2020年6月22日

A-3


物語があるだろう、人間はもともと四つの足と四つの手と二つの頭がある生き物で、地を這って生活していたのが、木の上の果実をとるために二つに分かれたんだって、だがどうしても半身のことが忘れられない人間は、やっとの思いでそいつを見つけたとき、運命の人、って呼ぶんだ。そんなバカげた話があってたまるかよ、でもヨハンはそういうのを本気で信じてた、キリストをいたく敬虔に信じたくらいだから、簡単に物事に真実を見ることができるんだろうな、そんなヨハンは長い時間をかけて物語を語った後、こう締めくくった、だから俺は、十代のことを運命だと言うんだ、ってね、おれはその通りだと思った、ヨハンが持たなかった澱をおれは持って生まれた、ヨハンは光に愛されて生まれた、そういうことだ、ヨハンは真実を分かっていただろうか、わかって言ったのならすごくいじわるだけど、いいんだ、同じものだって言ってくれたらうれしかった。ヨハン、世界で一番美しい男」
 告白をするあいだ、ユウキジュウダイはずっと微笑み続けていた、遊星は人間が長い時間微笑みをキープできることを知らなかった。言葉と言葉の合間に、また音節と音節の間に、ユウキジュウダイは〇.一ミリの狂いもなく同じ顔をして微笑む。「おまえは」彼女は間を置かずに続ける。
「運命を信じるか?」
「……信じません。運命だと思っていたひとはそうでなかった」
「ふつうはそうだ、運命なんか存在しない、運命、くそみたいなことば、人間をなめ切った傲岸なことば、でもヨハンがそれを言うとき、あまりにもだいじそうに発音するものだから、う、ん、め、い、発音するから、信じたくなる自分がいるんだ、運命ってやつがおれのまえにもきちんと存在していて、微笑んでくれるものなんだって信じたい自分がいるんだ、おまえにはそれがわかるか?おれは、わからない、いやわかるからこういう話をしているんだな、運命のことがわからなくても、ヨハンの前にひろがった運命のことを信じたい自分がいることはわかる、ヨハンはもう死んだ、でもヨハンは笑顔と錯乱だけを残した、笑顔と錯乱は、ヨハンになりうるだろうか?遊星、おまえ、遊星っていったな、おれにはおまえがヨハンに見えてならないことがある、ヨハンとほかの人間を比べることは罪だ、でもおまえはヨハンによく似てるんだ、顔とか、しゃべりかたじゃない、目だ、毎日海を見てる目だ、ヨハンがおれの上をいったりきたりする浅瀬なら、おまえはおれのうえに重たくのしかかる深海だよ、だからこうしてしゃべりたくもないことを延々としゃべってる、遊星、おまえは、運命を信じるか?おれがヨハンとこうしてもう一度であったことを、運命と呼ぶべきだと、そう思うか?」
 はじめに遊星の胸に去来したのはユウキジュウダイに初めて名を呼ばれる甘美で陰湿な喜びでも運命に投げかけられた問いの答えでもなく、この女は何を言っているんだ、という混乱だった。遊星はヨハンではない、そしてヨハンは遊星ではない、そしてその混乱は遊星のうちに都合よく作り替えられ、すなわち好意というものに置き換えられてしまったのだった、ヨハンと繰り返す甘い声、遊星は、その時点ですでに、ユウキジュウダイを愛していた。
 遊星はキューバに来て一週間がたったころに見たサンテリアと呼ばれる原始的な秘密宗教の儀式を思い出した。それはハバナから車で二時間ほど走った田舎の町で行われていた。もちろん日本人の大学生が気軽に招待されるものではない。幅のあのレストランで豚のすね肉のグリルを食べアトウェイというアルコール度数が異様に高いビールを飲んでいた時に、見るからにいかがわしいキューバ人の闇たばこ売りが、十ドル出せばサンテリアの儀式に連れて行ってやると言ったのだ。その頃はサンテリアについて何も知らなかった。郷土芸能みたいなものだろう、そんな知識しかなかった。サンテリアには非常に多くの宗派というより種類があり、その実態を正確に把握している人は誰もいない。ハイチのヴ―ドゥ―もその一種だし、ブラジルにも同じようなものがある。アフリカの、ナイジェリア、コンゴ系の、ブラックマジックやホワイトマジックを含む、複雑極まる原始宗教で、奴隷たちは出身地の部族から切り離されて別々に住まわされたためにそれらはさらに細分化され多様化して継承されることになった。基本的には健康を願うものでたとえば薬草については大変な知識を持つが、当然呪術や占い師が登場することもあり、中には秘密結社に似た性格のサンテリアもある。それぞれが独自の打楽器やリズムパターンそれに歌や踊りを持ち、毎年決められた時期に儀式を行う。
「ヨハンは言った、十代、俺はおまえのそばにいる、ずっとだ、おまえが俺を呼ぶ限りおれはおまえのそばにいる、って、おれは嘘だと思った。だからあいつの枕をびしゃびしゃにぬらして泣いた、でもいまおまえの目にヨハンを見てるおれがいるのは、きっとそういうことなんだろうな」
 儀式と言っても一様ではなく、数万人が集まる大規模なものから一軒の家で十数人で行われるものまで様々だ。遊星が十ドルで招待されたのは最も小規模なタイプだった。小規模でも儀式は神聖なものだから、普通は金をとってツーリストに見せたりしない。だが、その昔黒人奴隷はお互いに助け合って生き延びようとしていたので、違う部族、あるいは違う周波でも、救いを求めて儀式に参加したがる者がいれば許可されることが多かった。そういう伝統を利用して、好奇心がありそうなツーリストを儀式に案内しようとする金目当てのガイドが存在するわけだ。遊星は一軒の家に案内さえ¥れ、打楽器の背後から踊り続ける何人かの黒人たちを眺めることになった。一人の、ひときわ体の大きな黒人がいた。彼は粗悪な布地の綿のズボンをはき、上半身は裸で、タイルを強いた十畳ほどの広さの居間で踊っていたが、明らかにトランス状態にあった。彼はすでに二時間以上踊り続けている、とガイドが教えてくれた。男の足から血が流れていた。床のタイルはところどころむけたところがあり、その淵で足の皮膚を傷つけたのだろうと遊星は思った。部外者をシャットアウトするために窓元も全て閉められて、隣室には煮えたぎった鍋が炭火にかけてあり、部屋は恐るべき暑さだった。鍋の中はよく見えなかったが匂いからすると動物の臓物のようだった。すぐにポロシャツが汗でべっとりと肌に張り付いたが、遊星は足から血を流して踊り続ける男を見ているうちに暑さを感じなくなっていた。男は陶酔して顔にはうっすらと微笑みを浮かべていたが、近くを放棄していたわけではなかったらしい、その証拠に、お前は誰だ、というようにしばらく遊星を見た。遊星はガイドによってサンテリアの研究をする日本人学生と紹介されたが、部屋の空気を乱す異端者であることに変わりはなく、男はその気配に敏感に気が付いたのだった。やがて男は、左手と右足、右手と左足をそれぞれ上と横に振り上げるというシンプルで美しいステップを続けながら遊星の前まで近づいた。そして遊星を見下ろし、踊り続け、汗がはじけ飛んで遊星の顔にかかった。そうやって一時間近く踊っていた。圧倒的な緊張感と、妙に冷めた感じが遊星と男の間にあって、遊星は凍り付いたように動けなかった。トランス状態で、神と交信しようとする人間は隔世の極みにあるのだと初めて知った。もし間違ってその踊りを中断させてしまうようなことがあれば、その男に、ではなく、彼が交信しようとしているものに殺されてしまうだろう、と遊星は思った。
 ユウキジュウダイのしゃべるのは、あの男の踊りに似ていた。彼女はしゃべり続けることで、彼女のどこかにいるヨハンと交信しようとしていた。
 どうすれば彼女の告白を止められるだろうか?遊星は、このヴァラデロのホテル群のはずれにある、デュポン財閥の旧邸を改造したレストランで、ロブスターとスペインワインを楽しみながら、もっと普通な感じで告白の続きを聞けたらっどんなにいいだろう、と思っていた。自分でも信じられないことに、遊星は彼女の告白の内容に興味を持ってしまったのだった。たとえば遊星が耳をふさいだり、声を上げたりする、そういうことをすると、とりあえず告白はやむ。だが、ユウキジュウダイはきっと二度と本質的な話をしなくなるだろう。それでもいいじゃないか、今すぐベランダから立ち去って部屋を出ていきこの女から離れて二度と近づくな、という遊星の中の声はもうほとんど聞こえなくなるほど小さくなっていた。
「ヨハンはそこにいる、涙も詰まるほどきれいなピンク色の夕焼けとか心まで洗われるような雨季のスコールとかそういうののなかにヨハンがいるんだ、これは錯乱だろうか?なんでもいい、おれはヨハンに会いにきたのかもしれない、ヨハンがいなくなって、阪神がいなくなった本能的な苦しみから逃れようとしてこの国に来たのかもしれない、おまえ、遊星、おまえに会うためだ、おまえは頭のおかしいおれを空港から脱出させるためにわざわざ車を走らせてここに来たんだ、それは運命とよんでもおかしくはないような、そういうものなんじゃないか、ヨハンはわかっていておれにう、ん、め、い、をのこしたんだ、そうだろ、ヨハン……そんな顔するなよ遊星、ちゃんとわかってるさ、おまえはヨハンじゃないんだ。不動遊星。いい名前だな。遊星?」
 遊星は、彼女の肩をつかみ、驚いて半開きになったこぶりな赤い唇へ噛みつくようにキスをした。ユウキジュウダイは抵抗しなかった。ヴァラデロ・ビーチの水平線のかなたに、暗い銀色の雲が沸き上がり、それが徐々にこちらに近づきつつあった。
 
 
 
 
 女優はベッドで眠っている。
 服を着たまま、ベッドカバーの上で、身体を横向きにして、目を閉じたかと思うとすぐに寝息が聞こえてきた。
 告白がやみ、遊星が彼女の上からそっと離れると、十代は、あっ、と息を吐いて、照れたように笑い、背伸びをして、何か飲みたいな、と言った。まるで、カット、の声がかかった後に、自らの演技に照れる俳優みたいだった。遊星は部屋の冷蔵庫からビールとコーラを出し、ベランダに持って行った。どちらにしますか? と聞くと、十代は、また声を出して笑った。それは人間としてごく自然な、やさしい笑い方だった。
「ビールに決まってるじゃないか」
遊星はキューバのビール、アトウェイの缶を手渡した。十代は飲む前に缶に描かれたインディアンの顔の絵をしばらく眺めた。
「アトウェイ?」
「そうです」
「おまえ、この絵のインディアン、だれだか知ってるのか?」
「アトウェイという名前の首長です」
「この人は殺されたんだ」
「知っています、焼き殺されたんです、死刑で」
「最後までスペイン人に抵抗して」
「その通りです」