2020年6月21日

A-2


 女は遊星のメルセデスに近づくと、恐ろしいほど自然な動作で、後部座席に近づき、乗り込んだ。つまり遊星は彼女のためにドアを開けてやったということだ。遊星は生まれてから今までそんなことはしたことがない。恋人がまだ遊星のところにいたときでさえ、彼女のために、どうぞ、なんて言って後部座席を開けてやったことなどなかった。十二月のキューバにしては太陽が強烈な比で、湿度も高く、暑さに慣れているはずの遊星も発展途上国の空港ならではのひどい混雑と無秩序な群衆の間を抜けてターミナルまで歩く間に、目がかすむほどの汗をかいてしまっていたが、彼女は違った。長袖の、手のひらを覆うタイプのブラックドレスと、黒のストッキングをはいているのに、一滴も汗をかいていなかった。そして、背筋をピンと伸ばして車の前に立たれれば、たぶん誰だってドアを開けるだろうという雰囲気があった。遊星は自分の、女のために愛車の後部座席を開けてしまった手と、ミラー越しにすました顔で発車を待つ女の顔を見比べて、ようやくアクセルを踏んだのだった。
 女のツーリスト・カードに載っていたホテルはカサ・クレマといって、スペイン資本の完成したばかりのところだった。海沿いのハイウェイを走りながら、遊星は彼女といくらか話をした。「中には何が入っているんですか」彼女の少ない荷物を見て、遊星が最初に切り出したのが、これだ。
「帽子だよ」
「帽子?」
「雨季が来ればここはずいぶん暑くなるだろう。日差しも強いし、皮膚によくない、ってヨハンが」
 無言で続きを促すと、彼女は遊星を見ないまま、ヴァラデロの海の青と水色がくっきり分かたれた、そのさかいにまなざしをむけたまま、言葉を継いだ。
「あとは羽織り。最初にここに来た時ヨハンがくれたの。おれたちはここに来るときまってヴァラデロにホテルを取ったけど、乾季は夜が冷えるから、身体を冷やしたりなんかしたらだめだ、って言って。どうせおれたちは夜が一番熱いタイプの人間だったし、羽織りはレースの穴だらけのやつで、そこまで使いやしなかったけど、いまはたぶん必要だ。あいつは自分がいなくなったときのことをちゃんとわかっていて、いつでも先回りしておれにものを買った。帽子もそうだ。帽子も、ブランケットも、眼鏡もコンドームもある」
「コンドーム」
「おまえみたいなやつと出会ったときのためだよ。ヨハンは、おれを抱くときにゴムなんかつかったためしがなかった、それはおれがあいつのものだってちゃんと理解していて、そのうえでさらに征服するためだ、貪欲な女の身体を、まるでアリでもつぶしてやるみたいな気軽さで、こうして」細い指が輪を作り、「こうする、そうするとおれが喜ぶんだってちゃんと知ってるんだ、あいつはばかなおれを愛してたから、愛してたかどうかはわかんないけどたぶんそうだ、おれが単純なことで喜ぶとあいつも喜んだ、十代、十代はかわいいなってそればっかり、でもいやじゃないんだ。愛してるからさ。そんなヨハンが、おれにゴムを買ってくるんだよ」
 女の眼もとは涙ではないなにかで光っている、女がヨハンのことばをしゃべるとき、つながれていた糸が切れるように、突然別人の顔をするので、メルセデスのエアコンはもちろん壊れていたが、汗が冷たくなっていくのがわかった。女はヨハンの声でしゃべる、知らないが、おそらくそうだ。遊星はおかしくなりそうだった。それははるか昔の日本映画を思い出させた。京都のフィルムセンターとかそういう場所でしか見られない、溝口健二小津安二郎といった、そういう映画だ。主演女優はくぐもった声で明瞭に力強く話す、それは昔のマイクロフォンの性能に原因があるらしいが、奇妙な迫力があって、耳にまとわりついて離れない、という声としゃべり方になる、気品があるのだ。しかしどこか狂っているようにも聞こえる。
「ヨハンは、いじわるなんだ。おれはあいつ以外見ちゃいなかったのに、あいつはほかの誰かを好きになるおれを見てたよ……」

 部屋はベッドルームとリビングルーム、キッチン、バスルームを備え、何十キロにもわたる美しいヴァラデロ・ビーチを望む、ここでもいちばんに高いところだった。遊星は彼女を送り届けてやっただけではまだ飽き足らず、ごくしぜんにパスポートとツーリスト・カードを渡されホテルのチェックインを済ませ、荷物を運びこむところまで済ませてしまった。彼女のパスポートの写真はいまと寸分たがわぬ、がりがりの痩せた女が写っていた。ただいまよりもすこし血色がよく、はにかんだ表情には少女の恥じらいというものが見て取れた。親しい誰かに撮られたものなのだろう。遊星はヨハンにカメラを向けられてはにかむ、痩せた少女の姿を想像してみた。彼女は上半身に大きなシャツを着せられて、それ以外なにも身に着けることを許されておらず、彼女の股の間では絶えずローターが振動して彼女を苦しめる。撮るぞ、とヨハンが言う、その声だけで彼女は絶頂してしまう。その横に、几帳面な字でサインが書かれている。ユウキジュウダイ。意外にも、彼女の文字は半年間通信教育でペン字を学んだまじめな受付嬢の書いたようだった。彼女はロビーでヨーロピアン模様の三人掛けソファに座っている。つばの広い帽子が海からの風に揺らされて、まるで呼吸でもしているみたいに左右に揺れているのが奇妙だった。渦を巻く天井の模様を眺めたりほかの観光客の挙動を観察したりしていたが、遊星がすべてを終えて彼女に近づくと、座った姿勢のまま右手だけを差し出した。遊星はその手を取って腰を抱いた。誰かに何かをやらせるしぐさだけが自然だった。
 遊星はふと、なんで俺はこんなことをやっているんだ、ギャラをもらわなきゃ割に合わないぞ、と思い始めた。ユウキジュウダイは部屋に入るとオーシャン・ビューのダブルを見渡して、素敵、と声を出した。素敵、という言い方だが、非常に特殊だった。言葉はその意味からだいぶ外れた語られ方をすることがあって、そのお手本みたいな発声の仕方だった。たとえば恋人のために少ない生活費を貯金して旅行をプレゼントした男がいたとして、その恋人がチケットを渡されたとき、今のような言い方で素敵、と言われたら、最悪の場合自殺するのではなかろうか。そういう言い方だった。遊星ははやいところこの女から離れて家に帰り、今度こそコーヒーを沸かして昼寝をしようと画策していたのだが、女の素敵、でその決意もだめになってしまった。彼女は人の決意をだめにする演技ができる、しかも、それを演技だと思わせずに。
「こっち来いよ」
 かろやかな声が、遊星をバルコニーへといざなった。ユウキジュウダイは白く塗られた竹編みの椅子に座って、また海を眺めていた。遊星は彼女の隣に座った。近くで見ると、薄く化粧を施された肌はぞっとするほどにすべらかで、日差しを浴びて皮膚の小さなしわ一つ一つが輝いて見えた。真っ白で小さな顔の中で唇だけが赤い。
 遊星はしばらくユウキジュウダイの顔を眺めていた。そして、彼女もまた、遊星の目を覗き込むように見返してくる。
「毎日海を見ている目だ」彼女がつぶやく。
 薄くすべらかな皮膚に覆われた、まるで今しがた作りあげられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのようなふたつのやさしい手が、遊星の鋼と油ばかりを味わってきた掌へとそっと滑らされた。いたわるようなしぐさで豆だらけの硬い肌を繰り返しなぞり、長い指先で付け根のあたりを愛撫して、握っては離れ、また触れ合い、ぎゅっと強くこすり合わされて、離れる。遊星は、見慣れたものより一回りほど小さなその手を取り、新雪のつんとした温度を思わせる真っ白な手の甲へと、自らの乾いた脣を寄せた。まるで気高い女王に下男が畏れてするようだった。女は途端に表情を厳しいものに変え、遊星の手を強く振り払った。
「悪いけど、帽子を置いてきてくれないか」
 なにごともなかったように帽子を脱ぎ、遊星に手渡す。そして、遊星がベランダから部屋に戻り、帽子をベッドの上にそっと置こうとすると、ヴァラデロ・ビーチが凍り付いてしまいそうな悲鳴を上げた。遊星はびっくりして心臓を抑え、何があったのかと振り向いた。
「ベッドの上に帽子を置くと死んじまうんだぜ」
 ユウキジュウダイはベランダからそう叫んだ。
「ああ、まだ置いていないんだな、びっくりした」
 びっくりしたのはこっちだ、と思いながら防止をライティングデスクに置いた。爆発物を扱うようにして置いた。
「おまえはあの映画を見ていないのか」
「映画?」
「ほら、『ドラッグストア・カウボーイ』だよ、あの映画の中でベッドの上に帽子を置いた女がヘロインの打ちすぎで死んだだろ?」
 その映画は見たことがなかった。そんな映画は知りません、と言ったが、ユウキジュウダイは海のほうに顔を向けて微笑んでいる、
「うそだよ」
 ユウキジュウダイはそんなことを言う。
「おれが女優だっていうの、嘘なんだ。なんてことない嘘だ。でも女優でいるあいだは本当に生きた心地がするよ、人間は普通に生きていても狂ってる、おれも、おまえもだ、ただヨハンだけがこの世でふつうだったんだ、ヨハンはこの世にあって天使みたいなやつだったからふつうでいられたんだ」
 彼女はまばたきをし、遊星のほうを一度も見なかった。過去のことを語ろうとするくせに、彼女は過去を見る目をしない。現代怒っていることか、未来にあるかもしれないことを見る目をする。そこにはふしぎな魅力があった。逆光で陰ったユウキジュウダイの横顔に、遊星は見入った。早く話を中断させて家に帰れ、そんな声が遊星の心のどこかで響いたが、身体はその部屋から一歩も動こうとしなかった。もっと彼女といっしょにいたいとさえ、遊星は思っていた、それはどこか倒錯的でマゾヒスティックな感情だった。
「ヨハンは、おれたちは、ヨハンは、ヨハンと一緒にいるときだけおれは人間でいられた。人間は普通は女優じゃないし女優でいなくても人間でいられる、でもおれは違う、おれは人間でも女優でもない、演技すればその両方でいた、ヨハンといるときは人間だった、なぜならそこにあいつの許容があったからだ。ヨハンはおれがなんであっても許してくれると言ったけど、あいつにはそうでないものもしぜんに人間にしてくれる力があった。おれは結局あいつに何もしてやれなかったけど、そういうふうに、おれたちの関係はみたされていた」