作業ブログ

 

 

GenuineA.Š.A. 

構想メモ

ScrapTrinity

 

パーフェクトワールドエンド(改)

あらすじと登場人物

A

B-1 B-2 B-3 B-4  B

C-0 C-1 C-2 C-3 C-4  C

D-1 D-2  D

E

完成

予告編:悪夢(D-2に回収済)

 

父の秋扇

1 2  


エスペランサ

A-1 A-2 A-3 A-4 A-5 A-6  A

B-1 B-2 B-3

 

 

予告編(いつかどこかで回収されます)

:スイス

:ガールフレンド

:女

:港

:王国

:ロマンス

:サテライト

:ハイヒール

:宇宙人の花嫁

:秋

 

設定メモ

 

PWE

 


 ジョニー・ボレッリ…………………………イタリア人の少年
 不動百合子……………………………………ジョニーがパレルモで出会う少女

 不動遊星………………………………………百合子の兄
 ジャック・アトラス…………………………遊星の恋人
 パラドックス…………………………………ジョニーの友人

 ルチアーノ……………………………………パレルモに住む少年
 祖母……………………………………………ジョニーの祖母

 十代……………………………………………旅人

 

 

 

            パーフェクトワールドエンド

 

 


            コクーン


 はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
 何が起きたのか、幼い少年には理解が及ばなかった。ただこの一秒にも満たない短い時間のあいだに、彼は闇の中で誰かの絶望と悔恨の果てに共感し、その一端を血管や神経や細胞組織のうちにたしかに引き受けていた。
「あいつは膝を折った。でも、仕方のないことだったんだ。人間はもともと、そう強い生き物じゃないから……やつらとは違うんだ」
 たおやかな指が涙の滴を拭い、ジョニーの顔をやわらかく包んだ。覗き込む双眸は邪心も虚飾もなく、それぞれ奇妙でちぐはぐな色に輝いていたが、長いまつげが何度かまばたきを繰り返すと、もとの甘いユーカリ蜂蜜の色に落ち着いた。優美な唇が皮肉を湛えて曖昧に歪む。
「オレはあいつの願いを聞いて、輪に輪を重ねた不条理から逃してやった。たどり着く先は無窮だ。決して光が射すことはないが、これ以上暗がりに転げ落ちる必要もない。オレの命がある限りは、少なくとも」
「君は神さまなの?」
 何もかも理解できない中で、少年の唇が自然に放ったのはそんな一言だった。
 彼はその首を緩慢に振る。
「神は〈人間〉の良心の形だ。オレは……そんな良いものじゃない……」

 

 ジョニー・ボレッリはどこにでもいる、ごく普通の少年だ。イタリア・ヴェネツィアの街に生まれ、朗らかな気性の人々に囲まれて半生を何不自由なく過ごしてきた。
 そんな彼は、十三歳の誕生日を迎えたこの年の夏季休暇、はじめて一人旅の許可をもぎ取った。行き先は祖母が一人住むシチリア州モンレアーレだ。サンタルチア駅からナポリまでを電車で五時間、さらにそこから夜行列車で九時間行けば、シチリア州パレルモにたどり着く。パレルモのホテルで夜を明かしたあと、朝早くに出る市バスに乗って一時間待ち、ようやくモンレアーレだ。何もかも自分きりで行わなければならない旅は少年に疲労と緊張を強いたが、それでも一枚だけのチケットを車掌が切ってくれた時には心が躍ったし、何度も目にしているはずの車窓からの景色も、どこか新鮮で珍しいもののように思われた。楽しい夏になる、ジョニーはそう確信していた。はじめのうちだけは。
 高鳴る胸を持て余していられたのは、祖母に迎えられ、豪勢な夕食を楽しんで、布団に潜り込んで眠りにつくまでだった。
 翌日から、彼は一変してこの夏の行楽に失望した。とにかく退屈なのだ。モンレアーレはさまざまな文化遺産と歴史的建造物を誇る美しいノルマン芸術の街だが、行き交うのは観光客ばかりで、地元住民、特に子どもが少なく、遊び相手に事欠いた。この地において、ともに裸足で海を駆け、虫を追って林に分け入る友人を、彼は持たなかった。やさしい祖母は老いていて、連れて行ってくれるところといえば毎週日曜日に赴く大聖堂くらいのものだ。それも数時間黙るか歌うかつまらない説教を聞くかのミサがもれなくついてくる。家から持ち込んだ漫画本も、課題の読書感想作文もすっかり済んでしまって、彼は瞬く間に倦怠の沼へと転がり落ちた。

 ある日の夜、ジョニーは表の扉の方から何か叩くような物音を聞いた。
 そのとき、彼は火のない暖炉の前のソファにだらしなく身を投げ出しながら、おやつのカンノーロを手持ち無沙汰に貪っていた。その日は夏期には珍しい雨の日で、それも一日中降り通したものだから、彼はこれ以上底がないと思うほどの退屈に身をやつしていた。祖母の家にはテレビもなければラジオもないのだ。一体これでどう毎日を過ごすのかと疑問に思うほどだったが、祖母は冬に向けて新しいセーターを編むのに夢中で、彼の退屈なんか知りもしないのだった。
 そんな折に、珍しい来客だ。しかもこんな雨の夜に。ジョニーは光よりも早く飛び起きてどたどたと居間を駆け抜け、年季の入った木の扉に張り付いた。
「はぁい、今開けます」
 手元と足元にひとつずつついたかんぬきを焦ったく引き抜き、勢いよく押し開く。
 そして拍子抜けした。
 玄関に所在なさげに立っていたのは、一人の若者だった。どう見てもアジア人だが、黒いシャツ一枚だけを羽織り、後ろで一つに括った茶髪が煤汚れているのが彼を見窄らしい下人のように見せた。デニムパンツやブーツがほつれだらけなのもいけない。それでいて、顔だけは女のように綺麗なのが実に奇妙だった。
「やあ、こんばんは。いい夜だな」
 男は強い雨脚にさらされ、ずぶ濡れになりながらそんなことを言った。英語訛りの強いイタリア語だったが、非常に流暢だった。
「そう怖がるなって。悪かったよ。家の人いる?」
 彼がついだ言葉に、ジョニーは自分が拳を強く握り込めていたことに遅れて気がついた。男を警戒し、いざという時のために防衛の準備をしていたのだ。気づくと同時に心臓がバクバクと鳴り出した。この街に来てから久しぶりに感じる感情の変化だ。
「ジョニー、どうかしたの?」
「あ、おばあちゃん、来ちゃだめだ」
 来客に気づいた祖母が居間から出てきたのを、ジョニーは必死に隠そうとした。少年のほんの小さな抵抗を、男は小動物の威嚇行動を眺めているみたいに笑う。
 お人好しの祖母は男に気づくと、慌てて近寄ってきて彼を玄関に招き入れた。
「どうしたっていうの、そんなに濡れて。風邪をひいてしまうわ」
「突然ごめん、おばあちゃん」申し訳なさそうに頭を掻きながら、男は祖母に頭を下げる。リュックのからびなにくっついた異国のストラップがジャラジャラ音を立てる。「オレ、この辺を歩いて回ってる旅人なんだけど、今夜予約してたホテルが急にキャンセルになっちまって、宿無しなんだ。野宿しようかとも思ったけど、雨でどこもびしょびしょでさ。もしよかったら、雨が止むまでのあいだここで休ませてくれないかな」
 男はジョニーの目には胡散臭い詐欺師の如く映ったが、祖母はどこまでも信心深い神の使徒で、常に奉仕の精神に満ち溢れていた。
「もちろんよ。せっかくなら泊まっていくといいわ。これから晩御飯にしようと思っていたところなの、あなたも一緒にいただきましょう」
「ありがとう。ほんと、助かった」
「そうと決まれば、まずはシャワーね。ジョニー、彼をバスルームに案内してあげて……この子はジョニー。わたしの孫なの」
「よろしくな、ジョニー」
 男の右手が差し出される。
 ジョニーはその、ずぶ濡れの右手を、恐る恐る握り返した。彼の手は平べったく、指もほっそりとしていて、まるで年頃の娘のもののようだった。
 祖母が持ってきたバスタオルに包まれた男を、二階のバスルームに連れていく。彼は慣れない足取りでジョニーの後ろをついて歩きながら、キリストの肖像画や壁掛けの飾り皿、天井からぶら下がったドライフラワーなどを物珍しそうに見渡した。夜の雨の中で恐ろしい悪魔のように思われたその男は、家内のあたたかな照明の下ではごく普通の少年であるように見えた。背丈もジョニーや祖母とそう変わらないし、感謝して浮かべる笑顔はどこかあどけない。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
 会話のない道行きに痺れを切らし、ジョニーは彼に尋ねていた。
 彼はしばらく、遠い昔に置いてきた記憶を探るような目をしてから、答えた。
「十代……ジュウダイ・ユーキ、だよ」

 結論から言って、ジョニーは十代のことを本当に好きになった。
 彼という人間は実に面白く、機知に富んでいて、彼が夕食のつまみに話す冒険譚も素晴らしいものだった。退屈していたジョニーにとって、彼の話は最高のエンターテイメントだった。
「それで、飛行機はどうなったの? 十代は大丈夫だったの?」
「結局その飛行機はサハラ砂漠のど真ん中に無事着陸したんだ。でも、天井がバキバキで、もう二度と離陸できないってことがわかった。どうしようもないから、オレは歩いてモロッコまで行ったんだ」
 祖母が焼き上げたイワシのベッカフィーコを美味しそうに、なんでもなさそうに咀嚼しながら、彼は語る。
サハラ砂漠は、昼は地獄みたいに暑いくせに、夜になると南極かってくらい冷え込む。そうすると、空の星がびっくりするほど綺麗に見えるんだ。風が吹くとチロチロ光って、何か小声でお喋りしてるみたいだった」
 彼の語り口は独特のリズムと抑揚があって、まるで昔の王様の演説をビデオテープから聞いているような、そんな感覚をジョニーに与えた。彼がこの声で語れば、ペッパピグの子供騙しの物語も、古い神話のようになるに違いないと思った。ジョニーも祖母も食事の手を止めて、彼の物語に聞き入った。

 夜が更け、草木も動物も眠りに落ち、静まり返る時間がやってきた。ジョニーは十代に自分のベッドの半分を貸すことにした。さっきの話の続きを聞かせてもらおうと考えたのだ。
 しかし、寝巻きに着替えると言って一度バスルームに入った彼は、二十分経っても戻ってこなかった。
「わたしももう寝るからね。おやすみ、ジョニー」
 ノックとともに部屋に入ってきたのは祖母だった。いつものようにおやすみのキスをしてもらう。彼女はそのまま自分の寝室に行こうと一度は背中を向けたが、ジョニーが声をかけると、改めてこちらに視線を向けた。
「着替えるって言ったっきり、帰ってこないんだ」ジョニーは不満をいっぱいに含んだ声でぼやく。「話の続きをしてくれるっていったのに」
「もしかしたら、何か困ったことがあったのかもしれないわね。ジョニー、様子を見てきてあげて」
「うん」
 ルームシューズに、眠気で温められた足先を突っ込む。
 廊下にも、吹き抜けから覗く階下の居間にも彼の姿はない。やはり、バスルームで困ったことに遭遇したのかもしれない。彼は廊下を渡って突き当たりのバスルームにたどり着き、薄い扉にそっと耳を寄せてみた。なんの音も聞こえない。再びシャワーを浴びているというわけではなさそうだ。
「十代?」
 名前を呼びながら、扉をゆっくりと押し開けた。
 案の定、十代はそこにいた。こちらに背を向け、鏡に向かってすっくと佇んでいた。ジョニーは安堵のため息をついたが、何度かのまばたきのあと、自分の視界に巣食う強烈な違和感を自覚した。ジョニーが十三年間培ってきた常識に適合しない何かが、目の前で起きていた。
 十代が振り返る。
 彼は下半身だけを寝巻きのズボンで包み、上半身は何もつけていなかった。邪魔だてするもののない、剥き出しの肩身。細く、存外に華奢なその身体は……左右非対称だった。臍のラインを中心に、左右で異なるかたちをしているのだ。
 左半身は、ごく普通の健康な少年のものだった。平らに張り付いた胸筋、引き締まった微かな腹筋のライン、しなやかに薄く筋肉を帯びた腕。
 しかし、右半身は……そのどれも持ち合わせていない。白い盃のようにふくらんだ小さな胸。しなやかにくびれた腹。なよやかに伸びる細く頼りなさそうな腕。ジョニーも知っている。それは、女の形だった。
 十代は、右半身に女、左半身に男の身体を持っていた。
 ジョニーは息を詰めた。常識と理解の軌道を大きく外れた目の前の生き物に目を瞠り、それが趣味の悪い夢なのではないかと、興奮のあまり脳が混乱して妄想を始めたのではないかと、躍起になって空想特有の綻びを探した。だが、彼の肉体はたしかに現実のもので、外界にむかって健康そうに張り詰めていた。
「ごめん」
 十代のため息が、放心するジョニーの思考を現実へと引きずり戻す。「変なもの見せたな」
 彼の謝罪に返す言葉を、ジョニーは持たなかった。何か言おうとしても、うまく考えがまとまらないのだ。
 十代は寝巻きを手に取り、上から被ってその奇妙な身体を完全に隠した。
「まあ、落ち着けよ。まずはお前の部屋に行こう。話はそれからだ」
 手を引かれて寝室に戻り、ベッドに腰掛ける。十代は部屋の隅にある木のスツールを引っ張ってきて放心するジョニーの正面に置き、それに座った。膝に揃えて置かれた二つの手は、注意深く観察しなければわからないが、よく見るとちぐはぐだった。左手はわずかに骨張って、皮膚も硬そうなのに対して、最初にジョニーが握手をした右手は細くやわらかな形をしていた。今ならわかる、それは女の手だ。
「オレは魔女なんだ」
 ジョニーの目を、枯葉色の目で真っ直ぐに見つめながら、十代はそんなふうに言った。
「……魔女?」
「そう、魔女だ」
「魔法が使えるってこと?」
 小さな頭が横にふれる。そういえば、身体はこんなにもはっきりと分かれているのに、彼の顔は几帳面なほどに対称だった。見ていると気分が悪くなりそうなくらい、完全で冷たい美が備わっていた。
「魔法という言葉が、科学にはなしえない奇跡の所業を指すとするならば、オレは魔法が使えないってことになるな」
「言ってること、難しくてわからないよ」
「そうだな……要するに、人を生き返らせたりとか歴史を変えたりとか、そういう感じのミラクルは起こせないってことだ。やろうと思えばできるのかもしれないけど、今まで誰も試したことがないし、これからもきっとない。宇宙が物理の支配を受けているうちは、そういうことをしても意味がないんだ」
 思考がまとまらない。彼の言葉が何一つ頭に入ってこないのだ。
「でも、お前の目に見えないものが見えるし、お前の耳に聞こえないものが聞こえる。魔女っていうのはそういう存在だ」
 十代の右手の指先が、ジョニーの前髪を跳ね上げ、額にやさしくさわった。
「僕の目に見えないもの」
「そう。たとえばそれは、お前の運命だ」
「僕の未来がわかるの!」
「落ち着けよ。わかるっていうのとはちょっと違う。魔女は基本的に観測するだけだ」
 やがて、男の左手も右手に追随し、ジョニーの頬に触れる。二枚の、異なる性質を持つてのひらが、十三歳の少年の顔を水のように包む。
 十代が鼻先をぐっと近づけて、至近距離で覗き込んできた。月夜の美術館にたった一つ置かれた白い胸像を思わせる顔、ベールを透かしてみるような、何か怪しい美しさを湛えた顔が、呼吸さえ交わるほど近くにあった。彼の美しさは欲も感動も呼ばない。ただ、ジョニーが今まで経験したことのない殊勝な感情……畏怖が、モーゼが岩を杖で打ってもたらした湧き水のように、ジョニーの胸中を静かに満たした。
「見たいか」
 薄い唇がそう囁く。
「見たい……」
「いいぜ」
 十代は微笑んだ。皮肉で、意地悪で、運命さえも翻弄する悪魔のように、笑った。そうして、瞼をしばたかせたかと思うと、次の瞬間には左右異なる色を湛えた瞳がジョニーを覗き込んでいた。

 一呼吸の間に闇が視界を覆う。
 愛と無に満ちたやさしい闇。やわらかくて、温かくて……遠くから聞く汽笛のような深い音が、一定のリズムで聞こえてくる、これは心臓の鼓動の音。鼻をくすぐるのは羊水のにおい。
 闇は女の子宮の形をしていた。ジョニーはその形を知っていた。だが、同時に去来したのは、安心でも愛着でもなく、底なしの絶望と悔恨だった。胸の内側から身体全体を腐食せんとする、冷たく、粘り気のある情動。その貌を自らの中に認めたとき、彼は自我の実在すら憂いた。こんなものが、自分の中にあっていいはずがない。抉り出し、潰してやろうと胸を掻きむしろうとして、今の自分に腕も手もないことを思い出す。実態がない。
 ——どこで間違えた?
 低い男の声が言う。
 ——いいや、間違えたのではない。最初からだ。最初から、あってはならないことだった。
 闇はやがて形を変え、ただの無感動な空洞になり、苦しみ悶えるジョニーを中心に急速な収縮を始めた。迫り来る影に怯え、震えながら、ジョニーはふと、懐かしい感覚を得た。絶望と悔恨のどちらでもない。潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ。

 何かが右頬を伝う感覚で、彼は再び、彼の現実を取り戻した。
 十代のやわらかい指が、それをやさしく拭ってくれる。涙だ。ジョニーは泣いていた。一秒にも満たない僅かな時間の間に、彼はその男と深い部分で共鳴し、組織を男の心の形に定義しなおしたのだ。
「あいつ<お前>は膝を折った。でも、仕方のないことだったんだ。人間はもともと、そう強い生き物じゃないから……やつらとは違うんだ」
 訳のわからないことを、十代は言う。懺悔のようでも、ただの告解のようでもある。
 手のひらに包まれた頬が温かい。ようやく人心ついた感じがする。ジョニーが自らの実態に帰り着くと同時に、十代の瞳も、もとの人間らしい色を取り戻していた。
「オレはあいつの願いを聞いて、輪に輪を重ねた不条理から逃してやった。たどり着く先は無窮だ。決して光が射すことはないが、これ以上暗がりに転げ落ちる必要もない。オレの命がある限りは、少なくとも」
「君は神さまなの?」
 十代は首を横に振った。悲しい目だ。そんな単語聞きたくない、とでも言いたげな目。
「神は人間の良心の形だ。オレは……そんな良いものじゃない……」
 その真意を問いただすことは、できなかった。

 

 翌朝、目覚めたジョニーの傍らに、共に眠りについたはずの十代の姿はなかった。
 早くに起きていた祖母によれば、彼は朝食のワッフルを丸々三枚平らげ、日も登らないうちに家を出て行ったそうだ。結局ジョニーは、わくわくするような冒険譚の続きも、十代の本当の正体についても聞くことなく、あの謎めいた不思議な人を見失った。
 その後、ジョニーは彼のことを急速に忘れていった。はじめは毎晩確かめるように脳裏に確かめていたはずのあの不可思議な出来事のことも、日を重ねるうちに靄をかけたように掴み所のないものになっていき、やがて思い出すこともなくなった。十代の名前すら、祖母がその名を挙げてようやくかすかに頭をよぎる、そんな程度のものになっていた。
 ジョニーはつつがなく、彼の退屈な日々に帰っていったのだ。

 

 

 

            ファム・ファタール


 ジョニーは今まさに身繕いを終えるところだ。まだしっとりと湿った上半身を、下ろし立てのシャツで包んでしまえば出来上がりだ。のんびり屋の祖母が通院の予定を思い出してから今に至るまでの二十分の間に、彼は実に迅速かつ手際よく自らの身なりを整えてきた。シャワーを浴び、バスタオルで身体を吹くのもそこそこにドライヤーをセットして髪を乾かし、グリースで後ろに撫で付けた。洗面台横のガラス棚から迷いなくアトラス社のオーデコロンを選び、手首と腹にそれぞれ一吹きずつふりかけた。若いセコイアのような長い足は黒のパンツでエレガントに引き締め、腰回りはレザーのリングベルトで飾った。
 彼はハンガーからシャツを外す前に、姿見の前にやってきて一度自分の身体の隅々までを検分した。十九歳の青年の輪郭はたくましく、磨かれたばかりの鉱石さながらの重々しさと鋭さに漲っていた。剥き出しになった体幹はよくなめした革を張ったように滑らかで美しい筋骨に覆われ、軽く動かすと鞭のごとくよく撓る。覗き込んだ顔はラテン民族らしいエキゾチックな魅力に満ち溢れ、特に少し垂れたまなじりなどは、彼という人間の印象をやさしく柔和なものにした。有り体に言って、彼は魅力的な男だった。
 皮膚にニキビひとつないことを確認すると、彼は満足し、ようやくシャツに手を伸ばして袖を通した。糊の効いた真っ白なオックスフォード生地は、彼の雄牛のような肉体の凹凸によく馴染んだ。最後に再び棚を開け、お気に入りのスポーツウォッチを左手首に嵌めて、鏡の中の自分に向かってウインクする。それで支度はおしまいだ。
「ジョニー、ジョニー」
 階下から、ようやく重い腰を上げたらしい祖母の呼ぶ声がする。
 彼はゆったりとバスルームを出て、長身を縮めるようにしながら狭い階段を降りた。祖母はソファの上で彼女の手提げの中身を確認していた。
「おばあちゃん。準備はできてるよ。なにか手伝うことはある?」
「いつもありがとう。それじゃあ、部屋から杖を取ってきてくれるかしら」
 祖母はこの数年で急に老いて、最近では杖がなければ数十歩歩くこともままならないほどだった。ジョニーがこの家に滞在するのは毎年夏季休暇の間に限るが、大学に進学し、春季休暇の期間も伸びた分もっと顔を出してやらなければ、と彼は思っていた。
 帽子を被り、杖を右手に収めた祖母を伴って彼は家を出た。
 外はすっかり夏の陽気だ。海から吹く湿った風に、オリーブの硬い葉がそよぐ。青以外の色を漉してしまったかのような空には雲ひとつない。ゆるやかな下り坂を覆う煉瓦は陽気に焼かれてすっかり乾燥していたし、高草の茂みは手がつけられないほど伸び切ってしまっている。彼はたまらずサングラスをかけ、日傘をさして祖母の方に傾けた。
 モンレアーレの街から、祖母のかかりつけがあるパレルモまではプルマンという長距離バスで移動する。チケットを切り、冷房の効いた車内に乗り込んだ彼は、やっと人心ついた気分でため息をついた。プルマンは二人を乗せるとすぐに発車し、祖母は揺られて五分もしないうちにジョニーの肩で眠りについた。彼は唯一の話し相手を失い、すぐに退屈した。窓に額をピッタリとくっつけ、代わり映えのない田舎の景色を眺める。
 モンレアーレでの日々は相変わらず退屈だ。刺激に欠けていた。到着してからしばらくのうちは、一年ご無沙汰していた近所の住民に挨拶をしたり、パレルモやチェファルーに足を伸ばして土産物を買い込んだりしたものだが、それにもすぐに飽きがやってきた。大学の友人たちはみな夏の道楽に忙しく、電話をかけてももっぱら留守番電話につながった。街を歩くおしゃれな女の子たちに声を掛けることもなかった。女の子たちの方では、ハンサムな彼を振り返り噂話の一つや二つたち起こることも珍しくなかったのだが、彼自身が純朴な質であるせいで、見ず知らずの異性をデートに誘うなんて発想にそもそも至らないのだった。きちんとした出会い、きちんとした交流を経てやっとデートなり食事なりに誘うことができるのだ、本気でそう思っていた。結局、彼の無聊の慰めは、友人のパラドックスに会いに行くことくらいにとどまった。
 パラドックスは祖母が通う診療所の息子で、地元の大学に通う医学生だ。気難しく、怒りん坊で、疑問や不満があるとむっつり黙り込んでしまう難儀なやつだが、努力に裏付けられた秀才で、こと医学に対しては誰よりも真摯だった。なにより、どんなに忙しくても顔を出せば手を止めて話を聞いてくれる彼の生真面目でお人好しなところをジョニーはとても気に入っていた。
 今日は土曜日。多忙な医学生といえども、休日くらいは羽を休めたいものだろう。祖母が検診を受けている間、彼をジェラテリアに誘って日頃のよしなしごとを聞いてもらおう。そうして、もし彼にも不満や鬱憤が溜まっていたら、仕方がないから聞いて慰めてあげよう。ジョニーはそう思っていた。いたのだが。
「悪いけど、息子は今日外に出ていてね」
 世話になっている祖母のかかりつけ医、パラドックスの父親のそんな一言で、ジョニーのその日の予定はみんな白紙になってしまった。彼は一人パレルモの雑踏に放り出されることとなった。
 パラドックスは退屈している友を放って一体何をしているのだろう。拗ねて唇を尖らせながら、観光客でごった返すマクエダ通りを手持ち無沙汰に歩く。ロマネスクの色を強く残した宝石のような街並みも、活気あふれる市場も、荘厳たる大聖堂、快く蹄鉄を響かせる馬車も見古してしまって新鮮味がなく、それが輪をかけてジョニーを面白くない気分にさせた。露店で牛の肺バーガーを買ったが、暑さもあいまって口の中でパサつくのですぐに飽きてしまう。
 なんて災難な日なんだ、ジョニーはため息をつく。
 あてもなく、だらだらと歩いていると、不意に目の前の人垣がふっとひらけたような感じがした。感じがしただけで、実際には錯覚だったのかもしれないが、ともかく、そのときのジョニーはそんなふうに思った。その中から、一人の女の子が、ジョニーの前に躍り出た。
 かと思えば、石畳の欠けた部分にサンダルのつま先を引っ掛け、こちらに向かって勢いよく倒れ込んできた。
「あ……!」
 ジョニーは思わず、彼女のことを胸に受け止めていた。
 彼女のつむじから、ふわりと花の香りが漂う。やわらかい肉の重みが、ジョニーの上半身に緩やかにかかる。
 抱き止めようとして背中に触れたとき、その身体があまりにも薄っぺらいことに気づいて、何か触れてはいけないものに触れてしまったときの罪悪感が彼の胸にのぼった。肩身ひとつ取っても、ジョニーより一回りも二回りも華奢だった。だから彼はそのままの姿勢で、女の子が自分から立ち上がるまで待った。果たして、彼女はたっぷり五秒の後にジョニーの胸から小さな頭を上げた。その、自分を見上げてくる彼女の顔を見て、ジョニーは今まで体験したことのない奇妙な感覚に囚われた。
 彼女はとてもきれいな女の子だった。ジョニーはまず、優美な青色を湛える二つの虹彩に目を奪われた。それらは小さな海をそのまま瞳の空間に映し取ったかのように深く、透き通っていて、夏の強い日光を浴びると星の光度できらめいた。瞳に吸い込まれていたジョニーの意識はやがて拡散し、彼女の小さな顔や、細っこい身体全体に及んだ。青白い瞼はくっきりとした二重と長いまつげに縁取られ、鼻はつんとすましていて、唇はまるで水辺にほころぶ桃色の花弁のように薄く、繊細な血色に色づいている。濡羽色の艶やかな髪が編まれて肩のほうに流してあるのが清楚だった。丸い顎から細い首筋へかけては特に透き通るほどに白く、その色は快晴の日の満月の輝きを思わせた。黄色い小花を散らしたワンピースから伸びた手足も細くて、思わず折ってみたくなるほどだった。何もかもが精巧な人形のように上品で、小さく、可愛らしくて、爪でこづいただけでも壊れてしまいそうに見えた。
 ジョニーは彼女に見惚れた。喉は呼吸を忘れ、心臓ですら鼓動を打つことを忘れた。
 女の子はしばらくぼんやりとジョニーを見上げていたが、いくつかのまばたきのあと、慌てて立ち上がりジョニーから離れた。すっかり狼狽えた様子で頭を下げられ、ジョニーの方にもようやく正常な思考が戻ってくる。
「受け止めてくださり、ありがとうございます」
 訛りも淀みもない、美しいキングスイングリッシュだった。ジョニーも、夏の間に遠ざかりかけた英語語彙を引き摺り出して彼女に応える。
「気にしないで。怪我はない?」
「はい、おかげさまで」
「それはよかった。でも、なんだってあんなに急いでいたんだい?」
 ジョニーがそう尋ねると、彼女はにわかに顔を赤くし、口籠った。所在なさげにおさげの結び目を触りながら、視線を足先に泳がせる。
「その……実は、家族と逸れて迷子になってしまったんです」
 十七にもなって、恥ずかしいですよね、仕方なさそうに微笑む彼女はボッティチェッリの絵画よりずっと可憐だ。
 マクエダ通りは、比較的開けた明快な道路になっているが、そこから一、二本裏に入れば旧市街の複雑な迷路が待ち受けている。彼女は地元の人間というふうでもないし、一人で歩けば迷ってしまうのも仕方がないだろう。
「そうだな、もしよかったら、僕も一緒に君の家族を探してもいいかな。きっと、君のガイドがわりくらいにはなれると思うんだ」
 それは困っている女の子を放っておけないというおせっかい心や、ジョニーがいま現在非常に退屈しているということに起因する決断ではあったが、何より、彼は彼女の手を今離してしまうにはあまりにも惜しいと考えていた。彼女ともっと話したい、彼女のことをもっと知りたい、わけもなく湧き上がってくる感情にジョニーの奥手な部分は簡単に押し流されてしまったのだった。
「本当ですか! よろしくお願いします!」
 女の子は嬉しそうにジョニーの手を握り、「……あっ」すぐに自らの大胆な行為に気づき、恥じらって指を解いた。
「ごめんなさい。でも、とても嬉しいです。地図も標識も読めなくて、どうしたらいいものかと途方に暮れていたので……」
「そういうことなら任せて。きっと君を家族のもとに送り届けるよ」
「頼もしい。ありがとうございます」
「僕はジョニー。君の名前を聞いても良い?」
 彼女は慎ましくはにかみ、
「百合子といいます。不動百合子です」

 果たして、百合子の家族はマクエダ通りから一本外れた大通り、ローマ通りの群衆の中から見つかった。
 彼らは食いしん坊の末娘が食べ物の匂いに釣られたのではないかと飲食店の集まるエリアを訪ね歩いていた。最初にこちらに気がついたのは、ジョニーと同じくらいの歳の頃の青年だった。線の細い妹とは対照的に、男らしくがっしりとした身体つきをしていたが、青みがかった瞳の色やいやらしいところのない清純な顔立ちは彼女に生写しだった。彼は行き交う人々の間を器用にすり抜け、短く切り揃えた黒髪をくしゃくしゃにしながらこちらにやってきた。
「百合子!」
「遊星兄さん……!」
 ジョニーの元を離れ、転がるように走り出した彼女を、青年は強く抱きしめる。「よかった。一体どこに行ってたんだ、心配したじゃないか」
「ごめんなさい。人混みに流されて、迷子になってしまったんです。でも、あちらの彼が案内してくれて」
 彼らが操る異国の言語はジョニーには馴染みのないものだったが、青年が百合子の頬をやさしく撫でるのを見て、彼こそが百合子が探していた家族の一人なのだとすぐに勘づいた。
 青年は百合子の合図で背後に控えたジョニーの存在に気づき、軽く頭を下げた。お互いに手を差し伸べて握手をする。彼の手のひらは分厚く、ところどころにできた豆が硬く盛り上がっていた。
「不動遊星だ。妹を案内してくれたんだってな、ありがとう」
「ジョニー・ボレッリです。どういたしまして。お役に立ててよかったよ」
「礼になるかはわからないが、そこで買ったマジパンがあるからもらってくれ。それじゃあ、俺たちはこれで」
「あっ」
 遊星はジョニーの手のひらにカラフルなパッケージを押し込むと、もう一度頭を下げ、妹の肩を抱いてくるりとこちらに背を向けた。人混みの向こうに、兄妹とそっくりな男女が寄り添いながら二人を待っているのが見えた。百合子が首だけで振り返り、小さく手を振ってくれる。彼女の名前を呼んで引き留めようか、そんなことを悩んでいるうちに、兄妹は人混みに紛れ、やがて見えなくなった。

 帰りのプルマンに揺られている間、今日出会ったあの女の子のことを考えた。
 美しく、気立の良さそうな人だった。ユリコ・フドウ、不動百合子。どんな子なのだろう。どこから、何のためにパレルモにやってきたのだろう。何が好きで、何が嫌いなのだろう。そんなことを考えているうちに、ジョニーの頭の中は彼女のことでいっぱいになってしまった。
 プルマンがモンレアーレに到着し、傾き始めた西日の中で家路を急ぐ間も、また家に着いて、キッチンにて忙しく鍋をかき混ぜている間も、ジョニーは彼女のことばかり考えていた。おかげでリゾットは底が焦げてカリカリになってしまった。心配する祖母にマジパンの包みを押し付け、ベッドに潜り込んでも、彼は百合子の面影を瞼の裏から消し去ることができないでいた。

 

「私は君の惚気を聞くために呼ばれたのかね、要するに」
「惚気じゃないよ。あの子は別に僕の恋人ってわけじゃないもの……」
 ジョニーの重たいため息は、エスプレッソのまろやかな黒色の中にゆっくりと沈んでいく。
 パラドックスは、思い悩む友人のことなんか存ぜぬといった顔で、生クリームをたっぷり浮かべたアイスココアを啜りながら、もう片手でダ・ヴィンチの解剖手稿図鑑をめくっている。
「恋愛話も惚気話もそう変わらん。大体なんなのだ、そうウジウジと、思い悩むくらいならさっさと逢引の一つでも取り付けてしまえば良いものを」
「連絡先聞くの忘れちゃったんだよ。名前しか知らないんだ。どこに住んでるのか、何のためにパレルモに来たのか、そもそもまだこの国にいるのかすらわからないんだ」
「大敗北ではないか」
 はじめのうちは真面目に話を聞いていてくれたはずのこの友人も、一時間超に渡るジョニーの泣き言にほとほと辟易しているようだった。先ほどから受け答えが雑になってきているのは、決して気のせいではないだろう。
 ジョニーは……あれからどうしても彼女、百合子のことが忘れられず、この数日の間に何度もパレルモを訪れていた。町中を走り回り、主要な観光地や公共施設、ホテルなどを手がかりもなく探したが、彼女やその兄の姿を見ることはついぞなかった。そういうわけで、友の力を借りようとカフェテリアに誘ったのだが、当然、何か情報が得られるはずもない。憂鬱と、生クリームココアの請求書だけがテーブルに山積していくばかりだ。
「だいたい、君は奥手すぎるのだよ。兄ともども食事に誘うなりすればよかったものを」
 パラドックスはなんでもない風にそんなことを言う。彼女いたことないくせに……呟けば、切長の目に鋭く睨まれた。
「初対面でも、誘って良いものかなあ」
「今回の場合は特に問題はなかろう」
「うん、じゃあ頑張って誘ってみる。ついでにもう一回探しに行ってみる」
「そうしたまえ」
 ジョニーは勢いよく席を立ち、元気よく店を出た。窓の向こうでパラドックスが仕方なさそうに肩をすくめているのが見える。
 二人の気に入りのカフェテリアはトリノ通りの終わりごろにあって、ジョニーはその裏を左に曲がることで百合子が家族と落ち合ったローマ通りに入った。夕方になり、人も車もまばらになってきた大通りを緩慢な足取りで歩く。やがて見慣れた十字路に出たところでふと思い立って、彼は少し寄り道をすることにした。
 棕櫚の木の立ち並ぶ細い路地を渡る。その、表通りとは異なる意趣の雰囲気に、ジョニーの胸はだんだんと高鳴ってきた。なんだか本当に彼女と再会できてしまう気がする。そしてこうした予感は、しばしば現実となって彼の前に現れるのだ。
 路地を抜け、少し開けた教会前広場に出ると、右手側に小さなレストランがあることに気がついた。由緒ある館の一角を改装して作られたもので、広場に迫り出す形でオープンテラスが設けられている。その、テラス席の一つに、上品なコバルトブルーのショートドレスを着てちょこんと座っている百合子の姿を、彼は見た。
 テーブルを挟んで向かいには、同じ色のタイをソフィスティケートに締めた遊星、それから二人の隣にそれぞれ彼らの両親が座っている。四人はイワシのパスタを分け合いながら、ゆったりと、和やかに談笑していた。テーブルの左右に配置された蝋燭が、この麗しく暖かな家族の様子をやさしく照らしている。ジョニーは息を詰めてその姿を眺めた。
 会いたい会いたいと気持ちばかりはやらせて、実際彼女を前にしたとき、どんなふうに声をかければいいのか、ジョニーにはわからなかった。彼女のこととなると、ジョニーはどうにもおかしくなってしまうのだった。十九年の間蓄積してきた知識や経験は、恋の前には何の役にも立たない無用の長物と化すのだった。
「ジョニー?」
 だから、彼女がふとこちらに気づいて、名前を呼んでくれたとき、ジョニーはあまりにもうれしくて、思わず泣きそうになるほどだった。
「ジョニーですよね? こんなところで会えるなんて」
「奇遇だね。こんばんは、百合子」
 ちっとも奇遇じゃない。ずっと探していたのだ。
「こんばんは。ねえ、どうかこちらにいらしてくださいな」
 立ちあがろうと腰を浮かせたものの、都雅な彼女は食事の席を離れることができず、結局ジョニーを家族の食卓に手招いた。四人の興味を一身に集め、萎縮しながらも、ジョニーは百合子のそばに近づく。
 彼女はジョニーの腕に軽く触れながら、彼女の家族に視線を配った。
「おとうさん、おかあさん、紹介しますね。こちらの方が、先日迷っていたわたしを案内してくれたジョニーです」
「これはこれは、ご親切に、どうもありがとう。娘がお世話になりました。立ち話もなんだし、よかったら一緒に食べて行かないかい?」
 遊星にそっくりな顔立ちににこやかな笑顔を浮かべ、使われていない端の席を示したのは兄妹の父親だ。気さくな雰囲気だが、上等そうなワイシャツを着こなす姿にはどこか格調があった。
 ジョニーが彼の誘いに甘えて席に着くと、ウエイターがやってきてよく磨かれた銀のカトラリーを置いて行った。ちょうど左側に座っている遊星がこちらに身を乗り出し、ジョニーに手のひらを差し出した。
「また会えて嬉しいぞ、ジョニー」
「遊星、ありがとう。僕もだよ」
 再び握手をする。
「ジョニーさん、パスタはお好き? どんどん食べてね、この人ったら、調子に乗ってたくさん頼みすぎたのよ」そう言ってため息をつくのは、遊星の隣に座る彼らの母親だ。小柄で、駒鳥のような可愛らしい雰囲気の人だった。向かいの父親へしかたなさそうに視線を流したかと思えば、ジョニーの取り皿に大量のパスタを盛って寄越してくる。
「ありがとうございます、大好きです。いただきます」
「無理しないでくださいね」
 右側の百合子が、一生懸命上半身を伸ばしてジョニーの耳元にそう囁いた。健気で愛らしい気遣いに、心臓が変な鳴り方をする。
 その後、母親が嘆いたとおりに、大量のシチリア料理と、上等そうなワイン瓶が二本も運ばれてきた。
「百合子はあれから君の話ばかりでね、おとうさんは気が気じゃなかったんだ。一体どんな青年がうちの娘のハートを射止めたのかとね」
 ワインを煽り、上機嫌な父親はそんなふうに娘を揶揄う。
「ち、ちがいます。わたしはただ、きちんとしたお礼もしないままお別れしてしまったことが心残りだっただけで……」
「今日こうして会って安心したよ。実に誠実そうな青年じゃないか。でも百合子、国際結婚は大変だぞう」
「おとうさんってば、もう! からかわないでください!」
 顔を真っ赤にして頬を膨らませる末娘を、三人は楽しげに、微笑ましげに眺めていた。ジョニーの顔にも自然、喜色が浮かぶ。
 晩餐は楽しく愉快に進行した。ジョニーは当初の緊張を忘れ、この家族の一員になったかのように積極的に会話に参加し、同じだけ笑った。
 特に遊星とは会話が弾んだ。彼はジョニーと同じ十九歳で、工学部に通う大学生だった。
「それじゃあジョニーは今大学で電子工学の勉強をしているのか」
「うん。昔から機械いじりが好きでさ。遊星は?」
「宇宙工学専攻だ。探査機の新型エンジンを開発するのが夢なんだ」
「へえ、すごい! 将来遊星の作ったエンジンが飛ぶようになるかもしれないってこと?」
「まあ、そんなものだな」
 二人はすっかり意気投合し、メールアドレスと電話番号を交換するまでに至った。彼らの議論は、蚊帳の外にされた百合子が拗ねて兄のデザートを食べてしまうまで続いた。

 食事を終えてしばらくしたころ、その時はやってきた。不動夫婦が会計のために席を離れ、ほぼ同時に遊星が手洗いに行ったので、ジョニーと百合子は二人でテーブルに残されたのだ。
 さっきまで大口を開けて笑い、ふざけて冗談を言い合ったりもしたのに、いざ二人きりになると、やはりどうしたらいいのかわからなかった。ワインで適度に温められた頬や手のひらが、夜の風の冷たさを顕然と拾う。心臓ががなりたててうるさい。横目で百合子を見やれば、彼女もまた、所在なさげに指を膝の上で遊ばせながら、パンプスのつま先の上に視線を泳がせていた。
「あ、あのね」
 口をついて出た声は若干震えていて格好がつかない。それでも彼女は顔をあげ、その青く澄んだまなこでジョニーを見つめた。ジョニーもまた、目を逸らさずに彼女の顔、しわのない眉間の辺りを凝視した。
「明日、空いてないかな」
「明日……ですか?」
「うん。明日がダメなら、明後日でも、明々後日でもいい。僕に君の一日をくれないかな」
 合点が行かない様子で、彼女は小さく首をかしげる
「君のことがもっと知りたい。僕とデートしてほしいんだ」
 恥ずかしくて情けなくて、死んでしまいそうだが、ともあれ、言えた。結んだ唇から安堵のため息が漏れる。鼻の先に、居心地の悪い熱が集まってくる。
 百合子はパッと頬を染め、小さな顎を引いて俯いてしまった。しかしすぐに再び視線をジョニーにむけ、大袈裟なところのない、無邪気なはにかみを浮かべて、小さく頷いて見せた。「もちろんです」消え入りそうな声だが、確かに彼女はそう言った。
「わたしも……、もっとあなたのことを知りたいと、そう思っていたんです」
 そう笑う彼女の可憐なことといったら、なかった。
 ジョニーの胸の中で、幸福感と期待と高揚と不安とが、渦を巻き、もつれ合い、ぶつかり合って、彼の理性を押し流す。なんてかわいい人だろう! もう少し、遊星が戻ってくるのが遅かったら、ジョニーはきっと彼女を抱きしめて、口づけのひとつでもしていたに違いない。
 それから、彼女ともメールアドレスを交換し、両親に礼を言ってレストランを離れてからも、ジョニーのそうしたお祭り気分は尾を引いた。暗い停留所のベンチでプルマンを待ちながら、彼はパラドックスに電話をかけた。
「惚気はもうたくさんだ!」
 そう怒鳴られ、乱暴に通話を切られても、ジョニーは果てしなくご機嫌だった。

 翌朝、ジョニーは早朝五時半に起床した。
 決戦は四時間半後、十時きっかりに彼は百合子とパレルモ・プレトーリア広場で落ち合う。プルマンでの移動に約一時間ほどかかるとして、全ての支度を三時間半の間に済ませなければならない。
 彼はまずシャワールームに入ると、いつもの倍以上の時間をかけて念入りにシャンプーをした。勿体ぶってなかなか使わないボタニカルのヘアコンディショナーを手のひらにたっぷり注いで、豊かで艶やかな髪をゆっくりと労ってやる。髪からほのかにサンダルウッドの気配が漂うようになったのを確認して、今度はその長躯をシャワージェルで隅々まで磨いた。
 シャワーを終えた彼はタオルで全身の水分を拭き取ったあと、肌のコンディションチェックに入る。姿見を熱心に見つめながら、無駄な産毛を剃り落とし、ローションやモイスチャライザーで肌のきめを整えていく。
 相変わらずニキビもシミもない、健康な皮膚をキープできていることを確かめて、彼はようやく整髪に手をつけた。ドライヤーに乾かされ、豊かに広がった髪をヘアオイルで流してやる。ブラシで丁寧に寝癖をとることも忘れない。それから、一度寝室に戻り、クローゼットを開けて、彼が持っている中でも最も上等な黒のオープンカラーシャツとジーンズを選んで袖を通した。腕にはお気に入りのスポーツウォッチ、襟をくつろげた首周りにはシルバーチェーンのネックレス、腰回りには細身のメッシュベルトを、まるで鎧でも着込んでいくかのような厳粛さでつけていった。
 仕上げにパルファンでマンダリンやトンカビーンの香りを手首に強く刻んだら、身だしなみは完璧だ。いつものように鏡の中の自分に向かってウィンクしようとしたが、今日ばかりはうまく行かなかった。
 時計は七時半を差している。まだ幾分か余裕があることに安堵して、彼はバスルームを辞し、祖母が待つ階下へ降りていった。
「おはよう、おばあちゃん」
「ジョニー、おはよう。今日は早いのね」
 祖母はちょうどオーブンでコルネットを焼き上げたところだった。共に食卓につき、ビスケットやエスプレッソと一緒に簡素な朝食を済ませる。
 八時過ぎ、ジョニーは家を出た。
 百合子との待ち合わせの時間に合うように、数本遅いものに乗ってもよかったが、はやる気持ちを抑えきれず結局八時十分のプルマンに乗って彼はパレルモに出発した。誰もいない車内で落ち着いてデートコースのおさらいをするつもりが、早起きのためにうとうとと船を漕いでしまい、目が覚めた時にはもう既に停留所は目前だった。
 彼はがっかりしたが、まだ約束の時間までは三十分以上時間がある。百合子を待つ間、優雅にコーヒーでも飲みながら復習すれば良い。そのように考えていたジョニーを、しかし嬉しい誤算が待っていた。
 停留所からマクエダ通りを六〇〇メートルほど北上したところにプレトーリア広場はある。ルネッサンスの彫刻家が手がけた噴水と三〇を超える裸体彫刻の数々は、パレルモという町を代表するシンボルの一つだ。周囲ではたくさんの人々が待ち合わせをしたり、屋台やスタンドを覗いたりしていたが、その中に一際清楚で美しい少女の姿があった。まだ九時半を過ぎてもいないのにだ。
 彼女の姿を見留めた瞬間、一晩経って落ち着いたはずのジョニーの心臓は再び早鐘を打ち始めた。細胞は期待と一抹の不安に泡立ち、喉は浮き足立って何度も何度も熱い唾液を飲み下した。
 ジョニーのためにおしゃれをしてきた彼女は、それはもう、筆舌に尽くし難いほどかわいかった。遠目から見ても、彼女が一番輝いている、ジョニーは本気でそう思った。気を張っているのか、真っ直ぐに背筋を伸ばし直立した姿勢で視線をあちこちに泳がせる彼女。胸元にレース細工をあしらったサマードレスに小さな黄色い花のイヤリング、濃いブルーのサンダル、どれも彼女の細く壊れやすそうな身体にとても似合っている。まるで今日のためにあつらえられたかのようだ。髪は耳の後ろから丁寧に編み込まれ、肩のあたりにリボンで留めてあるのがまたなんともいじらしかった。
 ジョニーはどうにも落ち着くことができず、一度彼女から離れてジェラテリアに立ち寄り、レモンジェラートを二人分購入した。それからまた広場に戻ってきて、たたらを踏み、ようやく意を決して噴水の前で待つ百合子の元へと踏み出した。
「お待たせ」
 緊張のあまり、声が妙な方向に裏返る。弾かれたように彼女が顔を上げる。そのやわらかそうな頬がじわじわと熱を帯びていくのを見て、ジョニーの胸中にも遅れて羞恥がやってきた。二人してお互いから視線を外す。
「い、いいえ……わたしが早く来過ぎてしまっただけですから」
「うん。君と過ごす時間が三十分も増えて嬉しい」
「はい……」
 恥じらい、軽く伏せられた長いまつげには軽くマスカラが施されている。瞼には薄くラメの入ったベージュのアイシャドウ、小さく慎ましやかな唇には、光沢のある薔薇色のリップグロスが薄く塗られていた。どれも、最初に出会った時の彼女にはなかったものだ。
「……僕のためにおしゃれしてきてくれたの?」
 感動のあまり、全く用意していなかった言葉がつい唇からこぼれ落ちた。
 彼女の顔はすっかり焼けぼっくいの色に染まりきり、長い指が一生懸命にそれを隠した。
「ええ。その、はい、母に手伝ってもらったのですけど……変じゃありませんか?」
「変じゃない。世界でいちばんかわいいよ」
「あ……」つぶらな瞳がじわりと潤む。
 ジョニーは彼女を愛おしく思う気持ちを必死に押し殺して、その手を取り、すでに溶け始めたジェラートをひとつ握らせた。
「行こうか」
 それから、もう片方の手には、ジョニー自身の右手を。固く骨張った男の手に触れられて、うぶで照れ屋な彼女の左手はびくりと飛び跳ねて腰の後ろに逃げようと動いた。追いかけることはせず、ただ手のひらを広げて待ってみる。すると、このかわいい小さな手はおずおずと引き返してきて、遠慮がちにジョニーの右手に寄り添った。胸がいっぱいになり、思わず強くぎゅうとにぎり込めてしまう。
「あ、ごめんっ」
「もう、ジョニーってば」
 ジェラートを口許にやりながら軽く笑う彼女が愛しい。冷たいレモン味を舌の上に染み込ませながら、ジョニーはこの耐え難いほどの幸せに胸を震わせていた。

 それからの二人は、パレルモの名だたる観光名所を次々に訪れた。金色のモザイクで飾られた圧巻の天蓋を誇るパラディーナ礼拝堂、パレルモの歴代王を祀る霊廟カテドラーレ、シチリア最古のビザンチン様式を残すマルトラーナ教会。南北からの幾度とない侵略の結果生まれた「世界一美しいイスラムの街」は、異郷からやってきた百合子を大いに楽しませた。ジョニーが自宅の庭の花を紹介するかのごとくこれらの由来や歴史の話をすると、彼女はその度に大きく頷き、拍手をして喜んだ。
 彼女が特に興味を示したのは、シチリア州立考古学博物館に収められたセリヌンテ神殿遺跡の彫刻の展示だった。メドゥーサを退治するペルセウスやエンケラドスと戦うアテナ、ゼウスとヘラの結婚など、ギリシア神話の主要な物語が表現されるその巨大な彫刻の中の一部分に、彼女は熱心な視線を向けた。
「どうしたの?」
「これ……何でしょう」
 それは、マストに縛り付けられたオデュッセウスと、彼を取り囲む半人半魚の怪物、セイレーンたちの彫刻だった。
 このオデュッセウスという男は、海路での旅の帰り、部下に命じて自らをマストに縛り付けた。するとそこにセイレーンと呼ばれる半人半魚の怪物が現れ、彼を惑わし誘い込んで、海に引き摺り込もうと歌を歌い始めた。オデュッセウスはセイレーンたちのもとへ行こうと暴れたが、耳栓をした部下たちがさらに強く彼を縛るので、結局海に連れ去られることなく、セイレーンたちも去っていった、という。
「イタリアでは、セイレーンは今も地中海に住んでいると信じられているんだ。もっとも、今じゃ誰も見たって人はいないんだけどね」
 ジョニーの解説を聞き、百合子は神妙に頷いていた。
 昼食時には、馴染みのトラットリアに落ち着いた。ウニのマリーナリングイネクルマエビのグリルを注文し、二人で分け合って食べた。彼女はイタリア語をほとんど理解することができず、ジョニーが注文から会計までのほとんどを担当したのだが、些細なやりとり一つでも彼女が尊敬の眼差しを投げかけてくれるのがくすぐったくて、つい余計なことまでウエイターに喋ってしまった。
 
 斜陽がティレニア海の水面に金色の影を落とすころ、二人は中心街から離れ、パレルモ港の桟橋に立っていた。
 小さな旅客船が汽笛を上げながら港に滑り込んでくる。ハッチから乗務員が器用に桟橋の方へと飛び移り、スロープ状の橋を渡す。彼らの誘導を受け、ドレスアップした人々が次々に船へと乗り込んでいく。
「あの……これは?」
 なんのことだかさっぱりわかりません、という顔をした百合子が、困り眉でジョニーを見上げた。
「今夜ここで船上パーティーをやるんだよ。さあ、僕らも行こう」
「でもわたし、パーティーにふさわしい格好ではありませんし、それに……」
「大丈夫、大丈夫」
 戸惑う彼女の手を取り、ジョニーも客船に乗り込む。
 黒い制服のボーイが二人に近づき、チケットを見せるように指示した。ジョニーが昨晩取ったばかりのチケットを二枚手渡すと、彼はその内容を検分し、軽く頷いて半券を切った。後ろに控えていた女性コンシェルジュを手招くと、深々と頭を下げて挨拶の礼を取る。
「シニョーレ・ボレッリ、ようこそおいでくださいました。それではお召し替えのお手伝いをさせていただきます」
「ジョニー?」
「彼女が案内してくれるから、君は着替えておいで。ドレスは僕が選んだんだけど、気に入らなければ別のものをリクエストしてね」
「まあ……!」
 驚き、息を呑む彼女に、ジョニーの気分は瞬く間に舞い上がった。

 ものの十分の後、彼は甲板にて夕暮れの海を眺めていた。
 黒のタキシードに磨き立ての革靴、ブルーのリボンタイで全身をシックに統一した彼は、周囲の女性たちの視線を一身に集めた。タイトなスラックスが彼の長い脚によくにあった。
 彼は牢獄の中で光明を待つような気持ちで、彼のプリンセスが甲板に出てくるのを待った。さっきから船内に通じる両開き扉が開くたびにちらちらと視線をやるのだが、出てくるのは料理を運んできたシェフやさまざまな銘柄の蒸留酒を抱えたバーテンダー、忙しなく動き回るボーイたちばかりで、期待に窶した彼の心臓はすでに限界を迎えつつあった。彼は女性のドレスなど選んだことがない。今回がはじめてだ。そのはじめて、最も大切なはじめてで躓いたのではないかと、無駄に気を揉んでいるのだった。
 もう限界だ、パラドックスに電話をかけてやろう、そう思いたちポケットを探ろうとしたその時、不意に甲板の人々の空気が変わった。
 ボーイのエスコートを受け、百合子が甲板へとやってきた。
 潮をたっぷりと含んだ北風が、彼女の貞淑な前髪を軽く巻き上げる。あらわになった少女の優美な面差しに、その場にいた誰もが目を奪われた。
 ビクトリアヴァイオレットのイブニングドレスは、彼女をこの船の王女の座に据えた。蝶や花をあしらったレースが開かれた華奢なデコルテを飾り、ベルベットの光沢は宇宙のように奥深く、足元に揃えて置かれたオープントゥパンプスまでを優雅に流れている。焼き上げられたばかりの陶磁器のような耳たぶには大粒のサファイアが輝き、編み下ろしでまとめた黒髪は真珠とシルバーのヘッドドレスに飾られ、その佇まいはさながら神話に登場する美の女神だ。楚々とした雰囲気のかんばせは、ピンクベージュのアイシャドウや深いローズレッドのリップに彩られ、夜の趣にしっとりと身を委ねていた。
 人々はみな、このアジア人の少女の美しさに感嘆のため息をつき、あるいはその清廉さに心打たれた。
 彼女は投げかけられる視線に居心地の悪そうな表情を見せたが、その中から惚けたように自分を見つめるジョニーの姿を発見すると、ボーイのそばを離れて嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お待たせしました」
 伏し目がちに見上げてくる、その身体を一心に抱きしめたい衝動をなんとか抑えながら、ジョニーは彼女の婉麗であることを褒めた。
「きれいだよ、百合子。すごく似合ってる」
「ありがとうございます。ジョニーが選んでくれたドレスのおかげです。とっても素敵なドレス、わたしには勿体無いくらい」
 くるりと軽やかにターンし、ドレスの広がりを楽しむ百合子だったが、ふと思い出したようにジョニーを振り返り、その眦を血色に染めた。
「それから……その、ジョニーも、とても似合っています」
「え、ほんと? 嬉しいな」
「ええ。世界でいちばんかっこいいです」
 なんということだろう! この、世界で一番美しく可憐な少女が、ジョニーのことを世界で一番かっこいいと褒めたのだ。天にも昇る心地とはまさにこのことだ。ジョニーはある限りの理性をかき集め、生き急ぎそうになる自分を抑え込まなければならなかった。
「ジョニー? どうかしましたか?」
「な、なんでもないよ。ほら、パーティーが始まる、行こう」
 手のひらを差し伸べれば、朝よりもずっと慣れた様子の小さな手が、ゆっくりと伸び、絡められた。
 甲板ではイタリアンやフレンチ、中華料理などのビュッフェやバーカウンターが整えられ、地元の交響楽団がジャズワルツを演奏した。絞られた照明の中で人々はめいめいに楽しんだ。
 二人は点心で軽く小腹を満たしたあと、どちらからともなく手をとってゆったりとした三拍子の旋律の中に身を投じた。彼女は社交ダンスの心得があり、ステップも完璧にこなしたが、履き慣れない靴のせいか何度もつまづきそうになり、その度にジョニーが受け止めた。申し訳なさそうに、また恥ずかしそうに踊り続ける彼女がいとけなく、もう一度転んでくれないものかと意地悪にも願わずにはいられないのだった。
 二、三曲踊ったあと、彼らは輪から外れ、薄暗い甲板の淵へとやってきた。
 月明かりのひときわ明るい夜だ。ティレニア海は静かに凪ぎ、かなたにはサルデーニャ島のシルエットが浮かんでいる。水面から拡散する光が、百合子の首筋の白さを夜闇の中に薄ぼんやりと浮かび上がらせる。
 ジョニーはバーカウンターに立ち寄り、ベリーニという名前の桃のカクテルをオーダーしてから、海を眺める彼女のもとに戻ってきた。
「お帰りなさい。ジュースですか?」
「いや、お酒だよ。試してみるかい?」
「いいえ。……あの、やっぱり、少しいただけますか」
「もちろん。甘いから飲みやすいと思うよ」
 彼女は背の低い欄干に腕を乗せた姿勢のままグラスを受け取り、一口だけを唇に含んだ。「本当だ、さわやかでやさしい甘さですね。美味しい」
「気に入ったみたいでよかったよ」
 はい、と彼女がグラスを返してくれたので、ジョニーは残りをゆっくりと飲み干し、空になったものを近くにいたボーイの盆に置いた。手持ち無沙汰になった右腕に、少し体温が上がった様子の彼女が寄り添ってくる。やわらかい肌の重みとあたたかさが、ジャケット越しにじんわりとジョニーの上腕を慰めた。
「百合子」
「なんだか夢の中にいるようで……信じられないくらい幸せな一日でした」
「本当に?」
「ええ……」
 緩慢にまばたきをしながら、彼女は月を眺めている。その横顔がとても寂しく所在なさげなものに思えて、ジョニーはついに、彼女の芒の穂のような身体を腕の中にとらえていた。
「ジョニー……?」
「百合子。百合子、百合子……」
 華奢な肩を両腕でしっかりとかかえ、夢中になってその名前を耳許に囁く。長身のジョニーと、小柄な彼女ではどこもかしこもちぐはぐで、抱き合ってもなかなか丈が合わないのだが、それでも身を寄せ合えば驚くほどしっくりと彼女の輪郭を感じることができた。
 彼女の手が遠慮がちにジョニーの肩に置かれ、ほんの小さな力で引き離される。首を上げるジョニーの視界いっぱいに、顔全体を熱らせた美しい少女の姿が映る。輝く瞳はじわりと熱を帯びてうるみ、唇はつやつやとやわらかな果実のように潤っている。
 彼はもう待てなかった。羞恥も不安も凌駕して、百合子への愛しさが全身に溢れてやまなかった。
「大好き」
「ジョニー、待って」
「君のことが大好きだ……」
 ジョニーはその小さな顎先を捉えると、親指のはらで持ち上げるようにして固定し、薄く慎ましやかにふくらんだ唇に自らの唇をそっと押し当てた。
 濡れた皮膚がしっとりと吸い付くように触れる。長いまつげの羽ばたきを下瞼の薄い部分にたしかに感じる。彼女の吐息は熱っぽく、ジョニーの下唇をくすぐり、それがまたなんとも心地よく愉快なのだった。閉じた瞼は、唇が触れ合うたびに微かに震える。小さな身体は未知の感覚に震えていたが、ジョニーがさらに強い力で引き寄せると、ついに細い腕が伸びてきて彼の背中をしっかりと抱いた。
「わ、わたしも」
 唇の空隙に、ふっと囁かれる。
「わたしも、あなたのことが……」

 その時、強い風がティレニア海を走り抜け、煽られた海面が大きく波を立てた。船体が強く揺れ、その拍子に、ジョニーの腕の中にいたはずの彼女の身体は欄干の外へと投げ出されていた。
 あまりに一瞬の出来事だったので、誰も反応することができなかった。先ほどまで彼女の身体を胸にしっかりとかかえていたジョニーでさえ、抱き止めることはおろか、放り出された腕を掴むことすらままならなかった。伸ばした指の先で青いドレスの裾が翻ったかと思うと、その身体は呆気なく黒い波の只中へと吸い込まれていった。
「百合子! ゆりこっ」
 欄干から身を乗り出し、彼女が落ちていった方に目を凝らす。あの美しく真っ白な身体は一向に浮かび上がってこない。ジョニーの胸はにわかに不安に満たされ、心臓は嫌な音を立てて全身の血流を早めた。状況を把握し乗務員が駆け寄ってきた頃には、彼の頭はすっかり混線し、良くない方向へ舵を取り始めていた。
 ジャケットを脱ぎ、その上にスポーツウォッチを乱暴に放る。リボンタイは半ばむしりとるくらいの乱暴さで外した。靴を脱いで欄干に足をかけると、後ろから乗務員たちの制止の声が上がった。
「シニョール、危険です、離れてください!」
「彼女が落ちたんだ、浮かんでこないんだ」
「あっ、ちょっと!」
 甲板に引き戻そうと伸ばされる腕を振り払い、彼は夜の真っ黒な海へ一直線に身を投じた。

 泡が立つ。
 重力に従い水面へと強く引き寄せられていた身体は、水に入ったことで水圧の縛りを受け、ぐんと減速した。ジョニーはしばらくぎゅっと目を瞑っていたが、自らの使命を思い出し、恐る恐るその瞼を開いた。
 月明かりだけが薄青く光を注ぐ水の中、彼は百合子を見た。彼女はジョニーのすぐそばにいた。水中にいても、彼女は変わらず優美で、可憐で、言葉にならないほど美しかった。
 頼りない指先が伸びてきて、ジョニーの頬をそっとくすぐる。彼はその冷たく滑らかな感覚に身を任せようとして、ふと、触れた指先が薄く海の色を透かしているのに気が付いた。
 彼女の四肢は半透明に透け、はつかに青白く輝いていた。ジョニーにまなざしを注ぐ瞳は海の色に強く輝き、まばたきのたびに冬の星のようにまたたいた。髪は海流の中で緩やかに拡散し、唇は恐れで微かに震え、拒絶への不安が、彼にも見てとれた。
 彼は水の中で百合子に近づき、怯える身体をそっと抱き寄せた。彼女はともすれば泣いてしまうのではないかというほど憂わしげな表情を浮かべていたが、ジョニーが寄り添うと、瞼を閉じてその身を委ねてきた。

 どのくらい泳いだだろうか……、やっと浜辺に着く頃には、二人ともへとへとに疲れ果てていた。波打ち際の細かな砂の感触を掌の上に確かめ、ジョニーはようやく安堵のため息をついた。
 すぐ傍では、全身濡れ鼠になった百合子が、喉の奥の小骨を憂うような表情でジョニーを見下ろしていた。面影はそのまま夜の海を思わせた。指の先も、脚も元のように人間らしい有色の皮膚の姿を呈していたが、不安だけはどうしても彼女の胸中を去らないようだった。
「いいよ」
 小鳥のように顫える彼女を、ジョニーはあらためて強く抱きしめた。生まれてこのかた星屑しか口にしたことがないというような、頼りなく、細っこい身体だ。「君が誰だって構うもんか。好きなんだ。愛してる」
 腕の中で、彼女は静かに泣いた。瞳が潤んできたかと思うと、張力を離れた大粒の涙が下瞼に滲んで、流星のごとく顎下までを駆けた。いくつもいくつも、堪えてきたものをはじけさせたかのように、涙は彼女のやわらかな頬を滑る。唇で悲しい雨だれを拭ってやる。彼女は自らを閉じ込める大きな身体を抱きしめ返すと、もう二度と離れたくないとばかりに、ぴったりとその胸を預けた。
 濡れた瞳の投げかけるまなざしと、ジョニーの視線が絡まり合う。二人は自然に鼻先を近づけ、それと同じ速度で瞼を閉じ、やがて再びお互いの唇を出逢わせるのだった。潮の香りの残るやわらかな皮膚がそっと触れ、結ばれ、擦れあう。湖を渡る二そうの小舟のように、ゆるやかに揺蕩う。ジョニーの歯が彼女の小さな下唇を食むと、彼女は浅い息を吐き出し、ますます強くしがみついてきた。
「好きです、ジョニー、あなたが大好き……」
 口づけと口づけのあいだに、彼女の唇が切実に囁いた。
「わたしを離さないで。そばにいて」
「約束しよう。永久に、君のそばにいるよ」
「嬉しい……」
 涙まじりのささやきはジョニーの皮膚から全身の血管へと染み渡り、やがて心臓に集まってきて永遠の結晶になった。結晶は彼女の瞳の輝きを受けてキラキラと虹色の光を放ち、ジョニーの胸をやさしく、暖かく照らした。
 息継ぎのために離れ、その数秒のいとまさえ惜しいとばかりにまたも唇の感覚を浴びせ合う。
 ジョニーは自らの存在と未来とをかけて、愛する女の唇の熱を貪った。

 

 不動一家は、八月末までをパレルモの街で過ごすことになっていた。その短な時間の間に、愛し合う二人の身の上にさまざまな出来事があった。
 まず、百合子の家族に恋人として紹介された。この日、ジョニーは人生で最も緊張し心を張り詰めさせていたに違いない。彼らが滞在するグランドホテルのディナーホールに通され、左手に兄、右手に彼女の母親、正面に父親が座した状態で、彼らと夕食を共にした。伝統的なイタリアンのフルコースが供され、そのどれもが贅を尽くした上等なものだったが、緊張のあまりジョニーには何の味も感じられなかった。
 意外にも、彼女の両親はジョニーの存在を早い段階で受け入れてくれた。父親などは、はじめて会った時からこうなる気がしてたんだよね、などと言って彼の妻を苦笑させていた。問題は彼女の兄、遊星だ。彼は妹に恋人ができたという事実をどうしても受け入れられないようで、最後までジョニーを拒絶するような姿勢を崩さなかった。
「お前は信頼に値する男だ。真面目だし出自学歴も申し分ないし、何よりとても誠実だ。是非今後も友人として付き合いを続けていきたいと、俺はそう思っている。だがそれとこれとは別だ。俺のたった一人の大切な妹を、そうやすやすと渡すわけにはいかないんだ」
「遊星、君が百合子を大切に思う気持ちはよくわかってる。でも僕だって譲れない。百合子は、やっと見つけた、たった一人の大好きな女の子なんだ。彼女を幸せにしたい。いや、絶対に幸せにする。命が尽きるその日まで、僕という存在を彼女のために使うつもりだ。だから……」
「それでも! 理屈じゃないんだ……ジョニー、わかるか、百合子は昔俺に言ってくれたんだ、『兄さん大好き。兄さんと結婚する』と! その百合子が他の男のものになるなんて……ジョニーが素晴らしい人だということも、きっと百合子を幸せにしてくれるだろうこともわかってる。でもこればかりは本当に、どうしようもないことなんだ! わかってくれ!」
「に、兄さんっ」
 遊星の訴えは最後には涙声になり、懇願になった。百合子は慌てふためいた様子で幼い自分の言動を暴露する兄を制止しようとし、父親はそんな子供たちの様子を鷹揚に笑った。
「百合子行かないでくれ……俺を一人ぼっちにしないでくれ……」
「ひ、ひとりぼっちだなんて。兄さんが早く身を落ち着けないのがいけないんじゃありませんか!」
「う」
 遊星は百合子の一言で硬直し、黙り込んでしまう。脇腹を突かれて途端に静かになった兄を横目に、百合子はダメ押しとばかりにジョニーの肩にぴっとりと寄り添う姿勢をとり、こう言い放った。
「わたしはジョニーと一緒にいたいんです。兄さんとは結婚しません!」
 これが決定打となった。遊星はあえなく撃沈し、テーブルに突っ伏すと動かなくなった。
 ジョニーの祖母に百合子を紹介した際には、祖母が俄然張り切ってしまい、花嫁修行と題したお節介を働かれる羽目になった。祖母は自らの七〇年余の生涯の間に記憶してきたすべてのイタリア料理のレシピを、百合子がパレルモに滞在する間に教えきるのだと言って、彼女を家に呼んではキッチンにて料理指導に勤しんだ。百合子は百合子で、とても真面目な気性の少女だったので、祖母をおばあさまと呼び慕いよく学んだ。おかげでジョニーは恋人とのデートの時間を祖母に横取りされる形になり、一度は拗ねて臍を曲げるのだが、愛しい彼女が達成感に満ちた笑顔と共にキッチンから手料理を持ってきてくれると、たちまち機嫌も直ってしまうのだからおかしかった。

 こうして、恋人たちの鮮やかで濃密な夏はあっという間に過ぎていった。気づけば、一家が母国に帰る日が翌日に迫っていた。

 

『やあ、もう寝た?』
 後ろ髪引かれるような思いで最後のデートを終えたその日の晩、ジョニーは彼女にそんなメッセージを送信した。
 すぐに既読がつき、軽快な通知音とともに返信が返ってくる。
『いいえ。両親も兄も少し前に寝てしまったのですが、わたしだけなぜか眠れなくて』
『僕もだよ。ねえ、窓を開けて、バルコニーに出てきてくれないかな』
『良いですけど、どうして?』
『良いから、良いから』
 最後のメッセージに既読がついてからしばらく待っていると、目の前に建つ大きなホテルの二階の窓が控えめに開き、中からネグリジェ姿の百合子が顔を覗かせた。半開きになった唇の丸みや大きく開いたネックからのぞくなめらかなデコルテ、降ろした髪の隙間にちらつく滑らかなうなじの皮膚などが、月明にぼんやりと白く浮かび上がる。彼女はリラックスした様子でぼんやりとほの明るい夜空を眺めた。それから思い出したように携帯端末を取り出したので、ジョニーは慌てて頭上の彼女に呼びかけた。
「こんばんは、Principessa(お姫さま)」
「まあ……!」
 彼女はバルコニーに飛び出してきて欄干から身をいっぱいに乗り出し、すぐにホテル正面に立つジョニーの姿を発見した。ジョニーが手を振ると、優雅に手を振りかえしながら笑顔を見せる。
「驚きました。こんな夜更けにどうしたのですか?」
「君の顔を見たかったから、じゃだめかな」
「いいえ、いいえ、とても嬉しいです。わたしもちょうど、あなたに会いたいと思っていたんですから」
 バルコニー越しに二人はうっとりと見つめ合い、その姿かたちを網膜にまで焼き付けようと努めた。
 明日、別れの時がやってくる。それは永遠の別れではなかったが、若く未熟な二人にとっては永遠にも等しい隔たりと言って差し支えのないものだった。この夏、毎日のように手を繋ぎ、唇を触れ合わせることができたのに、明日が過ぎればそれは手の届かない幻になる。海を隔てて暮らす愛しい人を思いながら、彼女の心変わりや倦に怯えて退屈な日々を過ごさなければならなくなる。
 次に会えるのは、早くても春季休暇の頃になるだろう。それまでの半年間、彼女がそばにいない時間を過ごさなければならないと思うと、ジョニーの胸には重い暗雲が立ち込めるのだった。
「……そばに行っても良いですか」
 物憂げに眼下を見下ろしていた百合子が不意にそう尋ねたので、ジョニーは無言で顎をそらし、肯定の意を示した。
 彼女はネグリジェの裾を翻してバルコニーから窓の隙間に滑り込み、そのまま部屋の中へと消えていった。かと思えば、薄ぼんやりとした照明だけが残されたロビーの螺旋階段を、十二時を目前にしたシンデレラのように転げ降り、裸足のまま外へと飛び出してきた。前のめりになって走ってくる愛しい身体を受け止め、息が止まるほどぎゅっと抱きしめる。
「ジョニー、ジョニー」
「百合子……」
 たっぷりと涙を含んだ海の瞳、その内側を彩る虹彩のきらめきを覗き込む。彼女はゆっくりとまばたきを繰り返したあと、薄い瞼をそっと閉じ、つやつやと潤った唇を小鳥がするように突き出した。ジョニーは零距離で吐息の熱さを楽しんだあと、愛しい彼女へ一思いに接吻を浴びせた。
 彼女はジョニーの長身に合わせて必死に背伸びをする。その身体を抱き上げ、さらに深く溶け合おうとする。お互いの高鳴る心臓の鼓動を合図に、踊るように何度も重なる唇……熱を帯びた舌が彼女の行儀の良い歯並びを軽く叩き、怯んで僅かに空いた隙間に滑り込んで、うぶな少女の舌先を労わるように撫でた。彼女は鼻でくぐもった呼吸をしながら、頬に涙の筋を幾重にも滲ませ、ますます必死にジョニーの背中に縋りついた。
「愛しています。離れたくない」
「僕もだ。君を誰からも隠して、僕ひとりのものにしてしまいたいよ」
「そうして……わたしをあなたのものにして……」
 まなざしの糸は名残惜しく絡まり合い、その燻りが、二人を再び口づけへと駆り立てた。ワインをグラスに注ぎ足すかのごとく、もう一度、また一度、幾度も幾度も、飽きることなくお互いの味を官能に染み渡らせた。彼女のやわらかい頬が、膨らみはじめた慎ましい乳房が、無駄なく引き締まった腹が、やわらかく迫り出した腰が、あの日半透明に透き通った不思議な作りの四肢が、余すことなくジョニーの全身に預けられていた。街の明かりも、時折過ぎる車通りも湯気を通して見たように朦朧となり、二人はいよいよ夢と現実との境界を失いつつあった。
「次の春、今度は僕が君の国に行こう。大学を卒業するまでには君を迎える支度を済ませておく。待っていてくれるかい」
 くったりと肩に頭を預ける恋人のかわいい耳殻に、ジョニーはそう囁いた。
 彼女は首を持ち上げることも横に振ることもなく、ただジョニーの首のあたりに顔を埋めて小さく嗚咽した。ジョニーはたっぷりと注がれる水のような月光の中で、彼女の薄墨色に光る長い髪に指を通し、慈しみを込めて何度も繰り返し撫でた。
 北西の浜辺から冷たい潮風が吹いてきて抱き合う二人を包み、お互いを除いてこの世の何とも接続しない孤独な生き物にする。
 このまま風のひとひらになり、波や雲や無数の星の中でひとつに溶け合えたらと、二人願わずにはいられないのだった。

 黄昏時のパレルモ中央駅は、夏季休暇を終え、故郷に帰ろうとする観光客や本州の人々でごった返している。妻や恋人と見つめ合う男たち、家族との別離を惜しむ若者、今生の別れを覚悟して抱き合う老いらくの友人同士……みなそれぞれに、これから待ち受けている長い別れの日々に想いを馳せ、それぞれの郷愁に浸っているようだった。
 ジョニーもまた、不動一家を見送りにプラットホームにやってきていた。一家は迫る午後六時、寝台列車に乗ってパレルモから国際空港のあるローマへと移動し、その足で故郷に帰国する。この三十九日間、まるで本当の家族のようによくしてくれた兄妹の両親や親しく語り合った遊星、そしてあらん限りの力を注ぎ愛した百合子と、ここで別れなければならない。ともすれば口に出してしまいそうなほど膨れ上がった寂しさを喉の奥に押しとどめ、ジョニーは彼らに笑顔を見せた。
「おとうさん、おかあさん、ありがとうございました。遊星、元気でね。連絡待ってるよ」
「ジョニーこそ、たまには連絡してくれよ。身体に気をつけて」
 遊星が近づいてきて、はじめて会った時のように右手を差し出した。ジョニーはその手を握り返し、強く握力を込めて長い別れへの思いを伝えた。それから、頬を寄せ合い、左右で一度ずつチークキスを交わす。いつも気丈な彼の、妹によくにた眼差しが少し潤んでいるのがおかしかった。
「百合子」
 最後に、ジョニーは愛しい彼女を呼んだ。
 百合子は兄の後ろにぽつんと立っていたが、手招くと、立ち歩きを覚えた赤ん坊のような足取りで駆け寄り、ジョニーの胸にしがみついてきた。左右のおさげが彼女の方の上で可憐に揺れる。抱きしめ返した背中は相変わらず小さくて、手のひらを滑らせれば、盛り上がった背骨の山脈の感触が確かに返ってくる。
「百合子。大好きだ。遠くにいても、ずっと君のことを想ってる」
「……」
「キスしてもいい?」
 彼女は頬をジョニーの鳩尾のあたりに強く擦り付けながら、弱々しく首を横に振った。そうしてますます強く、恋人の胸に顔を埋めるのだった。
 発車のベルがけたたましく鳴り響く。
 一家は最後にジョニーへ愛情に満ちた眼差しを投げかけると、こちらに背を向け、列車に乗り込むべく乗降口の方へと歩いて行った。その姿も、人混みに押し流されて瞬く間に見えなくなった。ジョニーはしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くす以外の選択肢を持たなかった。
 車掌が乗客たちの乗車を確認し、駅員に合図をして列車のドアを一斉に閉じる。見送りの人々が列車の方に殺到し、それぞれの言葉で窓の向こうの愛する人々との別れを惜しむ。
 出し抜けに、一号車前方の扉が開き、デッキに遊星が躍り出てきた。彼は何かジョニーに向かって叫んだが、列車が圧搾空気を抜く音や、人々の話し声が彼の声をもみ消したので、ジョニーは何も聞き取ることができなかった。列車はそのままプラットホームを離れ、線路を軋ませながらゆっくりと速度を上げて、やがて瞬く間に見えなくなった。ジョニーはひとり、人混みの中に取り残された。
 ……かに思えた。
 ふと、馴染んだ気配を背後に感じ、彼はひとたび呼吸を止めた。すぐには振り返らなかった。振り返り、そこに何もないことが知れれば、手放したものの重さをより強く実感してしまう、そう思ったからだ。だが、その予感はいつまでも彼の胸を去らなかった。まさか。いや、そんなはずは。しかし……彼の皮膚、感覚器官、細胞組織をこれほどまでにいたずらに、甘くくすぐるのは……。
 彼は深く呼吸をつき、恐る恐る、慎重に振り返った。
 帰路に着く人々の波の中、一度は覚悟して手を離したはずの愛しい少女が立っていた。旅行鞄を膝の前に抱え、ちょっとはにかんだような微笑みを浮かべて、彼女はジョニーの目をまっすぐに見上げていた。
「ジョニー」期待と、ほんの少しの畏怖を孕んだ囁き声が、ジョニーの耳を確かにくすぐる。
「ごめんなさい。わたし、やっぱり待てません。あなたのそばにいたい。かたときも離れたくないんです」
 庇を抜けて差してきた夏の山吹色の残光が、彼女の美しい顔をつまびらかに輝かせる。思慮深くおだやかな碧眼、二重に折り重なった薄いまぶた、つんとすました鼻先、花の色の唇。控えめに浮かび上がる奥ゆかしく楚々たる嫣然。
 たしかに、彼女は百合子だった。愛しい人、世界でたったひとり、ジョニーが守りたいと心から思った女性。
「百合子!」
 これまで幾度となく確かめてきた小さな身体のかたちが、今もまた同様に、ジョニーの腕の中に抱かれた。
「結婚しよう、百合子。君は永遠に僕のものだ」
「はい……はい、喜んで」
 彼女の頬を歓喜の涙が滲むように伝う。誰もいなくなったプラットホームで二人は固く抱き合い、万感の思いを乗せて互いの唇に触れる。
 こうして、恋人たちは互いの魂の名のもとに強く結ばれた。彼らは祝福されていた。すべてが満ち足りてあまりあり、足りないもの、疑わしきものはひとつとしてなかった。
 ……今、この時に限っては。

 

 

 

            ワールド・エンド

 とある科学者が、人間という生物の脆弱さを嘆いた。
 人間は生物の中でも特に高度な知能を持った種族だ。彼らは五百万年前に種としての地位を確立してからというもの、さまざまな文明社会を築き上げ、その繁栄を極めてきた。だがその一方で、彼らは非常に脆く、病や損傷などで簡単に損なわれ、その果てには死という抗い難い結末に否応なく巻き込まれる運命にある。有史以来、この絶対秩序にほころびなど一つもなかった。高名な学者も、徳の高い慈善家も、例外なく傷つき、例外なく死んでいく。これこそが、人類がいまだに完全な幸福を手に入れられない唯一にして最大の結論だ。科学者はそう結論し、自らの手によってそれを是正しようとした。
 科学者は、自分のもとで働いていた既婚の女性研究者たちを言い包め、彼女たちの子宮からまだ分化も済ませていない受精卵を採取した。そして、他の生物のリボゾームを高圧ガスでそれらに撃ち込み、転写を行わせ、人間と他生物の特徴を受け継いだ新しい人類を生み出そうとした。トゥアラタ、赤ウニ、ミル貝、ホッキョククジラ、ガラパゴスゾウガメ、(規制)、カイロウドウケツ。受精卵はそれぞれ培養槽の中で厳重に管理され、細胞分化を進行させていったが、みな胚盤胞の段階に差し掛かると同時にネクロシスを引き起こし、自壊していった。
 その中で唯一胚盤胞段階を乗り越え、一個の生物としてこの世に誕生するに至った個体がいた。(規制)の遺伝情報をその身に宿したメスの個体だ。

 ……淡い緑の、冷たい水の中で目を開けた。最初の記憶だ。
 足元から立ち上る泡がいくつもいくつも弾けて、水に融けて消えていく。
 わたしは裸にされ、手や足にわけのわからない機械を取り付けられて、厚いガラス越しにその人の顔を見下ろしていた。人間という生き物は、水の中ではうまく物を見られないものなのだというけど、わたしは特別。〈わたしたち〉は、人魚だから。人間でも魚でもない、神に聖別された神秘の生き物。だからわたしを見上げる瞳が左右ちぐはぐな色に輝いていることも、煤だらけのシャツの下で呼吸する身体が男と女のどちらでもないことも、その人がもうずいぶん疲れていることも、分かった。手のひらをガラスにくっつけると、その人もやわらかそうな右手を差し出して、同じ場所に触れた。
「このままじゃあいつがかわいそうだ。だからお前には、早々に自分を取り戻してもらうぜ」
 華やかで冷たい、美しい顔が笑う。片方だけ目を眇めて、すごく意地悪に唇の端を上げる。
「不思議なことじゃないだろ。オレたちは基本的に人間の味方だ。物理的に相容れないってだけで」
「……?」
「言葉、わかるか? 自分が何者かわかるか。思いだせ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ」
 彼女の目に見つめられると、神経を素手で掴まれたみたいに全身が痺れて、息ができなくなった。今までわたしの身体を気ままに支配していた<わたしたち>が悲鳴をあげる。細胞の奥の奥、核小体の中に潜り込み、自分たちを見透かす何者かの視線に怯えている。
 その人が、手の中に指をぎゅっと握り込める。
 その瞬間、わたしの心臓はかつてないほど強く、激しく震えた。左心室に緩慢に滞留していた血液がごうと溢れ出し、激流に押し流されて、隠れていた<わたしたち>が細胞を離れ拡散した。わたしという実体が発生してからというもの、常に耳の裏で繰り返されていたまじないも自我の中に薄れていく。視界がクリアになる。
 思い出せ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ。
 ガラスにつけた手のひらの上に意識が収束したと思ったら、わたしと彼女を阻んでいたそのツルツルした壁の表面に大きくヒビが入り、一呼吸ののちに音を立てて弾け飛んだ。拘束具が、まるで土で作った偽物だったかのように、バラバラに崩れ落ちた。培養液があっけなく流れ出し、彼の立つ白いタイルの床を満たしてゆく。
 手を引かれ、わたしもその上に降り立った。
 狭く小さなその部屋は、正面に据えられた大きな液晶モニターだけを光源とし、薄暗く、陰気な気配で満ちていた。右手にはさまざまな種の幼体の剥製が保存された瓶詰めの並ぶシェルフ、左手には大小無数の試験管やビーカーの収められたキャビネット、雑に束ねられた資料の山。背後にあるのは、この五年間、わたしを囚えていた、そしていま、粉々に破壊されるに至った巨大な水槽の残骸。すぐにわかった。ここは誰かの研究室で、わたしはついさっきまで、その誰かの実験動物だったのだ。神秘を隷従させようなどと、よくもそのような傲慢を抱いたものだ。
 警報が鳴り響き、にわかに外が騒がしくなる。正面の扉から転げ込むように白衣の男が入ってきて、わたしを見るなり、情けなく悲鳴を上げた。この人がわたしの創造主? なんて弱くて、脆くて、矮小なんだろう。つついただけで壊れてしまいそう。解き放たれた解放感のままに手を伸ばし、右に捻れば、触れてもいない男の首が後ろに歪んだ。頚椎神経がまとめて潰され、手の中でぷちぷちと音を立てる。
 咀嚼すると、甘くて、酸っぱい味がする。人間の命の味だ。わたしの全身に回った〈わたしたち〉は、その甘美な舌触りに歓喜する。もっともっと味わい尽くせという。
「なあ、もういいだろ」
 わたしの肩を掴み、後ろに引き寄せたのは彼女だった。
「人間は互いを食い合ったりしない。命を啜ったりもしない。これからお前は人間として生きるんだ、やつらのいうことにはもう耳を貸すな」
「あ……」
「行けよ。この扉から出てすぐ左に、お前の父さんと母さんがいる。オレの記憶がたしかなら、二人はお前を悪いようにはしないはずだ」
 彼女は裸のわたしに赤いジャケットを羽織らせてくれた。何か言う前に、背中を押され、廊下に追い出される。「こいつはオレが連れていく」死んだ男を左脇に抱えて、彼女はわたしに手を振った。
「ハッピーバースデー。おめでとう、■■■。甘くて幸せで苦痛に満ちた、お前の旅の始まりだ」

 

 朝がやってきた。
 暁の薄明が、地平線のかなたで薔薇の花びらがするようにほころび、東の空に星々のまどろみを消し去っていく。雲は細い旗のように悠然とたなびき、風は未だ青白くくすんだ家々のあいだに奔放にひるがえる。
 二十五歳のジョニーは、まだ柔軟剤の香りの残るシーツの中でゆっくりと覚醒に漕ぎ着けた。あまりにもなめらかに無意識の領域を脱したので、彼はしばらくの間、自分が眠りから覚めたのだということにすら気づかなかった。手も足もぽかぽかとあたたかくて気持ちがいい。幸福な夢の残り香が、まだ鼻の先のあたりにおだやかに漂っている。
 寝返りをうとうとして、彼はふと、彼の胸や投げ出した上腕にかかるやさしい重みのことを思い出した。乾いた目を擦り、まばたきを数度して改めて確認すれば、それは誰よりも愛しい妻の小さな頭がかける重みだった。
 彼女は控えめな呼吸を立てながら、安心し切ったあどけない顔でジョニーの胸に寄り添い眠っていた。
 黒曜石を漉いて作ったかのような艶やかな黒髪は無造作に散らばり、ひっかかり一つさえないすべらかな肌は、白日と彼のまなざしとの前に隠し立てされることなく晒されている。豊かに張りつめた乳房に淡く熟した嘴、しなやかにくびれた腹、夢見る感度でなだらかな曲線を描く腰、無防備につやを帯びた長い脚。重ねた内腿の奥にたしかに呼吸する女の器官。昨夜、狂おしいほど愛した身体だ。耐えきれず一心に抱き寄せれば、彼女は甘やかな喉声を上げ、ジョニーの鎖骨あたりに頬をすり寄せるようにして身じろいだ。
「おはよう、僕のかわいい奥さん」
 小さな額やほのかに血色を乗せた頬、鼻の先などに小さくキスを散りばめた。彼女が抵抗らしい抵抗を見せないのを良いことに、髪を指先に絡めて弄んだり、うなじに軽く歯を立ててみたり、やわらかそうな耳殻に息を吹きかけてみたりした。そのたびに彼女はくぐもった笑い声を漏らすのだが、かたくなにまぶたを開けようとしない。
「ねぼすけだね」
 そう囁けば、彼女はいよいよ嬉しげに口元をゆるめ、いっそう身体を摺り寄せてきた。
「朝ごはん、フレンチトーストにしようと思ってたんだけどなぁ」
「まあ!」
 食べ物に釣られて、ようやく彼女はまぶたを開いた。「ずるい人」
 少女の時から何ら変わらない常青の瞳が、窓からの光を受けてきらりと輝く。彼女は悪戯っぽく目をすがめ、鼻先をぐっとジョニーの顔に近づけたかと思うと、実にあっさりとその唇を奪ってみせた。触れるだけのかわいらしい接吻。
 面食らって言葉を失う夫を上目遣いで見つめ、彼女は満足そうに微笑んだ。
「おはようございます、あなた」
 ジョニーの天使は今日もきれいだ。

 あれから、二人はジョニーの大学寮に共に住み、卒業とともに結婚した。サン・マルコ寺院にて行われた結婚式には、日本からはるばる渡欧してきた百合子の兄や両親、友人たちと、イタリア全土からジョニーの親族や友人たち、それから全く関係のない野次馬が合わせて三百人ほど集まり、初老の司祭が驚いて腰を抜かすほど盛大に、絢爛に行われた。
 目を閉じれば、結婚式の全貌が瞼の裏に鮮明によみがえる。
 ジョニーは純白のモーニングを着、胸元に百合のブートニアを誇らしげに飾って、祭壇前にて花嫁を待っていた。
 揃いのお仕着せに身を包んだ聖歌隊の子供たちが歌うグレゴリオ聖歌と、二十三人の学士たちが茫漠と響かせる演奏がギリシャ十字型の寺院のすみずみまでを響き渡る。五つの円蓋《クーポロ》や細かな彫刻の施された左右のインポスト柱は煌びやかな金のモザイクで余すことなく覆われ、聖マリヤや天使、十二使徒たちが随所で誇らしげに微笑している。幾何学模様を描く大理石の床には礼拝のための膝置きがついた木の長椅子が所狭しと並べられ、そのすべてに、夫婦の友人知人らが詰めてかけている。みな花嫁の可憐な名に因んだ銀の百合を胸に飾り、ベルベットで装丁された立派な聖歌集をその右手に携えている。
 司教について祭壇のそばに控えていた修道士が、花嫁の入場を高らかに宣言した。
 正面奥の両開き戸が厳かに開き、光の向こうからブラックスーツを上品に着こなした遊星が現れる。そして、その左腕につかまって、美しい百合子が姿を見せた。
 花嫁は、その豊頰にとろけるような微笑を湛え、見る人をうっとりさせた。偏屈で名を馳せる骨董品屋の老爺も、部下の畏怖を一身に集める強面の軍人も、今日ばかりはこの美しく清らかな花嫁に感嘆のため息をつくほかなかった。
 ヴァレンティノのデザイナーが彼女のためだけにあつらえたオートクチュールドレスは、細く真っ白なうなじからなだらかなプリンセスシルエットの先までをギュピールレースで緻密に覆う、繊細かつ壮麗なしあがりだ。三メートルにも及ぶロングトレーンには百個超のクリスタルが散りばめられ、寺院内のかすかな灯りを反射してまばゆく輝いている。小さな足を包むのはクリスチャン・ルブタンのアイコニックなスティレットヒール、それも靴裏を鮮やかなブルーに仕立て直した特別なもの。かわいらしく桃色にはにかむ耳殻を飾るのはティアドロップのダイヤモンドピアス。ビーズ刺繍の入ったマリヤベールは、彼女が兄の傍らを静々と歩むたびに揺れてきらめいた。
 濃紺に金の刺繍をあしらったロングカーペットを踏破し、花嫁のやわらかな手は遊星の左腕からジョニーの左手のひらに預けられる。彼女が祭壇前に上がると、音楽が止み、子供たちは修道士の案内で祭壇の両側に整列した。人々は息を殺し、寺院に深い静寂が訪れる。
 祭壇は花に溢れ、聖人たちの小さな彫像と共に祀られた黒檀の十字架でさえ、真っ白なミモザで飾られていた。司教の肩越しに聖マルコの棺と黄金のパラ・ドーロを盗み見ることができたが、これもギプソフィラやデルフィニウムで閑麗に縁取られていた。
 司教は神の福音としてマルコ書十章を朗読し、そのあとに夫婦はあらためて婚礼の儀に与った互いの姿に向き合った。彼の花嫁、百合子は至上の喜びに頬をほてらせ、そのつぶらに見開かれた青い目でジョニーを、ジョニーだけを一心に見つめていた。薄く化粧を施された花顔はこの世の誰よりも幸福そうで、あまりにも華麗だった。
 ベールを指で軽く抑え、軽く瞼を閉じた彼女の唇に、ジョニーはそっと誓いのキスを落とす。
 その瞬間から、百合子は、ジョニーにとってたった一人の守るべき人だ。

 

 焼きすぎたフレンチトーストを必死の思いで完食したあと、二人は朝の散歩に出かけることにした。いつもの身支度を終え、シャープなペッパーコーンの香りを全身に振ったジョニーが脱衣所を出ると、白いサンドレスに身を包んだ天使のような百合子が待っていた。耳元には二度目のクリスマスに贈った小ぶりなブルーパールが揺れている。
「お待たせ。待った?」
「いいえ」
 同じ家で暮らしていても、デートに遅れてきた残念な男のように振る舞うのが、ジョニーは好きだった。左腕を差し出すと、嫋々たる右腕がそっと絡められる。
 黄色いスクーターに乗って丘を下る。ここパレルモ郊外の新居から、彼女のお気に入りのビーチまでは三十分もかからない。その間、ジョニーは背中にぴったりとくっついた彼女の身体のやわらかさやその温もり、首の後ろにふきかかる小さな呼吸が穏やかであることを楽しんだ。乾季も盛りを迎えた八月の日差しの中、二人は一陣の風になって潮騒の香りと戯れた。
「見てください、鴎ですよ!」
 パレルモ市街を走り抜け、クリストーフォロ・コロンボ海岸道に差しかかったところで、百合子が歓声をあげた。時速45キロで走るスクーターにほとんど並走する形で、鴎が一匹、白い羽を広げて滑空している。
「目がつぶらで、お腹もニョッキみたいで、とってもかわいいです!」
「ほんとだ! でも百合子の方がずっとずっと可愛い!」
「ばか!」
 一度冷静になれば恥ずかしくて死んでしまいそうな会話を大声で交わす。激しい風のためにかき消されないようにということなのだが、運が良いのか悪いのか、その時ちょうど、左車線から真っ赤なオープンカーがスクーターを追い越した。
「Siete così innamorati!(お熱いこと!)」
 上品に口元を手のひらで覆いながら、運転席の老婦人が二人に向かって笑いかけた。何か言い返すまもなく、車は時速90キロの超高速で走り去った。
 二人はしばらく口を開けてぽかんとしていたが、彼女のイタリア語をいち早く理解したジョニーが頬に血を上らせ、遅れて事態を察した百合子も耳までを真っ赤にして恥じいった。
「……、ごめんね」
「はい……」
 ジョニーは胸ポケットに引っ掛けておいたサングラスをそれとはなしにかけ、百合子は額をジョニーのシャツの肩に埋め、何やらもぞもぞ言った。スクーター乗りのマーヴェリックがアジア人の恋人を後ろに乗せているみたいな格好だ。頭上で鴎がくうと鳴く。

 午前七時のモンデッロ・ビーチはさすがに人もまばらだ。弓形を描く白い砂浜には開店準備が進む屋台が二、三と、サーフボードを抱えた若者が何人か屯するばかりだ。海原はさわやかなエメラルドグリーンを湛えて澄み渡り、ガッロ山の伏せて寝ている亀のような輪郭は、抜けるような青さの晴空とみごとなコントラストを演出している。
 薄桃色の花をつけたキョウチクトウの木陰にスクーターを停めて、二人は砂浜に出た。サンダルを脱ぎ、裸足になると、まだ冷たい砂の感触がひんやりと皮膚に触れた。
 百合子は機嫌よく鼻歌なんて歌っていたが、不意につま先でぐっと背伸びをすると、ジョニーの鼻先からサングラスを攫った。象牙細工のように華奢で端正な足が波打ち際へ駆けていく。小さな花飾りのついたおさげの先が快活に揺れる。慌てて後を追うが、彼女は気まぐれなニンフの娘のように、突き出されるジョニーの手のひらをひらりとかわしてしまう。
「もう、百合子ってば!」
「うふふ、早くわたしを捕まえてくださいな!」
 楽しそうにくるくる回る彼女の一瞬一瞬がまぶしい。サンドレスの薄い裾は鳥が羽を翻して飛ぶように舞い上がり、見開かれた瞳のきらめきは天性の青さだ。
 ジョニーは一弾指息を止め、それから大きく足を踏んで彼女に抱きついた。きゃあ、と歓声が上がる。ジョニーの熊のような長身が細っこい百合子の痩躯にのしかかり、当然、二人して後ろに転がった。派手な水飛沫が上がり、その一粒一粒が陽を浴びて閃いた。
「捕まえた!」
 百合子の腰を抱き、ジョニーは喚声をあげた。愛する女を腕の中に捉えた戦士の勝鬨だ。
「捕まりました!」
 彼女は飾り気なく笑いながら、ジョニーの頭にサングラスを付け直してくれた。
 二人とも腰まで海水に浸かってずぶ濡れだ。波が引き、また押し寄せてきて、抱き合う幸福な鴛鴦のつがいの心までを洗った。
「ねえ、わたしのとっておきの秘密を聞いてくれますか」
「なんだい、僕のおチビちゃん」
「ジョニー……、大好き」
「参ったな。実は僕もなんだよ、百合子。世界でいちばん君が好きなんだ」
「嬉しい。キスしてください」
「仰せのままに」
 腰の上に百合子を抱き、期待に艶を帯びた唇に自分のを押し付けた。興奮でかすかに熱を湛えた粘膜が遠慮がちにもぞつき、ジョニーの唇の形を探る。
 口づけの間に彼女の子猫のような舌先が差し出され、ジョニーはそれをやさしく吸い上げた。平手で包んだ頬へさらに血が上る。百合子の、やさしさと善意による言葉しか知らない狭い内側は、ジョニーの舌に対しても至って貞淑だった。背の順に並べられた小さな子供たちのように規則正しい歯並びは、突かれると、おそるおそるその楼門を開く。ジョニーを誘ったはずの舌はいまや怯えて喉の方へ隠れ、それを追いかけるようにして、不躾な男の舌が奥の奥へ侵入する。
 長いまつげが涙にけぶる。潤む瞳はジョニーの写身を愛おしそうに丸く抱き込んでいる。
 ジョニーは彼女のすべらかな背に指を滑らせ、蝶の形に結ばれたリボンの紐の片方をそっと引いた。二つの羽は音もなくほどけ、華奢に引き締まった肋骨と、左右に端正に広がる鎖骨、深い母性を暗示する薄い乳房が露わになった。彼女もまた、おぼつかない指先でジョニーのシャツのボタンを探りあて、上から一つ一つ外していった。開かれた襟から露わになるのは、夏の小麦のように熟れた男の肉体だ。歳を重ねてさらに磨かれた石膏像さながらの胸筋はピンと緊張し、強剛に張り詰めていた。何ものにも侵されない城壁のような半身は、しかし、百合子の手に押されると、簡単に後ろへ傾いた。
 二人して、美しいモンデッロの、深い群青に潜りこむ。
 ジョニーは焦ったくシャツを脱ぎ、砂浜に向かう波の流れに放って、一寸先を浮遊する百合子を追った。彼女も同様に、ドレスをすっかり脱ぎ捨ててしまって、何にも隠し立てされることのない芳体が微光の中を触手の長いクラゲのように泳いだ。冗談みたいに白い。まばたきをすると、彼女の、手入れの行き届いた四肢のつま先や、髪の一本一本がだんだん透けてくるのがわかった。
 ……百合子は、こうして時折海水に触れていないと動けなくなることがあった。
 なぜかはわからない。そもそも、海を泳ぐ彼女の身体が透ける理由も、ジョニーは知らなかった。彼女が話そうとしないので、ジョニーも訊くことをしない。訊きたいとも思わない。たとえ、彼女が地球に飛来したタコ星人だったとしても、ジョニーはきっと彼女を愛することをやめない。どうだっていいのだ。
 透明な血管まで透けたガラス細工のような腕が、ジョニーの首に無邪気にじゃれつく。肩を抱いて引き寄せると、彼女は微笑み、唇を突き出してふたたびキスをねだる。望みの通りにしてやった。

「ほんとうに食べてもらえたらいいのに」
 地元住民も観光客も寄り付かない岩場の影で、ジョニーの肩から顔を上げた百合子が言った。
 吐精後の余韻で意識をかなたに彷徨わせていたジョニーは、はじめ彼女の言葉の意図を掴めないでいたが、冷たい指で額をくすぐられているうちに冷静な思考が戻ってきた。たしか、情けなく女性性の湖に溺れながら彼女にこう言ったのだ……「かわいい。百合子、食べちゃいたい」
「どうしたんだい……?」
「ジョニー、わたし、今が幸せすぎて怖いんです。両親は、……いなくなってしまったけど、兄さんがいて、ジョニーがいて、素敵なおうちがあって、ご飯はおいしくて。でも、もしこれが夢で……ほんとうは全部嘘だったら。本当のわたしは暗い夜の中でひとりぼっちだったら。考えると怖くて涙が出そうになるんです。それなら、夢から覚める前に、身体も心もぜんぶジョニーに食べてもらって、ジョニーと一つになりたい、なんて」
「……百合子」
「あ……へ、変ですよね、突然ごめんなさい。忘れてください」
 彼女が身を起こして離れてゆこうとするので、ジョニーは頼りないその肩をそっと引き寄せ、震える下瞼にキスをした。この少女は何を馬鹿なことを考えているのだろう。
「夢なわけ、ない、でしょっ」
「わ!」
 頬をつまんで引っ張る。百合子はなんでもなさそうに唇を尖らせて抗議したが、ジョニーが鼻先を近づけてその顔を覗き込むと、その目には言い逃れのしようがないほど黒く凝り固まった不安の影がじっと澱んでいる。よく観察すれば、唇は微かに青ざめて震え、眉間は苦悩が集まって深い影を刻んでいる。明るく快活な彼女らしくない表情だった。
 ウエストに腕を回してひん抱く。もしすべてが夢だったら、このやわらかさ、温かさはなんだ?
「百合子は気にしいなんだ。大丈夫。僕はここにいるし、君だってそうだよ」
「ジョニー……」
「それに、僕が君を大好きな気持ちを、簡単に嘘にしてほしくないな」
 しっとりと水気を帯びた髪を撫でてやりながらそう囁くと、百合子は静かに流涕した。透明な雨だれがまばたきと一緒にはじき出され、健康そうに膨らんだ頬を滲むように流れた。
 濡れた瞼が裸の肩に再び押しつけられる。抑えきれずにこぼれた嗚咽が、ジョニーの鼓膜を甘美に揺らす。なんでもないことなのに、百合子は相変わらず泣き虫だ。愛おしさにむずむずと胸をくすぐられ、その身体を腕の中にぎゅっと閉じ込めた。
 二人はその後も三度は互いの輪郭を見失い、五度は微笑み合った。岩の上で気持ちよく日向ぼっこをしていたミドリガニが、耐えかねて、そそくさと横歩きで逃げていく。

 

 午前十時、バラーロ市場にて食材を大量に買い込んだあと、二人はいそいそと帰宅した。今日は夫妻が近所の友人知人を集めてホームパーティーを開く日だ。
 あらかじめ正午に集合するよう周知していたはずだが、パラドックスはそれより一時間も早くやってきた。
「まだ何もできてないよ」
「細君はともかく、君は掃除も料理も手際が悪い。助太刀が必要だろうと思ったのだが。……これは土産だ」
 片眼鏡の奥で涼やかな紫眼を眇め、彼は手に提げていた紙袋を差し出した。すらりとした上品なワインボトルに、ビオンディ・サンティの名と紋章を誇らしげに掲げるブラックラベル。ブルネッロ、しかもヴィンテージものだ。どうやら父親から継いだ診療所の経営はうまくいっているらしい。
 交わされる皮肉にもワインの価値にも全く見当がつかない百合子は天使の微笑みを浮かべ、礼儀正しい会釈とともに素直な謝辞を述べた。上機嫌でキッチンに戻っていく背中を格好を崩して見送るジョニーを、パラドックスは半笑いで眺めている。
 ジョニーが庭の手入れをしている間、パラドックスには客を通すリビングルームと、奥のサンルームの掃除を任せることにした。
 百合子の細やかな気遣いの行き届いた室内に、彼は珍しく感心したような様子を見せた。白塗りの壁は各国から取り寄せた明媚な風景画が何枚も飾られ、格調高い大理石の床にはエキゾチックな模様織りの絨毯が敷かれている。細かな彫刻の施されたマホガニーのキャビネットに飾られているのは、ヴィネツィアングラスの飾り皿や銀の水差し、聖ミケーレにまつわる伝説が有名な陶器のベルなど、瀟洒な小物ばかりだ。ビザンティン文化の影響を強く受けたトルコ風の窓辺や、ガラス製のダイニングテーブルは季節の花で華やかに縁取られ、アンティークのレコードプレイヤーからは、ゆったりとしたクラシックが流れていた。アカンサス紋様で縁取られた天井には、画家がこの部屋のために描いた美しいフレスコ画が嵌め込まれている。
「見事なものだ。芸術の情緒をちりほども理解しない君の家とは思えんな」
「君はどうしてそう……まあ、たしかに、これほとんど百合子が揃えたものなんだけどさ。僕には価値がよくわからないけど、彼女の好きな物がたくさんあるのはいいことだ」
「ふむ。だがこの絵は君が選んだものだろう。なかなかどうして悪くない」
 パラドックスが示したのは、スイスのフィヨルドを描いた六十号の絵画の、その下にそれとなくかけられた小さなパネルだった。彼女の故郷を訪れた際に購入したもので、オレンジ色のフジヤマが描かれている。
「なんでわかるの」
「長い付き合いだからな」
 彼の好意は相変わらずよくわからない。
 十二時五分、三人がかりで、やっとの思いで準備が整うと同時に、招待客が次々と到着した。
 最初にやってきたのは、向かいの家に住むアポリア夫妻と、一人息子のルチアーノだ。一家はジョニーたちがこの家に越してきたばかりの時から交流があり、特にルチアーノは、お姉ちゃんと呼んで百合子をよく慕っていた。
「こんにちは。みなさん、我が家にようこそ」
「百合子お姉ちゃん!」
「まあ、ルチ。また背が伸びましたね。それにお顔も大人っぽくなったみたい」
「当然だよ! なんてったってボク、もうすぐ十歳になるんだ。あと八年経ったら、お姉ちゃんを迎えに行くからね」
 百合子の腰に抱きついたルチアーノは、甘えた声を出しながら、ジョニーだけがわかるようににやりと意地の悪い笑顔を見せた。あれは絶対に確信犯だ。子どもにだけ許されることがあると知っていて、それを存分に活用している。
 百合子との長い挨拶を終えたルチアーノは、すれ違いざまに、ジョニーに向かってあっかんべをした。
「やーい、ジョニーのバカ。悔しかったら反撃してみろよ。当然、百合子はボクの味方になるに決まってるけどね」
 この上なく生意気な小僧だ、百合子がイタリア語を理解しないと知っていて。
「たしかにそうかもしれないな。でも、それは君がまだ子どもだからだ。味方してくれなくたって百合子は僕の妻だ。君には絶対、死んでも渡さないぞ」
「それはどうかな? ジョニーはアホだし、いくじなしだし、ボクのほうがずっとカッコイイし。百合子、心変わりしちゃうかも」
「こいつ!」
 ジョニーが小さな身体を捕まえてくすぐると、ルチアーノは足をバタつかせて抵抗し、ジョニーの右腕に噛み付きもしたが、百合子が見ているとわかると一転して嘘泣きをはじめた。息子のやんちゃな性格を深く理解している両親とは対照的に、百合子はすぐに駆け寄ってきてジョニーから彼を引き剥がし、ばか正直にその身を案じた。
「お姉ちゃん、痛いよ。ジョニーのやつ、ボクの頭を叩いたんだ、ゲンコツで!」
「僕はそんなことしてないぞ! 百合子、信じて。ルチアーノは嘘をついてるんだ」
「ジョニー、ルチはまだ子どもなんですよ。あんまりいじめたら可哀想でしょう」
 百合子は縋りつくルチアーノの額をやさしく撫でながら、眉根を寄せ、少し怒ったような顔をしてみせた。そのときルチアーノが見せた勝ち誇ったような笑みといったら、なかった。
 一家をリビングルームに案内したあと、百合子は背伸びしてジョニーの耳元に唇を寄せ、こんなことを言った。
「ジョニーってば、ルチに揶揄われていたでしょう。ほんとうは叩いてもいないのですよね」
「百合子」
「簡単なイタリア語なら、わたしにもわかります。心配しなくても、ジョニーは世界でいちばん格好良くてスマートですよ」
 彼女の小さな唇が蝶のようにジョニーの頬に触れ、すぐに離れていった。
 黒目がちな瞳が少しばかりの羞恥を帯びてジョニーを見上げ、すぐに逸らされる。自分から仕掛けてきたくせに、耳まで真っ赤にして、小さくなって俯いている。
 周囲に誰もいないのをいいことに、恥も外聞もなく、ジョニーは愛しい妻を抱きしめた。彼女の細い身体の輪郭は、ジョニーの感覚器官を大いに充し、楽しませた。かわいい。愛おしくて胸が苦しい、大好きだ。
 百合子は必死になって身を捩ったが、ジョニーは彼女の抵抗を愛らしい乙女の恥じらいと思って真面目に取り合わない。
「ジョニー、後ろ。後ろ!」
 背中を叩かれ、涙声で訴えられて、ジョニーはようやく彼の背後を顧みた。リビングルームから二人を隠す漆喰の壁、その影に隠れるようにして、悪魔か死神か、こっそりと覗く人影が一つ。莞爾と微笑んだルチアーノが、弁えず愛し合う夫婦を眺めている。
 宴会の席での話題は彼によって大いに盛り立てられるだろう。
 最悪だ……。

 百合子が腕を振るって作ったシチリア料理や彼女の故郷の伝統料理の数々が、目も舌も大いに肥えた賓客たちを喜ばせた。彼らはワイングラスを片手に和やかに談笑し、やがて夫婦の案内を受けて外庭に出た。
 三階建ての白い家屋は小さな城のように厳格な構造(かまえ)を誇り、新人庭師が慌てて手を入れた二千平方ヤードの庭園は、薔薇や芍薬、百合、ペンタスなど、彼のプリンセスを喜ばせるための花で満たされていた。噴水の水盤からこぼれる飛沫は陽光に照らされて宝石を宙に撒いたような幻想を見せ、よく磨かれた石畳の上を影法師となって優雅に滑り落ちてゆく。夫婦の家は美しく、その昂然たることに、人々は夫婦の生活に欠け一つないことを知った。
 しかし、幸福は長くは続かないものだ。
 斜陽が庭中を赤く照らし、人々の横顔に墨のような翳りを落とす夕暮の頃、ジョニーは彼の肩によりそう妻の姿に奇妙な予感を覚えた。……あまりにも美しいのだ。恋のためらいに目尻を潤ませていた少女のころから彼女は美しく、ジョニーもそれを好ましく思っていたが、それとは訳が違う。彼女の全身に影のようにのしかかり、肉や骨の一かけに至るまでを支配せんとするような、圧倒的で、人間離れした美しさ。あまりにも完全で、それ故に人間の正気を感じさせない、無機的な美しさ。そして、彼女の皮膚や瞳や細い髪の一本一本は、命の器としての肉体に不相応なそれを支えているのに耐えかねて、すっかり辟易しているように感じられた。
 朝、百合子が口にした一抹の不安。ジョニーはそれを取るに足らないものと思い、華やかなパーティーの雰囲気や香りの良いワインの舌触りに酔ううちにすっかり忘れてしまうほどだったが、予感が首にひたりと押し当てられたのを感じた時、はからずもそのことが彼の頭をよぎった。
「今が幸せすぎて怖いんです」
 ささやきが蘇る。
 予感は不吉だった。恐れが背筋を駆け上り、そのあまりの冷たさにジョニーは深くため息をついた。心臓の音が警鐘を打つように全身に響き、また、暗色の興奮のために、その指は小刻みに寒慄した。
 不安のうちにジョニーが妻に視線を向けたとき、彼女もまた、彼のことを見上げていた。
 震える唇が何か言おうと蠢く。青い瞳に何か不定形の影がよぎり、かと思えば、不意に、華奢な身体がぐらりと横に傾いた。細い手足や結った髪が宙に踊り、その様子は操り糸をふっつりと切られた人形を思わせた。統率を失った頼りない身体は芝生の上に放り出され、そのまま動かなくなった。
 しばらく、誰も、何も言えなかった。
 最初に動いたのは、海を眺めながら一人で飲んでいたパラドックスだった。彼は持っていたグラスを動けずにいる客の手の中に押し込むと、倒れた百合子に駆け寄り、腕の中に抱いた。臥した身体を仰向けにし、頬を軽くはたいて呼びかける。見開いた目は何もかもを平等に映しとるガラスのようだ。顔色は病的に白かった。意識がない。
「この馬鹿、何をぼうっとしている。早く手を貸せ!」
 彼の鋭い一喝で、ジョニーはようやく正気を取り戻した。慌てて百合子に近づき、その肩をゆする。支えを失った小さな頭がぐらぐらと前後に振れる。
「百合子、百合子しっかりしてくれ。いったいどうしたっていうんだ? 百合子!」
「喚くな。ゆするな。彼女を私の診療所に運ぶ。車を出せ」
 ジョニーがその身体をかき抱き、名前を呼んでも、彼女は何の反応も返さない。かろうじて薄い胸が緩く上下している。
 ルチアーノがわっと泣き出した。

 

 深夜、百合子はベッドの中にいた。大小さまざまな大きさの毛布が彼女の細い身体を包み、その隙間からほっそりと伸ばされた手は、ジョニーの硬質な掌にしっかりと握られていた。
 ランプのほの灯りが、ふっくらと生気を取り戻した頬やきらめく海の瞳、軽く結ばれた唇を薄く平坦に照らしている。髪が横に流れたことで露わになったすべらかな額を、ゆるく曲げた人差し指でそっと撫でてみた。百合子はくすぐったそうに小さく笑う。
 夕方にあったことがまるで嘘のようなおだやかさだ。
 ともすれば崩れ落ちそうになる膝を必死に奮い立たせながら、百合子をパラドックスの診療所に運び込んだ。パラドックスはすぐに検査を行い、彼女の身体の隅々までを検分した。しかし、
「神経調節性失神」
「……」
「の疑いあり、だ。断定はできん。冠攣縮性狭心症……心臓疾患の類、あるいはストレスに起因する身体症状症も考えられるが、どこにも異常が見られない以上、原因を特定することはできない」
 血液検査や心電図検査は、彼女の身体のどこにも異常を見出さなかった。どのデータも、彼女が至って健康かつ正常であると示すのだ。
「そんなわけがない。ちゃんと調べてくれ」
「詳しい検査がしたければ、もっと大きな病院にかかることだな。紹介状は書こう。だが、設備自体はうちのものとそう変わらん。出る結果は同じだ」
 口ではそう言いながらも、パラドックスは納得もいかない様子だった。
 自律神経を整えるための漢方薬をいくつか処方され、ジョニーは百合子を伴って帰宅した。
「疲れが溜まったんだ」
 頬や唇にも指を滑らせながら、ジョニーは低く、やさしく囁いた。
「たくさん食べてしっかり寝ればすぐよくなるよ。心配しないで」
「ジョニー……」
「ん?」
「ありがとうございます。ジョニー、だいすき」
 ぼんやりと潤んだ夢うつつの瞳が、ジョニーを見て、ゆるやかに目尻を崩す。触れたら簡単に消えてしまうような、薄氷の微笑み。
 百合子が倒れたその時、ジョニーの全身を駆け巡ったあの不吉な予感が、再び彼の心を押し潰した。
 六年前、パレルモの町中を走り回ってようやく百合子を見つけたかの日、ジョニーの予感は見事に実現したのではなかったか。そう、彼の予感は当たるのだ、残酷なほどに。
 現代医学は彼女の身体に何の異常も見出さなかった。しかし、ジョニーにはわかる。不思議に透ける四肢。水の中を自由に回遊する肉体。ジョニーが何よりも愛おしむこの少女は、ジョニーが知り得ない何者かによって侵されはじめている。
「百合子……」
 寝息を立てる百合子の痩躯を、ジョニーは力の限り抱きしめた。
 一体誰が、実直なこの青年から愛する妻を奪い去ろうとしているのだろう?
 答えはない。今はまだ、その時ではないのだ。

 

 シチリアにも秋がやってきた。
 わずかに日差しの和らいだパレルモ郊外の丘を、二人の男が歩いていた。一人は二メートル近い長身の美丈夫で、秋の麦穂のようなこがね色の長髪を涼しげに翻し、大股でずんずんと先を闊歩する。遅れて、二人分の大荷物を抱えたもう一人が、女王に付き従う働きアリよろしく、汗だくになってそのあとを追った。彼が石畳の溝や欠けたタイル片に躓きそうになるたびに、短く切り揃えた黒髪が揺れる。
 不動遊星、二十五歳。成田空港からシンガポールミュンヘンを経由して、ここパレルモの地に降り立った。
「遊星よ、もうとっくに通り過ぎてしまったのではないか? 一度引き返すのはどうだ」
「いや……、もう少しで着くはずだ。ほら、あの家じゃないか」
 クッチョ山を背後に建つ、三階建ての、小さな城のような構えの一軒家。真っ白な壁は午後の陽に真珠色に輝き、高い石造りの塀からは、棕櫚の葉や、秋薔薇の可憐な花房が、風に吹かれてかすかに揺れるのが見える。
 遊星はその様子を、目を眇め、まぶしいものを眺める思いで見た。
 百合子の家だ。

 再会の熱い抱擁を期待していたわけではないが、それにしても、ドアから顔を出したジョニーの顔にあまりにも覇気がなかったので、遊星はすっかり拍子抜けしてしまった。
 結婚式のとき、叙階を受ける司教のように胸を張り、誇らしげに花嫁に口づけをしたあの男は、今や見る影もなく痩せていた。来訪者に送られる視線は苦悶を隠そうともしない。伸びた髪は手入れを怠ったために乱れてところどころ跳ね上がり、目の下には隈がくっきりと浮かんでいる。いつも闊達として、若々しい魅力に溢れていた彼と同じ人間であるとはとても思えなかった。
「やあ、遊星。久しぶり、ジャック。よく来てくれたね」
「ジョニー……少し痩せたのではないか」
 彼にジャックを紹介したのは二人の結婚式の日で、今日は二度目の対面になるが、そのジャックでさえ、目の前の男の様子がおかしいと気づいたようだった。
 彼は力無く首を振り、微笑む。
「それよりも百合子が……」
 遊星が妹の失神を知らされてからもう二月ほどになる。彼女の容態は決して思わしいものではない。
 はじめは週に何度か意識を失うくらいのもので、それだっても気がかりは募ったが、日が経つにつれて高熱や身体の節々の痛み、肺炎などの症状が現れるようになり、彼女はすっかり消耗していた。今では起き上がることすらままならず、ジョニーの懸命な介抱を受けながら、一日の大半をベッドの上で過ごしている。さらに悪いことには、どの医者に診せてもその原因がわからないというのだ。投薬治療から民間療法に至るまで、あらゆる手を尽くしたが、彼女は衰弱していく一方だった。
「最近では起きている時間の方が短いくらいなんだ。今も寝てると思うけど、よかったら顔だけでも見ていってくれないかな」
 ジョニーに案内されたのは、三階奥の、南向きの部屋……夫婦の寝室だった。
 ドアを開けてすぐ、むせかえるほどの甘い香りが遊星の鼻腔をくすぐった。花の香りだ。部屋はさまざまな種類の花で満たされていた。それは例えば蘭の花や薔薇、紫陽花、カーネーション、カメリア、桃やはたんきょうの長い枝に咲いた花々や、いく抱えあるとも知れぬジャスミンの花々などだった。花々はまるで古代の神々の迷路のように、あるいは美姫を隠す薄い雲のヴェールのように、三人と百合子の眠るベッドの間を遠く隔てていた。
「百合子。起きてる?」
 ガウラの白い花弁を押し分けながら、ジョニーはベッドに近づいた。
 彼の広い肩越しに、遊星は妹を見た。百合子は薄藤の絹のネグリジェにレースの羽織を見につけて、ベッドに寝そべっていた。カーテンのわずかな隙間から白昼の光が差して、彼女の全身を薄闇の中につまびらかにした。
 その顔は熱く火照り、高熱がもたらす苦痛が端正な眉の間にくっきりと刻まれていた。汗で濡れた前髪が額に貼りついている。ネグリジェの襟元は広くくつろげられ、白い皮膚薬を塗られた鳩尾と、静かに女の展望を見せる小さな乳房が露わになっている。
 薄く開かれた唇は甘やかに、苦しげに喘鳴し、その合間に、百合子はジョニーの名前を呼んだ。冬の枯れ枝のようになった腕が夫を求め、ジョニーはそれに応えて、彼女の唇や頬に悲痛な接吻を浴びせた。
「百合子、義兄さんたちが来てくれたよ」
「まあ……兄さんが……」
「呼んでもいいかな?」
 百合子が首肯し、二人はベッドに近づいた。
 哀れな妹は、兄と、その恋人の姿を見とめると、憔悴しきった顔に嬉しそうな微笑みをのぼらせた。
「遊星兄さん、ジャック、遠いところから……ありがとうございます。こんな格好で……お相手もできなくてごめんなさい」
「いいんだ。そのままで、何も喋らなくていいから……」
 すっかり憔悴しきった、羸弱でいたいけな妹。幼い頃は遊星の後ろをちょこちょことついて回り、将来は兄さんと結婚するのだと言って憚らなかった妹。頬を薔薇色に染めて、嬉しそうな顔をして、異国で出会った青年と恋に落ち、嫁いで行った妹。いつも溌剌として、美しくやさしかった妹。薄い微笑の上に幸福だった彼女の幻想が次々に蘇り、遊星は胸をきつく詰まらせた。再会の挨拶もそこそこに駆け寄り、か細い蒲柳の身体を懸命にかき抱いた。
「兄さんってば、ひどいお顔。あまり寝ていないのではありませんか? ジャック?」
「ああ。家を出てからこの家に到着するまでの三十七時間、遊星は一分たりとも睡眠を取らなかった。それもこれも、お前がいつまでも寝込んでいるからだ。こいつを心配するくらいなら、早く自分をなんとかしてしまえ!」
「ジャック、なんてことを言うんだ」
「いいえ、兄さん。ジャック、ありがとうございます。そうですよね、いつまでもみなさんに心配をかけるわけにはいきませんから……」
 健気にも気丈に振る舞おうとする妹がいじらしくて、切なくて、遊星は彼女をますます強く抱いた。
 彼女の苦しみを代わりに背負えたらどんなに良いだろう。
 ジャックは難儀だとばかりに眉を吊り上げ、腕を組んで唸った。ジョニーの表情は逆光に翳ってよくわからない。

 四人で昼食を取ったが、百合子はまた料理を残した。
 流動食でなければ喉を通らない彼女のために、りんごの擦ったものや、限界までふやかした粥を用意するのだが、ほんの数口食べただけで、彼女はもう十分だからと匙を置くのだ。ジョニーの作るご飯はなんでも好き、と言ってくれた、かつての彼女の姿を思い出す。
 まだ八割ほど中身を残した皿を水に晒し、洗い流す。振って水滴を落としたものを横に渡すと、ジャックの無骨な手がそれを受け取り、やわらかいふきんで拭う。
「ジャックって、意外と家庭的なんだ」
 ジョニーの発言は失礼極まりないものだったが、彼は苛立つこともなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「放っておくと、遊星は飯も食わなければ風呂にも入らない。俺がやらなければ死ぬぞ、あれは」
「でも、君なら家政婦を雇って派遣することもできるだろう? わざわざ自分でやることもないじゃないか」
 兄妹の幼なじみにして、遊星が長年の片思いを実らせて手に入れた恋人、ジャック・アトラスは、世界的メンズファッションブランド〈アトラス〉のオーナーだった。企業経営から商品のデザイン、イメージモデルに至るまでを一手に担い、その辣腕で業界のトップに上り詰めた若きカリスマだ。
 ジョニーが学生の頃から愛用しているオーデコロンもアトラス社のものだ。だから、百合子との結婚式で遊星から彼の紹介を受けた時、ジョニーは腰を抜かすほど驚いた。噂に違わぬ美貌や威風堂々たる佇まい、尊大な立ち振る舞いに、本物は格が違うのだと妙に納得したものだった。
 そんな彼が、遊星が適当に選んだ田舎のアパルトメントの一室にその長身で押し入って、料理に洗濯にと世話を焼いているさまを想像すると、あまりのアンバランスさに笑ってしまいそうになる。
「俺は遊星に惚れている。遊星のために働き回るのは、まあ、趣味のようなものだ」
「……」
「金だけではどうにも押し通らないことが、この世にはままあるということだな。例えば、百合子の不調……さて、お前は彼女について、どこまで知っている?」
 ジャックは最後の一枚をすっかり綺麗にしてしまうと、手についた水分をふきんで拭いながらジョニーを見た。
 深い紫色の瞳が理性を帯びてかちりと煌めく。宝石に入ったひびのような形の虹彩が、ジョニーに全ての意識を向けていた。居た堪れなくなり、ジョニーの視線は遊星を探してキッチンを一巡したが、すぐに彼が百合子の部屋に残ったことを思い出した。
 ジャックが、ジョニーの胸の内に閉じ込められた疑念をつまみあげ、その存在を炙り出そうとしていることは明らかだった。だが、一体何のために? 彼は何を知っている?
「あ……ええと、原因はまだわからないんだ。いろいろな病院を回ったけど、どこにも異常が見つからない。悪いところがないとなると、病気かどうかも……」
「何を恐れている? もっと本質的なことだ」
「本質的なこと」
「例えば、……あの女はどこから来たのか、とか」
「まさか」ジョニーは押し殺していた息を吐き、目の前の男を見た。「*百合子が誰なのか*、知ってるの……?」
 不思議な百合子。原因不明の病。彼女が普通でないことはもはや明白だった。
 遊星と百合子はよく似た兄妹だが、その質が異なるものであることはジョニーにもなんとなく察しがついた。男だとか女だとか、年上だとか年下だとか、そういう問題ではない。皮膚の下に流れるものが違う。呼吸の時、吸って吐き出すものが違う。よく似せて作られているが、二人は本来相入れないはずの、異界のもの同士だ。
 ——百合子は人間ではない?
 それは恐ろしい天啓だった。逆境にあっても朗らかで、誰にでもやさしい、天使のような百合子。ジョニーだけをひたむきに愛してくれる百合子。ジョニーと寄り添って生きることを望んでくれる百合子。誰よりも愛おしいその少女が、そもそも属する場所の違う、一生混じり合うことのできない異邦のものかもしれない。
 ジョニーは、たとえ百合子が地球に飛来したタコ星人だったとしても彼女を愛する自信があったが、それはその発想が現実のものでないという確信のもとに成りたったものだ。もし、真実になったとして、果たしてジョニーは正気でいられるだろうか。彼女を愛し続けることができるだろうか。
 人間は、自分とは異なるものを排斥したくなるようにできているのだ。
「……そう不安がることはない。真実はもっと単純だ」
 ジャックはジョニーの葛藤を見透かして、くつくつと低く笑った。
「百合子は人魚なのだ」
「人魚?」
「そうだ」
「人魚って、人魚(mermaid)?」
「ああ」
「に、人魚。へえ。だからあんなに綺麗なんだ……」
 その反応なら問題ないな、ジャックはジョニーから視線をふっとそらし、勝手にメーカーでコーヒーを淹れはじめた。
 人魚。人間の特徴と魚の特徴を併せ持つ架空の動物。物語の中ではしばしば女性の上半身と魚の下半身を持つ生き物として描かれ、その起源は、アイルランドのメロウやギリシャ神話に登場するセイレーンなどの伝説に見ることができる。
「むろん、本物の人魚などこの世に存在しない。百合子は人工的に作られた、最初にして唯一の人魚だ」
「……どういうこと?」
「彼女は、動物の遺伝子を人間の受精卵に組み込む実験の最初の被験者だ。たった一人の科学者の暴走の末路だ。被験者は複数いたらしいが、(規制)の遺伝子を打ち込まれた彼女だけが、生物としてこの世に誕生した。結局、この実験は告発され、結されるに至ったが、生まれた個体を廃棄することは誰にもできなかった。それを引き取って育てたのが、遊星の両親だ。彼女は百合子と名付けられ、以後お前のもとに身を寄せるまでの七年間、本当の娘のように育てられてきた。
 ここまでは良い。問題は、この実験が凍結されたことで、彼女の身体に起こるその後の変化を観測する人間が誰もいなくなったことだ。
 これは俺の仮説でしかないが、おそらく、彼女の不安定な遺伝情報が何らかの不具合を起こし、このような原因不明の不調を引き起こしているのだろう。となると、普通の医者には彼女を治療することはできない。科学者は獄中で狂気を引き起こし、彼女の両親はもういない」
 (規制)についてはジョニーも知っている。イタリア半島近郊の海にも生息する、ごくありふれた海洋生物の名前だ。それだけに、ジャックの話はまるで現実感がなく、突拍子もないものだった。だが、彼はやたらに冗談を言うようなたちの男ではない。ジョニーに差し向ける眼差しは変わらず誠実なものだったし、百合子の、おとぎ話のような真実を語る声はいやに静謐だった。
「遊星はこのことを知らない。百合子本人でさえも、自分が普通でないとわかってはいても、ここまで仔細な事情までは知らないだろう。彼らの両親は俺だけに秘密を打ち明けた。なぜかは、わからない」
 コーヒーが出来上がり、彼はそれを取って啜った。
「……つまり、百合子は(規制)と人間のあいのこだけど、それぞれの遺伝情報が噛み合わなくて今不調を起こしてるってこと?」
「仮定の範疇だがな。なんだ、いやに飲み込みが早いな」
「予想していなかったわけじゃないんだ。その……百合子が、人間じゃない、ってこと」
 擦り切れてもはや形も曖昧な記憶だが、子供のころ、ジョニーは人間と種を別にする何者かに遭遇したことがあった。彼女は、妖しい色違いの目、鉱石めいた輝きを放つ目でジョニーの過去から未来に至るまでに光を当て、その一つ一つを拾い上げて検分した。彼女が見せた、闇の中に蠢く怨恨は、百合子を無惨な形で奪われた未来のジョニーだったかもしれない。どうして今まで忘れていたのだろう、まるで何もなかったかのように?
 ジョニーは彼女によって、人類の庭の外側で生きる未知のものたちの存在を知ったのだ。ジャックが語る百合子の可能性に取り乱さず、ひとまず受け入れるだけの器は出来上がっていた。
「俺がその馬鹿げた話を信じたのは、彼らの両親を尊敬し、愛していたからだ。そして、百合子本人からも、それを裏付ける証拠となりうるような相談を受けていた。……十二歳のとき、風呂に浸かる自分の身体が透けるのだと、百合子は泣きながら俺に訴えたのだ。そうでなければ、俺は彼らの話を物好きな科学者夫婦の妄言と断じて取り合わなかっただろう。それだけに、今、お前が俺の話を馬鹿正直に受け入れたことがふしぎでならん」
「同じことだよ」ジョニーは肩をすくめ、「僕も好きだ。百合子のことも、君のことも……」
 兄妹の歓談を終えたらしい遊星が階下に降りてきた。その右腕に軽々と抱き上げられて、照れたように笑う百合子もいる。
 遊星は奇妙な格好で向かい合う恋人と義弟を見ると、ほっとした様子でまなじりを緩めた。
「何の話をしていたんだ?」
「少しな。百合子、ベッドから出ても良いのか」
「兄さんが一度ホテルに戻るというので、見送りくらいはしなければと思いまして。そうしたら……こんな、小さな子どもみたいで恥ずかしいです」
「遊星はお前が心配でならんのだ。抱っこくらいさせてやれ」
「遊星、もう帰っちゃうのかい?」
「ああ……とりあえず寝たい」
「昼寝くらい、ここでしていけばいいのに」
「馬鹿者、夫婦の邪魔をしないようにという義兄のおもんばかりを汲まないか」
 遊星はL字ソファの長い部分に百合子をそっと横たえると、その眉を親指でやさしく撫でた。幼い子供にするような愛撫に百合子は気恥ずかしそうにぱちぱちとまばたきをし、下瞼を花の色に染めた。にいさん、舌足らずな声が彼を呼ぶ。
「俺たちは旧市街のホテルにしばらく滞在する。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ありがとう」
「百合子、俺の心はいつでもお前のそばにある。愛しているよ」
 瞼にかかる髪をどけてやりながら、遊星の掌が百合子の頬を包む。口づけが彼女の額を訪れ、続いて、恋人に促されたジャックの唇が同じ場所へためらいがちに触れた。
 二人の兄が部屋から去ると、緊張の糸がすっかり切れてしまったのか、百合子は再び三十九度の高熱を出した。幻覚すら見ているようで、仕切りに父親を呼びながら、折角食べた昼のものを二度に分けて嘔吐した。もう何も胃に残っていないのに、頻りになにかを吐き出そうとする唇。懐かしい面影を求めて必死に虚を掻く痩せ細った手。ジョニーは、苦しみ喘ぐ妻の背をさすることしかできない愚かで甲斐性のない夫だ。
「おとうさん、おとうさん、おとうさん、おとうさん」
「……」
「おとうさん、どうして……を、……たりしたのですか……」
 彼女に熱どめの薬を飲ませてやりながら、ふと、ジョニーは自分の携帯にメールが一件届いているのに気がついた。横目で液晶を盗み見る。ジャックからだ。件名はなし、本文は簡潔に、
『覚悟を決めろ』
 ……何だって?

 

 夜の間こそ、ジョニーにとっては戦いだ。
 二十四時間休むことなく不可解な苦痛の脅威にさらされ続けている百合子のことを思うと、ジョニーはおちおち寝こんでもいられないのだった。いついかなる時も城壁を守ることを強制された番人のように、ひたすらに神経を張りつめて、隣で眠る百合子の寝顔や、不規則な寝息に意識を集中させる。
 部屋に満ちる微光のために、百合子の肌はほの青く透き通っている。閉じた瞼は薄く漉いた紙のように白く、唇は強く噛み締められたために血が滲み、豊かに艶を帯びていたはずの黒髪の中にはちらほらと枝毛が散見される。胸の前で組まれた指は肉がすっかり削げて骨の形を露わにし、関節すら浮き出ている。痩せ細った病人の、朽木のような寝姿だが、それでも、ジョニーは彼女を美しいと思った。月光の滴りが彼女を無原罪の聖母に喩えあげていた。
 肌も唇も髪も、何もかもが薄くて、儚い。一度触れればはらはらと散ってしまいそうだ。それでも、ジョニーは彼女を腕の中に閉じ込めてしまわずにはいられなかった。
「百合子……」
 かすかな呟きはジョニーの中でたわみ、反響して、幾重にもこだまする。
 百合子……百合子。百合子、百合子——
 海鳴りのように、葉の擦れる音のように。彼女の名前はジョニーの細胞や血管の先に至るまで渡る。意識は鳴響の間に揺れ、もまれて、緩やかに拡散していく。
 解かれていく自我の糸が誰かに手繰り寄せられる。
 ジョニーは夢を見た。

 白く霧のかかった山をひたすら登っている。
 シチリアの山々のように、低木や野草ばかりの岩山ではない。ジョニーの歩む山道には黒く鋭い針のような葉をつけたもみの木が鬱蒼と繁り、太くごつごつとした幹たちの間を、白くけぶる霧がゆるく流れている。空の様子は、夥しい量の葉に覆われてほとんど窺い知れない。ジョニーの行手も、霧のために見通しが利かない。
 ジョニーは上を目指して歩き続ける。尖った枯れ枝が彼の服や肌を裂くが、不思議なことに痛みはない。靴底ごしにその形がわかるほど大きく角ばった石も、冷たい大気も、彼の歩みを止めることはできない。だが、何のために歩いているのか、どこに向かっているのか、彼の知るところではなかった。
 ふと、霧が晴れる。
 木々の連なりが途切れ、ジョニーはいつの間にか開けた場所に出ていた。ジョニーの視線の向かう先に、一際大きなトネリコの木が生えていた。幹だけで五メートルはある巨木だ。天を衝くように伸びた樹冠はみずみずしい葉で覆われ、所々に、白い靄のような花が寄り集まって咲いている。根もとには小さな湖が湧き、その水面で、一人の女が座って糸車を回していた。
 いや、女ではない。ジョニーは彼女のことを知っている。男の目には至高の女として、女の前には究極の男として映り、そのどちらにも当てはまらない小さな少年だったジョニーに神秘を教えた存在。虹彩異色症、雌雄同体の魔女。遊城十代
 ジョニーが来たことに気づくと、彼女はペダルを踏む足を止め、やあ、と軽やかに手をあげた。
「久しぶりだな」
「百合子を助けてくれ」彼女の姿を見るや否や、ジョニーはそう叫んでいた。
「なんだよ。再会のあいさつにしてはいやに横暴だな」
「そんなこと言っている場合じゃないんだ。百合子が死にそうなんだ。君ならできるだろ、十代。僕に運命を見せたのは君だ」
「落ち着けよ。急いては事を仕損じる、だぜ」
 十代は放漫に脚を組み直し、きらめく神秘の目でジョニーを見た。
 十代は、はじめて会った時とはまるで別人のようだった。浮浪者のような無粋な格好はやめたみたいだ。奇妙な形をしたモザイクの肉体は目が覚めるほど赤いショートドレスに覆われ、剥き出しの肩には似合わない白衣を羽織っている。その襟元に輝くのは何かのロゴをかたどった金のバッジだ。ともすれば見えてしまいそうなほど短い裾からはふっくらと健康そうに張り詰めた女の左脚と若鹿のような少年の右脚が伸び、ヒールのついたパンプスと、底の平坦な革靴が、それぞれの足を大事そうに覆っていた。
 理想の女に心酔し、その足下に傅く男のように、ジョニーは湖畔に座した。男の本能が十代を手に入れろと騒ぎ立てていたが、しかし、彼は本来の目的を忘れてはいなかった。
「百合子の病を治してくれ。多分、君にしかできない」
「……」
「彼女は僕のすべてなんだ。この世の何よりも彼女が大事なんだ。彼女が健康に、幸せに生きられるのなら、僕は命を捧げたって構わない。今ここで死んでもいい」
 十代はジョニーの言葉に静かに耳を傾けていたが、その目は冷たく、無機質なきらめきを帯びてジョニーを見下ろしていた。ヒールの底が、湖の水面をコツコツと打った。
 ジョニーが懇願を終え、希望のうちに十代を見上げて、ようやく彼女はその口を割った。
「オレは、……ミラクルを起こすことはできないと、お前に言ったんだ。人を生き返らせたり、歴史を変えたりすることはできないと。でも、物理現象として筋が通ってさえいれば、ミラクルは起こせなくても奇跡は実現できる。百合子を救うには、簡単なことだ、彼女の身体から、人間が本来持ち得ない神秘の要素を取り除けばいい。そして、人間の組織すら自在に操れるような膨大な燃料、エネルギーさえ用意できれば、それは不可能じゃない。
 だが、この世に偏在するエネルギーの量は一定だ。創世のその時に宇宙を満たすエネルギーの総量は定められ、以来、一度たりともその均衡が破られたことはない。地球についても同じことが言える。地球の重力の影響下にあるエネルギーもまた一定のもの。だから、お前は百合子一人を救うために、長い宇宙旅行をするか、そうでなければ地球のどこかからエネルギーを集めてこなければならない。膨大な量だ。お前の命ひとつじゃその一片も担えない。
 想像できるか。彼女一人のために、多くの人間の、動物の、生き物の命が奪われる。同じように誰かを愛し、誰かに愛された命が、たった一人の女のためにゴミのように消費される。普通の現象とは訳が違う。イタリア半島ごと吹き飛ぶかもしれない。それでも、お前は彼女を救うために動けるのか? 自分の信条も、信仰も、信念さえ、彼女のために捨てられるのか?
 オレはできたさ。でも、それでもうまくいかなかった。結局オレは一人のままだ……」
 そこまで言うと、十代は一仕事終えたみたいにふうっと肩で息をして、再び糸車を回し始めた。
 赤いヒールの足が規則正しくペダルを踏む。フライホイールが回転し、彼女の手のなかで怪しく輝く赤いもやが、糸になってボビンに巻き取られていく。
「お前には無理だ。お前みたいなお人好しには、人の命を摘むことなんてできない。だからひとついいことを教えてやる。彼女を生かす、唯一にして最良の方法」
「……どうすればいいんだ、教えてくれ」
「あの子を海に返せばいい」
 ジョニーは絶句した。
「(規制)を知ってるだろ。あれは生き物じゃない。人間は彼らをただの魚だと思ってるみたいだけど、本当は、俺たち魔女と神秘の領域を共有する同胞だ。言うなれば本物の人魚だ。有史以来、彼らは独自の言語で交信し、共同体を形成することで、人間たちのものとは別の高度文明を作り上げてきた。その、(規制)たちの神秘性が、あの子の人間の部分を冒しているんだ。あの子がいま苦しんでいる病に似たものは、人間性が神秘に抵抗しようとして発生する防御反応のようなものだ。医者が治療も原因の特定もできない理由がそれさ。
 とはいえ、その抵抗だってきっと長くは続かない。このまま陸に繋いでおけば、人間としてのあの子は完全に食い潰され、意味をなさなくなる……どうなるかわからない。どちらにせよ、最後は殺すことになる。でも、海に返せば、あの子は少なくとも(規制)として生きることができる。もちろん、違う生き物になるんだから、お前を愛してたことも、お前自身のこともわからなくなるだろうけど。
 わかってるとは思うけど、このままの状態で放っておいて一番かわいそうなのはあの子だ。神秘は同胞以外に対して容赦がない。文字通り全てを食い潰す。細胞も、存在の形も、魂そのものも……それらが食われる痛みは壮絶なものだろう。きっと死にたくなるくらい辛いはずだ。あの子はそれに、二十四時間休むことなくさらされ続けている」
 不意に、フライホイールの回転が止まり、十代はそこで言葉を途切れさせた。糸が絡まってしまったのだ。十代は白衣のポケットから銀の鋏を取り出し、それを切り落とそうとして、ふと、ジョニーの顔を宝石の瞳で見上げた。
 ジョニーの掌に伸びた爪が突き刺さる。
 十代は、最良の方法だと言った。だから、てっきり、誰の命も奪わず、誰のことも不幸にせずに、人間としての百合子を救うことができる切り札を、ハッピーエンドの希望を、彼女が用意してくれているのだと思ったのだ。だが、真実は違った。
 ジョニーの前に差し出されているのは、二枚のカード。一枚は人間としての彼女を殺し、海に放ってもう一人の彼女を生かすこと。〈バッドエンド〉。もう一枚は……ジョニーのそばに、耐え難い苦痛と悲しみととともに彼女をとどめ置き、その最後には彼女の何もかもを殺してしまうこと。
 カードは美しい金色の光を放ちながら、緩やかに回転をしている。その表には、何処とも知れない風景が描かれている。
 乳白色の光の中に、かすかに青が透けて見える。まだ少し肌寒い位の、春の空だろうか。風に吹かれ、一面に舞うのは、しみひとつない真っ白な花びら。彼女の心。いつかばらばらになる彼女の心。
 パーフェクト・ワールド・エンド。
 女神を望んだ人間が、彼女を完全に殺すための破滅のカードだ。

 

 悲痛な咳嗽の音を聞いてジョニーは飛び起きた。
 百合子だ。彼女は喘息発作を起こしていた。背を折り曲げ激しくえづく。彼女が息を吸おうとするたびに、締まった気管支が、立て付けの悪い窓が立てる音に似た細い喘鳴を立てる。真っ青な額には脂汗が浮いている。
 慌ててベッドサイドを探り、やっと掴んだ水差しを彼女に渡すが、激しい咳のせいで手先すらおぼつかず、取り落とされた水差しはシーツを冷たく濡らした。
 ポロポロと涙をこぼしながら喘ぐ彼女に胸がいっぱいになり、ジョニーは自ら水を含むと、口移しで彼女の喉を潤した。
「じょに、ジョニー……」
「百合子、僕はここにいるよ。君のそばにいる。大好きだ、大好き、だから……」
「おねがいが、あります」
 苦しみながらも、彼女はジョニーのシャツの袖を掴む。夜闇の中で、潤んだ瞳がきらきらと光を帯び、ジョニーに何かを訴えている。
「うみに。つれていってください、はやく……」
 言い終わらないうちに、苛烈な苦痛が彼女の全身を激しく痙攣させた。
 ジョニーはタクシーを呼び、毛布にくるまった彼女を伴ってビーチへと急いだ。夜のビーチは黒く、ひんやりとして、この世全ての拒絶を湛えているのだとばかりに暗澹としていた。海風で激しく波飛沫が立つ中、裸足になった彼女はふらふらと海に入っていく。ジョニーは彼女を慌てて支えようとして、その身体がひどく冷え切っていることに気がついた。

 

 

 

            パーフェクト・ブルー


 生まれてこのかた、ジョニーは労働というものについたことがなかった。
 彼は豊かだった。両親は一人息子の彼が欲するものは何でも与えてきたし、大学を卒業し、独り立ちしてからも、在学中に成功した投資事業で百合子ともども何不自由のない暮らしを送ることができていた。
 しかし、事情が変わったのだ。未知の病に少しずつ蝕まれていく百合子。彼女と過ごす時間を少しでも長らえるために、ジョニーは花を買い、薬を買った。高額な治療費を惜しみなく払い続けた。結果、支出が収入に追い付かなくなり、ジョニーは働きに出ることを余儀なくされるに至った。……彼女を海に帰すという選択は、どうしてもできなかった。
 その日は寒かった。厚手のセーターにコートを羽織って出かけたのだが、夕方から途端に冷え込み、ジョニーがオフィスを出るころには気温も十度を下回っていた。歩いて帰るつもりだったのを、プルマンでの移動に変更する。
 暖かい車内で揺られ、うとうとと船を漕ぎながら、ジョニーは美しいまぼろしを見た。まぼろしは、決まってジョニーの孤独の隙間に入り込み、彼の感傷を悪戯にくすぐる。現れたのは百合子だ。ひたむきに愛と純情を信じ、自分の脚で軽やかに走り回っていた、少女の頃の百合子だった。
 二つに結ったおさげの先が近くで揺れる気配がする。ささくれもあかぎれも知らないたおやかな指先が髪や額をやさしく撫でる。夢うつつに名前を呼ぶと、やわらかい仕草で頬を拭ってくれる。
 ただでさえ痛みに苦しむ本物の百合子に、ジョニーが見せられずにいる弱みを、まぼろしには素直に曝け出すことができた。耐えかねて吐き出した泣き言も、意図せずこぼした不安も、彼女のやわらかな手は大切に受け入れてくれた。
 情けなく、都合の良いまぼろしに縋ってしまう。そばにいられるだけでいいと思っているはずなのに。
「百合子?」
 ——ジョニー。
 やさしい手が、ジョニーの腹の上に何かを置いた。
「百合子……」
 ——大好きです、ジョニー。
 それは二枚のカードだった。十代が差し出し、ジョニーが選べずにいる、二枚のカードだ。
 車内アナウンスが、ジョニーを夢から引っ張り出す。意識がはっきりしてくると、少女の百合子もカードもすっかり消えてしまう。
「百合子」
 呆然と呟いた。

 悲痛なすすり泣きが、玄関口に立ったジョニーの耳にも聞こえてくる。百合子の部屋からだ。
 残されることが不安なのか、最近の百合子はジョニーがそばを離れると子供のように縋ってくる。はじめは寂しそうに、ジョニーが留まることを期待する目でこちらを見ているだけなのだが、本格的に仕事に出ようとしているのだとわかると声を上げて泣き出し、腰に抱きついて引き止めようとするのだ。彼女のためにも働きに出る以外の選択肢は残されていないのだが、それでも、ジョニーの名前を呼びながら大粒の涙をこぼす妻を見るのはつらかった。
 大理石の螺旋階段を重い足取りで上り、表に小鳥とクリスマスローズのリースをかけたマホガニーの扉を押し開ける。
 花の中で、百合子はシーツをヴェールのようにして被り、ベッドの上で膝を抱えて泣いていた。遠い星のまばたきのような、寂しく、頼りなさげで悲痛な嗚咽が、シーツの隙間から漏れ出てくる。彼女の周りにはばらばらにむしられたノースポールの白い花びらが散り、そのさまが、百合子のやる方ない苦痛と孤独を訴えてくるようで悲しかった。ジョニーはジャケットを脱ぐこともそこそこに彼女の隣に座り、震える肩を抱き寄せた。
「ただいま、百合子。遅くなってごめん」
 シーツの裾を持ち上げると、涙を持て余す百合子の顔が露わになった。ジョニーを見上げる目は腫れ上がり、鼻の頭は可憐にも赤く染まっている。
 彼女はジョニーのと目が合うやいなや、その胸にがばりと顔を埋め、背に腕を回してしがみついた。もう離さないとばかりに。
「どこに行ってたんですか? わたし、ひとりぼっちで……さみしくて、こわかったです」
「僕のお姫さま、許してくれ」
「もう二度と離れないと誓ってくれたら、許してあげます」
「うん……誓うよ。もう君を置いて行ったりしない」
 嘘だ。明日もジョニーは百合子のために働きに出るのだ。でも、せめて今だけは、愛しい妻、苦痛の中で哀しみ嘆く妻を安心させてやりたかった。
「ほんとうですね……そばにいてくれますね……」
 顔を上げた百合子が不安げにこちらを見つめてくる。潤んだ瞳から溢れた雫が、彼女の痩せた頬を夢のように落ちた。顎から滴るのを指先で受け止めながら、ジョニーはその瞼に唇を寄せた。
「約束する。だからもう泣かないで? ね?」
 キスをする。触れ合った皮膚から百合子のほのかな興奮を感じる。ジョニーは揺蕩う薄い蝶の羽のような唇をやさしくはみ、舌でそっと伺いを立てる。熱を帯びたやわらかい口腔に緩慢に迎え入れられた。
 彼女のネグリジェは、塗布薬をつけやすいように、前で開く形になっている。薄い生地を破かないようにボタンを外すと、よく出来た陶器の器のような、すべらかな乳房が露わになった。薄桃色の嘴からとろとろと流れるのは白い乳汁だ。臍の上までをゆったりと流れる乳を舌で舐めとり、たどり着いた乳頭をつとめてねんごろに啜った。骨の浮いた腰が焦ったく揺れる。
「あ……」
 朝から晩まで休みなく労働を強いられた肉体に、百合子の甘い声は晩鐘となって、深く、ゆったりと響く。

 

 早朝六時、いつものジャケットにコートを羽織ったジョニーが出かける前に寝室を覗くと、百合子はまだ眠っていた。彼女の作り物のような白い腕には鋭い針が何本も突き刺さり、そこから伸びたチューブが、鎮静剤や解熱剤を彼女の身体に絶え間なく運び込んでいるのだった。
 ベッドサイドに腰を下ろし、汗ばんだ額をそっと撫でてやると、赤ん坊のように無垢な手がその指先をやわらかく掴んだ。あどけない譫言がジョニーの名を呼ぶことの、なんと切ないことか。常に胸を圧迫する狂おしいほどの愛おしさに突き動かされ、ジョニーは妻の顔のあらゆる場所にキスをした。下瞼に触れると微かに塩の香りがするのが悲しかった。
 ジャックが、二人分のマグを持って寝室に入ってきた。百合子に寂しい思いばかりさせているジョニーの代わりに、今日はジャックが彼女の面倒を見てくれることになっていた。
「行くならさっさとしろ」
 言いながらも、親切な彼はジョニーにマグの片方を手渡した。まろやかなベージュの水面にミルクが微速にうずまいている。ミルクティーだ。
「ジャック……僕はどうしたらいいんだろう」
 渦巻きを目で追っているうちに、予期せぬ言葉がこぼれ落ちた。
 ジャックは片眉を吊り上げ、睨むような目でジョニーを見る。が、何も言わないところを見ると、一応続きを聞く気はあるらしい。
「百合子と少しでも長く一緒にいたくて、僕は今できる最大限のことをしてきたつもりだ。でも……最近はそのために彼女を泣かせてばかりいる」
「お前は」偉そうに腕を組みながら、ジャックは鼻を鳴らした。「……お前にできる最善を尽くしている。それは百合子にもわかっているはずだ」
「え」
「なんだその顔は!」
 だってあまりにも意外だったのだ。この、地球に俺以上の人間など一人もいないというような顔をして生きている男が、ジョニーのしみったれた泣き言にフォローを入れたことが。
 よほど惚けた顔をしていたらしい。ジャックは不満げに怒鳴り、ふと眠る百合子のことを思い出したようになって、罰が悪そうに舌打ちした。自分のマグを引っ掴み、熱いミルクティーを一気に喉に流し込む。
「百合子は無邪気だが考えなしではない」
 心なしかトーンの落ちた声がそんなことを言う。空になったカップをサイドチェストに置いて、ジャックは王が詰めかけた国民の前でするように、長い腕を鷹揚に広げた。
「そして、お前はいくじなしの大馬鹿だが、決して阿呆ではない。たとえ空回りしていたとしても、お前が百合子を想う気持ちはきちんと伝わっている。だからこそ、こいつは寂しくて泣くのだ」
「……」
「大切なのは結果ではなく、どれだけ相手を思い遣ったかだ。愛するがゆえに選び取ったことを、一体誰に責められよう」
 簡潔で、明朗なジャックの言葉が、ジョニーの肌をピアニストの指のように叩く。
 なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、ジョニーはジャックがくれたミルクティーを一口啜ってみた。甘い茶葉の舌触りに、彼の不器用なやさしさが滲みているようで、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。彼のような男性に一心に愛される遊星は幸せだ。
「うん。ありがとう、ジャック。怖い人かと思ってたけど、君って意外とやさしいんだ」
「フン……」
「じゃあ、僕は行くね。百合子のこと、よろしくお願いします」
 最後の一滴とばかりに妻の唇に吸い付いてから、ジョニーは名残惜しくベッドを離れる。
 鞄を下げ、寝室を出ようとしたとき、思いがけず、後ろから呼び止められた。
「ジョニー」
 ジャックだ。振り向くと、まっすぐにこちらを見つめるすみれ色の目と視線がかち合った。
 傲慢な王の顔を引っ込めて、ジャックは静かに微笑んだ。咲き溢れる冬の花の中で、この人は、いやに透明な存在のように見えた。
「百合子の手を離すな。何があっても……やつには、もうお前しかいないのだ」
 その言葉は遺言のようだった。でも、それが本当に最後の別れになるなんて、いったい誰に想像できただろう?

 

 痛い。
 痛い。痛い。……痛い。
 うまく呼吸ができない。痛くて苦しくてもがいても、身体が灰色の鉛になったかのように重たくて、思うように動かせない。小さくて透明で冷たくて、鋭い歯を持った生き物が、わたしの全身を這い回っているのだ。手も足も、胃も、腸も、骨も神経も肉も皮膚も、脳も子宮も、あらゆる場所に取り憑き、牙を立てて、わたしの全てを食い潰そうとしている。わたしをわたしでなくそうとしている。
 このままでは、愛おしいあの人のことも忘れてしまう。
 ……あの人はどこ?
 名前を呼んでも返事がない。温かな抱擁も、やさしいキスもない。涙が次々に溢れてきて頬を濡らすけれど、拭ってくれる人はどこにもいない。わたしは真っ暗な夜の闇の中にひとりぼっち。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続けている。一匹が、その小さな体をうねらせながら、膣の中に入ってきた。気持ちが悪い。嘔吐感を必死に喉の奥にとどめながら、わたしは必死な思いで膣に指を入れ、その一匹の居場所を探った。指は何の手応えを得ることもなく、ただ濡れた肉の壁を左右に擦る。気持ちいい。
 気持ちいい。痛い。痛い。気持ちいい。気持ちいい。
 わたしの膣は、自分の指にあの人の幻想を結びつけて濡れていた。あの人はわたしを抱くとき、いつもやさしく時間をかけて入り口をほぐしてくれる。指を入れてすぐの硬い部分から、ひだの立つ天井部分、緩やかに広がった奥の空間。ゆるく勃ち上がったクリトリス貞淑ぶって小さく縮こまる尿道口。指の腹のざらついた部分で、あの人を求めてぐずる粘膜をくまなく愛撫する。あの人がいつもしてくれるように。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続ける。わたしの指は、敏感で弱気でかわいそうな女の器官を慰める。痛みからか、快感からか、わたしの唇からは湿った呼吸がひっきりなしに漏れた。
「あ……お、っひ、あっ、あっ、あっ」
 苦痛と歓びがないまぜになる。寂しくて、訳がわからなくて、わたしはさらに泣いた。

 ひとつのまばたきののち、わたしは素敵な花畑の中に立っていた。
 生き物も、夜も、みんななかったみたいにきれいな花畑だった。白くて可憐なスノードロップ、慎ましやかなチューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、池には小ぶりな睡蓮の花が浮かび、灌木の枝には花蘇芳がいっぱいについている。花びらと小さな葉の向こうには、ハートや星の模様がついたウサギのぬいぐるみが、小さな身体で転がって遊んでいる。空は薄い紫とピンクの混ざったかわいいパステルカラーだ。
「わあ……!」
 嘘みたいだ。痛いのも苦しいのも、気持ちいいのも、みんなどこかに消えてしまった。残ったのはうきうきと高鳴る心と、分不相応に軽やかな身体だけ。
 楽しくて、舞踏会のお姫さまみたいにくるりとターンすると、次の瞬間にはわたしの身体はかわいいドレスに包まれていた。胸元には薔薇の飾りと大きなリボン、腰から足元までをたっぷりと華やかに彩るフリル。健康そうな腕を覆う上品なイリュージョンレース。左手の薬指にきらめくのは、王子さまがくれた金の指輪だ。踵を上げると、キラキラと宝石のように輝くピンクのガラスの靴が、足にぴったりはまっているのに気がついた。
 頭がふわふわする。ゆらゆらする。楽しい。楽しい!
 ちぐはぐなワルツを踊りながら、ウサギたちに近づく。ステップを踏むたびに花は潰れてしまうけれど、仕方のないことだ。
 ウサギたちは、わたしに気づくと、ぴょんぴょん跳ねながら挨拶をした。それから、彼らの向こうに鬱蒼と茂る、深い森の中を指し示す。
「どうしたの? なにかいるの?」
 光るきのこや奇妙にねじ曲がった木々の中。こちらに背を向けて、誰かが立っている。白い軍服に青いベルベットのマント。スラリとした長身。あの人だ。わたしの、王子さま!
「ジョニー!」
 ウサギたちの群れをかき分けて、わたしはあの人に駆け寄った。彼は、まだわたしに気づいていないようで、その横顔に悲しい空気を漂わせている。でも、もう大丈夫。だってわたしがついているもの。
 彼の背中に飛びつこうとして、不意に、ドレスの裾を後ろに引っ張られた。
 振り返る。裾に噛み付いてわたしを押しとどめたのは、金色の毛の、ネコのぬいぐるみだった。すみれ色の二つの目がわたしをじっと見ている。鋭い犬歯が、裾のフリルにしっかりと噛み付いている。
「……、むー」
 ひどい。あの人のもとに行こうとするわたしを邪魔するなんて。
 わたしはしゃがんで、ネコと視線を合わせた。そうして、両手でその身体を持ち上げる。ネコの身体は、思ったよりもずっと重くて大きくて、ずっしりしていた。向けられた視線に困惑が混ざる。
「悪い子には、おしおきですよ!」
 そのとぼけた額を、軽く指で爪弾く。
 すると、ネコのぬいぐるみはポンと煙を立てて消え、代わりにたくさんのキャンディが降ってきた。カラフルな包み紙を纏った、さまざまなフレーバーのキャンディ。いちご味、レモン味、ソーダ味にミント味。もちろん、ミルク味も忘れてはいけない。
 すごい、すごい! ここのぬいぐるみたちは、弾くとキャンディになるのだ。試しに一粒口に入れると、甘くて、ちょっと酸っぱくて、とても幸せな味がした。わたしは嬉しくなって、あの人のもとに行くことも忘れて、ウサギたちの方に踵を返した。
 くるくる踊る。夢見心地のダンス。ウサギたちもみーんな弾いて、キャンディにして、そうしたらあの人は、……わたしを抱きしめてくれるだろうか。

 ずるずると黄色い脳髄を啜る、神経をちぎって貼り合わせて、ばらばらになった骨は深海魚の夢の中、くらくらと血管を漂いわたしは果てを散歩する、あの人とたったひとつのいのちを分け合ったような気分になるのはなぜ、つよくておおきくてずっとこわかった彼がこんなにも弱くて脆くて矮小な存在だとわかってわたしはうれしくなった、わたしはずっと彼を慕いながら心の底で恐れていたいつかわたしからみんな奪い去ってしまうのではないかと、ああ、あの人も、兄さんもおとうさんもおかあさんも、わたしは臆病で、あの人の首筋に巻きつくわたしの腕はただの木偶だ、彼は背が高くて勇気があって美しかったから、でもわたしのほうがずっと強くておおきくてそう、神秘を戴き得る器など人間の中にはひとつとしてないのだ、花束は、あの人の死。官能。嫉妬。束縛。永遠。憂鬱。滅亡。裏切り。わたしはずっとずっと〈わたしたち〉に喰らわれる痛みと苦痛に耐えて鋭い牙とささくれた鱗とで引き裂かれ食いちぎられなんどもなんどもなんども、いつかいとおしくてだいすきであの人を食べてしまうかもしれない、風船みたいに膨らんで破裂する、からだはぼろぼろ、こころはゆらゆら、これは報いだ 握《あく》 ああ、彼の命はこんなにもおいしい……

 

 今日は夕方で上がれたので、寂しい思いを我慢している百合子のためにお菓子でも買って帰ろうと、なじみのベーカリーに立ち寄った。ショーケースの前に見覚えのある背中がいると思ったら遊星だった。ビニエとエクレールで一時間も迷っていたらしい。考えることは一緒だ。
 秘密会議の末に選ばれたいちごのエクレールを携え、二人は家路につく。冬のパレルモは空気が重く、冷たい。エトナ山はすでに純白の雪化粧を終え、山頂から吹き降りる颪で街路の木々もすっかり丸裸だ。今にも降り出しそうな曇天や、人々の着込む寒色の上着などのために街の雰囲気もどことなく暗く、市場に売り出されたカターニア産のオレンジの色だけが、滑稽なほど明るく陽気だった。
 ロングコートの襟を胸の前に集めながら、遊星は耐えられないといった様子で身震いする。
「正直なめていた。シチリアは地中海性気候だからと……こんなに寒いと思わなかった……」
「君の国よりは暖かいと思うけど」
「寒がりなんだ。いつもなら、冬は家から一歩も出ないことにしているんだが」
「そんなので生きていけるの」
「ジャックが全部やってくれる」
 つぶやく横顔は思慕に緩み、百合子によく似た青い瞳も、美しい恋人への誇りに精彩を帯びていた。耳がほのかに赤いのは、凍えるような寒さのためか、羞恥のためか。
 遊星のかすかに青い唇が、白い煙を吐き出した。
「これはお前にだから言うことだが、百合子が治ったら、彼にプロポーズしようと思っている。俺には花も宝石もわからないが、薔薇をかかえるほど買って、大きなダイヤモンドの指輪を用意して、彼の行きつけのレストランで……今まで俺や百合子のためになんでもしてくれた彼だから、今度は俺が、お前のために全てを捧げると、そう伝えたいんだ。彼を愛してる。彼が心から笑ってくれるなら、俺は身体も心も、命だって惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。なあ、それはお前も同じだろう、ジョニー」
 ジョニーは頷いた。その通りになれば良いと思ったのだ。

 家に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 大きなマホガニーの扉の、古風な鍵穴にキーを刺して左に回す。軽快な音を立てて錠が外れ、先に遊星が、後からジョニーが玄関に入った。
「ただいま、百合子」
 暗い廊下に向かって声をかける。返事はない。
「……百合子? ジャック?」
 ジョニーは凛々しい眉をぎゅっと寄せた。妙に静かだ。何か、何か嫌なものが、薄暗がりの向こうに息づいている。それはかすかなものだったが、百合子が倒れた時に似た、暗澹とした、重く不吉な予感だった。ジョニーの脳裏に、祖母の葬儀をあげた時のことがよぎる。これは死の匂いだ。家の中で、何かが終わったのだ。
 不思議そうにしている遊星に構わず、ジョニーは薄暗い玄関をつぶさに観察した。右手には、翡翠のミニテーブルに下向きに咲く鈴蘭をモチーフにしたスタンドライト、靴やコート類を収納するためのクローゼット、こちら側に取り付けられた硝子の両開き扉には冷や汗をかくジョニーの顔がぼんやりと映っている。左手にはレモンの鉢植えに青いリンドウの飾りをあしらった壁掛けの鏡、客間に繋がる扉。大理石の廊下を挟んだ奥には、三階までを突き抜ける螺旋階段。
 いつもと変わらない、夕方から夜にかけての廊下だ。
 ……いや。やはり何かが違う。息をつめて、注意深く周囲を検分していたジョニーは、螺旋階段の死角からスッと伸びた真っ白な素足をとらえた。
 死人のように真っ青な顔をしてジョニーを見下ろすのは、百合子だった。彼女はいつものネグリジェにカーディガンを引っかけた姿だったが、その表情や手足にはまるで存在感がなく、おとぎ話の妖精や精霊の類を思わせた。ほどけた髪のつやはブラックオニキスの輝きを思わせる。小さな爪の一つ一つは桜貝の色をして、それがことさら、彼女の雰囲気を天上のものにした。百合を抱えた聖母のステンドグラスから落ちる虹色の光が、彼女の髪や肩の上で幻想的に踊る。
「百合子」
「ジョニー……」
 震える唇がジョニーの名を呼ぶ。その瞬間、彼女の足はつるりとした段板を踏み外し、前のめりに倒れこんできた。遊星が息を呑む。反射的に身を乗り出したジョニーの腕がかろうじて彼女を受け止めたが、彼女は全身をこわばらせ、ひどく怯えていた。小刻みに痙攣する身体と、過呼吸気味の浅い呼気が、彼女の身に何かあったのだと如実に語っていた。
「ジョニー、ジョニー、お願い、わたしを愛していると言って」
 青ざめた頬を、涙が流星のように迸る。
「ああ、愛してるよ、百合子。一体どうしたっていうんだい?」
「ごめんなさい。わたしを許して。わたしを……わたしを殺してください」
「な、何を言っているんだ!」
 妹の恐慌から何かを悟ったらしい遊星が、エクレールの袋を放り投げ、ジョニーの横をすり抜けて階段を駆け上がった。だが、妻の口から訳のわからない願いを聞き取ったジョニーはそれどころではなかった。今、彼女は何と言った?
 殺すだって?
「時間がないんです。早くわたしの左胸を、心臓を貫いてください。これで……」
 百合子の左手にはいつの間にか透明な小剣が収まっていた。透き通る刀身は、光を浴びて鋭利に輝き、まるで水でできているような印象をジョニーに与えた。彼女は、それをジョニーの手の中に必死に押し込んだ。
「早く……」
「だめだ! 君は僕の妻だ。たった一人の愛する女性(ひと)だ。その君を、僕が殺せるわけないじゃないか。ね、まずは落ち着こう。何があったのかちゃんと聞かせてくれないかい? ジャックはどこ?」
「ジャックは……」
 出し抜けに、階上から絹を裂くような絶叫が上がった。
「ジャック? ジャック……ジャック、ジャック!」
 遊星だった。必死にジャックの名前を呼んでいる。
 動悸が激しく鳴る。不幸の兆しが、無情にもジョニーの頭上に降りてくる。ジョニーは百合子を抱えたまま、一段飛ばしで三階を目指した。

 花が散っている。無惨にもむしられ、茎を折られた花々の死体が、ベッドや絨毯の床に折り重なるようにして乱れている。スノードロップ、チューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、小さな水瓶に浮かべてあった睡蓮は器ごと破壊され、花蘇芳の枝はこれ以上ないというほどに踏み潰されている。
 ベッドに倒れ伏すような形で、ジャックは眠っていた。はじめは……眠っているのだと思った。鎧をつけたような、大きく、引き締まった身体には傷ひとつなかったし、男性らしい流麗な顔に浮かぶのは、まるで楽しい夢でも見ているかのように安らかな微笑みだった。
 しかし、ジャックの手首を握りしめた遊星の顔は真っ青で、只事ではない様子だ。ジョニーは彼に近づいて、同じように首に触れてみた。
 氷のような冷たさだった。もう死んでいる。
「時間切れです。残念ですね、ジョニー」
 不意に、血も凍るほど冷ややかな声が、ジョニーの右耳に囁いた。
 はじめ、ジョニーはそれが誰の声なのかわからなかった。聞き覚えのある声ではあった。しかし、彼女は……いつもジョニーに対して善意とやさしさに溢れていて、とてもこんな声を出せるような女性ではないのだ。痛みや辛さを泣きながら訴えることはあったが、このような、感情のない平坦な声で話しかけてきたことなど一度もなかった。
 だが……ジョニーが彼女の声を聞き間違えることなどありえない。どんなに混雑した人ごみの中でも、耐え難い混乱の中にあっても、ジョニーは彼女の声をはっきりと聞き分けることができる。きっと今回も例外ではない。だから、彼女が発する言葉の意味を理解するより先に、ジョニーは反射的にその人の名前を呼んでいた。
「百合子……?」
 それはジョニーの腕に抱かれた百合子の声だった。
「なんて甘くて、お人好しで、無知な人間なんでしょう。命乞いも忘れてゾウの足の裏を見上げるちっぽけな蟻みたい。でも大丈夫。あなたは食べないでいてあげます」
 先ほどまで震えながらジョニーに許しを乞うていた彼女などはじめからいなかったみたいに、百合子はジョニーの腕から離れ、立ち上がった。いとも簡単に。
 まるで、身体を病む前の、健康だった彼女が戻ってきたようだった。しかし、その口元には嘲りと退屈にひきつれた冷笑が浮かび、眉根は性根の悪そうな釣り上がりを見せていた。別人のような変貌ぶりだが、それでも、可憐で楚々とした顔のパーツや、蒲柳の身体はジョニーの知る百合子そのものなのだった。
 言葉を失った二人の男の前で、百合子は腕を広げ、歌うように朗々と語り始めた。
「ジャックの行方が気になりますか? ここです。わたしのお腹の中で、骨も肉も破壊しつくされて、痛くて泣きながら蹲っていますよ」
 細く尖りを見せる四本の指が、自らの薄い腹を撫でる。
「……冗談じゃありません。兄さん、わたしは、ずっと彼を食べてしまいたいって思っていたんです。強くて、大きくて、とっても美味しそうだなって……はい、彼はほんとうに美味しかった。暴れるから飲み込むのがちょっとだけ大変でしたけれど、肉が厚くて、やわらかくて、彼に愛されている兄さんがちょっと羨ましくなっちゃいました。それに、ふふ、その顔……やさしくて親切で頭の良い兄さんの、何が起きているのかわからなくて、現実が受け入れられなくて、ただ呆然とするしかないっていう哀れな顔、ずっと見てみたかったんです。お願いが一度に二つも叶うなんて、わたし、とっても幸運な女の子ですね」
「百合子、——百合子! お前がやったのか! ジャックを……お前が、殺したのか!」
「ええ」
 あまりにも冷たい宣告だった。
「だって……彼が、悪い子だったのがいけないんですよ? わたしはいやって言ったのに、引き止めようとするから……」
 遊星は、彼の理知的な目を限界まで見開き、口を開いたまま絶句した。下瞼のふちから、怒りと絶望のための涙が一筋こぼれ落ちる。
 そんな彼を、百合子はひどく醒めた目で一瞥すると、くるりと背を向けて寝室を出ようとした。
「……どこへ行く」
「あなたには関係のないことです、兄さん」
「行かせない……行かせない!」
 ジャックの身体を抱きしめていた遊星が立ち上がり、百合子の背に飛びかかる。
 百合子は軽やかに振り返り、兄に向かって右手を突き出した。繊細な指がものを掴む形になり、何かを左に捻り上げる。すると、触れられてもいなかった遊星の左手が勢いよくねじれ、かと思えば、手首が通常ではありえない方向に折れ曲がった。骨が折れ、筋肉が引きちぎられるぶちぶちという音が立つ。遊星が悲鳴をあげ、左手首を庇って床に崩れ落ちた。
「ぐ、あ……」
「邪魔しないでください。かわいそうな兄さん、食べるのは最後にしてあげようと思ってたのに。今、死にたいんですか? 残念ですけれど、わたし、もう今までの小さくて弱いわたしじゃないんです……兄さんに守られていたお姫さまは、もういないんです」
「ゆ……百合子……」
「ああ……わたしを殺すつもりだったんですね。ばかみたい、だからあなたはだめなんです。やさしい〈わたし〉があげたチャンスをふいにしたくせに、自分に都合が悪くなった途端に……悲しい。悲しくて笑いが止まりません。知ってますか? わたし、兄さんが大好きでした。今も大好き。自己中心的で、矛盾だらけで、何もかもを選ぼうとして全てを取りこぼしたばかな兄さんが大好き!」
 小さく可憐な白い蕾は、無差別に毒を撒き散らす害花として開花した。百合子は、苦しむ兄を見下ろし、実に愉快そうに微笑んだ。
「さようなら……兄さん」
 ふと、ジョニーが愛してやまなかったあの青い海の瞳が、言葉を失って立ち尽くす夫の姿をとらえた。
 ジョニーは息を呑んだ。ジャックを殺し、兄を傷つけた女の瞳に満ちていたのは、狂気でも快楽でもなく……そこ知れぬ悲しみだった。悲痛なまでの孤独、苦痛に膝を折った悔恨だった。小さな宇宙を閉じ込めたような瞳孔や、彗星の尾を思わせる透き通った虹彩は、確かにジョニーの知るやさしい彼女のものだ。何かを言いたげに開かれた唇は後悔に戦慄いていた。大切なおもちゃを誤って壊してしまった幼子の哀情、愛するものに否定された少女の辛苦。
 彼女は、ジョニーに何かを訴えている。
「忘れちゃいやですよ、ジョニー。わたしを追いかけてきてください。……果てで、待っています」
 それだけ言うと、彼女は踵を返し、今度こそ振り返らないまま部屋を出ていった。暗黒に放り出された気分だった。

 絶望は、何も人間を死に駆り立てるだけのものではない。死を選ぶということは、つまり、何かを望むだけの希望が残されているということなのだ。本当の絶望は、人を逃避させる。現実から、自分の感情から。
 必死のジョニーに声をかけられている間も、駆けつけたパラドックスに手首を治療されている間も、遊星はジャックの死体を抱えて呆然としていた。
「あれは百合子じゃない。百合子は、あんなふうに笑ったりしない」
 時折そんなことを口にし、彼は微笑みとも泣き顔ともつかない表情をその顔にのぼらせるのだった。
 治療を終えたパラドックスが寝室から出てくる。遊星は、百合子が使っていた鎮静剤を打たれて眠ったらしい。ジョニーがソファに座ってニュース番組を見ていると知ると、彼は白衣を脱ぎ、ネクタイを緩めながら隣に腰掛けた。
 ——シチリア全土で、突然意識を失い倒れる人が続出している。昏睡状態にある人々の既往歴や生活習慣に目立った共通項は見られず、無差別的な発症であると考えられる。ほとんどの医療機関は詰めかけた大勢の患者家族で機能不全に陥り……
「君の細君はあの男を食ったと、そう言ったのだな」
「うん」
 画面から視線を外さないまま、ジョニーは顎を逸らして肯定の意を示した。
「であれば、シチリア中で住民の意識消失を起こして回っているのも、おそらく彼女だろう。だが、動機も目的も、その手法にも、さっぱり検討がつかん。医者は合理的な生き物だ。道理に反する現象については滅法弱いのだ」
 言いながら、パラドックスはポケットから取り出したミントガムを二つも三つも口に放り込んだ。仕事柄煙草を吸えない彼は、ミントの刺激で冷静かつ明朗な思考を保っているのだ。
「十代……僕の友だちが、彼女は人間じゃないって言ったんだ」
 が、ジョニーの一言に、彼は再び冷静さをどこかに放り出してしまった。
「……は?」
「いや……人間ではあるんだけど、体の中に人間じゃない何かを飼っていた、生まれてから、ずっと。そいつは人間としての百合子を食い潰して表に出ようとしていた。きっと、それが叶ってしまったんだ」
 あの日、ジャックから聞いた百合子の出自、そして十代から聞いた真実を絡めて紐解く。
 百合子は、(規制)という名の神秘の生き物の遺伝子を、人間の受精卵に打ち込むことで生まれたあいの子だ。彼女は、人間にはありえない特徴を持ちながらも、おおむね人間と同じ形のものに成長した。しかし、一方で、その身体や精神は(規制)によって絶えず冒され続け、そのために彼女は常に苦痛の中にいた。そして今日、(規制)の領域が本来の人格を上回り、彼女は恐ろしい怪物に豹変した。
 おそらく、彼女はぼろぼろになった身体を修復する力を得るために、シチリア中の人間の命を吸い取っている。そして……ジョニーにそれを止めてもらいたがっていた。彼女は最後まで自分を食い止めようとしていた。自分の命を犠牲にしてまで。
 そうだ、やはり彼女は変わってなんかいなかった。恐ろしい異邦のものが身体を支配する後ろで、彼女は必死に抵抗を続けているのだ。
「ジョニー、君、何を言っている?」
「信じられないよね。でも……多分本当のことだ。でなければ、この国のどの医者も彼女の病気を突き止められなかったのはなぜ? 彼女が傷ひとつつけずにジャックを殺せたのは? 僕たちの常識では、彼女の周りで起こる出来事に説明をつけることができない」
 怪訝そうな様子のパラドックスを尻目に、ジョニーは頭を抱えた。どうしたらいいのかわからなかった。このまま人々が死んでゆくのは見殺しにできない。でも、彼女を……やさしい彼女をこの手にかけることだけは、してはならない。そんなことをすれば最後、ジョニーの魂は死んでしまうのだと思った。

 ……どれだけの時間が経っただろうか。放心した耳に、表のベルが鳴る音がかすかに届く。
「来客か」
「こんな時に誰?」
 シチリア中が混乱に陥っている今、呑気に訪ねてくる人間が果たしているものだろうか。ジョニーの脳裏に百合子の姿がよぎるが、その可能性はすぐに打ち消される。彼女は待っていると言っていた。ジョニーの方から出向かない限り、彼女に会うことはできない。
 ジョニーは期待の眼差しでパラドックスを見たが、彼は潰れたエクレールの本懐を遂げてやることにご執心だ。重い腰を上げ、一人で部屋を出た。階段を降り、廊下を渡って玄関にたどり着く。鍵はかけていない。彼は気乗りしない気持ちのまま扉を開けた。
 女の子のように伸びた赤毛。生意気そうな少年の顔つき。
「やあ、ジョニー君。相変わらずしけた顔してんな」
 立っていたのはルチアーノだった。
 緊張していた心の糸が弾けて、彼の全身を脱力させた。仕方のない話だ。刑事か、悪魔か、世界の終わりかと覚悟して開けた扉の向こうにいたのは、近所に住むありふれた悪ガキだったのだ。重たく湿ったため息とともに、つとめてやさしく、理性的に聞こえる口調で、彼は少年を諭しにかかった。
「……ルチアーノ。悪いけど、今はつまらない言い争いをしている場合じゃないんだ。君も早く家に帰って、お父さんお母さんと隠れていた方がいい」
 お父さん、という単語をジョニーが持ち出した瞬間、彼はこの上なく意地悪に、また上機嫌に口の端を吊り上げて、笑った。何も知らないくせに偉そうなこと言うな、とでも言いたげな笑顔だった。
 彼はジョニーの胸を指で乱暴に突いて、「そう言うなよな。あんたに今一番必要なものを、あの人から預かってる」
「あの人」
「ボクの師匠。くそ、いつもならこんなこと絶対しないんだからな」
 光の中で、白衣の裾が翻る。ちぐはぐな長さの二本の足が軽快に床を蹴り、赤い背中が振り向いて、彼女は不敵な笑みで——うまくやれ、ジョニー。
 ルチアーノが差し出したのは、一枚のカードだった。
 息を呑むジョニーを、やけに真っ直ぐな目で見上げながら、彼はこんなことを言った。
「幾重にも分岐した運命の、不確定の枝々の中で、漂っていたボクはあの人に拾われた。このままじゃかわいそうだ……そんなことを言いながら。何もかも諦めた、人間なんて大嫌いだ、って目をしてるくせに、ボクみたいな子供には甘いんだ。破綻してるよな。
 さて、今あんたに必要なのは、人類の敵になってしまった女を殺し尽くして、その灰を海に撒くための切り札だ。人間の皮を脱ぎ捨てた彼女は、もう何ものにも殺されない。誰にも止められることなく、満足するまで人間を食い散らかして、最後には愛する男すら本能のままに咀嚼して一人になる。結婚式のとき、自分が何を誓ったか覚えてるか? 彼女を守ると誓ったんじゃなかったか? この世界の全てを征服して、たった一人になった彼女の心は……どうなるだろうな。ジョニー、彼女が辿ることになる最悪の運命から、彼女を守るには、道は一つしかない。奇跡にはそれを凌駕する奇跡だ。
 彼女を殺せ。あんたにしかできない」
 舞い散る白い花びらの向こうに広がる、やさしい春空を描いた美しい金色のカード。〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。人間を愛した結果、怪物になってしまった女神に終焉を運ぶ運命のカードだ。
 はじめて触れてみて、ジョニーにもわかった。見知らぬ誰かが、多くのものを犠牲にして作り上げたものなのだ。この一枚に、世界すら滅ぼしうるほどの強大な力が込められている。カードを構成する一つ一つの要素が、たった一つの指向を持って、力を解き放つその瞬間を粛々と待っている。ジョニーがひとたび、願いさえすれば、これはすぐさま発動条件を満たし……百合子の心臓を確実に仕留めるだろう。彼女の魂は粉々に破壊され、二度と戻らなくなる。輪廻の輪に乗ることもなければ、転生することもない。
 拳を握り込む。胸の内側が冷え冷えとざわめく。十代にも、既に忠告されていたことだった。どちらにせよ殺すことになる、彼女はそう言った。
 選べなかったジョニーの前には、道は一つしか残されていないのだ。

 はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
 笑う百合子の、美しい顔がよみがえった。それから、拗ねて怒る顔、愛してると言われて泣いてしまった顔。はじめて手を繋いだときの、心地よい緊張。一緒に海に落ちた時に見た不思議な半透明の四肢。起き抜けに飛ぶ鴎に弾けた歓声。浜辺に踊る繊細な身体。食べてほしいのだとこぼれた涙。心地よい夜闇の中で絡んだ指先。
 潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ……。
 ——大好きです、ジョニー!
 出会ってから七年間、百合子はたくさんのものをジョニーにくれた。自分は何も返せないままだ。あろうことか、苦しむ彼女をさらに追い詰めて、死の淵に追い遣ろうとまでしている。
 自分はひどい男だ。意気地なしで大馬鹿で、阿呆な夫だ。熱い涙がとどめなく溢れ、こちらを見上げるルチアーノのやわらかい頬にぽたぽたとこぼれた。一粒一粒が百合子への激情だ。百合子。百合子。百合子。百合子……
 百合子を愛している。大好きなのに、何もかもうまくいかない。
 ルチアーノは、半ズボンのポケットからハンカチを取り出して、ジョニーの涙を拭ってくれた。らしくもなくやさしい仕草だった。
 やわらかい無垢な子供の両手が、ジョニーの右手を包み込む。
「泣くなよ、ボクがいじめてるみたいだろ。パパ……」

 

 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 少年は父親と繋いでいた右手を離し、舞い落ちる花のひとひらをふっと捕まえてみせた。立ち止まり、期待のうちに幼い指を開く。一枚だけだと思っていたが、よく見ると、薄い花びらが二つ連なって、彼の手のひらの上につんとすましていた。母親が口の端を緩やかに持ち上げて、彼の左手をやさしく握り込む。
「それ、食べられるんですよ」
「え!」少年は驚いて、二枚の花びらをまじまじと眺めた。「本当?」
「本当ですよ。ママの国では、花びらを塩に漬けて、甘いパンの上に乗せて食べるんです。あとは……お湯に溶いて、飲み物としていただくこともありますね」
「あんまり美味しくなさそうだけど」
「馬鹿にするなよな。ママのサクラアンパンは美味しいんだぞ。ルチは食べたことないから知らないだろうけど」
 繋いだ手を離されて不満げな父親が、子供のように拗ねて言う。母親は呆れたように肩をすくめるのみだったが、少年はまだ幼かったので、売られた喧嘩は買わなければ死ぬとばかりに父親に噛み付いた。
「いいもん、別にさ。パパのバカ。それより、ねえママ、ローストビーフ作ってきてくれた?」
「ええ、もちろん。今日はルチの誕生日ですからね。食べたいだけ食べていいんですよ」
 持っているバスケットを掲げて、母親は得意げに胸を張った。少年はたちまち飛び上がって、勢いよく母親の腰に抱きついた。勢いに耐えられず後ろによろめいた母親の身体を、父親があわてて受け止める。
「ほんと! ママ、大好き!」
「百合子……ルチが好きに食べたら、僕の分がなくなっちゃうんだけど……」
「ボクの誕生日パーティーなんだから、全部ボクのなのは当たり前だろ?」
「まあまあ。ジョニー、今日くらい良いじゃありませんか」
 親子は遊歩道脇に手頃な芝生を見つけて、その上に大きなシートを敷いた。中央に座った少年の目の前に、母親が腕を振るって作った宴会料理の数々が並べられる。父親が急いで買ってきたホールケーキも一緒だ。
 ケーキの上の、いちごの間を縫うように刺さった五本のろうそくに火が灯された。両親の歌に合わせて、少年が息を吹きかける。火がみんな消えてしまうと、二人は一斉に拍手をし、小さな少年の身体を思いきり抱きしめる。
 母親のやわらかい唇が、少年の、興奮で上気した頬にもたらされた。
「お誕生日おめでとうございます、ルチアーノ。パパとママの子供に生まれてきてくれてありがとう」
 父親も、照れくさそうな笑顔を浮かべながら、反対側の頬に同じように触れた。
「誕生日おめでとう、ルチアーノ。パパとママは、おまえのことをずっとずっと愛しているよ」
 少年は……幸せだった。幸せすぎて、明日には世界が終わってしまうのではないかと思うほど。

 それは食らった誰かの記憶だったかもしれない。あるいは、ジョニーと百合子には本当にそんな未来が用意されていたのか。どちらにせよ、百合子には関係のないことだ。だってもうすぐ死ぬのだから。
 闇の中で、百合子は耳を塞いで蹲っていた。口に押し込んだ人々の魂が彼女に囁くのだ……呪いを、怨恨を、憤懣を、悪念を。外に出ようと喉を遡る彼らを、彼女は自らの首を絞めることでなんとか抑えようとした。人の魂を食らうことは、古来から(規制)の習性、そして傷つき朽ち果てた彼女の身体を維持するためには不可欠なことだった。
「いや……怖い、です……ジョニー、ジョニー……」
 愛する男の名前を呼ぶ。
 もうすぐ彼は、魔女から譲り受けた滅びを携えて、百合子のことを殺しにくるだろう。わかっている。悪役は正義の味方に成敗されるものだと決まっているのだ。今思えば、百合子がジョニーを愛して、彼の元に嫁ぐ決意をしたのは、この日のためだったのかもしれない。やさしいジョニー。ひたむきに百合子を愛しながらも、人々を苦しめる悪いものをを見逃すことなどできるはずもない、誠実で美しいジョニー。
 涙が溢れて止まらないのに、唇はひとりでに微笑みの形をとる。
「……いいえ。怖がることなどありません。だって……全ては彼と生きるため。そのための食事、そのための犠牲です。当然でしょう? 今まで散々わたしのことを苦しめた世界。今度はわたしが、痛くて怖くて泣いてしまうほど、辛い目に合わせてあげます」
 思えば、自我を獲得したその時から、百合子は耐えず苦痛にさらされてきた。薄っぺらく壊れやすい人間の肉体に内包された大いなる矛盾。双方がお互いの領域を守ろうと争闘し、それが幼い少女の肉を、骨を、精神を、容赦なく引き裂き、傷つけてきた。
 魔女は彼女に、人間として生きろと言った。やさしい両親とやさしい兄は、彼女を人間として受け入れた。だから彼女は空腹を訴える内臓の痛みを、人間の部分を侵略しようとする何かの蹂躙に抵抗し、なんとか形のある理性を保ってきた。魔女にも、家族にも、感謝こそすれ恨みなどかけらもない。しかし、人間であろうとする限り、彼女はやはり激しい倒懸から逃れることはできなかった。
 そこに、ジョニーが現れた。闇夜にきらめく流れ星のような人。
 ジョニーは誰にでも親切で、善良で、清廉だった。でも、彼女には特別やさしかった。いつもひたむきに、まっすぐに彼女のことだけを見つめてくれた。そっと抱き寄せてくれる腕は温かくて力強くて、彼は彼女を泣き虫だなんて笑うけれど、彼の胸の中ではじめて、彼女は痛み以外のために泣いたのだ。涙を拭ってくれるとき、彼は天使のようにやさしく、神のように偉大だった。
 彼にはじめての恋をした。心から好きになった。彼と生きることができてはじめて、人間として生きてきた自分が報われた。彼の隣にいられたら、痛みすら愛おしむことができた。
 彼に促されて顔を上げて、花の色が、かたちがとてもきれいなものなのだと知った。空の抜けるような青さを知った。雲は白くて、木の葉は透き通るような緑で、風は気持ちよくて、雨に濡れるのも彼となら悪くなかった。子どもは無垢で可愛くて、大人はみんな親切だった。教えられなかったらきっと知らずにいたことを、彼はたくさん教えてくれた。
 どうしようもなく意地悪な世界でも、それでも……ジョニーと一緒にいられる時はいつでも、本当に幸せだった。
 大好きだった。
「早く来てください、ジョニー……お願い来ないで……」
 寂しくて寂しくて、百合子は膝を抱え、声を上げて泣いた。もう一度やり直せたらどんなに良いだろう。

 

 どこかで泣いている声がする。寂しがりやで、泣き虫な彼女が、感じやすい子どものように泣いている。たった一人で。
 ただ、抱きしめてやりたいと思った。怯える肩を抱き、大丈夫だよと……たとえ彼女が世界でいちばんの悪党だったとしても、自分は彼女を愛しているのだと、わけもなく、そう伝えたかった。
 ジャケットだけを羽織って家を出ようとしていると、三階から誰かが勢いよく降りてきた。遊星だ。彼は包帯を何重にも巻き、ギプスまでつけた左手首を首から吊り下げた痛々しい姿だったが、眼だけは大きく見開かれ、針のような光がのぞいていた。頷いてみせる。
 もう真夜中もずいぶん過ぎた頃だというのに、パレルモの街は混乱と叫喚で溢れていた。雑然たる声が波のごとく起こり、沈み、また起こった。戦争でも始まったかのようだった。前触れもなく倒れた愛する誰かを必死に抱えた人たちが、病院に詰めかけている。訳がわからずに呆然と立ち尽くす人、狂ったように救急車《アンブランザ》を呼び続ける人、泣き叫ぶ子供。サイレンの音が遠くで鳴っている。
 ひしめき合う人々、身動きもできないほどの人混みを両腕でかき分けて走る。腕の痛みで遊星の足が鈍りはじめる。ジョニーはそのことを知ると、路地に入り、停車したタクシーの運転席で居眠りしていた運転手を叩き起こして、モンデッロ・ビーチに急ぐよう捲し立てた。
 百合子は果てで待っていると言った。それなら、二人のたどりつく場所は同じだ。

 風が潮騒とともに胸の中に吹き抜けてゆく。
 消え入りそうなほど遠くまで続く海原に、おぼろな薄明の桃や紫がほのかに横たわっている。波はくすんだ銀色の飛沫をあげながら、ゆるく、穏やかに打ち寄せる。波打ち際では、真珠のレース編みのように、みなわが花を咲かせていた。
 濡羽色の美しい黒髪がつややかに翻り、百合子がいる、と思った。
 百合子は家を去った時のままのネグリジェ姿で、その薄い生地が、光とともに彼女の真っ白な身体の輪郭を透かしていた。裸足のままずいぶんの間走ったのか、拵えた人形のパーツのようだった足が血まみれで、赤いのと白いのが、なまめかしさの均衡をうまい具合に保っていた。無害そうな、やわらかそうなうなじが、項垂れているために薄明かりの中で白く浮かび上がっている。途方に暮れたような横顔で長いまつげが羽ばたき、その度に青い影がやわらかく羽ばたいた。
「百合子」
 彼女が振り返り、ジョニーを見た。まばたきひとつせず、恍惚としたように、あるいは途方に暮れたように、まっすぐにジョニーを見つめた。
「ジョニー」
 花びらのように、薄く頼りない唇が、似合わない笑みの形をとった。
「……やっと来たんですね。遅いから、待ちくたびれてつい食べ過ぎちゃいました」
 はじめてキスをしたときも、彼女は泣いたのだ。ジョニーの胸に顔を埋めて、もう二度と離れたくないというような、やっと自分の居場所を見つけたのだというような、そんな必死さで……小さな手で濡れたシャツの背中を掴み、小鳥のように顫えながら、彼女はジョニーの唇からのやさしい愛撫を求めた。
 同じだ。顔では笑っているが、いま、きっと彼女は泣いている。 
「どうしたんですか? わたしを殺しに来たのでしょう。とぼけたみたいに突っ立って、何をしにきたか忘れたのですか?」
「どうしてこんなことをするんだ!」
 彼女を抱きしめようと腕を伸ばすジョニーに先んじて、遊星が咆哮した。
 ジョニーに向けた笑顔から転じて、末恐ろしくなるほどの無表情になった彼女が、羽虫にやるような視線を兄にやった。遊星の精悍な男の顔が恐怖に歪む。
「どうして、ですか?」
「ジャックを殺して、罪のない人間を死に追いやって、お前は一体何がしたいんだ! 何が目的だ!」
 遊星の激昂はおよそ彼らしくないものだったが、ジョニーも百合子も、そんなことには見当もつかなかった。
 小さな動物がするように首を傾げて、百合子は心底おかしいといった様子で吹き出した。口元を軽く押さえ、肩を震わせながら、喉の奥で押し殺した笑い声をあげる。
「決まっているじゃないですか。わたしにやさしくないこの世界に思い知らせてやるためです。愚かでかわいそうな兄さん……本当に何も知らないんですね。大切だなんて言いながら、本当はわたしになんて興味もなかったんでしょう? やさしい両親の愛を横取りするわたしが邪魔だったんでしょう? 当然ですよね、わたしは本当の妹じゃありませんから!」
「……」
「ばかな兄さんは知らなかったでしょうけど、わたし、人間じゃないんです。でも、同時にどうしようもなく人間で……この忌々しい矛盾は、わたしの身体、わたしの精神、わたしの心をずっと傷つけてきた。生まれてから今に至るまで、一瞬たりとも、痛くなかったことなんてなかった。起きていても寝ていても、痛くて痛くて、まばたきをするだけで痛くて……」
 笑っていたはずの彼女の表情はくしゃりと歪み、ぽつりと放り出されたような涙が一粒、彼女の下瞼からこぼれた。
「でも心臓は勝手に生きようとするんです。死のうと思ってナイフを喉に当てても、崖の上に立って飛び降りようとしてみても、どうしてもできなかった。どうしてかなって、こんなに辛くて苦しいのにどうして死ねないのかなって、あなたたちが来るまでずっと考えていました。いまやっと分かった。……あなたのせいです! ジョニー! あなたがいたから……あなたなんかに出逢っちゃったから!」
 百合子はもう、笑いも、泣きもしていなかった。純然たる激情だけがジョニーに差し向けられ、それは百合子の右手をどうしようもなく突き動かした。細くたおやかな指が……ジョニーの手を握り、ジョニーを抱きしめ、ジョニーを労ってきたあのやさしい指が、いま、彼の命を奪おうと伸ばされる。
 でもうまくいかなかった。震えて、指を握り込むことができないのだ。彼女は自らの腕を制御しようと必死に歯を食いしばりながら、それでも目の前の無力な男一人殺すことができず、もどかしそうに首を横に振った。
「いや……どうして? どうして、どうして!」
「ジョニー」遊星が抑揚のない声でジョニーを呼ぶ。「彼女を殺せ」
「遊星!」
「分かっているだろう、ジョニー!」
 遊星の絶叫は、獣が遠吠えするのにも似て、深い怨恨を帯びて響いた。それなのに、眼差しはいやに透徹だ。ジョニーの鼻の先に、ジャックとの最後の別れの瞬間が鮮烈によみがえった。
「あれはもう百合子じゃない! 百合子はもういない! 百合子は……百合子はあんなふうに、笑いながら命を弄んだりしない!」
 百合子が怒りとともに兄を振り返り、震えていた右腕をまっすぐに伸ばした。今度は、ためらいも加減もなく、ただ兄の命を捻り潰すべく、彼女の優美な掌が開かれる。

 

 妹と本当にわかりあうことができるのは、死のその瞬間だというほのかな予感があった。
 十二歳のとき、はじめて彼女と出会って、右手と右手で握手して、ふとその感覚を得た。握った手のひらは、朝方の濡れた砂浜のように冷たく、すべらかだった。
「はじめまして、遊星さん。これからどうぞよろしくお願いします」
 母に肩を抱かれた妹は、奥行きのある青い目にためらいと恐怖を漂わせながら、折り目正しく遊星に頭を下げた。拒絶されることを恐れているようだった。しかし、その懸念は全くの見当外れだった。長らく一人っ子で、多忙な両親に構ってもらえずに寂しい思いをしていた遊星にとって、妹ができるというのは願ってもない喜びだった。
「ああ、よろしく、百合子」
 遊星がそう返事をしてはじめて、妹はほっとしたようにまなじりを下げた。

 控えめだった幼い彼女がはじめに興味を見せたのは、花に対してだった。あまり植物の生えない場所で生まれたのかもしれない、父が祝いのために百合の花束を買ってきたときには、きゅうりを見せられた猫のように飛び上がり、咄嗟に母の背中に隠れていた。遊星が促してようやく、彼女は花にそっと顔を近づけ、その白い花弁を摘んでみずみずしい感触や香りに触れた。みるみるうちに頬を赤らめ、瞳に喜色が満ちるさまは、それこそ花が綻ぶようで、年甲斐もなく美しいと思った。
 外出に慣れてからは、花を見によく近所の公園に行った。遊星は花なんかに興味も関心もなかったが、友人からのサッカーの誘いも、ゲームの誘いも蹴って、熱心に花壇を覗く妹の隣に寄り添った。
 春には桜が咲いた。枝に登って、桜を直接見たいという妹のために、父と二人がかりで脚立を持ち込んだ。
 薄紅色の花房から漂う甘い香りに誘われたのかもしれない、黒々とした太い枝には、無数のアブラムシがついていた。それが枝にしがみつく妹のワンピースに飛びつこうとする。遊星はそうした不躾な虫たちから妹を守ろうと、指先で彼らを潰そうとした。しかし、妹はそれをやわらかい手で押しとどめ、首を振った。母が結った二つのおさげが可憐に揺れる。
「だめ、遊星さん。一寸の虫にも五分の魂なんですよ」
「しかし……このままではスカートが虫だらけになってしまう」
「いいじゃないですか。せっかくですから、虫さんたちも一緒にお花見させてあげましょう」
 妹は無事に枝に着陸した。陽射しが午後の温かなぬくもりでもって、妹の痩せた身体の輪郭を白くぼんやりと浮き出させていた。
 遊星は風にあおられた薄くはかない花びらの、その一枚を掬い取り、妹の耳の上に飾ってやった。
 天使のような娘だと思った。

 月光だけがぼんやりとあたりを照らす部屋、その端にぽつんと置かれたベッドの上で、苦しみのたうち回る妹を見た。
 声を押し殺し、胸元を掻きむしって、まるで身体の中を占拠する異物を追い出そうとするかのように何度も何度も咳をした。見開いた目からは大粒の涙がとめどなくこぼれてシーツに落ち、それに混じって、傷つき捲れ上がった胸の傷からの血が滲んだ。
「百合子!」
 思わず駆け寄り、その身体を抱き起こす。
 妹は悪戯がバレたみたいな顔つきになって、なんでもなさそうに笑おうとした。しかし、頬の筋肉が震えてうまくいかない。
 どうしたのだと繰り返し聞いても、大丈夫だと首を振るばかりで何も教えてくれない。
 翌日、遊星は小学校に行くふりをして家を出発し、市の図書館に駆け込んだ。目的地は医療関連書コーナーだ。この棚にある本を片っ端から読み尽くせば、妹の謎の病気の正体もわかるのだと、そのときの遊星は息巻いていた。妹は自分が救うのだという正義感が遊星を突き動かしていた。
 しかし、当然ながら医療従事者向けの専門書は小学生には難易度が高かった。一冊目は五時間かけてなんとか読み下したものの、二冊目を読み始めてからはもう頭がくらくらして、結局突っ伏して寝てしまった。
 そこに魔女が現れた。
 魔女は、物語に出てくるような、鼻が曲がっていて、とんがり帽子と黒いローブを着たおばあさんではなかった。ノースリーブの赤いショートドレスの女。マントのように羽織った白衣の襟元に、金のバッジをつけた、冷たい美しさの女。よく観察すれば男のようにも見えただろうが、そのときの遊星は夢うつつで、その人の性別についていちいち検討している余裕などなかった。
 時が止まったかのように静かな図書館。広い閲覧室内には、眠りと覚醒の間を漂う遊星と、美しい魔女、その二人だけだった。
「遊星……妹が気になるか?」
 はるか彼方の星が戯れに人間に語りかけるような声で、魔女がささやいた。
「うん」
「それがお前にとって都合の悪い真実でも受け入れられるか」
「うん……」
 遊星は夢うつつで答えた。
 魔女は感じやすい年頃の少年がするみたいに後頭部を雑に掻き、参ったな、というふうに目を伏せた。甘い木の実の色をした目が、外からの光で緋や碧の宝石のようにきらめく。
「オレはお前みたいな子どもが好きだから、ついつい甘やかしちゃうんだ。いいぜ。さ、左手を」
 言われるがままに、遊星は左手を差し出す。魔女のやわらかい右手がそれを強く掴み、事象の地平へと彼を引き上げた。
 深く暗い水の向こうに、遊星は妹の真実を見た。

 妹は泣き疲れて眠っている。夜毎涙に濡れる頬を指で拭ってやって、そのあまりのやわらかさに、遊星は息を飲んだ。
 痩せていて小さくて、胎児のように丸まって目を閉じる姿は、まるで壊れやすい人形のようだった。思えば、妹は猫でも天使でもなく、まだ十歳かそこらの普通の女の子なのだ。その妹が、小さな身体一つに苦痛と滅びの運命を背負って生きている。悲しくて、愛おしくて、遊星まで泣いてしまいそうだった。
 そっと寄り添い、後ろから抱き締めると、妹はかすかに身じろぎした。閉じていた瞼がゆっくりと開かれ、きらめく二つの瞳が遊星を見上げる。
「遊星さん……」
 胸が、火をつけたようにカッと熱くなる。
 腕の中で小さな身体を反転させ、遊星は妹の目を至近距離で覗き込んだ。虹彩は月光を蓄えて銀や青の星を帯び、縮まった瞳孔は果てしない宇宙をその中に閉じ込めたみたいだった。薄い下瞼は腫れてほのかに赤くなっている。
「泣いた跡がある。何かあったんだな」
「……大丈夫です、遊星さん。あなたが気にすることなんて……」
「兄が妹を気にしちゃいけないか?」
「遊星さん?」
「兄さん、だ」
 語調を強くしすぎたのかもしれない。妹は怯えのために目を見開き、びくりと肩を震わせる。
 遊星は途端に慌てて、みっともなく弁明を始めた。
「俺は百合子の兄だ。それなら、遊星さん、なんておかしいだろ。兄さんって呼んでくれ。……呼びにくかったら、お兄ちゃんとか、にいにとか、兄貴とかでもいいけど」
 はじめは驚いた様子だった妹は、やがて、冬が春に変わるその瞬間の、優美な雪解けを思わせる微笑を見せた。兄さん、兄さん、兄さんと、はじめてもらったプレゼントを何度も眺めるみたいに、口にしなれない言葉を繰り返す。それから……ようやく打ち解けた、安心し切った様子になって、頬を撫でる遊星の手に嬉しそうに擦り寄った。
「いいえ……いいえ、ありがとうございます。遊星兄さん……」

 愛しい妹。この世でたった一人の妹。いつか彼女に愛する人ができて、この手の中から飛び立ってゆくまで……いや、自分が死んで、現世を離れるその時まで、彼女を守ろうとそのとき決意した。
 誓いを果たすときだ。

 

 心臓を直接握りつぶされ、遊星は絶命した。
 もはや生も死も包括し人類の上に君臨した少女の掌の上で、男の命は実にあっけなく、風に舞い上がる塵のように終わった。愛するものを守るため、ただひたすらに燃やされ続けていた炎はいま、細く頼りない紫煙を一筋上げて消滅した。彼の凜とした佇まいが崩れ、抜け殻だけが砂浜の上に転がる。咆哮の形に開かれたままの口腔から、血が一筋、怜悧な顎へと静かに伝った。
「兄さん」
 冷たく鳴る潮風に乗って、百合子の気の抜けたような声が聞こえてくる。
「どうして」
 息を飲んだまま茫然として立ち尽くしていた百合子の身体は、次第に大きく震え出した。取り返しのつかない自らの罪に心が押し潰されそうになりながら、それでも懺悔の言葉を絞り出すことをやめられない。
「どうして……兄さん、知っていたのですか? 知っていて……それでも……」
 遊星は答えない。
「嫌……兄さん、兄さん、にいさん、にいさん、兄さん……!」
「百合子」
「わたし……兄さんを殺してしまった。兄さんは、ず、ずっとわたしを……守ろうとしてくれてたのに! そんな兄さんにひどいことを言って、心臓を握りつぶして、わたしは、わたしはもうどうしたら」
 ジョニーは何も言えないまま、倒れ伏す遊星に近づき、その身体を抱き上げた。
 ——百合子、俺の心はいつでもお前のそばにある。愛しているよ。
 苦しむ百合子に、彼はそう言ったのだ。そしていま、約束は守られた。命を奪われようとするジョニーを守るため……そして、ジョニーを愛する百合子の心を守るために、彼は自らの身を犠牲にした。妹を守った。
 誇り高く、聡明で、懇篤な人だった。もう戻らない。ジョニーの人生から、そして百合子の人生から、不動遊星は永遠に立ち去ったのだ。
「ジョニー」
 おぼつかない唇で、彼女はジョニーに縋った。
「ジョニー、わたしを……わたしを殺すのでしょう? 望むようにさせてあげます、早く、はやくあの人にもらった切り札で……今まで散々愛していると嘯いたその口で、大丈夫だとわたしの背中を撫でたその指先で、わたしの身体があとかたもなくなるまで破壊し尽くしてください。わたしも……あなたに、そうしますから!」
 それでも、彼女は身体の震えを止められない。細い腕が自らの肩を抱く。ジョニーを挑発するようなことを、嗚咽混じりの頼りない声で叫ぶ。人間の命を、まるで取るに足らないもののように口に放り込んできた少女が、心の髄までを後悔と怯えに浸して叫ぶのだ。
 やさしく、感じやすいこの少女の薄い両肩に、無慈悲な運命を背負わせたのは誰なのだろう。神? だとしたら、神はとんでもないろくでなしのわからずやだ。
 ジョニーはもう神に祈らない。彼が祈るのは、この世でたった一人、百合子に対してだけだ。
 彼女が幸せになりますように。彼女が幸せになりたいと願った気持ちが報われますように。
 見開かれた遊星の瞼を閉じてやる。そうすると、彼はまるで眠っているように見えた。砂浜の上に彼をやさしく横たえ、ジョニーは立ち上がる。百合子を真っ直ぐに見つめる。
「な……どうして! どうしてこっちに来るのですか! 早くしないと、わたし、あなたを食べてしまうんですよ!」
 ジョニーの上に輝く銀の星は、百合子には眩しすぎた。あの不思議な右手を再び突き出し、彼女は夫を拒絶する。
「百合子。やっぱり、君は新しく生まれ変わった知らない誰かなんかじゃない。僕を選んでくれた君、やさしくて、いつも笑顔で僕に笑いかけてくれた君と、今の君は同じ人間だ。遊星が死んで、悲しくて悲しくて泣いちゃう百合子だ」
 進む。百合子は後ずさるよりも早く、彼女に向かって一直線に進んでいく。
「泣いてなんかいません! 馬鹿にしているんですか!」
「泣いてる」
「勝手なことを言わないでください! わたしはもう、泣き虫の弱い子なんかじゃないんです! 兄さんやジョニーに守られなくても、一人で……一人で生きていけるんです! 来ないで!」
「君には無理だ。僕にだって無理だよ。人間は生まれつき孤独な生き物だから、同じように孤独な誰かに寄り添わなければ生きていけない。君は特別寂しがりだから、同じだけ寂しがりな僕と一緒じゃないとだめなんだ」
「わかったような口を……!」
「わかるさ。君を愛してるんだから」

「泣かないで、百合子。僕がずっとそばにいる」
 ようやく掴んだ右手は冷たかった。雪を掴んだあとのように悴み、震えて、身に余る悲しみに凍えていた。こんなに冷えていては風邪をひいてしまう。早く家に帰って、温かい紅茶でも淹れて、彼女を温めてあげなければ。
「泣いてなんか……いや、離して! 今度こそ……あなたを、あなたを」
 離してと言うくせに、彼女はろくに抵抗もせず、ジョニーのされるがままだ。
 ジョニーはようやく彼女をつかまえた。離れていた時間は一日にも満たないと言うのに、何十年も見失っていたような気さえする。
 百合子は何も変わらない。小さな海をそのまま瞳の空間に映し取ったかのように深く、透き通った青色を湛える二つの虹彩。二重と長いまつげに縁取られたまぶた。鼻はつんとすましていて、唇はまるで水辺にほころぶ桃色の花弁のように薄く、繊細な血色に色づいている。解けた髪は潮に揉まれて絡まりながらも、濡羽色につやつやと輝き、風の中で優雅に翻った。何もかもが精巧な人形のように上品で、小さく、可愛らしくて、爪でこづいただけでも壊れてしまいそうに見えた。
「君にはそんなことできない。わかってるよ。本当は、いま自分が死ぬことで、お腹の中に隠したみんなの魂を解放するつもりなんだ。でもそんなことさせない。
 僕は今まで何も選べずにいた。迷いのうちに何もかもから目を逸らして、君をなおさら苦しめた。でも、いまやっと進むべき道が見えたよ。僕の選ぶ道、僕の使命は、君を守ること。他の何に換えても、愛する君を守り抜くことだ」
「でも兄さんは戻らない。兄さんは……心臓を握りつぶされた兄さんは、他の人たちとは訳が違う」
「君は遊星の命に生きて報いなきゃいけない。遊星が君を守ったのはどうして? 君に生きて欲しかったからじゃないのか?」
「そんなこと、言われなくたってわかっています! でも、でもだめなんです……わたしは、罪のない無辜の命を弄ぶ、手のつけようのない悪い子で……やさしいあなたに眼差しを向けてもらうことも、守ってもらうことも……」
「うるさい!」
 驚き、硬直する彼女の手をそのまま引き寄せる。折れそうなほど華奢な腰に腕を回し、小さな頭を肩のあたりに押し付けて、ジョニーは百合子を強く、強く抱きすくめた。
 愛おしい百合子。空を舞う薄桃色の花びらのようにはかなくて、快晴の日の午後の陽射しのようにやさしくて、でも強がりだけは一人前の、小さな百合子。ジャックを慕いながら、心の底では彼を恐れていた百合子。遊星に本当に愛されていたと知って、傷つき震える百合子。ジョニーに向けられた愛情に怯えながらも、手を伸ばさずにはいられない百合子。
 やわらかい身体が、ジョニーの硬くしなやかな身体に余すところなく触れる。腹のあたりで早鐘を打つ心臓の存在を仔細に感じ取る。生きていた。よかった。
「大好きだ。可愛くて、強くて、本当は何もかも憎みたいのに、どうしても憎みきれないやさしい百合子が大好きだ! 愛してるんだ、君が本当は誰だって構うものか!」
 彼女を愛している。
 全てだった。今のジョニーを構成する、細胞、神経、肉や骨、髪の一本一本に至るまでが、百合子を抱きしめて、大丈夫だと、もう泣かなくて良いのだと告げるために存在していた。
 思えば途方もなく長い旅路だった。この世に生まれ落ち、両親のもとで光に満ちた幸福な幼少期を送り、シチリアにやってきて百合子と出会い、結婚して、百合子の微笑みに照らされながら六年間を過ごして。そして今、ジョニーはようやく、その本懐を果たそうとしている。
 百合子を愛している。百合子が心から笑ってくれるなら、ジョニーは身体も心も、命すら惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。
「……ジョニー」
 百合子はジョニーの胸に顔を埋めて、くぐもった声で夫の名を呼んだ。
 彼女の頬を涙が伝い落ちるのが、ジョニーには手に取るようにわかった。だって、百合子はいつも、ジョニーのたった一言で耐えきれなくなって泣いてしまうのだ。泣き虫で可愛い妻だった。
「……どうにかして消化しようとするのに、うまくいかないんです。身体が、心が拒否して……どうしてなのかわからなくて、苛々して、また食べるのに、やっぱり消化しきれない。身体はどんどん崩れてゆくし、心はどんどん冷えていって、直前に何を考えていたのかすら忘れてしまうほどで。早く早くと手を伸ばして飲み込んでも、消化することだけがどうしてもできない。どうしてかなって……でも、本当はわかっていたんです。
 わたしにはどうしようもなくやさしくない世界だったけど、それでも、ジョニーが愛した世界なんです。ジョニーが花の美しさを教えてくれた。海に沈む夕日の輝きを、そよぐ風の心地よさを、空を飛ぶかもめの自由を、人間が愛し合う歓びを教えてくれた……あなたと一緒なら、生きていてよかったって思えた。この世界に、人間として生まれてよかったって。痛いのに耐えて、頑張って前に進んできてよかったって。あなたが、わたしに本当の幸せを教えてくれた。
 やっぱりわたしは死ぬしかないんです。みんなに返してあげなきゃ。償わなきゃ。大嫌いで大好きなこの世界に、今のわたしができるたった一つのことです。ジョニー、使ってください。わたしを殺してください。始まりは最悪だったけど、あなたが終わりを持ってくるのなら……こんな人生でも、きっと悪くなかったって思えるんです」
「嫌だ!」
 ギョッとした顔で百合子が顔を上げた。大きく見開かれた目が、信じられないものを見る目がジョニーに向けられる。こぼれかけた涙が行き場を失って、まばたきと共に弾けて消える。
 ジョニーは百合子を一層抱き締めて、聞き分けのない赤ん坊じみた仕草で首を振った。
「僕は嫌だからね」
「どうして! わたしの、最期の願いを、聞いてくれないって言うんですか!」
「最期の願いになんてさせない。百合子のお願いはなんでも聞いてあげたいよ、でも、こればっかりは無理だ」
「ジョニー……!」
「ごめん。やっぱり百合子のいない世界なんて嫌だ。探そう。百合子も、みんなも笑顔になれる終わり方を。こんな意地悪なカードに頼らなくてもいい方法を」
 ジョニーは、胸ポケットに入れた小さなカードを取り出した。
 〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。ルチアーノが、遊星が、そして百合子が見上げた、やさしく愛おしい春の空。終わりゆく百合子の心。
 カードは細かな金色の光を帯びて煌めきながら、ジョニーの無骨な掌の上で優雅に回転している。このカードの中で、百合子の滅びが、そして人々の復活が、粛々と解き放たれるその時を待っている。綿密に編まれた神秘の糸が、紐解かれるその時を待っている。
 だが、ジョニーにはそんなものにまるきり興味がなかった。
「きっとどこかにあるはずなんだ、〈パーフェクト・ハッピー・エンド〉がさ」
 そう言い切って、ジョニーは〈パーフェクト・ワールド・エンド〉を破り捨てた。
 人々の唯一の希望を、なんの迷いもなく。
「な……!」
 百合子の黒髪が、まるで生き物のように逆立つ。
 破られた奇跡は幾辺もの星のかけらになり、ジョニーの頭上に浮き上がった。ばらばらになった希望は無感動に拡散する。百合子の細い手がそれらを掴もうと浮き上がるが、星は生き物のように彼女の手を避け、ふわりと軽やかに舞い踊った。
「ジョニー? そ、それが、どんなに価値のあるものかわかっているのですか! 神さえ滅ぼす奇跡の……」
 瞳を見開いたまま、百合子がジョニーに食ってかかる。
「いいじゃないか、いらないんだから」
「ジョニー!」
「一緒に探しに行こう。百合子」
 大きく頑丈なジョニーの手、幾度となく百合子を愛おしみ、その肩を抱き、頬に触れ、大丈夫だと背を撫でたその手が、百合子の前に差し出される。
 百合子の……見開いた大きな海の瞳から、歓喜の涙が滲むように伝った。
 灰青色のおぼめく夜明けの光が、水平線の向こうから堰を切ったように溢れ出す。光の領域が、暗く、鈍色の影に燻っていた街の隅々に広がり、夜が後退していく。砂浜は清潔に洗われて澄んだ銀色に輝きだし、海は、散らばったカードの輝きを凌駕するほど強い金色の輝きに満ちて、ジョニーに向かい合う百合子の姿をつまびらかに照らし出した。
 光の中で百合子が微笑む。嘘も虚飾もない、喜びに満ちた、力強い笑顔だ。それこそがジョニーが命を懸けて恋をした、美しい百合子の素顔だった。
「はい」
 たおやかな右手が、ジョニーの掌に重なり、しっかりと握られた。

 ……そのとき、二人の頭上で、不可思議なことが起こった。ばらばらになったカードの紙片が、パズルのようにひとつに組み合い復元されていくのだ。
 ジョニーが止める間も無く、かけらは粛々とつながってゆく。元の姿を取り戻すと、カードは再び金の光を放ち始めた。言葉が出てこない。本当の絶望が、ジョニーを暗く陰湿な闇の中に放り込もうとしている。
 百合子はやはり殺されてしまうのか。意地の悪い世界、人でなしの運命によって?

 

 

 

            パーフェクト・ワールド・エンド


 ある瞬間における全ての力学的状態と力を知ることができ、その能力を持ってして過去も未来も見渡すことのできる、不老不死さえ手に入れた魔女。それが遊城十代という人間だった。
 目も眩むほどの昔、生まれてから十数年の間は、まだごく普通の人間の少年だったのだ。しかし、いつのことだったか、右半身には女が住むようになり、そのうち肉体や精神が時間の縛りを受けなくなって、身体の成長が止まった。やがては人の心や魂の形が見えるようになり、その奇妙な体質は、彼を社会から遠く隔絶するに至った。
 彼は孤独だった。人間でありながら人間の枠を飛び越えた彼は、旅をする中で自分がどこにも接続しないさみしい生き物なのだと知った。それでも良いと思っていた。恋をするまでは。

 ——神様が遣わした天使は、地上に愛を運ぶのが仕事でした。仕事が終わったら、天使は神様のもとへ帰らなければなりません。天使に恋をしたわるい王様は、天使が助けてあげようとする人間がいなくならないように、いつもみんなを困らせておくことにしました。みんな王様がきらいになって、やがて力を合わせて殺してしまいました。
 でもやさしい天使だけは、わるい王様をきらわずに、ひとつだけ王様の願いを聞いてくれたのです。王様は言いました、天使と一緒に……
「……何それ。そんなの、救いがなさすぎるわ」
 最初に、利発な娘らしくない不満な声が、右手から上がった。
「そうだよ! 王様は反省していい人になって、みんな幸せになりました、でいいじゃん!」
 後に続いて、妹に同調した息子が、唇を尖らせて文句を言う。
 とあるありふれた家庭の休日。午後の光が差し込むリビングルームのソファの上で、母親が子供たちに絵本を読んでいる。
 絵本は原典で、綴られている言葉はこの国の言語ではない。母親が丁寧に翻訳したのを、子供たちが熱心に聞き入っていた。のだが、どうやら二人ともお気に召さなかったようだ。この双子の兄妹は、向こう見ずで調子の良い兄と、理屈屋でませた妹はことあるごとに意見を違わせ、仲の良い喧嘩ばかりしているのだが、この時ばかりはピッタリと意見を揃えてくるのがおかしかった。
 母親は肩をすくめ、飼い猫に言い聞かせるような甘い声で兄妹を諭しにかかる。
「いや、これでいいんだよ。悪い奴の最期は惨めで寂しい結末であるべきだ。そうじゃなきゃ、悪い奴が救われても、ひどい目に遭わされた奴らに救いがない」
「はあー……ママってば、どうしてこんなに捻くれちゃったのかなぁ」
「そうよ、ママ。どんなに悪い人だって、やっぱり救われるべきよ。だって……神様がこの世界に遣わした、同じ命なんだもの。誰にも救われないまま死んじゃうなんて、かわいそうじゃない」
 わざとらしくため息をついて息子は首を振り、娘は聖句を読み上げる信徒のように胸を張って宣言した。どちらの意見も、母親にとっては耳が痛いものだ。さすがは魔女の子どもたち、他人の心の闇を的確に把握している。
「なんだ、絵本を読んであげてるのか? 十代は偉いなぁ」
 後ろから朗らかに声をかけてくるのは子どもたちの父親……母親にとっては夫にあたる男だ。四人分のホットココアをトレイに乗せて運んで来て、喜ぶ子どもたちの手の中に一つずつ手渡してやる。絵本で両手が塞がっている母親の分と自分の分をソファテーブルに置き、彼は娘の隣に極めて紳士的に腰掛けた。最近娘は反抗期に差し掛かったらしいのだ。父親の下着と一緒に洗濯して欲しくないだなんて言われる日も、そう遠くないのかもしれない。
「うん、でも、ひどい話なんだよ!」
「そうそう。ママの絵本のセンス、やっぱり変。王子様みたいなパパを見習ったほうが良いと思う」
「そうだなぁ……」
 身振り手振りで、絵本の内容がどんなに残酷だったかということを伝えようとする息子の頭を、父親はゆったりとした手つきで撫でてやった。
「多分それは、書いた人がものすごく意地悪で、ものすごく寂しがりな人なんだな。な、十代? だからさ、みんなでママを慰めてあげようぜ」
 家族全員の視線が、一斉に母親に突き刺さる。
 何か言おうとするより先に、左右から子どもたちに抱きつかれた。たったそれだけなのに、母親の目からは意図せぬ涙がこぼれ落ちる。
「よくわかんないけど……ママ、大丈夫だからね。オレたちずっとママと一緒だからね?」
「そうよ! わたしたちがいるわ、ママ。だから、ね、泣かないで」
 父親は、やさしい子どもたちを誇らしげに見渡してから、みんなの肩を一度に抱いてしまった。大きな掌が、妻の背中を撫でさする。
「震えてるのか? ばかだな。俺たちに怖いものなんて、いったい何があるっていうんだ」
 涙が流れるのは幸せだからだ。悲しい時にはきっと笑いが止まらなくなる。魔女の感情表現は、そういうふうにできている。

 凄まじい唸りを立てて燃え上がる街の中に、一人、魔女だけが取り残される。
 魔女が立ち尽くす瓦礫の山は、かつて温かな家族の団欒を守っていた家の骨組みだ。子どもたちが熱心に育てていた庭の花が炎でゼラチンのように透けて見える。車中泊旅行に行こうと購入したばかりだったキャンピングカーは、電柱の倒壊に巻き込まれてすっかりひしゃげ、芋虫の死骸じみたスクラップに成り果てている。
「みんな……いったい、どうしちゃったんだよ? どうして……返事してくれねえんだよ……」
 彼は取り憑かれたように瓦礫の隙間に飛びつき、灰や鉄や石の類を素手でかき分け、掘り返そうとした。繊細な手はあっという間にささくれ立ち、舞い飛ぶ火の粉のために火傷を負い、それでもなお、彼は手を動かすことをやめられなかった。
 もしかしたら、この下でまだ子どもたちが、夫が生きているかもしれない。喉を潰されて助けの声が出ないのかもしれない。あるいは、精神的ショックのために失神して、そもそも助けを呼べる状況にないだけなのかもしれない……あらゆる希望的観測のために、彼は無我夢中で瓦礫の海を掘り起こす。
 凄まじい量の汗が、彼の額を幾粒も滑り落ちる。冷たく美しい横顔は赤やオレンジの炎に照らされて、まるで彼自身が炎の一部になったかのように燃え上がる。
「あ……」
 彼が探していたものはすぐに見つかった。
 煤だらけの腕で、黒焦げのそれを抱き上げる。髪も皮膚も、粘膜に至るまでもが焼き尽くされ、溶け切って、もはや顔も判別できないほどだったが、彼にはそれが誰なのかわかった。わかってしまった。
 指で愛おしい額を撫でてやる。つとめて丁寧にしたつもりだったのに、それは触れた部分から簡単に崩れ落ち、空気の中にほろほろと解けていった。大丈夫だと胸を張って言った、勇敢な息子。
「あ……ああ、あああああ——」
 絶叫しながら腕の中に残った灰をかき集め、自ら口の中に押し込む。飲み込もうとする。本来入ってくるべきではない異物に消化器官は抵抗し、彼は何度もえづいたが、それでも無理やり嚥下する。
 泣かないでと言いながら涙を拭ってくれた娘は、息子と寄り添うような形でこと切れていた。そして……笑いながら全てを受け入れてくれた、魔女が長い生涯でたった一度恋をしたその男は、全身を余すことなく炭化させながらもなお、子どもたちを庇って。
「は、ハハ……ハハハ……」
 ひきつれた唇からひっきりなしに笑いがこぼれる。すべてに絶望した彼を抱きしめてくれる人は、もうどこにもいないのだ。
 神話の中で、魔女に愛された人間は一人残らず不幸になった。

「本当に作るのかよ、そんなもん」
 生意気で口達者な魔女の弟子が不満げにつぶやく。
「身体を作り直すだけならまだしも、魂の蘇生は完全に禁忌だ。他ならともかく、人間程度が手を出していいものじゃない。あんたなんかにやらせたらどれだけ犠牲が出るかわかったもんじゃない」
「ああ。家族を取り戻せるのなら……みんながまたオレに笑いかけてくれるのなら、オレはなんだってする」
「それで他の人間がどうなってもいいっていうのかよ?」
 移り気な子供特有の白痴めいた笑顔を浮かべながら、魔女の弟子は腕を広げて宣った。彼はただ師の行く末を案じている。運命の波間から拾いあげられたその時に、師は彼にとって第二の母となったのだ。
「ボクにはわかる。あんたはきっとろくな死に方しない。人を悲しませたら、悲しませた分だけ酷いことが返ってくるんだ」
「親になるのってさ、他の何を犠牲にしても大切なものを選ぶことができる生物に生まれ変わるってことだったんだ。これは最近知ったんだけど」
 そうだ、走り続けなければ。走り続けなければ死んでしまう。悲しみや憎しみや苦しみや怒りに囚われて、もう二度と立ち上がれなくなる。今までだって、走っていれば余計なことを考えずに済んだのだ。走って走って、ようやく辿り着いた場所があの幸福な家だったらいい。そのためならなんでもする。たとえこの身が滅びようとも。
「ありがとな、ミスター・ローストビーフマン。心配してくれたんだろ」
「違うっての! ボクにはルチアーノって名前がちゃんとあるんだってば!」
「ありがとう。ルチアーノ」
 いつか夫がしてくれたように、弟子の頭を撫でてやる。彼は不服そうにそっぽを向いたきり何も言わなかった。

 永遠の可能性を追い求め、世界最高水準の技術力を振り翳して人々に災厄と混乱を撒き与える秘密組織……通称〈NEX〉の真の存在理由は、冥界に旅立った三人の人間を、この世界に蘇生させることだ。
 魔女は人の心の闇を握り、自由に操ることができた。その力を持ってして〈NEX〉の最高責任者として君臨した彼は、人々から効率的に魂を吸い上げるため、見るに耐えないさまざまな悪行に手を染めた。違法麻薬の開発、流通。まだ幼い子供の誘拐。人体実験。洗脳。カルト宗教を利用した経済的支配。機関はすぐに取り締まりに動いたが、彼らが真実に近づくたびに、魔女は組織の人間を切り捨てることでまんまと逃げおおせた。
 ある日、ついに魔女の正体を突き止め、彼の住処に突撃してきた人間たちがいた。
 金も権力も恣にしているともっぱら噂の〈NEX〉最高責任者が、焼け果てた街の廃墟に住んでいるのだと知って、彼らは驚いたようだった。だがそれだけだ。彼らは実に手際よく、寝ている魔女を取り囲んで追い詰めた。
「君が失った家族を取り戻そうとしていることはわかっている。その悲しみは同情に値するものだ。だが、そのために多くの犠牲を生んでいることについて、君は正しく罪に問われなければならない」
 仄暗く甘い心の闇の匂いをさせながら、進み出て男が言う。
「ここにいるのはみな、君に家族や愛する人を奪われた者たちだ。しかし、今君と対峙するのは、復讐などという単純な理由からではない。十代、生きていれば、大切なものを失うのは誰だってあることだ。でも絆で繋がっていた存在を未来につなげるために、復讐よりも先にやるべきことがある。まだ手の届く場所にいる誰かを守るために戦うことだ。人類はそうやって未来を繋いできた。大切な人の死につまずいても、起き上がって、それを乗り越えてこそ人は人だ」
 魔女はそれを、冷たく醒めた目で聞いた。男の声は真摯だった。正しいというのは、きっと彼が言うようなことを指すのだろう。だが、人の矛盾、人の欺瞞を見通す体質を手に入れた十代にとっては、そんなものは理想論としてしか響かない。そうあれば立派だ、という程度のものだ。教訓混じりの童話だ。
「転がってもまた立ち上がって走り出す。そうだろうな。それが正しさだ。でも、大切な人が自分をつまづかせた石ころみたいな言い方は好きじゃない」
 つまらない説法から解放されて、ようやく居眠りから覚めた学生のような様子で、魔女は起き上がる。声は低く、冷たく、高らかに、愚かな人間に向かって振りかざされる。
「大切な人を失って、落ち込んで、立ち上がって、それが成長か? 大切な人の死を乗り越えて歩き出すことがそんなに偉いのか? 本気でそう思ってるのか?」
 赤い靴に包まれた右足が一歩踏み出すと、魔女を取り囲んでいた輪が大きくなった。
 畏れと恐怖は魔女が足を進めるだけで彼らの本能から沸き起こり、足をすくませ、戦意を奪う。崇高な理想論を持ち出してきたところで、人間が魔女に敵うはずがない。大切なものを失い、憎悪のうちに叩き込まれたとしても、ただの人間にはどうすることもできない。蟻は象に踏まれて仲間を奪われても、その足の裏を悲しげに見上げることしかできないのだ。彼らはそれを、本能の部分で理解している。
「失った人を呼び戻す方法が無ければ、諦めて思い出にするしかない。思い出になるのは相手がもう傍にいないからだ。そして人間ってやつは思い出を忘れるように出来ている。だけど、もしも失ったものを取り返す方法があったら? たとえそれがどんな悪魔的な方法でも、オレは実行に躊躇はしない。文句があるならオレを殺して止めてみろ。オレは止まらない。全身の骨が砕けようが、肉片になろうが止まらない。そういうふうに出来ている。罪を犯す覚悟も、報いを受ける決意も出来ている。いいさ、じきにオレの夢が叶ったら、その時はオレを好きにするがいい。お望み通り牢屋にぶち込むなり拷問するなりすればいい。それでも不安なら、内臓を引き千切るなり脳髄をぶちまけるなり子宮を犯し尽くすなり好きなようにすりゃいい」
 魔女は、歌うように言った。
「オレは今走ってる途中なんだよ。邪魔をするな」

 物語の結末は、昔からいつだって同じものだ。絵本の最後に、使い古された黙示録を読み上げるような無関心さで、たった数行のうちに描かれる。子供たちは主人公のワクワクする冒険譚に興味があるのであって、悪役の寂しい最後などには見向きもしない。
 正義の味方が現れる。
 魔女が唯一、その力を向けることのできない存在。この世のどの悪意も寄せ付けない存在。魔女の夫が蘇り、龍と化した彼の前に立ち塞がった。
「やめるんだ。もう誰も傷つけるな」
 凛とした美しい声に呼びかけられて、魔女はそのとき、自分が語ってきた全て、自分が積み上げてきた全てを忘れて、目の前の男の存在のみに向き合った。男のまなざしは真っ直ぐに魔女の心を射抜き、その瞬間、彼は懐かしく愛おしい日々、無力な人間の心に立ち返った。その一瞬が彼の天命を定めた。
「■■■……」
 花の中で、あっという間に核を貫かれ、魔女は地に葬られた。彼が編み上げた奇跡だけが残った。

 これは史実ではない。魔女のはらわたに寄生した可能性《神》が、今も刻々と見続ける夢のひとつだ。だが、魔女にとっては、苦しく、愛おしく、かけがえのないひとひらだった。
 魔女の魂はこの地上に、この星に縛られた。人の道を外れた魂は、もう二度と輪廻の輪に乗ることも、転生することもない。そして、その肉に残された憎悪や悲しみ、怒り、痛み、後悔、妬みなどを養分として、魔女の眠る土からは花が芽吹いた。ありふれた、取るに足らない花。風に吹かれて、白く小さな花冠がかすかにそよいだ。
「わかってた……あれはオレの大好きな人じゃない。でもすごく似てたんだ。本当に蘇ったんじゃないかって思うほど……」
 魔女の目にはまばゆすぎるほどの光の中で、その人の背中が振り返る。もう顔も、声も、手のひらの感覚も思い出せない。彼がどのように語りかけてくれたのかも、どのように涙を拭ってくれたのかも、どのように愛してくれたのかも思い出せない。ただ、魔女の冷たい皮膚に触れた手が温かったことは覚えていた。その灯火は、これからも永遠に魔女の心を暖かく照らし続ける。
 みっともなく地に這いつくばりながら、魔女は無窮の空を見上げる。
 東の空から一筋の金の光が射し込んできた。夜を払う朝の訪れに似て、穏やかで温かな光だ。風が吹いて、地上から花びらが一斉に舞い上がる。花になんて興味もなかったが、それでも、愛おしく美しいものだと思った。
「ありがとう。……ジョニー、百合子。オレの夢を叶えてくれてありがとう……」
 本当は、子どもたちの語るハッピーエンドが真実なら良いと思っていた。
 無数の命が編んだ奇跡。それがいま、清らかな少女の傷を癒していく。

 

「やあ、ハッピーエンドだ。よかった、よかった」
「この人ってば……本当に呑気ですこと。今回は丸く収まったから良いけれど、元はと言えば全部あなたのせいじゃないの」
「いやあ、ほんとだね。参ったなあ。でも私は最初に言ったはずだよ? 国際結婚は大変だぞう、って。それを無視して彼のところにすっ飛んで行ったのは百合子じゃないか」
「そういう問題じゃないわよ。ねえ遊星?」
 呑気に話しているこの人たちはなんだろう。
 久しぶりに、本当に久しぶりに会ったのだから再会の抱擁の一つでもしていて良いはずなのだが、そんな気分になれない。いや、その前に、身体がうまく動かせない。肺が冷たくて、うまく息が吸えない——
「ともあれ、お疲れ様。おまえはよくやったよ、遊星。さすが私の息子だ」
「わたしたちは一緒に行ってあげられないけれど、途中まで送っていくわ。昔みたいに」
「そうだ、たまにはおんぶでもしてあげよう。どうだい? 大舟に乗った気分で」
「もう……幼稚園児じゃないんだから」
 その人に腕を掴まれて、ようやく身体が意のままに動くようになった。咄嗟に首を振って抵抗する。まだ。まだ行けない。今更虫が良すぎるかもしれないが、それでも、譲れないたった一つのこと。
 見届けたいものがある。

 

 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 ジョニーは咄嗟に左手を伸ばし、舞い落ちる花のひとひらを捕まえようとした。立ち止まり、期待のうちに指を開く。捕まえたと思ったが、花はジョニーの指と指をうまくすり抜けたようだ、大きな掌の中はもぬけの殻だった。
「コツがあるんですよ」
 ジョニーの隣に寄り添うようにして歩いていた百合子が、がっくりと肩を落とすジョニーの背を軽く叩く。
「風が吹いていないあいだは、花びらはおおむね真っ直ぐ落ちてくるんです。それをこうして、タイミングよく掴むと……ほら」
「おお」
「ね、簡単でしょう?」
 ジョニーが拍手を送ると、彼女は頬を染め、照れ臭そうに微笑んだ。愛おしい笑顔だ。眩しい。治療の間はなかなか外出もできずにいたので、昼の陽の下で自由に遊ぶ彼女を見るのは本当に久しぶりだった。
 今日の百合子は、裾に黄色いミモザをあしらったワンピースに、薄桃色のレースカーディガンを羽織った春らしいスタイルだ。足を包むのはヒールのついていない白のパンプス、耳に飾られているのは小さな花のイヤリング、髪は三つ編みにしたのをリボンで結んで整えてある。これはジョニーがやった。可愛い百合子をますます可愛くできるようになってきたと、自分で自分を褒めてやりたい気分だ。彼女が軽やかにステップを踏むたびに、細い首を飾るハートのネックレスも一緒に揺れるのが可憐だった。
 二人が歩くのは、かつてルチアーノの夢をのぞいたときに、彼が両親とともにいた場所だ。
 あの後、百合子の回復の報告を兼ねて向かいの家を訪ねた二人は、夫婦から不可解な返事を受け取った。ルチアーノなどという少年はこの家にはいないというのだ。
 彼らは夢でも見ていたのではないかと言うが、ジョニーは確かに、百合子をめぐって彼と口喧嘩をした。彼の手から運命の切り札を受け取った。夢であるはずがない。
 彼はどこに行ってしまったのだろう。
「イタリアにこんな場所があったなんて」
 百合子が嬉しそうに鼻歌を歌いながらそんなふうに言ったので、ジョニーはすぐに彼のことを忘れた。今日は久しぶりの百合子との行楽だ。余計なことに考えを巡らせている場合ではない。
 湖の湖畔に沿って整備された遊歩道に、一定間隔ごとに連なるようにして花の木が植えられている。この花はサクラといって、彼女の国の大昔の首相がイタリアに贈ったものなのだそうだ。小さな薄紅色の花が鈴なりに垂れ下がっているのが綺麗だと思った。
「どうかな、君の国のとは何か違う?」
「いいえ、同じものです。懐かしい。よくこうして、家族でお花見に行ったんですよ」
「オハナミ」
「今日のように、ご馳走やお酒を持って、桜の木の下でピクニックをすることです」
「へえ、素敵だね」
「ええ」
 頷いて、彼女はふたたび花の盛りを見上げた。青い瞳が眩しそうに眇められる。
「綺麗……もう春が来ていたのですね」
 不意に、彼女が前に抱えたバスケットめがけて、後ろから長い腕がぬっと伸びてきた。
「これは俺が持つ」
 月の光芒を集めて束ねたかのような細い金色の髪が踊る。すみれ色の瞳はたとえ一人になったとしてもその輝きを失うことなく、日増しに一層冴え渡ってゆく。ジョニーにはそれがまぶしい。もしあの時百合子を失っていたとして、ジョニーにはそんな目をして生きてゆく自信がなかった。
 ジャックだ。銀の指輪の光る左手は瞬く間に百合子からバスケットを奪い去り、ただでさえ多い彼の荷物の一つに加えてしまった。
「ジャック!」
「えっ、ああっ、これ以上君に荷物を増やされたら、僕の立つ瀬がないんだけど……」
 大判のピクニックマットに組み立て椅子、彼の使用人が昨晩からキッチンに立ち、気合を入れて作った四段重ねのお弁当と、すでに相当の量を抱えているはずなのだが、彼は相変わらず平然としている。ワイシャツの袖からしなやかに伸びた二の腕の筋肉の成す技だろうか。遠巻きに彼を眺めていた女性ファンたちが色めきたつ。
 それに対し、ジョニーの荷物は小さなショルダーバッグひとつ切りだ。ジョニーとて鍛えていない訳ではないのだが、彼と共に行動しているとどうにも活躍の場面が少ない。
「ごめんなさい、わたしが頼りないばかりに」
 まだ兄の負い目を拭いきれない様子の百合子が、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
 しかし、彼女の懸念とは裏腹に、彼はやはりどこまでも高潔で、底なしにやさしい人間なのだった。骨張った男の手が、自らの肩の位置で揺れる妹分の頭に軽く乗せられ、その髪をくしゃくしゃと撫でた。それだけで、百合子はつぶらに見開いた瞳をいっぱいにうるませ、俯いて言葉を詰まらせる。
「これくらいどうということはない。一人の身体ではないのだ、もう少し自分を労れ」
「はい……」
 彼女の腹では、ジョニーとの絆の形が芽吹いたばかりだった。これからもたくさんの苦難が訪れるだろうが、三人なら、確実に一つ一つを乗り越えて行ける。
 感極まって立ち止まってしまった百合子の肩を、ジャックが軽く押し出した。
 彼女は再びジョニーの隣に並んで歩く形になる。空になって手持ち無沙汰に揺れる華奢な左手を、ジョニーはしっかりと掴んでみせた。はじめてデートした時のようにやさしく指を絡めると、彼女は恥ずかしそうに頬に熱をのぼらせながらも、しっかりと握り返してくれた。
「ジョニー」
 百合子が微笑んだ。彼女の美しい笑顔を、ジョニーはこの世の何よりも愛している。
 ジョニーはふと思い立ち、風にあおられた薄くはかない花びらの、その一枚を今度こそ掬い取り、妻の耳の上に飾ってやった。
「兄さん」
 つぶらな目がいっぱいに見開かれる。
 その時、一陣の風が吹き、向かい合うジョニーと百合子のそばに、懐かしい気配がふっと現れた。花の中で、その人は青く、溌剌としたまなざしを妹に向けた。いたわりに満ちた手が伸び、そっと頬に触れた——かと思えば、それは花だった。再び舞い込んだ風のために花は百合子の頬を離れ、追い縋る指をもすり抜けて彼方へと運ばれていった。
「兄さん……」
 白くもやがかった道の向こうを見つめる百合子の瞳がにわかに潤み、耐えきれず張力を離れた一粒が、今度こそ彼女の頬を伝う。
「見ていますか。わたし……幸せで……」
 一度こぼれてしまえば、あとは形なしだった。にわか雨で溢れ出した小川のように涙はあとからあとから流れた。繊細な両指が顔を覆う。
 微睡を帯びた穏やかな春の陽射しの下で、百合子は声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣いた。
「良いのでしょうか。わたし、こんなに幸せで良いのでしょうか」
「大丈夫さ」
 ジョニーは泣き虫な妻の肩を抱いて、震える唇にそっとキスをする。
「今まで痛かった分、百合子にはしっかり幸せになってもらわなきゃ」

 美しい妻の身体を抱きながら、ジョニーは渺々たる波の彼方に上る朝陽を眺めていた。海のきわから清々しい金色の光が溢れ出し、夜闇の中に沈みおぼろげになっていた街や人々の輪郭を克明に浮かび上がらせる。雲一つ無い群青の中に、まだ夜の名残の白々とした月と、淡い金星の輝きが残っていた。少し伸びた前髪が、風に攫われて瞼の上で軽やかに舞った。
 自らの身に起こる変化に怯えていた彼女は、いま、この世で最も無害な生きものになってジョニーの腕の中にいる。薄っぺらい身体の内側を長らく荒らし回っていたものは永遠に去り、とうとう、彼女の心は解き放たれ自由になったのだ。本当の人間に生まれ変わった彼女はもう二度と傷つかない。誰も傷つけない。幸せだけを甘受しながら、ジョニーのそばで死ぬまで生きてゆく。
「よお」
 誰もいないと思っていたビーチに、女がいた。……いや、その人が女でもなければ男でもなく、その両方でもあることを、すでにジョニーは知っていた。
 赤いショートドレスの裾から、長さの異なる脚が二本、しなやかに伸びている。肩で真新しい白衣が踊るのを、まるでヒーローのマントのようだと思う。ジョニーを見る二つの瞳は甘い榛色だったが、海の向こうからの光を帯びて、まるで緋や碧の宝石をはめ込んだかのようにきらめいた。
 彼女はジョニーに向かって近づいてきて、彼の腕の中で眠る百合子の顔を覗き込んだ。
 鼻から抜けた吐息が、かすかに開かれた唇からこぼれ落ちる。
「よく寝てる」
 寝顔は幸せそうだ。きっとやさしくて幸せな夢を見ている。
「——悪いことをした王さまは、みんなに嫌われて殺されるはずだった。でも、天使は……やさしくて勇敢で愛情深い天使は、王さまのことを顧みて、その手を引いて長い夜の中から連れ出してくれた。天使に救われて、その底なしのやさしさに心打たれた王さまは、今度はみんなが喜ぶようなことをたくさんした。みんな王さまが好きになった。王さまは賢王として慕われるようになって、死んだ時には天使も含めて国中の人が悲しんだ。
 新訳版の結末はこうだ。オレはそんな甘ったるい話、受け入れられなかったよ。どうせ綺麗事だって。でも、そういうのを愛して、つないでいける人間が、この世にはまだいるんだな」
「何のこと?」
「こっちの話」
 彼女の真っ白な冷たい指先が、百合子の額をくすぐり、前髪をそっとかき分けてやる。そして彼はそこに静かに唇を寄せた。まるで洗礼者が敬虔な信徒に祝福を施すみたいに。魔女には不似合いなやり方だった。
 百合子は赤ん坊のようにむずがり、ジョニーの胸に顔を埋めてしまう。薄く開いた口で何かむにゃむにゃと寝言を言っている。夫の胸に甘える無力な少女の姿を見て、彼女はようやく肩の荷が降りたように、笑った。
「そのまま死ぬまでお姫様でいればいいさ。頑張れよ、王子さま」
「十代、ありがとう。君が百合子を助けてくれたんだよね」
「ん?」
 ジョニーの感謝の意味を理解できなかったらしい。彼女は子供じみた仕草で首を傾げてから、
「ああ……」
 何か探るような目でジョニーを覗き込み、ようやく、合点がいったとばかりに頷いた。
「そんな大層な話じゃない。オレは……オレの夢のために、お前たちを利用しただけだ。オレみたいなひねくれた生き物には理解できない領域の話だったからお前たちに託した。一個人を幸福にしたり不幸にしたりするのは管轄外なんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。ま、要するにお前たちで賭けをしてたってことだな。オレは負けたけど、勝ったオレもいるし、そもそも賭けをする必要のない幸せなオレも確実にいる。そういうのがいまこの世界にある数字じゃとても表せないくらいたくさん集まったのが、オレの腹ん中でぐうすか寝てるこいつって、そういうこと。アカシアの木の葉っぱを数えたことあるやつなんかいないだろ?」
「言ってること、難しくてわからないよ」
「そっか、そうだよな、忘れてたけどお前は人間なんだ。神様じゃない。そんじゃ、起きたら奥さんにでも聞いてみな。多分まだ少しなら容量が残ってる」
 彼女の言うことはジョニーには最初から最後まで訳がわからなかったが、彼女が、百合子が起きたら、と言ったことが無性に嬉しくて、笑った。
 腕の中の百合子もますます嬉しそうだ。相当良い夢を見ているらしい。じきに目を覚ましたら、そうしたら、どんな夢を見ていたのか聞こう。きっと素敵な物語が聞けるはずだ。

 たわいもない日々を二人並んで生きていく。
 もしまだ幻だったとしても、いつかきっと本当になる。

 

パーフェクトワールドエンド:おわり〉

 

 

E

 

 


            パーフェクト・ワールド・エンド


 ある瞬間における全ての力学的状態と力を知ることができ、その能力を持ってして過去も未来も見渡すことのできる、不老不死さえ手に入れた魔女。それが遊城十代という人間だった。
 目も眩むほどの昔、生まれてから十数年の間は、まだごく普通の人間の少年だったのだ。しかし、いつのことだったか、右半身には女が住むようになり、そのうち肉体や精神が時間の縛りを受けなくなって、身体の成長が止まった。やがては人の心や魂の形が見えるようになり、その奇妙な体質は、彼を社会から遠く隔絶するに至った。
 彼は孤独だった。人間でありながら人間の枠を飛び越えた彼は、旅をする中で自分がどこにも接続しないさみしい生き物なのだと知った。それでも良いと思っていた。恋をするまでは。

 ——神様が遣わした天使は、地上に愛を運ぶのが仕事でした。仕事が終わったら、天使は神様のもとへ帰らなければなりません。天使に恋をしたわるい王様は、天使が助けてあげようとする人間がいなくならないように、いつもみんなを困らせておくことにしました。みんな王様がきらいになって、やがて力を合わせて殺してしまいました。
 でも優しい天使だけは、わるい王様をきらわずに、ひとつだけ王様の願いを聞いてくれたのです。王様は言いました、天使と一緒に……
「……何それ。そんなの、救いがなさすぎるわ」
 最初に、利発な娘らしくない不満な声が、右手から上がった。
「そうだよ! 王様は反省していい人になって、みんな幸せになりました、でいいじゃん!」
 後に続いて、妹に同調した息子が、唇を尖らせて文句を言う。
 とあるありふれた家庭の休日。午後の光が差し込むリビングルームのソファの上で、母親が子供たちに絵本を読んでいる。
 絵本は原典で、綴られている言葉はこの国の言語ではない。母親が丁寧に翻訳したのを、子供たちが熱心に聞き入っていた。のだが、どうやら二人ともお気に召さなかったようだ。この双子の兄妹は、向こう見ずで調子の良い兄と、理屈屋でませた妹はことあるごとに意見を違わせ、仲の良い喧嘩ばかりしているのだが、この時ばかりはピッタリと意見を揃えてくるのがおかしかった。
 母親は肩をすくめ、飼い猫に言い聞かせるような甘い声で兄妹を諭しにかかる。
「いや、これでいいんだよ。悪い奴の最期は惨めで寂しい結末であるべきだ。そうじゃなきゃ、悪い奴が救われても、ひどい目に遭わされた奴らに救いがない」
「はあー……ママってば、どうしてこんなに捻くれちゃったのかなぁ」
「そうよ、ママ。どんなに悪い人だって、やっぱり救われるべきよ。だって……神様がこの世界に遣わした、同じ命なんだもの。誰にも救われないまま死んじゃうなんて、かわいそうじゃない」
 わざとらしくため息をついて息子は首を振り、娘は聖句を読み上げる信徒のように胸を張って宣言した。どちらの意見も、母親にとっては耳が痛いものだ。さすがは魔女の子どもたち、他人の心の闇を的確に把握している。
「なんだ、絵本を読んであげてるのか? 十代は偉いなぁ」
 後ろから朗らかに声をかけてくるのは子どもたちの父親……母親にとっては夫にあたる男だ。四人分のホットココアをトレイに乗せて運んで来て、喜ぶ子どもたちの手の中に一つずつ手渡してやる。絵本で両手が塞がっている母親の分と自分の分をソファテーブルに置き、彼は娘の隣に極めて紳士的に腰掛けた。最近娘は反抗期に差し掛かったらしいのだ。父親の下着と一緒に洗濯して欲しくないだなんて言われる日も、そう遠くないのかもしれない。
「うん、でも、ひどい話なんだよ!」
「そうそう。ママの絵本のセンス、やっぱり変。王子様みたいなパパを見習ったほうが良いと思う」
「そうだなぁ……」
 身振り手振りで、絵本の内容がどんなに残酷だったかということを伝えようとする息子の頭を、父親はゆったりとした手つきで撫でてやった。
「多分それは、書いた人がものすごく意地悪で、ものすごく寂しがりな人なんだな。な、十代? だからさ、みんなでママを慰めてあげようぜ」
 家族全員の視線が、一斉に母親に突き刺さる。
 何か言おうとするより先に、左右から子どもたちに抱きつかれた。たったそれだけなのに、母親の目からは意図せぬ涙がこぼれ落ちる。
「よくわかんないけど……ママ、大丈夫だからね。オレたちずっとママと一緒だからね?」
「そうよ! わたしたちがいるわ、ママ。だから、ね、泣かないで」
 父親は、優しい子どもたちを誇らしげに見渡してから、みんなの肩を一度に抱いてしまった。大きな掌が、妻の背中を撫でさする。
「震えてるのか? ばかだな。俺たちに怖いものなんて、いったい何があるっていうんだ」
 涙が流れるのは幸せだからだ。悲しい時にはきっと笑いが止まらなくなる。魔女の感情表現は、そういうふうにできている。

 凄まじい唸りを立てて燃え上がる街の中に、一人、魔女だけが取り残される。
 魔女が立ち尽くす瓦礫の山は、かつて温かな家族の団欒を守っていた家の骨組みだ。子どもたちが熱心に育てていた庭の花が炎でゼラチンのように透けて見える。車中泊旅行に行こうと購入したばかりだったキャンピングカーは、電柱の倒壊に巻き込まれてすっかりひしゃげ、芋虫の死骸じみたスクラップに成り果てている。
「みんな……いったい、どうしちゃったんだよ? どうして……返事してくれねえんだよ……」
 彼は取り憑かれたように瓦礫の隙間に飛びつき、灰や鉄や石の類を素手でかき分け、掘り返そうとした。繊細な手はあっという間にささくれ立ち、舞い飛ぶ火の粉のために火傷を負い、それでもなお、彼は手を動かすことをやめられなかった。
 もしかしたら、この下でまだ子どもたちが、夫が生きているかもしれない。喉を潰されて助けの声が出ないのかもしれない。あるいは、精神的ショックのために失神して、そもそも助けを呼べる状況にないだけなのかもしれない……あらゆる希望的観測のために、彼は無我夢中で瓦礫の海を掘り起こす。
 凄まじい量の汗が、彼の額を幾粒も滑り落ちる。冷たく美しい横顔は赤やオレンジの炎に照らされて、まるで彼自身が炎の一部になったかのように燃え上がる。
「あ……」
 彼が探していたものはすぐに見つかった。
 煤だらけの腕で、黒焦げのそれを抱き上げる。髪も皮膚も、粘膜に至るまでもが焼き尽くされ、溶け切って、もはや顔も判別できないほどだったが、彼にはそれが誰なのかわかった。わかってしまった。
 指で愛おしい額を撫でてやる。つとめて丁寧にしたつもりだったのに、それは触れた部分から簡単に崩れ落ち、空気の中にほろほろと解けていった。大丈夫だと胸を張って言った、勇敢な息子。
「あ……ああ、あああああ——」
 絶叫しながら腕の中に残った灰をかき集め、自ら口の中に押し込む。飲み込もうとする。本来入ってくるべきではない異物に消化器官は抵抗し、彼は何度もえづいたが、それでも無理やり嚥下する。
 泣かないでと言いながら涙を拭ってくれた娘は、息子と寄り添うような形でこと切れていた。そして……笑いながら全てを受け入れてくれた、魔女が長い生涯でたった一度恋をしたその男は、全身を余すことなく炭化させながらもなお、子どもたちを庇って。
「は、ハハ……ハハハ……」
 ひきつれた唇からひっきりなしに笑いがこぼれる。すべてに絶望した彼を抱きしめてくれる人は、もうどこにもいないのだ。
 神話の中で、魔女に愛された人間は一人残らず不幸になった。

「本当に作るのかよ、そんなもん」
 生意気で口達者な魔女の弟子が不満げにつぶやく。
「身体を作り直すだけならまだしも、魂の蘇生は完全に禁忌だ。他ならともかく、人間程度が手を出していいものじゃない。あんたなんかにやらせたらどれだけ犠牲が出るかわかったもんじゃない」
「ああ。家族を取り戻せるのなら……みんながまたオレに笑いかけてくれるのなら、オレはなんだってする」
「それで他の人間がどうなってもいいっていうのかよ?」
 移り気な子供特有の白痴めいた笑顔を浮かべながら、魔女の弟子は腕を広げて宣った。彼はただ師の行く末を案じている。運命の波間から拾いあげられたその時に、師は彼にとって第二の母となったのだ。
「ボクにはわかる。あんたはきっとろくな死に方しない。人を悲しませたら、悲しませた分だけ酷いことが返ってくるんだ」
「親になるのってさ、他の何を犠牲にしても大切なものを選ぶことができる生物に生まれ変わるってことだったんだ。これは最近知ったんだけど」
 そうだ、走り続けなければ。走り続けなければ死んでしまう。悲しみや憎しみや苦しみや怒りに囚われて、もう二度と立ち上がれなくなる。今までだって、走っていれば余計なことを考えずに済んだのだ。走って走って、ようやく辿り着いた場所があの幸福な家だったらいい。そのためならなんでもする。たとえこの身が滅びようとも。
「ありがとな、ミスター・ローストビーフマン。心配してくれたんだろ」
「違うっての! ボクにはルチアーノって名前がちゃんとあるんだってば!」
「ありがとう。ルチアーノ」
 いつか夫がしてくれたように、弟子の頭を撫でてやる。彼は不服そうにそっぽを向いたきり何も言わなかった。

 永遠の可能性を追い求め、世界最高水準の技術力を振り翳して人々に災厄と混乱を撒き与える秘密組織……通称〈NEX〉の真の存在理由は、冥界に旅立った三人の人間を、この世界に蘇生させることだ。
 魔女は人の心の闇を握り、自由に操ることができた。その力を持ってして〈NEX〉の最高責任者として君臨した彼は、人々から効率的に魂を吸い上げるため、見るに耐えないさまざまな悪行に手を染めた。違法麻薬の開発、流通。まだ幼い子供の誘拐。人体実験。洗脳。カルト宗教を利用した経済的支配。機関はすぐに取り締まりに動いたが、彼らが真実に近づくたびに、魔女は組織の人間を切り捨てることでまんまと逃げおおせた。
 ある日、ついに魔女の正体を突き止め、彼の住処に突撃してきた人間たちがいた。
 金も権力も恣にしているともっぱら噂の〈NEX〉最高責任者が、焼け果てた街の廃墟に住んでいるのだと知って、彼らは驚いたようだった。だがそれだけだ。彼らは実に手際よく、寝ている魔女を取り囲んで追い詰めた。
「君が失った家族を取り戻そうとしていることはわかっている。その悲しみは同情に値するものだ。だが、そのために多くの犠牲を生んでいることについて、君は正しく罪に問われなければならない」
 仄暗く甘い心の闇の匂いをさせながら、進み出て男が言う。
「ここにいるのはみな、君に家族や愛する人を奪われた者たちだ。しかし、今君と対峙するのは、復讐などという単純な理由からではない。十代、生きていれば、大切なものを失うのは誰だってあることだ。でも絆で繋がっていた存在を未来につなげるために、復讐よりも先にやるべきことがある。まだ手の届く場所にいる誰かを守るために戦うことだ。人類はそうやって未来を繋いできた。大切な人の死につまずいても、起き上がって、それを乗り越えてこそ人は人だ」
 魔女はそれを、冷たく醒めた目で聞いた。男の声は真摯だった。正しいというのは、きっと彼が言うようなことを指すのだろう。だが、人の矛盾、人の欺瞞を見通す体質を手に入れた十代にとっては、そんなものは理想論としてしか響かない。そうあれば立派だ、という程度のものだ。教訓混じりの童話だ。
「転がってもまた立ち上がって走り出す。そうだろうな。それが正しさだ。でも、大切な人が自分をつまづかせた石ころみたいな言い方は好きじゃない」
 つまらない説法から解放されて、ようやく居眠りから覚めた学生のような様子で、魔女は起き上がる。声は低く、冷たく、高らかに、愚かな人間に向かって振りかざされる。
「大切な人を失って、落ち込んで、立ち上がって、それが成長か? 大切な人の死を乗り越えて歩き出すことがそんなに偉いのか? 本気でそう思ってるのか?」
 赤い靴に包まれた右足が一歩踏み出すと、魔女を取り囲んでいた輪が大きくなった。
 畏れと恐怖は魔女が足を進めるだけで彼らの本能から沸き起こり、足をすくませ、戦意を奪う。崇高な理想論を持ち出してきたところで、人間が魔女に敵うはずがない。大切なものを失い、憎悪のうちに叩き込まれたとしても、ただの人間にはどうすることもできない。蟻は象に踏まれて仲間を奪われても、その足の裏を悲しげに見上げることしかできないのだ。彼らはそれを、本能の部分で理解している。
「失った人を呼び戻す方法が無ければ、諦めて思い出にするしかない。思い出になるのは相手がもう傍にいないからだ。そして人間ってやつは思い出を忘れるように出来ている。だけど、もしも失ったものを取り返す方法があったら? たとえそれがどんな悪魔的な方法でも、オレは実行に躊躇はしない。文句があるならオレを殺して止めてみろ。オレは止まらない。全身の骨が砕けようが、肉片になろうが止まらない。そういうふうに出来ている。罪を犯す覚悟も、報いを受ける決意も出来ている。いいさ、じきにオレの夢が叶ったら、その時はオレを好きにするがいい。お望み通り牢屋にぶち込むなり拷問するなりすればいい。それでも不安なら、内臓を引き千切るなり脳髄をぶちまけるなり子宮を犯し尽くすなり好きなようにすりゃいい」
 魔女は、歌うように言った。
「オレは今走ってる途中なんだよ。邪魔をするな」

 物語の結末は、昔からいつだって同じものだ。絵本の最後に、使い古された黙示録を読み上げるような無関心さで、たった数行のうちに描かれる。子供たちは主人公のワクワクする冒険譚に興味があるのであって、悪役の寂しい最後などには見向きもしない。
 正義の味方が現れる。
 魔女が唯一、その力を向けることのできない存在。この世のどの悪意も寄せ付けない存在。魔女の夫が蘇り、龍と化した彼の前に立ち塞がった。
「やめるんだ。もう誰も傷つけるな」
 凛とした美しい声に呼びかけられて、魔女はそのとき、自分が語ってきた全て、自分が積み上げてきた全てを忘れて、目の前の男の存在のみに向き合った。男のまなざしは真っ直ぐに魔女の心を射抜き、その瞬間、彼は懐かしく愛おしい日々、無力な人間の心に立ち返った。その一瞬が彼の天命を定めた。
「■■■……」
 花の中で、あっという間に核を貫かれ、魔女は地に葬られた。彼が編み上げた奇跡だけが残った。

 これは史実ではない。魔女のはらわたに寄生した可能性《神》が、今も刻々と見続ける夢のひとつだ。だが、魔女にとっては、苦しく、愛おしく、かけがえのないひとひらだった。
 魔女の魂はこの地上に、この星に縛られた。人の道を外れた魂は、もう二度と輪廻の輪に乗ることも、転生することもない。そして、その肉に残された憎悪や悲しみ、怒り、痛み、後悔、妬みなどを養分として、魔女の眠る土からは花が芽吹いた。ありふれた、取るに足らない花。風に吹かれて、白く小さな花冠がかすかにそよいだ。
「わかってた……あれはオレの大好きな人じゃない。でもすごく似てたんだ。本当に蘇ったんじゃないかって思うほど……」
 魔女の目にはまばゆすぎるほどの光の中で、その人の背中が振り返る。もう顔も、声も、手のひらの感覚も思い出せない。彼がどのように語りかけてくれたのかも、どのように涙を拭ってくれたのかも、どのように愛してくれたのかも思い出せない。ただ、魔女の冷たい皮膚に触れた手が温かったことは覚えていた。その灯火は、これからも永遠に魔女の心を暖かく照らし続ける。
 みっともなく地に這いつくばりながら、魔女は無窮の空を見上げる。
 東の空から一筋の金の光が射し込んできた。夜を払う朝の訪れに似て、穏やかで温かな光だ。風が吹いて、地上から花びらが一斉に舞い上がる。花になんて興味もなかったが、それでも、愛おしく美しいものだと思った。
「ありがとう。……ジョニー、百合子。オレの夢を叶えてくれてありがとう……」
 本当は、子どもたちの語るハッピーエンドが真実なら良いと思っていた。
 無数の命が編んだ奇跡。それがいま、清らかな少女の傷を癒していく。

 

「やあ、ハッピーエンドだ。よかった、よかった」
「この人ってば……本当に呑気ですこと。今回は丸く収まったから良いけれど、元はと言えば全部あなたのせいじゃありませんか」
「いやあ、ほんとだね。参ったなあ。でも私は最初に言ったはずだよ? 国際結婚は大変だぞう、って。それを無視して彼のところにすっ飛んで行ったのは百合子じゃないか」
「そういう問題じゃないわよ。ねえ遊星?」
 呑気に話しているこの人たちはなんだろう。
 久しぶりに、本当に久しぶりに会ったのだから再会の抱擁の一つでもしていて良いはずなのだが、そんな気分になれない。いや、その前に、身体がうまく動かせない。肺が冷たくて、うまく息が吸えない——
「ともあれ、お疲れ様。おまえはよくやったよ、遊星。さすが私の息子だ」
「わたしたちは一緒に行ってあげられないけれど、途中まで送っていくわ。昔みたいに」
「そうだ、たまにはおんぶでもしてあげよう。どうだい? 大舟に乗った気分で」
「もう……幼稚園児じゃないんだから」
 その人に腕を掴まれて、ようやく身体が意のままに動くようになった。咄嗟に首を振って抵抗する。まだ。まだ行けない。今更虫が良すぎるかもしれないが、それでも、譲れないたった一つのこと。
 見届けたいものがある。

 

 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 ジョニーは咄嗟に左手を伸ばし、舞い落ちる花のひとひらを捕まえようとした。立ち止まり、期待のうちに指を開く。捕まえたと思ったが、花はジョニーの指と指をうまくすり抜けたようだ、大きな掌はもぬけの殻だった。
「コツがあるんですよ」
 ジョニーの隣に寄り添うようにして歩いていた百合子が、がっくりと肩を落とすジョニーの背を軽く叩く。
「風が吹いていないあいだは、花びらはおおむね真っ直ぐ落ちてくるんです。それをこうして、タイミングよく掴むと……ほら」
「おお」
「ね、簡単でしょう?」
 ジョニーが拍手を送ると、彼女は頬を染め、照れ臭そうに微笑んだ。愛おしい笑顔だ。眩しい。治療の間はなかなか外出もできずにいたので、昼の陽の下で自由に遊ぶ彼女を見るのは本当に久しぶりかもしれない。
 今日の百合子は、裾に黄色いミモザをあしらったワンピースに、薄桃色のレースカーディガンを羽織った春らしいスタイルだ。足を包むのはヒールのついていない白のパンプス、耳に飾られているのは小さな花のイヤリング、髪は三つ編みにしたのをリボンで結んで整えてある。これはジョニーがやった。可愛い百合子をますます可愛くできるようになってきたと、自分で自分を褒めてやりたい気分だ。彼女が軽やかにステップを踏むたびに、細い首を飾るハートのネックレスも一緒に揺れるのが可憐だった。
 二人が歩くのは、かつてルチアーノの夢をのぞいたときに、彼が両親とともにいた場所だ。
 あの後、百合子の回復の報告を兼ねて向かいの家を訪ねた二人は、夫婦から不可解な返事を受け取った。ルチアーノなどという少年はこの家にはいないというのだ。
 彼らは夢でも見ていたのではないかと言うが、ジョニーは確かに、百合子をめぐって彼と口喧嘩をした。彼の手から運命の切り札を受け取った。夢であるはずがない。
 彼はどこに行ってしまったのだろう。
「イタリアにこんな場所があったなんて」
 百合子が嬉しそうに鼻歌を歌いながらそんなふうに言ったので、ジョニーはすぐに彼のことを忘れた。今日は久しぶりの百合子との行楽だ。余計なことに考えを巡らせている場合ではない。
 整備された遊歩道の右脇に、一定間隔ごとに連なるようにして花の木が植えられている。この花はサクラといって、彼女の国の大昔の首相がイタリアに贈ったものなのだそうだ。小さな薄紅色の花が鈴なりに垂れ下がっているのが綺麗だと思った。
「どうかな、君の国のとは何か違う?」
「いいえ、同じものです。懐かしい。よくこうして、家族でお花見に行ったんですよ」
「オハナミ」
「今日のように、ご馳走やお酒を持って、桜の木の下でピクニックをすることです」
「へえ、素敵だね」
「ええ」
 頷いて、彼女はふたたび花の盛りを見上げた。青い瞳が眩しそうに眇められる。
「綺麗……もう春が来ていたのですね」
 不意に、彼女が前に抱えたバスケットめがけて、後ろから長い腕がぬっと伸びてきた。
「これは俺が持つ」
 月の光芒を集めて束ねたかのような細い金色の髪が踊る。すみれ色の瞳はたとえ一人になったとしてもその輝きを失うことなく、日増しに一層冴え渡ってゆく。ジョニーにはそれがまぶしい。もしあの時百合子を失っていたとして、ジョニーにはそんな目をして生きてゆく自信がなかった。
 ジャックだ。銀の指輪の光る左手は瞬く間に百合子からバスケットを奪い去り、ただでさえ多い彼の荷物の一つに加えてしまった。
「ジャック!」
「えっ、ああっ、これ以上君に荷物を増やされたら、僕の立つ瀬がないんだけど……」
 大判のピクニックマットに組み立て椅子、彼の使用人が昨晩からキッチンに立ち、気合を入れて作った四段重ねのお弁当と、すでに相当の量を抱えているはずなのだが、彼は相変わらず平然としている。ワイシャツの袖からしなやかに伸びた二の腕の筋肉の成す技だろうか。遠巻きに彼を眺めていた女性ファンたちが色めきたつ。
 それに対し、ジョニーの荷物は小さなショルダーバッグひとつ切りだ。ジョニーとて鍛えていない訳ではないのだが、彼と共に行動しているとどうにも活躍の場面が少ない。
「ごめんなさい、わたしが頼りないばかりに」
 まだ兄の負い目を拭いきれない様子の百合子が、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
 しかし、彼女の懸念とは裏腹に、彼はやはりどこまでも高潔で、底なしに優しい人間なのだった。骨張った男の手が、自らの肩の位置で揺れる妹分の頭に軽く乗せられ、その髪をくしゃくしゃと撫でた。それだけで、百合子はつぶらに見開いた瞳をいっぱいにうるませ、俯いて言葉を詰まらせる。
「これくらいどうということはない。一人の身体ではないのだ、もう少し自分を労れ」
「はい……」
 彼女の腹では、ジョニーとの絆の形が芽吹いたばかりだった。これからもたくさんの苦難が訪れるだろうが、三人なら、確実に一つ一つを乗り越えて行ける。
 感極まって立ち止まってしまった百合子の肩を、ジャックが軽く押し出した。
 彼女は再びジョニーの隣に並んで歩く形になる。空になって手持ち無沙汰に揺れる華奢な左手を、ジョニーはしっかりと掴んでみせた。初めてデートした時のように優しく指を絡めると、彼女は恥ずかしそうに頬に熱をのぼらせながらも、しっかりと握り返してくれた。
「ジョニー」
 百合子が微笑んだ。彼女の美しい笑顔を、ジョニーはこの世の何よりも愛している。
 ジョニーはふと思い立ち、風にあおられた薄くはかない花びらの、その一枚を今度こそ掬い取り、妻の耳の上に飾ってやった。
「兄さん」
 つぶらな目がいっぱいに見開かれる。
 その時、一陣の風が吹き、向かい合うジョニーと百合子のそばに、懐かしい気配がふっと現れた。花の中で、その人は青く、溌剌としたまなざしを妹に向けた。いたわりに満ちた手が伸び、そっと頬に触れた——かと思えば、それは花だった。再び舞い込んだ風のために花は百合子の頬を離れ、追い縋る指をもすり抜けて彼方へと運ばれていった。
「兄さん……」
 白くもやがかった道の向こうを見つめる百合子の瞳がにわかに潤み、耐えきれず張力を離れた一粒が、今度こそ彼女の頬を伝う。
「見ていますか。わたし……幸せで……」
 一度こぼれてしまえば、あとは形なしだった。にわか雨で溢れ出した小川のように涙はあとからあとから流れた。繊細な両指が顔を覆う。
 微睡を帯びた穏やかな春の陽射しの下で、百合子は声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣いた。
「良いのでしょうか。わたし、こんなに幸せで良いのでしょうか」
「大丈夫さ」
 ジョニーは泣き虫な妻の肩を抱いて、震える唇にそっとキスをする。
「今まで痛かった分、百合子にはしっかり幸せになってもらわなきゃ」

 美しい妻の身体を抱きながら、ジョニーは渺々たる波の彼方に上る朝陽を眺めていた。海のきわから清々しい金色の光が溢れ出し、夜闇の中に沈みおぼろげになっていた街や人々の輪郭を克明に浮かび上がらせる。雲一つ無い群青の中に、まだ夜の名残の白々とした月と、淡い金星の輝きが残っていた。少し伸びた前髪が、風に攫われて瞼の上で軽やかに舞った。
 自らの身に起こる変化に怯えていた彼女は、いま、この世で最も無害な生きものになってジョニーの腕の中にいる。薄っぺらい身体の内側を長らく荒らし回っていたものは永遠に去り、とうとう、彼女の心は解き放たれ自由になったのだ。本当の人間に生まれ変わった彼女はもう二度と傷つかない。誰も傷つけない。幸せだけを甘受しながら、ジョニーのそばで死ぬまで生きてゆく。
「よお」
 誰もいないと思っていたビーチに、女がいた。……いや、その人が女でもなければ男でもなく、その両方でもあることを、すでにジョニーは知っていた。
 赤いショートドレスの裾から、長さの異なる脚が二本、しなやかに伸びている。肩で真新しい白衣が踊るのを、まるでヒーローのマントのようだと思う。ジョニーを見る二つの瞳は甘い榛色だったが、海の向こうからの光を帯びて、まるで緋や碧の宝石をはめ込んだかのようにきらめいた。
 彼女はジョニーに向かって近づいてきて、彼の腕の中で眠る百合子の顔を覗き込んだ。
 鼻から抜けた吐息が、かすかに開かれた唇からこぼれ落ちる。
「よく寝てる」
 寝顔は幸せそうだ。きっと優しくて幸せな夢を見ている。
「——悪いことをした王さまは、みんなに嫌われて殺されるはずだった。でも、天使は……優しくて勇敢で愛情深い天使は、王さまのことを顧みて、彼の手を引いて長い夜の中から連れ出してくれた。天使に救われて、その底なしの優しさに心打たれた王さまは、今度はみんなが喜ぶようなことをたくさんした。みんな王さまが好きになった。王さまは賢王として慕われるようになって、死んだ時には天使も含めて国中の人が悲しんだ。
 新訳版の結末はこうだ。オレはそんな甘ったるい話、受け入れられなかったよ。どうせ綺麗事だって。でも、そういうのを愛して、つないでいける人間が、この世にはまだいるんだな」
「何のこと?」
「こっちの話」
 彼女の真っ白な冷たい指先が、百合子の額をくすぐり、前髪をそっとかき分けてやる。そして彼はそこに静かに唇を寄せた。まるで洗礼者が敬虔な信徒に祝福を施すみたいに。魔女には不似合いなやり方だった。
 百合子は赤ん坊のようにむずがり、ジョニーの胸に顔を埋めてしまう。薄く開いた口で何かむにゃむにゃと寝言を言っている。夫の胸に甘える無力な少女の姿を見て、彼女はようやく肩の荷が降りたように、笑った。
「そのまま死ぬまでお姫様でいればいいさ。頑張れよ、王子さま」
「十代、ありがとう。君が百合子を助けてくれたんだよね」
「ん?」
 ジョニーの感謝の意味を理解できなかったらしい。彼女は子供じみた仕草で首を傾げてから、
「ああ……」
 何か探るような目でジョニーを覗き込み、ようやく、合点がいったとばかりに頷いた。
「そんな大層な話じゃない。オレは……オレの夢のために、お前たちを利用しただけだ。オレみたいなひねくれた生き物には理解できない領域の話だったからお前たちに託した。一個人を幸福にしたり不幸にしたりするのは管轄外なんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。ま、要するにお前たちで賭けをしてたってことだな。オレは負けたけど、勝ったオレもいるし、そもそも賭けをする必要のない幸せなオレも確実にいる。そういうのがいまこの世界にある数字じゃとても表せないくらいたくさん集まったのが、オレの腹ん中でぐうすか寝てるこいつって、そういうこと。アカシアの木の葉っぱを数えたことあるやつなんかいないだろ?」
「言ってること、難しくてわからないよ」
「そっか、そうだよな、忘れてたけどお前は人間なんだ。神様じゃない。そんじゃ、起きたら奥さんにでも聞いてみな。多分まだ少しなら容量が残ってる」
 彼女の言うことはジョニーには最初から最後まで訳がわからなかったが、彼女が、百合子が起きたら、と言ったことが無性に嬉しくて、笑った。
 腕の中の百合子もますます嬉しそうだ。相当良い夢を見ているらしい。じきに目を覚ましたら、そうしたら、どんな夢を見ていたのか聞こう。きっと素敵な物語が聞けるはずだ。

 たわいもない日々を二人並んで生きていく。
 もしまだ幻だったとしても、いつかきっと本当になる。

 

 

パーフェクトワールドエンド:おわり〉

 

 

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   パーフェクト・ブルー

 生まれてこのかた、ジョニーは労働というものについたことがなかった。
 彼は豊かだった。両親は一人息子の彼が欲するものは何でも与えてきたし、大学を卒業し、独り立ちしてからも、在学中に成功した投資事業で百合子ともども何不自由のない暮らしを送ることができていた。
 しかし、事情が変わったのだ。未知の病に少しずつ蝕まれていく百合子。彼女と過ごす時間を少しでも長らえるために、ジョニーは花を買い、薬を買った。高額な治療費を惜しみなく払い続けた。結果、支出が収入に追い付かなくなり、ジョニーは働きに出ることを余儀なくされるに至った。……彼女を海に帰すという選択は、どうしてもできなかった。
 その日は寒かった。厚手のセーターにコートを羽織って出かけたのだが、夕方から途端に冷え込み、ジョニーがオフィスを出るころには気温も十度を下回っていた。歩いて帰るつもりだったのを、プルマンでの移動に変更する。
 暖かい車内で揺られ、うとうとと船を漕ぎながら、ジョニーは美しいまぼろしを見た。まぼろしは、決まってジョニーの孤独の隙間に入り込み、彼の感傷を悪戯にくすぐる。現れたのは百合子だ。ひたむきに愛と純情を信じ、自分の脚で軽やかに走り回っていた、少女の頃の百合子だった。
 二つに結ったおさげの先が近くで揺れる気配がする。ささくれもあかぎれも知らないたおやかな指先が髪や額を優しく撫でる。夢うつつに名前を呼ぶと、柔らかい仕草で頬を拭ってくれる。
 ただでさえ痛みに苦しむ本物の百合子に、ジョニーが見せられずにいる弱みを、まぼろしには素直に曝け出すことができた。耐えかねて吐き出した泣き言も、意図せずこぼした不安も、彼女の柔らかな手は大切に受け入れてくれた。
 情けなく、都合の良いまぼろしに縋ってしまう。そばにいられるだけでいいと思っているはずなのに。
「百合子?」
 ——ジョニー。
 優しい手が、ジョニーの腹の上に何かを置いた。
「百合子……」
 ——大好きです、ジョニー。
 それは二枚のカードだった。十代が差し出し、ジョニーが選べずにいる、二枚のカードだ。
 車内アナウンスが、ジョニーを夢から引っ張り出す。意識がはっきりしてくると、少女の百合子もカードもすっかり消えてしまう。
「百合子」
 呆然と呟いた。

 悲痛なすすり泣きが、玄関口に立ったジョニーの耳にも聞こえてくる。百合子の部屋からだ。
 残されることが不安なのか、最近の百合子はジョニーがそばを離れると子供のように縋ってくる。はじめは寂しそうに、ジョニーが留まることを期待する目でこちらを見ているだけなのだが、本格的に仕事に出ようとしているのだとわかると声を上げて泣き出し、腰に抱きついて引き止めようとするのだ。彼女のためにも働きに出る以外の選択肢は残されていないのだが、それでも、ジョニーの名前を呼びながら大粒の涙をこぼす妻を見るのはつらかった。
 大理石の螺旋階段を重い足取りで上り、表に小鳥とクリスマスローズのリースをかけたマホガニーの扉を押し開ける。
 花の中で、百合子はシーツをヴェールのようにして被り、ベッドの上で膝を抱えて泣いていた。遠い星の瞬きのような、寂しく、頼りなさげで悲痛な嗚咽が、シーツの隙間から漏れ出てくる。彼女の周りにはばらばらにむしられたノースポールの白い花びらが散り、そのさまが、百合子のやる方ない苦痛と孤独を訴えてくるようで悲しかった。ジョニーはジャケットを脱ぐこともそこそこに彼女の隣に座り、震える肩を抱き寄せた。
「ただいま、百合子。遅くなってごめん」
 シーツの裾を持ち上げると、涙を持て余す百合子の顔が露わになった。ジョニーを見上げる目は腫れ上がり、鼻の頭は可憐にも赤く染まっている。
 彼女はジョニーのと目が合うやいなや、その胸にがばりと顔を埋め、背に腕を回してしがみついた。もう離さないとばかりに。
「どこに行ってたんですか? 私、ひとりぼっちで……さみしくて、こわかったです」
「僕のお姫さま、許してくれ」
「もう二度と離れないと誓ってくれたら、許してあげます」
「うん……誓うよ。もう君を置いて行ったりしない」
 嘘だ。明日もジョニーは百合子のために働きに出るのだ。でも、せめて今だけは、愛しい妻、苦痛の中で哀しみ嘆く妻を安心させてやりたかった。
「ほんとうですね……そばにいてくれますね……」
 顔を上げた百合子が不安げにこちらを見つめてくる。潤んだ瞳から溢れた雫が、彼女の痩せた頬を夢のように落ちた。顎から滴るのを指先で受け止めながら、ジョニーはその瞼に唇を寄せた。
「約束する。だからもう泣かないで? ね?」
 キスをする。触れ合った皮膚から百合子のほのかな興奮を感じる。ジョニーは揺蕩う薄い蝶の羽のような唇を優しくはみ、舌でそっと伺いを立てる。熱を帯びたやわらかい口腔に緩慢に迎え入れられた。
 彼女のネグリジェは、塗布薬をつけやすいように、前で開く形になっている。薄い生地を破かないようにボタンを外すと、よく出来た陶器の器のような、すべらかな乳房が露わになった。薄桃色の嘴からとろとろと流れるのは白い乳汁だ。臍の上までをゆったりと流れる乳を舌で舐めとり、たどり着いた乳頭をつとめてねんごろに啜った。骨の浮いた腰が焦ったく揺れる。
「あ……」
 朝から晩まで休みなく労働を強いられた肉体に、百合子の甘い声は晩鐘となって、深く、ゆったりと響く。

 

 早朝六時、いつものジャケットにコートを羽織ったジョニーが出かける前に寝室を覗くと、百合子はまだ眠っていた。彼女の作り物のような白い腕には鋭い針が何本も突き刺さり、そこから伸びたチューブが、鎮静剤や解熱剤を彼女の身体に絶え間なく運び込んでいるのだった。
 ベッドサイドに腰を下ろし、汗ばんだ額をそっと撫でてやると、赤ん坊のように無垢な手がその指先を柔らかく掴んだ。あどけない譫言がジョニーの名を呼ぶことの、なんと切ないことか。常に胸を圧迫する狂おしいほどの愛おしさに突き動かされ、ジョニーは妻の顔のあらゆる場所にキスをした。下瞼に触れると微かに塩の香りがするのが悲しかった。
 ジャックが、二人分のマグを持って寝室に入ってきた。百合子に寂しい思いばかりさせているジョニーの代わりに、今日はジャックが彼女の面倒を見てくれることになっていた。
「行くならさっさとしろ」
 言いながらも、親切な彼はジョニーにマグの片方を手渡した。まろやかなベージュの水面にミルクが微速にうずまいている。ミルクティーだ。
「ジャック……僕はどうしたらいいんだろう」
 渦巻きを目で追っているうちに、予期せぬ言葉がこぼれ落ちた。
 ジャックは片眉を吊り上げ、睨むような目でジョニーを見る。が、何も言わないところを見ると、一応続きを聞く気はあるらしい。
「百合子と少しでも長く一緒にいたくて、僕は今できる最大限のことをしてきたつもりだ。でも……最近はそのために彼女を泣かせてばかりいる」
「お前は」偉そうに腕を組みながら、ジャックは鼻を鳴らした。「……お前にできる最善を尽くしている。それは百合子にもわかっているはずだ」
「え」
「なんだその顔は!」
 だってあまりにも意外だったのだ。この、地球に俺以上の人間など一人もいないというような顔をして生きている男が、ジョニーのしみったれた泣き言にフォローを入れたことが。
 よほど惚けた顔をしていたらしい。ジャックは不満げに怒鳴り、ふと眠る百合子のことを思い出したようになって、罰が悪そうに舌打ちした。自分のマグを引っ掴み、熱いミルクティーを一気に喉に流し込む。
「百合子は無邪気だが考えなしではない」
 心なしかトーンの落ちた声がそんなことを言う。空になったカップをサイドチェストに置いて、ジャックは王が詰めかけた国民の前でするように、長い腕を鷹揚に広げた。
「そして、お前はいくじなしの大馬鹿だが、決して阿呆ではない。たとえ空回りしていたとしても、お前が百合子を想う気持ちはきちんと伝わっている。だからこそ、こいつは寂しくて泣くのだ」
「……」
「大切なのは結果ではなく、どれだけ相手を思い遣ったかだ。愛するがゆえに選び取ったことを、一体誰に責められよう」
 簡潔で、明朗なジャックの言葉が、ジョニーの肌をピアニストの指のように叩く。
 なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、ジョニーはジャックがくれたミルクティーを一口啜ってみた。甘い茶葉の舌触りに、彼の不器用な優しさが滲みているようで、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。彼のような男性に一心に愛される遊星は幸せだ。
「うん。ありがとう、ジャック。怖い人かと思ってたけど、君って意外と優しいんだ」
「フン……」
「じゃあ、僕は行くね。百合子のこと、よろしくお願いします」
 最後の一滴とばかりに妻の唇に吸い付いてから、ジョニーは名残惜しくベッドを離れる。
 鞄を下げ、寝室を出ようとしたとき、思いがけず、後ろから呼び止められた。
「ジョニー」
 ジャックだ。振り向くと、まっすぐにこちらを見つめるすみれ色の目と視線がかち合った。
 傲慢な王の顔を引っ込めて、ジャックは静かに微笑んだ。咲き溢れる冬の花の中で、この人は、いやに透明な存在のように見えた。
「百合子の手を離すな。何があっても……やつには、もうお前しかいないのだ」
 その言葉は遺言のようだった。でも、それが本当に最後の別れになるなんて、いったい誰に想像できただろう?

 

 痛い。
 痛い。痛い。……痛い。
 うまく呼吸ができない。痛くて苦しくてもがいても、身体が灰色の鉛になったかのように重たくて、思うように動かせない。小さくて透明で冷たくて、鋭い歯を持った生き物が、わたしの全身を這い回っているのだ。手も足も、胃も、腸も、骨も神経も肉も皮膚も、脳も子宮も、あらゆる場所に取り憑き、牙を立てて、わたしの全てを食い潰そうとしている。わたしをわたしでなくそうとしている。
 このままでは、愛おしいあの人のことも忘れてしまう。
 ……あの人はどこ?
 名前を呼んでも返事がない。温かな抱擁も、優しいキスもない。涙が次々に溢れてきて頬を濡らすけれど、拭ってくれる人はどこにもいない。わたしは真っ暗な夜の闇の中にひとりぼっち。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続けている。一匹が、その小さな体をうねらせながら、膣の中に入ってきた。気持ちが悪い。嘔吐感を必死に喉の奥にとどめながら、わたしは必死な思いで膣に指を入れ、その一匹の居場所を探った。指は何の手応えを得ることもなく、ただ濡れた肉の壁を左右に擦る。気持ちいい。
 気持ちいい。痛い。痛い。気持ちいい。気持ちいい。
 わたしの膣は、自分の指にあの人の幻想を結びつけて濡れていた。あの人はわたしを抱くとき、いつも優しく時間をかけて入り口をほぐしてくれる。指を入れてすぐの硬い部分から、ひだの立つ天井部分、緩やかに広がった奥の空間。ゆるく勃ち上がったクリトリス貞淑ぶって小さく縮こまる尿道口。指の腹のざらついた部分で、あの人を求めてぐずる粘膜をくまなく愛撫する。あの人がいつもしてくれるように。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続ける。わたしの指は、敏感で弱気でかわいそうな女の器官を慰める。痛みからか、快感からか、わたしの唇からは湿った呼吸がひっきりなしに漏れた。
「あ……お、っひ、あっ、あっ、あっ」
 苦痛と歓びがないまぜになる。寂しくて、訳がわからなくて、わたしはさらに泣いた。

 ひとつの瞬きののち、わたしは素敵な花畑の中に立っていた。
 生き物も、夜も、みんななかったみたいにきれいな花畑だった。白くて可憐なスノードロップ、慎ましやかなチューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、池には小ぶりな睡蓮の花が浮かび、灌木の枝には花蘇芳がいっぱいについている。花びらと小さな葉の向こうには、ハートや星の模様がついたウサギのぬいぐるみが、小さな身体で転がって遊んでいる。空は薄い紫とピンクの混ざったかわいいパステルカラーだ。
「わあ……!」
 嘘みたいだ。痛いのも苦しいのも、気持ちいいのも、みんなどこかに消えてしまった。残ったのはうきうきと高鳴る心と、分不相応に軽やかな身体だけ。
 楽しくて、舞踏会のお姫さまみたいにくるりとターンすると、次の瞬間にはわたしの身体はかわいいドレスに包まれていた。胸元には薔薇の飾りと大きなリボン、腰から足元までをたっぷりと華やかに彩るフリル。健康そうな腕を覆う上品なイリュージョンレース。左手の薬指にきらめくのは、王子さまがくれた金の指輪だ。踵を上げると、キラキラと宝石のように輝くピンクのガラスの靴が、足にぴったりはまっているのに気がついた。
 頭がふわふわする。ゆらゆらする。楽しい。楽しい!
 ちぐはぐなワルツを踊りながら、ウサギたちに近づく。ステップを踏むたびに花は潰れてしまうけれど、仕方のないことだ。
 ウサギたちは、わたしに気づくと、ぴょんぴょん跳ねながら挨拶をした。それから、彼らの向こうに鬱蒼と茂る、深い森の中を指し示す。
「どうしたの? なにかいるの?」
 光るきのこや奇妙にねじ曲がった木々の中。こちらに背を向けて、誰かが立っている。白い軍服に青いベルベットのマント。スラリとした長身。あの人だ。わたしの、王子さま!
「ジョニー!」
 ウサギたちの群れをかき分けて、わたしはあの人に駆け寄った。彼は、まだわたしに気づいていないようで、その横顔に悲しい空気を漂わせている。でも、もう大丈夫。だってわたしがついているもの。
 彼の背中に飛びつこうとして、不意に、ドレスの裾を後ろに引っ張られた。
 振り返る。裾に噛み付いてわたしを押しとどめたのは、金色の毛の、猫のぬいぐるみだった。すみれ色の二つの目がわたしをじっと見ている。鋭い犬歯が、裾のフリルにしっかりと噛み付いている。
「……、むー」
 ひどい。あの人のもとに行こうとするわたしを邪魔するなんて。
 わたしはしゃがんで、ネコと視線を合わせた。そうして、両手でその身体を持ち上げる。ネコの身体は、思ったよりもずっと重くて大きくて、ずっしりしていた。向けられた視線に困惑が混ざる。
「悪い子には、おしおきですよ!」
 そのとぼけた額を、軽く指で爪弾く。
 すると、ネコのぬいぐるみはポンと煙を立てて消え、代わりにたくさんのキャンディが降ってきた。カラフルな包み紙を纏った、さまざまなフレーバーのキャンディ。いちご味、レモン味、ソーダ味にミント味。もちろん、ミルク味も忘れてはいけない。
 すごい、すごい! ここのぬいぐるみたちは、弾くとキャンディになるのだ。試しに一粒口に入れると、甘くて、ちょっと酸っぱくて、とても幸せな味がした。わたしは嬉しくなって、あの人のもとに行くことも忘れて、ウサギたちの方に踵を返した。
 くるくる踊る。夢見心地のダンス。ウサギたちもみーんな弾いて、キャンディにして、そうしたらあの人は、……わたしを抱きしめてくれるだろうか。

 ずるずると黄色い脳髄を啜る、神経をちぎって貼り合わせて、ばらばらになった骨は深海魚の夢の中、くらくらと血管を漂いわたしは果てを散歩する、あの人とたったひとつのいのちを分け合ったような気分になるのはなぜ、つよくておおきくてずっとこわかった彼がこんなにも弱くて脆くて矮小な存在だとわかってわたしはうれしくなった、わたしはずっと彼を慕いながら心の底で恐れていたいつかわたしからみんな奪い去ってしまうのではないかと、ああ、あの人も、兄さんもおとうさんもおかあさんも、わたしは臆病で、あの人の首筋に巻きつくわたしの腕はただの木偶だ、彼は背が高くて勇気があって美しかったから、でもわたしのほうがずっと強くておおきくてそう、神秘を戴き得る器など人間の中にはひとつとしてないのだ、花束は、あの人の死。官能。嫉妬。束縛。永遠。憂鬱。滅亡。裏切り。わたしはずっとずっと〈わたしたち〉に喰らわれる痛みと苦痛に耐えて鋭い牙とささくれた鱗とで引き裂かれ食いちぎられなんどもなんどもなんども、いつかいとおしくてだいすきであの人を食べてしまうかもしれない、風船みたいに膨らんで破裂する、からだはぼろぼろ、こころはゆらゆら、これは報いだ 握《あく》 ああ、彼の命はこんなにもおいしい……

 

 今日は夕方で上がれたので、寂しい思いを我慢している百合子のためにお菓子でも買って帰ろうと、なじみのベーカリーに立ち寄った。ショーケースの前に見覚えのある背中があると思ったら遊星だった。ビニエとエクレールで一時間も迷っていたらしい。考えることは一緒だ。
 秘密会議の末に選ばれたいちごのエクレールを携え、二人は家路につく。冬のパレルモは空気が重く、冷たい。エトナ山はすでに純白の雪化粧を終え、山頂から吹き降りる颪で街路の木々もすっかり丸裸だ。今にも降り出しそうな曇天や、人々の着込む寒色の上着などのために街の雰囲気もどことなく暗く、市場に売り出されたカターニア平野産のオレンジの色だけが、滑稽なほど明るく陽気だった。
 ロングコートの襟を胸の前に集めながら、遊星は耐えられないといった様子で身震いする。
「正直なめていた。シチリアは地中海性気候だからと……こんなに寒いと思わなかった……」
「君の国よりは暖かいと思うけど」
「寒がりなんだ。いつもなら、冬は家から一歩も出ないことにしているんだが」
「そんなので生きていけるの」
「ジャックが全部やってくれる」
 つぶやく横顔は思慕に緩み、百合子によく似た青い瞳も、美しい恋人への誇りに精彩を帯びていた。耳がほのかに赤いのは、凍えるような寒さのためか、羞恥のためか。
 遊星のかすかに青い唇が、白い煙を吐き出した。
「これはお前にだから言うことだが、百合子が治ったら、彼にプロポーズしようと思っている。俺には花も宝石もわからないが、薔薇をかかえるほど買って、大きなダイヤモンドの指輪を用意して、彼の行きつけのレストランで……今まで俺や百合子のためになんでもしてくれた彼だから、今度は俺が、お前のために全てを捧げると、そう伝えたいんだ。彼を愛してる。彼が心から笑ってくれるなら、俺は身体も心も、命だって惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。なあ、それはお前も同じだろう、ジョニー」
 ジョニーは頷いた。その通りになれば良いと思ったのだ。

 家に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 大きなマホガニーの扉の、古風な鍵穴にキーを刺して左に回す。軽快な音を立てて錠が外れ、先に遊星が、後からジョニーが玄関に入った。
「ただいま、百合子」
 暗い廊下に向かって声をかける。返事はない。
「……百合子? ジャック?」
 ジョニーは凛々しい眉をぎゅっと寄せた。妙に静かだ。何か、何か嫌なものが、薄暗がりの向こうに息づいている。それはかすかなものだったが、百合子が倒れた時に似た、暗澹とした、重く不吉な予感だった。ジョニーの脳裏に、祖母の葬儀をあげた時のことがよぎる。これは死の匂いだ。家の中で、何かが終わったのだ。
 不思議そうにしている遊星に構わず、ジョニーは薄暗い玄関をつぶさに観察した。右手には、翡翠のミニテーブルに下向きに咲く鈴蘭をモチーフにしたスタンドライト、靴やコート類を収納するためのクローゼット、こちら側に取り付けられた硝子の両開き扉には冷や汗をかくジョニーの顔がぼんやりと映っている。左手にはレモンの鉢植えに青いリンドウの飾りをあしらった壁掛けの鏡、客間に繋がる扉。大理石の廊下を挟んだ奥には、三階までを突き抜ける螺旋階段。
 いつもと変わらない、夕方から夜にかけての廊下だ。
 ……いや。やはり何かが違う。息をつめて、注意深く周囲を検分していたジョニーは、螺旋階段の死角からスッと伸びた真っ白な素足をとらえた。
 死人のように真っ青な顔をしてジョニーを見下ろすのは、百合子だった。彼女はいつものネグリジェにカーディガンを引っかけた姿だったが、その表情や手足にはまるで存在感がなく、妖精や精霊の類を思わせた。ほどけた髪のつやはブラックオニキスの輝きを思わせる。小さな爪の一つ一つは桜貝の色をして、それがことさら、彼女の雰囲気を天上のものにした。百合を抱えた聖母のステンドグラスから落ちる虹色の光が、彼女の髪や肩の上で幻想的に踊る。
「百合子」
「ジョニー……」
 震える唇がジョニーの名を呼ぶ。その瞬間、彼女の足はつるりとした段板を踏み外し、前のめりに倒れこんできた。遊星が息を呑む。反射的に身を乗り出したジョニーの腕がかろうじて彼女を受け止めたが、彼女は全身をこわばらせ、ひどく怯えていた。小刻みに痙攣する身体と、過呼吸気味の浅い呼気が、彼女の身に何かあったのだと如実に語っていた。
「ジョニー、ジョニー、お願い、私を愛していると言って」
 青ざめた頬を、涙が流星のように迸る。
「ああ、愛してるよ、百合子。一体どうしたっていうんだい?」
「ごめんなさい。私を許して。私を……私を殺してください」
「な、何を言っているんだ!」
 妹の恐慌から何かを悟ったらしい遊星が、エクレールの袋を放り投げ、ジョニーの横をすり抜けて階段を駆け上がった。だが、妻の口から訳のわからない願いを聞き取ったジョニーはそれどころではなかった。今、彼女は何と言った?
 殺すだって?
「時間がないんです。早く私の左胸を、心臓を貫いてください。これで……」
 百合子の左手にはいつの間にか透明な小剣が収まっていた。透き通る刀身は、光を浴びて鋭利に輝き、まるで水でできているような印象をジョニーに与えた。彼女は、それをジョニーの手の中に必死に押し込んだ。
「早く……」
「だめだ! 君は僕の妻だ。たった一人の愛する女性(ひと)だ。その君を、僕が殺せるわけないじゃないか。ね、まずは落ち着こう。何があったのかちゃんと聞かせてくれないかい? ジャックはどこ?」
「ジャックは……」
 出し抜けに、階上から絹を裂くような絶叫が上がった。
「ジャック? ジャック……ジャック、ジャック!」
 遊星だった。必死にジャックの名前を呼んでいる。
 動悸が激しく鳴る。不幸の兆しが、無情にもジョニーの頭上に降りてくる。ジョニーは百合子を抱えたまま、一段飛ばしで三階を目指した。

 花が散っている。無惨にもむしられ、茎を折られた花々の死体が、ベッドや絨毯の床に折り重なるようにして乱れている。スノードロップ、チューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、小さな水瓶に浮かべてあった睡蓮は器ごと破壊され、花蘇芳の枝はこれ以上ないというほどに踏み潰されている。
 ベッドに倒れ伏すような形で、ジャックは眠っていた。はじめは……眠っているのだと思った。鎧をつけたような、大きく、引き締まった身体には傷ひとつなかったし、男性らしい流麗な顔に浮かぶのは、まるで楽しい夢でも見ているかのように安らかな微笑みだった。
 しかし、ジャックの手首を握りしめた遊星の顔は真っ青で、只事ではない様子だ。ジョニーは彼に近づいて、同じように首に触れてみた。
 氷のような冷たさだった。もう死んでいる。
「時間切れです。残念ですね、ジョニー」
 不意に、血も凍るほど冷ややかな声が、ジョニーの右耳に囁いた。
 はじめ、ジョニーはそれが誰の声なのかわからなかった。聞き覚えのある声ではあった。しかし、彼女は……いつもジョニーに対して善意と優しさに溢れていて、とてもこんな声を出せるような女性ではないのだ。痛みや辛さを泣きながら訴えることはあったが、このような、感情のない平坦な声で話しかけてきたことなど一度もなかった。
 だが……ジョニーが彼女の声を聞き間違えることなどありえない。どんなに混雑した人ごみの中でも、耐え難い混乱の中にあっても、ジョニーは彼女の声をはっきりと聞き分けることができる。きっと今回も例外ではない。だから、彼女が発する言葉の意味を理解するより先に、ジョニーは反射的にその人の名前を呼んでいた。
「百合子……?」
 それはジョニーの腕に抱かれた百合子の声だった。
「なんて甘くて、お人好しで、無知な人間なんでしょう。命乞いも忘れてゾウの足の裏を見上げるちっぽけな蟻みたい。でも大丈夫。あなたは食べないでいてあげます」
 先ほどまで震えながらジョニーに許しを乞うていた彼女など初めからいなかったみたいに、百合子はジョニーの腕から離れ、立ち上がった。いとも簡単に。
 まるで、身体を病む前の、健康だった彼女が戻ってきたようだった。しかし、その口元には嘲りと退屈にひきつれた冷笑が浮かび、眉根は性根の悪そうな釣り上がりを見せていた。別人のような変貌ぶりだが、それでも、可憐で楚々とした顔のパーツや、蒲柳の身体はジョニーの知る百合子そのものなのだった。
 言葉を失った二人の男の前で、百合子は腕を広げ、歌うように朗々と語り始めた。
「ジャックの行方が気になりますか? ここです。私のお腹の中で、骨も肉も破壊しつくされて、痛くて泣きながら蹲っていますよ」
 細く尖りを見せる四本の指が、自らの薄い腹を撫でる。
「……冗談じゃありません。兄さん、私は、ずっと彼を食べてしまいたいって思っていたんです。強くて、大きくて、とっても美味しそうだなって……はい、彼はほんとうに美味しかった。暴れるから飲み込むのがちょっとだけ大変でしたけれど、肉が厚くて、柔らかくて、彼に愛されている兄さんがちょっと羨ましくなっちゃいました。それに、ふふ、その顔……優しくて親切で頭の良い兄さんの、何が起きているのかわからなくて、現実が受け入れられなくて、ただ呆然とするしかないっていう哀れな顔、ずっと見てみたかったんです。お願いが一度に二つも叶うなんて、私、とっても幸運な女の子ですね」
「百合子、——百合子! お前がやったのか! ジャックを……お前が、殺したのか!」
「ええ」
 あまりにも冷たい宣告だった。
「だって……彼が、悪い子だったのがいけないんですよ? 私はいやって言ったのに、引き止めようとするから……」
 遊星は、彼の理知的な目を限界まで見開き、口を開いたまま絶句した。下瞼のふちから、怒りと絶望のための涙が一筋こぼれ落ちる。
 そんな彼を、百合子はひどく醒めた目で一瞥すると、くるりと背を向けて寝室を出ようとした。
「……どこへ行く」
「あなたには関係のないことです、兄さん」
「行かせない……行かせない!」
 ジャックの身体を抱きしめていた遊星が立ち上がり、百合子の背に飛びかかる。
 百合子は軽やかに振り返り、兄に向かって右手を突き出した。繊細な指がものを掴む形になり、何かを左に捻り上げる。すると、触れられてもいなかった遊星の左手が勢いよくねじれ、かと思えば、手首が通常ではありえない方向に折れ曲がった。骨が折れ、筋肉が引きちぎられるぶちぶちという音が立つ。遊星が悲鳴をあげ、左手首を庇って床に崩れ落ちた。
「ぐ、あ……」
「邪魔しないでください。かわいそうな兄さん、食べるのは最後にしてあげようと思ってたのに。今、死にたいんですか? 残念ですけれど、私、もう今までの小さくて弱い私じゃないんです……兄さんに守られていたお姫さまは、もういないんです」
「ゆ……百合子……」
「ああ……私を殺すつもりだったんですね。ばかみたい、だからあなたはだめなんです。優しい〈わたし〉があげたチャンスをふいにしたくせに、自分に都合が悪くなった途端に……悲しい。悲しくて笑いが止まりません。知ってますか? 私、兄さんが大好きでした。今も大好き。自己中心的で、矛盾だらけで、何もかもを選ぼうとして全てを取りこぼしたばかな兄さんが大好き!」
 小さく可憐な白い蕾は、無差別に毒を撒き散らす害花として開花した。百合子は、苦しむ兄を見下ろし、実に愉快そうに微笑んだ。
「さようなら……兄さん」
 ふと、ジョニーが愛してやまなかったあの青い海の瞳が、言葉を失って立ち尽くす夫の姿をとらえた。
 ジョニーは息を呑んだ。ジャックを殺し、兄を傷つけた女の瞳に満ちていたのは、狂気でも快楽でもなく……そこ知れぬ悲しみだった。悲痛なまでの孤独、苦痛に膝を折った悔恨だった。小さな宇宙を閉じ込めたような瞳孔や、彗星の尾を思わせる透き通った虹彩は、確かにジョニーの知る優しい彼女のものだ。何かを言いたげに開かれた唇は後悔に戦慄いていた。大切なおもちゃを誤って壊してしまった幼子の哀情、愛するものに否定された少女の辛苦。
 彼女は、ジョニーに何かを訴えている。
「忘れちゃいやですよ、ジョニー。私を追いかけてきてください。……果てで、待っています」
 それだけ言うと、彼女は踵を返し、今度こそ振り返らないまま部屋を出ていった。暗黒に放り出された気分だった。

 絶望は、何も人間を死に駆り立てるだけのものではない。死を選ぶということは、つまり、何かを望むだけの希望が残されているということなのだ。本当の絶望は、人を逃避させる。現実から、自分の感情から。
 必死のジョニーに声をかけられている間も、駆けつけたパラドックスに手首を治療されている間も、遊星はジャックの死体を抱えて呆然としていた。
「あれは百合子じゃない。百合子は、あんなふうに笑ったりしない」
 時折そんなことを口にし、彼は微笑みとも泣き顔ともつかない表情をその顔にのぼらせるのだった。
 治療を終えたパラドックスが寝室から出てくる。遊星は、百合子が使っていた鎮静剤を打たれて眠ったらしい。ジョニーがソファに座ってニュース番組を見ていると知ると、彼は白衣を脱ぎ、ネクタイを緩めながら隣に腰掛けた。
 ——シチリア全土で、突然意識を失い倒れる人が続出している。昏睡状態にある人々の既往歴や生活習慣に目立った共通項は見られず、無差別的な発症であると考えられる。ほとんどの医療機関は詰めかけた大勢の患者家族で機能不全に陥り……
「君の細君はあの男を食ったと、そう言ったのだな」
「うん」
 画面から視線を外さないまま、ジョニーは顎を逸らして肯定の意を示した。
「であれば、シチリア中で住民の意識消失を起こして回っているのも、おそらく彼女だろう。だが、動機も目的も、その手法にも、さっぱり検討がつかん。医者は合理的な生き物だ。道理に反する現象については滅法弱いのだ」
 言いながら、パラドックスはポケットから取り出したミントガムを二つも三つも口に放り込んだ。仕事柄煙草を吸えない彼は、ミントの刺激で冷静かつ明朗な思考を保っているのだ。
「十代……僕の友だちが、彼女は人間じゃないって言ったんだ」
 が、ジョニーの一言に、彼は再び冷静さをどこかに放り出してしまった。
「……は?」
「いや……人間ではあるんだけど、体の中に人間じゃない何かを飼っていた、生まれてから、ずっと。そいつは人間としての百合子を食い潰して表に出ようとしていた。きっと、それが叶ってしまったんだ」
 あの日、ジャックから聞いた百合子の出自、そして十代から聞いた真実を絡めて紐解く。
 百合子は、(規制)という名の神秘の生き物の遺伝子を、人間の受精卵に打ち込むことで生まれたあいの子だ。彼女は、人間にはありえない特徴を持ちながらも、おおむね人間と同じ形のものに成長した。しかし、一方で、その身体や精神は(規制)によって絶えず冒され続け、そのために彼女は常に苦痛の中にいた。そして今日、(規制)の領域が本来の人格を上回り、彼女は恐ろしい怪物に豹変した。
 おそらく、彼女はぼろぼろになった身体を修復する力を得るために、シチリア中の人間の命を吸い取っている。そして……ジョニーにそれを止めてもらいたがっていた。彼女は最後まで自分を食い止めようとしていた。自分の命を犠牲にしてまで。
 そうだ、やはり彼女は変わってなんかいなかった。恐ろしい異邦のものが身体を支配する後ろで、彼女は必死に抵抗を続けているのだ。
「ジョニー、君、何を言っている?」
「信じられないよね。でも……多分本当のことだ。でなければ、この国のどの医者も彼女の病気を突き止められなかったのはなぜ? 彼女が傷ひとつつけずにジャックを殺せたのは? 僕たちの常識では、彼女の周りで起こる出来事に説明をつけることができない」
 怪訝そうな様子のパラドックスを尻目に、ジョニーは頭を抱えた。どうしたらいいのかわからなかった。このまま人々が死んでゆくのは見殺しにできない。でも、彼女を……優しい彼女をこの手にかけることだけは、してはならない。そんなことをすれば最後、ジョニーの魂は死んでしまうのだと思った。
 ……どれだけの時間が経っただろうか。放心した耳に、表のベルが鳴る音がかすかに届く。
「来客か」
「こんな時に誰?」
 シチリア中が混乱に陥っている今、呑気に訪ねてくる人間が果たしているものだろうか。ジョニーの脳裏に百合子の姿がよぎるが、その可能性はすぐに打ち消される。彼女は待っていると言っていた。ジョニーの方から出向かない限り、彼女に会うことはできない。
 ジョニーは期待の眼差しでパラドックスを見たが、彼は潰れたエクレールの本懐を遂げてやることにご執心だ。重い腰を上げ、一人で部屋を出た。階段を降り、廊下を渡って玄関にたどり着く。鍵はかけていない。彼は気乗りしない気持ちのまま扉を開けた。
 女の子のように伸びた赤毛。生意気そうな少年の顔つき。
「やあ、ジョニー君。相変わらずしけた顔してんな」
 立っていたのはルチアーノだった。
 緊張していた心の糸が弾けて、彼の全身を脱力させた。仕方のない話だ。刑事か、悪魔か、世界の終わりかと覚悟して開けた扉の向こうにいたのは、近所に住むありふれた悪ガキだったのだ。重たく湿ったため息とともに、つとめて優しく、理性的に聞こえる口調で、彼は少年を諭しにかかった。
「……ルチアーノ。悪いけど、今はつまらない言い争いをしている場合じゃないんだ。君も早く家に帰って、お父さんお母さんと隠れていた方がいい」
 お父さん、という単語をジョニーが持ち出した瞬間、彼はこの上なく意地悪に、また上機嫌に口の端を吊り上げて、笑った。何も知らないくせに偉そうなこと言うな、とでも言いたげな笑顔だった。
 彼はジョニーの胸を指で乱暴に突いて、「そう言うなよな。あんたに今一番必要なものを、あの人から預かってる」
「あの人」
「ボクの師匠。くそ、いつもならこんなこと絶対しないんだからな」
 光の中で、白衣の裾が翻る。ちぐはぐな長さの二本の足が軽快に床を蹴り、赤い背中が振り向いて、彼女は不敵な笑みで——うまくやれ、ジョニー。
 ルチアーノが差し出したのは、一枚のカードだった。
 息を呑むジョニーを、やけに真っ直ぐな目で見上げながら、彼はこんなことを言った。
「幾重にも分岐した運命の、不確定の枝々の中で、漂っていたボクはあの人に拾われた。このままじゃかわいそうだ……そんなことを言いながら。何もかも諦めた、人間なんて大嫌いだ、って目をしてるくせに、ボクみたいな子供には甘いんだ。破綻してるよな。
 さて、今あんたに必要なのは、人類の敵になってしまった女を殺し尽くして、その灰を海に撒くための切り札だ。人間の皮を脱ぎ捨てた彼女は、もう何ものにも殺されない。誰にも止められることなく、満足するまで人間を食い散らかして、最後には愛する男すら本能のままに咀嚼して一人になる。結婚式のとき、自分が何を誓ったか覚えてるか? 彼女を守ると誓ったんじゃなかったか? この世界の全てを征服して、たった一人になった彼女の心は……どうなるだろうな。ジョニー、彼女が辿ることになる最悪の運命から、彼女を守るには、道は一つしかない。奇跡にはそれを凌駕する奇跡だ。
 彼女を殺せ。あんたにしかできない」
 舞い散る白い花びらの向こうに広がる、優しい春空を描いた美しい金色のカード。〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。人間を愛した結果、怪物になってしまった女神に終焉を運ぶ運命のカードだ。
 初めて触れてみて、ジョニーにもわかった。見知らぬ誰かが、多くのものを犠牲にして作り上げたものなのだ。この一枚に、世界すら滅ぼしうるほどの強大な力が込められている。カードを構成する一つ一つの要素が、たった一つの指向を持って、力を解き放つその瞬間を粛々と待っている。ジョニーがひとたび、願いさえすれば、これはすぐさま発動条件を満たし……百合子の心臓を確実に仕留めるだろう。彼女の魂は粉々に破壊され、二度と戻らなくなる。輪廻の輪に乗ることもなければ、転生することもない。
 拳を握り込む。胸の内側が冷え冷えとざわめく。十代にも、既に忠告されていたことだった。どちらにせよ殺すことになる、彼女はそう言った。
 選べなかったジョニーの前には、道は一つしか残されていないのだ。

 はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
 笑う百合子の、美しい顔がよみがえった。それから、拗ねて怒る顔、愛してると言われて泣いてしまった顔。初めて手を繋いだときの、心地よい緊張。一緒に海に落ちた時に見た不思議な半透明の四肢。起き抜けに飛ぶ鴎に弾けた歓声。浜辺に踊る繊細な身体。食べてほしいのだとこぼれた涙。心地よい夜闇の中で絡んだ指先。
 潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ……。
 ——大好きです、ジョニー!
 出会ってから七年間、百合子はたくさんのものをジョニーにくれた。自分は何も返せないままだ。あろうことか、苦しむ彼女をさらに追い詰めて、死の淵に追い遣ろうとまでしている。
 自分はひどい男だ。意気地なしで大馬鹿で、阿呆な夫だ。熱い涙がとどめなく溢れ、こちらを見上げるルチアーノの柔らかい頬にぽたぽたとこぼれた。一粒一粒が百合子への激情だ。百合子。百合子。百合子。百合子……
 百合子を愛している。大好きなのに、何もかもうまくいかない。
 ルチアーノは、半ズボンのポケットからハンカチを取り出して、ジョニーの涙を拭ってくれた。らしくもなく優しい仕草だった。
 やわらかい無垢な子供の両手が、ジョニーの右手を包み込む。
「泣くなよ、ボクがいじめてるみたいだろ。パパ……」

 

 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 少年は父親と繋いでいた右手を離し、舞い落ちる花のひとひらをふっと捕まえてみせた。立ち止まり、期待のうちに幼い指を開く。一枚だけだと思っていたが、よく見ると、薄い花びらが二つ連なって、彼の手のひらの上につんとすましていた。母親が口の端を緩やかに持ち上げて、彼の左手を優しく握り込む。
「それ、食べられるんですよ」
「え!」少年は驚いて、二枚の花びらをまじまじと眺めた。「本当?」
「本当ですよ。ママの国では、花びらを塩に漬けて、甘いパンの上に乗せて食べるんです。あとは……お湯に溶いて、飲み物としていただくこともありますね」
「あんまり美味しくなさそうだけど」
「馬鹿にするなよな。ママのサクラアンパンは美味しいんだぞ。ルチは食べたことないから知らないだろうけど」
 繋いだ手を離されて不満げな父親が、子供のように拗ねて言う。母親は呆れたように肩をすくめるのみだったが、少年はまだ幼かったので、売られた喧嘩は買わなければ死ぬとばかりに父親に噛み付いた。
「いいもん、別にさ。パパのバカ。それより、ねえママ、ローストビーフ作ってきてくれた?」
「ええ、もちろん。今日はルチの誕生日ですからね。食べたいだけ食べていいんですよ」
 持っているバスケットを掲げて、母親は得意げに胸を張った。少年はたちまち飛び上がって、勢いよく母親の腰に抱きついた。勢いに耐えられず後ろによろめいた母親の身体を、父親があわてて受け止める。
「ほんと! ママ、大好き!」
「百合子……ルチが好きに食べたら、僕の分がなくなっちゃうんだけど……」
「ボクの誕生日パーティーなんだから、全部ボクのなのは当たり前だろ?」
「まあまあ。ジョニー、今日くらい良いじゃありませんか」
 親子は遊歩道脇に手頃な芝生を見つけて、その上に大きなシートを敷いた。中央に座った少年の目の前に、母親が腕を振るって作った宴会料理の数々が並べられる。父親が急いで買ってきたホールケーキも一緒だ。
 ケーキの上の、いちごの間を縫うように刺さった五本のろうそくに火が灯された。両親の歌に合わせて、少年が息を吹きかける。火がみんな消えてしまうと、二人は一斉に拍手をし、小さな少年の身体を思いきり抱きしめる。
 母親の柔らかい唇が、少年の、興奮で上気した頬にもたらされた。
「お誕生日おめでとうございます、ルチアーノ。パパとママの子供に生まれてきてくれてありがとう」
 父親も、照れくさそうな笑顔を浮かべながら、反対側の頬に同じように触れた。
「誕生日おめでとう、ルチアーノ。パパとママは、おまえのことをずっとずっと愛しているよ」
 少年は……幸せだった。幸せすぎて、明日には世界が終わってしまうのではないかと思うほど。

 それは食らった誰かの記憶だったかもしれない。あるいは、ジョニーと百合子には本当にそんな未来が用意されていたのか。どちらにせよ、百合子には関係のないことだ。だってもうすぐ死ぬのだから。
 闇の中で、百合子は耳を塞いで蹲っていた。口に押し込んだ人々の魂が彼女に囁くのだ……呪いを、怨恨を、憤懣を、悪念を。外に出ようと喉を遡る彼らを、彼女は自らの首を絞めることでなんとか抑えようとした。人の魂を食らうことは、古来から(規制)の習性、そして傷つき朽ち果てた彼女の身体を維持するためには不可欠なことだった。
「いや……怖い、です……ジョニー、ジョニー……」
 愛する男の名前を呼ぶ。
 もうすぐ彼は、魔女から譲り受けた滅びを携えて、百合子のことを殺しにくるだろう。わかっている。悪役は正義の味方に成敗されるものだと決まっているのだ。今思えば、百合子がジョニーを愛して、彼の元に嫁ぐ決意をしたのは、この日のためだったのかもしれない。優しいジョニー。ひたむきに百合子を愛しながらも、人々を苦しめる悪いものをを見逃すことなどできるはずもない、誠実で美しいジョニー。
 涙が溢れて止まらないのに、唇はひとりでに微笑みの形をとる。
「……いいえ。怖がることなどありません。だって……全ては彼と生きるため。そのための食事、そのための犠牲です。当然でしょう? 今まで散々私のことを苦しめた世界。今度は私が、痛くて怖くて泣いてしまうほど、辛い目に合わせてあげます」
 思えば、自我を獲得したその時から、百合子は耐えず苦痛にさらされてきた。薄っぺらく壊れやすい人間の肉体に内包された大いなる矛盾。双方がお互いの領域を守ろうと争闘し、それが幼い少女の肉を、骨を、精神を、容赦なく引き裂き、傷つけてきた。
 魔女は彼女に、人間として生きろと言った。やさしい両親とやさしい兄は、彼女を人間として受け入れた。だから彼女は空腹を訴える内臓の痛みを、人間の部分を侵略しようとする何かの蹂躙に抵抗し、なんとか形のある理性を保ってきた。魔女にも、家族にも、感謝こそすれ恨みなどかけらもない。しかし、人間であろうとする限り、彼女はやはり激しい倒懸から逃れることはできなかった。
 そこに、ジョニーが現れた。闇夜にきらめく流れ星のような人。
 ジョニーは誰にでも親切で、善良で、清廉だった。でも、彼女には特別優しかった。いつもひたむきに、まっすぐに彼女のことだけを見つめてくれた。そっと抱き寄せてくれる腕は温かくて力強くて、彼は彼女を泣き虫だなんて笑うけれど、彼の胸の中ではじめて、彼女は痛み以外のために泣いたのだ。涙を拭ってくれるとき、彼は天使のように優しく、神のように偉大だった。
 彼にはじめての恋をした。心から好きになった。彼と生きることができてはじめて、人間として生きてきた自分が報われた。彼の隣にいられたら、痛みすら愛おしむことができた。
 彼に促されて顔を上げて、花の色が、かたちがとてもきれいなものなのだと知った。空の抜けるような青さを知った。雲は白くて、木の葉は透き通るような緑で、風は気持ちよくて、雨に濡れるのも彼となら悪くなかった。子どもは無垢で可愛くて、大人はみんな親切だった。教えられなかったらきっと知らずにいたことを、彼はたくさん教えてくれた。
 どうしようもなく意地悪な世界でも、それでも……ジョニーと一緒にいられる時はいつでも、本当に幸せだった。
 大好きだった。
「早く来てください、ジョニー……お願い来ないで……」
 寂しくて寂しくて、百合子は膝を抱え、声を上げて泣いた。もう一度やり直せたらどんなに良いだろう。

 

 どこかで泣いている声がする。寂しがりやで、泣き虫な彼女が、感じやすい子どものように泣いている。たった一人で。
 ただ、抱きしめてやりたいと思った。怯える肩を抱き、大丈夫だよと……たとえ彼女が世界でいちばんの悪党だったとしても、自分は彼女を愛しているのだと、わけもなく、そう伝えたかった。
 ジャケットだけを羽織って家を出ようとしていると、三階から誰かが勢いよく降りてきた。遊星だ。彼は包帯を何重にも巻き、ギプスまでつけた左手首を首から吊り下げた痛々しい姿だったが、眼だけは大きく見開かれ、針のような光がのぞいていた。頷いてみせる。
 もう真夜中もずいぶん過ぎた頃だというのに、パレルモの街は混乱と叫喚で溢れていた。雑然たる声が波のごとく起こり、沈み、また起こった。戦争でも始まったかのようだった。前触れもなく倒れた愛する誰かを必死に抱えた人たちが、病院に詰めかけている。訳がわからずに呆然と立ち尽くす人、狂ったように救急車《アンブランザ》を呼び続ける人、泣き叫ぶ子供。サイレンの音が遠くで鳴っている。
 ひしめき合う人々、身動きもできないほどの人混みを両腕でかき分けて走る。腕の痛みで遊星の足が鈍りはじめる。ジョニーはそのことを知ると、路地に入り、停車したタクシーの運転席で居眠りしていた運転手を叩き起こして、モンデッロ・ビーチに急ぐよう捲し立てた。
 百合子は果てで待っていると言った。それなら、二人のたどりつく場所は同じだ。

 風が潮騒とともに胸の中に吹き抜けてゆく。
 消え入りそうなほど遠くまで続く海原に、おぼろな薄明の桃や紫がほのかに横たわっている。波はくすんだ銀色の飛沫をあげながら、ゆるく、穏やかに打ち寄せる。波打ち際では、真珠のレース編みのように、みなわが花を咲かせていた。
 濡羽色の美しい黒髪がつややかに翻り、百合子がいる、と思った。
 百合子は家を去った時のままのネグリジェ姿で、その薄い生地が、光とともに彼女の真っ白な身体の輪郭を透かしていた。裸足のままずいぶんの間走ったのか、拵えた人形のパーツのようだった足が血まみれで、赤いのと白いのが、なまめかしさの均衡をうまい具合に保っていた。無害そうな、やわらかそうなうなじが、項垂れているために薄明かりの中で白く浮かび上がっている。途方に暮れたような横顔で長いまつ毛が羽ばたき、その度に青い影が柔らかく羽ばたいた。
「百合子」
 彼女が振り返り、ジョニーを見た。瞬きひとつせず、恍惚としたように、あるいは途方に暮れたように、まっすぐにジョニーを見つめた。
「ジョニー」
 花びらのように、薄く頼りない唇が、似合わない笑みの形をとった。
「……やっと来たんですね。遅いから、待ちくたびれてつい食べ過ぎちゃいました」
 はじめてキスをしたときも、彼女は泣いたのだ。ジョニーの胸に顔を埋めて、もう二度と離れたくないというような、やっと自分の居場所を見つけたのだというような、そんな必死さで……小さな手で濡れたシャツの背中を掴み、小鳥のように顫えながら、彼女はジョニーの唇からのやさしい愛撫を求めた。
 同じだ。顔では笑っているが、いま、きっと彼女は泣いている。 
「どうしたんですか? 私を殺しに来たのでしょう。とぼけたみたいに突っ立って、何をしにきたか忘れたのですか?」
「どうしてこんなことをするんだ!」
 彼女を抱きしめようと腕を伸ばすジョニーに先んじて、遊星が咆哮した。
 ジョニーに向けた笑顔から転じて、末恐ろしくなるほどの無表情になった彼女が、羽虫にやるような視線を兄にやった。遊星の精悍な男の顔が恐怖に歪む。
「どうして、ですか?」
「ジャックを殺して、罪のない人間を死に追いやって、お前は一体何がしたいんだ! 何が目的だ!」
 遊星の激昂はおよそ彼らしくないものだったが、ジョニーも百合子も、そんなことには見当もつかなかった。
 小さな動物がするように首を傾げて、百合子は心底おかしいといった様子で吹き出した。口元を軽く押さえ、肩を震わせながら、喉の奥で押し殺した笑い声をあげる。
「決まっているじゃないですか。私に優しくないこの世界に思い知らせてやるためです。愚かでかわいそうな兄さん……本当に何も知らないんですね。大切だなんて言いながら、本当は私になんて興味もなかったんでしょう? やさしい両親の愛を横取りする私が邪魔だったんでしょう? 当然ですよね、私は本当の妹じゃありませんから!」
「……」
「ばかな兄さんは知らなかったでしょうけど、私、人間じゃないんです。でも、同時にどうしようもなく人間で……この忌々しい矛盾は、私の身体、私の精神、私の心をずっと傷つけてきた。生まれてから今に至るまで、一瞬たりとも、痛くなかったことなんてなかった。起きていても寝ていても、痛くて痛くて、瞬きをするだけで痛くて……」
 笑っていたはずの彼女の表情はくしゃりと歪み、ぽつりと放り出されたような涙が一粒、彼女の下瞼からこぼれた。
「でも心臓は勝手に生きようとするんです。死のうと思ってナイフを喉に当てても、崖の上に立って飛び降りようとしてみても、どうしてもできなかった。どうしてかなって、こんなに辛くて苦しいのにどうして死ねないのかなって、あなたたちが来るまでずっと考えていました。いまやっと分かった。……あなたのせいです! ジョニー! あなたがいたから……あなたなんかに出逢っちゃったから!」
 百合子はもう、笑いも、泣きもしていなかった。純然たる激情だけがジョニーに差し向けられ、それは百合子の右手をどうしようもなく突き動かした。細くたおやかな指が……ジョニーの手を握り、ジョニーを抱きしめ、ジョニーを労ってきたあのやさしい指が、いま、彼の命を奪おうと伸ばされる。
 でもうまくいかなかった。震えて、指を握り込むことができないのだ。彼女は自らの腕を制御しようと必死に歯を食いしばりながら、それでも目の前の無力な男一人殺すことができず、もどかしそうに首を横に振った。
「いや……どうして? どうして、どうして!」
「ジョニー」遊星が抑揚のない声でジョニーを呼ぶ。「彼女を殺せ」
「遊星!」
「分かっているだろう、ジョニー!」
 遊星の絶叫は、獣が遠吠えするのにも似て、深い怨恨を帯びて響いた。それなのに、眼差しはいやに透徹だ。ジョニーの鼻の先に、ジャックとの最後の別れの瞬間が鮮烈によみがえった。
「あれはもう百合子じゃない! 百合子はもういない! 百合子は……百合子はあんなふうに、笑いながら命を弄んだりしない!」
 百合子が怒りとともに兄を振り返り、震えていた右腕をまっすぐに伸ばした。今度は、ためらいも加減もなく、ただ兄の命を捻り潰すべく、彼女の優美な掌が開かれる。

 

 妹と本当にわかりあうことができるのは、死のその瞬間だというほのかな予感があった。
 十二歳のとき、初めて彼女と出会って、右手と右手で握手して、ふとその感覚を得た。握った手のひらは、朝方の濡れた砂浜のように冷たく、すべらかだった。
「初めまして、遊星さん。これからどうぞよろしくお願いします」
 母に肩を抱かれた妹は、奥行きのある青い目にためらいと恐怖を漂わせながら、折り目正しく遊星に頭を下げた。拒絶されることを恐れているようだった。しかし、その懸念は全くの見当外れだった。長らく一人っ子で、多忙な両親に構ってもらえずに寂しい思いをしていた遊星にとって、妹ができるというのは願ってもない喜びだった。
「ああ、よろしく、百合子」
 遊星がそう返事をして初めて、妹はほっとしたようにまなじりを下げた。

 控えめだった幼い彼女がはじめに興味を見せたのは、花に対してだった。あまり植物の生えない場所で生まれたのかもしれない、父が祝いのために百合の花束を買ってきたときには、きゅうりを見せられた猫のように飛び上がり、咄嗟に母の背中に隠れていた。遊星が促してようやく、彼女は花にそっと顔を近づけ、その白い花弁を摘んでみずみずしい感触や香りに触れた。みるみるうちに頬を赤らめ、瞳に喜色が満ちるさまは、それこそ花が綻ぶようで、年甲斐もなく美しいと思った。
 外出に慣れてからは、花を見によく近所の公園に行った。遊星は花なんかに興味も関心もなかったが、友人からのサッカーの誘いも、ゲームの誘いも蹴って、熱心に花壇を覗く妹の隣に寄り添った。
 春には桜が咲いた。枝に登って、桜を直接見たいという妹のために、父と二人がかりで脚立を持ち込んだ。
 薄紅色の花房から漂う甘い香りに誘われたのかもしれない、黒々とした太い枝には、無数のアブラムシがついていた。それが枝にしがみつく妹のワンピースに飛びつこうとする。遊星はそうした不躾な虫たちから妹を守ろうと、指先で彼らを潰そうとした。しかし、妹はそれをやわらかい手で押しとどめ、首を振った。母が結った二つのおさげが可憐に揺れる。
「だめ、遊星さん。一寸の虫にも五分の魂なんですよ」
「しかし……このままではスカートが虫だらけになってしまう」
「いいじゃないですか。せっかくですから、虫さんたちも一緒にお花見させてあげましょう」
 妹は無事に枝に着陸した。陽射しが午後の温かなぬくもりでもって、妹の痩せた身体の輪郭を白くぼんやりと浮き出させていた。
 遊星は風にあおられた薄くはかない花びらの、その一枚を掬い取り、妹の耳の上に飾ってやった。
 天使のような娘だと思った。

 月光だけがぼんやりとあたりを照らす部屋、その端にぽつんと置かれたベッドの上で、苦しみのたうち回る妹を見た。
 声を押し殺し、胸元を掻きむしって、まるで身体の中を占拠する異物を追い出そうとするかのように何度も何度も咳をした。見開いた目からは大粒の涙がとめどなくこぼれてシーツに落ち、それに混じって、傷つき捲れ上がった胸の傷からの血が滲んだ。
「百合子!」
 思わず駆け寄り、その身体を抱き起こす。
 妹は悪戯がバレたみたいな顔つきになって、なんでもなさそうに笑おうとした。しかし、頬の筋肉が震えてうまくいかない。
 どうしたのだと繰り返し聞いても、大丈夫だと首を振るばかりで何も教えてくれない。
 翌日、遊星は小学校に行くふりをして家を出発し、市の図書館に駆け込んだ。目的地は医療関連書コーナーだ。この棚にある本を片っ端から読み尽くせば、妹の謎の病気の正体もわかるのだと、そのときの遊星は息巻いていた。妹は自分が救うのだという正義感が遊星を突き動かしていた。
 しかし、当然ながら医療従事者向けの専門書は小学生には難易度が高かった。一冊目は五時間かけてなんとか読み下したものの、二冊目を読み始めてからはもう頭がくらくらして、結局突っ伏して寝てしまった。
 そこに魔女が現れた。
 魔女は、物語に出てくるような、鼻が曲がっていて、とんがり帽子と黒いローブを着たおばあさんではなかった。ノースリーブの赤いショートドレスの女。マントのように羽織った白衣の襟元に、金のバッジをつけた、冷たい美しさの女。よく観察すれば男のようにも見えただろうが、そのときの遊星は夢うつつで、その人の性別についていちいち検討している余裕などなかった。
 時が止まったかのように静かな図書館。広い閲覧室内には、眠りと覚醒の間を漂う遊星と、美しい魔女、その二人だけだった。
「遊星……妹が気になるか?」
 はるか彼方の星が戯れに人間に語りかけるような声で、魔女がささやいた。
「うん」
「それがお前にとって都合の悪い真実でも受け入れられるか」
「うん……」
 遊星は夢うつつで答えた。
 魔女は感じやすい年頃の少年がするみたいに後頭部を雑に掻き、参ったな、というふうに目を伏せた。甘い木の実の色をした目が、外からの光で緋や碧の宝石のようにきらめく。
「オレはお前みたいな子どもが好きだから、ついつい甘やかしちゃうんだ。いいぜ。さ、左手を」
 言われるがままに、遊星は左手を差し出す。魔女のやわらかい右手がそれを強く掴み、事象の地平へと彼を引き上げた。
 深く暗い水の向こうに、遊星は妹の真実を見た。

 妹は泣き疲れて眠っている。夜毎涙に濡れる頬を指で拭ってやって、そのあまりの柔らかさに、遊星は息を飲んだ。
 痩せていて小さくて、胎児のように丸まって目を閉じる姿は、まるで壊れやすい人形のようだった。思えば、妹は猫でも天使でもなく、まだ十歳かそこらの普通の女の子なのだ。その妹が、小さな身体一つに苦痛と滅びの運命を背負って生きている。悲しくて、愛おしくて、遊星まで泣いてしまいそうだった。
 そっと寄り添い、後ろから抱き締めると、妹はかすかに身じろぎした。閉じていた瞼がゆっくりと開かれ、きらめく二つの瞳が遊星を見上げる。
「遊星さん……」
 胸が、火をつけたようにカッと熱くなる。
 腕の中で小さな身体を反転させ、遊星は妹の目を至近距離で覗き込んだ。虹彩は月光を蓄えて銀や青の光を放ち、縮まった瞳孔は果てしない宇宙をその中に閉じ込めたみたいだった。薄い下瞼は腫れてほのかに赤くなっている。
「泣いた跡がある。何かあったんだな」
「……大丈夫です、遊星さん。あなたが気にすることなんて……」
「兄が妹を気にしちゃいけないか?」
「遊星さん?」
「兄さん、だ」
 語調を強くしすぎたのかもしれない。妹は怯えのために目を見開き、びくりと肩を震わせる。
 遊星は途端に慌てて、みっともなく弁明を始めた。
「俺は百合子の兄だ。それなら、遊星さん、なんておかしいだろ。兄さんって呼んでくれ。……呼びにくかったら、お兄ちゃんとか、にいにとか、兄貴とかでもいいけど」
 初めは驚いた様子だった妹は、やがて、冬が春に変わるその瞬間の、優美な雪解けを思わせる微笑を見せた。兄さん、兄さん、兄さんと、初めてもらったプレゼントを何度も眺めるみたいに、口にしなれない言葉を繰り返す。それから……ようやく打ち解けた、安心し切った様子になって、頬を撫でる遊星の手に嬉しそうに擦り寄った。
「いいえ……いいえ、ありがとうございます。遊星兄さん……」

 愛しい妹。この世でたった一人の妹。いつか彼女に愛する人ができて、この手の中から飛び立ってゆくまで……いや、自分が死んで、現世を離れるその時まで、彼女を守ろうとそのとき誓った。
 誓いを果たすときだ。

 

 心臓を直接握りつぶされ、遊星は絶命した。
 もはや生も死も包括し人類の上に君臨した少女の掌の上で、男の命は実にあっけなく、風に舞い上がる塵のように終わった。愛するものを守るため、ただひたすらに燃やされ続けていた炎はいま、細く頼りない紫煙を一筋上げて消滅した。彼の凜とした佇まいが崩れ、抜け殻だけが砂浜の上に転がる。咆哮の形に開かれたままの口腔から、血が一筋、怜悧な顎へと静かに伝った。
「兄さん」
 冷たく鳴る潮風に乗って、百合子の気の抜けたような声が聞こえてくる。
「どうして」
 息を飲んだまま茫然として立ち尽くしていた百合子の身体は、次第に大きく震え出した。取り返しのつかない自らの罪に心が押し潰されそうになりながら、それでも懺悔の言葉を絞り出すことをやめられない。
「どうして……兄さん、知っていたのですか? 知っていて……それでも……」
 遊星は答えない。
「嫌……兄さん、兄さん、にいさん、にいさん、兄さん……!」
「百合子」
「私……兄さんを殺してしまった。兄さんは、ず、ずっと私を……守ろうとしてくれてたのに! そんな兄さんにひどいことを言って、心臓を握りつぶして、私は、わたしはもうどうしたら」
 ジョニーは何も言えないまま、倒れ伏す遊星に近づき、その身体を抱き上げた。
 ——百合子、俺の心はいつでもお前のそばにある。愛しているよ。
 苦しむ百合子に、彼はそう言ったのだ。そしていま、約束は守られた。命を奪われようとするジョニーを守るため……そして、ジョニーを愛する百合子の心を守るために、彼は自らの身を犠牲にした。妹を守った。
 誇り高く、聡明で、懇篤な人だった。もう戻らない。ジョニーの人生から、そして百合子の人生から、不動遊星は永遠に立ち去ったのだ。
「ジョニー」
 おぼつかない唇で、彼女はジョニーに縋った。
「ジョニー、わたしを……私を殺すのでしょう? 望むようにさせてあげます、早く、はやくあの人にもらった切り札で……今まで散々愛していると嘯いたその口で、大丈夫だと私の背中を撫でたその指先で、私の身体があとかたもなくなるまで破壊し尽くしてください。私も……あなたに、そうしますから!」
 それでも、彼女は身体の震えを止められない。細い腕が自らの肩を抱く。ジョニーを挑発するようなことを、嗚咽混じりの頼りない声で叫ぶ。人間の命を、まるで取るに足らないもののように口に放り込んできた少女が、心の髄までを後悔と怯えに浸して叫ぶのだ。
 優しく、感じやすいこの少女の薄い両肩に、無慈悲な運命を背負わせたのは誰なのだろう。神? だとしたら、神はとんでもないろくでなしのわからずやだ。
 ジョニーはもう神に祈らない。彼が祈るのは、この世でたった一人、百合子に対してだけだ。
 彼女が幸せになりますように。彼女が幸せになりたいと願った気持ちが報われますように。
 見開かれた遊星の瞼を閉じてやる。そうすると、彼はまるで眠っているように見えた。砂浜の上に彼を優しく横たえ、ジョニーは立ち上がる。百合子を真っ直ぐに見つめる。
「な……どうして! どうしてこっちに来るのですか! 早くしないと、私、あなたを食べてしまうんですよ!」
 ジョニーの、輝く銀の星は、百合子には眩しすぎた。あの不思議な右手を再び突き出し、彼女は夫を拒絶する。
「百合子。やっぱり、君は新しく生まれ変わった知らない誰かなんかじゃない。僕を選んでくれた君、優しくて、いつも笑顔で君と、今の君は同じ人間だ。遊星が死んで、悲しくて悲しくて泣いちゃう百合子だ」
 進む。百合子は後ずさるよりも早く、彼女に向かって一直線に進んでいく。
「泣いてなんかいません! 馬鹿にしているんですか!」
「泣いてる」
「勝手なことを言わないでください! 私はもう、泣き虫の弱い子なんかじゃないんです! 兄さんやジョニーに守られなくても、一人で……一人で生きていけるんです! 来ないで!」
「君には無理だ。僕にだって無理だよ。人間は生まれつき孤独な生き物だから、同じように孤独な誰かに寄り添わなければ生きていけない。君は特別寂しがりだから、同じだけ寂しがりな僕と一緒じゃないとだめなんだ」
「わかったような口を……!」
「わかるさ。君を愛してるんだから」

「泣かないで、百合子。僕がずっとそばにいる」
 ようやく掴んだ右手は冷たかった。雪を掴んだあとのように悴み、震えて、身に余る悲しみに凍えていた。こんなに冷えていては風邪をひいてしまう。早く家に帰って、温かい紅茶でも淹れて、彼女を温めてあげなければ。
「泣いてなんか……いや、離して! 今度こそ……あなたを、あなたを」
 離してと言うくせに、彼女はろくに抵抗もせず、ジョニーのされるがままだ。
 ジョニーはようやく彼女をつかまえた。離れていた時間は一日にも満たないと言うのに、何十年も見失っていたような気さえする。
 百合子は何も変わらない。小さな海をそのまま瞳の空間に映し取ったかのように深く、透き通った青色を湛える二つの虹彩。二重と長いまつげに縁取られたまぶた。鼻はつんとすましていて、唇はまるで水辺にほころぶ桃色の花弁のように薄く、繊細な血色に色づいている。解けた髪は潮に揉まれて絡まりながらも、濡羽色につやつやと輝き、風の中で優雅に翻った。何もかもが精巧な人形のように上品で、小さく、可愛らしくて、爪でこづいただけでも壊れてしまいそうに見えた。
「君にはそんなことできない。わかってるよ。本当は、いま自分が死ぬことで、お腹の中に隠したみんなの魂を解放するつもりなんだ。でもそんなことさせない。
 僕は今まで何も選べずにいた。迷いのうちに何もかもから目を逸らして、君をなおさら苦しめた。でも、いまやっと進むべき道が見えたよ。僕の選ぶ道、僕の使命は、君を守ること。他の何に換えても、愛する君を守り抜くことだ」
「でも兄さんは戻らない。兄さんは……心臓を握りつぶされた兄さんは、他の人たちとは訳が違う」
「君は遊星の命に生きて報いなきゃいけない。遊星が君を守ったのはどうして? 君に生きて欲しかったからじゃないのか?」
「そんなこと、言われなくたってわかっています! でも、でもだめなんです……私は、罪のない無辜の命を弄ぶ、手のつけようのない悪い子で……優しいあなたに眼差しを向けてもらうことも、守ってもらうことも……」
「うるさい!」
 驚き、硬直する彼女の手をそのまま引き寄せる。折れそうなほど華奢な腰に腕を回し、小さな頭を肩のあたりに押し付けて、ジョニーは百合子を強く、強く抱きすくめた。
 愛おしい百合子。空を舞う薄桃色の花びらのようにはかなくて、快晴の日の午後の陽射しのように優しくて、でも強がりだけは一人前の、小さな百合子。ジャックを慕いながら、心の底では彼を恐れていた百合子。遊星に本当に愛されていたと知って、傷つき震える百合子。ジョニーに向けられた愛情に怯えながらも、手を伸ばさずにはいられない百合子。
 柔らかい身体が、ジョニーの硬くしなやかな身体に余すところなく触れる。腹のあたりで早鐘を打つ心臓の存在を仔細に感じ取る。生きていた。よかった。
「大好きだ。可愛くて、強くて、本当は何もかも憎みたいのに、どうしても憎みきれない優しい百合子が大好きだ! 愛してるんだ、君が本当は誰だって構うものか!」
 彼女を愛している。
 全てだった。今のジョニーを構成する、細胞、神経、肉や骨、髪の一本一本に至るまでが、百合子を抱きしめて、大丈夫だと、もう泣かなくて良いのだと告げるために存在していた。
 思えば途方もなく長い旅路だった。この世に生まれ落ち、両親のもとで光に満ちた幸福な幼少期を送り、シチリアにやってきて百合子と出会い、結婚して、百合子の微笑みに照らされながら六年間を過ごして。そして今、ジョニーはようやく、その本懐を果たそうとしている。
 百合子を愛している。百合子が心から笑ってくれるなら、ジョニーは身体も心も、命すら惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。
「……ジョニー」
 百合子はジョニーの胸に顔を埋めて、くぐもった声で夫の名を呼んだ。
 彼女の頬を涙が伝い落ちるのが、ジョニーには手に取るようにわかった。だって、百合子はいつも、ジョニーのたった一言で耐えきれなくなって泣いてしまうのだ。泣き虫で可愛い妻だった。
「……どうにかして消化しようとするのに、うまくいかないんです。身体が、心が拒否して……どうしてなのかわからなくて、苛々して、また食べるのに、やっぱり消化しきれない。身体はどんどん崩れてゆくし、心はどんどん冷えていって、直前に何を考えていたのかすら忘れてしまうほどで。早く早くと手を伸ばして飲み込んでも、消化することだけがどうしてもできない。どうしてかなって……でも、本当はわかっていたんです。
 私にはどうしようもなく優しくない世界だったけど、それでも、ジョニーが愛した世界なんです。ジョニーが花の美しさを教えてくれた。海に沈む夕日の輝きを、そよぐ風の心地よさを、空を飛ぶかもめの自由を、人間が愛し合う歓びを教えてくれた……あなたと一緒なら、生きていてよかったって思えた。この世界に、人間として生まれてよかったって。痛いのに耐えて、頑張って前に進んできてよかったって。あなたが、私に本当の幸せを教えてくれた。
 やっぱり私は死ぬしかないんです。みんなに返してあげなきゃ。償わなきゃ。大嫌いで大好きなこの世界に、今の私ができるたった一つのことです。ジョニー、使ってください。私を殺してください。始まりは最悪だったけど、あなたが終わりを持ってくるのなら……こんな人生でも、きっと悪くなかったって思えるんです」
「嫌だ!」
 ギョッとした顔で百合子が顔を上げた。大きく見開かれた目が、信じられないものを見る目がジョニーに向けられる。こぼれかけた涙が行き場を失って、瞬きと共に弾けて消える。
 ジョニーは百合子を一層抱き締めて、聞き分けのない赤ん坊じみた仕草で首を振った。
「僕は嫌だからね」
「どうして! 私の、最期の願いを、聞いてくれないって言うんですか!」
「最期の願いになんてさせない。百合子のお願いはなんでも聞いてあげたいよ、でも、こればっかりは無理だ」
「ジョニー……!」
「ごめん。でも、やっぱり百合子のいない世界なんて嫌だ。探そう。百合子も、みんなも笑顔になれる終わり方を。こんな意地悪なカードに頼らなくてもいい方法を」
 ジョニーは、胸ポケットに入れた小さなカードを取り出した。
 〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。ルチアーノが、遊星が、そして百合子が見上げた、優しく愛おしい春の空。終わりゆく百合子の心。
 カードは細かな金色の光を帯びて煌めきながら、ジョニーの無骨な掌の上で優雅に回転している。このカードの中で、百合子の滅びが、そして人々の復活が、粛々と解き放たれるその時を待っている。綿密に編まれた神秘の糸が、紐解かれるその時を待っている。
 だが、ジョニーにはそんなものにまるきり興味がなかった。
「きっとどこかにあるはずなんだ、〈パーフェクト・ハッピー・エンド〉がさ」
 そう言い切って、ジョニーは〈パーフェクト・ワールド・エンド〉を破り捨てた。人々の唯一の希望を、なんの迷いもなく。
「な……!」
 百合子の黒髪が、まるで生き物のように逆立つ。
 破られた奇跡は幾辺もの星のかけらになり、ジョニーの頭上に浮き上がった。ばらばらになった希望は無感動に拡散する。百合子の細い手がそれらを掴もうと浮き上がるが、星は生き物のように彼女の手を避け、ふわりと軽やかに舞い踊った。
「ジョニー? そ、それが、どんなに価値のあるものかわかっているのですか! 神さえ滅ぼす奇跡の……」
 瞳を見開いたまま、百合子がジョニーに食ってかかる。
「いいじゃないか、いらないんだから」
「ジョニー!」
「一緒に探しに行こう。百合子」
 大きく頑丈なジョニーの手、幾度となく百合子を愛おしみ、その肩を抱き、頬に触れ、大丈夫だと肩を撫でたその手が、百合子の前に差し出される。
 百合子の……見開いた大きな海の瞳から、歓喜の涙が滲むように伝った。
 灰青色のおぼめく夜明けの光が、水平線の向こうから堰を切ったように溢れ出す。光の領域が、暗く、鈍色の影に燻っていた街の隅々に広がり、夜が後退していく。砂浜は清潔に洗われて澄んだ銀色に輝きだし、海は、散らばったカードの輝きを凌駕するほど強い金色の輝きに満ちて、向かい合う二人の姿をつまびらかに照らし出した。
 涙は朝陽を受けて、瑠璃やサファイア、ダイヤモンドのように七色に輝き、顎までを伝うと夢のように消えていった。光の中で百合子が微笑む。嘘も虚飾もない、喜びに満ちた、力強い笑顔だ。それこそがジョニーが命を懸けて恋をした、美しい百合子の素顔だった。
「はい」
 たおやかな右手が、ジョニーの掌に重なり、しっかりと握られた。
 ……そのとき、二人の頭上で、不可思議なことが起こった。ばらばらになったカードの紙片が、パズルのようにひとつに組み合い復元されていくのだ。
 ジョニーが止める間も無く、かけらは粛々とつながってゆく。元の姿を取り戻すと、カードは再び金の光を放ち始めた。言葉が出てこない。本当の絶望が、ジョニーを暗く陰湿な闇の中に放り込もうとしている。
 百合子はやはり殺されてしまうのか。意地の悪い世界、人でなしの運命によって?

2023/01/04

 

 


 顔を上げた百合子が不安げにこちらを見つめてくる。潤んだ瞳から溢れた雫が、彼女の痩せた頬を夢のように落ちた。顎から滴るのを指先で受け止めながら、ジョニーはその瞼に唇を寄せた。
「約束する。だからもう泣かないで? ね?」
 キスをする。触れ合った皮膚から百合子のほのかな興奮を感じる。ジョニーは揺蕩う薄い蝶の羽のような唇を優しくはみ、舌でそっと伺いを立てる。熱を帯びたやわらかい口腔に緩慢に迎え入れられた。
 彼女のネグリジェは、塗布薬をつけやすいように、前で開く形になっている。薄い生地を破かないようにボタンを外すと、よく出来た陶器の器のような、すべらかな乳房が露わになった。薄桃色の嘴からとろとろと流れるのは白い乳汁だ。臍の上までをゆったりと流れる乳を舌で舐めとり、たどり着いた乳頭をつとめてねんごろに啜った。骨の浮いた腰が焦ったく揺れる。
「あ……」
 朝から晩まで休みなく労働を強いられた肉体に、百合子の甘い声は晩鐘となって、深く、ゆったりと響く。

 早朝六時、いつものジャケットにコートを羽織ったジョニーが出かける前に寝室を覗くと、百合子はまだ眠っていた。彼女の作り物のような白い腕には鋭い針が何本も突き刺さり、そこから伸びたチューブが、鎮静剤や解熱剤を彼女の身体に絶え間なく運び込んでいるのだった。
 ベッドサイドに腰を下ろし、汗ばんだ額をそっと撫でてやると、赤ん坊のように無垢な手がその指先を柔らかく掴んだ。あどけない譫言がジョニーの名を呼ぶことの、なんと切ないことか。常に胸を圧迫する狂おしいほどの愛おしさに突き動かされ、ジョニーは妻の顔のあらゆる場所にキスをした。下瞼に触れると微かに塩の香りがするのが悲しかった。
 ジャックが、二人分のマグを持って寝室に入ってきた。百合子に寂しい思いばかりさせているジョニーの代わりに、今日はジャックが彼女の面倒を見てくれることになっていた。
「行くならさっさとしろ」
 言いながらも、親切な彼はジョニーにマグの片方を手渡した。まろやかなベージュの水面にミルクが微速にうずまいている。ミルクティーだ。
「ジャック……僕はどうしたらいいんだろう」
 渦巻きを目で追っているうちに、予期せぬ言葉がこぼれ落ちた。
 ジャックは片眉を吊り上げ、睨むような目でジョニーを見る。が、何も言わないところを見ると、一応続きを聞く気はあるらしい。
「百合子と少しでも長く一緒にいたくて、僕は今できる最大限のことをしてきたつもりだ。でも……最近はそのために彼女を泣かせてばかりいる」
「お前は」偉そうに腕を組みながら、ジャックは鼻を鳴らした。「……お前にできる最善を尽くしている。それは百合子にもわかっているはずだ」
「え」
「なんだその顔は!」
 だってあまりにも意外だったのだ。この、地球に俺以上の人間など一人もいないというような顔をして生きている男が、ジョニーのしみったれた泣き言にフォローを入れたことが。
 よほど惚けた顔をしていたらしい。ジャックは不満げに怒鳴り、ふと眠る百合子のことを思い出したようになって、罰が悪そうに舌打ちした。自分のマグを引っ掴み、熱いミルクティーを一気に喉に流し込む。
「百合子は無邪気だが考えなしではない」
 空になったカップをサイドチェストに置いて、ジャックは王が詰めかけた国民の前でするように、長い腕を鷹揚に広げた。
「そして、お前はいくじなしの大馬鹿だが、決して阿呆ではない。たとえ空回りしていたとしても、お前が百合子を想う気持ちはきちんと伝わっている。だからこそ、こいつは寂しくて泣くのだ」
「……」
「大切なのは結果ではなく、どれだけ相手を思い遣ったかだ。愛するがゆえに選び取ったことを、一体誰に責められよう」
 簡潔で、明朗なジャックの言葉が、ジョニーの肌をピアニストの指のように叩く。
 なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、ジョニーはジャックがくれたミルクティーを一口啜ってみた。甘い茶葉の舌触りに、彼の不器用な優しさが滲みているようで、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。彼のような男性に一心に愛される遊星は幸せだ。
「うん。ありがとう、ジャック。怖い人かと思ってたけど、君って意外と優しいんだ」
「フン……」
「じゃあ、僕は行くね。百合子のこと、よろしくお願いします」
 最後の一滴とばかりに妻の唇に吸い付いてから、ジョニーは名残惜しくベッドを離れる。
 鞄を下げ、寝室を出ようとしたとき、思いがけず、後ろから呼び止められた。
「ジョニー」
 ジャックだ。振り向くと、まっすぐにこちらを見つめるすみれ色の目と視線がかち合った。
 傲慢な王の顔を引っ込めて、ジャックは静かに微笑んだ。咲き溢れる冬の花の中で、この人は、いやに透明な存在のように見えた。
「百合子の手を離すな。何があっても……やつには、もうお前しかいないのだ」
 その言葉は遺言のようだった。でも、それが本当に最後の別れになるなんて、いったい誰に想像できただろう?


 痛い。
 痛い。痛い。……痛い。
 うまく呼吸ができない。痛くて苦しくてもがいても、身体が灰色の鉛になったかのように重たくて、思うように動かせない。小さくて透明で冷たくて、鋭い歯を持った生き物が、わたしの全身を這い回っているのだ。手も足も、胃も、腸も、骨も神経も肉も皮膚も、脳も子宮も、あらゆる場所に取り憑き、牙を立てて、わたしの全てを食い潰そうとしている。わたしをわたしでなくそうとしている。
 このままでは、愛おしいあの人のことも忘れてしまう。
 ……あの人はどこ?
 名前を呼んでも返事がない。温かな抱擁も、優しいキスもない。涙が次々に溢れてきて頬を濡らすけれど、拭ってくれる人はどこにもいない。わたしは真っ暗な夜の闇の中にひとりぼっち。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続けている。一匹が、その小さな体をうねらせながら、膣の中に入ってきた。気持ちが悪い。嘔吐感を必死に喉の奥にとどめながら、わたしは必死な思いで膣に指を入れ、その一匹の居場所を探った。指は何の手応えを得ることもなく、ただ濡れた肉の壁を左右に擦る。気持ちいい。
 気持ちいい。痛い。痛い。気持ちいい。気持ちいい。
 わたしの膣は、自分の指にあの人の幻想を結びつけて濡れていた。あの人はわたしを抱くとき、いつも優しく時間をかけて入り口をほぐしてくれる。指を入れてすぐの硬い部分から、ひだの立つ天井部分、緩やかに広がった奥の空間。ゆるく勃ち上がったクリトリス貞淑ぶって小さく縮こまる尿道口。指の腹のざらついた部分で、あの人を求めてぐずる粘膜をくまなく愛撫する。あの人がいつもしてくれるように。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続ける。わたしの指は、敏感で弱気でかわいそうな女の器官を慰める。痛みからか、快感からか、わたしの唇からは湿った呼吸がひっきりなしに漏れた。
「あ……お、っひ、あっ、あっ、あっ」
 苦痛と歓びがないまぜになる。寂しくて、訳がわからなくて、わたしはさらに泣いた。

 ひとつの瞬きののち、わたしは素敵な花畑の中に立っていた。
 生き物も、夜も、みんななかったみたいにきれいな花畑だった。白くて可憐なスノードロップ、慎ましやかなチューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、池には小ぶりな睡蓮の花が浮かび、灌木の枝には花蘇芳がいっぱいについている。花びらと小さな葉の向こうには、ハートや星の模様がついたウサギのぬいぐるみが、小さな身体で転がって遊んでいる。空は薄い紫とピンクの混ざったかわいいパステルカラーだ。
「わあ……!」
 嘘みたいだ。痛いのも苦しいのも、気持ちいいのも、みんなどこかに消えてしまった。残ったのはうきうきと高鳴る心と、分不相応に軽やかな身体だけ。
 楽しくて、舞踏会のお姫さまみたいにくるりとターンすると、次の瞬間にはわたしの身体はかわいいドレスに包まれていた。胸元には薔薇の飾りと大きなリボン、腰から足元までをたっぷりと華やかに彩るフリル。健康そうな腕を覆う上品なイリュージョンレース。左手の薬指にきらめくのは、王子さまがくれた金の指輪だ。踵を上げると、キラキラと宝石のように輝くピンクのガラスの靴が、足にぴったりはまっているのに気がついた。
 頭がふわふわする。ゆらゆらする。楽しい。楽しい!
 ちぐはぐなワルツを踊りながら、ウサギたちに近づく。ステップを踏むたびに花は潰れてしまうけれど、仕方のないことだ。
 ウサギたちは、わたしに気づくと、ぴょんぴょん跳ねながら挨拶をした。それから、彼らの向こうに鬱蒼と茂る、深い森の中を指し示す。
「どうしたの? なにかいるの?」
 光るきのこや奇妙にねじ曲がった木々の中。こちらに背を向けて、誰かが立っている。白い軍服に青いベルベットのマント。スラリとした長身。あの人だ。わたしの、王子さま!
「ジョニー!」
 ウサギたちの群れをかき分けて、わたしはあの人に駆け寄った。彼は、まだわたしに気づいていないようで、その横顔に悲しい空気を漂わせている。でも、もう大丈夫。だってわたしがついているもの。
 彼の背中に飛びつこうとして、不意に、ドレスの裾を後ろに引っ張られた。
 振り返る。裾に噛み付いてわたしを押しとどめたのは、金色の毛の、猫のぬいぐるみだった。すみれ色の二つの目がわたしをじっと見ている。鋭い犬歯が、裾のフリルにしっかりと噛み付いている。
「……、むー」
 ひどい。あの人のもとに行こうとするわたしを邪魔するなんて。
 わたしはしゃがんで、ネコと視線を合わせた。そうして、両手でその身体を持ち上げる。ネコの身体は、思ったよりもずっと重くて大きくて、ずっしりしていた。向けられた視線に困惑が混ざる。
「悪い子には、おしおきですよ!」
 そのとぼけた額を、軽く指で爪弾く。
 すると、ネコのぬいぐるみはポンと煙を立てて消え、代わりにたくさんのキャンディが降ってきた。カラフルな包み紙を纏った、さまざまなフレーバーのキャンディ。いちご味、レモン味、ソーダ味にミント味。もちろん、ミルク味も忘れてはいけない。
 すごい、すごい! ここのぬいぐるみたちは、弾くとキャンディになるのだ。試しに一粒口に入れると、甘くて、ちょっと酸っぱくて、とても幸せな味がした。わたしは嬉しくなって、あの人のもとに行くことも忘れて、ウサギたちの方に踵を返した。
 くるくる踊る。夢見心地のダンス。ウサギたちもみーんな弾いて、キャンディにして、そうしたらあの人は、……わたしを抱きしめてくれるだろうか。


 ずるずると黄色い脳髄を啜る、神経をちぎって貼り合わせて、ばらばらになった骨は深海魚の夢の中、くらくらと血管を漂いわたしは果てを散歩する、あの人とたったひとつのいのちを分け合ったような気分になるのはなぜ、つよくておおきくてずっとこわかった彼がこんなにも弱くて脆くて矮小な存在だとわかってわたしはうれしくなった、わたしはずっと彼を慕いながら心の底で恐れていたいつかわたしからみんな奪い去ってしまうのではないかと、ああ、あの人も、兄さんもおとうさんもおかあさんも、わたしは臆病で、あの人の首筋に巻きつくわたしの腕はただの木偶だ、彼は背が高くて勇気があって美しかったから、でもわたしのほうがずっと強くておおきくてそう、神秘を戴き得る器など人間の中にはひとつとしてないのだ、花束は、あの人の死。官能。嫉妬。束縛。永遠。憂鬱。滅亡。裏切り。わたしはずっとずっと〈わたしたち〉に喰らわれる痛みと苦痛に耐えて鋭い牙とささくれた鱗とで引き裂かれ食いちぎられなんどもなんどもなんども、いつかいとおしくてだいすきであの人を食べてしまうかもしれない、風船みたいに膨らんで破裂する、からだはぼろぼろ、こころはゆらゆら、これは報いだ あく ああ、彼の命はこんなにもおいしい……


 今日は夕方で上がれたので、寂しい思いを我慢している百合子のためにお菓子でも買って帰ろうと、なじみのベーカリーに立ち寄った。ショーケースの前に見覚えのある背中があると思ったら遊星だった。ビニエとエクレールで一時間も迷っていたらしい。考えることは一緒だ。
 秘密会議の末に選ばれたいちごのエクレールを携え、二人は家路につく。冬のパレルモは空気が重く、冷たい。エトナ山はすでに純白の雪化粧を終え、山頂から吹き降りる颪で街路の木々もすっかり丸裸だ。今にも降り出しそうな曇天や、人々の着込む寒色の上着などのために街の雰囲気もどことなく暗く、市場に売り出されたカターニア平野産のオレンジの色だけが、滑稽なほど明るく陽気だった。
 ロングコートの襟を胸の前に集めながら、遊星は耐えられないといった様子で身震いする。
「正直なめていた。シチリアは地中海性気候だからと……こんなに寒いと思わなかった……」
「君の国よりは暖かいと思うけど」
「寒がりなんだ。いつもなら、冬は家から一歩も出ないことにしているんだが」
「そんなので生きていけるの」
「ジャックが全部やってくれる」
 つぶやく横顔は思慕に緩み、百合子によく似た青い瞳も、美しい恋人への誇りに精彩を帯びていた。耳がほのかに赤いのは、凍えるような寒さのためか、羞恥のためか。
 遊星のかすかに青い唇が、白い煙を吐き出した。
「これはお前にだから言うことだが、百合子が治ったら、彼にプロポーズしようと思っている。俺には花も宝石もわからないが、薔薇をかかえるほど買って、大きなダイヤモンドの指輪を用意して、彼の行きつけのレストランで……今まで俺や百合子のためになんでもしてくれた彼だから、今度は俺が、お前のために全てを捧げると、そう伝えたいんだ。彼を愛してる。彼が心から笑ってくれるなら、俺は身体も心も、命だって惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。なあ、それはお前も同じだろう、ジョニー」
 ジョニーは頷いた。その通りになれば良いと思ったのだ。

 家に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 大きなマホガニーの扉の、古風な鍵穴にキーを刺して左に回す。軽快な音を立てて錠が外れ、先に遊星が、後からジョニーが玄関に入った。
「ただいま、百合子」
 暗い廊下に向かって声をかける。返事はない。
「……百合子? ジャック?」
 ジョニーは凛々しい眉をぎゅっと寄せた。妙に静かだ。何か、何か嫌なものが、薄暗がりの向こうに息づいている。それはかすかなものだったが、百合子が倒れた時に似た、暗澹とした、重く不吉な予感だった。ジョニーの脳裏に、祖母の葬儀をあげた時のことがよぎる。これは死の匂いだ。家の中で、何かが終わったのだ。
 不思議そうにしている遊星に構わず、ジョニーは薄暗い玄関をつぶさに観察した。右手には、翡翠のミニテーブルに下向きに咲く鈴蘭をモチーフにしたスタンドライト、靴やコート類を収納するためのクローゼット、こちら側に取り付けられた硝子の両開き扉には冷や汗をかくジョニーの顔がぼんやりと映っている。左手にはレモンの鉢植えに青いリンドウの飾りをあしらった壁掛けの鏡、客間に繋がる扉。大理石の廊下を挟んだ奥には、三階までを突き抜ける螺旋階段。
 いつもと変わらない、夕方から夜にかけての廊下だ。
 ……いや。やはり何かが違う。息をつめて、注意深く周囲を検分していたジョニーは、螺旋階段の死角からスッと伸びた真っ白な素足をとらえた。
 死人のように真っ青な顔をしてジョニーを見下ろすのは、百合子だった。彼女はいつものネグリジェにカーディガンを引っかけた姿だったが、その表情や手足にはまるで存在感がなく、妖精や精霊の類を思わせた。ほどけた髪のつやはブラックオニキスの輝きを思わせる。小さな爪の一つ一つは桜貝の色をして、それがことさら、彼女の雰囲気を天上のものにした。百合を抱えた聖母のステンドグラスから落ちる虹色の光が、彼女の髪や肩の上で幻想的に踊る。
「百合子」
「ジョニー……」
 震える唇がジョニーの名を呼ぶ。その瞬間、彼女の足はつるりとした段板を踏み外し、前のめりに倒れこんできた。遊星が息を呑む。反射的に身を乗り出したジョニーの腕がかろうじて彼女を受け止めたが、彼女は全身をこわばらせ、ひどく怯えていた。小刻みに痙攣する身体と、過呼吸気味の浅い呼気が、彼女の身に何かあったのだと如実に語っていた。
「ジョニー、ジョニー、お願い、私を愛していると言って」
 青ざめた頬を、涙が流星のように迸る。
「ああ、愛してるよ、百合子。一体どうしたっていうんだい?」
「ごめんなさい。私を許して。私を……私を殺してください」
「な、何を言っているんだ!」
 妹の恐慌から何かを悟ったらしい遊星が、エクレールの袋を放り投げ、ジョニーの横をすり抜けて階段を駆け上がった。だが、妻の口から訳のわからない願いを聞き取ったジョニーはそれどころではなかった。今、彼女は何と言った?
 殺すだって?
「時間がないんです。早く私の左胸を、心臓を貫いてください。これで……」
 百合子の左手にはいつの間にか透明な小剣が収まっていた。透き通る刀身は、光を浴びて鋭利に輝き、まるで水でできているような印象をジョニーに与えた。彼女は、それをジョニーの手の中に必死に押し込んだ。
「早く……」
「だめだ! 君は僕の妻だ。たった一人の愛する女性ひとだ。その君を、僕が殺せるわけないじゃないか。ね、まずは落ち着こう。何があったのかちゃんと聞かせてくれないかい? ジャックはどこ?」
「ジャックは……」
 出し抜けに、階上から絹を裂くような絶叫が上がった。
「ジャック? ジャック……ジャック、ジャック!」
 遊星だった。必死にジャックの名前を呼んでいる。
 動悸が激しく鳴る。不幸の兆しが、無情にもジョニーの頭上に降りてくる。ジョニーは百合子を抱えたまま、一段飛ばしで三階を目指した。

 花が散っている。無惨にもむしられ、茎を折られた花々の死体が、ベッドや絨毯の床に折り重なるようにして乱れている。スノードロップ、チューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、小さな水瓶に浮かべてあった睡蓮は器ごと破壊され、花蘇芳の枝はこれ以上ないというほどに踏み潰されている。
 ベッドに倒れ伏すような形で、ジャックは眠っていた。はじめは……眠っているのだと思った。鎧をつけたような、大きく、引き締まった身体には傷ひとつなかったし、男性らしい流麗な顔に浮かぶのは、まるで楽しい夢でも見ているかのように安らかな微笑みだった。
 しかし、ジャックの手首を握りしめた遊星の顔は真っ青で、只事ではない様子だ。ジョニーは彼に近づいて、同じように首に触れてみた。
 氷のような冷たさだった。もう死んでいる。
「時間切れです。残念ですね、ジョニー」
 不意に、血も凍るほど冷ややかな声が、ジョニーの右耳に囁いた。
 はじめ、ジョニーはそれが誰の声なのかわからなかった。聞き覚えのある声ではあった。しかし、彼女は……いつもジョニーに対して善意と優しさに溢れていて、とてもこんな声を出せるような女性ではないのだ。痛みや辛さを泣きながら訴えることはあったが、このような、感情のない平坦な声で話しかけてきたことなど一度もなかった。
 だが……ジョニーが彼女の声を聞き間違えることなどありえない。どんなに混雑した人ごみの中でも、耐え難い混乱の中にあっても、ジョニーは彼女の声をはっきりと聞き分けることができる。きっと今回も例外ではない。だから、彼女が発する言葉の意味を理解するより先に、ジョニーは反射的にその人の名前を呼んでいた。
「百合子……?」
 それはジョニーの腕に抱かれた百合子の声だった。
「なんて甘くて、お人好しで、無知な人間なんでしょう。命乞いも忘れてゾウの足の裏を見上げるちっぽけな蟻みたい。でも大丈夫。あなたは食べないでいてあげます」
 先ほどまで震えながらジョニーに許しを乞うていた彼女など初めからいなかったみたいに、百合子はジョニーの腕から離れ、立ち上がった。いとも簡単に。
 まるで、身体を病む前の、健康だった彼女が戻ってきたようだった。しかし、その口元には嘲りと退屈にひきつれた冷笑が浮かび、瞳は底知れぬ虚無に薄青く濁っていた。別人のような変貌ぶりだが、それでも、可憐で楚々とした顔のパーツや、蒲柳の身体はジョニーの知る百合子そのものなのだった。
 言葉を失った二人の男の前で、百合子は腕を広げ、歌うように朗々と語り始めた。
「ジャックの行方が気になりますか? ここです。私のお腹の中で、骨も肉も破壊しつくされて、痛くて泣きながら蹲っていますよ」
 細く尖りを見せる四本の指が、自らの薄い腹を撫でる。
「……冗談じゃありません。兄さん、私は、ずっと彼を食べてしまいたいって思っていたんです。強くて、大きくて、とっても美味しそうだなって……はい、彼はほんとうに美味しかった。暴れるから飲み込むのがちょっとだけ大変でしたけれど、肉が厚くて、柔らかくて、彼に愛されている兄さんがちょっと羨ましくなっちゃいました。それに、ふふ、その顔……優しくて親切で頭の良い兄さんの、何が起きているのかわからなくて、現実が受け入れられなくて、ただ呆然とするしかないっていう哀れな顔、ずっと見てみたかったんです。お願いが一度に二つも叶うなんて、私、とっても幸運な女の子ですね」
「百合子、——百合子! お前がやったのか! ジャックを……お前が、殺したのか!」
「ええ」
 あまりにも冷たい宣告だった。
「だって……彼が、悪い子だったのがいけないんですよ? 私はいやって言ったのに、引き止めようとするから……」
 遊星は、彼の理知的な目を限界まで見開き、口を開いたまま絶句した。下瞼のふちから、怒りと絶望のための涙が一筋こぼれ落ちる。
 そんな彼を、百合子はひどく醒めた目で一瞥すると、くるりと背を向けて寝室を出ようとした。
「……どこへ行く」
「あなたには関係のないことです、兄さん」
「行かせない……行かせない!」
 ジャックの身体を抱きしめていた遊星が立ち上がり、百合子の背に飛びかかる。
 百合子は軽やかに振り返り、兄に向かって右手を突き出した。繊細な指がものを掴む形になり、何かを左に捻り上げる。すると、触れられてもいなかった遊星の左手が勢いよくねじれ、かと思えば、手首が通常ではありえない方向に折れ曲がった。骨が折れ、筋肉が引きちぎられるぶちぶちという音が立つ。遊星が悲鳴をあげ、左手首を庇って床に崩れ落ちた。
「ぐ、あ……」
「邪魔しないでください。かわいそうな兄さん、食べるのは最後にしてあげようと思ってたのに。今、死にたいんですか?」
「ゆ……百合子……」
「ああ……私を殺すつもりだったんですね。ばかみたい、だからあなたはだめなんです。優しい〈わたし〉があげたチャンスをふいにしたくせに、自分に都合が悪くなった途端に……悲しい。悲しくて笑いが止まりません。知ってますか? 私、兄さんが大好きでした。今も大好き。自己中心的で、矛盾だらけで、何もかもを選ぼうとして全てを取りこぼしたばかな兄さんが大好き!」
 小さく可憐な白い蕾は、無差別に毒を撒き散らす害花として開花した。百合子は、苦しむ兄を見下ろし、実に愉快そうに微笑んだ。
「さようなら……兄さん」
 ふと、ジョニーが愛してやまなかったあの青い海の瞳が、言葉を失って立ち尽くす夫の姿をとらえた。
 ジョニーは息を呑んだ。ジャックを殺し、兄を傷つけた女の瞳に満ちていたのは、狂気でも快楽でもなく……そこ知れぬ悲しみだった。悲痛なまでの孤独、苦痛に膝を折った悔恨だった。小さな宇宙を閉じ込めたような瞳孔や、彗星の尾を思わせる透き通った虹彩は、確かにジョニーの知る優しい彼女のものだ。何かを言いたげに開かれた唇は後悔に戦慄いていた。大切なおもちゃを誤って壊してしまった幼子の哀情、愛するものに否定された少女の辛苦。
 彼女は、ジョニーに何かを訴えている。
「忘れちゃいやですよ、ジョニー。私を追いかけてきてください。……果てで、待っています」
 それだけ言うと、彼女は踵を返し、今度こそ振り返らないまま部屋を出ていった。暗黒に放り出された気分だった。

 絶望は、何も人間を死に駆り立てるだけのものではない。死を選ぶということは、つまり、何かを望むだけの希望が残されているということなのだ。本当の絶望は、人を逃避させる。現実から、自分の感情から。
 必死のジョニーに声をかけられている間も、駆けつけたパラドックスに手首を治療されている間も、遊星はジャックの死体を抱えて呆然としていた。
「あれは百合子じゃない。百合子は、あんなふうに笑ったりしない」
 時折そんなことを口にし、彼は微笑みとも泣き顔ともつかない表情をその顔にのぼらせるのだった。
 治療を終えたパラドックスが寝室から出てくる。遊星は、百合子が使っていた鎮静剤を打たれて眠ったらしい。ジョニーがソファに座ってニュース番組を見ていると知ると、彼は白衣を脱ぎ、ネクタイを緩めながら隣に腰掛けた。
 ——シチリア全土で、突然意識を失い倒れる人が続出している。昏睡状態にある人々の既往歴や生活習慣に目立った共通項は見られず、無差別的な発症であると考えられる。ほとんどの医療機関は詰めかけた大勢の患者家族で機能不全に陥り……
「君の細君はあの男を食ったと、そう言ったのだな」
「うん」
 画面から視線を外さないまま、ジョニーは顎を逸らして肯定の意を示した。
「であれば、シチリア中で住民の意識消失を起こして回っているのも、おそらく彼女だろう。だが、動機も目的も、その手法にも、さっぱり検討がつかん。医者は合理的な生き物だ。道理に反する現象については滅法弱いのだ」
 言いながら、パラドックスはポケットから取り出したミントガムを二つも三つも口に放り込んだ。仕事柄煙草を吸えない彼は、ミントの刺激で冷静かつ明朗な思考を保っているのだ。
「十代……僕の友だちが、彼女は人間じゃないって言ったんだ」
 が、ジョニーの一言に、彼は再び冷静さをどこかに放り出してしまった。
「……は?」
「いや……人間ではあるんだけど、体の中に人間じゃない何かを飼っていた、生まれてから、ずっと。そいつは人間としての百合子を食い潰して表に出ようとしていた。きっと、それが叶ってしまったんだ」
 あの日、ジャックから聞いた百合子の出自、そして十代から聞いた真実を絡めて紐解く。
 百合子は、(規制)という名の神秘の生き物の遺伝子を、人間の受精卵に打ち込むことで生まれたあいの子だ。彼女は、人間にはありえない特徴を持ちながらも、おおむね人間と同じ形のものに成長した。しかし、一方で、その身体や精神は(規制)によって絶えず冒され続け、そのために彼女は常に苦痛の中にいた。そして今日、(規制)の領域が本来の人格を上回り、彼女は恐ろしい怪物に豹変した。
 おそらく、彼女はぼろぼろになった身体を修復する力を得るために、シチリア中の人間の命を吸い取っている。そして……ジョニーにそれを止めてもらいたがっていた。彼女は最後まで自分を食い止めようとしていた。自分の命を犠牲にしてまで。
 そうだ、やはり彼女は変わってなんかいなかった。恐ろしい異邦のものが身体を支配する後ろで、彼女は必死に抵抗を続けているのだ。
「ジョニー、君、何を言っている?」
「信じられないよね。でも……多分本当のことだ。でなければ、この国のどの医者も彼女の病気を突き止められなかったのはなぜ? 彼女が傷ひとつつけずにジャックを殺せたのは? 僕たちの常識では、彼女の周りで起こる出来事に説明をつけることができない」
 怪訝そうな様子のパラドックスを尻目に、ジョニーは頭を抱えた。どうしたらいいのかわからなかった。このまま人々が死んでゆくのは見殺しにできない。でも、彼女を……優しい彼女をこの手にかけることだけは、してはならない。そんなことをすれば最後、ジョニーの魂は死んでしまうのだと思った。
 ……どれだけの時間が経っただろうか。放心した耳に、表のベルが鳴る音がかすかに届く。
「来客か」
「こんな時に誰?」
 シチリア中が混乱に陥っている今、呑気に訪ねてくる人間が果たしているものだろうか。ジョニーの脳裏に百合子の姿がよぎるが、その可能性はすぐに打ち消される。彼女は待っていると言っていた。ジョニーの方から出向かない限り、彼女に会うことはできない。
 ジョニーは期待の眼差しでパラドックスを見たが、彼は潰れたエクレールの本懐を遂げてやることにご執心だ。重い腰を上げ、一人で部屋を出た。階段を降り、廊下を渡って玄関にたどり着く。鍵はかけていない。彼は気乗りしない気持ちのまま扉を開けた。
 女の子のように伸びた赤毛。生意気そうな少年の顔つき。
「やあ、ジョニー君。相変わらずしけた顔してんな」
 立っていたのはルチアーノだった。
 緊張していた心の糸が弾けて、彼の全身を脱力させた。仕方のない話だ。刑事か、悪魔か、世界の終わりかと覚悟して開けた扉の向こうにいたのは、近所に住むありふれた悪ガキだったのだ。重たく湿ったため息とともに、つとめて優しく、理性的に聞こえる口調で、彼は少年を諭しにかかった。
「……ルチアーノ。悪いけど、今はつまらない言い争いをしている場合じゃないんだ。君も早く家に帰って、お父さんお母さんと隠れていた方がいい」
 お父さん、という単語をジョニーが持ち出した瞬間、彼はこの上なく意地悪に、また上機嫌に口の端を吊り上げて、笑った。何も知らないくせに偉そうなこと言うな、とでも言いたげな笑顔だった。
 彼はジョニーの胸を指で乱暴に突いて、「そう言うなよな。あんたに今一番必要なものを、あの人から預かってる」
「あの人」
「ボクの師匠。くそ、いつもならこんなこと絶対しないんだからな」
 光の中で、白衣の裾が翻る。ちぐはぐな長さの二本の足が軽快に床を蹴り、赤い背中が振り向いて、彼女は不敵な笑みで——うまくやれ、ジョニー。
 ルチアーノが差し出したのは、一枚のカードだった。
 息を呑むジョニーを、やけに真っ直ぐな目で見上げながら、彼はこんなことを言った。
「幾重にも分岐した運命の、不確定の枝々の中で、漂っていたボクはあの人に拾われた。このままじゃかわいそうだ……そんなことを言いながら。何もかも諦めた、人間なんて大嫌いだ、って目をしてるくせに、ボクみたいな子供には甘いんだ。破綻してるよな。
 さて、今あんたに必要なのは、人類の敵になってしまった女を殺し尽くして、その灰を海に撒くための切り札だ。人間の皮を脱ぎ捨てた彼女は、もう何ものにも殺されない。誰にも止められることなく、満足するまで人間を食い散らかして、最後には愛する男すら本能のままに咀嚼して一人になる。結婚式のとき、自分が何を誓ったか覚えてるか? 彼女を守ると誓ったんじゃなかったか? この世界の全てを征服して、たった一人になった彼女の心は……どうなるだろうな。ジョニー、彼女が辿ることになる最悪の運命から、彼女を守るには、道は一つしかない。奇跡にはそれを凌駕する奇跡だ。
 彼女を殺せ。あんたにしかできない」
 舞い散る白い花びらの向こうに広がる、優しい春空を描いた美しい金色のカード。〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。人間を愛した結果、怪物になってしまった女神に終焉を運ぶ運命のカードだ。
 初めて触れてみて、ジョニーにもわかった。見知らぬ誰かが、多くのものを犠牲にして作り上げたものなのだ。この一枚に、世界すら滅ぼしうるほどの強大な力が込められている。カードを構成する一つ一つの要素が、たった一つの指向を持って、力を解き放つその瞬間を粛々と待っている。ジョニーがひとたび、願いさえすれば、これはすぐさま発動条件を満たし……百合子の心臓を確実に仕留めるだろう。彼女の魂は粉々に破壊され、二度と戻らなくなる。輪廻の輪に乗ることもなければ、転生することもない。
 拳を握り込む。胸の内側が冷え冷えとざわめく。十代にも、既に忠告されていたことだった。どちらにせよ殺すことになる、彼女はそう言った。
 選べなかったジョニーの前には、道は一つしか残されていないのだ。

 はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
 笑う百合子の、美しい顔がよみがえった。それから、拗ねて怒る顔、愛してると言われて泣いてしまった顔。初めて手を繋いだときの、心地よい緊張。一緒に海に落ちた時に見た不思議な半透明の四肢。起き抜けに飛ぶ鴎に弾けた歓声。浜辺に踊る繊細な身体。食べてほしいのだとこぼれた涙。心地よい夜闇の中で絡んだ指先。
 潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ……。
 ——大好きです、ジョニー!
 出会ってから七年間、百合子はたくさんのものをジョニーにくれた。自分は何も返せないままだ。あろうことか、苦しむ彼女をさらに追い詰めて、死の淵に追い遣ろうとまでしている。
 自分はひどい男だ。意気地なしで大馬鹿で、阿呆な夫だ。熱い涙がとどめなく溢れ、こちらを見上げるルチアーノの柔らかい頬にぽたぽたとこぼれた。一粒一粒が百合子への激情だ。百合子。百合子。百合子。百合子……
 百合子を愛している。大好きなのに、何もかもうまくいかない。
 ルチアーノは、半ズボンのポケットからハンカチを取り出して、ジョニーの涙を拭ってくれた。らしくもなく優しい仕草だった。
 やわらかい無垢な子供の両手が、ジョニーの右手を包み込む。
「泣くなよ、ボクがいじめてるみたいだろ。パパ……」


 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 少年は父親と繋いでいた右手を離し、舞い落ちる花のひとひらをふっと捕まえてみせた。立ち止まり、期待のうちに幼い指を開く。一枚だけだと思っていたが、よく見ると、薄い花びらが二つ連なって、彼の手のひらの上につんとすましていた。母親が口の端を緩やかに持ち上げて、彼の左手を優しく握り込む。
「それ、食べられるんですよ」
「え!」少年は驚いて、二枚の花びらをまじまじと眺めた。「本当?」
「本当ですよ。ママの国では、花びらを塩に漬けて、甘いパンの上に乗せて食べるんです。あとは……お湯に溶いて、飲み物としていただくこともありますね」
「あんまり美味しくなさそうだけど」
「馬鹿にするなよな。ママのサクラアンパンは美味しいんだぞ。ルチは食べたことないから知らないだろうけど」
 繋いだ手を離されて不満げな父親が、子供のように拗ねて言う。母親は呆れたように肩をすくめるのみだったが、少年はまだ幼かったので、売られた喧嘩は買わなければ死ぬとばかりに父親に噛み付いた。
「いいもん、別にさ。パパのバカ。それより、ねえママ、ローストビーフ作ってきてくれた?」
「ええ、もちろん。今日はルチの誕生日ですからね。食べたいだけ食べていいんですよ」
 持っているバスケットを掲げて、母親は得意げに胸を張った。少年はたちまち飛び上がって、勢いよく母親の腰に抱きついた。勢いに耐えられず後ろによろめいた母親の身体を、父親があわてて受け止める。
「ほんと! ママ、大好き!」
「百合子……ルチが好きに食べたら、僕の分がなくなっちゃうんだけど……」
「ボクの誕生日パーティーなんだから、全部ボクのなのは当たり前だろ?」
「まあまあ。ジョニー、今日くらい良いじゃありませんか」
 親子は遊歩道脇に手頃な芝生を見つけて、その上に大きなシートを敷いた。中央に座った少年の目の前に、母親が腕を振るって作った宴会料理の数々が並べられる。父親が急いで買ってきたホールケーキも一緒だ。
 ケーキの上の、いちごの間を縫うように刺さった五本のろうそくに火が灯された。両親の歌に合わせて、少年が息を吹きかける。火がみんな消えてしまうと、二人は一斉に拍手をし、小さな少年の身体を思いきり抱きしめる。
 母親の柔らかい唇が、少年の、興奮で上気した頬にもたらされた。
「お誕生日おめでとうございます、ルチアーノ。パパとママの子供に生まれてきてくれてありがとう」
 父親も、照れくさそうな笑顔を浮かべながら、反対側の頬に同じように触れた。
「誕生日おめでとう、ルチアーノ。パパとママは、おまえのことをずっとずっと愛しているよ」
 少年は……幸せだった。幸せすぎて、明日には世界が終わってしまうのではないかと思うほど。

 それは食らった誰かの記憶だったかもしれない。あるいは、ジョニーと百合子には本当にそんな未来が用意されていたのか。どちらにせよ、百合子には関係のないことだ。だってもうすぐ死ぬのだから。
 闇の中で、百合子は耳を塞いで蹲っていた。口に押し込んだ人々の魂が彼女に囁くのだ……呪いを、怨恨を、憤懣を、悪念を。外に出ようと喉を遡る彼らを、彼女は自らの首を絞めることでなんとか抑えようとした。人の魂を食らうことは、古来から(規制)の習性、そして傷つき朽ち果てた彼女の身体を維持するためには不可欠なことだった。
「いや……怖い、です……ジョニー、ジョニー……」
 愛する男の名前を呼ぶ。
 もうすぐ彼は、魔女から譲り受けた滅びを携えて、百合子のことを殺しにくるだろう。わかっている。悪役は正義の味方に成敗されるものだと決まっているのだ。今思えば、百合子がジョニーを愛して、彼の元に嫁ぐ決意をしたのは、この日のためだったのかもしれない。優しいジョニー。ひたむきに百合子を愛しながらも、人々を苦しめる悪いものをを見逃すことなどできるはずもない、誠実で美しいジョニー。
 涙が溢れて止まらないのに、唇はひとりでに微笑みの形をとる。
「……いいえ。怖がることなどありません。だって……全ては彼と生きるため。そのための食事、そのための犠牲です。当然でしょう? 今まで散々私のことを苦しめた世界。今度は私が、痛くて怖くて泣いてしまうほど、辛い目に合わせてあげます」
 思えば、自我を獲得したその時から、百合子は耐えず苦痛にさらされてきた。薄っぺらく壊れやすい人間の肉体に内包された大いなる矛盾。双方がお互いの領域を守ろうと争闘し、それが幼い少女の肉を、骨を、精神を、容赦なく引き裂き、傷つけてきた。
 魔女は彼女に、人間として生きろと言った。やさしい両親とやさしい兄は、彼女を人間として受け入れた。だから彼女は空腹を訴える内臓の痛みを、人間の部分を侵略しようとする何かの蹂躙に抵抗し、なんとか形のある理性を保ってきた。魔女にも、家族にも、感謝こそすれ恨みなどかけらもない。しかし、人間であろうとする限り、彼女はやはり激しい倒懸から逃れることはできなかった。
 そこに、ジョニーが現れた。闇夜にきらめく流れ星のような人。
 ジョニーは誰にでも親切で、善良で、清廉だった。でも、彼女には特別優しかった。いつもひたむきに、まっすぐに彼女のことだけを見つめてくれた。そっと抱き寄せてくれる腕は温かくて力強くて、彼は彼女を泣き虫だなんて笑うけれど、彼の胸の中ではじめて彼女は泣いたのだ。涙を拭ってくれるとき、彼は天使のように優しく、神のように偉大だった。
 彼にはじめての恋をした。心から好きになった。彼と生きることができてはじめて、人間として生きてきた自分が報われた。彼の隣にいられたら、痛みすら愛おしむことができた。
 彼に促されて顔を上げて、花の色が、かたちがとてもきれいなものなのだと知った。空の抜けるような青さを知った。雲は白くて、木の葉は透き通るような緑で、風は気持ちよくて、雨に濡れるのも彼となら悪くなかった。子どもは無垢で可愛くて、大人はみんな親切だった。教えられなかったらきっと知らずにいたことを、彼はたくさん教えてくれた。
 どうしようもなく意地悪な世界でも、それでも……ジョニーと一緒にいられる時はいつでも、本当に幸せだった。
「早く来てください、ジョニー……お願い来ないで……」
 寂しくて寂しくて、百合子は膝を抱え、声を上げて泣いた。もう一度やり直せたらどんなに良いだろう。

 立ち上がる。
 どこかで泣いている声がする。寂しがりやで、泣き虫な彼女が、感じやすい子どものように泣いている。たった一人で。
 ただ、抱きしめてやりたいと思った。怯える肩を抱き、大丈夫だよと……たとえ彼女が世界でいちばんの悪党だったとしても、自分は彼女を愛しているのだと、わけもなく、そう伝えたかった。
 ジャケットだけを羽織って家を出ようとしていると、三階から誰かが勢いよく降りてきた。遊星だ。彼は包帯を何重にも巻き、ギプスまでつけた左手首を首から吊り下げた痛々しい姿だったが、眼だけは大きく見開かれ、針のような光がのぞいていた。頷いてみせる。
 もう真夜中もずいぶん過ぎた頃だというのに、パレルモの街は混乱と叫喚で溢れていた。雑然たる声が波のごとく起こり、沈み、また起こった。戦争でも始まったかのようだった。前触れもなく倒れた愛する誰かを必死に抱えた人たちが、病院に詰めかけている。訳がわからずに呆然と立ち尽くす人、狂ったように救急車アンブランザを呼び続ける人、泣き叫ぶ子供。サイレンの音が遠くで鳴っている。
 ひしめき合う人々、身動きもできないほどの人混みを両腕でかき分けて走る。腕の痛みで遊星の足が鈍りはじめる。ジョニーはそのことを知ると、路地に入り、停車したタクシーの運転席で居眠りしていた運転手を叩き起こして、モンデッロ・ビーチに急ぐよう捲し立てた。
 百合子は果てで待っていると言った。それなら、二人のたどりつく場所は同じだ。

 風が潮騒とともに胸の中に吹き抜けてゆく。
 消え入りそうなほど遠くまで続く海原に、おぼろな薄明の桃や紫がほのかに横たわっている。波はくすんだ銀色の飛沫をあげながら、ゆるく、穏やかに打ち寄せる。波打ち際では、真珠のレース編みのように、みなわが花を咲かせていた。
 濡羽色の美しい黒髪がつややかに翻り、百合子がいる、と思った。
 百合子は家を去った時のままのネグリジェ姿で、その薄い生地が、光とともに彼女の真っ白な身体の輪郭を透かしていた。裸足のままずいぶんの間走ったのか、拵えた人形のパーツのようだった足が血まみれで、赤いのと白いのが、なまめかしさの均衡をうまい具合に保っていた。無害そうな、やわらかそうなうなじが、項垂れているために薄明かりの中で白く浮かび上がっている。途方に暮れたような横顔で長いまつ毛が羽ばたき、その度に青い影が柔らかく羽ばたいた。
「百合子」
 彼女が振り返り、ジョニーを見た。瞬きひとつせず、恍惚としたように、あるいは途方に暮れたように、まっすぐにジョニーを見つめた。
「ジョニー」
 花びらのように、薄く頼りない唇が、似合わない笑みの形をとった。
「……やっと来たんですね。遅いから、待ちくたびれてつい食べ過ぎちゃいました」
 はじめてキスをしたときも、彼女が泣いていたことを思い出す。ジョニーの胸に顔を埋めて、もう二度と離れたくないというような、やっと自分の居場所を見つけたのだというような、そんな必死さで……小さな手で濡れたシャツの背中を掴み、小鳥のように顫えながら、彼女はジョニーの唇からのやさしい愛撫を求めた。
 同じだ。顔では笑っているが、いま、きっと彼女は泣いている。 
「どうしたんですか? 私を殺しに来たのでしょう。何もしないで、とぼけたみたいに突っ立って、何をしにきたか忘れたのですか?」
「どうしてこんなことをするんだ!」
 彼女を抱きしめようと腕を伸ばすジョニーに先んじて、遊星が咆哮した。
 ジョニーに向けた笑顔から転じて、末恐ろしくなるほどの無表情になった彼女が、羽虫にやるような視線を兄にやった。遊星の精悍な男の顔が恐怖に歪む。
「どうして、ですか?」
「ジャックを殺して、罪のない人間を死に追いやって、お前は一体何がしたいんだ!」
 遊星の激昂はおよそ彼らしくないものだったが、ジョニーも百合子も、そんなことには見当もつかなかった。
 小さな動物がするように首を傾げて、百合子は心底おかしいといった様子で吹き出した。口元を軽く押さえ、肩を震わせながら、喉の奥で押し殺した笑い声をあげる。
「決まっているじゃないですか。私に優しくないこの世界に思い知らせてやるためです。愚かでかわいそうな兄さん……本当に何も知らないんですね。大切だなんて言いながら、本当は私になんて興味もなかったんでしょう? やさしい両親の愛を横取りする私が邪魔だったんでしょう? 当然ですよね、私は本当の妹じゃありませんから!」
「……」
「ばかな兄さんは知らなかったでしょうけど、私、人間じゃないんです。でも、同時にどうしようもなく人間で……この忌々しい矛盾は、私の身体、私の精神、私の心をずっと傷つけてきた。生まれてから今に至るまで、一瞬たりとも、痛くなかったことなんてなかった。起きていても寝ていても、痛くて痛くて、瞬きをするだけで痛くて……」
 笑っていたはずの彼女の表情はくしゃりと歪み、ぽつりと放り出されたような涙が一粒、彼女の下瞼からこぼれた。
「でも心臓は勝手に生きようとするんです。死のうと思ってナイフを喉に当てても、崖の上に立ってみても、どうしてもできなかった。どうしてかなって、こんなに辛くて苦しいのにどうして死ねないのかなって、あなたたちが来るまでずっと考えていました。いまやっと分かった。……あなたのせいです! ジョニー! あなたがいたから……あなたなんかに出逢っちゃったから!」
 百合子はもう、笑いも、泣きもしていなかった。純然たる激情だけがジョニーに差し向けられ、それは百合子の右手をどうしようもなく突き動かした。細くたおやかな指が……ジョニーの手を握り、ジョニーを抱きしめ、ジョニーを労ってきたあのやさしい指が、いま、彼の命を奪おうと伸ばされる。
 でもうまくいかなかった。震えて、指を握り込むことができないのだ。彼女は自らの腕を制御しようと必死に歯を食いしばりながら、それでも目の前の無力な男一人殺すことができず、もどかしそうに首を横に振った。
「いや……どうして? どうして、どうして!」
「ジョニー」遊星が抑揚のない声でジョニーを呼ぶ。「彼女を殺せ」
「遊星!」
「分かっているだろう、ジョニー!」
 遊星の絶叫は、獣が遠吠えするのにも似て、深い怨恨を帯びて響いた。
「あれはもう百合子じゃない! 百合子はもういない! 百合子は……百合子はあんなふうに、笑いながら命を弄んだりしない!」
 百合子が怒りとともに兄を振り返り、震えていた右腕をまっすぐに伸ばした。今度は、ためらいも加減もなく、ただ兄の命を捻り潰すべく、彼女の優美な掌が開かれる。

2023/01/02

 

 

 生まれてこのかた、ジョニーは労働というものについたことがなかった。
 彼は豊かだった。両親は一人息子の彼が欲するものは何でも与えてきたし、大学を卒業し、独り立ちしてからも、在学中に成功した投資事業で百合子ともども何不自由のない暮らしを送ることができていた。
 しかし、事情が変わったのだ。未知の病に少しずつ蝕まれていく百合子。彼女と過ごす時間を少しでも長らえるために、ジョニーは花を買い、薬を買った。高額な治療費を惜しみなく払い続けた。結果、支出が収入に追い付かなくなり、ジョニーは働きに出ることを余儀なくされるに至った。……彼女を海に帰すという選択は、どうしてもできなかった。
 その日は寒かった。厚手のセーターにコートを羽織って出かけたのだが、夕方から途端に冷え込み、ジョニーがオフィスを出るころには気温も十度を下回っていた。歩いて帰るつもりだったのを、プルマンでの移動に変更する。
 暖かい車内で揺られ、うとうとと船を漕ぎながら、ジョニーは美しいまぼろしを見た。まぼろしは、決まってジョニーの孤独の隙間に入り込み、彼の感傷を悪戯にくすぐる。現れたのは百合子だ。ひたむきに愛と純情を信じ、自分の脚で軽やかに走り回っていた、少女の頃の百合子だった。
 二つに結ったおさげの先が近くで揺れる気配がする。ささくれもあかぎれも知らないたおやかな指先が髪や額を優しく撫でる。夢うつつに名前を呼ぶと、柔らかい仕草で頬を拭ってくれる。
 ただでさえ痛みに苦しむ本物の百合子に、ジョニーが見せられずにいる弱みを、まぼろしには素直に曝け出すことができた。耐えかねて吐き出した泣き言も、意図せずこぼした不安も、彼女の柔らかな手は大切に受け入れてくれた。
 情けなく、都合の良いまぼろしに縋ってしまう。そばにいられるだけでいいと思っているはずなのに。
「百合子?」
 ——ジョニー。
 優しい手が、ジョニーの腹の上に何かを置いた。
「百合子……」
 ——大好きです、ジョニー。
 それは二枚のカードだった。十代が差し出し、ジョニーが選べずにいる、二枚のカードだ。
 車内アナウンスが、ジョニーを夢から引っ張り出す。意識がはっきりしてくると、少女の百合子もカードもすっかり消えてしまう。
「百合子」
 呆然と呟いた。

 悲痛なすすり泣きが、玄関口に立ったジョニーの耳にも聞こえてくる。百合子の部屋からだ。
 残されることが不安なのか、最近の百合子はジョニーがそばを離れると子供のように縋ってくる。はじめは寂しそうに、ジョニーが留まることを期待する目でこちらを見ているだけなのだが、本格的に仕事に出ようとしているのだとわかると声を上げて泣き出し、腰に抱きついて引き止めようとするのだ。彼女のためにも働きに出る以外の選択肢は残されていないのだが、それでも、ジョニーの名前を呼びながら大粒の涙をこぼす妻を見るのはつらかった。
 大理石の螺旋階段を重い足取りで上り、表に小鳥とクリスマスローズのリースをかけたマホガニーの扉を押し開ける。
 花の中で、百合子はシーツをヴェールのようにして被り、ベッドの上で膝を抱えて泣いていた。遠い星の瞬きのような、寂しく、頼りなさげで悲痛な嗚咽が、シーツの隙間から漏れ出てくる。彼女の周りにはばらばらにむしられたノースポールの白い花びらが散り、そのさまが、百合子のやる方ない苦痛と孤独を訴えてくるようで悲しかった。ジョニーはジャケットを脱ぐこともそこそこに彼女の隣に座り、震える肩を抱き寄せた。
「ただいま、百合子。遅くなってごめん」
 シーツの裾を持ち上げると、涙を持て余す百合子の顔が露わになった。ジョニーを見上げる目は腫れ上がり、鼻の頭は可憐にも赤く染まっている。
 彼女はジョニーのと目が合うやいなや、その胸にがばりと顔を埋め、背に腕を回してしがみついた。もう離さないとばかりに。
「どこに行ってたんですか? 私、ひとりぼっちで……さみしくて、こわかったです」
「僕のお姫さま、許してくれ」
「もう二度と離れないと誓ってくれたら、許してあげます」
「うん……誓うよ。もう君を置いて行ったりしない」
 嘘だ。明日もジョニーは百合子のために働きに出るのだ。でも、せめて今だけは、愛しい妻、苦痛の中で哀しみ嘆く妻を安心させてやりたかった。
「ほんとうですね……そばにいてくれますね……」

 

C

 


   ワールド・エンド

 とある科学者が、人間という生物の脆弱さを嘆いた。
 人間は生物の中でも特に高度な知能を持った種族だ。彼らは五百万年前に種としての地位を確立してからというもの、さまざまな文明社会を築き上げ、その繁栄を極めてきた。だがその一方で、彼らは非常に脆く、病や損傷などで簡単に損なわれ、その果てには死という抗い難い結末に否応なく巻き込まれる運命にある。有史以来、この絶対秩序にほころびなど一つもなかった。高名な学者も、徳の高い慈善家も、例外なく傷つき、例外なく死んでいく。これこそが、人類がいまだに完全な幸福を手に入れられない唯一にして最大の結論だ。科学者はそう結論し、自らの手によってそれを是正しようとした。
 科学者は、自分のもとで働いていた既婚の女性研究者たちを言い包め、彼女たちの子宮からまだ分化も済ませていない受精卵を採取した。そして、他の生物のリボゾームを高圧ガスでそれらに撃ち込み、転写を行わせ、人間と他生物の特徴を受け継いだ新しい人類を生み出そうとした。トゥアラタ、赤ウニ、ミル貝、ホッキョククジラ、ガラパゴスゾウガメ、(規制)、カイロウドウケツ。受精卵はそれぞれ培養槽の中で厳重に管理され、細胞分化を進行させていったが、みな胚盤胞の段階に差し掛かると同時にネクロシスを引き起こし、自壊していった。
 その中で唯一胚盤胞段階を乗り越え、一個の生物としてこの世に誕生するに至った個体がいた。(規制)の遺伝情報をその身に宿したメスの個体だ。

 ……淡い緑の、冷たい水の中で目を開けた。最初の記憶だ。
 足元から立ち上る泡がいくつもいくつも弾けて、水に融けて消えていく。
 わたしは裸にされ、手や足にわけのわからない機械を取り付けられて、厚いガラス越しにその人の顔を見下ろしていた。人間という生き物は、水の中ではうまく物を見られないものなのだというけど、わたしは特別。<わたしたち>は、人魚だから。人間でも魚でもない、神に聖別された神秘の生き物。だからわたしを見上げる瞳が左右ちぐはぐな色に輝いていることも、煤だらけのシャツの下で呼吸する身体が男と女のどちらでもないことも、その人がもうずいぶん疲れていることも、分かった。手のひらをガラスにくっつけると、その人も柔らかそうな右手を差し出して、同じ場所に触れた。
「このままじゃあいつがかわいそうだ。だからお前には、早々に自分を取り戻してもらうぜ」
 華やかで冷たい、美しい顔が笑う。片方だけ目を眇めて、すごく意地悪に唇の端を上げる。
「不思議なことじゃないだろ。オレたちは基本的に人間の味方だ。物理的に相容れないってだけで」
「……?」
「言葉、わかるか? 自分が何者かわかるか。思いだせ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ」
 彼女の目に見つめられると、神経を素手で掴まれたみたいに全身が痺れて、息ができなくなった。今までわたしの身体を気ままに支配していた<わたしたち>が悲鳴をあげる。細胞の奥の奥、核小体の中に潜り込み、自分たちを見透かす何者かの視線に怯えている。
 その人が、手の中に指をぎゅっと握り込める。
 その瞬間、わたしの心臓はかつてないほど強く、激しく震えた。左心室に緩慢に滞留していた血液がごうと溢れ出し、激流に押し流されて、隠れていた<わたしたち>が細胞を離れ拡散した。わたしという実体が発生してからというもの、常に耳の裏で繰り返されていたまじないも自我の中に薄れていく。視界がクリアになる。
 思い出せ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ。
 ガラスにつけた手のひらの上に意識が収束したと思ったら、わたしと彼女を阻んでいたそのツルツルした壁の表面に大きくヒビが入り、一呼吸ののちに音を立てて弾け飛んだ。拘束具が、まるで土で作った偽物だったかのように、バラバラに崩れ落ちた。培養液があっけなく流れ出し、彼の立つ白いタイルの床を満たしてゆく。
 手を引かれ、わたしもその上に降り立った。
 狭く小さなその部屋は、正面に据えられた大きな液晶モニターだけを光源とし、薄暗く、陰気な気配で満ちていた。右手にはさまざまな種の幼体の剥製が保存された瓶詰めの並ぶシェルフ、左手には大小無数の試験管やビーカーの収められたキャビネット、雑に束ねられた資料の山。背後にあるのは、この五年間、わたしを囚えていた、そしていま、粉々に破壊されるに至った巨大な水槽の残骸。すぐにわかった。ここは誰かの研究室で、わたしはついさっきまで、その誰かの実験動物だったのだ。神秘を隷従させようなどと、よくもそのような傲慢を抱いたものだ。
 警報が鳴り響き、にわかに外が騒がしくなる。正面の扉から転げ込むように白衣の男が入ってきて、わたしを見るなり、情けなく悲鳴を上げた。この人がわたしの創造主? なんて弱くて、脆くて、矮小なんだろう。つついただけで壊れてしまいそう。解き放たれた解放感のままに手を伸ばし、右に捻れば、触れてもいない男の首が後ろに歪んだ。頚椎神経がまとめて潰され、手の中でぷちぷちと音を立てる。
 咀嚼すると、甘くて、酸っぱい味がする。人間の命の味だ。わたしの全身に回った<わたしたち>は、その甘美な舌触りに歓喜する。もっともっと味わい尽くせという。
「なあ、もういいだろ」
 わたしの肩を掴み、後ろに引き寄せたのは彼女だった。
「人間は互いを食い合ったりしない。命を啜ったりもしない。これからお前は人間として生きるんだ、やつらのいうことにはもう耳を貸すな」
「あ……」
「行けよ。この扉から出てすぐ左に、お前の父さんと母さんがいる。オレの記憶がたしかなら、二人はお前を悪いようにはしないはずだ」
 彼女は裸のわたしに赤いジャケットを羽織らせてくれた。何か言う前に、背中を押され、廊下に追い出される。「こいつはオレが連れていく」死んだ男を左脇に抱えて、彼女はわたしに手を振った。
「ハッピーバースデー。おめでとう、■■■。甘くて幸せで苦痛に満ちた、お前の旅の始まりだ」


 朝がやってきた。
 暁の薄明が、地平線のかなたで薔薇の花びらがするようにほころび、東の空に星々のまどろみを消し去っていく。雲は細い旗のように悠然とたなびき、風は未だ青白くくすんだ家々のあいだに奔放にひるがえる。
 二十五歳のジョニーは、まだ柔軟剤の香りの残るシーツの中でゆっくりと覚醒に漕ぎ着けた。あまりにもなめらかに無意識の領域を脱したので、彼はしばらくの間、自分が眠りから覚めたのだということにすら気づかなかった。手も足もぽかぽかとあたたかくて気持ちがいい。幸福な夢の残り香が、まだ鼻の先のあたりにおだやかに漂っている。
 寝返りをうとうとして、彼はふと、彼の胸や投げ出した上腕にかかるやさしい重みのことを思い出した。乾いた目を擦り、瞬きを数度して改めて確認すれば、それは誰よりも愛しい妻の小さな頭がかける重みだった。
 彼女は控えめな呼吸を立てながら、安心し切ったあどけない顔でジョニーの胸に寄り添い眠っていた。
 黒曜石を漉いて作ったかのような艶やかな黒髪は無造作に散らばり、ひっかかり一つさえないすべらかな肌は、白日と彼のまなざしとの前に隠し立てされることなく晒されている。豊かに張りつめた乳房に淡く熟した嘴、しなやかにくびれた腹、夢見る感度でなだらかな曲線を描く腰、無防備につやを帯びた長い脚。重ねた内腿の奥にたしかに呼吸する女の器官。昨夜、狂おしいほど愛した身体だ。耐えきれず一心に抱き寄せれば、彼女は甘やかな喉声を上げ、ジョニーの鎖骨あたりに頬をすり寄せるようにして身じろいだ。
「おはよう、僕のかわいい奥さん」
 小さな額やほのかに血色を乗せた頬、鼻の先などに小さくキスを散りばめた。彼女が抵抗らしい抵抗を見せないのを良いことに、髪を指先に絡めて弄んだり、うなじに軽く歯を立ててみたり、やわらかそうな耳殻に息を吹きかけてみたりした。そのたびに彼女はくぐもった笑い声を漏らすのだが、かたくなにまぶたを開けようとしない。
「ねぼすけだね」
 そう囁けば、彼女はいよいよ嬉しげに口元をゆるめ、いっそう身体を摺り寄せてきた。
「朝ごはん、フレンチトーストにしようと思ってたんだけどなぁ」
「まあ!」
 食べ物に釣られて、ようやく彼女はまぶたを開いた。「ずるい人」
 少女の時から何ら変わらない常青の瞳が、窓からの光を受けてきらりと輝く。彼女は悪戯っぽく目をすがめ、鼻先をぐっとジョニーの顔に近づけたかと思うと、実にあっさりとその唇を奪ってみせた。触れるだけのかわいらしい接吻。
 面食らって言葉を失う夫を上目遣いで見つめ、彼女は満足そうに微笑んだ。
「おはようございます、あなた」
 ジョニーの天使は今日もきれいだ。

 あれから、二人はジョニーの大学寮に共に住み、卒業とともに結婚した。サン・マルコ寺院にて行われた結婚式には、日本からはるばる渡欧してきた百合子の兄や両親、友人たちと、イタリア全土からジョニーの親族や友人たち、それから全く関係のない野次馬が合わせて三百人ほど集まり、初老の司祭が驚いて腰を抜かすほど盛大に、絢爛に行われた。
 目を閉じれば、結婚式の全貌が瞼の裏に鮮明によみがえる。
 ジョニーは純白のモーニングを着、胸元に百合のブートニアを誇らしげに飾って、祭壇前にて花嫁を待っていた。
 揃いのお仕着せに身を包んだ聖歌隊の子供たちが歌うグレゴリオ聖歌と、二十三人の学士たちが茫漠と響かせる演奏がギリシャ十字型の寺院のすみずみまでを響き渡る。五つの円蓋《クーポロ》や細かな彫刻の施された左右のインポスト柱は煌びやかな金のモザイクで余すことなく覆われ、聖マリヤや天使、十二使徒たちが随所で誇らしげに微笑している。幾何学模様を描く大理石の床には礼拝のための膝置きがついた木の長椅子が所狭しと並べられ、そのすべてに、夫婦の友人知人らが詰めてかけている。みな花嫁の可憐な名に因んだ銀の百合を胸に飾り、ベルベットで装丁された立派な聖歌集をその右手に携えている。
 司教について祭壇のそばに控えていた修道士が、花嫁の入場を高らかに宣言した。
 正面奥の両開き戸が厳かに開き、光の向こうからブラックスーツを上品に着こなした遊星が現れる。そして、その左腕につかまって、美しい百合子が姿を見せた。
 花嫁は、その豊頰にとろけるような微笑を湛え、見る人をうっとりさせた。偏屈で名を馳せる骨董品屋の老爺も、部下の畏怖を一身に集める強面の軍人も、今日ばかりはこの美しく清らかな花嫁に感嘆のため息をつくほかなかった。
 ヴァレンティノのデザイナーが彼女のためだけにあつらえたオートクチュールドレスは、細く真っ白なうなじからなだらかなプリンセスシルエットの先までをギュピールレースで緻密に覆う、繊細かつ壮麗なしあがりだ。三メートルにも及ぶロングトレーンには百個超のクリスタルが散りばめられ、寺院内のかすかな灯りを反射してまばゆく輝いている。小さな足を包むのはクリスチャン・ルブタンのアイコニックなスティレットヒール、それも靴裏を鮮やかなブルーに仕立て直した特別なもの。かわいらしく桃色にはにかむ耳殻を飾るのはティアドロップのダイヤモンドピアス。ビーズ刺繍の入ったマリヤベールは、彼女が兄の傍らを静々と歩むたびに揺れてきらめいた。
 濃紺に金の刺繍をあしらったロングカーペットを踏破し、花嫁のやわらかな手は遊星の左腕からジョニーの左手のひらに預けられる。彼女が祭壇前に上がると、音楽が止み、子供たちは修道士の案内で祭壇の両側に整列した。人々は息を殺し、寺院に深い静寂が訪れる。
 祭壇は花に溢れ、聖人たちの小さな彫像と共に祀られた黒檀の十字架でさえ、真っ白なミモザで飾られていた。司教の肩越しに聖マルコの棺と黄金のパラ・ドーロを盗み見ることができたが、これもギプソフィラやデルフィニウムで閑麗に縁取られていた。
 司教は神の福音としてマルコ書十章を朗読し、そのあとに夫婦はあらためて婚礼の儀に与った互いの姿に向き合った。彼の花嫁、百合子は至上の喜びに頬をほてらせ、そのつぶらに見開かれた青い目でジョニーを、ジョニーだけを一心に見つめていた。薄く化粧を施された花顔はこの世の誰よりも幸福そうで、あまりにも華麗だった。
 ベールを指で軽く抑え、軽く瞼を閉じた彼女の唇に、ジョニーはそっと誓いのキスを落とす。
 その瞬間から、百合子は、ジョニーにとってたった一人の守るべき人だ。

 焼きすぎたフレンチトーストを必死の思いで完食したあと、二人は朝の散歩に出かけることにした。いつもの身支度を終え、シャープなペッパーコーンの香りを全身に振ったジョニーが脱衣所を出ると、白いサンドレスに身を包んだ天使のような百合子が待っていた。耳元には二度目のクリスマスに贈った小ぶりなブルーパールが揺れている。
「お待たせ。待った?」
「いいえ」
 同じ家で暮らしていても、デートに遅れてきた残念な男のように振る舞うのが、ジョニーは好きだった。左腕を差し出すと、嫋々たる右腕がそっと絡められる。
 黄色いスクーターに乗って丘を下る。ここパレルモ郊外の新居から、彼女のお気に入りのビーチまでは三十分もかからない。その間、ジョニーは背中にぴったりとくっついた彼女の身体のやわらかさやその温もり、首の後ろにふきかかる小さな呼吸が穏やかであることを楽しんだ。乾季も盛りを迎えた八月の日差しの中、二人は一陣の風になって潮騒の香りと戯れた。
「見てください、鴎ですよ!」
 パレルモ市街を走り抜け、クリストーフォロ・コロンボ海岸道に差しかかったところで、百合子が歓声をあげた。時速45キロで走るスクーターにほとんど並走する形で、鴎が一匹、白い羽を広げて滑空している。
「目がつぶらで、お腹もニョッキみたいで、とってもかわいいです!」
「ほんとだ! でも百合子の方がずっとずっと可愛い!」
「ばか!」
 一度冷静になれば恥ずかしくて死んでしまいそうな会話を大声で交わす。激しい風のためにかき消されないようにということなのだが、運が良いのか悪いのか、その時ちょうど、左車線から真っ赤なオープンカーがスクーターを追い越した。
「Siete così innamorati!(お熱いこと!)」
 上品に口元を手のひらで覆いながら、運転席の老婦人が二人に向かって笑いかけた。何か言い返すまもなく、車は時速90キロの超高速で走り去った。
 二人はしばらく口を開けてぽかんとしていたが、彼女のイタリア語をいち早く理解したジョニーが頬に血を上らせ、遅れて事態を察した百合子も耳までを真っ赤にして恥じいった。
「……、ごめんね」
「はい……」
 ジョニーは胸ポケットに引っ掛けておいたサングラスをそれとはなしにかけ、百合子は額をジョニーのシャツの肩に埋め、何やらもぞもぞ言った。スクーター乗りのマーヴェリックがアジア人の恋人を後ろに乗せているみたいな格好だ。頭上で鴎がくうと鳴く。

 午前七時のモンデッロ・ビーチはさすがに人もまばらだ。弓形を描く白い砂浜には開店準備が進む屋台が二、三と、サーフボードを抱えた若者が何人か屯するばかりだ。海原はさわやかなエメラルドグリーンを湛えて澄み渡り、ガッロ山の伏せて寝ている亀のような輪郭は、抜けるような青さの晴空とみごとなコントラストを演出している。
 薄桃色の花をつけたキョウチクトウの木陰にスクーターを停めて、二人は砂浜に出た。サンダルを脱ぎ、裸足になると、まだ冷たい砂の感触がひんやりと皮膚に触れた。
 百合子は機嫌よく鼻歌なんて歌っていたが、不意につま先でぐっと背伸びをすると、ジョニーの鼻先からサングラスを攫った。象牙細工のように華奢で端正な足が波打ち際へ駆けていく。小さな花飾りのついたおさげの先が快活に揺れる。慌てて後を追うが、彼女は気まぐれなニンフの娘のように、突き出されるジョニーの手のひらをひらりとかわしてしまう。
「もう、百合子ってば!」
「うふふ、早く私を捕まえてくださいな!」
 楽しそうにくるくる回る彼女の一瞬一瞬がまぶしい。サンドレスの薄い裾は鳥が羽を翻して飛ぶように舞い上がり、見開かれた瞳のきらめきは天性の青さだ。
 ジョニーは一弾指息を止め、それから大きく足を踏んで彼女に抱きついた。きゃあ、と歓声が上がる。ジョニーの熊のような長身が細っこい百合子の痩躯にのしかかり、当然、二人して後ろに転がった。派手な水飛沫が上がり、その一粒一粒が陽を浴びて閃いた。
「捕まえた!」
 百合子の腰を抱き、ジョニーは喚声をあげた。愛する女を腕の中に捉えた戦士の勝鬨だ。
「捕まりました!」
 彼女は飾り気なく笑いながら、ジョニーの頭にサングラスを付け直してくれた。
 二人とも腰まで海水に浸かってずぶ濡れだ。波が引き、また押し寄せてきて、抱き合う幸福な鴛鴦のつがいの心までを洗った。
「ねえ、私のとっておきの秘密を聞いてくれますか」
「なんだい、僕のおチビちゃん」
「ジョニー……、大好き」
「参ったな。実は僕もなんだよ、百合子。世界でいちばん君が好きなんだ」
「嬉しい。キスしてください」
「仰せのままに」
 腰の上に百合子を抱き、期待に艶を帯びた唇に自分のを押し付けた。興奮でかすかに熱を湛えた粘膜が遠慮がちにもぞつき、ジョニーの唇の形を探る。
 口づけの間に彼女の子猫のような舌先が差し出され、ジョニーはそれを優しく吸い上げた。平手で包んだ頬へさらに血が上る。百合子の、優しさと善意による言葉しか知らない狭い内側は、ジョニーの舌に対しても至って貞淑だった。背の順に並べられた小さな子供たちのように規則正しい歯並びは、突かれると、おそるおそるその楼門を開く。ジョニーを誘ったはずの舌はいまや怯えて喉の方へ隠れ、それを追いかけるようにして、不躾な男の舌が奥の奥へ侵入する。
 長いまつ毛が涙にけぶる。潤む瞳はジョニーの写身を愛おしそうに丸く抱き込んでいる。
 ジョニーは彼女のすべらかな背に指を滑らせ、蝶の形に結ばれたリボンの紐の片方をそっと引いた。二つの羽は音もなくほどけ、華奢に引き締まった肋骨と、左右に端正に広がる鎖骨、深い母性を暗示する薄い乳房が露わになった。彼女もまた、おぼつかない指先でジョニーのシャツのボタンを探りあて、上から一つ一つ外していった。開かれた襟から露わになるのは、夏の小麦のように熟れた男の肉体だ。歳を重ねてさらに磨かれた石膏像さながらの胸筋はピンと緊張し、強剛に張り詰めていた。何ものにも侵されない城壁のような半身は、しかし、百合子の手に押されると、簡単に後ろへ傾いた。
 二人して、美しいモンデッロの、深い群青に潜りこむ。
 ジョニーは焦ったくシャツを脱ぎ、砂浜に向かう波の流れに放って、一寸先を浮遊する百合子を追った。彼女も同様に、ドレスをすっかり脱ぎ捨ててしまって、何にも隠し立てされることのない芳体が微光の中を触手の長いクラゲのように泳いだ。冗談みたいに白い。まばたきをすると、彼女の、手入れの行き届いた四肢のつま先や、髪の一本一本がだんだん透けてくるのがわかった。
 ……百合子は、こうして時折海水に触れていないと動けなくなることがあった。
 なぜかはわからない。そもそも、海を泳ぐ彼女の身体が透ける理由も、ジョニーは知らなかった。彼女が話そうとしないので、ジョニーも訊くことをしない。訊きたいとも思わない。たとえ、彼女が地球に飛来したタコ星人だったとしても、ジョニーはきっと彼女を愛することをやめない。どうだっていいのだ。
 透明な血管まで透けたガラス細工のような腕が、ジョニーの首に無邪気にじゃれつく。肩を抱いて引き寄せると、彼女は微笑み、唇を突き出してふたたびキスをねだる。望みの通りにしてやった。

「ほんとうに食べてもらえたらいいのに」
 地元住民も観光客も寄り付かない岩場の影で、ジョニーの肩から顔を上げた百合子が言った。
 吐精後の余韻で意識をかなたに彷徨わせていたジョニーは、初め彼女の言葉の意図を掴めないでいたが、冷たい指で額をくすぐられているうちに冷静な思考が戻ってきた。たしか、情けなく女性性の湖に溺れながら彼女にこう言ったのだ……「かわいい。百合子、食べちゃいたい」
「どうしたんだい……?」
「ジョニー、私、今が幸せすぎて怖いんです。両親は、……いなくなってしまったけど、兄さんがいて、ジョニーがいて、素敵なおうちがあって、ご飯はおいしくて。でも、もしこれが夢で……ほんとうは全部嘘だったら。本当の私は暗い夜の中でひとりぼっちだったら。考えると怖くて涙が出そうになるんです。それなら、夢から覚める前に、身体も心もぜんぶジョニーに食べてもらって、ジョニーと一つになりたい、なんて」
「……百合子」
「あ……へ、変ですよね、突然ごめんなさい。忘れてください」
 彼女が身を起こして離れてゆこうとするので、ジョニーは頼りないその肩をそっと引き寄せ、震える下瞼にキスをした。この少女は何を馬鹿なことを考えているのだろう。
「夢なわけ、ない、でしょっ」
「わ!」
 頬をつまんで引っ張る。百合子はなんでもなさそうに唇を尖らせて抗議したが、ジョニーが鼻先を近づけてその顔を覗き込むと、その目には言い逃れのしようがないほど黒く凝り固まった不安の影がじっと澱んでいる。よく観察すれば、唇は微かに青ざめて震え、眉間は苦悩が集まって深い影を刻んでいる。明るく快活な彼女らしくない表情だった。
 ウエストに腕を回してひん抱く。もしすべてが夢だったら、このやわらかさ、温かさはなんだ?
「百合子は気にしいなんだ。大丈夫。僕はここにいるし、君だってそうだよ」
「ジョニー……」
「それに、僕が君を大好きな気持ちを、簡単に嘘にしてほしくないな」
 しっとりと水気を帯びた髪を撫でてやりながらそう囁くと、百合子は静かに流涕した。透明な雨だれが瞬きと一緒にはじき出され、健康そうに膨らんだ頬を滲むように流れた。
 濡れた瞼が裸の肩に再び押しつけられる。抑えきれずにこぼれた嗚咽が、ジョニーの鼓膜を甘美に揺らす。なんでもないことなのに、百合子は相変わらず泣き虫だ。愛おしさにむずむずと胸をくすぐられ、その身体を腕の中にぎゅっと閉じ込めた。
 二人はその後も三度は互いの輪郭を見失い、五度は微笑み合った。岩の上で気持ちよく日向ぼっこをしていたミドリガニが、耐えかねて、そそくさと横歩きで逃げていく。


 Tutto in questo mondo è vero, ma alcune cose non devono essere vere.
 すべては真実だが、真実でなくてよいものもある。


 午前十時、バラーロ市場にて食材を大量に買い込んだあと、二人はいそいそと帰宅した。今日は夫妻が近所の友人知人を集めてホームパーティーを開く日だ。
 あらかじめ正午に集合するよう周知していたはずだが、パラドックスはそれより一時間も早くやってきた。
「まだ何もできてないよ」
「細君はともかく、君は掃除も料理も手際が悪い。助太刀が必要だろうと思ったのだが。……これは土産だ」
 片眼鏡の奥で涼やかな紫眼を眇め、彼は手に提げていた紙袋を差し出した。すらりとした上品なワインボトルに、ビオンディ・サンティの名と紋章を誇らしげに掲げるブラックラベル。ブルネッロ、しかもヴィンテージものだ。どうやら父親から継いだ診療所の経営はうまくいっているらしい。
 交わされる皮肉にもワインの価値にも全く見当がつかない百合子は天使の微笑みを浮かべ、礼儀正しい会釈とともに素直な謝辞を述べた。上機嫌でキッチンに戻っていく背中を格好を崩して見送るジョニーを、パラドックスは半笑いで眺めている。
 ジョニーが庭の手入れをしている間、パラドックスには客を通すリビングルームと、奥のサンルームの掃除を任せることにした。
 百合子の細やかな気遣いの行き届いた室内に、彼は珍しく感心したような様子を見せた。白塗りの壁は各国から取り寄せた明媚な風景画が何枚も飾られ、格調高い大理石の床にはエキゾチックな模様織りの絨毯が敷かれている。細かな彫刻の施されたマホガニーのキャビネットに飾られているのは、ヴィネツィアングラスの飾り皿や銀の水差し、聖ミケーレにまつわる伝説が有名な陶器のベルなど、瀟洒な小物ばかりだ。ビザンティン文化の影響を強く受けたトルコ風の窓辺や、ガラス製のダイニングテーブルは季節の花で華やかに縁取られ、アンティークのレコードプレイヤーからは、ゆったりとしたクラシックが流れていた。アカンサス紋様で縁取られた天井には、画家がこの部屋のために描いた美しいフレスコ画が嵌め込まれている。
「見事なものだ。芸術の情緒をちりほども理解しない君の家とは思えんな」
「君はどうしてそう……まあ、たしかに、これほとんど百合子が揃えたものなんだけどさ。僕には価値がよくわからないけど、彼女の好きな物がたくさんあるのはいいことだ」
「ふむ。だがこの絵は君が選んだものだろう。なかなかどうして悪くない」
 パラドックスが示したのは、スイスのフィヨルドを描いた六十号の絵画の、その下にそれとなくかけられた小さなパネルだった。彼女の故郷を訪れた際に購入したもので、オレンジ色のフジヤマが描かれている。
「なんでわかるの」
「長い付き合いだからな」
 彼の好意は相変わらずよくわからない。
 十二時五分、三人がかりで、やっとの思いで準備が整うと同時に、招待客が次々と到着した。
 最初にやってきたのは、向かいの家に住むアポリア夫妻と、一人息子のルチアーノだ。一家はジョニーたちがこの家に越してきたばかりの時から交流があり、特にルチアーノは、お姉ちゃんと呼んで百合子をよく慕っていた。
「こんにちは。みなさん、我が家にようこそ」
「百合子!」
「まあ、ルチ。また背が伸びましたね。それにお顔も大人っぽくなったみたい」
「当然だよ! なんてったってボク、もうすぐ十歳になるんだ。あと八年経ったら、お姉ちゃんを迎えに行くからね」
 百合子の腰に抱きついたルチアーノは、甘えた声を出しながら、ジョニーだけがわかるようににやりと意地の悪い笑顔を見せた。あれは絶対に確信犯だ。子どもにだけ許されることがあると知っていて、それを存分に活用している。
 百合子との長い挨拶を終えたルチアーノは、すれ違いざまに、ジョニーに向かってあっかんべをした。
「やーい、ジョニーのバカ。悔しかったら反撃してみろよ。当然、百合子はボクの味方になるに決まってるけどね」
 この上なく生意気な小僧だ、百合子がイタリア語を理解しないと知っていて。
「たしかにそうかもしれないな。でも、それは君がまだ子どもだからだ。味方してくれなくたって百合子は僕の妻だ。君には絶対、死んでも渡さないぞ」
「それはどうかな? ジョニーはアホだし、いくじなしだし、ボクのほうがずっとカッコイイし。百合子、心変わりしちゃうかも」
「こいつ!」
 ジョニーが小さな身体を捕まえてくすぐると、ルチアーノは足をバタつかせて抵抗し、ジョニーの右腕に噛み付きもしたが、百合子が見ているとわかると一転して嘘泣きをはじめた。息子のやんちゃな性格を深く理解している両親とは対照的に、百合子はすぐに駆け寄ってきてジョニーから彼を引き剥がし、ばか正直にその身を案じた。
「お姉ちゃん、痛いよ。ジョニーのやつ、ボクの頭を叩いたんだ、ゲンコツで!」
「僕はそんなことしてないぞ! 百合子、信じて。ルチアーノは嘘をついてるんだ」
「ジョニー、ルチはまだ子どもなんですよ。あんまりいじめたら可哀想でしょう」
 百合子は縋りつくルチアーノの額をやさしく撫でながら、眉根を寄せ、少し怒ったような顔をしてみせた。そのときルチアーノが見せた勝ち誇ったような笑みといったら、なかった。
 一家をリビングルームに案内したあと、百合子は背伸びしてジョニーの耳元に唇を寄せ、こんなことを言った。
「ジョニーってば、ルチに揶揄われていたでしょう。ほんとうは叩いてもいないのですよね」
「百合子」
「簡単なイタリア語なら、私にもわかります。心配しなくても、ジョニーは世界で一番格好良くてスマートですよ」
 彼女の小さな唇が蝶のようにジョニーの頬に触れ、すぐに離れていった。
 黒目がちな瞳が少しばかりの羞恥を帯びてジョニーを見上げ、すぐに逸らされる。自分から仕掛けてきたくせに、耳まで真っ赤にして、小さくなって俯いている。
 周囲に誰もいないのをいいことに、恥も外聞もなく、ジョニーは愛しい妻を抱きしめた。彼女の細い身体の輪郭は、ジョニーの感覚器官を大いに充し、楽しませた。かわいい。愛おしくて胸が苦しい、大好きだ。
 百合子は必死になって身を捩ったが、ジョニーは彼女の抵抗を愛らしい乙女の恥じらいと思って真面目に取り合わない。
「ジョニー、後ろ。後ろ!」
 背中を叩かれ、涙声で訴えられて、ジョニーはようやく彼の背後を顧みた。リビングルームから二人を隠す漆喰の壁、その影に隠れるようにして、悪魔か死神か、こっそりと覗く人影が一つ。莞爾と微笑んだルチアーノが、弁えず愛し合う夫婦を眺めている。
 宴会の席での話題は彼によって大いに盛り立てられるだろう。
 最悪だ……。

 百合子が腕を振るって作ったシチリア料理や彼女の故郷の伝統料理の数々が、目も舌も大いに肥えた賓客たちを喜ばせた。彼らはワイングラスを片手に和やかに談笑し、やがて夫婦の案内を受けて外庭に出た。
 三階建ての白い家屋は小さな城のように厳格な構造(かまえ)を誇り、新人庭師が慌てて手を入れた二千平方ヤードの庭園は、薔薇や芍薬、百合、ペンタスなど、彼のプリンセスを喜ばせるための花で満たされていた。噴水の水盤からこぼれる飛沫は陽光に照らされて宝石を宙に撒いたような幻想を見せ、よく磨かれた石畳の上を影法師となって優雅に滑り落ちてゆく。夫婦の家は美しく、その昂然たることに、人々は夫婦の生活に欠け一つないことを知った。
 しかし、幸福は長くは続かないものだ。
 斜陽が庭中を赤く照らし、人々の横顔に墨のような翳りを落とす夕暮の頃、ジョニーは彼の肩によりそう妻の姿に奇妙な予感を覚えた。……あまりにも美しいのだ。恋のためらいに目尻を潤ませていた少女のころから彼女は美しく、ジョニーもそれを好ましく思っていたが、それとは訳が違う。彼女の全身に影のようにのしかかり、肉や骨の一かけに至るまでを支配せんとするような、圧倒的で、人間離れした美しさ。あまりにも完全で、それ故に人間の正気を感じさせない、無機的な美しさ。そして、彼女の皮膚や瞳や細い髪の一本一本は、命の器としての肉体に不相応なそれを支えているのに耐えかねて、すっかり辟易しているように感じられた。
 朝、百合子が口にした一抹の不安。ジョニーはそれを取るに足らないものと思い、華やかなパーティーの雰囲気や香りの良いワインの舌触りに酔ううちにすっかり忘れてしまうほどだったが、予感が首にひたりと押し当てられたのを感じた時、はからずもそのことが彼の頭をよぎった。
「今が幸せすぎて怖いんです」
 ささやきが蘇る。
 予感は不吉だった。恐れが背筋を駆け上り、そのあまりの冷たさにジョニーは深くため息をついた。心臓の音が警鐘を打つように全身に響き、また、暗色の興奮のために、その指は小刻みに寒慄した。
 不安のうちにジョニーが妻に視線を向けたとき、彼女もまた、彼のことを見上げていた。
 震える唇が何か言おうと蠢く。青い瞳に何か不定形の影がよぎり、かと思えば、不意に、華奢な身体がぐらりと横に傾いた。細い手足や結った髪が宙に踊り、その様子は操り糸をふっつりと切られた人形を思わせた。統率を失った頼りない身体は芝生の上に放り出され、そのまま動かなくなった。
 しばらく、誰も、何も言えなかった。
 最初に動いたのは、海を眺めながら一人で飲んでいたパラドックスだった。彼は持っていたグラスを動けずにいる客の手の中に押し込むと、倒れた百合子に駆け寄り、腕の中に抱いた。臥した身体を仰向けにし、頬を軽くはたいて呼びかける。見開いた目は何もかもを平等に映しとるガラスのようだ。顔色は病的に白かった。意識がない。
「この馬鹿、何をぼうっとしている。早く手を貸せ!」
 彼の鋭い一喝で、ジョニーはようやく正気を取り戻した。慌てて百合子に近づき、その肩をゆする。支えを失った小さな頭がぐらぐらと前後に振れる。
「百合子、百合子しっかりしてくれ。いったいどうしたっていうんだ? 百合子!」
「喚くな。ゆするな。彼女を私の診療所に運ぶ。車を出せ」
 ジョニーがその身体をかき抱き、名前を呼んでも、彼女は何の反応も返さない。かろうじて薄い胸が緩く上下している。
 ルチアーノがわっと泣き出した。

 深夜、百合子はベッドの中にいた。大小さまざまな大きさの毛布が彼女の細い身体を包み、その隙間からほっそりと伸ばされた手は、ジョニーの硬質な掌にしっかりと握られていた。
 ランプのほの灯りが、ふっくらと生気を取り戻した頬やきらめく海の瞳、軽く結ばれた唇を薄く平坦に照らしている。髪が横に流れたことで露わになったすべらかな額を、ゆるく曲げた人差し指でそっと撫でてみた。百合子はくすぐったそうに小さく笑う。
 夕方にあったことがまるで嘘のようなおだやかさだ。
 ともすれば崩れ落ちそうになる膝を必死に奮い立たせながら、百合子をパラドックスの診療所に運び込んだ。パラドックスはすぐに検査を行い、彼女の身体の隅々までを検分した。しかし、
「神経調節性失神」
「……」
「の疑いあり、だ。断定はできん。冠攣縮性狭心症……心臓疾患の類、あるいはストレスに起因する身体症状症も考えられるが、どこにも異常が見られない以上、原因を特定することはできない」
 血液検査や心電図検査は、彼女の身体のどこにも異常を見出さなかった。どのデータも、彼女が至って健康かつ正常であると示すのだ。
「そんなわけがない。ちゃんと調べてくれ」
「詳しい検査がしたければ、もっと大きな病院にかかることだな。紹介状は書こう。だが、設備自体はうちのものとそう変わらん。出る結果は同じだ」
 口ではそう言いながらも、パラドックスは納得もいかない様子だった。
 自律神経を整えるための漢方薬をいくつか処方され、ジョニーは百合子を伴って帰宅した。
「疲れが溜まったんだ」
 頬や唇にも指を滑らせながら、ジョニーは低く、優しく囁いた。
「たくさん食べてしっかり寝ればすぐよくなるよ。心配しないで」
「ジョニー……」
「ん?」
「ありがとうございます。ジョニー、だいすき」
 ぼんやりと潤んだ夢うつつの瞳が、ジョニーを見て、ゆるやかに目尻を崩す。触れたら簡単に消えてしまうような、薄氷の微笑み。
 百合子が倒れたその時、ジョニーの全身を駆け巡ったあの不吉な予感が、再び彼の心を押し潰した。
 六年前、パレルモの町中を走り回ってようやく百合子を見つけたかの日、ジョニーの予感は見事に実現したのではなかったか。そう、彼の予感は当たるのだ、残酷なほどに。
 現代医学は彼女の身体に何の異常も見出さなかった。しかし、ジョニーにはわかる。不思議に透ける四肢。水の中を自由に回遊する肉体。ジョニーが何よりも愛おしむこの少女は、ジョニーが知り得ない何者かによって侵されはじめている。
「百合子……」
 寝息を立てる百合子の痩躯を、ジョニーは力の限り抱きしめた。
 一体誰が、実直なこの青年から愛する妻を奪い去ろうとしているのだろう?
 答えはない。今はまだ、その時ではないのだ。


 シチリアにも秋がやってきた。
 わずかに日差しの和らいだパレルモ郊外の丘を、二人の男が歩いていた。一人は二メートル近い長身の美丈夫で、秋の麦穂のようなこがね色の長髪を涼しげに翻し、大股でずんずんと先を闊歩する。遅れて、二人分の大荷物を抱えたもう一人が、女王に付き従う働きアリよろしく、汗だくになってそのあとを追った。彼が石畳の溝や欠けたタイル片に躓きそうになるたびに、短く切り揃えた黒髪が揺れる。
 不動遊星、二十五歳。成田空港からシンガポールミュンヘンを経由して、ここパレルモの地に降り立った。
「遊星よ、もうとっくに通り過ぎてしまったのではないか? 一度引き返すのはどうだ」
「いや……、もう少しで着くはずだ。ほら、あの家じゃないか」
 クッチョ山を背後に建つ、三階建ての、小さな城のような構えの一軒家。真っ白な壁は午後の陽に真珠色に輝き、高い石造りの塀からは、棕櫚の葉や、秋薔薇の可憐な花房が、風に吹かれてかすかに揺れるのが見える。
 遊星はその様子を、目を眇め、まぶしいものを眺める思いで見た。
 百合子の家だ。

 再会の熱い抱擁を期待していたわけではないが、それにしても、ドアから顔を出したジョニーの顔にあまりにも覇気がなかったので、遊星はすっかり拍子抜けしてしまった。
 結婚式のとき、叙階を受ける司教のように胸を張り、誇らしげに花嫁に口づけをしたあの男は、今や見る影もなく痩せていた。来訪者に送られる視線は苦悶を隠そうともしない。伸びた髪は手入れを怠ったために乱れてところどころ跳ね上がり、目の下には隈がくっきりと浮かんでいる。いつも闊達として、若々しい魅力に溢れていた彼と同じ人間であるとはとても思えなかった。
「やあ、遊星。久しぶり、ジャック。よく来てくれたね」
「ジョニー……少し痩せたのではないか」
 彼にジャックを紹介したのは二人の結婚式の日で、今日は二度目の対面になるが、そのジャックでさえ、目の前の男の様子がおかしいと気づいたようだった。
 彼は力無く首を振り、微笑む。
「それよりも百合子が……」
 遊星が妹の失神を知らされてからもう二月ほどになる。彼女の容態は決して思わしいものではない。
 初めは週に何度か意識を失うくらいのものだったが、日が経つにつれて高熱や身体の節々の痛み、肺炎などの症状が現れるようになり、彼女はすっかり消耗していた。今では起き上がることすらままならず、ジョニーの懸命な介抱を受けながら、一日の大半をベッドの上で過ごしている。さらに悪いことには、どの医者に診せてもその原因がわからないというのだ。投薬治療から民間療法に至るまで、あらゆる手を尽くしたが、彼女は衰弱していく一方だった。
「最近では起きている時間の方が短いくらいなんだ。今も寝てると思うけど、よかったら顔だけでも見ていってくれないかな」
 ジョニーに案内されたのは、三階奥の、南向きの部屋……夫婦の寝室だった。
 ドアを開けてすぐ、むせかえるほどの甘い香りが遊星の鼻腔をくすぐった。花の香りだ。部屋はさまざまな種類の花で満たされていた。それは例えば蘭の花や薔薇、紫陽花、カーネーション、カメリア、桃やはたんきょうの長い枝に咲いた花々や、いく抱えあるとも知れぬジャスミンの花々などだった。花々はまるで古代の神々の迷路のように、あるいは美姫を隠す薄い雲のヴェールのように、三人と百合子の眠るベッドの間を遠く隔てていた。
「百合子。起きてる?」
 ガウラの白い花弁を押し分けながら、ジョニーはベッドに近づいた。
 彼の広い肩越しに、遊星は妹を見た。百合子は薄藤の絹のネグリジェにレースの羽織を見につけて、ベッドに寝そべっていた。カーテンのわずかな隙間から白昼の光が差して、彼女の全身を薄闇の中につまびらかにした。
 その顔は熱く火照り、高熱がもたらす苦痛が端正な眉の間にくっきりと刻まれていた。汗で濡れた前髪が額に貼りついている。ネグリジェの襟元は広くくつろげられ、白い皮膚薬を塗られた鳩尾と、静かに女の展望を見せる小さな乳房が露わになっている。
 薄く開かれた唇は甘やかに、苦しげに喘鳴し、その合間に、百合子はジョニーの名前を呼んだ。冬の枯れ枝のようになった腕が夫を求め、ジョニーはそれに応えて、彼女の唇や頬に悲痛な接吻を浴びせた。
「百合子、義兄さんたちが来てくれたよ」
「まあ……兄さんが……」
「呼んでもいいかな?」
 百合子が首肯し、二人はベッドに近づいた。
 哀れな妹は、兄と、その恋人の姿を見とめると、憔悴しきった顔に嬉しそうな微笑みをのぼらせた。
「遊星兄さん、ジャック、遠いところから……ありがとうございます。こんな格好で……お相手もできなくてごめんなさい」
「いいんだ。そのままで、何も喋らなくていいから……」
 すっかり憔悴しきった、羸弱でいたいけな妹。幼い頃は遊星の後ろをちょこちょことついて回り、将来は兄さんと結婚するのだと言って憚らなかった妹。頬を薔薇色に染めて、嬉しそうな顔をして、異国で出会った青年と恋に落ち、嫁いで行った妹。いつも溌剌として、美しく優しかった妹。薄い微笑の上に健康で幸福だった彼女の幻想が次々に蘇り、遊星は胸をきつく詰まらせた。再会の挨拶もそこそこに駆け寄り、か細い蒲柳の身体を懸命にかき抱いた。
「兄さんってば、ひどいお顔。あまり寝ていないのではありませんか? ジャック?」
「ああ。家を出てからこの家に到着するまでの三十七時間、遊星は一分たりとも睡眠を取らなかった。それもこれも、お前がいつまでも寝込んでいるからだ。こいつを心配するくらいなら、早く自分をなんとかしてしまえ!」
「ジャック、なんてことを言うんだ」
「いいえ、兄さん。ジャック、ありがとうございます。そうですよね、いつまでもみなさんに心配をかけるわけにはいきませんから……」
 健気にも気丈に振る舞おうとする妹がいじらしくて、切なくて、遊星は彼女をますます強く抱いた。
 彼女の苦しみを代わりに背負えたらどんなに良いだろう。
 ジャックは難儀だとばかりに眉を吊り上げ、腕を組んで唸った。ジョニーの表情は逆光に翳ってよくわからない。

 四人で昼食を取ったが、百合子はまた料理を残した。
 流動食でなければ喉を通らない彼女のために、りんごの擦ったものや、限界までふやかした粥を用意するのだが、ほんの数口食べただけで、彼女はもう十分だからと匙を置くのだ。ジョニーの作るご飯はなんでも好き、と言ってくれた、かつての彼女の姿を思い出す。
 まだ八割ほど中身を残した皿を水に晒し、洗い流す。振って水滴を落としたものを横に渡すと、ジャックの無骨な手がそれを受け取り、柔らかいふきんで拭う。
「ジャックって、意外と家庭的なんだ」
 ジョニーの発言は失礼極まりないものだったが、彼は苛立つこともなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「放っておくと、遊星は飯も食わなければ風呂にも入らない。俺がやらなければ死ぬぞ、あれは」
「でも、君なら家政婦を雇って派遣することもできるだろう? わざわざ自分でやることもないじゃないか」
 兄妹の幼なじみにして、遊星が長年の片思いを実らせて手に入れた恋人、ジャック・アトラスは、世界的メンズファッションブランド〈アトラス〉のオーナーだった。企業経営から商品のデザイン、イメージモデルに至るまでを一手に担い、その辣腕で業界のトップに上り詰めた若きカリスマだ。
 ジョニーが学生の頃から愛用しているオーデコロンもアトラス社のものだ。だから、百合子との結婚式で遊星から彼の紹介を受けた時、ジョニーは腰を抜かすほど驚いた。噂に違わぬ美貌や威風堂々たる佇まい、尊大な立ち振る舞いに、本物は格が違うのだと妙に納得したものだった。
 そんな彼が、遊星が適当に選んだ田舎のアパルトメントの一室にその長身で押し入って、料理に洗濯にと世話を焼いているさまを想像すると、あまりのアンバランスさに笑ってしまいそうになる。
「俺は遊星に惚れている。遊星のために働き回るのは、まあ、趣味のようなものだ」
「……」
「金だけではどうにも押し通らないことが、この世にはままあるということだな。例えば、百合子の不調……さて、お前は彼女について、どこまで知っている?」
 ジャックは最後の一枚をすっかり綺麗にしてしまうと、手についた水分をふきんで拭いながらジョニーを見た。
 深い紫色の瞳が理性を帯びてかちりと煌めく。宝石に入ったひびのような形の虹彩が、ジョニーに全ての意識を向けていた。居た堪れなくなり、ジョニーの視線は遊星を探してキッチンを一巡したが、すぐに彼が百合子の部屋に残ったことを思い出した。
 ジャックが、ジョニーの胸の内に閉じ込められた疑念をつまみあげ、その存在を炙り出そうとしていることは明らかだった。だが、一体何のために? 彼は何を知っている?
「あ……ええと、原因はまだわからないんだ。いろいろな病院を回ったけど、どこにも異常が見つからない。悪いところがないとなると、病気かどうかも……」
「何を恐れている? もっと本質的なことだ」
「本質的なこと」
「例えば、……あの女はどこから来たのか、とか」
「まさか」ジョニーは押し殺していた息を吐き、目の前の男を見た。「*百合子が誰なのか*、知ってるの……?」
 不思議な百合子。原因不明の病。彼女が普通でないことはもはや明白だった。
 遊星と百合子はよく似た兄妹だが、その質が異なるものであることはジョニーにもなんとなくわかった。男だとか女だとか、年上だとか年下だとか、そういう問題ではない。皮膚の下に流れるものが違う。呼吸の時、吸って吐き出すものが違う。よく似せて作られているが、二人は本来相入れないはずの、異界のもの同士だ。
 ——百合子は人間ではない?
 それは恐ろしい天啓だった。逆境にあっても朗らかで、誰にでも優しい、天使のような百合子。ジョニーだけをひたむきに愛してくれる百合子。ジョニーと寄り添って生きることを望んでくれる百合子。誰よりも愛おしいその少女が、そもそも属する場所の違う、一生混じり合うことのできない異邦のものかもしれない。
 ジョニーは、たとえ百合子が地球に飛来したタコ星人だったとしても彼女を愛する自信があったが、それはその発想が現実のものでないという確信のもとに成りたったものだ。もし、真実になったとして、果たしてジョニーは正気でいられるだろうか。彼女を愛し続けることができるだろうか。
 人間は、自分とは異なるものを排斥したくなるようにできているのだ。
「……そう不安がることはない。真実はもっと単純だ」
 ジャックはジョニーの葛藤を見透かして、くつくつと低く笑った。
「百合子は人魚なのだ」
「人魚?」
「そうだ」
「人魚って、人魚(mermaid)?」
「ああ」
「に、人魚。へえ。だからあんなに綺麗なんだ……」
 その反応なら問題ないな、ジャックはジョニーから視線をふっとそらし、勝手にメーカーでコーヒーを淹れはじめた。
 人魚。人間の特徴と魚の特徴を併せ持つ架空の動物。物語の中ではしばしば女性の上半身と魚の下半身を持つ生き物として描かれ、その起源は、アイルランドのメロウやギリシャ神話に登場するセイレーンなどの伝説に見ることができる。
「むろん、本物の人魚などこの世に存在しない。百合子は人工的に作られた、最初にして唯一の人魚だ」
「……どういうこと?」
「彼女は、動物の遺伝子を人間の受精卵に組み込む実験の最初の被験者だ。たった一人の科学者の暴走の末路だ。被験者は複数いたらしいが、(規制)の遺伝子を打ち込まれた彼女だけが、生物としてこの世に生まれるに至った。結局、この実験は告発され、結されるに至ったが、生まれた個体を廃棄することは誰にもできなかった。それを引き取って育てたのが、遊星の両親だ。彼女は百合子と名付けられ、以後お前の元に身を寄せるまでの七年間、本当の娘のように育てられてきた。
 ここまでは良い。問題は、この実験が凍結されたことで、彼女の身体に起こるその後の変化を観測する人間が誰もいなくなったことだ。
 これは俺の仮説でしかないが、おそらく、彼女の不安定な遺伝情報が何らかの不具合を起こし、このような原因不明の不調を引き起こしているのだろう。となると、普通の医者には彼女を治療することはできない。科学者は獄中で狂気を引き起こし、彼女の両親はもういない」
 (規制)についてはジョニーも知っている。イタリア半島近郊の海にも生息する、ごくありふれた海洋生物の名前だ。それだけに、ジャックの話はまるで現実感がなく、突拍子もないものだった。だが、彼はやたらに冗談を言うようなたちの男ではない。ジョニーに差し向ける眼差しは変わらず誠実なものだったし、百合子の、おとぎ話のような真実を語る声はいやに静謐だった。
「遊星はこのことを知らない。百合子本人でさえも、自分が普通でないとわかってはいても、ここまで仔細な事情までは知らないだろう。彼らの両親は俺だけに秘密を打ち明けた。なぜかは、わからない」
 コーヒーが出来上がり、彼はそれを取って啜った。
「……つまり、百合子は(規制)と人間のあいのこだけど、それぞれの遺伝情報が噛み合わなくて今不調を起こしてるってこと?」
「仮定の範疇だがな。なんだ、いやに飲み込みが早いな」
「予想していなかったわけじゃないんだ。その……百合子が、人間じゃない、ってこと」
 擦り切れてもはや形も曖昧な記憶だが、子供のころ、ジョニーは人間と種を別にする何者かに遭遇したことがあった。彼女は、妖しい色違いの目、鉱石めいた輝きを放つ目でジョニーの過去から未来に至るまでに光を当て、その一つ一つを拾い上げて検分した。彼女が見せた、闇の中に蠢く怨恨は、百合子を無惨な形で奪われた未来のジョニーだったかもしれない。どうして今まで忘れていたのだろう、まるで何もなかったかのように?
 ジョニーは彼女によって、人類の庭の外側で生きる未知のものたちの存在を知ったのだ。ジャックが語る百合子の可能性に取り乱さず、ひとまず受け入れるだけの器は出来上がっていた。
「俺がその馬鹿げた話を信じたのは、彼らの両親を尊敬し、愛していたからだ。そして、百合子本人からも、それを裏付ける証拠となりうるような相談を受けていた。……十二歳のとき、風呂に浸かる自分の身体が透けるのだと、百合子は泣きながら俺に訴えたのだ。そうでなければ、俺は彼らの話を物好きな科学者夫婦の妄言と断じて取り合わなかっただろう。それだけに、今、お前が俺の話を馬鹿正直に受け入れたことがふしぎでならん」
「同じことだよ」ジョニーは肩をすくめ、「僕も好きだ。百合子のことも、君のことも……」
 兄妹の歓談を終えたらしい遊星が階下に降りてきた。その右腕に軽々と抱き上げられて、照れたように笑う百合子もいる。
 遊星は奇妙な格好で向かい合う恋人と義弟を見ると、ほっとした様子でまなじりを緩めた。
「何の話をしていたんだ?」
「少しな。百合子、ベッドから出ても良いのか」
「兄さんが一度ホテルに戻るというので、見送りくらいはしなければと思いまして。そうしたら……こんな、小さな子どもみたいで恥ずかしいです」
「遊星はお前が心配でならんのだ。抱っこくらいさせてやれ」
「遊星、もう帰っちゃうのかい?」
「ああ……とりあえず寝たい」
「昼寝くらい、ここでしていけばいいのに」
「馬鹿者、夫婦の邪魔をしないようにという義兄のおもんばかりを汲まないか」
 遊星はL字ソファの長い部分に百合子をそっと横たえると、その眉を親指で優しく撫でた。幼い子供にするような愛撫に百合子は気恥ずかしそうにぱちぱちと瞬きをし、下瞼を花の色に染めた。にいさん、舌足らずな声が彼を呼ぶ。
「俺たちは旧市街のホテルにしばらく滞在する。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ありがとう」
「百合子、俺の心はいつでもお前のそばにある。愛しているよ」
 瞼にかかる髪をどけてやりながら、遊星の掌が百合子の頬を包む。口づけが彼女の額を訪れ、続いて、恋人に促されたジャックの唇が同じ場所へためらいがちに触れた。
 二人の兄が部屋から去ると、緊張の糸がすっかり切れてしまったのか、百合子は再び三十九度の高熱を出した。幻覚すら見ているようで、仕切りに父親を呼びながら、折角食べた昼のものを二度に分けて嘔吐した。もう何も胃に残っていないのに、頻りになにかを吐き出そうとする唇。懐かしい面影を求めて必死に虚を掻く痩せ細った手。ジョニーは、苦しみ喘ぐ妻の背をさすることしかできない愚かで甲斐性のない夫だ。
「おとうさん、おとうさん、おとうさん、おとうさん」
「……」
「おとうさん、どうして……を、……たりしたのですか……」
 彼女に熱どめの薬を飲ませてやりながら、ふと、ジョニーは自分の携帯にメールが一件届いているのに気がついた。横目で液晶を盗み見る。ジャックからだ。件名はなし、本文は簡潔に、
『覚悟を決めろ』
 ……何だって?

 夜の間こそ、ジョニーにとっては戦いだ。
 二十四時間休むことなく不可解な苦痛の脅威にさらされ続けている百合子のことを思うと、ジョニーはおちおち寝こんでもいられないのだった。いついかなる時も城壁を守ることを強制された番人のように、ひたすらに神経を張りつめて、隣で眠る百合子の寝顔や、不規則な寝息に意識を集中させる。
 部屋に満ちる微光のために、百合子の肌はほの青く透き通っている。閉じた瞼は薄く漉いた紙のように白く、唇は強く噛み締められたために血が滲み、豊かに艶を帯びていたはずの黒髪の中にはちらほらと枝毛が散見される。胸の前で組まれた指は肉がすっかり削げて骨の形を露わにし、関節すら浮き出ている。痩せ細った病人の、朽木のような寝姿だが、それでも、ジョニーは彼女を美しいと思った。月光の滴りが彼女を無原罪の聖母に喩えあげていた。
 肌も唇も髪も、何もかもが薄くて、儚い。一度触れればはらはらと散ってしまいそうだ。それでも、ジョニーは彼女を腕の中に閉じ込めてしまわずにはいられなかった。
「百合子……」
 かすかな呟きはジョニーの中でたわみ、反響して、幾重にもこだまする。
 百合子……百合子。百合子、百合子——
 海鳴りのように、葉の擦れる音のように。彼女の名前はジョニーの細胞や血管の先に至るまで渡る。意識は鳴響の間に揺れ、もまれて、緩やかに拡散していく。
 解かれていく自我の糸が誰かに手繰り寄せられる。
 ジョニーは夢を見た。

 白く霧のかかった山をひたすら登っている。
 シチリアの山々のように、低木や野草ばかりの岩山ではない。ジョニーの歩む山道には黒く鋭い針のような葉をつけたもみの木が鬱蒼と繁り、太くごつごつとした幹たちの間を、白くけぶる霧がゆるく流れている。空の様子は、夥しい量の葉に覆われてほとんど窺い知れない。ジョニーの行手も、霧のために見通しが利かない。
 ジョニーは上を目指して歩き続ける。尖った枯れ枝が彼の服や肌を裂くが、不思議なことに痛みはない。靴底ごしにその形がわかるほど大きく角ばった石も、冷たい大気も。彼の歩みを止めることはできない。だが、何のために歩いているのか、どこに向かっているのか、彼の知るところではなかった。
 ふと、霧が晴れる。
 木々の連なりが途切れ、ジョニーはいつの間にか開けた場所に出ていた。ジョニーの視線の向かう先に、一際大きなトネリコの木が生えていた。幹だけで五メートルはある巨木だ。天を衝くように伸びた樹冠はみずみずしい葉で覆われ、所々に、白い靄のような花が寄り集まって咲いている。根本には小さな湖が湧き、その水面で、一人の女が座って糸車を回していた。
 いや、女ではない。ジョニーは彼女のことを知っている。男の目には至高の女として、女の前には究極の男として映り、そのどちらにも当てはまらない小さな少年だったジョニーに神秘を教えた存在。虹彩異色症、雌雄同体の魔女。遊城十代
 ジョニーが来たことに気づくと、彼女はペダルを踏む足を止め、やあ、と軽やかに手をあげた。
「久しぶりだな」
「百合子を助けてくれ」彼女の姿を見るや否や、ジョニーはそう叫んでいた。
「なんだよ。再会のあいさつにしてはいやに横暴だな」
「そんなこと言っている場合じゃないんだ。百合子が死にそうなんだ。君ならできるだろ、十代。僕に運命を見せたのは君だ」
「落ち着けよ。急いては事を仕損じる、だぜ」
 十代は放漫に脚を組み直し、きらめく神秘の目でジョニーを見た。
 十代は、初めて会った時とはまるで別人のようだった。浮浪者のような無粋な格好はやめたみたいだ。奇妙な形をしたモザイクの肉体は目が覚めるほど赤いショートドレスに覆われ、剥き出しの肩には似合わない白衣を羽織っている。その襟元に輝くのは何かのロゴをかたどった金のバッジだ。ともすれば見えてしまいそうなほど短い裾からはふっくらと健康そうに張り詰めた女の左脚と若鹿の脚のような少年の右脚が伸び、ヒールのついたパンプスと、底の平坦な革靴が、それぞれの足を大事そうに覆っていた。
 理想の女に心酔し、その足下に傅く男のように、ジョニーは湖畔に座した。男の本能が十代を手に入れろと騒ぎ立てていたが、しかし、彼は本来の目的を忘れてはいなかった。
「百合子の病を治してくれ。多分、君にしかできない」
「……」
「彼女は僕のすべてなんだ。この世の何よりも彼女が大事なんだ。彼女が健康に、幸せに生きられるのなら、僕は命を捧げたって構わない。今ここで死んでもいい」
 十代はジョニーの言葉に静かに耳を傾けていたが、その目は冷たく、無機質なきらめきを帯びてジョニーを見下ろしていた。ヒールの底が、湖の水面をコツコツと打った。
 ジョニーが懇願を終え、希望のうちに十代を見上げて、ようやく彼女はその口を割った。
「オレは、……ミラクルを起こすことはできないと、お前に言ったんだ。人を生き返らせたり、歴史を変えたりすることはできないと。でも、物理現象として筋が通ってさえいれば、ミラクルは起こせなくても奇跡は実現できる。百合子を救うには、簡単なことだ、彼女の身体から、人間が本来持ち得ない神秘の要素を取り除けばいい。そして、人間の組織すら自在に操れるような膨大な燃料、エネルギーさえ用意できれば、それは不可能じゃない。
 だが、この世に偏在するエネルギーの量は一定だ。創世のその時に宇宙を満たすエネルギーの総量は定められ、以来、一度たりともその均衡が破られたことはない。地球についても同じことが言える。地球の重力の影響下にあるエネルギーもまた一定のもの。だから、お前は百合子一人を救うために、長い宇宙旅行をするか、そうでなければ地球のどこかからエネルギーを集めてこなければならない。膨大な量だ。お前の命ひとつじゃその一片も担えない。
 想像できるか。彼女一人のために、多くの人間の、動物の、生き物の命が奪われる。同じように誰かを愛し、誰かに愛された命が、たった一人の女のためにゴミのように消費される。普通の現象とは訳が違う。イタリア半島ごと吹き飛ぶかもしれない。それでも、お前は彼女を救うために動けるのか? 自分の信条も、信仰も、信念さえ、彼女のために捨てられるのか?
 オレはできたさ。でも、それでもうまくいかなかった。結局オレは一人のままだ……」
 そこまで言うと、十代は一仕事終えたみたいにふうっと肩で息をして、再び糸車を回し始めた。
 赤いヒールの足が規則正しくペダルを踏む。フライホイールが回転し、彼女の手のなかで怪しく輝く赤いもやが、糸になってボビンに巻き取られていく。
「お前には無理さ。お前みたいなお人好しには、人の命を摘むことなんてできない。何より、優しい彼女がそんなこと望まないって、お前はよく知ってるんだ。だからひとついいことを教えてやる。彼女を生かす、唯一にして最良の方法」
「……どうすればいいんだ、教えてくれ」
「あの子を海に返せばいい」
 ジョニーは絶句した。
「(規制)を知ってるだろ。あれは生き物じゃない。人間は彼らをただの魚だと思ってるみたいだけど、本当は、俺たち魔女と神秘の領域を共有する同胞だ。言うなれば本物の人魚だ。有史以来、彼らは独自の言語で交信し、共同体を形成することで、人間たちのものとは別の高度文明を作り上げてきた。その、(真名)たちの神秘性が、あの子の人間の部分を冒しているんだ。あの子がいま苦しんでいる病に似たものは、人間性が神秘に抵抗しようとして発生する防御反応のようなものだ。医者が治療も原因の特定もできない理由がそれさ。
 とはいえ、その抵抗だってきっと長くは続かない。このまま陸に繋いでおけば、人間としてのあの子は完全に食い潰され、意味をなさなくなる……つまり死ぬ。でも、海に返せば、あの子は少なくとも(真名)として生きることができる。もちろん、違う生き物になるんだから、お前を愛してたことも、お前自身のこともわからなくなるだろうけど。
 わかってるとは思うけど、このままの状態で放っておいて一番かわいそうなのはあの子だ。神秘は同胞以外に対して容赦がない。文字通り全てを食い潰す。細胞も、存在の形も、魂そのものも……それらが食われる痛みは壮絶なものだろう。きっと死にたくなるくらい辛いはずだ。あの子はそれに、二十四時間休むことなくさらされ続けている」
 不意に、フライホイールの回転が止まり、十代はそこで言葉を途切れさせた。糸が絡まってしまったのだ。十代は白衣のポケットから銀の鋏を取り出し、それを切り落とそうとして、ふと、ジョニーの顔を宝石の瞳で見上げた。
 ジョニーの掌に伸びた爪が突き刺さる。
 十代は、最良の方法だと言った。だから、てっきり、誰の命も奪わず、誰のことも不幸にせずに、人間としての百合子を救うことができる切り札を、ハッピーエンドの希望を、彼女が用意してくれているのだと思ったのだ。だが、真実は違った。
 ジョニーの前に差し出されているのは、二枚のカード。一枚は人間としての彼女を殺し、海に放ってもう一人の彼女を生かすこと。カードの名は〈バッドエンド〉。もう一枚は……ジョニーのそばに、耐え難い苦痛と悲しみととともに彼女をとどめ置き、彼女の何もかもを殺してしまうこと。
 カードは美しい金色の光を放ちながら、緩やかに回転をしている。その表には、何処とも知れない風景が描かれている。
 乳白色の光の中に、かすかに青が透けて見える。まだ少し肌寒い位の、春の空だろうか。風に吹かれ、一面に舞うのは、しみひとつない真っ白な花びら。彼女の心。いつかばらばらになる彼女の心。
 パーフェクト・ワールド・エンド。
 女神を望んだ人間が、彼女を完全に殺すための破滅のカードだ。

 悲痛な咳嗽の音を聞いてジョニーは飛び起きた。
 百合子だ。彼女は喘息発作を起こしていた。背を折り曲げ激しくえづく。彼女が息を吸おうとするたびに、締まった気管支が、立て付けの悪い窓が立てる音に似た細い喘鳴を立てる。真っ青な額には脂汗が浮いている。
 慌ててベッドサイドを探り、やっと掴んだ水差しを彼女に渡すが、激しい咳のせいで手先すらおぼつかず、取り落とされた水差しはシーツを冷たく濡らした。
 ポロポロと涙をこぼしながら喘ぐ彼女に胸がいっぱいになり、ジョニーは自ら水を含むと、口移しで彼女の喉を潤した。
「じょに、ジョニー……」
「百合子、僕はここにいるよ。君のそばにいる。大好きだ、大好き、だから……」
「おねがいが、あります」
 苦しみながらも、彼女はジョニーのシャツの袖を掴む。夜闇の中で、潤んだ瞳がきらきらと光を帯び、ジョニーに何かを訴えている。
「うみに。つれていってください、はやく……」
 言い終わらないうちに、苛烈な苦痛が彼女の全身を激しく痙攣させた。
 ジョニーはタクシーを呼び、毛布にくるまった彼女を伴ってビーチへと急いだ。夜のビーチは黒く、ひんやりとして、この世全ての拒絶を湛えているのだとばかりに暗澹としていた。海風で激しく波飛沫が立つ中、裸足になった彼女はふらふらと海に入っていく。ジョニーは彼女を慌てて支えようとして、その身体がひどく冷え切っていることに気がついた。

 

 

2023/01/01

 

 

 

 ジョニーが小さな身体を捕まえてくすぐると、ルチアーノは足をバタつかせて抵抗し、ジョニーの右腕に噛み付きもしたが、百合子が見ているとわかると一転して嘘泣きをはじめた。息子のやんちゃな性格を深く理解している両親とは対照的に、百合子はすぐに駆け寄ってきてジョニーから彼を引き剥がし、ばか正直にその身を案じた。
「お姉ちゃん、痛いよ。ジョニーのやつ、ボクの頭を叩いたんだ、ゲンコツで!」
「僕はそんなことしてないぞ! 百合子、信じて。ルチアーノは嘘をついてるんだ」
「ジョニー、ルチはまだ子どもなんですよ。あんまりいじめたら可哀想でしょう」
 百合子は縋りつくルチアーノの額をやさしく撫でながら、眉根を寄せ、少し怒ったような顔をしてみせた。そのときルチアーノが見せた勝ち誇ったような笑みといったら、なかった。
 一家をリビングルームに案内したあと、百合子は背伸びしてジョニーの耳元に唇を寄せ、こんなことを言った。
「ジョニーってば、ルチに揶揄われていたでしょう。ほんとうは叩いてもいないのですよね」
「百合子」
「簡単なイタリア語なら、私にもわかります。心配しなくても、ジョニーは世界で一番格好良くてスマートですよ」
 彼女の小さな唇が蝶のようにジョニーの頬に触れ、すぐに離れていった。
 黒目がちな瞳が少しばかりの羞恥を帯びてジョニーを見上げ、すぐに逸らされる。自分から仕掛けてきたくせに、耳まで真っ赤にして、小さくなって俯いている。
 周囲に誰もいないのをいいことに、恥も外聞もなく、ジョニーは愛しい妻を抱きしめた。彼女の細い身体の輪郭は、ジョニーの感覚器官を大いに充し、楽しませた。かわいい。愛おしくて胸が苦しい、大好きだ。
 百合子は必死になって身を捩ったが、ジョニーは彼女の抵抗を愛らしい乙女の恥じらいと思って真面目に取り合わない。
「ジョニー、後ろ。後ろ!」
 背中を叩かれ、涙声で訴えられて、ジョニーはようやく彼の背後を顧みた。リビングルームから二人を隠す漆喰の壁、その影に隠れるようにして、悪魔か死神か、こっそりと覗く人影が一つ。莞爾と微笑んだルチアーノが、弁えず愛し合う夫婦を眺めている。
 宴会の席での話題は彼によって大いに盛り立てられるだろう。
 最悪だ……。

 百合子が腕を振るって作ったシチリア料理や彼女の故郷の伝統料理の数々が、目も舌も大いに肥えた賓客たちを喜ばせた。彼らはワイングラスを片手に和やかに談笑し、やがて夫婦の案内を受けて外庭に出た。
 三階建ての白い家屋は小さな城のように厳格な構造(かまえ)を誇り、新人庭師が慌てて手を入れた二千平方ヤードの庭園は、薔薇や芍薬、百合、ペンタスなど、彼のプリンセスを喜ばせるための花で満たされていた。噴水の水盤からこぼれる飛沫は陽光に照らされて宝石を宙に撒いたような幻想を見せ、よく磨かれた石畳の上を影法師となって優雅に滑り落ちてゆく。夫婦の家は美しく、その昂然たることに、人々は夫婦の生活に欠け一つないことを知った。
 しかし、幸福は長くは続かないものだ。
 斜陽が庭中を赤く照らし、人々の横顔に墨のような翳りを落とす夕暮の頃、ジョニーは彼の肩によりそう妻の姿に奇妙な予感を覚えた。……あまりにも美しいのだ。恋のためらいに目尻を潤ませていた少女のころから彼女は美しく、ジョニーもそれを好ましく思っていたが、それとは訳が違う。彼女の全身に影のようにのしかかり、肉や骨の一かけに至るまでを支配せんとするような、圧倒的で、人間離れした美しさ。あまりにも完全で、それ故に人間の正気を感じさせない、無機的な美しさ。そして、彼女の皮膚や瞳や細い髪の一本一本は、命の器としての肉体に不相応なそれを支えているのに耐えかねて、すっかり辟易しているように感じられた。
 朝、百合子が口にした一抹の不安。ジョニーはそれを取るに足らないものと思い、華やかなパーティーの雰囲気や香りの良いワインの舌触りに酔ううちにすっかり忘れてしまうほどだったが、予感が首にひたりと押し当てられたのを感じた時、はからずもそのことが彼の頭をよぎった。
「今が幸せすぎて怖いんです」
 ささやきが蘇る。
 予感は不吉だった。恐れが背筋を駆け上り、そのあまりの冷たさにジョニーは深くため息をついた。心臓の音が警鐘を打つように全身に響き、また、暗色の興奮のために、その指は小刻みに寒慄した。
 不安のうちにジョニーが妻に視線を向けたとき、彼女もまた、彼のことを見上げていた。
 震える唇が何か言おうと蠢く。青い瞳に何か不定形の影がよぎり、かと思えば、不意に、華奢な身体がぐらりと横に傾いた。細い手足や結った髪が宙に踊り、その様子は操り糸をふっつりと切られた人形を思わせた。統率を失った頼りない身体は芝生の上に放り出され、そのまま動かなくなった。
 しばらく、誰も、何も言えなかった。
 最初に動いたのは、海を眺めながら一人で飲んでいたパラドックスだった。彼は持っていたグラスを動けずにいる客の手の中に押し込むと、倒れた百合子に駆け寄り、腕の中に抱いた。臥した身体を仰向けにし、頬を軽くはたいて呼びかける。見開いた目は何もかもを平等に映しとるガラスのようだ。顔色は病的に白かった。意識がない。
「この馬鹿、何をぼうっとしている。早く手を貸せ!」
 彼の鋭い一喝で、ジョニーはようやく正気を取り戻した。慌てて百合子に近づき、その肩をゆする。支えを失った小さな頭がぐらぐらと前後に振れる。
「百合子、百合子しっかりしてくれ。いったいどうしたっていうんだ? 百合子!」
「喚くな。ゆするな。彼女を私の診療所に運ぶ。車を出せ」
 ジョニーがその身体をかき抱き、名前を呼んでも、彼女は何の反応も返さない。かろうじて薄い胸が緩く上下している。
 ルチアーノがわっと泣き出した。

 深夜、百合子はベッドの中にいた。大小さまざまな大きさの毛布が彼女の細い身体を包み、その隙間からほっそりと伸ばされた手は、ジョニーの硬質な掌にしっかりと握られていた。
 ランプのほの灯りが、ふっくらと生気を取り戻した頬やきらめく海の瞳、軽く結ばれた唇を薄く平坦に照らしている。髪が横に流れたことで露わになったすべらかな額を、ゆるく曲げた人差し指でそっと撫でてみた。百合子はくすぐったそうに小さく笑う。
 夕方にあったことがまるで嘘のようなおだやかさだ。
 ともすれば崩れ落ちそうになる膝を必死に奮い立たせながら、百合子をパラドックスの診療所に運び込んだ。パラドックスはすぐに検査を行い、彼女の身体の隅々までを検分した。しかし、
「神経調節性失神」
「……」
「の疑いあり、だ。断定はできん。冠攣縮性狭心症……心臓疾患の類、あるいはストレスに起因する身体症状症も考えられるが、どこにも異常が見られない以上、原因を特定することはできない」
 血液検査や心電図検査は、彼女の身体のどこにも異常を見出さなかった。どのデータも、彼女が至って健康かつ正常であると示すのだ。
「そんなわけがない。ちゃんと調べてくれ」
「詳しい検査がしたければ、もっと大きな病院にかかることだな。紹介状は書こう。だが、設備自体はうちのものとそう変わらん。出る結果は同じだ」
 口ではそう言いながらも、パラドックスは納得もいかない様子だった。
 自律神経を整えるための漢方薬をいくつか処方され、ジョニーは百合子を伴って帰宅した。
「疲れが溜まったんだ」
 頬や唇にも指を滑らせながら、ジョニーは低く、優しく囁いた。
「たくさん食べてしっかり寝ればすぐよくなるよ。心配しないで」
「ジョニー……」
「ん?」
「ありがとうございます。ジョニー、だいすき」
 ぼんやりと潤んだ夢うつつの瞳が、ジョニーを見て、ゆるやかに目尻を崩す。触れたら簡単に消えてしまうような、薄氷の微笑み。
 百合子が倒れたその時、ジョニーの全身を駆け巡ったあの不吉な予感が、再び彼の心を押し潰した。
 六年前、パレルモの町中を走り回ってようやく百合子を見つけたかの日、ジョニーの予感は見事に実現したのではなかったか。そう、彼の予感は当たるのだ、残酷なほどに。
 現代医学は彼女の身体に何の異常も見出さなかった。しかし、ジョニーにはわかる。不思議に透ける四肢。水の中を自由に回遊する肉体。ジョニーが何よりも愛おしむこの少女は、ジョニーが知り得ない何者かによって侵されている。
「百合子……」
 寝息を立て始めた百合子の痩躯を、ジョニーは力の限り抱きしめた。
 一体誰が、実直なこの青年から愛する妻を奪い去ろうとしているのだろう?
 答えはない。今はまだ、その時ではないのだ。


 シチリアにも秋がやってきた。
 わずかに日差しの和らいだパレルモ郊外の丘を、二人の男が歩いていた。一人は二メートル近い長身の美丈夫で、秋の麦穂のようなこがね色の長髪を涼しげに翻し、大股でずんずんと先を闊歩する。遅れて、二人分の大荷物を抱えたもう一人が、女王に付き従う働きアリよろしく、汗だくになってそのあとを追った。彼が石畳の溝や欠けたタイル片に躓きそうになるたびに、短く切り揃えた黒髪が揺れる。
 不動遊星、二十五歳。成田空港からシンガポールミュンヘンを経由して、ここパレルモの地に降り立った。
「遊星よ、もうとっくに通り過ぎてしまったのではないか? 一度引き返すのはどうだ」
「いや……、もう少しで着くはずだ。ほら、あの家じゃないか」
 三階建ての、小さな城のような構えの一軒家。真っ白な壁は午後の陽に真珠色に輝き、高い石造りの塀からは、棕櫚の葉や、秋薔薇の可憐な花房が、風に吹かれてかすかに揺れるのが見える。
 遊星はその様子を、目を眇め、まぶしいものを眺める思いで見た。
 百合子の家だ。

 再会の熱い抱擁を期待していたわけではないが、それにしても、ドアから顔を出したジョニーの顔にあまりにも覇気がなかったので、遊星はすっかり拍子抜けしてしまった。
 結婚式のとき、叙階を受ける司教のように胸を張り、誇らしげに花嫁に口づけをしたあの男は、今や見る影もなく痩せていた。来訪者に送られる視線は苦悶を隠そうともしない。伸びた髪は手入れを怠ったために乱れてところどころ跳ね上がり、目の下には隈がくっきりと浮かんでいる。いつも闊達として、若々しい魅力に溢れていた彼と同じ人間であるとはとても思えなかった。
「やあ、遊星義兄さん。久しぶり、ジャック。よく来てくれたね」
「ジョニー……少し痩せたのではないか」
 彼にジャックを紹介したのは二人の結婚式の日で、今日は二度目の対面になるが、そのジャックでさえ、目の前の男の様子がおかしいと気づいたようだった。
 彼は力無く首を振り、微笑む。
「それよりも百合子が……」
 遊星が妹の失神を知らされてからもう二月ほどになる。彼女の容態は決して思わしいものではない。
 初めは週に何度か意識を失うくらいのものだったが、日が経つにつれて高熱や身体の節々の痛み、肺炎などの症状が現れるようになり、彼女はすっかり消耗していた。今では起き上がることすらままならず、ジョニーの懸命な介抱を受けながら、一日の大半をベッドの上で過ごしている。さらに悪いことには、どの医者に診せてもその原因がわからないというのだ。投薬治療から民間療法に至るまで、あらゆる手を尽くしたが、彼女は衰弱していく一方だった。
「最近では起きている時間の方が短いくらいなんだ。今も寝てると思うけど、よかったら顔だけでも見ていってくれないかな」
 ジョニーに案内されたのは、三階奥の、南向きの部屋……夫婦の寝室だった。
 ドアを開けてすぐ、むせかえるほどの甘い香りが遊星の鼻腔をくすぐった。花の香りだ。部屋はさまざまな種類の花で満たされていた。それは例えば蘭の花や薔薇、紫陽花、カーネーション、カメリア、桃やはたんきょうの長い枝に咲いた花々や、いく抱えあるとも知れぬジャスミンの花々などだった。花々はまるで古代の神々の迷路のように、あるいは美姫を隠す薄い雲のヴェールのように、三人と百合子の眠るベッドの間を遠く隔てていた。
「百合子。起きてる?」
 ガウラの白い花弁を押し分けながら、ジョニーはベッドに近づいた。
 彼の広い肩越しに、遊星は妹を見た。百合子は薄藤の絹のネグリジェにレースの羽織を見につけて、ベッドに寝そべっていた。カーテンのわずかな隙間から白昼の光が差して、彼女の全身を薄闇の中につまびらかにした。
 その顔は熱く火照り、高熱がもたらす苦痛が端正な眉の間にくっきりと刻まれていた。汗で濡れた前髪が額に貼りついている。ネグリジェの襟元は広くくつろげられ、白い皮膚薬を塗られた鳩尾と、静かに女の展望を見せる小さな乳房が露わになっている。
 薄く開かれた唇は甘やかに、苦しげに喘鳴し、その合間に、百合子はジョニーの名前を呼んだ。冬の枯れ枝のようになった腕が夫を求め、ジョニーはそれに応えて、彼女の唇や頬に悲痛な接吻を浴びせた。
「百合子、義兄さんたちが来てくれたよ」
「まあ……兄さんが……」
「呼んでもいいかな?」
 百合子が首肯し、二人はベッドに近づいた。
 哀れな妹は、兄と、その恋人の姿を見とめると、憔悴しきった顔に嬉しそうな微笑みをのぼらせた。
「遊星兄さん、ジャック、遠いところから……ありがとうございます。こんな格好で……お相手もできなくてごめんなさい」
「いいんだ。そのままで、何も喋らなくていいから……」
 すっかり憔悴しきった、羸弱でいたいけな妹。幼い頃は遊星の後ろをちょこちょことついて回り、将来は兄さんと結婚するのだと言って憚らなかった妹。頬を薔薇色に染めて、嬉しそうな顔をして、異国で出会った青年と恋に落ち、嫁いで行った妹。いつも溌剌として、美しく優しかった妹。薄い微笑の上に健康で幸福だった彼女の幻想が次々に蘇り、遊星は胸をきつく詰まらせた。再会の挨拶もそこそこに駆け寄り、か細い蒲柳の身体を懸命にかき抱いた。
「兄さんってば、ひどいお顔。あまり寝ていないのではありませんか? ジャック?」
「ああ。家を出てからこの家に到着するまでの三十七時間、遊星は一分たりとも睡眠を取らなかった。それもこれも、お前がいつまでも寝込んでいるからだ。こいつを心配するくらいなら、早く自分をなんとかしてしまえ!」
「ジャック、なんてことを言うんだ」
「いいえ、兄さん。ジャック、ありがとうございます。そうですよね、いつまでもみなさんに心配をかけるわけにはいきませんから……」
 健気にも気丈に振る舞おうとする妹がいじらしくて、切なくて、遊星は彼女をますます強く抱いた。
 彼女の苦しみを代わりに背負えたらどんなに良いだろう。
 ジャックは難儀だとばかりに眉を吊り上げ、腕を組んで唸った。ジョニーの表情は逆光に翳ってよくわからない。

 四人で昼食を取ったが、百合子はまた料理を残した。
 流動食でなければ喉を通らない彼女のために、りんごの擦ったものや、限界までふやかした粥を用意するのだが、ほんの数口食べただけで、彼女はもう十分だからと匙を置くのだ。ジョニーの作るご飯はなんでも好き、と言ってくれた、かつての彼女の姿を思い出す。
 まだ八割ほど中身を残した皿を水に晒し、洗い流す。振って水滴を落としたものを横に渡すと、ジャックの無骨な手がそれを受け取り、柔らかいふきんで拭う。
「ジャックって、意外と家庭的なんだ」
 ジョニーの発言は失礼極まりないものだったが、彼は苛立つこともなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「放っておくと、遊星は飯も食わなければ風呂にも入らない。俺がやらなければ死ぬぞ、あれは」
「でも、君なら家政婦を雇って派遣することもできるだろう? わざわざ自分でやることもないじゃないか」
 兄妹の幼なじみにして、遊星が長年の片思いを実らせて手に入れた恋人、ジャック・アトラスは、世界的メンズファッションブランド〈アトラス〉のオーナーだった。企業経営から商品のデザイン、イメージモデルに至るまでを一手に担い、その辣腕で業界のトップに上り詰めた若きカリスマだ。
 ジョニーが学生の頃から愛用しているオーデコロンもアトラス社のものだ。だから、百合子との結婚式で遊星から彼の紹介を受けた時、ジョニーは腰を抜かすほど驚いた。噂に違わぬ美貌や威風堂々たる佇まい、尊大な立ち振る舞いに、本物は格が違うのだと妙に納得したものだった。
 そんな彼が、遊星が適当に選んだ田舎のアパルトメントの一室にその長身で押し入って、料理に洗濯にと世話を焼いているさまを想像すると、あまりのアンバランスさに笑ってしまいそうになる。
「俺は遊星に惚れている。遊星のために働き回るのは、まあ、趣味のようなものだ」
「……」
「金だけではどうにも押し通らないことが、この世にはままあるということだな。例えば、百合子の不調……さて、お前は彼女について、どこまで知っている?」
 ジャックは最後の一枚をすっかり綺麗にしてしまうと、手についた水分をふきんで拭いながらジョニーを見た。
 深い紫色の瞳が理性を帯びてかちりと煌めく。宝石に入ったひびのような形の虹彩が、ジョニーに全ての意識を向けていた。居た堪れなくなり、ジョニーの視線は遊星を探してキッチンを一巡したが、すぐに彼が百合子の部屋に残ったことを思い出した。
 ジャックが、ジョニーの胸の内に閉じ込められた疑念をつまみあげ、その存在を炙り出そうとしていることは明らかだった。だが、一体何のために? 彼は何を知っている?
「あ……ええと、原因はまだわからないんだ。いろいろな病院を回ったけど、どこにも異常が見つからない。悪いところがないとなると、病気かどうかも……」
「何を恐れている? もっと本質的なことだ」
「本質的なこと」
「例えば、……あの女はどこから来たのか、とか」
「まさか」ジョニーは押し殺していた息を吐き、目の前の男を見た。「*百合子が誰なのか*、知ってるの……?」
 不思議な百合子。原因不明の病。彼女が普通でないことはもはや明白だった。
 遊星と百合子はよく似た兄妹だが、その質が異なるものであることはジョニーにもなんとなくわかった。男だとか女だとか、年上だとか年下だとか、そういう問題ではない。皮膚の下に流れるものが違う。呼吸の時、吸って吐き出すものが違う。よく似せて作られているが、二人は本来相入れないはずの、異界のもの同士だ。
 ——百合子は人間ではない?
 それは恐ろしい天啓だった。逆境にあっても朗らかで、誰にでも優しい、天使のような百合子。ジョニーだけをひたむきに愛してくれる百合子。ジョニーと寄り添って生きることを望んでくれる百合子。誰よりも愛おしいその少女が、そもそも属する場所の違う、一生混じり合うことのできない異邦のものかもしれない。
 ジョニーは、たとえ百合子が地球に飛来したタコ星人だったとしても彼女を愛する自信があったが、それはその発想が現実のものでないという確信のもとに成りたったものだ。もし、真実になったとして、果たしてジョニーは正気でいられるだろうか。彼女を愛し続けることができるだろうか。
 人間は、自分とは異なるものを排斥したくなるようにできているのだ。
「……そう不安がることはない。真実はもっと単純だ」
 ジャックはジョニーの葛藤を見透かして、くつくつと低く笑った。
「百合子は人魚なのだ」
「人魚?」
「そうだ」
「人魚って、人魚(mermaid)?」
「ああ」
「に、人魚。へえ。だからあんなに綺麗なんだ……」
 その反応なら問題ないな、ジャックはジョニーから視線をふっとそらし、勝手にメーカーでコーヒーを淹れはじめた。
 人魚。人間の特徴と魚の特徴を併せ持つ架空の動物。物語の中ではしばしば女性の上半身と魚の下半身を持つ生き物として描かれ、その起源は、アイルランドのメロウやギリシャ神話に登場するセイレーンなどの伝説に見ることができる。
「むろん、本物の人魚などこの世に存在しない。百合子は人工的に作られた、最初にして唯一の人魚だ」
「……どういうこと?」
「彼女は、動物の遺伝子を人間の受精卵に組み込む実験の最初の被験者だ。たった一人の科学者の暴走の末路だ。被験者は複数いたらしいが、(規制)の遺伝子を打ち込まれた彼女だけが、生物としてこの世に生まれるに至った。結局、この実験は告発され、結されるに至ったが、生まれた個体を廃棄することは誰にもできなかった。それを引き取って育てたのが、遊星の両親だ。彼女は百合子と名付けられ、以後お前の元に身を寄せるまでの十三年間、本当の娘のように育てられてきた。
ここまでは良い。問題は、この実験が凍結されたことで、彼女の身体に起こるその後の変化を観測する人間が誰もいなくなったことだ。
これは俺の仮説でしかないが、おそらく、彼女の不安定な遺伝情報が何らかの不具合を起こし、このような原因不明の不調を引き起こしているのだろう。となると、普通の医者には彼女を治療することはできない。科学者は獄中で狂気を引き起こし、彼女の両親はもういない」
 ジャックの話はまるで現実感がなく、突拍子もないものだった。だが、彼はやたらに冗談を言うようなたちの男ではない。ジョニーに差し向ける眼差しは変わらず誠実なものだったし、百合子の、おとぎ話のような真実を語る声はいやに静謐だった。
「遊星はこのことを知らない。百合子本人でさえも、自分が普通でないとわかってはいても、ここまで仔細な事情は知らないだろう。彼らの両親は俺だけに秘密を打ち明けた。なぜかは、わからない」
 コーヒーが出来上がり、彼はそれを取って啜った。
「……つまり、百合子は(規制)と人間のあいのこだけど、それぞれの遺伝情報が噛み合わなくて今不調を起こしてるってこと?」