2022年7月4日




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 不動アキラは十八歳、高校最後の夏、部活動で長らく世話になった男性の友人に恋をしてしまったことがすべての始まりだった。平成初期の当時、まだ同性間の恋愛は差別と偏見の対象であり、幼い頃からその価値観を何の疑問もなく受け入れていたアキラにとって、自分がゲイであるかもしれないという疑念は強い恐怖を生むものだった。
 アキラはその友人を徹底的に遠ざけたが、それでも、誰かと話して嬉しそうに笑ったり、照れて顔を赤らめたりする彼の姿を見ていると、若い心はやるかたのない愛着に頼りなく揺れるのだった。普通の男がそうであるように、自分以外の人間と親しげにしているところや、近い距離でのスキンシップに興じているところを見たりすると、嫉妬で全身の血液が燃えたぎるような感じがした。
 結局、耐えかねたアキラは、思い切って彼に愛を告げることにした。女々しくもラブレターを書いて彼の下駄箱に仕込み、校舎裏に呼び出して告白した。
 しかし……彼はすげなくその言葉を跳ね除けた。
「なんだよ、それ。気持ち悪りぃ」
 それが、アキラの覚悟に対する彼の答えだった。彼はアキラがよこしたラブレターを目の前で破り捨てると、自分にはもう愛する女性がいる、自分にも彼女にも、今後二度と近づかないでくれ、と、そのように告げた。
 残されたアキラに待っていたのは、果てしない絶望と悲嘆だった。大きく口を開けて待ち構えていた後悔という魔物に飲み込まれ、アキラはすっかり消沈してしまった。部活動も、その後の高校生活も、あらゆるものが取るに足らない、つまらないもののように思われた。
 アキラは自分の生まれ持った性質を呪った。ウェルテルやトリスタン、薫の君、その他さまざまの恋に敗れた男たちを思い浮かべ、自らの苦悩を飾った。
 そんなとき、寡黙で、普段はほとんど言葉を交わすことのない父が、アキラの肩をそっと叩いた。

 父の名を知らずとも、父の青春の名を知らない人間は少ない。
 一九七〇年台前半、ハードロック・ブームの魁を切る形で現れたロックバンド、<サティスファクション>が世界中で絶大な人気を博した。
 メンバーは四人、みな二十代前半の若い少年たちで、そのルーツをニューヨーク最大のスラム:サウス・ブロンクスに置いていた。貧しい彼らはまっとうな教育を施されることなく長じたため、旧来のクラシカルな音楽性を持たず、当時としては非常に斬新で奇抜な演奏を得意とした。その結果、若年層を中心に大きな支持を獲得し、その勢いはメジャーデビューから一年も経たないうちにローリング・ストーン誌の表紙を飾るほどにまでのぼった。
 いまだに信じられないが、父はその伝説的なバンドのメンバーだったのだという。
 アキラは、そんな父を長らく避けていた。もう何年も口をきいていなかったし、父の方からも、アキラと関わりを持とうとする様子を少しも見せなかった。彼がニューヨークで育った日系アメリカ人で、日本語があまり得意でなかったことや、今でも衆望を集める彼に近付かんがためにアキラを利用しようとする人が少なくなかったこともあって、思春期の心は父から離れてしまっていたのだった。しかし、驚き動揺するアキラを見つめ返す父のひとみは、昔と変わらず、息子への果てしない愛情と思いやりに青く輝いていた。
 こわばって灰色に落ち込んだ心は、その優しい眼差しにほんのりと熱を持ちはじめた。
 父は、アキラの手を引いて、暗い部屋から連れ出してくれた。ベランダに並んで立ち、仄かに薄明の訪れを予感させる東天と、その中に浮かぶ豊饒の星々を望んだ。むっつりと黙って視線をかなたへ投げかけていた父が、ふと、こちらを振り返る。その目が何かを訴えかけてくる。思わず首を引く。
 アキラを真っ直ぐに見つめながら、父はこんな話をした。


 ユウセイ・フドウというのがおれの名前だ。日本人の父親がビジネスをしにニューヨークにやってきて、現地の母親と出会って、そうして生まれたのがおれだ。幸せな赤ん坊だったと思う。父の思いは幼い息子に真っ直ぐに注がれていたし、母の手の温もりはとても優しかった。
 でも、おれがまだ三、四歳の時、両親は自動車事故に遭って死んだ。即死だった。後部座席で、ゆりかごに乗せられていたおれだけが、炎上する車の中から助けられた。
 異国の地におれの居場所はなかった。警察は今よりずっと無慈悲なやつらで、簡単な身辺調査の後、放り出されたおれは孤児になった。物乞いも盗みもやった。まだ母親の腕が慕わしい年頃の子どもが一人で生きてゆくには、ニューヨークはあまりにも過酷な街だった。
 ある日、地下鉄の無人駅でダンボールにくるまって寝ているおれを、数人の男たちが抱えて地上に運び出した。やつらは人攫いだった。物好きのコレクターの慰みものにするためか、ストリートギャングの”一兵卒”にするためか、目的はわからないが……口を塞がれて、車に押し込まれて……どこか違う場所について、男の一人がトランクを開けた隙をついておれは逃げ出した。でももうそこは住み慣れた”ビッグ・アップル”ではなかった。
 サウス・ブロンクス、ニューヨークの辺獄。五十年代から六十年代にかけて、豊かだったその地は馬鹿げた政策の余波でスラムと化していた。その、ギャング、酒、ドラッグ、死、あらゆる不幸がすぐ鼻の先にある恐ろしい地でも、おれは一人で生きた。生きること、生きたいと思うことが、その時のユウセイ・フドウそのものだったんだ。

 一人暮らしは、概ねうまくいっていた。モット・ヘブン地区のヒスパニック集団がとても良くしてくれて、食いぶちに困ることはなかったし、なにより、まだ子どもだったから。だが、六歳かそこらのとき、高熱が出てどうしようもなくなったことがあった。
 雨のせいで身体は冷え切っていたし、汚染された砂が巻き上げられて気管を汚した。身体が動かなくても腹は減った。最初のうちは恐怖と孤独で震えが止まらなかったのに、意識がぼんやりしてくると、そんなことはもうどうでも良くなってくるんだ。熱と、寒さと空腹がごちゃ混ぜになって、真っ黒な、タールの色をした放心になる……その上に、何かもやもやした形の穴がうっすらと開いてきた。それは死の予感だった。
 おれの心臓は生きたいと、そう叫びながらビートを刻んでいた。それなのに、身体は、予感に覆われてもうすっかり諦めてしまった。人間は、何か大きな、抗い難いものを直感したとき、自然に膝を折ってしまうようにできている。そのほうが、楽に生きられるからだ。おれも例外ではなかった。
 でも、それを良しとしない誰かが、死にかけのおれの手を引いた。
 それが、ジャックだった。
 おまえも知っているだろう、ジャック・アトラス、<サティスファクション>のベーシスト、おれの生涯の戦友。でも、そのときはまだ、お互いただの孤児だった。
 ジャックは雨の中道路に仰臥するおれを見つけると、小さい身体で必死におれを背負って、自分のねぐらに連れ帰って一晩中看病してくれたらしい。看病といっても、ろくに教育を受けてこなかった子供にできることなんか高が知れている。濡らしたタオルで身体を拭いて、ゾウムシの幼虫を口に押し込んで、夜にはくっついて寝て、体温を移す、それくらいのものだ。それでも、おれにとって、物心ついてから初めて受け取るきちんとした愛情だったんだ。
 朝になって、目を覚ましたおれは、嬉しそうに覗き込むジャックの顔を見た。雨上がりの明るい光に、ジャックの笑顔がきらきらかがやいて眩しかった。そのときから、おれは……ジャックを愛してた。
 そう、おれはジャックを愛していた。この国の人たちは、男性と女性が愛し合うことが正しいとみな口を揃えて言うが、一人で生きてきたおれにとって愛はジャックの形をしていた。ジャックはおれに音楽を教えた。市場で売り叩かれていた、ジャックの宝物のギターを、二十五セント硬貨で弾いて弾くんだ。
 やがておれたちはクロウ・ホーガンに、カリン・ケスラーに出会った。小柄なクロウはありとあらゆる瓦礫を集めてきてはドラムにしてしまう天才だったし、お調子者のカリンは歌とピアノが誰よりもうまかった。ギターとベースが違う楽器なのだということも、カリンが教えてくれた。ジャックがどこからか古いエレキベースを盗んできた。四人でロックをやった。
 おれが十八のとき、四人の青春は<サティスファクション>という名前のロックバンドになった。<サティスファクション>が有名になって、おれたちはようやく、一人ひとりの人間としてこの世に生を受けた。ユウセイ・フドウは、生きることへの渇望という不定形のものから、一人の人間になったんだ。それと同時に、おれとジャックの関係もまた、形をもった文化的なものに変容しようとしていた。
 ある日、好きだと言ったら、彼はキスもハグもセックスも全部おれにくれた。
 幸せだった。
 
 <サティスファクション>の勢いは止まるところを知らない。おれたちはサウス・ブロンクスのクズから世界のスターに早変わり、清潔な家も旨い料理も、女の子からの投げキッスも、全てのものが瞬く間に満ち足りた。おれたちは正式に事務所と契約を交わし、定期的な収入を手にし、アルバムを出し、おれたちを求めるファンの声に応えて海の向こうにも演奏しに行った。もう誰もおれたちを孤児と呼ばなかった。
 だが、躍進も長くは続かなかった。カリンがエイズで死んだんだ。<サティスファクション>の栄光も最高潮に達しようとする、まさにそのときに。
 二十一歳になったばかりのおれは、カリンの死を心の底まで受け入れることができなかった。直前まで、おれたちはカリンがエイズだなんて知りもしなかったんだ。
 やつはきっと、死ぬまでずっとロックをやりたかったんだ。ホスピタルに押し込まれて、訳のわからない薬を打たれながら死んでゆくのが嫌だったんだ。何年も一緒に苦楽を共にしてきた仲間の思いが、おれたちには手に取るようにわかった。わかるからこそ、手遅れにならないうちに気づけなかった自分を、おれは憎んだ……。
 結局、おれたちはロックを止めることになった。ボーカルを失ったロックバンドなんて、石のついていない指輪のようなものだ。カリン以外に<サティスファクション>のボーカルはいない、というのが残された三人の共通認識だったから、バンドの瓦解は自然な成り行きと言えた。
 青春は過ぎ去った。それでもジャックはおれのことを好きだと言ってくれたが、おれは……。……ただの人間になってしまったおれは臆病だった。疲れていた。おれはジャックを振った。
 愚かなおれはジャックをメキシコ料理の店に呼び出し、緑色のワカモーレを奥歯で噛み潰しながら、ジャック、別れよう、と言った。その声があまりにも平坦で、冷え冷えして、おれは卒倒しそうな気持ちがした。だが、ジャックはそうではなかった。怒ることも、泣くこともせず、竹編みの椅子の上にしゃんと佇んで、ジャックはおれの顔を見た。ゼログラフィが文書を正確に写し取ろうとするみたいに、おれの顔のあらゆるパーツ、おうとつ、額のふちから顎の先に至るまでを、見た。
そのときの、ジャックのきれいな目を、おれは罪悪感とともに強く記憶に刻んだ。きっと生涯忘れることはないだろう。やがて彼はおれから視線を逸らして俯き、顎を軽く引いて、小さな子猫みたいに頷いた。

 ジャックのことを忘れたくて、おれは結婚した。女性なら誰でもよかった。ジャックのことを忘れられたらそれでよかった。その人は、<サティスファクション>が海外ツアーで日本を訪れたときに、落としたハンカチを拾ってくれた人だった。小柄で、綺麗というよりはかわいい人で、笑うと頬の上に小さな笑い皺ができるのが魅力的だった。何もかもジャックと違ったから安心できた。結婚式は父の故郷の小さな町で挙げた。すぐにおまえが生まれた。
 今はとても幸せだ。母さんのことも、おまえのこともおれは本当に愛している。だが……それでも、ジャックを、あのあと、誰にも別れを告げずに姿を消してしまった美しいジャックのことを、おれはいまだに忘れられないでいる……


 言い終わらないうちに、父はアキラから視線を外し、夜明けの空を眺めた。地平線から溢れ出した朝の光が、父の、老いに流されゆく男の横顔のあまねくを白く照らした。
 父の告白は、アキラの苦悩への答えでも、ヒントですらもなかった。彼はただ、自分の中に長らく渦巻いていた後悔を、一思いにアキラにぶつけただけだった。
「軽蔑するか」
 そう問いかける声は低く引き絞られて、掠れている。
「おれは、弱いんだ。おれの恋も弱かった。結局そんなものは幻想にすぎないんだ。ひとときの、名前のない激情を何か美しい言葉の中に当てはめて、勝手に満たされる人間のエゴだ。おまえを悩ませる価値もないものだ。だが、おれは……それでも……」
「父さん」
 アキラが、皺の増えた大きな手を一思いに握り込めると、父は力なく笑った。肩をすくめる仕草に、深い倦怠が滲んでいる。
「アキラ、おまえは後悔なんてするな。おまえの意志が、選択が、間違っていたなどと思うな。目を逸らさず、信念を持って突き進むことができれば、いつかそれは本当になる。おまえは、今のおまえのままでいいんだ」

 翌日、アキラは学校に行くことにした。
 教室に入ると、クラスメイトたちがひとときこちらを一瞥し、またすぐに各々の世界に帰ってゆく。窓際の席、愛した男が忌々しげに視線を逸らすのを、アキラはとても静かな気持ちで眺めた。