2022年7月5日

 

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 雨季のヴァラデロはすっかり南国の陽気だ。潮の強い香りに強い陽射とカリブ海からの湿っぽい季節風が混じって、じっとりと肌をなぶる。
 ファン・グアルベルト・ゴメス空港は、スペイン人の観光客や客待ちのタクシー運転手、土産売りの老婆なんかで、ジャングルの密林もかくやとばかりに混み合っている。この、発展途上国の空港ならではのひどい混雑と無秩序の間を抜けてターミナルに辿り着くまでの間に、アキラは目が霞むほどの汗をかいてしまっていた。彼は日本からここに来るまでに、ニューヨーク、フランシスコ、メキシコシティを経由したが、キューバの熱気はそのどれとも違っていた。蒸れた草むらの中に足を突っ込んでいるときに似た居心地の悪さに、アキラは眉を寄せる。
 約束の時間を五分過ぎて、迎車のタクシーがターミナルに滑り込んできた。
 黒のメルセデスで、窓越しに手のひらを上げたのはアフリカ系の男だった。予約の電話を入れたとき、やけに流暢な日本語を喋るので、てっきりアキラと同じ日本人なのかと思っていた。彼は車から降りることなくアキラを手の動きだけで呼び寄せ、後部座席に乗り込むよう指示した。
「ようこそ、ヴァラデロへ。あなたが不動アキラだね」
「ああ」
 不動アキラ、十九歳、男性。漠然とした、しかし非常に切実な若い衝動のために、大学進学を先延ばしにしてアメリカ大陸を一人で旅している。
 足元には小さなトランクケースが一つ。三日分の替えの洋服に大きな地図帳、野宿のためのテント、非常食、マッチ、日記帳、機内で購入した旅行雑誌、それから睡眠薬の瓶……乗り物酔いのひどいアキラにとっての命綱……中身はそんなものだ。彼は先にそれを持ち上げて座席の奥に押し込むと、自分も身をかがめて車内に乗り込んだ。
「オーケー、アキラ。よろしく。それじゃあシートベルトを締めて。ツーリストカードは持ってる?」
 アキラのツーリストカードを見て、男は承知したとばかりに頷き、再びエンジンをかけた。ツーリストカードにはヴァラデロ中心部にあるカサ・クレマというスペイン資本のホテルの名前が載っている。事前に手配しておいたところだ。初日はここで休み、明日からさまざまな遺跡や観光地を見に行くことになっていた。週末にはヴァラデロを出て、ハバナ、トリニダの方にまで足を伸ばす予定だ。このタクシードライバーは、アキラがキューバに滞在するあいだ、送迎とガイドを担当してくれることになっている。
 アキラが革の座席に身を預けたのを確かめて、男がメルセデスを発進させる。
 車はすぐに市街地に入り、そのうち海に出た。ヴァラデロはキューバの北東に伸びた半島の町だ。赤やオレンジの花が吹きこぼれるみたいにして咲く灌木、パステルカラーの眩しいスペイン様式の集合住宅、健康そうな栗毛の若駒が引く国旗色の馬車。二十キロ先まで続くカリビアンブルーの海に、青ざめた砂浜のコントラストが痛いほどまばゆい。うら若いヨーロッパ人たちが半裸になってビーチバレーに興じているのを、アキラは肘をついてぼんやりと眺めた。ため息が不意に溢れる。
 男は単調な直線の道路に飽きたのか、ハンドルから離した右手で車に備え付けてあるCDプレイヤーを操作した。聴き覚えのあるボーカルのロックバラードが、質の悪いスピーカーから流れ出した。つれない恋人の歓心を求め、嘆き悲しむ男の心をハスキーボイスで歌うのはカリン・ケスラーだ。
 <サティスファクション>のメジャー曲の一つだ。
「知ってるかい」男がバックミラー越しに歯をみせる。「キューバに一人で来るアジア人の男は、みんな失恋してるって相場が決まってるんだよ」
「……<サティスファクション>?」
「ファンなんだ」
 快活な笑い声。彼らのファンには旅の間に何度も遭遇してきたが、今回も、やはり誇らしくて胸がくすぐったくなった。間奏に入り、ワウペダルを踏んだような、煌びやかで無駄のないギターソロがやってきて、これ俺の父さんが弾いてるんだ、と何度も口にしそうになった。むずむずと膝をこすり合わせるアキラに、何か勘違いしたらしい、男はさらに声高に続ける。
「ここだけの話なんだが、オレは前に一度、ジャック・アトラスを乗せたことがある。この車にな」
「何だって?」
「住んでるんだ。ジャックが、この、ヴァラデロに」
 青天の霹靂だった。ジャック・アトラスが、ここ、ヴァラデロに住んでいる。かつての父の恋人、別れを告げられたあと、誰にも行き先を告げることなく姿を消したというあの人が。
 会ってみたい。

 無理を言って、ホテルよりだいぶ手前の市街地で一度降ろしてもらった。遠くはあるが、歩いて行けない距離ではない。家で妻と子が待っているという男には、ひとまずの暇を出しておいた。
 大通りが長い露店市になっていて、ヴァラデロ・ストリート・マーケットという立て看板がそこかしこに立っていた。連立する藁葺きのパラソルの間を、派手な色のシャツを着た観光客集団が多く行き来する。チェ・ゲバラという革命家の顔をプリントしたTシャツ、繊細なかぎ針編みのワンピース、雄牛の角、煙草、アルミ缶でできた車の模型、細やかに彫刻を施された黒珊瑚の置物、さまざまな土産物が、それぞれの物売りたちの前に所狭しと並べられている。果物や野菜の量り売りもあって、アキラはその中からココナッツを一玉、二ペソで買った。
 薄く剥いたココナッツにストローを刺し、中身を飲みながら歩いていると、出し抜けに、後ろから老人が声をかけてきた。節くれだった指や腕に色とりどりの宝石を付け、口に太いシガーを咥えた傴僂の老人だ。振り返ったアキラを見るなり、老人は、あんた、人を探しているのだね、とスペイン訛りの英語で言った。
「オレの知り合いにサンテリアのシャーマンがいる、あんたがもし人を、或いは他の何かを探しているのなら、彼に聞くのがもっとも良い手がかりになるだろう」
サンテリア?」
「ああ」
 サンテリアというのは、スペイン人の抑圧下にあったかつてのキューバ人たちが脈々と受け継いできた、シンクレティズム的な秘密宗教だ。多くの宗派があり、習慣、ルール、教義も多岐に渡るが、それぞれが独自の打楽器やリズムパターンそれに歌や踊りを持ち、毎年決められた時期に儀式を行う。そして、この儀式を通じて神や精霊に肉薄し、その声を直接聞いて他者に伝える者こそが、シャーマンと呼ばれる呪術師であるというわけだ。
 だが、アキラはサンテリアについてもシャーマンについても何一つ知らなかったし、彼らの名を騙って観光客をうまく利用しようとする詐欺師の存在にもさっぱり感付かなかった。老人の話は、異郷の熱気と雰囲気に巻かれて非常に魅力的なもののように思われた。
「どうやったら、その、シャーマンに会えるんだ」
 のぼせた声で、アキラは尋ねた。
 老人はもったいぶって散々アキラを焦らしたが、最終的に、鑑定料として百ドルを要求した。普段は紹介料も請求するのだがあんたは若いから、と、そのように付け足しもした。それはアキラにとって、容易に出せはしない価格だった。だが、出すのが不可能というわけでもない。
「オレはあんたを見てピンときたんだ。サンテリアの儀式は秘密のものだから、今後、あんたの気が変わっても、もう彼らに会うことはできない。今日限りだよ。せっかくのチャンスを逃したくはないだろう?」
「だが……」
「オレがあんただったら、そんなばかな真似はきっとしないね」
 アキラは迷ったが、結局、彼に金を渡すことにした。
 ココナッツを老人に預け、トランクケースから財布を取り出し、紙幣の枚数を数える。老人の目がその様子に熱心に視線を注ぐ。なんだかとても居心地が悪くて、一枚一枚を捲る指の動きが自然にゆったりとしたものになる。
……やにわに、強い力で腕を後ろに引かれた。
「言葉巧みに観光客を欺いて金を搾り取るのがペテンの常套だ。本物のシャーマンは客と会って対価を決める」
 毅然とした、風格のある男の声だ。混じり気のない、綽々たるアメリカンイングリッシュだ。
 目の前の老人は途端に慌て出して、小さく身体を丸めながら反論する。
「あ、あんたいったい何なんだ、何が言いたいんだ。取引の邪魔をしないでくれんかね」
「それは自分に問えばわかることではないのか、老人」
 アキラの耳の横をしなやかな腕が横切り、老人のゆったりとした服の襟元を掴み上げた。金や、オウムガイの羽で作ったカラフルな装身具がジャラジャラと音を立てて揺れた。アキラのココナッツは老人の掌を離れ、床に悲しく転がる。まだ八割残っていた中身が、乾いた砂の上に染み広がる。
 老人はすっかり腰を抜かしてしまって、なにやら声高に叫ぶと、這うようにして雑踏の中に消えていった。逃げ足に転ばされた子どもがわっと泣き出す。哀れなほどの醜態だが、無理もないな、とアキラは他人事のように思っていた。何せ、アキラの後ろに立っていたのは、二メートル近い長躯の男だったのだ。
 その人は……、四十過ぎの頃とは思えぬほど、あざやかな、溌剌としたエネルギーに満ちていた。爛漫と咲き溢れる奔放で艶やかな華麗と、恐ろしいほど閉じた虚ろな貞淑さをその身ひとつに備えていた。ドレスシャツから覗く匂いやかな白い皮膚、眩い太陽の髪、楚々とした、それでいて非常にコケティッシュな菫色の瞳、そのすべてがみずみずしく活力に溢れ、かつての栄光の星がその上に爛々と輝いていた。
 静粛に注がれる眴せに、身がすくむような感じがする。この優雅で厳粛な美しさがなにを原動とするものなのか、その時のアキラにはわからなかったが、ただ一つ、はっきりしていることがあった。
 アキラが探していたのはこの人だ。
「ジャック・アトラス……」
 それが彼の名前だった。
「おまえは」……美しいジャックは、静かに息をつめてアキラを見下ろした。漠々たる群衆の中で、彼の存在だけが水を打ったように粛々としていた。
「……ユウセイの息子か」