Iju's parasite egg

 


   イジュのたまご

 レイモンドアベニューから一つ奥に入った通りの地下にある、ザ・スピークイージーというダイニングバーが、キャコの行きつけだった。
 とげのある薔薇を模したアイアンフェンスを抜け、石畳の階段を降りると、夜の秘密をまとったマホガニーの扉が現れる。置物然として立つドアマンの右耳に、パスワード、L.I.V.I.N.G、囁けば、あとは赤やビビッドピンクの照明で煌びやかに飾られた愉悦の中に飲み込まれるばかりである。国立図書館を彷彿とさせる高い壁に、所狭しと並べられるスピリッツ、リキュール、誰のものとも知れぬ肖像画の面々、しめやかに演奏されるクラシックジャズ、おそらく八十年代のナンバー、椰子植物の灌木の影でカップルは身体をくねらせ、黒服のバーテンダーは素知らぬ顔でマティーニにオリーブを放り込む。地下クラブ特有の湿った熱気、ほどよい無関心が、キャコの焼けた肌を心地よく覆う。甘く濃厚なアルコールの香りが、首の後ろ、脳幹のあたりをゆったりと痺れさせ、彼は軽やかな足取りでこの夜の帝国を散策する。魅力的な女たち。鼻先にぶら下げられた酒とセックス。
 くだんのパンデミックは人類の滅亡を決定づけたと言ってもよい。WHOは感染による世界人口の急激な減少を食い止めることができず、やがて組織自体の崩壊も加速度的に進行し、もはや誰もこの危機に対して有効打を打つことができないというところまで来ている。最初の報道から二十年弱経った今、どれだけの人間が生き残っているのかもう誰も知らない。だが、かつて大都会と呼ばれた街々にはまだ集団を形成できるだけの人間が残っているし、彼らはしばしば、ひとときの享楽を求めてここのような溜まり場にやってくる。キャコもそうだ。彼もまた天涯孤独の身、守るべきものも戦うべきものも持たず、ただ今を楽しむためだけにここにいる。
 イジュは違った。
 彼女は、そのとき、キャコが気に入って使っているカウンター席の一番右端に腰かけて脚を組み、薄目を開けてぼんやりしていた。もうずいぶん飲んでいる様子だった。しめた、と、キャコは思う。酩酊状態の女ほど扱いやすいものはない。お姉さん大丈夫ですか、お水要りますか、いらない? そう、じゃあ、もう帰りましょうよ、こんなじゃ帰り道危ないですから、そうだ、ボクがお家まで送りましょう……段取りも完璧だ。それに、何より、彼女は美人だった。薄く青白いからだ、妖精が夜なべして作ったみたいに繊細でかわいらしい顔のパーツ、腰まで届くほどの青みがかった黒髪は、剥き出しの背を流れてまるで岩肌を流れる幾重の滝のようだった。
「飲み過ぎなんじゃねえか」
 彼女の隣に腰掛けたキャコは、彼女の銀の瞳が頬に燐光を散らすのを見て、ふと用意していなかった別のセリフを吐いていた。
「顔色悪いぜ」
 次のは本当にそう思って言った。暖色の照明は客の肌の色をあいまいなものにするが、それを差し引いても、彼女の顔色はゾッとするほど白かった。夜道で遭遇すれば幽霊と思ったかも知れない。バーテンダーは注文もしていないのにスクリュードライバーを作っている。特徴的なオレンジの皮の飾りを先に作ったのですぐにわかった。
 彼女は、億劫そうに目だけを動かして、ちらりとキャコを見た。
「お前は」声は掠れて低く、キャコはようやく彼女が男なのではないかと思う。
「結婚しているか?」
「はあ?」
「人間は法的に結婚した上で子孫を残すんだろ。子どもはいるか? 生命の誕生に立ち会った瞬間はあるか? オレは、ない、生命とは、ついこの間までオレ自身のことだったんだ。オレと同質の生命に、オレは出会ったことがない、が、それは覆されようとしている……」
 澱みなく、訳のわからないことを言うその人に、キャコはため息とも呼吸ともつかない空気の塊を外気に吐き出した。
「あんたがものすごく世間知らずだってことはわかった。途方もなく不思議なやつだってこともな。なあ、いま、結婚なんてしみったれたことするやつはいねえんだよ、ここ十五年はさっぱりだ、どうせ全滅なんだから、滅びゆく文明の法を尊重する必要なんかねんだ。オレは、今年で十七になる、両親は結婚なんてしてなかったし、子どもなんか作る気もよっぽどなかった、こんな世の中に生まれたってただ可哀想なだけだからな。だが予定外が起きた。オレは生まれちまったし、両親はすぐにゾンビになっておさらばさ。生命の誕生に立ち会った瞬間? ねえよ。あらゆる予定外に向けられるのは哀れみだ、オレは、哀れみたくなんかない……だから立ち合いもしなけりゃ……目を向けることもしない」
「まるでもう世界が終わるみたいな言い方をするんだな」
「そうだろ」
「そうか」
 バーテンダーが上品なグラスにオレンジの皮をくくりつけて、キャコの握った右手のそばに出した。すかさずその人は、グッドオールファッション・テモリーという、二十ドルもする燻製酒をオーダーした。赤い蝋燭に小さな火が薫る。ジャズは陽気なダンス音楽に取って代わられ、機嫌の良い客たちが一人、またひとりと立ち、思い思いに踊り始める。
 その人はくるりとキャコを振り返り、不意に、こちらに大きく身を乗り出した。白い二枚貝を思わせる唇がキャコの耳の産毛をくすぐるくらいまでに近づき、ひときわ厳かに、また秘めやかに、
「オレの名はイジュだ。今夜、オレは卵を産む」
 ほど近くで覗き込んだとき、人の虹彩は蠱惑的にうねって見えるのだと、キャコはそのとき初めて知った。
 手のひらに汗が滲む。喉のあたりに心臓が迫り出してきたかと思う。イジュはすぐに身体を離し、またうっすらと微笑を浮かべさえしたが……彼が肉であれば、一も二もなくかぶりついていたかも知れない、彼が飴玉であれば、口に放り込んでは舌で舐っていたかも知れない、歯でガリガリと噛み砕きもしただろう、しかし人間に近い容姿であるので、どう取り扱えばよいかわからない……そういう気分だった。最もニュアンスが近いのはセックスだろうが、たとえ抱いたとして、彼を破壊し尽くさない自信が、キャコにはなかった。
 イジュはくすくすとおかしそうに笑う。「大した話じゃない。手を握っていてほしいんだ。ひとりだと怖いから」
「……なんでオレだよ」
「オレと、二言以上の言葉をやりとりしたのは、お前が初めてだ」
 やっぱり、訳がわからない。


 現実的に考えて人間は卵を産まない。当然だ。人間は哺乳類に分類される生き物で、胎生である、というのは、義務教育がほぼ意味をなさない現代においても、いまだに常識として人々の間に根付いている。
 というのにキャコはイジュを伴ってバーを出て、レイモンドアベニューからパサデナ記念公園脇のホテルに移動するあいだ、そのことに一向に検討がつかなかった。
 イジュが滞在するホテルは、国際的なホテルチェーンが運営していただけあって、ラグジュアリーで洗練された雰囲気のところだった。ロビーの吹き抜け天井から下がったシャンデリアは、ひとつ一つの装飾が繊細に彫刻の施されたクリスタルガラスだ。白い大理石の床や、革張りのソファの格調は、イジュのほっそりとした静かな佇まいによくにあった。が、中庭の巨大なプールは水が抜かれてところどころ塗装が剥けていたし、無人のチェックインカウンターはひっそりとしてよそよそしさすらある。頭の禿げた掃除夫がひとり、暖炉のそばで気だるそうに煙草を吸っている。
 エレベーターを待つイジュのすべらかな背中、その青白さがキャコの理性を揺り戻した。卵生の人間なんているのかと。お前はいったいなんなのだと。だが、キャコは何も言わずに彼のそばに立ち、その右手のひらをやさしく握り込んだ。ぬくい皮膚がふわりとキャコの指を包んだ。
「あったかいのな」
「たぶん、卵を温めるためだ。あまり温度が低いと死んでしまうから」
 彼がキャコの肩に頭を傾けたので、それにつらなり長い髪もゆるやかに右へ流れた。
 エレベーターが来て、二階に到着しても、二人は手を握ったままでいる。奇しくも彼の部屋は廊下の一番奥にあって、そのためにたっぷり五分はそうしていた。青いカーペットは波もように小さな色とりどりの星が浮かんでいて、二人が歩くと、細く尾を引いて後ろへ漂いゆく。ダウンライトは奥へ行くたびに切れたものが多くなり、少しずつ、周囲が暗くなってゆくのがわかる。隣でイジュが呼吸する、瞬きをする。わずかな光を蓄えて、黒いまつげはほのかに青くきらめいている。モルフォ蝶のはばたきにもにている。意識は明朗であるというのに、身体は奇妙な浮遊感とともに深みへと沈んでゆく感覚を得る。一帯は闇。皮膚の上を小さな光の魚が泳ぐ。巨大な闇と静寂に圧し潰される、その窒息の向こう、二人はそこにいる。
「まだ少し時間がありそうだ。何か飲むか」
 ……ドアを開けるとなってようやく、イジュから指を解いた。
 彼の部屋がごくありふれたツインルームであることに安堵して、キャコは肩の力を緩め、コーヒー、と言った。
 コーヒー、舌に慣れた言葉。荷物を下ろし、使われた様子のない手前のベッドに重たい身体を放り投げた。上質なベッドだ。ともすれば眠ってしまいそうになるキャコだったが、ほどなくして漂ってきた香ばしい香りに、気だるくまぶたを押し上げた。
「なあ卵って、父親はいないのか?」
「いろいろなケースがあるそうだが、オレの場合は単為生殖に該当する」マグを片手にイジュがやってくる。「肉的には、オレは父親であり、母親であり、卵そのものでもあるというわけだ。だが精神の部分ではどうとでもなる、孵ったものが何を望むかでいかようにもできるだろう、お前も……もちろん、彼らが自我を獲得するまでオレが生きていればの話だが」
「卵産んではいさよならって、虫じゃねえんだから……いや大丈夫だよな?」
「近からずも遠からずだ、オレも自分がどうなるのかわからない、でも……今までひとりだったから……ひとりでないというのを、今更だが、知りたいんだ」
 銀の目は潤んで熱を帯びると極北の星になる。キャコから一ミリも目を逸らさないまま、彼は背中を留めるボタンをぱちんと弾いた。
 キャコはマグを床に置いていた。首までを覆っていた布がはらりと前に反れ、花の色に慎ましく持ち上がった乳頭と、腹までのなだらかな輪郭をあらわにした。へそもあったが、ごくごく小さく、その造形は何の機能も持たない飾りであることを予感させた。傷もつっかかりもない肌は焼き上げたばかりの陶磁器を思わせた。
 抱いた腰は肉付きが悪く頼りない。何か重たく大きな地の巡りに兆し、ほのかに怯えを見せる唇に、キャコは柔らかく自分の唇を擦り合わせる。ミルクのような甘くやさしい匂い。存外に硬質な歯並び。うっすらと、彼がまなじりだけで笑う。
「見せろよ」
「ああ……」
「腕」
 億劫そうに骨っぽい腕が持ち上がり、キャコが服を脱がせるのを助ける。
 華奢に伸びた一対の脚、真珠を並べたみたいに上品で小柄な足の指。小さな花の蕾然とした器官は女性器にもにて、恥丘に慎ましく結ばれていたが、すでにうっすらと青みがかった粘液を分泌していた。おどろくほどプラトニックなのだ。裸身の女、に似たものを前にしているにも関わらず、キャコの官能は何の感慨も呼ばないのだった。
「手を」震えながらイジュは囁く。「他には何もいらない」


 緊張のために少し湿った手のひらと繋がれて、キャコの意識は彼の皮膚から内側へ潜り込み、赤血球に乗って静脈を遡って、——海に出た。
 キャコは海を見たことがない。パサデナは海岸線を持たない内陸の街で、バスに乗れば一時間足らずでビーチに到着するだろうが、特に理由もなかったために足を向けなかった。写真や映像の類にも興味がなかった。何か大きな水溜まり、塩っぽい香りのする、陸以外の場所……だがそのとき、キャコは素足で砂浜に立ち、巨大で、青くて、果ての知れない海を臨んでいた。
 命はこの向こう、ずっと深く、息の詰まるほどの孤独の中からやってきた。キャコもそうだ、イジュもそうだ、イジュの卵も……きっとそうだ……そして例えそれが不本意のものだったとしても、星の巡りに押し流されてみな生きてゆく、どこに流れ着くだろう? もっとも、どこか浜辺に辿り着くころには、すっかり角が欠けて、この世にとって最も不要なものの一部になるだろうことは、キャコも十分承知していた。
 遠く波の音に混じって、女の啜り泣きにもにた、イジュの呼吸が聞こえてくる。緊張のあまりうわずって、喉のあたりで何度もつっかえさせている。
 キャコに促され、彼はためらいがちに、薬指でひだを開いた。薄桃色に湿った内側の粘膜が晒される、花の雌蕊を思わせる感覚器官、粘液を分泌する小指ほどの細さの卵管。キャコは左手でイジュと結ばれたまま、右手人差し指を卵管の内側に潜り込ませてみた。
「あっ」
 声を上げたのはキャコのほうだった、指の腹の、神経の集まった部分に、卵とおぼしきものが触れたのだ。それは柔らかく、硬い殻のようなものに包まれていて、温かくぬかるむイジュの卵管の中にあって低温状態を保っていた。大きさはうずらの卵より少し小さいくらいだ。
「これか」
 汗まるけになりながらイジュは、痛がっているとも善がっているともつかない表情で頷く。
 卵は存外にするすると卵管を下り、慌ててキャコが指を引き抜くのに続いてころんとシーツの上に転がった。あまりにつつがなく生まれてきたので、キャコはしばらく呆気に取られていた……かと思えば、もう一つ、同じくらいの大きさのものがまた転がり出てきた。
 指でつまんで眺めてみる。ほとんど球体だ、透明で、殻に近い部分に細かく泡が立っている。底の方にほの青く色がついているのに、まるでそのように作られた出来の良いガラス玉のようだと思った。光に晒せばさぞかしきれいに違いない。
 そうしている間にもイジュは立て続けに三つ卵を産み、しまいに凝固しかかった粘液を吐き出して事は済んだ。ぐったりとシーツの中に沈み、深く呼吸するさまは普通の人間のようで、ここにきてようやくキャコは彼に対して性的な魅力を感じるに至った。変な話だ。
「お前——」
「ん」
「悪かった。終わったから、帰っていいぞ」
「おまえなぁ」
 彼の右手はいまだに不安がって落ち着かないし、五つの卵は転がったままなのだ。それでいて帰っていいだなんて言うイジュはなんだかおかしかった。
「今更変に気ィ回されてもうれしかねえよ」
「何もない」
「いいから言ってみろって」
 キャコはイジュの顔のそばに卵を置いてやった。彼は、キャコを見て、卵を見て、左手のひらでそれをすくいとって頬擦りをした。鼻先でその丸みをたしかめ、慈しみ、噛み締めるように目を閉じる。
「……オレは有性生殖で生まれたらしいが卵生だった、殻を破ったときには母親も父親もきょうだいもなかった、それどころか、今まで卵から生まれたものにも、卵を産むものにも会ったことがない……はずかしいことに、この世にひとりだと考えたこともある」
 薄い下まぶたを、薔薇色に上気した頬を、滲むように涙がつたう。
 イジュはほほえんだ。
「でも、生きていてよかった」
 ……キャコにしてみれば、お笑い種、アホみたいな一言、だ。今の世の中、生きていてよかったなんて、そんなこと神妙に言うやつは誰もいない。終わるとわかっていてなお歩み続けることを喜ぶものはいない。滅びゆく文明に産み落とされて幸福などあろうものか。
 でもやっと言えたとばかりに無垢に破顔する彼を前にして、その通りだと、まるごと肯定してやる以外に、言葉にならずとも、いったいキャコに何ができただろうか? 
 イジュの肩を抱いて引き寄せる。
「このくそばか」
「馬鹿とはなんだ、オレは真面目に」
「生きててよかったなんて……かんたんに、ポロッと言うもんじゃねんだよ、おまえは……これが一番だいじなことだなんて、あるかよ、他人とまともに喋ったことがないだあ? ふざけんなっての、惚けてんじゃねえ……」
「……泣いてるのか」
 イジュが途方に暮れたような声で言う。キャコはぎょっとして頬に手をやったが、涙どころか湿ってすらいない。
「泣いてない」
「悪かった」
「泣いてねえっての」
 繋がれたままの手を強く握られる。ぶあつく黒い雲のかさなり、暗礁の中で、左手の形だけが明瞭な形を持ってしてそこに浮かび上がってくる。指の形、ふくらみ、豆だらけの皮膚のぶあつさ、その内側でごうごうと音を立てて流れる血潮、太く頑丈な骨までも、はっきりと。
 生きている。歴史の果て、滅びゆく時の潮流のさなかにあっても、生き物は命を降りない。
 ふっと、音もなくイジュがまぶたを閉じた。薄い皮膚に青白い毛細血管がうっすらと透けていた。下向きに伸びたまつげ、白百合の花弁のなだらかな輪郭を思わせる鼻梁、繊細で壊れやすそうな、作りものめいた造形の顔だ。そのくせ挙動はいやに人間っぽくて、唇なんかは、所在なさげに軽く開かれていた。キャコはあごを軽く傾けて、小舟を岸に寄せるような軽やかさで、彼の唇に人間の愛情表現を教えた。


 夢を見ている。
 キャコは病床にあって、今は細い気管を急き立てながら浅く呼吸するばかりである。
 小さな硝子窓の向こう、豊かに茂った枝葉をくぐりぬけて、白っぽい太陽の光が差し込んできた。思わず見上げると、うすむらさきの薄明の空から、光がしんしんしんと降りて来た。薬を服用し、ベッドに入ってから眠れずに無駄な考えばかり巡らせていたが、いつのまにか明け方になっていたらしい。まぶたを緩慢に擦り、周囲に意識をはたらかせた。
 赤銅色に鈍く輝く、銅のドリップポット。アルコール式のランタン、摩擦板のついたマッチの小箱、薬を入れるための木の容れ物。控えめにロゴの入った陶器のマグカップは、いつかホテルから持って帰ってしまってそのままになっていたものだ。それが、窓からの光を反射して、まるで呼吸でもしているかのように静かに煌めいている。青白く落ちた影にも、小さな光の粒が無数に揺れていた。
 壁はCDジャケットや誰とも知れない昔の女優のピンナップなんかでごてごてと飾ってあるが、天井はそのまま素材の木を残している。低い部分につっかえた梁には、鉛筆で無理やりデカデカと削った文字が、塵や埃を蓄えてほとんど読み取れないものの、そのときの、若く昂った気分を顧みて、キャコははからずも微笑していた。

 LIVING

 まったくもってくたびれはてた部屋だ。こうして寝たきりになってからは手入れをするものもいなかったから、調度まで一緒になって老け込んでしまったような感じがする。それだっても、ここはキャコの部屋だ。終の住処だ。
「起きたか」
 不意の声に驚いて顔を上げた。
 翳りを湛えて、なつかしい顔がキャコを覗き込んでいた。なつかしい、という感慨は根拠のないもので、初めはどうしてそう思ったのかわからずにいたが……細い肩から青みがかった黒髪が一房こぼれ落ちるのを見て、若き日の記憶が急速に蘇ってきた。
「馬鹿野郎……来んのがおせえよ」
「すまん。なんとなく」
「なんとなくで済むか」
 伸ばそうとして力を失った手を、力強く握られる。期待に反して骨太な手だ。
「オレ以外は、だめだった。単為発生はリスクが大きいんだ。極体が弾かれて……あなたが受精させてくれれば話は別だったかも知れないけど」
「知らねえって」
「でもオレはここにいる。あなたを連れて行くのがオレでよかった」
「イジュは?」
 あいまいに首を振り、彼は、傷ついたように口許を緩ませた。
 ゆっくりと、滅びが近づいてくるのがわかる。悲壮な感じはしない。涼やかな風が身体の中に流れ込んでくる、目に慣れ親しんだ調度の品々、薄明の空、萎えた手のひらから色という色が失われて、灰……白混じりの黒……に落ち着いてゆく。彼は冷静だった。穏やかですらあった。視線の先、帰るべき暗い海の中で、極北の星が柔らかく光を放つのを、見ていたから。
「あなたの命を送るよ。キャコ」
「そっくりだ、この天邪鬼が——」
 満たされたあまりの小さなため息をひとつ。
「お父さんって、呼んでもよかったんだぜ」