2023/06/10

 


 もうシルバーとは関わるまいと思い、実際そのように立ち回っているはずなのだが、ゴールドにはどうしても彼に振り回される宿命があるようだった。転入一ヶ月めにして彼は疲れ果てていた。ウォルナットの長テーブルに突っ伏してうめく。並べておいた鉛筆の一本が肘に打たれ、テーブルをコロコロと転がって落ちた。
「大丈夫? はい、落ちたよ」
 白い腕が伸びて鉛筆を拾ったかと思えばクリスだった。丸襟に青いリボンを几帳面に結び、ジャケットの胸元には金の薔薇を誇らしげに輝かせて、彼女は今日もきれいだ。柔らかそうな指が鉛筆を丁寧に揃えて置いてくれる。近距離で揺れる黒髪から南の花の香りがする。
「おう、ありがと……」
「どういたしまして。隣、いい?」
「ん」
 同意を得て、彼女はゴールドが詰めて開けた席に座った。美術史の教本、ノートが二冊、木製の筆箱の中に筆記用の鉛筆が三本、消しゴムが一つ。彼女が赤い方のノートを開くと、昨日の授業で取り扱われた、ゴッホがなぜ耳を切り落としたのか、ということについてのメモがびっしりと取られているのが見えた。文字ばかりでらくがきもないのに、白い紙面が黒く見えるほどだ。
 クリスは堅苦しすぎるところもあるが、快活でやさしく、真面目な女の子だ。彼女を好きになれたらどんなにいいだろうとゴールドは考えた。しかし、目を閉じれば浮かんでくるのはいけすかないシルバーのすました顔、男のものを握ってかすかに震える手指、ミミズ腫れが浮き上がった太腿の皮膚、熱く潤んだ瞳……毎晩のように見る夢、つまり、彼がこちらに向かって、好きだ、と囁く夢。意識から追い出そうとすればするほど強く感じられる空想のために、ゴールドは唸った。
「ゴールド? なんだか元気ないわね」
 クリスの手のひらが伸びてきてゴールドの額に触れる。ひやりとして冷たい。
「熱はないみたいだけど。具合悪いの」
「いや、オレは……シルバーのやつがよ」
「シルバー? 彼がどうしたの?」
「……なんでもねえけど」
 教室の前方扉が開き、長い赤毛の彼が入ってくる。一人だ。美術史は学年ごとに授業が行われるから、つるむ上級生がいないのだ。つんとして歩く横顔をなんとはなしに眺めていたら、ふと目があって心拍が跳ねた。彼は……ほのかに笑い、こちらに手を振って寄越してきた。
 ゴールドが入学式のミサで見たのとも、いつも上級生に振り撒いている愛想笑いでもない、心からの笑顔だった。なんの打算も突っかかりもなく、ただ親愛のためだけに、ふと口角が上がってしまったというかんじだった。一瞬、ゴールドは彼が自分に笑いかけたのだと思い、反射的に笑顔を作ろうとしていた。しかしすぐに何かがおかしい。ゴールドは彼と親しいどころか歪みあってすらいるのではなかったか。理由はすぐに知れた。クリスが満面の笑顔で彼に手を振りかえしているではないか。
 シルバーの方もクリスの隣にゴールドが座っているのを見つけ、途端に眉間に皺を寄せてそっけなく顔を背けた。ゴールドの短気な頭はそれだけでも理性の糸を二、三本、ぶちぶちと引きちぎる。腰を浮かせかけた彼を、しかしクリスの手が引き留めた。
「もう授業が始まるわ、どこに行くの」
「止めるなクリス、あいつ一回とっちめないと気が済まねえ」
「あいつって……シルバーのこと? 彼が何をしたっていうの」
「オレから目ェそらしやがった」
「あら」クリスはさも奇妙なものを見つけたとばかりに目を丸くし、一拍置いて控えめに笑い始めた。「なんだか、ゴールド、あなたわたしに嫉妬しているみたい」
「嫉妬ぉ?」
「わたしばかりに彼が愛想良くするのが気に入らないんでしょ?」
「ばか、ちげえよ」
 ひどく裏返ったゴールドの声は鐘の音にかき消された。教諭が入ってきて生徒たちは途端にしずまりかえる。
 六限の体育の授業ではこんなことがあった。体育館に更衣室が設けられているのに入り、上下白の体操服に着替えていたところに、例の赤毛が入ってきた。彼もこの時間に授業を受けるのだ。
「きついぜ、彼氏……こんなとこでも一緒かよ」
 ジュリアンが小突くのも構わずゴールドは大声で独り言を言ったが、彼は知らぬ存ぜぬといった様子でジャケットを脱ぎ、リボンを解いた。シャツのボタンを上から順番に外し、肌着もすっかりとってしまう。ゴールドは息を飲み、知らず知らずのうちその姿に見入っていた。ひどく掴めば折れそうな白い喉元、細く頼りない手首、汗ばんでいる……無駄な肉は一片もなく、痩せぎすにひきしまった半身、月魄の皮膚に、鳥が小さく啄んだような赤い傷が無数に散っている。
 あの傷はなんだ? シルバーがシャツのかわりに体操着を羽織ったところで、ゴールドはふと我に返り彼から目をそらした。鼓動がうるさい、心臓どころか、その他多くの内臓が喉まで迫り上がってきたような感じだ。キスマーク? 違う、あれはそう、煙草の火を押し付られたあとだ……。
 漫ろ心のままぼんやりと着替えを終え、ぼんやりと柔軟運動を始めた。あとあとジュリアンに聞いたところだと、そのあいだにルッツやエルマが何か話しかけてきたらしいが返事を返した覚えがない。ただ白の体操着を着て長い手と長い脚とをストレッチしているシルバーを遠目で見ていた。やったのは……きっと上級生たちのひとりだ、いつかも煙草を吸っていた……だがいったいなぜ? それほどの仕打ちを受けて、なぜ誰にも助けを求めない? ぼうっとしているうちにサーベルを握らされ、ぼうっとしているうちに同級生のほとんどを突きアロンジェう負けさせているゴールドだった。別のところでシルバーも鮮やかに勝ちを決め、ふたりは体育館の真ん中で打ち合うことになった。
 銀色に輝くサーベルを構え、シルバーは不敵に笑った。ゴールドがそれに驚く間も無く、「準備はいいかエト・ヴ・プレ?」「よしウィ」——剣戟の間合いに飛び込んでくる。金属の剣先が擦れあう軽やかな音、一、二、ゴールドは後ろに飛び退いて体勢を立て直そうと図るが、シルバーはすぐに距離を詰めてくる。ロンぺ・ドゥ、ボンナリエール、ロンぺ、……彼が突いてきたのをかわす! 払って突く! 立て続けに繰り出される技に観客衆がいちいち声を上げて反応する。まずいな、ゴールドは独りごちる、ぼうっとしてたら、本気でいかなきゃ負ける!
「どうした、来ないのか!」
「まだまだ……! 手前みてえなおとこおんなに負けてたまるかよ!」
 態度こそ強気だが、ゴールドはシルバーの刃に確実に追い詰められていた。ようやっとそれを避けて反撃の一太刀を浴びせれば、彼はやすやすとそれを払い、もう一撃、さらにもう一撃、と繰り出してくる。息をつく暇もないほど素早く容赦のない攻撃、重く、鋭く、何より速い。ゴムが解け、長い赤毛が宙に舞い散らばる。そこに目を取られた一瞬の隙をついて、冷たい刃先が首の皮膚に肉薄する!
「……っぶねえ!」
 そのとき、重心を落としてがむしゃらに突き出した一撃、それがシルバーの体操着の襟を潜り、中のものを引き摺り出した。ネックレスだった。ばちんと嫌な音とともにチェーンがちぎれ、遠心力を離れた金のロケットが放り出される。サーベルを落としたシルバーが追い縋ったが、それは細い指先にあえなく取りこぼされ、鈍く重い音をたてて地面に転がった。蓋が外れる。写真が入っている、黒髪を後ろに撫で付けた黒い外套の男——どこかで見覚えがある——と、赤毛の、線の細い感じの女。それが誰なのか見当をつけるまもなく、シルバーの指がチェーンもろともを手のひらで隠した。
やめアルト! 右の勝ち!」
 念願かなって勝ったというのに、何も言えず、ゴールドはうずくまるシルバーを見下ろした。震えていた。俯いた横顔、歯で強く噛んだために唇が切れて血まで滲んでいた。
「謝った方がいいでやんすよ」
 おずおずと、ゴールドの後ろからジュリアンが言う。
 六限目が終わり、鐘が鳴ると同時にシルバーは体育館を飛び出して行ってしまった。結局ゴールドは彼になんの言葉もかけてやることができなかったが、彼の去って行く後ろ姿を見てようやく、謝らなければという観念に駆られた。荷物や衣類を半ば強引にジュリアンに任せ、ゴールドも駆け足で彼を追った。ホッケー場とフットボール場の間を抜け、走る車を無理やり止めて車道を渡り、ぶどう畑の脇を過ぎた。だがよほど足が速いらしく、例の赤毛はどこにも見当たらない。辺りを見回しながらふと、左手側、庭園の近くで誰かが泣く声を聞いた。
 うっすらと淡い桃色を帯びた秋ばらの茂みの中で、シルバーが泣いている。膝をつき、ちぎれたネックレスを胸の前に抱き寄せて、赤い髪をくしゃくしゃにしながら……嗚咽している……手のひらで涙を拭う、彼らしくない繊細な仕草に、ゴールドは激しく動揺した。胸に込み上げる謂れのない感情のままに右足を踏み出し、一歩、彼の薄っぺらい肩を抱こうとして……誰かいる? 立ち止まり目を凝らした。
 女の腕が彼の首にまわり、やわらかい胸に引き寄せた。長い栗毛に青い目の女、ワンピースにジャケット、青いリボンの取り合わせで学園の、おそらくマリア館の女生徒とわかるが、ゴールドには見覚えがない。シルバーは彼女にねんごろにされていよいよひどく泣き、その背にしがみついて甘えるように擦り寄った。午後の淡い山吹色の光が重なり合う葉の間から差してきて、抱き合う男女を神聖なものにした。言葉もなく立ち尽くすゴールドだった。シルバーはあの彼女のことを好きなのだろうか? あんなふうに恥も外聞もなく涙を流したり、抱き合ったりするくらいには?
「さあ立って」彼女は鈴を転がすような声でやさしく言った。「まずは落ち着きましょう。それから何があったか聞かせてちょうだい……」
 泣き腫らして目ばかりを赤くしたシルバーが顔を上げた。肯き、促されて立ち上がる。頬にはまだ涙の跡が残っている。ゴールドの中で何か張り詰めていたものがふつんと切れた。

 ゴールドは大股で夕暮の回廊を渡る。彼の威圧にすれ違う上級生たちが怯えるほどの気迫で、肩で風を切って歩く。
 図書室は光の差さない北棟の一階に位置する円環の大広間である。ロココ様式の図書室によく見られる、入口から壮麗な装飾と高い天井の室内全体を見渡せる作りになっており、波打つように広がるバルコニーとそれを支える大きな円柱、金の柱頭、美徳と学問を表現する四つの男女像、すべてが彩色された大理石でできている。天井のフレスコ画は後期バロック時代の画家パウル・トリーガの贅を凝らした作品、正面カウンター奥の書架には隠し扉があり、中の螺旋階段を使って上階の回廊に上がることができるようになっている。
 その図書室の、大きな両開き扉を、力一杯に押し込んで開いた。
 古いロシア文学をめくりながら、シルバーは肘をついてカウンターに座っていた。緑地に金地の腕章、図書委員の証が、左前腕に誇らしく輝いている。キャンドルランプの橙色の明かりばかりが彼の彫りの深い顔をほのかに照らし、そのおうとつや、まつ毛の繊細な輪郭な形をつまびらかにしている。
「何か用か」
 彼はゴールドの顔を一目見るなり、眉をぎゅっと寄せて不機嫌そうな顔つきになった。
「おう、積もる話がよ」
「いちいち絡んでくるのをやめろ、オレはお前になんの用もない」
「そう言うなって、同窓生だろつれねえな。あいつらにはねんごろにしてやってんだろ? オレにだけってえのは不公平じゃねえか」
 彼の銀の目と視線が合い、刹那、二人のあいだに青い火花が散った。気に障ったようだ、鋭くすがめた目つきに不満の色がありありと見てとれる。ゴールドは知らずのうちに早まる心拍を持て余す。彼は腰を浮かしかけたのを落ち着け、下からゴールドのことを見上げる格好になった。
「簡潔に済ませろ」
 吐き捨てるように言う。
 ゴールドは咳払いをして、自分の喉がからからに渇いてひりついていることを意識した。息を整え、唇を舐めて湿らせる。ごめん、謝るつもりで来たのだ、たった一言簡潔に。
「手前はよ……男に掘られてアンアン言いやがるいけすかねえ男めかけだが、見直したんだぜ、なあ。まさか女がいたとはな」
 しかし口をついて出たのは、まったく予期しなかった一言だった。
「は?」
「惚けんなよ、きれいな姉ちゃんじゃねえか。おっぱいデカくてさ……」
「何を言ってる」
 質問の形を取りながらも、彼の声は低く、これ以上言えば容赦はしないと、そういった気風である。ゴールドは途端に浮上する自分の機嫌を知覚した。シルバーが見ている、オレを、オレの言葉にいちいち気を逆立てて反応している。愉悦にも似た興奮が湧き上がり、彼はさらに声を高めた。
「茶髪に青い目の、あの女だよ、好きなんだろ?」
「知らない、好きじゃない」
「嘘つくなって、オレ見たんだぜ」
「いい加減にしろ」
 シルバーが一瞬、息を呑むのがわかった。唇が引き結ばれ、険しい顔つきで睨みつけてくる。それでもゴールドは止まらない。
「だが笑っちまうぜ、手前よ——おかまのくせに女のこと抱けんのかよ!」
「……貴様!」
 瞳孔が収縮する。
 カウンター越しに襟首を掴まれ、力任せに前に押し倒されてゴールドは大理石の床に強く身体を打ち付けた。声を上げる間も無く、カウンターから出てきたシルバーに馬乗りで押さえつけられ、握った拳が持ち上がったかと思えば、刹那、脳みそがかき混ぜられるほど強い衝撃が頬に訪れていた。殴られた、頬ぼねが砕けるほど激しく! 抵抗を許さずもう一発、口腔内の粘膜が歯に擦れ、鉄にも似た血の味が舌の上に広がる。シルバーは息をつく暇もなく、続けて二、三発、反撃しようとして上げた右手は簡単に捕まり、今度はみぞおちに膝が突き刺さる。喉が詰まって呼吸ができない。手前、言葉は形になることなく喘ぐような嗚咽に変わる。
 まるで自分が殴られているかのような悲痛な顔で、シルバーは抵抗するゴールドを蹂躙した。薄い瞼からこぼれた涙が頬につたい、そのことに、ゴールドは抵抗も忘れてしばし呆然とした。運悪くその場に鉢合わせた女生徒が悲鳴をあげる。他の生徒たちが悲鳴を聞きつけて慌てて集まってくる。本校舎から駆けつけたジークフリートは顔を血まみれにするゴールドを一目見て鋭敏に事態を把握し、シルバーに背後から飛びかかって羽交い締めにした。
「何をしている!」
「殺す——殺してやる! 貴様だけは許さない!」
「シルバー!」
 シルバーは暴れてジークフリートを振り払おうとするも、長身の、大人の彼の腕力にはとても敵わなかった。じれったくその場で身悶えた。ゴールドの方はというと、口の中に溜まった唾液を床に吐き捨て、唇の端に滲んだ血液を拭って袖口になすりつけた。顔を上げ、涙を流し続けるシルバーを見上げる。失敗した、冷えた頭でそれだけを思った。要するに、シルバーを愛していたのだ、ゴールドは。誰にも渡したくなかった。そしてその、未熟な恋のために、愛するその人を深く傷つけた。