白昼の板橋刑場に花は散る。
青い花が、誰かの悲しみのために千切られて空(くう)を舞う。
実際には、あれは桜で、石神井川の河原に植えられたのが盛りをむかえて四方へちりぢりになったのが、この殺風景な馬捨場にも流れてきたまでのことである。しかし青い桜というのはこの国に自生しない、架空の、女神のための花である。白くみずみずしい花びらに蒼穹の色が滲み広がり、ほの青い幻想の色をみせ、この幻想が、裸足で砂をふみ死の国へと向かう罪人の頬を明るく見せた。
慶応四年、四月二十五日——
瞑目する近藤勇の血の気のない瞼の上にも花が降った。
四、五人の士官に拘束された、その肢体からは今はくったりと力が抜け、ほっそりと痩せたからだの線を、ことさらに希薄なものにした。白い死装束の亀綾の上を流れるようにして、長くつやのある髪が黒々と垂れている。長い道行きで醜く変形しているというのに、どこか人形のものめいた小さな足。くつろげた袷から覗く、伏せて置いた真珠貝のごとし胸。豊穣と母性のほのかな息遣い。嘘のように薄い唇。だれかが、あっ、と感嘆の声を上げた。あれは女だ。近藤は男を偽る女であったのだ。
観衆の視線が下世話な色を帯びる。しかし、筵の上にかしこまり座すその女人の面には、恥らいや怯懦は、微塵もなかった。かすかに睫毛を震わせて彼女が、色素の薄い虹彩を光の中に露出すると、そこにはただ秋の清流の如し、静謐なる観念がおぼろげにきらめく。
「お千恵さん!」
官軍鉄砲隊が固める四方、詰めかける野次馬のどこかから、誰か少年の声が叫んだ。
「だめだ。だめだ! 戻ってきてください。あの人は、あなたでなければ……あ、あの人を、孤独(ひとり)にしないでください……!」
——千恵。
遠き日、多摩川のほとりで日向の薬草を摘み、縁側でのんびりと糸を紡いだ娘の名が、胸の奥底で微かに疼く。
リフレインは、あの人の声だっただろう。幼いころは、よく、固い指の腹で耳の後ろを撫でながら、そう呼んでくれたあの人の。
千恵は、何一つ際立つものを持たぬ平凡な娘。穏当な終わりのほかに望むべくもなかった。ところが、蒸し暑い夏の夜、袖が触れ合っただけのあの人の黒い瞳に呑まれ……彼と二人、この二十年、熱くたぎるような赤い河を、連星のように駆けた。遂げられぬ想いも満たされなかった身体も、最後の夜の彼の手のひらに包まれて、今はこんなにも清い。
出逢えてよかったのだ。
悔いることなど、何一つとしてありはしないのだ。
近藤は微動だにしないまま、やがて遠ざかる少年の声をやり過ごした。流水で清めた真剣を振って横倉喜三次が、非常に穏やかな声で、遺言を促した。近藤はどこか遠くに目を凝らすような面持ちで、青い花に濡れながら、何も、と短く答えたあと、
「……妻と娘を、何卒、よろしくお願いいたします」
……それきり首を垂れたまま何も言わなくなった。
懐古は彼方より寄せて返す黒い漣のように。思い出は乳白色の午睡の中にある。
……暗い。
どこか暗いところにいて、目を閉じていた。雨粒が、啓蟄のころの土の芳しい香りをしっとりと帯び、そのどこか暗いところに横たわる千恵の胸をいっぱいにした。胸というのは、これは感覚の話でしかないのだが、それでもいっぱいに花を抱いているような心地だった。
遠く北の涯で、あの人を孤独にしてしまうことが憂いだ。
あの人はさみしい人だった。千恵の手を握ったまま、夜市のようにぶら下げられた女たちのあいだを、死体たちの、傷ついたまま癒えることのない片胸の痛みをこらえて、すでに失われて久しい何かをたずねて歩いた。
結局彼の探していたものが見つかったかどうか、定かではないが、彼の手と繋がれているあいだ千恵は幸せだった。
でも。ああ、もしも一つだけ願いが叶うなら——
かび臭い西の蔵には、古い道具や、売れ残ってしまった呉服の類が、無造作に置いてある。日が当たらないよう窓は締め切られ、そうして、闇がこの小さな空間にあって生き物のようにぬるかった。呼吸が、うまくできない。のしかかってくる女の力が存外に強い。赤く塗った唇が迫ってくる。少年は硬く目を閉じ、この恐ろしい不幸を静かに受け入れようとしていた。
「トシ……!」
ふいに、光を呼吸した。
蔵は相変わらず閉塞していたが、どこからともなく青い花が舞ったかと思うと、ほのかに発光しているとさえ思われる美貌のその人が、闇の中に春風のように躍り出た。腕を引かれたかと思うと、一呼吸のうちに、暖かい胸の中に軽やかに迎え入れられた。そのまま強く、強く抱きしめられる。
時空をこえ、その人が、少年を助けにやってきたのだ。
——それが、叶わない願いだとしても。
*
あおじの冬のばら
むかしむかし、まだ徳川の将軍さまがお城においでだったころ、江戸は活気あふれる城下町だった。
ひとも獣も、路ばたに咲く小さな黄色い花も、自由に呼吸し、おしゃべりを楽しんだ。お侍の籠は行ったり来たりし、子どもたちの童歌は夕方までのどかに響いた。揚げ豆腐が油を香ばしく弾く音、今朝水揚げの魚が網で焼かれる匂い、茶屋のおだんごにかかる、みたらしだれのえも言われぬこがね色。
そこに、遠い海から黒船が、灰色の雨雲を引き連れてやってきた。
海の向こうにはおそろしく強い国が無数にあるとわかり、人々は慌てた。学者や医者が彼らの先進的な知見をありがたがる一方で、志士たちは、外国人の排斥をうたって武力にすがり、国は乱れた。
……さて、この江戸には、天然理心流という流派の剣道道場【試衛館】があって、そこの主人は、春の水辺に咲きこぼれる芍薬を思わせる、何とも美しい青年剣士だった。名を近藤周助といった。先代の養子となって近藤家をついだとされているが、優秀な兄弟子たちを多く抱える先代がなぜ彼を後継者に選んだのか、弟子たちの間では今になっても盛んに議論されているが、
「それはね、お父さまが私のことを好きだったからさ」
女のように扇の端で唇を隠し、彼は無邪気に、千恵に秘密を教えた。長く伸ばした髪が、剣士とはとても思われぬ細い肩にするすると乱れていくさまは、彼の剣の鬼のような鋭さに照らすと、何とも奇妙に思われてしかたがなかった。
千恵はこのとき十三歳。父親は畑におり、母親は亡くなって久しく、その上歳の離れた兄たちが稽古に出掛けていくのがことさらにさみしくて、男のふりをして周助の出稽古について行ってしまった。
「わたしも、先生のことを尊敬しています。好いています」
「そう?」
好きという言葉が、そんなに生やさしいものではなかったと、今ではわかる。美貌の少年だった周助は、みずからの師匠にあたる男を、自らの終夜の床に誘惑したのだ。男は彼の肌におぼれすぐにも正常な感覚を踏み外した。ともすれば自らよりも腕のたつ剣士たちを差し置いて、まだ若年の少年に、近藤の苗字を与えてしまったのである。
「私も、おまえのことは悪くないと思っているよ」
「ほんとうですか?」
「才能はないけれど、いじらしくてかわいい。側においてがんばっているところをずっと見ていたい。そうだ、おまえを私の後継者にしてあげよう」
「後継者?」
「ぴったりだろう? うちはそういう流派だし。先代からね。おまえも、私や先生と同じように……見込みあるかわいらしい少年をあとつぎにするといい。それとも……錦絵の中から出てきたみたいな、角張った色男のほうがお好みかな?」
彼が何を言っているのか、千恵にはよくわからない。田舎村の十四歳の女の子、野の花で頭を飾ることや、蝶をいかに多く捕まえるかということなどで頭がいっぱいの、剣の世界など知るべくもない。だいたい今は、昼時、稽古を中断し樹下にて昼食をとっているところで、千恵の鼻の頭に小さな葉っぱが落ちてきて、周助のたおやかな細い指が、それを摘んだ。失われた母の気配に近しく感じて幼い千恵はうっとりしていた。
「うん、それがいい。私もまだまだ人の世を楽しめそうだ」
悠然として悪魔が笑う。
こうして、近藤勇というひとりの修羅が、花の下で死ぬ運命は、不動不滅のものとなった。
まだ前髪を残してはいるものの、無骨に斬り散らかされた男の髪型。紅のひとつもささないまま不機嫌そうに歪む顔。こちらに触れようとする指先は乾燥と剣だこでひどく荒れている。
「これがわたし……」
鏡ごしに向き合うその人は、十四歳の千恵だ。年頃の女の子だ。とてもそうは見えないけれど。
この半年間、朝が憂鬱でなかったことは一度としてなかった。
身繕いのためにこうして鏡に向き合えば、浅慮のために自らの人生をだいなしにした、愚かな子どもと対面することを余儀なくされる。
千恵は螺鈿の飾りのついた木箱を足で引き寄せ、ふたを開けて、中から新しい晒をいくらか出して、懐の小刀で手際よく裁断した。夜着の併せをゆるめ、もろ肌ぬぎの格好になると、江戸を歩く町人の少年の様相だが、その左胸はかすかにふくらみ梅の蕾ほどの乳頭をしこらせていた。努力してもなお消し去ることのできない、女として生まれた痕跡の一つ。
これを晒で固く縛り、なかったことにする。
千恵は、女でいてはいけない。男として生きなければならないのだ。
朝食のしたくをてつだうために厨房に降りると、熱い湯煙が四方に漂い、耐えかねてほとんど裸同然の姿で働く女たちの中に、紬をきっちりと着付けた格好で汗ひとつかかない、さながら幽霊のような長身の女がいた。
「おはようございます、お母さま」
むろん生きた人間で、近藤ふでという。周助の九人目の奥方だ。
千恵の、少年然とした格好、夏の朝の湿気の中でも涼しげな佇まいをじっくりと検分したあと、ようやく彼女は返事をしてくれる。
「おはようございます、勝太さん。もう納豆汁が煮えますから味見をして、火を止めて」
「はい」
「それが済んだらいつもの掃除を。布巾は外の竿に干してありますから」
「ぼっちゃんは男子(おのこ)なのに奥様のお手伝いをされて、感心ですねえ」
長くこの家にいる年配の下女がおっとりという。
母の指導がうまくいっている証左だと千恵は思う。千恵がこの家に来て以来、毎朝、彼女によってこの「試験」が行われ、一日たりとも例外はない。厨房にいても女の仕草を出してはならない。布巾で床を拭うときは、腰を落として男らしい姿勢で取り組まなければならない。
以前、釜の中の米を覗き込むさいに、ふと髪を耳にかけたのが女々しいと言って、布団叩きで尻を三度も叩かれたことがあった。兄たちは、家にひとりきりの娘である千恵をまるで姫君のように取り扱っていたので、こんな仕打ちを受けたのは初めてで、そのときは取り乱し声をあげて泣いたほどだった。
「あの方は魔性のもの。人ではないのです」
折に触れて、ふではこのように言って千恵に聞かせる。
「おまえがあの方に連れられてこの家に来たとき、わたくしは確信したのです。あの方はおまえを十人目の妻にする気だと。無防備に成長したところを、頭からくらってしまうおつもりなのだと。そうなればわたくしはどうなるのです。あの方にとって今のわたくしは、後継者の世話をするという以外に価値のない女。おまえには、いつまでも後継者でいてもらわなければ、困るのです」
幼い千恵に悟ることができなかった、周助の瞳に灯る異常な光芒を、ふでは敏感に嗅ぎ取った。そして咄嗟に、「この少年が後継者なのですね?」……千恵という少女をこの世から抹消し、存在しない少年の虚像を作り上げたのである。
「お前は男なのです。男として、いずれは近藤の名を継ぐ者として生きる。これが定めでございます」
「……はい、お母様」
そしてそう言い含められるたびに、千恵は消え入りそうな声で返事をするのだった。
夏が深まる頃、千恵のさみしさは、夕立よりもずっと切迫していた。
養父の陰謀、養母の不安と敵意、道場の将来、何もかも、千恵には関しないこと。そのためにこんなにもさみしく生きていかなければならないと思うと、青い煙が胸いっぱいに満ちてきて、そのうちおかしくなってしまうと思った。優しい兄たちのところに帰りたい。普通の女の子のように笑っていたい。恋がしたい。そう思ったら、夜着のまま、髷を解き、女の髪を背に垂らして、裏木戸から飛び出していた。
市中を抜けるまでは、月明かりを頼りに暗がりを歩いた。甲州街道に出るころには、東の空が白みはじめ、鳥が一羽、二羽と鳴きはじめた。千恵は小走りになった。風の中の煙のように走った。多摩川の堤防に出れば、あとは川に沿って上流へ遡るだけだ。
……だけだったはずなのだが。
見知らぬところに出てしまった。
土の匂いや、水を引いたばかりのみずみずしい水田の匂い、語りかけてくるようなけやき林の葉ずれの音には確かに覚えがあるはずなのに、どこか空気が異なって感じられる。
うろうろと彷徨っているうちに、歩き通しで夕刻を迎えたからだろうか、草履の鼻緒がついにちぎれた。そのさいに変な転び方をしたせいで足を痛めてしまった。急にどっと力が抜けてしまって、その場にうずくまる。そこはどこか神社の境内だった。薄暗がりの中、囃子の音が微かに聞いてとれ、提灯を持った人々が、どこかぼんやりと浮かぶような足取りで参道端の千恵を追い越していく。
ままならないまま日が沈み、ついに、完全な暗闇になった。
そのときだった。背後からの腕が、千恵の腰を音もなく攫ったのは。
「……かまわぬか」
誰か男に抱きしめられていると分かったのは、その声が、千恵の耳のほど近くでささやいたからだった。
孤独で、それじたいが憂いであるかのような、寂しげな声だった。だから、悲鳴を上げることも、ことばを吐くこともできないまま、……誰にも触れさせたことのない唇に、男の接吻を迎えていた。
冷たい。祭りの熱気に晒されていた肌に、その感触だけが冴えざえと浸み入ってくる。
それは口吸いだった。男子が好きな女に対してするという、最上の愛の行為の一つであると、千恵は識っていた。
月はぶあつい雲に隠れ、灯の完全に落ちた暗澹の境内にて、星の光だけをたよりに、その人の腕をまさぐりあてた。脱出しようとすると、さらに強く抱かれ、口吸いも深くなり、力なき千恵を底なしに溺れさせた。酸欠のために鼻の奥がつんと痺れてくる。
しめし合わせたかのように今夜は、六社明神の例大祭、その最終の日であった。くらやみ祭りとも呼ばれるこの祭礼は、暗闇の中で神事が行われるという、古くからの奇習で知られている。この祭りの最中、神域にて全ての灯りが落とされる。そしてこの闇の中にあっては、どんな男女にも、情交ることが許された。石燈籠の影、社の裏手、蛭の沸く木立の陰で、幾組もの男女が互いの粘膜を貪り合っていた。男を求める女、女を求める男。互いの顔も見えぬ漆黒のただ中で、男神の神輿が女神のところに夜這う、その導きに従って肌を重ねる。それが古くから続く、この祭りの風習だった。
その熱が、ただ迷い込んできただけの千恵の肌を、こんなにも熱く焼く。よく耳を澄ませれば、男たちのはずむ息遣い、女たちの押し殺した媚声。身を捩るまもなく、細く骨ばった指が、夜着のなかに音もなく這入りこんできた。
「あ、なに、何するんだ」
男はこたえない。闇の中で声を上げることは御法度だからだ。
圧し掛かる男の体躯は大きいが、骨格も肉付きにも動物のしなやかさがあり、道場で見慣れた同年代の若武者たちのどれとも違うと感じる。長い指、月面の砂色の肌の滑らかさ。千恵は、相手がまだ若い男であることだけを闇の中の感触で知った。
男の手が、千恵の背中をするすると滑り降りた。背骨のおうとつを、水滴が波打ちながら流れていくように、皮膚の薄い腰のあたりまで降りてきた。皮膚越しに出っ張った骨が、甘い蜂蜜を吸って、すかすかになってしまったかのような心許なさだ。じわ、じわ、抵抗も許されないまま疼きの波にのまれて、千恵は自らもそうと知らないうちに、濡れていた。
「……待って……」
懇願は男のためのものではなかった。混濁する意識の中で、母の折檻がすぐそこに迫っていた。違うのです、胸の内で繰り返しながら、こんどは耳の後ろに口付けられてのけぞる。首が伸びると、出っ張りのない滑らかな急所が、男の前に無防備になった。
違います。違うの。わたし……こんなつもりでは……
力の抜けた腰をさらに引き寄せられ、彼の、熱い中心を、腹の上に感じた。太陽に悠久に抱かれ星々はこんな思いでいるのだろうか。
「あ——」
激しい痛みと、掻痒感にもにた未知の感覚が、樹木を割く雷のように、また海底から流氷を割る罅のように、腹を 拒絶もままならないまま震えすがりつく千恵に男は構わず、その細い指を奥へと押し進めた。
見ている。闇の中から、二つの目が。千恵の顔を、じっと見つめている。瞳孔はほとんど硬質の金属のように真っ黒に輝いていた。あるいは光の中でそこだけが闇だった。
多摩の野山に赤くほてった紅葉が舞うようになるころ、千恵は十五になった。
悲嘆の涙のかわりに少女の頬を濡らすのは、昂揚がための血の色になった。夜ごと、猫が忍んでくるのだ。この猫はひどい秘密主義で、名前もいわないが、あるところでは奇妙なほど親密だった。最初の夜には闇の中より、懐剣を片手に忍んできたかと思えば、二日目には千恵の小さな口に慰撫されることを望んだ。そして恐怖するまもなくふたりは猫と山桜にむすばれた男女になり……褥の上に乱れる総髪が夜の楓林の中の滝のようで美しいと思った。
「誰です、あなたは……」
千恵はなんどもそう聞いた。
声はいつも、切実のために引き絞られかすれていた。はじめての男、そして最後になるかもしれない男のことを、どうしても知られずにはいられなかった。
「あの祭礼の日に、あなたに逢った男だ。ほかは詮のないことではないか」
「ここは江戸、剣道道場の跡取り息子の私室です。そんなところに忍び入ってくるあなたは、おかしい。誰か人にみつかれば、まちがいなく、下手人として御用になりますよ」
「それが本当なら、その跡取り息子の蚊帳の中に横になっていたあなたは一体何だというのだ」
自分の立場について尋ねられたり、また自分自身で問いただそうとすると、いつもこうして言葉がなくなってしまう。どの自分も、本当の自分ではないような気がするのだ。彼がうっすらと笑いながら千恵の手を取り、自ら頬に近づけた。
「あなたの手は剣を握るのだな。女が剣をやるとは知らなかった。おれは、のんきに花輪をつくり、頭にかんざしをさす女のことしか知らなかった」
雲が波のように西へ引いていく。
男の姿が光に洗われつまびらかになる。それは、不本意なことだったのかもしれない。彼は表情のないまま千恵を腕に抱きしめていたが、やがておもむろに顔をあげ、鼻先や唇にも月光を浴びた。
汗と夜気に濡れた前髪が、涼しげな額に張り付いている。青白いまぶたは憂いと無関心を帯び、少し伏せてある。赤い唇は前歯に微かに噛み締められていた。頬など、まだふっくらとして、胸が痛くなるほど美しい少年だった。おそらく千恵よりも年若い、少年だった。
それを知って千恵はまたはしたなく下肢を湿らせていた。
「さいきんいやにご機嫌じゃないか」
上機嫌なのはあなたの方です、と、千恵はいわなかった、
元服をひかえ、桃の実が夏の光の中で熟れていくように、淡々と美しくなっていく娘……息子の成長を、周助は喜んでいた。血のつながりのない父と娘は近ごろ異様なほど似てきている。何かものを考えている合間に、ふと小首をかしげるようにする仕草が、そっくりだった。それが男の唇をむかえるやり方であると千恵は気づかない。周助は、おそらくとっくに気がついている。そういう男だった。
蜻蛉の像を透かし彫りにした、西来のめずらしい白檀扇子が、周助の前髪をまた、跳ね上げた。美しい顔は享楽にむしろ青ざめて見えるほどだ。
早々に父の居室を辞し、橙色の斜陽の伸びる濡縁を足早に渡る。彼は肩肘をついた格好で横になっていた。
「こんなところで寝ていたら見つかってしまう」……という言葉をまた、千恵はすっかり飲み込んでしまった。彼が瞑目しているところを、初めて見たのだ。おだやかであどけなく、初めて、彼がどんな人間で、どこからきたのか、ということを気にする千恵だった。毎晩遅く、こんな遠くまで来ていると知ったら、母君はきっと心配なさるだろうに。
何かかけてやろうとして、外で布団を干したままなのを思い出し、努めて足音を立てないように引き返した。中庭の竿のあたりには柿の木があり、その樹下に周助がいた。
「ほら、ひとりでに微笑っている」
「そうでしょうか」
顎を引いて肯定した。
「私はとくにご機嫌というわけではないのだよ。きみ、この家に知らない男の気配がする。ふでに逢いに来ているのかな」
「まさか。門弟の方ではありませんか」
「それがちがうというのだ。女たちの話だと、まだ若い男だと。ふでは私より二十五も年下だから、私のほうに不足があると言われてはしようがないのだけど」
「………………お母さまがそんなことをなさるでしょうか?」
「では、きみが?」
周助の手は、剣客とは思えぬほど白く、しなやかで、節くれだったところがなかった。その手が、千恵の肩から背へ、背から腰へ……あの日の少年と同じように……まるで織物の目をひとつひとつ確かめるように、ゆっくりと這い回った。養父の、五十過ぎとはとても思われぬ美貌に、暗色の感情が移ろう。
恐怖で喉が引き絞られ呼吸すらままならない。
「旦那様」
ふいに、濡れ縁に控える一人の女の姿があった。ふでだった。
「佐藤様がお見えです。奥の書院でお待ちになっておりますゆえ」
「佐藤というと……彦さんか。ああ、うん……仕方ないな……」
邪魔をされた子供のように唇を尖らせながら、目は剣呑に妻を睨み、妻も気圧されることなく睨み返していた。二人はしばらくたちあっていた。やがてその美しい横顔に浮かんだのは、喜劇を外から鑑賞する者の淡白な愉悦。
周助がいなくなった中庭には初冬の空風が吹き、鴉に突かれて、売れすぎた柿が一つ土の上に潰れた。ふでは緩慢な仕草で、板の間に膝をつき、俯いたままの千恵を見下ろした。
深更、彼が千恵の胸の上にいて、脇の方へほのかに流れる乳房の先を、緩慢に吸っていた。千恵は啜り泣きながら、ふと、障子の外に、何ものかの気配を察知した。だれかいる。むこうの廊下から、足先を滑らせるようにして近づいてくる歩き方は、きっとふでのものだっただろう。母はこちらまで歩いてくると、薄い障子を一枚隔ててひたりと止まり、戸を開けて中まで入ってくることはなかった、しかし並々ならぬ気迫だった。疑っているのだ、と千恵はすぐに気がついた。もし母がこの襖を開けてしまったら、すべてが終わってしまう。何がもう終わるというのかは……この家での立場だろうか。それとも彼との関係?
この関係は一体なんだというのか。千恵はいまだにわからない。
やがて足音はゆっくりと遠ざかっていった。千恵は、心臓がいまだに凍りついたままなのを感じていたが、彼の熱い指に耳の後ろに触れられるのを感じて、振り返った。ふたりはこれまでにない熱烈さで抱き合っていた。
「今のはわたしの母親です」
「ああ」
「だから、だから、あなたはもうしばらくは、ここに来てはいけないのです——」
来てはいけない。もう来てはいけない、と、自らが口にした途端に、孤独が急に現実のものになって千恵は泣いた。初めは吐息だけが湿っていたのが、涙までも、それに続いて流れた。
「……そうか」
震え嗚咽している千恵を腕になおも抱いたまま、彼はかすかな声でつぶやいた。
「ならば、しばらくの別れになるな」
「はい」
「あなたが悪い。おれは、こんなにも、あなたのところに長居をするつもりはなかった。しかしあなたがおれの大切なものを隠してしまった」
「大切なものとは何です」
「心だよ」
そうして千恵の唇に、またあの夜のように、懇ろに接吻をくれた。
無骨な手が懐から、するりと何かを差し出した。闇夜の中でも朱色の塗りがかすかに光る、京の挿櫛だった。細く柔らかい彫りの線が、春先の梅を描き、その溝を金が這っていた。
「これをいつか、あなたの髪にさしたい」
「……わたしは女子ではないのです。羞しい。あなたを騙していた」
「それでもだ」
彼はかんざしを、今にも泣き止みそうにない千恵の手のひらに、押し頂かせるように握らせてくれた。
「また来る」
やがて音もなく立ち去った。
季節はもう冬になろうとしていた。
夜着の麻の擦れる感触が、ひどく肌寒く、もの寂しく感じられるようになった。腹の底に身体の奥底に燠火のような疼きだけがあった。
彼のいない夜、晒を解いて鏡にむきあうとき、また、誰もいない浴場の湯船を覗き込むとき、女の身体をことさらに意識した。
女の体を持て余していた。いまも、一人きりの寝床で横たわり、呼吸していると、乳房の先がひとりでに、甘く尖っていく。わずかに身じみをするだけで、腰の骨が溶け出すような痺れが背筋を駆け上がり、行き場を失って下腹に澱んでいく。
あの男の指と唇が、千恵のからだに指でふれ、何か、路のようなものを開いたのだ。熱がその路を通って、下肢へあつまり、己れの意志とは無関係に濡れてくるところがある。それを認めるたびに、羞恥とともに、狂おしいほどの渇望が押し寄せた。
「……、…………」
愛おしくても名前を呼ぶことさえできない。彼も、ついに一度として、千恵の名を呼ぶことはなかった。
ある深夜、千恵はもはや抗えず、晒の結び目を解いた。拘束を逃れて、まだ幼い乳房が、月明かりに青白く浮かび上がる。彼の手を想いながら自分で自分を慰めた。首筋から鎖骨、そして脇腹へ。彼が辿った通りに指を滑らせると、からだが記憶した快感が火のように鎌首をもたげた。
「あ……」
声をあげてはいけない。唇を噛み締め嘆息を必死に封じ込める。褥に顔を押し付け、己れの指を男に見立てて、女の最も熱い裏側に触れた。
あなた。あなた、あなた……
……もう、戻れない。
何も知らなかった子供の頃には、もう戻れないのだ。
野の花で頭を飾り、蝶を追いかけていた無垢な少女は、あの闇の中で男に口吸いをされた瞬間に、あるいは腹の中に男を迎えた瞬間に、死んでしまったのだ。
その異変が、目ざとい義母(はは)の目を逃れられるはずがなかった。