2024/02/02

 


 いつか、純子が、鏡に映る自分を見て、ひどく取り乱したことがあった。
 雨季の頃だったかもしれない。湿気が強くいうことを聞かない髪を持て余して、朝から彼女は、櫛とヘアオイルを両手に難儀そうな顔つきで鏡の前に立っていた。背の大きく開いたシアーシャツを着ていて、はじめは裸のままベッドに寝そべりながら、作り物のように細く美しい彼女の背中やウエストをぼんやりながめていた。しばらく、窓から吹き込む風の音や、彼女が髪をいじくり回しながらぶつぶつと唇に蓄えた独り言なんかを聞いていたが、不意に、櫛がタイル床に激しく音を立てて叩きつけられたので、はじめはきゅうりを見せられた猫のように飛び上がった。
「誰?」
 褪色した唇を振るわせて、彼女は鏡の中の自分を食い入るように見つめていた。「この人だれ?」
「純子?」
「あたし……あたしの顔じゃない、この人は誰? どうしてあたしと同じ動きをするの?」
 彼女が髪を摘めば、鏡の中の彼女も自分の髪を摘む。肩をすくめれば同様の動きが返ってくる。そのようなことを繰り返しながら、彼女の顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。不意に、激しく歯を鳴らし嗚咽したかと思うと、背を弓形にそらし、膝を折ってその場に崩れ落ちた。純子の錯乱は、大して珍しいことでもなかったが、このパターンは初めてだった。
「どうしたの。鏡の中に知らない人がいるの?」
 はじめの腕の中で浅く呼吸しながら、生理的な涙で濡れた目で純子は頷いた。「そうよ、さっきまで自分の顔が映っていたのに、突然知らない人になっちゃったの」
「純子、大丈夫、わたしには本当の純子が見えてる」
「ほんとうのあたしってどこ? どんな顔なの? 年齢はいくつで身長はどれくらい? 性格ってどんなふう? あたしははじめの何? どこから来てどこに行こうとしているの?」
 迷子になった子どものように怯える純子のために、彼女の絵を、はじめが描いてあげることにした。
 窓辺のデスクに腰掛ける裸の彼女を、ベッドに膝を立てて座り、スケッチブックを抱え込むような姿勢になって描いた。時刻は正午過ぎ、向かいのモスクのスピーカーからアザーンが流れ出し、家々から信者たちがぞろぞろと集まってくるころだった。薄い曇り雲に濾されてやわらかくなった白昼の光が、彼女の華奢な骨格、角ばった関節や鶴のようにしなやかな手腕、小ぶりで慎ましい乳房、くるくると渦を巻きながら肩口へ落ちてゆく濡羽色の髪などを、部屋の薄闇の中へ白く浮かび上がらせていた。その、白痴と思われるほど無抵抗で、運命的に美しい肉体を、鉛筆と水彩絵の具とで描いた。彼女は一時間あまり、言葉もなくはじめを待っていた。
 はじめが満足してスケッチブックを頭上に掲げ見るころには、純子の錯乱は恐れをなし、薄い腹の中へと逃げ帰ってしまったあとだったが、彼女はこの上なく嬉しそうに、見せてよ、はじめ、とデスクから身を乗り出した。はじめができたばかりの自作を見せてやるととても喜んだ。
「すごいわ、はじめ、あたしだけど、あたしじゃないみたい。ちょっと綺麗すぎるくらい」
「純子は、わたしの神さまだから」
「はじめはいつも大袈裟ね、ばか」
「……思い出した?」
「うん……ごめんね。もう平気。ねえ、この絵、あたしにちょうだいよ」
 首を縦に振って了承すると、「ありがとう」、見開きのスケッチブックを胸に抱き締め、いっぺんの曇りもなく微笑する純子だった。
「いつか道に迷ったとき、この絵を見て、きっと行き先を思い出すわ」
 純子はスケッチブックから自分の絵をちぎり取ると、額に入れて、しばらく部屋に飾っていた。以降、彼女が鏡を見て取り乱すことは二度となかった。

 チャンギ国際空港第二ターミナルを出るや否や、黒服のバトラー二人に迎えられ、黒いクライスラー・リムジンの上等なシートに腰掛けるよう促されたとき、はじめは自らの浅慮であることを心底後悔していた。
 住む世界が違う、というのが、率直な感想だった。クライスラーシンガポール海峡を左手に湾岸線を十キロほど走り、アート・サイエンス・ミュージアムをすぎて、かの有名なマリーナベイ・サンズホテルの敷地へと滑り込んだ。近未来風の青い照明がソフィスティケートな雰囲気を演出するロータリー、大粒のクリスタルが上から下へ滝のように流れる巨大なシャンデリアのロビーで、バトラー二人に挟まれ萎縮する東アジア人の女はひどく注目された。はじめは、いつものロゴTシャツにショートパンツ、履き古したスニーカー姿で、途方もなく場違いな格好と言っても良かったが、それが返ってアッパークラスの住民たちの興味をそそるということらしかった。
 専用のエレベータに乗せられ、数十階ぶんを一息に上がる。かき氷を食べたときみたいに耳がきんと痛む。五十四階、ザ・プレジデンシャル、普通に生きていたらまず目にかかれない最高級のスイートルームに、エレベーターは程なくして到着した。幾重もの波形の美しいシャンデリアにウォールナットの壁、金糸の織り込まれたカーペットの廊下を進むと、急に視界がひらけた。人間が使うには、あまりにも広大すぎるリビングルームだ。座り切れないほどのソファや椅子、溢れんばかりの花が飾られたホワイトオニキス製ダイニングテーブル、右手奥にはサムスンの八五インチテレビ、左手奥には白い花の描かれた金屏風にグランドピアノ、背後には趣味の良いモダンなミニバー、何より、眼前に広がるシンガポールの見事な夜景! 湾曲するマリーナの向こうで、競い合うようにして伸び上がったビル群が、赤や青やゴールドの照明でライトアップされている。都会の夜景はジャカルタで見慣れていると思っていたが、それではとても比較にならない、本物の、贅を尽くした都会といった趣だ。
「言っておくけど、俺の趣味じゃないからな」
 心外だとばかりの口ぶりでそう言うのは、部屋付きのゴルフシュミレーターで、今しがたホールインワンを出した公貴だ。
「違うのか」
「違うに決まってるだろ。出張が決まったとき、会社の方から割り当ててきたんだ。どうせほとんど不在にするんだし、寝られれば良いと言ったんだが……余計な金が有り余ってるんだろうな」
 テーラーメイド製のゴルフクラブを人工芝の上でくるくると弄びながら彼は、シングルソファに居心地悪く座るはじめを振り返った。何も変わっていない。人好きのする柔和な笑顔。見上げると首が痛くなるほどの長身、がっしりと重たい筋肉を乗せた強肩、短く刈り込んだ黒髪に角ばった顔、特徴的な黒縁眼鏡。いや、最後に会ったときから七年、また少し背が伸びたかもしれない。エックスエルサイズのポロシャツが二の上で窮屈そうに張っている。後ろ髪を触る無骨な手指に繊細なシルバーリングがきらめく。
「久しぶり、はじめ」
 クラブを置いた彼と、七年ぶりの抱擁を交わす。
「元気にしてたか」
「ああ、公貴も」
「悪くないよ。毎年人間ドック受けてるけど成績良いし」
「にんげんドッグ?」
 公貴が、インドネシアの隣国であるシンガポールに長期滞在しているということを知ったのは、本当に偶然だった。純子が倒れたとき、救急車を呼ぼうと思ったのだが、はじめは緊急連絡先を知らないどころか電話番号を持ってすらいなかった。焦燥し、何を思ったか純子の携帯電話を取って、彼女の発信履歴のいちばん上にリコールしたところ、公貴の細君を名乗る女性に繋がった。彼女の手引きで、はじめは無事救急車を呼び、純子は病棟へと入院することができたのだった。
「その節は、どうもありがとうございました」
「いいんですよ、どうかそんなに畏まらないで」いかにも繊細そうな白い手が、ルザーン製のソーサーにティーカップ、銀のスプーンをはじめの前に音もなく置き、ポットからハーブティーを注いでくれる。「はちみつはご入用?」
「えと……結構です」
「ミルクは?」
「……おねがいします」
 細君は承知したとばかりにたおやかな微笑を見せ、可愛らしいミルクピッチャーから少量を注いでくれた。ペリドット色の水面にミルクが混ざってマーブル模様になり、やがて落ち着いた。彼女がティーセットを盆に乗せてリビングルームを離れると、公貴と二人きり、奇妙な沈黙が室内に充満した。よるべなく、ハーバルミルクティーで唇を濡らす。おいしい。カモミールのフローラルな香りに、ミルクの優しい舌触りがよく似合う。
「こんど、はちみつ入りも試してみろ。なかなか悪くないぞ」
「……公貴もこういうの飲むんだな」
「彼女の悪阻がひどかったときは、コーヒーの匂いも禁物だったからな」
 彼がティーカップをソーサーに戻す。カチリと小さな音が弾けた。
「どうなんだ、最近、純子のやつは」
「連絡取ってたんじゃなかったの?」
「二ヶ月ほど前まではな。ちょっとしたことで言い争いになって、それきりなんだ」
「純子は……」辿々しいはじめの言葉を、公貴は、遮ることなく聞いてくれる。「……ずっと不安定だったんだけど、わたしはそれに気づかなかった。たぶん、わたしのせいで……幻覚を見たり、すごく気分が昂るのと、すごく沈むのを繰り返したりして……このあいだすごく大きな発作を……起こして、それからずっと病院にいる」
「通院していたんだろう、かかりつけの医者はなんて言ってる」
 イスラム教信者の医師の話はとりとめのないものばかりだ。精神的な問題は、神の意思に反する行動をとってきたことへの警鐘であり、イスラム教に帰依するか、このまま狭い部屋に縛り付けておいて外に逃げられないようにするか、選択肢は二つにひとつしかない、といったような内容だったが、はじめの中ではとても咀嚼しきれないのだった。
「どうすれば良いか、考えているんだが、正解が出ない」
「帰国して、然るべき高度医療を受けさせるというのはどうだ」
「考えなかったわけじゃないけど……いちどは状況が改善しても、最終的に、純子にとってもわたしにとっても、良い結果にはならないと思う……いや、たぶん、わたしにできることは一つなんだ。でもそれが、純子にとっての正解となるかどうか、わからないから踏み出せない」
「なあ、はじめ、俺にまだ話していないことがあるだろう」
 不意に、精悍な顔から笑みを消して彼が告げたので、はじめはひととき、継ぐ言葉を失った。
「今回はそのために、わざわざ飛行機を取って来てるんじゃないのか」
 彼の眼鏡の薄いガラスが、ランプシェードのオレンジ色の光を帯びて硬質な光を放つ。細い目が、お前が何を言っても俺にはその真偽がわかるんだぞ、とばかりに、厳粛に細められる。はじめは視線を膝下に落とし、いつのまにか空になったティーカップの縁を、なお舌で舐め続けた。カップを握りしめる両手の指がソワソワと落ち着かなかった。
「……まあいいさ。明日の昼まではこっちにいるんだろう。その時までに話してくれよ」
 はじめさん、いらっしゃる? 細君がベッドルームからはじめを呼んだ。時間切れだ。

「女の子のお友だちとショッピングをするの、わたくし、夢だったんです。うれしいわ。どこから見ようかしら」
 ザ・ショップス・アット・マリーナベイ・サンズは、ホテル付けの巨大なショッピングモールで、ショップはほとんどがハイブランド、そればかりか中を運河が走っていてゴンドラが何台も周遊している。全面ガラス張りのドーム天井に取り付けられたダウンライトから、金色の光がまぶしく降り注ぐ中で、先行する彼女のフレアスカートが優雅に翻った。
「あの、でもわたし、あまりお金を……」
「お気になさらないで。あの人から、たくさんお小遣いをいただいているの。わたくし一人ではとても使いきれないから、お手伝いしてくださるとうれしいわ。純子さんにもお土産をひとつ、なんてどうかしら?」
 身体が弱く、家からほとんど出たことがないという公貴の細君が、一生のお願いまで使ってはじめに依頼したのは、このショッピングモールで一緒に買い物をすることだった。
「公貴とは、出かけたりしない……んですか」
「畏まらないでください。わたくし、はじめさんより二つも年下なんですからね。公貴さんは、お買い物に誘っても、目に入るものみんな買えばいいと勧めてくるんです、うんざりしちゃうでしょう。それに殿方だから、女性の繊細な好みのことなんかわかってもくれないのよ」
 典雅にも指をそろえて唇を覆い、目を細めておかしそうに笑う。
「妊娠がわかってからは、あの人が止めるから一人で出かけることもできなくて、退屈していました。あなたがきてくれると知ってわたくし、とても嬉しかったんですよ」
 純子の身体つきにも似て、細く、肉付きの乏しい彼女だが、現在公貴の第一子を妊娠しているのだという。事前に公貴から話は聞いていたし、そのための配慮を求められてもいたが、本人の口から事実を聞き、はじめは改めて驚く。タサキ、ディオールセリーヌバーバリーバレンシアガ、名だたる高級ブランド店を通り過ぎたり、のぞいたりしながら、少女たちは他愛のないおしゃべりに耽る。
「公貴は、あまりにものに興味がないみたいだから、しかたない。デートに誘うなら、ロードレース……の大会がいいと思う」
「素敵。たしかお三方は、自転車競技の部活で一緒だったんですよね」
「そう……公貴はいつもああいう感じだけど、ロードに乗ると、人が変わったみたいになることがある。こう、チーターがウサギを捕食するみたいな感じで……面白い」
「本当ですか? 信じられないわ。わたくしまだ、優しい公貴さんしか見たことないんですもの」
 ジミーチュウの、ガラス張りのブティックの前を通りがかった時、プレゼントボックスを模したディスプレイ台の上に、ちょんと置かれていたサテン・パンプス、ポインテッドトゥと一〇〇ミリヒールにメタルとクリスタルのスタースタッズをあしらったものを見つけた彼女が、即座に反応した。純子さんて、ヒールは履かれるの? 質問の真意を掴めないままはじめが頷くと、続いて、サイズは? と訊いた。
「二十五センチ」
「ちょうど良いわ、これにしましょう。おそろいのトートバッグもひとつ」
 唖然とするはじめを取り残したまま彼女は、現地人のファッションアドバイザーに英語で話しかけ、ディスプレイされていた例のパンプスと、奥のガラス棚に飾られていた水色のレザーのトートバッグを指差した。計算機で店員が明示した金額にほとんど目もくれないまま、子どもがトレーディングカードを交換するみたいなきやすさで、財布から金のクレジットカードを出してよこした。商品はすぐさまコットンバッグに包まれ、サテンのリボンをかけられ、分厚い灰色のショッパーに入れられて彼女に手渡される。
「絶対に、純子さんに似合うと思うの。ほら、あの方、脚がとても綺麗なんでしょう?」
 会ったこともない純子へのプレゼントを、嬉しそうにはじめに手渡してくる。ほとんど茫然自失で礼を言いながら、住む世界が違うと、つくづくと反芻するはじめであった。
 彼女は続けて、ラルフローレンで公貴のためのサマーセーターをオーダーし、はじめにも何か買うよう勧めたが、結局何も購入せずにショッピングは終了した。夕食には若干遅かろうとも思われたが、彼女もまだ食事をしていないとのことだったので、帰りがけにフードコートへ立ち寄ることにした。シンガポールをはじめとする、アジア各国の名物料理の店が一堂に会し、濃い調味料の匂いがコート外にまで漂っていた。
 はじめはここにきて、チクチクと、あるいはむかむかと、例の不愉快な予兆が腹に湧いてくるのを感じていた。果たして、コート内に入るや否や強い匂いが鼻腔から気管へともぐり込み、空っぽの胃を散々にかき混ぜて、はじめは耐えきれずその場にうずくまった。鳩尾のあたりを強く圧迫されている。頭痛と、耳鳴りが、かわりばんこにやってくる。彼女ははじめの異変に気づくと、特に焦る様子もなく、薄手のシルクショールをはじめの肩にかけ、優しく背中をさすってくれた。
「何かご病気?」
 首を振る。
「では、やはり。そんな気はしていたの。今回シンガポールにいらしたのも、このことを公貴さんに伝えたかったからなんでしょう?」
 頷く。顎を引いた拍子に、眼球を厚く覆いはじめていた涙が滴り、顎の柔らかいところを流れた。
「……あなたと公貴を傷つけてしまう」
「いやだわ、わたくしたち、そんなやわじゃありませんよ。一番つらかったのは、たったひとりでここまできたあなたのほうでしょう」
「…………純子……」
 しゃがみ込んだまま、たおやかな腕に肩を抱かれる。ショールを胸に抱き寄せると、知らない香水の匂いが立ち上り、それにもはじめはむせ返ってしまう。純子に会いたい。本当は純子に抱かれていたかった。全身が震えて止まらなかった。

 ホワイトグースの羽毛を贅沢に使ったマットレストッパー、カシミヤの手触り心地よい布団の中で、意識は快く浮上した。
 寸刻、放心していた。身動きを取ることすら億劫だ。いま、自分はシンガポールにいて、この部屋は公貴が宿泊しているホテルの、おそらくセカンドベッドルームにいる、という事実を確認するまでにも、かなりの時間を要した。緩慢に視線を投げかけた天井をぼんやりと、間接照明の光が覆う。左右の、アールデコのウォールランプは、眠るはじめに配慮してかどちらも消灯されている。まだ深夜か。それほど時間は経過していない様子だった。
 公貴は、ベッドサイドのカウチに腰掛け、古いロシア文学を読んでいたが、はじめが目を覚ましたことを知ると、文庫をサイドテーブルに置いて立ち上がった。
「気分はどうだ」
「……さっきよりは、良い」
 やっとの思いで捻り出した声は、低く、かさついていた。
「水飲むか?」
 はい、とも、いいえとも返事をしなかったが、公貴は水差しからグラスに注いだミネラルウォーターを、慎重な手つきでよこしてきた。ひどく喉が渇いていたためか、一息で三分の一ほど飲み干してしまう。唇から漏れたぶんが胸元を濡らし、はじめは、自分が白のシルクのネグリジェに着替えさせられているのに気がついた。
「すまん、ひどく汗をかいていたから、妻に着替えさせたんだ」
「いや……ありがとう」
「もとの服はランドリーに出した。明日の朝には戻るはずだ」
 公貴がそう言ったきり、二人は再び居心地の悪い沈黙の中へと追いやられた。
 飛行機がほど近くを通り過ぎる音がする。サイドテーブルには、重厚な玻璃の花瓶、雄蕊を取った立派な白百合が一抱えほど、華やかな香りが漂う。再び強い吐き気が襲ってきて、はじめは思わず手のひらで口元を押さえた。揃えた指に生暖かい液体が散った。無駄のない仕草で公貴が、タオルをてわたし、背中をさすってくれた。グラスに残った水を、今度は唇を湿らせる程度に含む。
「……妊娠したみたいなんだ。お前の子どもを」
 放り出たのは言葉だけではなかった。激しく咳き込んだ拍子に、魂までもが、外へと彷徨い出てしまったような気がしていた。背中をさする手が止まるのを感じたが、はじめは俯いたまま公貴の顔を見ることができない。
「連絡があったときから、まあそういう話じゃないかとは思っていた。一応確認するが、俺とおまえは、昨日七年ごしに再会したばかりの親友同士だよな?」
「ああ、間違いない」
「とするならば、純子の手引きか」
「そうだ、純子が、おまえの精液を冷凍して保管していた。……おまえのものという確証があったわけじゃないが、その反応からして、わたしの仮説は間違っていないんだろう。それをこの間膣に流し込まれた。うちの冷蔵庫は性能の良いものじゃないし、保存状態も良くなかったから、まさかのことはないだろうと思って……それどころじゃなかったというのもあって、処置を怠った。いま、五週目だそうだ」
「あいつはそのことを?」
 唇を固くむすび、首を振る。「知るわけがない。ずっと眠っているんだ」
「そうか、あいつ、そういうことだったのか……なかなかどうしてやるじゃないか」
 視界の端で、冷や汗に濡れた彼の喉元が、かすかに引き攣れるのを見た。
「——公貴?」
 笑っている? 
「いやなに……すまん……そうだな、困ったな。俺は妻帯の身で、住む場所も遠く離れている。おまえが必要とする支援を一〇〇パーセント行うことは極めて難しい」
 はじめがようやく首をもたげ、仰ぎ見た顔に笑みの気配はない。当たり障りのない、生真面目で引き締まった顔つきで、彼は自らの顎を触った。
「わかってる。公貴にどうこうしてもらおうなんて思ってない。ただ、伝えておかないと、後々まずいことになるだろうと思っただけだ」
「もうすでにまずいことになってるんじゃないのか」
「……この子はわたしが育てる」
「無理だ。おまえにも純子にもその素養はない」
「わたしだってもう次の春には二十六になる。働いて自立もしている。立派な大人だ」
「そういうことじゃない。いいかよく聞け、内閣府の調査で、子どもをひとり育てるのに、二十年で四千万ほどかかるという試算が出ている。世帯年収でいえば八百万以上だ。日本円でだぞ。はじめ、おまえはこの七年、インドネシアで一体いくら稼いだんだ? 年収は? 純子と合わせてみてどうだ? 住む場所は? 今の狭いアパートに親子三人で暮らすつもりか? 教育は? おまえたちは二人とも高卒だ、子どもが大学に行きたいと言い出したらどうする?」
「で、でも」
「さらにいえば、この話はおまえたち二人が協力して立ち回れる状況下での話だ。だが、今の純子は、とてもじゃないが子育てに関われる状態じゃない。むしろマイナス要素になりうると言っていい。おまえは一人で、一年に八百万もの大金を稼ぎながら、純子と赤ん坊の面倒を見なければならない。簡単とか難しいとかいう話じゃない、無理なんだよはじめ、おまえに子どもを育てるのは無理だ」
「じゃあ! どうすればいいんだ!」
「簡単な話さ。純子と別れろ。それで、鏑木と結婚するんだ」
「は、…………純子と? 別れる……?」
 硬直するはじめを露ほども気にかけることのない様子で、公貴が淡々と続ける。
「俺が独り者ならもらってやれたが、現状では難しい。だが幸い鏑木はまだ独身だ。彼に会って話をしたんだろう。好きだと、言われたんじゃないのか?」
「そんな……」言葉が出ない。「……鏑木を、利用するみたいな……」
「結婚は、所詮利害の一致による契約関係にすぎない。鏑木はおまえに好感を抱いていて、おまえは財力に富んだパトロンを求めている。言っておくが、あいつは半年で俺の年収の倍近く稼ぐぞ。ウィン・ウィンだろう」
「……できない……、わたしには、純子と別れることなんて……」
「他にも選択肢はある。今なら、妊娠を諦めることもできるし、認知の上で俺が引き取っても良い。よく考えて決断しろ。時間はまだ残されている」