/28

 

 

 


 Tシャツをたくし上げ、二つの乳房を露出させる。未成熟の椿の蕾を思わせる小ぶりな乳頭は、性的な刺激に反応し、すでに固く勃起し白っぽい乳汁をだらしなく分泌していた。純子はアヤムの油でつやつやと濡れた唇を開き、一も二もなく、片方の乳輪全体を口に含んだ。歯で緩く齧りながら、唇の皮膚でしゃぶりついて、啜る。甘く、またほのかに塩っけのある味が、口腔内に生ぬるく広がった。感じやすいはじめは素足の指で床のタイルを掻きながら、血色の良い額を純子の肩に擦りつけている。
 しっとりと、汗をかきはじめた身体を反転させ、冷蔵庫の壁面に押し付ける。誰か、二階の住人が、外階段を上がりながら高い声で歌っているのが、冷却装置のモーター音に紛れてかすかに聞こえてくる。うっとりと倦怠をただよわせる彼女の、半開きの唇にキスをねだられて、純子は半身を伸び上がらせてそれに応じた。
「おっぱいの味、おいしい?」
「うん、うん、純子——」
「堪え性のない女。ほら、だらしない、腰が揺れてるわよ」
 ショートパンツから伸びた、真っ白な内腿を爪でひっ掻かれて、はじめはもう泣き出さんばかりだ。
「ごめんなさい、ねえ、ね、純子、部屋に……」
「ここでいいじゃない」
「やだあ、じゅんこ……おねがい……」
 純子は立って、調理台に残してあったプラスティックのカップを二つ、まとめて洗面台に放り出した。伸び切った麺がスープと一緒にステンレスのシンクを流れ、ストレーナーに滞留した。

 マッチを三本擦って、ようやく火が回った。灰で満たした陶器の香炉に移すとすぐに、フランキンセンスにも似た樹脂の香りが立ち上り、重く、やわらかく、狭い部屋に充満する。
 月明かりばかりがほの明るいベッドの上ではじめは、なめした麻縄に縛り付けられ、完全に自由を奪われた状態で侵略者の到来を待っている。膝を折りたたむ形で腿と脛とを固定されて、彼女はむっちりとした大きな臀部を突き出すような姿勢を取らざるを得ず、そのために、勃起した陰核や空気刺激にさえ過敏に反応して泣き濡れる性感帯なんかも、純子からつまびらかに見てとれた。嫌、痛い、恥ずかしい、そうした彼女の自己申告に反して、若い身体のあらゆる部分がすでに悦に入っていると見える。事実、純子が膝でベッドに乗り上げて、スプリングの軋む音がかすかにしたばかりに、彼女の膣穴はだらしなく痙攣して、白く濁ったバルトリン腺液を分泌した。
「かわいいわよ、ねえ、はじめ、興奮しているの?」
 純子はたわむれに、哀れな奴隷に発言の自由を許した。「あんたの穴、ぐちょぐちょに濡れてる」
「わ……わかんない」
「縛られてほっとかれただけなのに。今日こそはって、期待しているのね?」
 徹底して剃毛を強要されてきた、子供のような恥骨部を指の腹で撫でる。それにも敏感に反応して彼女の穴は、ぬるぬると湿り気を帯びてくる。
「やだ、いじめないで、優しくして——」
 年々美貌の冴えわたる身体を、昂奮のために激しく震わせくねらせながら、哀願するはじめの甘え声を聞く。
「嫌? あたしにされることが、はじめは、嫌なの?」
「ん……いやじゃない、純子、大好き。でも……」
「でもはなし。イエスか、ノーかで、きいてるのよ、あたしは」
「して——純子にされたい。いっぱい、いやらしいこと……」
 薄紫色の煙の漂う暗い部屋で、女たちの性欲は壮絶に、苛烈になってゆく。洗練され純度を増してゆく。純子は彼女の股座にかがみ込んで、みじろぎひとつでくちょくちょと淫らな音を立てる陰唇に口と鼻とを近づけ、蒸れた女のにおいを肺いっぱいに吸い込んだ。拍子に唇の皮膚が陰核に触れたのではじめは、死にかけの蛙みたいに仰け反ってむせいだ。純子は、ふっくらとほどよい脂肪を蓄え、侵略者の強行を歓待する媚肉を含み、粘膜のあらゆるところでたっぷりと舐めた。溢れる蜜を吸い込み、強く吸引しながら、時おり膣襞の小さな突起を舌で弾く。中途半端な愛撫をもたらされて焦れ切った陰核は、鼻先でつついて甘やかに揶揄う。
「じゅん、う、うう、うぁ……」
「……」
「うあっ、あっ」
 ぬるぬると、口腔内に塩っぽい体液が泳ぐ。煙と、女の匂いでくらくらと、頭が回る。きたならしく交わる粘膜と粘膜。水に溺れる虫のように、無力で、無様な純子の恋人。
 いや、この場合、溺れているのは純子の方なのか?
「あうっ……い……いく、いく」
「だめ」
「むり、喋らないで、じゅんこ!」
 はじめの身体が強張って硬くなり、びく、びくと数度跳ねた。純子がゆっくりと面を上げると、はじめは髪を乱して頭を仰け反らせながら、放尿でもするみたいに潮を吹いているところだった。
「ダメって言ったでしょ」
 腫れきった陰核ごと、恥部を平手で思い切り叩くと、濡れた皮膚から飛沫が上がった。ごめんなさい、と、従順に謝罪するくぐもった声、ぐずぐずと鼻を鳴らす音。純子は無情な支配者然と身を引いて、すぎた快楽に痙攣する身体をただ見下ろした。血圧が急速に低下していくのを感じる。実際、沸るように熱くなっていた中枢から、血の気が引いているものと思われる。ベッドから身を乗り出し、白いタイルの床に開けておいた小さな飾り箱から、ダマスカス柄のレリーフを施したチタンのペーパーナイフを取り出した。はじめは、欲情しきった恥部を隠すこともできないままに身悶えていたが、ナイフが飾り箱の底を離れるかすかな音を聞いただけで、さっと顔色を変えた。
 純子が注視しているのは、はじめの、うっすらと筋肉のついた柔らかそうな腹。日に焼けない真っ白な皮膚。眼下の身体が、今度は怯えのために震え出した。
「純子……」
 煙が肺胞から血管に取り込まれ、純子の全身に回る。恋人の怯えが、ほのかな期待が、純子の官能に染みてくる。いやに冷えた首の裏の神経が、生きているという、ただそれだけで、苦痛と不安に苛まれる自らについて考える。
「はじめ、大好きよ」
「純子、じゅん、あっ!」
 ナイフの刀身に指を添え、はじめの腹に、言い訳のしようもないほど深く食い込ませた。
 刻んだ皮膚から、まもなく血が流れ出した。純子の唇はすぐにそこへやってきて新鮮な血を啜った。唇で傷口を圧迫すればするほど、温い、むず痒い、虫のように生きている体液が、純子の喉奥に噴いてきて、純子はそれを飲み下す。はじめの乳汁、バルトリン腺液、汗、そのどれより、甘い。塩辛い。辛い。苦い。愛情、性欲、憎しみ、悔恨……食道でないまぜになり、純子の孤独は束の間の癒しを得る。生きていてよかったと思う。陶然と、純子は中枢神経を自ら狂わせた。鼻歌なんか歌い出す始末だった。
「あたしたち二人で一つよね」 
 過半部が灰になったものが、香炉の中でパチンと音を立てる。
「ね? はじめ」
 もう一度、濡れ光るペーパーナイフの先端を、今度はよりへそに近い部分に切り入れた。ぬらぬらと流れ出す血を、今度は舌まで入れて貪り尽くした。ぴくぴくとひきつれを起こす腹の皮膚とは裏腹に、はじめの膣は、濁った塊を断続的に吐き出す。
「早く一つになりたいなあ、ね、はじめ、はじめもそう思う?」
「うん」
 はじめは従順に頷くが、痛みと失血のために四肢は冷えはじめ、その応答も理性によるものではないと思われた。「うん、うん」
「やだ、はじめ、一つになりたい、なりたいよお」
「うん、そばにいる、じゅんこ」
「はじめえ」
 純子はペーパーナイフを投げ捨てると、血塗れの手で、はじめの首を強くつかんだ。皮膚を絞り、気管を押しつぶし、頸骨を軋ませた。緊縛され手足を動かすこともままならないはじめは、恋人からの虐待を、涙に滲む目で見ているしかない。そのか弱い痙攣、せんかたない命の顫動。純子は急に、ひどく淋しくなってきた。

 全身は氷のように冷えている。純子は、全裸に毛布を巻き付けただけの姿で、壁にもたれてベッドに座り込んでいる自身を発見した。
 デスクから椅子を離してベッドの方へ向けたのに座り、膝を立てて、スケッチブックを抱えているのははじめだった。彼女は覇気なく脱力する純子の裸身を、鉛筆で熱心に描いているところだった。長い前髪が、額から紙面へと、麦の穂のように垂れている。柔らかく張り詰めた全身の皮膚に、縄で縛り付けたあとが赤く残っている。臍の下には、ハローキティが印刷された子ども用の絆創膏が何枚か、繋ぎ合わせるようにして貼り付けてあった。
「動いていい?」
 存外に、湿気のない声が出た。はじめは顔を上げないまま、うん、と一つ首肯する。
「もう描き終わる」
「ずっとそうしてたの?」
「うん。純子、寝るならちゃんと寝たほうがいい」
「そう……あたし寝てたのね」
「少しね」
 デスクの上の、花柄の置き時計を見て、あれから、三十分ほどだろうか、と見当をつける。喉がからからに渇いていたが、今から服を着て、下階のキッチンスペースまでミネラルウォーターを取りにいくのは億劫だ。すこしの逡巡ののち、ベッドを降りて手洗いに行き、水道水で唇を濡らすにとどめた。部屋に戻ると、はじめはすでに、鉛筆をポーチに戻しているところだった。
 開けたままのスケッチブックには、毛布を腰に纏わせた状態の女が、壁にもたれ、そっけなく目を閉じているさまが精緻に描かれていた。はじめの描く純子はいつも、天使のように清らかで美しかった。
「綺麗」
「自分でもそう思う」
 後ろから覗き込もうとする純子に気づいて、はじめが婉然と微笑した。
 無垢で美しいはじめを、純子も小説に書きたかった。だが書けない。純子の意識はいつでもぼやつき、感性は死の淵にある。有史以来生まれ、死んでいったあらゆるものが憎いのに、はじめだけがひどく愛おしい、その矛盾を受け止めきれていない。受容できなければ、書けない。道理だった。
 純子ははじめから離れてベッドに戻り、サイドテーブルの引き出しを開けた。手のひら台のガラス瓶に詰めた、夥しい量の白い錠剤、五つほど取って、水もないまま喉奥に押し込んだ。

 ラッフルズ・パティスリーでの、ウエイトレスの仕事を終え、従業員エレベーターから直接ジャカルタ市街に出る時、純子はえもいわれぬ神妙な気持ちになる。巨大なホテルビル周辺は、似たり寄ったりの観光客向け施設が多いが、有料道路の高架を潜って向こうへ渡れば、南国の猥雑で湿っぽい空気が顔面へと押し寄せてきて、確信もより強まる。観光客の目を避けるように、張り巡らされた高いコンクリートの壁、並ぶのはトタンと端材で作られた家、家、家、たまにプラスティックの椅子とテーブルを置いただけの飲食店や、手押し車の屋台、軒下にジュースの粉を大量にぶら下げた雑貨店なんかがある。ほとんど路地と言って良いほど狭い道を、人と車と、何よりオートバイが、忙しなく行き来を繰り返す。子どもがビーチボールでサッカーの真似事をし、大人の男たちはコンクリートに座り込んで、タバコを吸ったり、敬虔なものは分厚いクルアーンを暗唱していたりする。女の姿はない。そういう街並みが一キロ近く繰り返される。
 純子はノースリーブにミニスカート、素足にサンダルを引っ掛けた格好のまま、夜のジャカルタをあてもなく歩いた。東アジアの無知蒙昧な観光客をカモにしようと、時折、アロハシャツ姿の軽薄な若者が近寄ってくるが、純子が闊達なインドネシア語で応対すれば、全て承知したとばかりに引き下がる。子供を連れた雌猫に、ポテトチップスの袋に残ったかすをやる。顔見知りの飲食店の男主人が、ジュンコ、君のためにビンタン仕入れておいたんだが、どうかな、と呼んだので、今夜はそこに入ることにした。
 ほとんどオープンスペースと化した掘建小屋に、小さなカウンターテーブル、椅子が三つほど。切れかけの裸電球。純子の他には、明らかにムスリムと見られる若い友人同士が二人、おしゃべりを楽しんでいたが、女の剥き出しの素足や二の腕を見て、閉口したとばかりに黙った。純子は二人に微笑んだ。
「女の子と話すのは初めて?」
「いや」手前、眼鏡をかけた短髪の少年ががぶっきらぼうに答えた。「学校の子と、母さんと、妹」
「ふうん、じゃあまだ高校生(エスエムアー)かあ」
「おねえさんインドネシア語上手だね。コリアン?」
 奥の席に座っていた、刈り上げ頭のほうは、不審な女にもフレンドリーだ。揚げたナマズ素手でかぶりつきながら快活に訊いてくる。
「ジャパニーズ。でも、日本より、ここの方がずっと好きよ」
「住んでもう長いの?」
「五、六年くらいかな。そこのホテルで働いてるの」
 ジャパニーズか、信じらんないくらい美人だね、と刈り上げ頭が言った。純子がミニスカートの裾を軽くつまんでカーテシーの真似事をすると、目を落としそうなくらい見開いて凝視するのでおかしかった。
 カウンターの向こうで黙々と料理していた男主人が、グリーンの瓶に国旗色のラベルが貼られたビンタンビールと、ナシゴレン、それからサービスのバナナを、純子の前によこした。ナシは米、ゴレンは揚げた状態を表す形容詞、チャーハンにも似たナシゴレンのことが、純子は好きだ。電球の下でたっぷりと油を吸った米がツヤツヤしている。
「すげえ、オレ、ビールなんて初めて見たよ」
「おいあんまり馴れ合うな」
 眼鏡の方が、刈り上げのシャツの襟を掴んで諌めるも、ハイになった彼は止まらない。
「どんな味するの?」
「そうね……麦の味、土の味?って感じかな。そうおいしいものじゃないわよ」
「変なの、美味しくないのに飲んでるのかよ」
「おかしくなりたい時だって」唇についた油を親指で拭い、舐めとる。少年たちに視線をよこす。「あるのよ、女にはね。あなたたちもそうでしょ? 神さまなんていない、と、思うことはない?」
「オレは……あるよ。たまにだけどね」
「おい」
「おねえさんはおかしくなりたいの、今?」
「そうね。あなたたちが一緒にいてくれたら、もっといいと思ってるけど」
 一皿とひと瓶を片付け、「おじさん、ありがと」純子が立ち上がると、刈り上げ頭も、一緒になって椅子をひいた。彼の目が熱っぽく潤んでいるのを、純子は敏く感じ取っていたが黙殺した。無口な主人に多めの代金を渡して店を出る。スニーカーの足音が二つ、それを追ってくる。
「おねえさん、家どこ? もう遅いし、危ないからさ、オレら送ってくよ」
 純子は行き交う車からのヘッドライトに浮かび上がった少年たちの輪郭を検分した。刈り上げ頭はよく喋る。薄っぺらい身体に若い勢いを持て余している。対して、無口な眼鏡の方は、長身に分厚い筋肉を蓄えて、何かスポーツを嗜んでいるだろうことを思わせる。同級生の暴走を嗜めながらも、彼もまた確かに、薄いガラスの奥の目を純子からそらすことができないでいる。
 敬虔で無垢な二人の少年の人生に嵐を巻き起こす愉悦に、純子は知れず、喉を鳴らしていた。果たして神は審判の日、この女悪魔めを許すだろうか? ノーだ。確信を持って言える。
 タダ同然に安い地元のラブホテルに、二人まとめて連れ込んだ。刈り上げ頭は、部屋に入るや否やキスをしてきて、それも激しく舌を絡ませるようなものだったが、稚拙だった。純子の薄い胸に吸い付きながら、モノ相手にするように、単調に腰を振った。すぐにへばって水を求めた。彼が外の自販機にミネラルウォーターを買い求めて出た間に、それまで木偶の如く突っ立っていた眼鏡のほうをベッドに誘った。彼はキスも、自分に対する愛撫も固辞したが、純子の膣をよくほぐし、挿入してからも務めて緩やかに動いた。彼のものは太く、質量があって、バックでしたときにはプレスされる廃材の気分で喘いだ。刈り上げ頭が戻ってきたあと、二人のものを同時に舐めた。精と尿の入り混じった強烈な味の体液を嚥下してやった。最後にもう一度、眼鏡に抱かれて、夜明けになった。学校に行かなければならないという二人を見送り、純子はひとり、部屋に残された。
 全身、汗や精液にまみれ、癖の強い髪までが白いもので固まっている。とんだ野蛮人だと、歪んだ唇に自嘲が走る。壊れているせいでほとんど洗車機みたいな勢いのシャワーを浴び、昨日の服をそのまま着てホテルを出た。
 アンコタと呼ばれる乗合バスが通りがかるのを、大通り沿いで待っている間、フライドチキンの店に立ち寄ってチキンの詰め合わせを買った。店を出るとき、ひび割れのひどい携帯電話に着信があった。
「純子」
 低く押しこもった声は公貴のものだ。
「調子はどうだ」
「悪くはない。よくもないけど。何、生存確認?」
 誰にでもそれとわかるほどあからさまな、不機嫌な日本語で対応すると、スピーカーから特大のため息が返ってきた。
「月経前か」
「あんた、早く死ねばいいのに」
「インハイ前、お前たち三年レギュラーのメディカルチェックは俺の仕事だった。把握していてもおかしくないだろう。ああ、先々月、持たせた土産の中に養命酒を入れておいたんだ。あれはすごいぞ。おまえみたいな神経質の痼疾もちでも、飲んで一晩寝れば速攻快晴だ。試してみろ」
「そんなことを言うために電話してきたわけ? 切るわよ」
「成功したよ」
 あまりにも端的な彼の真意を、一瞬、純子は捉えかねた。すぐに、三ヶ月前、日本で彼とその妻に会ったことを思い出し、緊張はほぐれた。道の向こうから、スライドドアを開けっぱなしで走る青い小型バス、アンコタがやってくる。身をかがめ、耳にスピーカーを当てたままの格好で乗り込んだ。
「そう、よかった」
「おまえから採取した卵子は状態がよかった。無事彼女の子宮に着床して、いま一ヶ月だそうだ」 
「いくつか取ったよね、他のはどうなったの?」
「遺伝子検査の段階で、悪いが選別させてもらった。一応、培養器で保管してはいるが、このまま何事もなければ廃棄だ」
「ああ、そうなの……」
 狭い車内で、ヒジャブをつけた若い女や、多弁の子供たちにぎゅうぎゅうと圧迫されながら、純子はあの、幸薄そうな彼の妻のことを思った。かわいそうに、愛する男の子を自力で孕めないばかりか、その子宮にどこのものとも知れぬ虫の卵を産みつけられたのだ。この虫の卵は、いつしか若い夫婦の家庭に侵入し、内側から食い尽くすだろう、と、純子は予感した。破綻者の夫、夫に近づく女の影、困惑と不安の中で、膨らんでゆく腹を抱えて立ち尽くす彼女の姿が、まぶたの裏に浮かんでくるようだった。
「俺とお前の子だ。どんな怪物になるか、楽しみだな」
「公貴、あんた、それ奥さんの前で言ったら殺されるわよ」
「そうだろうな。キャリアも台無しだ。ああ、でも、彼女の怒った顔を、俺はまだ見たことがないんだよな。そう思えば……」
 ぷつんと音を立てて、通話は終了した。純子によって強制終了されたのだ。若い陰茎を受け入れたばかりの膣が、初物でもないというのに、ちくちくと痛む。
 アンコタは果てしなく不機嫌な純子を乗せて北上する。棕櫚と椰子の並木、赤と白の細長い旗の群れ、大量のオートバイ、型落ちの日本車にツヤツヤした黒いリムジン、東京ディズニーシーの、貝の城に似た形のバス停、敬礼するスディルマンの立像、噴水を一周する環状道路を抜けて、独立記念のオベリスクが彼方に見えてくる。ガソリンのベンゼン臭が、開けたドアの方から入ってきて車内に充満している。向かいの老婆は仕切りに咳き込んでいた。ゲダング・サリナというショッピングモールの前でアンコタを降り、そこからコストまでは歩いた。
 自室へ戻ると、はじめは留守にしているようだった。そういえば、何か大きな仕事を任されたと言っていたような。帰りは遅くなるだろうか。喉の渇きを覚えたので、一度開けた玄関ドアに再び鍵をかけ、キッチンスペースに向かう。
 例の古い冷蔵庫は、下の段は冷蔵室だが、上の段は冷凍庫になっている。とはいえ住民の消費スピードが早いのでほとんど使用されることはない。純子はその、冷凍庫の立て付けの悪い戸を、音を立ててこじ開けた。日本式の、蓋が青い透明タッパー、その中に、古賀公貴の精液が凍っている。

 ジャカルタを居住地と定めたとき、真っ先に問題に上がったのは言語だった。インドネシア語は、品詞の変格や複雑な区分をほとんど持たないため往々にして安易な言語といわれるが、まったくの無学だった二人には、つっかかりさえしない難解なフェータルエラーとなった。はじめは、なんとか英語の通じる友人を見つけて、彼女とのコミュニケーションを解決策として見出したが、純子にその勇気はなかった。結局、NHKワールドのユーチューブ・チャンネルを、インドネシア語で視聴することが、彼女の最適解だった。今も、日本の情勢を知ろうと思ったら、まず一番にNHKワールドをチェックしている。
 カーテンを閉め切った暗い部屋、上半身だけをベッドに投げ出した中途半端な姿勢で、携帯電話の小さな液晶を眺める。画面の中では、白のサイクルジャージを着た若い男が、忙しなく落ち着かない様子で、インタビュアーの質問に答えている。
「ええ? そうすね、やっぱ、準備不足? っつうか、みたいなのもあったんですけど、爪痕というか、結果、残せてよかったす。チームのみんなに、あざすって、言いたいとゆーか……あの、一生懸命走れたんで。はい」
 ハンドルにまきつけたバーテープのほつれを仕切りにいじり回しながら、歯切れ悪く答える彼の言葉を、通訳テロップが、「準備不足が懸念されたが、結果を残せて安心した」、単純なインドネシア語に置き換えている。スプリント後の興奮に慣れない取材への緊張が重なって、あがり症めいた振る舞いを見せる彼だが、グランツールと名高いジロ・デ・イタリアを好成績で完走した、日本人チームのホープである。三週間にも渡るジロの完走は、歴戦の欧米人選手であっても難しい。加えて、第三ステージではポイント賞を獲得し、先日も大きなニュースになっていた。派手なオレンジ色の染髪が、イタリアの強い日差しに反射して眩しい。
 そういえば、彼はよくはじめに懐いていたっけ。卒業前など、わざわざ三年の教室まで通い詰められて、はじめと二人の時間を取りたい純子はすっかり困り果てていた。日本を出るとき、純子ははじめにも連絡先の全削除を求めたが、その後、二人の親交はどうなったのだろう。……詮ないことだとかぶりを振る。見終わらないまま携帯電話の電源を落とし、ベッドから立ち上がってカーテンを開けた。
 純子のキャノンデールは、輪行袋に入れて、コスト共用の倉庫に格納してある。もう半年は様子を見ていないから、盗まれたか壊れたかしていてもおかしくない。そうでなくとも、そろそろしかるべきところに売却してしまって、生活費とスペースの足しにしようかと考えている。足が必要になっても、はじめのコラテックがあれば十分事足りるだろう。

 黒いアイバンドで目隠しをしたはじめの、ギリシャの水瓶のように健やかな身体を、狭い手洗い部屋のタイルに強く押し付ける。しみひとつない真っ白な背中には今ごろ、タイルの目の跡がくっきりと浮かび上がっていることだろう。
 何をされるかわからず、彼女は生まれたばかりの子羊のように震えている。優美な唇は強く噛み締められて、食い込んだ八重歯のために破れた皮膚からは、かすかに血が滲んでいる。それでも、
「悪いようにはしないから、怖がらないで」 
 と純子が囁くと、怖くないとばかりに、気丈に首を横に振ってみせるのだった。
 生々しく張り詰めた腿からショートパンツを抜き取ると、純子の命令の通りに下着をつけないまま過ごし、すっかり飢えた性器が露わになる。膣口はすっかり泥濘と化し、会陰から肛門までバルトリン腺液が垂れ流しになっている。唾液で濡らした指で肉襞を開くと、未だ彼女が純潔である証左に、サーモンピンクの薄い皮が純子から内部を隔てていた。純子はひとまず内部への侵略作戦からは身を引き、こんどは、重たく腫れきって痛々しいほどの陰核に狙いを定めた。
 親指の腹で先端に軽く触れる。それだけで、はじめの身体は大袈裟にびくつく。足の指が快感につっぱり、内腿全体にぶ厚い筋肉が浮き上がる。スプリンターとして、彼女はまだ自らの脚を鍛え続けているのかもしれない。
「純子、そこはっ」
「好きだもんねはじめ。クリいじめられるの」
 言いながら純子は、身をかがめ、舌の粒だった表面を使って、はじめの陰核をヌルヌルと舐めた。上がる悲鳴。視界を奪われたはじめには強すぎる刺激だったろう、止めようと伸ばされる手を、左の方へ無情にはたき伏せる。奴隷の主権者たる純子はその上、爪の先を使って、陰核包皮をあっという間に剥いてしまった。充血し、薄紅色に尖った核心を、こんどは直接ねぶり回す。
「あ、ぅあっ、じゅんこ、許して……」
 喉を引きつらせてすすり泣く、かわいそうなはじめ。アイバンドもすぐに湿ってくる。しかし彼女の腰はさらなる快楽を求めて貪欲に揺れ動き、純子の唇を仕切りに圧迫する。純子の口の中へ尖った部分を押し込もうとする。それに応えて、純子は彼女の突起を歯で軽く噛んでやった。
「ぐ、っぁあん」
 感じやすいはじめは太刀打ちすらできずに上り詰めた。純子の頭を抱き込む両肢が硬直し、弛緩したと思うと力なくタイルに投げ出された。びしょびしょと吹き出した潮で、至近距離にあった純子の顔全体が濡れる。
「ああ、今日のメインはそこじゃないのよ、はじめ。ごめんね。無駄撃ちさせちゃったわね」
「あう、あうう、うー……」
 自ら身体を折りたたみながら、はじめは不規則な呼吸を切なく繰り返す。アイバンドの縁で桃色に上気した頬が扇情的だった。
「こんなの作ったんだけど。わかるかなあ、どう?」
 健気な彼女は、純子の一言に身体を持ち上げ、首を傾げた。
 インドネシアには、サラックと呼ばれる土着の果物があって、一目見た時から純子には、それを使ってやりたいことがあった。やわらかい棘の無数にある、蛇皮のような、特徴的な模様の殻に、ニンニク片を思わせる白い果実が入っている。大きさはキウイフルーツ一個分ほど。味はヨーグルトのような、あるいは水分の少ない梨のような感じで、ほのかに甘酸っぱい。だがそれはあまり問題にならない。そのサラックを四つほど、細い紐で連結したのを、視界の不自由なはじめにさわって確かめさせた。
 はじめは最初、何のことだかさっぱりわかりませんというような顔でいたが、棘の部分をさわっているうちにみるみる青ざめ、怯えだした。
「これをね、はじめのここに入れようと思うの」
 言いながら純子が指でなぞるのは、膣の代わりに、すでに何度か開かれている肛門。
「やだ、純子、入んない!」
「大丈夫よ、ちゃんとぬるぬるにほぐすから」
「純子……!」
「嫌? はじめ、怖いの?」
 はじめが首を上下にかくかく振る。アイバンドの縁からぼろぼろと涙が零れる。
「やだ……」
「そう? おしりの穴の壁から、あんたの膣と、子宮を、ごりごり押しつぶすのよ。すっごく気持ちいいと思う。きっと癖になっちゃうわよ。ね、あたしが嘘言ったことある?」
 蚊の鳴くような声が答えた。「ない……」