2022/12/18

 

 

 とある科学者が、人間という生物の脆弱さを嘆いた。
 人間は生物の中でも特に高度な知能を持った種族だ。彼らは五百万年前に種としての地位を確立してからというもの、さまざまな文明社会を築き上げ、その繁栄を極めてきた。だがその一方で、彼らは非常に脆く、病や損傷などで簡単に損なわれ、その果てには死という抗い難い結末に否応なく巻き込まれる運命にある。有史以来、この絶対秩序にほころびなど一つもなかった。高名な学者も、徳の高い慈善家も、例外なく傷つき、例外なく死んでいく。これこそが、人類がいまだに完全な幸福を手に入れられない唯一にして最大の結論だ。科学者はそう結論し、自らの手によってそれを是正しようとした。
 科学者は、自分のもとで働いていた既婚の女性研究者たちを言い包め、彼女たちの子宮からまだ分化も済ませていない受精卵を採取した。そして、他の生物のリボゾームを高圧ガスでそれらに撃ち込み、転写を行わせ、人間と他生物の特徴を受け継いだ新しい人類を生み出そうとした。トゥアラタ、赤ウニ、ミル貝、ホッキョククジラ、ガラパゴスゾウガメ、(規制)、カイロウドウケツ。受精卵はそれぞれ培養槽の中で厳重に管理され、細胞分化を進行させていったが、みな胚盤胞の段階に差し掛かると同時にネクロシスを引き起こし、自壊していった。
 その中で唯一胚盤胞段階を乗り越え、一個の生物としてこの世に誕生するに至った個体がいた。(規制)の遺伝情報をその身に宿したメスの個体だ。

 ……淡い緑の、冷たい水の中で目を開けた。最初の記憶だ。
 足元から立ち上る泡がいくつもいくつも弾けて、水に融けて消えていく。
 わたしは裸にされ、手や足にわけのわからない機械を取り付けられて、厚いガラス越しにその人の顔を見下ろしていた。人間という生き物は、水の中ではうまく物を見られないものなのだというけど、わたしは特別。<わたしたち>は、人魚だから。人間でも魚でもない、神に聖別された神秘の生き物。だからわたしを見上げる瞳が左右ちぐはぐな色に輝いていることも、煤だらけのシャツの下で呼吸する身体が男と女のどちらでもないことも、その人がもうずいぶん疲れていることも、分かった。手のひらをガラスにくっつけると、その人も柔らかそうな右手を差し出して、同じ場所に触れた。
「このままじゃあいつがかわいそうだ。だからお前には、早々に自分を取り戻してもらうぜ」
 華やかで冷たい、美しい顔が笑う。
「不思議なことじゃないだろ。オレたちは基本的に人間の味方だ。物理的に相容れないってだけで」
「……?」
「言葉、わかるか? 自分が何者かわかるか。思いだせ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ」
 彼女の目に見つめられると、神経を素手で掴まれたみたいに全身が痺れて、息ができなくなった。今までわたしの身体を気ままに支配していた<わたしたち>が悲鳴をあげる。細胞の奥の奥、核小体の中に潜り込み、自分たちを見透かす何者かの視線に怯えている。
 その人が、手の中に指をぎゅっと握り込める。
 その瞬間、わたしの心臓はかつてないほど強く、激しく震えた。左心室に緩慢に滞留していた血液がごうと溢れ出し、激流に押し流されて、隠れていた<わたしたち>が細胞を離れ拡散した。わたしという実体が発生してからというもの、常に耳の裏で繰り返されていたまじないも自我の中に薄れていく。視界がクリアになる。
 思い出せ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ。
 ガラスにつけた手のひらの上に意識が収束したと思ったら、わたしと彼女を阻んでいたそのツルツルした壁の表面に大きくヒビが入り、一呼吸ののちに音を立てて弾け飛んだ。拘束具が、まるで土で作った偽物だったかのように、バラバラに崩れ落ちた。培養液があっけなく流れ出し、彼女の立つ白いタイルの床を満たしてゆく。
 手を引かれ、わたしもその上に降り立った。
 狭く小さなその部屋は、正面に据えられた大きな液晶モニターだけを光源とし、薄暗く、陰気な気配で満ちていた。右手にはさまざまな種の幼体の剥製が保存された瓶詰めの並ぶシェルフ、左手には大小無数の試験管やビーカーの収められたキャビネット、雑に束ねられた資料の山。背後にあるのは、この五年間、わたしを囚えていた、そしていま、粉々に破壊されるに至った巨大な水槽の残骸。すぐにわかった。ここは誰かの研究室で、わたしはついさっきまで、その誰かの実験動物だったのだ。神秘を隷従させようなどと、よくもそのような傲慢を抱いたものだ。
 警報が鳴り響き、にわかに外が騒がしくなる。正面の扉から転げ込むように白衣の男が入ってきて、わたしを見るなり、情けなく悲鳴を上げた。この人がわたしの創造主? なんて弱くて、矮小で、壊れやすそうなんだろう。解き放たれた解放感のままに手を伸ばし、右に捻れば、触れてもいない男の首が後ろに歪んだ。頚椎神経がまとめて潰され、手の中でぷちぷちと音を立てる。
 咀嚼すると、甘くて、酸っぱい味がする。人間の命の味だ。わたしの全身に回った<わたしたち>は、その甘美な舌触りに歓喜する。もっともっと味わい尽くせという。
「なあ、もういいだろ」
 わたしの肩を掴み、後ろに引き寄せたのは彼女だった。
「人間は互いを食い合ったりしない。命を啜ったりもしない。これからお前は人間として生きるんだ、やつらのいうことにはもう耳を貸すな」
「あ、わたし……」
「行けよ。この扉から出てすぐ左に、お前の父さんと母さんがいる。オレの記憶がたしかなら、二人はお前を悪いようにはしないはずだ」
 彼女は裸のわたしに赤いジャケットを羽織らせてくれた。何か言う前に、背中を押され、廊下に追い出される。「こいつはオレが連れていく」死んだ男を左脇に抱えて、彼女はわたしに手を振った。
「ハッピーバースデー。おめでとう、百合子。甘くて幸せで苦痛に満ちた、楽しい旅の始まりだ」