顔を上げた百合子が不安げにこちらを見つめてくる。潤んだ瞳から溢れた雫が、彼女の痩せた頬を夢のように落ちた。顎から滴るのを指先で受け止めながら、ジョニーはその瞼に唇を寄せた。
「約束する。だからもう泣かないで? ね?」
キスをする。触れ合った皮膚から百合子のほのかな興奮を感じる。ジョニーは揺蕩う薄い蝶の羽のような唇を優しくはみ、舌でそっと伺いを立てる。熱を帯びたやわらかい口腔に緩慢に迎え入れられた。
彼女のネグリジェは、塗布薬をつけやすいように、前で開く形になっている。薄い生地を破かないようにボタンを外すと、よく出来た陶器の器のような、すべらかな乳房が露わになった。薄桃色の嘴からとろとろと流れるのは白い乳汁だ。臍の上までをゆったりと流れる乳を舌で舐めとり、たどり着いた乳頭をつとめてねんごろに啜った。骨の浮いた腰が焦ったく揺れる。
「あ……」
朝から晩まで休みなく労働を強いられた肉体に、百合子の甘い声は晩鐘となって、深く、ゆったりと響く。
早朝六時、いつものジャケットにコートを羽織ったジョニーが出かける前に寝室を覗くと、百合子はまだ眠っていた。彼女の作り物のような白い腕には鋭い針が何本も突き刺さり、そこから伸びたチューブが、鎮静剤や解熱剤を彼女の身体に絶え間なく運び込んでいるのだった。
ベッドサイドに腰を下ろし、汗ばんだ額をそっと撫でてやると、赤ん坊のように無垢な手がその指先を柔らかく掴んだ。あどけない譫言がジョニーの名を呼ぶことの、なんと切ないことか。常に胸を圧迫する狂おしいほどの愛おしさに突き動かされ、ジョニーは妻の顔のあらゆる場所にキスをした。下瞼に触れると微かに塩の香りがするのが悲しかった。
ジャックが、二人分のマグを持って寝室に入ってきた。百合子に寂しい思いばかりさせているジョニーの代わりに、今日はジャックが彼女の面倒を見てくれることになっていた。
「行くならさっさとしろ」
言いながらも、親切な彼はジョニーにマグの片方を手渡した。まろやかなベージュの水面にミルクが微速にうずまいている。ミルクティーだ。
「ジャック……僕はどうしたらいいんだろう」
渦巻きを目で追っているうちに、予期せぬ言葉がこぼれ落ちた。
ジャックは片眉を吊り上げ、睨むような目でジョニーを見る。が、何も言わないところを見ると、一応続きを聞く気はあるらしい。
「百合子と少しでも長く一緒にいたくて、僕は今できる最大限のことをしてきたつもりだ。でも……最近はそのために彼女を泣かせてばかりいる」
「お前は」偉そうに腕を組みながら、ジャックは鼻を鳴らした。「……お前にできる最善を尽くしている。それは百合子にもわかっているはずだ」
「え」
「なんだその顔は!」
だってあまりにも意外だったのだ。この、地球に俺以上の人間など一人もいないというような顔をして生きている男が、ジョニーのしみったれた泣き言にフォローを入れたことが。
よほど惚けた顔をしていたらしい。ジャックは不満げに怒鳴り、ふと眠る百合子のことを思い出したようになって、罰が悪そうに舌打ちした。自分のマグを引っ掴み、熱いミルクティーを一気に喉に流し込む。
「百合子は無邪気だが考えなしではない」
空になったカップをサイドチェストに置いて、ジャックは王が詰めかけた国民の前でするように、長い腕を鷹揚に広げた。
「そして、お前はいくじなしの大馬鹿だが、決して阿呆ではない。たとえ空回りしていたとしても、お前が百合子を想う気持ちはきちんと伝わっている。だからこそ、こいつは寂しくて泣くのだ」
「……」
「大切なのは結果ではなく、どれだけ相手を思い遣ったかだ。愛するがゆえに選び取ったことを、一体誰に責められよう」
簡潔で、明朗なジャックの言葉が、ジョニーの肌をピアニストの指のように叩く。
なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、ジョニーはジャックがくれたミルクティーを一口啜ってみた。甘い茶葉の舌触りに、彼の不器用な優しさが滲みているようで、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。彼のような男性に一心に愛される遊星は幸せだ。
「うん。ありがとう、ジャック。怖い人かと思ってたけど、君って意外と優しいんだ」
「フン……」
「じゃあ、僕は行くね。百合子のこと、よろしくお願いします」
最後の一滴とばかりに妻の唇に吸い付いてから、ジョニーは名残惜しくベッドを離れる。
鞄を下げ、寝室を出ようとしたとき、思いがけず、後ろから呼び止められた。
「ジョニー」
ジャックだ。振り向くと、まっすぐにこちらを見つめるすみれ色の目と視線がかち合った。
傲慢な王の顔を引っ込めて、ジャックは静かに微笑んだ。咲き溢れる冬の花の中で、この人は、いやに透明な存在のように見えた。
「百合子の手を離すな。何があっても……やつには、もうお前しかいないのだ」
その言葉は遺言のようだった。でも、それが本当に最後の別れになるなんて、いったい誰に想像できただろう?
痛い。
痛い。痛い。……痛い。
うまく呼吸ができない。痛くて苦しくてもがいても、身体が灰色の鉛になったかのように重たくて、思うように動かせない。小さくて透明で冷たくて、鋭い歯を持った生き物が、わたしの全身を這い回っているのだ。手も足も、胃も、腸も、骨も神経も肉も皮膚も、脳も子宮も、あらゆる場所に取り憑き、牙を立てて、わたしの全てを食い潰そうとしている。わたしをわたしでなくそうとしている。
このままでは、愛おしいあの人のことも忘れてしまう。
……あの人はどこ?
名前を呼んでも返事がない。温かな抱擁も、優しいキスもない。涙が次々に溢れてきて頬を濡らすけれど、拭ってくれる人はどこにもいない。わたしは真っ暗な夜の闇の中にひとりぼっち。
生き物は絶えずわたしの身体を貪り続けている。一匹が、その小さな体をうねらせながら、膣の中に入ってきた。気持ちが悪い。嘔吐感を必死に喉の奥にとどめながら、わたしは必死な思いで膣に指を入れ、その一匹の居場所を探った。指は何の手応えを得ることもなく、ただ濡れた肉の壁を左右に擦る。気持ちいい。
気持ちいい。痛い。痛い。気持ちいい。気持ちいい。
わたしの膣は、自分の指にあの人の幻想を結びつけて濡れていた。あの人はわたしを抱くとき、いつも優しく時間をかけて入り口をほぐしてくれる。指を入れてすぐの硬い部分から、ひだの立つ天井部分、緩やかに広がった奥の空間。ゆるく勃ち上がったクリトリス。貞淑ぶって小さく縮こまる尿道口。指の腹のざらついた部分で、あの人を求めてぐずる粘膜をくまなく愛撫する。あの人がいつもしてくれるように。
生き物は絶えずわたしの身体を貪り続ける。わたしの指は、敏感で弱気でかわいそうな女の器官を慰める。痛みからか、快感からか、わたしの唇からは湿った呼吸がひっきりなしに漏れた。
「あ……お、っひ、あっ、あっ、あっ」
苦痛と歓びがないまぜになる。寂しくて、訳がわからなくて、わたしはさらに泣いた。
ひとつの瞬きののち、わたしは素敵な花畑の中に立っていた。
生き物も、夜も、みんななかったみたいにきれいな花畑だった。白くて可憐なスノードロップ、慎ましやかなチューベローズ、アネモネにクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、池には小ぶりな睡蓮の花が浮かび、灌木の枝には花蘇芳がいっぱいについている。花びらと小さな葉の向こうには、ハートや星の模様がついたウサギのぬいぐるみが、小さな身体で転がって遊んでいる。空は薄い紫とピンクの混ざったかわいいパステルカラーだ。
「わあ……!」
嘘みたいだ。痛いのも苦しいのも、気持ちいいのも、みんなどこかに消えてしまった。残ったのはうきうきと高鳴る心と、分不相応に軽やかな身体だけ。
楽しくて、舞踏会のお姫さまみたいにくるりとターンすると、次の瞬間にはわたしの身体はかわいいドレスに包まれていた。胸元には薔薇の飾りと大きなリボン、腰から足元までをたっぷりと華やかに彩るフリル。健康そうな腕を覆う上品なイリュージョンレース。左手の薬指にきらめくのは、王子さまがくれた金の指輪だ。踵を上げると、キラキラと宝石のように輝くピンクのガラスの靴が、足にぴったりはまっているのに気がついた。
頭がふわふわする。ゆらゆらする。楽しい。楽しい!
ちぐはぐなワルツを踊りながら、ウサギたちに近づく。ステップを踏むたびに花は潰れてしまうけれど、仕方のないことだ。
ウサギたちは、わたしに気づくと、ぴょんぴょん跳ねながら挨拶をした。それから、彼らの向こうに鬱蒼と茂る、深い森の中を指し示す。
「どうしたの? なにかいるの?」
光るきのこや奇妙にねじ曲がった木々の中。こちらに背を向けて、誰かが立っている。白い軍服に青いベルベットのマント。スラリとした長身。あの人だ。わたしの、王子さま!
「ジョニー!」
ウサギたちの群れをかき分けて、わたしはあの人に駆け寄った。彼は、まだわたしに気づいていないようで、その横顔に悲しい空気を漂わせている。でも、もう大丈夫。だってわたしがついているもの。
彼の背中に飛びつこうとして、不意に、ドレスの裾を後ろに引っ張られた。
振り返る。裾に噛み付いてわたしを押しとどめたのは、金色の毛の、猫のぬいぐるみだった。すみれ色の二つの目がわたしをじっと見ている。鋭い犬歯が、裾のフリルにしっかりと噛み付いている。
「……、むー」
ひどい。あの人のもとに行こうとするわたしを邪魔するなんて。
わたしはしゃがんで、ネコと視線を合わせた。そうして、両手でその身体を持ち上げる。ネコの身体は、思ったよりもずっと重くて大きくて、ずっしりしていた。向けられた視線に困惑が混ざる。
「悪い子には、おしおきですよ!」
そのとぼけた額を、軽く指で爪弾く。
すると、ネコのぬいぐるみはポンと煙を立てて消え、代わりにたくさんのキャンディが降ってきた。カラフルな包み紙を纏った、さまざまなフレーバーのキャンディ。いちご味、レモン味、ソーダ味にミント味。もちろん、ミルク味も忘れてはいけない。
すごい、すごい! ここのぬいぐるみたちは、弾くとキャンディになるのだ。試しに一粒口に入れると、甘くて、ちょっと酸っぱくて、とても幸せな味がした。わたしは嬉しくなって、あの人のもとに行くことも忘れて、ウサギたちの方に踵を返した。
くるくる踊る。夢見心地のダンス。ウサギたちもみーんな弾いて、キャンディにして、そうしたらあの人は、……わたしを抱きしめてくれるだろうか。
ずるずると黄色い脳髄を啜る、神経をちぎって貼り合わせて、ばらばらになった骨は深海魚の夢の中、くらくらと血管を漂いわたしは果てを散歩する、あの人とたったひとつのいのちを分け合ったような気分になるのはなぜ、つよくておおきくてずっとこわかった彼がこんなにも弱くて脆くて矮小な存在だとわかってわたしはうれしくなった、わたしはずっと彼を慕いながら心の底で恐れていたいつかわたしからみんな奪い去ってしまうのではないかと、ああ、あの人も、兄さんもおとうさんもおかあさんも、わたしは臆病で、あの人の首筋に巻きつくわたしの腕はただの木偶だ、彼は背が高くて勇気があって美しかったから、でもわたしのほうがずっと強くておおきくてそう、神秘を戴き得る器など人間の中にはひとつとしてないのだ、花束は、あの人の死。官能。嫉妬。束縛。永遠。憂鬱。滅亡。裏切り。わたしはずっとずっと〈わたしたち〉に喰らわれる痛みと苦痛に耐えて鋭い牙とささくれた鱗とで引き裂かれ食いちぎられなんどもなんどもなんども、いつかいとおしくてだいすきであの人を食べてしまうかもしれない、風船みたいに膨らんで破裂する、からだはぼろぼろ、こころはゆらゆら、これは報いだ 握 ああ、彼の命はこんなにもおいしい……
今日は夕方で上がれたので、寂しい思いを我慢している百合子のためにお菓子でも買って帰ろうと、なじみのベーカリーに立ち寄った。ショーケースの前に見覚えのある背中があると思ったら遊星だった。ビニエとエクレールで一時間も迷っていたらしい。考えることは一緒だ。
秘密会議の末に選ばれたいちごのエクレールを携え、二人は家路につく。冬のパレルモは空気が重く、冷たい。エトナ山はすでに純白の雪化粧を終え、山頂から吹き降りる颪で街路の木々もすっかり丸裸だ。今にも降り出しそうな曇天や、人々の着込む寒色の上着などのために街の雰囲気もどことなく暗く、市場に売り出されたカターニア平野産のオレンジの色だけが、滑稽なほど明るく陽気だった。
ロングコートの襟を胸の前に集めながら、遊星は耐えられないといった様子で身震いする。
「正直なめていた。シチリアは地中海性気候だからと……こんなに寒いと思わなかった……」
「君の国よりは暖かいと思うけど」
「寒がりなんだ。いつもなら、冬は家から一歩も出ないことにしているんだが」
「そんなので生きていけるの」
「ジャックが全部やってくれる」
つぶやく横顔は思慕に緩み、百合子によく似た青い瞳も、美しい恋人への誇りに精彩を帯びていた。耳がほのかに赤いのは、凍えるような寒さのためか、羞恥のためか。
遊星のかすかに青い唇が、白い煙を吐き出した。
「これはお前にだから言うことだが、百合子が治ったら、彼にプロポーズしようと思っている。俺には花も宝石もわからないが、薔薇をかかえるほど買って、大きなダイヤモンドの指輪を用意して、彼の行きつけのレストランで……今まで俺や百合子のためになんでもしてくれた彼だから、今度は俺が、お前のために全てを捧げると、そう伝えたいんだ。彼を愛してる。彼が心から笑ってくれるなら、俺は身体も心も、命だって惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。なあ、それはお前も同じだろう、ジョニー」
ジョニーは頷いた。その通りになれば良いと思ったのだ。
家に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
大きなマホガニーの扉の、古風な鍵穴にキーを刺して左に回す。軽快な音を立てて錠が外れ、先に遊星が、後からジョニーが玄関に入った。
「ただいま、百合子」
暗い廊下に向かって声をかける。返事はない。
「……百合子? ジャック?」
ジョニーは凛々しい眉をぎゅっと寄せた。妙に静かだ。何か、何か嫌なものが、薄暗がりの向こうに息づいている。それはかすかなものだったが、百合子が倒れた時に似た、暗澹とした、重く不吉な予感だった。ジョニーの脳裏に、祖母の葬儀をあげた時のことがよぎる。これは死の匂いだ。家の中で、何かが終わったのだ。
不思議そうにしている遊星に構わず、ジョニーは薄暗い玄関をつぶさに観察した。右手には、翡翠のミニテーブルに下向きに咲く鈴蘭をモチーフにしたスタンドライト、靴やコート類を収納するためのクローゼット、こちら側に取り付けられた硝子の両開き扉には冷や汗をかくジョニーの顔がぼんやりと映っている。左手にはレモンの鉢植えに青いリンドウの飾りをあしらった壁掛けの鏡、客間に繋がる扉。大理石の廊下を挟んだ奥には、三階までを突き抜ける螺旋階段。
いつもと変わらない、夕方から夜にかけての廊下だ。
……いや。やはり何かが違う。息をつめて、注意深く周囲を検分していたジョニーは、螺旋階段の死角からスッと伸びた真っ白な素足をとらえた。
死人のように真っ青な顔をしてジョニーを見下ろすのは、百合子だった。彼女はいつものネグリジェにカーディガンを引っかけた姿だったが、その表情や手足にはまるで存在感がなく、妖精や精霊の類を思わせた。ほどけた髪のつやはブラックオニキスの輝きを思わせる。小さな爪の一つ一つは桜貝の色をして、それがことさら、彼女の雰囲気を天上のものにした。百合を抱えた聖母のステンドグラスから落ちる虹色の光が、彼女の髪や肩の上で幻想的に踊る。
「百合子」
「ジョニー……」
震える唇がジョニーの名を呼ぶ。その瞬間、彼女の足はつるりとした段板を踏み外し、前のめりに倒れこんできた。遊星が息を呑む。反射的に身を乗り出したジョニーの腕がかろうじて彼女を受け止めたが、彼女は全身をこわばらせ、ひどく怯えていた。小刻みに痙攣する身体と、過呼吸気味の浅い呼気が、彼女の身に何かあったのだと如実に語っていた。
「ジョニー、ジョニー、お願い、私を愛していると言って」
青ざめた頬を、涙が流星のように迸る。
「ああ、愛してるよ、百合子。一体どうしたっていうんだい?」
「ごめんなさい。私を許して。私を……私を殺してください」
「な、何を言っているんだ!」
妹の恐慌から何かを悟ったらしい遊星が、エクレールの袋を放り投げ、ジョニーの横をすり抜けて階段を駆け上がった。だが、妻の口から訳のわからない願いを聞き取ったジョニーはそれどころではなかった。今、彼女は何と言った?
殺すだって?
「時間がないんです。早く私の左胸を、心臓を貫いてください。これで……」
百合子の左手にはいつの間にか透明な小剣が収まっていた。透き通る刀身は、光を浴びて鋭利に輝き、まるで水でできているような印象をジョニーに与えた。彼女は、それをジョニーの手の中に必死に押し込んだ。
「早く……」
「だめだ! 君は僕の妻だ。たった一人の愛する女性だ。その君を、僕が殺せるわけないじゃないか。ね、まずは落ち着こう。何があったのかちゃんと聞かせてくれないかい? ジャックはどこ?」
「ジャックは……」
出し抜けに、階上から絹を裂くような絶叫が上がった。
「ジャック? ジャック……ジャック、ジャック!」
遊星だった。必死にジャックの名前を呼んでいる。
動悸が激しく鳴る。不幸の兆しが、無情にもジョニーの頭上に降りてくる。ジョニーは百合子を抱えたまま、一段飛ばしで三階を目指した。
花が散っている。無惨にもむしられ、茎を折られた花々の死体が、ベッドや絨毯の床に折り重なるようにして乱れている。スノードロップ、チューベローズ、アネモネにクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、小さな水瓶に浮かべてあった睡蓮は器ごと破壊され、花蘇芳の枝はこれ以上ないというほどに踏み潰されている。
ベッドに倒れ伏すような形で、ジャックは眠っていた。はじめは……眠っているのだと思った。鎧をつけたような、大きく、引き締まった身体には傷ひとつなかったし、男性らしい流麗な顔に浮かぶのは、まるで楽しい夢でも見ているかのように安らかな微笑みだった。
しかし、ジャックの手首を握りしめた遊星の顔は真っ青で、只事ではない様子だ。ジョニーは彼に近づいて、同じように首に触れてみた。
氷のような冷たさだった。もう死んでいる。
「時間切れです。残念ですね、ジョニー」
不意に、血も凍るほど冷ややかな声が、ジョニーの右耳に囁いた。
はじめ、ジョニーはそれが誰の声なのかわからなかった。聞き覚えのある声ではあった。しかし、彼女は……いつもジョニーに対して善意と優しさに溢れていて、とてもこんな声を出せるような女性ではないのだ。痛みや辛さを泣きながら訴えることはあったが、このような、感情のない平坦な声で話しかけてきたことなど一度もなかった。
だが……ジョニーが彼女の声を聞き間違えることなどありえない。どんなに混雑した人ごみの中でも、耐え難い混乱の中にあっても、ジョニーは彼女の声をはっきりと聞き分けることができる。きっと今回も例外ではない。だから、彼女が発する言葉の意味を理解するより先に、ジョニーは反射的にその人の名前を呼んでいた。
「百合子……?」
それはジョニーの腕に抱かれた百合子の声だった。
「なんて甘くて、お人好しで、無知な人間なんでしょう。命乞いも忘れてゾウの足の裏を見上げるちっぽけな蟻みたい。でも大丈夫。あなたは食べないでいてあげます」
先ほどまで震えながらジョニーに許しを乞うていた彼女など初めからいなかったみたいに、百合子はジョニーの腕から離れ、立ち上がった。いとも簡単に。
まるで、身体を病む前の、健康だった彼女が戻ってきたようだった。しかし、その口元には嘲りと退屈にひきつれた冷笑が浮かび、瞳は底知れぬ虚無に薄青く濁っていた。別人のような変貌ぶりだが、それでも、可憐で楚々とした顔のパーツや、蒲柳の身体はジョニーの知る百合子そのものなのだった。
言葉を失った二人の男の前で、百合子は腕を広げ、歌うように朗々と語り始めた。
「ジャックの行方が気になりますか? ここです。私のお腹の中で、骨も肉も破壊しつくされて、痛くて泣きながら蹲っていますよ」
細く尖りを見せる四本の指が、自らの薄い腹を撫でる。
「……冗談じゃありません。兄さん、私は、ずっと彼を食べてしまいたいって思っていたんです。強くて、大きくて、とっても美味しそうだなって……はい、彼はほんとうに美味しかった。暴れるから飲み込むのがちょっとだけ大変でしたけれど、肉が厚くて、柔らかくて、彼に愛されている兄さんがちょっと羨ましくなっちゃいました。それに、ふふ、その顔……優しくて親切で頭の良い兄さんの、何が起きているのかわからなくて、現実が受け入れられなくて、ただ呆然とするしかないっていう哀れな顔、ずっと見てみたかったんです。お願いが一度に二つも叶うなんて、私、とっても幸運な女の子ですね」
「百合子、——百合子! お前がやったのか! ジャックを……お前が、殺したのか!」
「ええ」
あまりにも冷たい宣告だった。
「だって……彼が、悪い子だったのがいけないんですよ? 私はいやって言ったのに、引き止めようとするから……」
遊星は、彼の理知的な目を限界まで見開き、口を開いたまま絶句した。下瞼のふちから、怒りと絶望のための涙が一筋こぼれ落ちる。
そんな彼を、百合子はひどく醒めた目で一瞥すると、くるりと背を向けて寝室を出ようとした。
「……どこへ行く」
「あなたには関係のないことです、兄さん」
「行かせない……行かせない!」
ジャックの身体を抱きしめていた遊星が立ち上がり、百合子の背に飛びかかる。
百合子は軽やかに振り返り、兄に向かって右手を突き出した。繊細な指がものを掴む形になり、何かを左に捻り上げる。すると、触れられてもいなかった遊星の左手が勢いよくねじれ、かと思えば、手首が通常ではありえない方向に折れ曲がった。骨が折れ、筋肉が引きちぎられるぶちぶちという音が立つ。遊星が悲鳴をあげ、左手首を庇って床に崩れ落ちた。
「ぐ、あ……」
「邪魔しないでください。かわいそうな兄さん、食べるのは最後にしてあげようと思ってたのに。今、死にたいんですか?」
「ゆ……百合子……」
「ああ……私を殺すつもりだったんですね。ばかみたい、だからあなたはだめなんです。優しい〈わたし〉があげたチャンスをふいにしたくせに、自分に都合が悪くなった途端に……悲しい。悲しくて笑いが止まりません。知ってますか? 私、兄さんが大好きでした。今も大好き。自己中心的で、矛盾だらけで、何もかもを選ぼうとして全てを取りこぼしたばかな兄さんが大好き!」
小さく可憐な白い蕾は、無差別に毒を撒き散らす害花として開花した。百合子は、苦しむ兄を見下ろし、実に愉快そうに微笑んだ。
「さようなら……兄さん」
ふと、ジョニーが愛してやまなかったあの青い海の瞳が、言葉を失って立ち尽くす夫の姿をとらえた。
ジョニーは息を呑んだ。ジャックを殺し、兄を傷つけた女の瞳に満ちていたのは、狂気でも快楽でもなく……そこ知れぬ悲しみだった。悲痛なまでの孤独、苦痛に膝を折った悔恨だった。小さな宇宙を閉じ込めたような瞳孔や、彗星の尾を思わせる透き通った虹彩は、確かにジョニーの知る優しい彼女のものだ。何かを言いたげに開かれた唇は後悔に戦慄いていた。大切なおもちゃを誤って壊してしまった幼子の哀情、愛するものに否定された少女の辛苦。
彼女は、ジョニーに何かを訴えている。
「忘れちゃいやですよ、ジョニー。私を追いかけてきてください。……果てで、待っています」
それだけ言うと、彼女は踵を返し、今度こそ振り返らないまま部屋を出ていった。暗黒に放り出された気分だった。
絶望は、何も人間を死に駆り立てるだけのものではない。死を選ぶということは、つまり、何かを望むだけの希望が残されているということなのだ。本当の絶望は、人を逃避させる。現実から、自分の感情から。
必死のジョニーに声をかけられている間も、駆けつけたパラドックスに手首を治療されている間も、遊星はジャックの死体を抱えて呆然としていた。
「あれは百合子じゃない。百合子は、あんなふうに笑ったりしない」
時折そんなことを口にし、彼は微笑みとも泣き顔ともつかない表情をその顔にのぼらせるのだった。
治療を終えたパラドックスが寝室から出てくる。遊星は、百合子が使っていた鎮静剤を打たれて眠ったらしい。ジョニーがソファに座ってニュース番組を見ていると知ると、彼は白衣を脱ぎ、ネクタイを緩めながら隣に腰掛けた。
——シチリア全土で、突然意識を失い倒れる人が続出している。昏睡状態にある人々の既往歴や生活習慣に目立った共通項は見られず、無差別的な発症であると考えられる。ほとんどの医療機関は詰めかけた大勢の患者家族で機能不全に陥り……
「君の細君はあの男を食ったと、そう言ったのだな」
「うん」
画面から視線を外さないまま、ジョニーは顎を逸らして肯定の意を示した。
「であれば、シチリア中で住民の意識消失を起こして回っているのも、おそらく彼女だろう。だが、動機も目的も、その手法にも、さっぱり検討がつかん。医者は合理的な生き物だ。道理に反する現象については滅法弱いのだ」
言いながら、パラドックスはポケットから取り出したミントガムを二つも三つも口に放り込んだ。仕事柄煙草を吸えない彼は、ミントの刺激で冷静かつ明朗な思考を保っているのだ。
「十代……僕の友だちが、彼女は人間じゃないって言ったんだ」
が、ジョニーの一言に、彼は再び冷静さをどこかに放り出してしまった。
「……は?」
「いや……人間ではあるんだけど、体の中に人間じゃない何かを飼っていた、生まれてから、ずっと。そいつは人間としての百合子を食い潰して表に出ようとしていた。きっと、それが叶ってしまったんだ」
あの日、ジャックから聞いた百合子の出自、そして十代から聞いた真実を絡めて紐解く。
百合子は、(規制)という名の神秘の生き物の遺伝子を、人間の受精卵に打ち込むことで生まれたあいの子だ。彼女は、人間にはありえない特徴を持ちながらも、おおむね人間と同じ形のものに成長した。しかし、一方で、その身体や精神は(規制)によって絶えず冒され続け、そのために彼女は常に苦痛の中にいた。そして今日、(規制)の領域が本来の人格を上回り、彼女は恐ろしい怪物に豹変した。
おそらく、彼女はぼろぼろになった身体を修復する力を得るために、シチリア中の人間の命を吸い取っている。そして……ジョニーにそれを止めてもらいたがっていた。彼女は最後まで自分を食い止めようとしていた。自分の命を犠牲にしてまで。
そうだ、やはり彼女は変わってなんかいなかった。恐ろしい異邦のものが身体を支配する後ろで、彼女は必死に抵抗を続けているのだ。
「ジョニー、君、何を言っている?」
「信じられないよね。でも……多分本当のことだ。でなければ、この国のどの医者も彼女の病気を突き止められなかったのはなぜ? 彼女が傷ひとつつけずにジャックを殺せたのは? 僕たちの常識では、彼女の周りで起こる出来事に説明をつけることができない」
怪訝そうな様子のパラドックスを尻目に、ジョニーは頭を抱えた。どうしたらいいのかわからなかった。このまま人々が死んでゆくのは見殺しにできない。でも、彼女を……優しい彼女をこの手にかけることだけは、してはならない。そんなことをすれば最後、ジョニーの魂は死んでしまうのだと思った。
……どれだけの時間が経っただろうか。放心した耳に、表のベルが鳴る音がかすかに届く。
「来客か」
「こんな時に誰?」
シチリア中が混乱に陥っている今、呑気に訪ねてくる人間が果たしているものだろうか。ジョニーの脳裏に百合子の姿がよぎるが、その可能性はすぐに打ち消される。彼女は待っていると言っていた。ジョニーの方から出向かない限り、彼女に会うことはできない。
ジョニーは期待の眼差しでパラドックスを見たが、彼は潰れたエクレールの本懐を遂げてやることにご執心だ。重い腰を上げ、一人で部屋を出た。階段を降り、廊下を渡って玄関にたどり着く。鍵はかけていない。彼は気乗りしない気持ちのまま扉を開けた。
女の子のように伸びた赤毛。生意気そうな少年の顔つき。
「やあ、ジョニー君。相変わらずしけた顔してんな」
立っていたのはルチアーノだった。
緊張していた心の糸が弾けて、彼の全身を脱力させた。仕方のない話だ。刑事か、悪魔か、世界の終わりかと覚悟して開けた扉の向こうにいたのは、近所に住むありふれた悪ガキだったのだ。重たく湿ったため息とともに、つとめて優しく、理性的に聞こえる口調で、彼は少年を諭しにかかった。
「……ルチアーノ。悪いけど、今はつまらない言い争いをしている場合じゃないんだ。君も早く家に帰って、お父さんお母さんと隠れていた方がいい」
お父さん、という単語をジョニーが持ち出した瞬間、彼はこの上なく意地悪に、また上機嫌に口の端を吊り上げて、笑った。何も知らないくせに偉そうなこと言うな、とでも言いたげな笑顔だった。
彼はジョニーの胸を指で乱暴に突いて、「そう言うなよな。あんたに今一番必要なものを、あの人から預かってる」
「あの人」
「ボクの師匠。くそ、いつもならこんなこと絶対しないんだからな」
光の中で、白衣の裾が翻る。ちぐはぐな長さの二本の足が軽快に床を蹴り、赤い背中が振り向いて、彼女は不敵な笑みで——うまくやれ、ジョニー。
ルチアーノが差し出したのは、一枚のカードだった。
息を呑むジョニーを、やけに真っ直ぐな目で見上げながら、彼はこんなことを言った。
「幾重にも分岐した運命の、不確定の枝々の中で、漂っていたボクはあの人に拾われた。このままじゃかわいそうだ……そんなことを言いながら。何もかも諦めた、人間なんて大嫌いだ、って目をしてるくせに、ボクみたいな子供には甘いんだ。破綻してるよな。
さて、今あんたに必要なのは、人類の敵になってしまった女を殺し尽くして、その灰を海に撒くための切り札だ。人間の皮を脱ぎ捨てた彼女は、もう何ものにも殺されない。誰にも止められることなく、満足するまで人間を食い散らかして、最後には愛する男すら本能のままに咀嚼して一人になる。結婚式のとき、自分が何を誓ったか覚えてるか? 彼女を守ると誓ったんじゃなかったか? この世界の全てを征服して、たった一人になった彼女の心は……どうなるだろうな。ジョニー、彼女が辿ることになる最悪の運命から、彼女を守るには、道は一つしかない。奇跡にはそれを凌駕する奇跡だ。
彼女を殺せ。あんたにしかできない」
舞い散る白い花びらの向こうに広がる、優しい春空を描いた美しい金色のカード。〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。人間を愛した結果、怪物になってしまった女神に終焉を運ぶ運命のカードだ。
初めて触れてみて、ジョニーにもわかった。見知らぬ誰かが、多くのものを犠牲にして作り上げたものなのだ。この一枚に、世界すら滅ぼしうるほどの強大な力が込められている。カードを構成する一つ一つの要素が、たった一つの指向を持って、力を解き放つその瞬間を粛々と待っている。ジョニーがひとたび、願いさえすれば、これはすぐさま発動条件を満たし……百合子の心臓を確実に仕留めるだろう。彼女の魂は粉々に破壊され、二度と戻らなくなる。輪廻の輪に乗ることもなければ、転生することもない。
拳を握り込む。胸の内側が冷え冷えとざわめく。十代にも、既に忠告されていたことだった。どちらにせよ殺すことになる、彼女はそう言った。
選べなかったジョニーの前には、道は一つしか残されていないのだ。
はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
笑う百合子の、美しい顔がよみがえった。それから、拗ねて怒る顔、愛してると言われて泣いてしまった顔。初めて手を繋いだときの、心地よい緊張。一緒に海に落ちた時に見た不思議な半透明の四肢。起き抜けに飛ぶ鴎に弾けた歓声。浜辺に踊る繊細な身体。食べてほしいのだとこぼれた涙。心地よい夜闇の中で絡んだ指先。
潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ……。
——大好きです、ジョニー!
出会ってから七年間、百合子はたくさんのものをジョニーにくれた。自分は何も返せないままだ。あろうことか、苦しむ彼女をさらに追い詰めて、死の淵に追い遣ろうとまでしている。
自分はひどい男だ。意気地なしで大馬鹿で、阿呆な夫だ。熱い涙がとどめなく溢れ、こちらを見上げるルチアーノの柔らかい頬にぽたぽたとこぼれた。一粒一粒が百合子への激情だ。百合子。百合子。百合子。百合子……
百合子を愛している。大好きなのに、何もかもうまくいかない。
ルチアーノは、半ズボンのポケットからハンカチを取り出して、ジョニーの涙を拭ってくれた。らしくもなく優しい仕草だった。
やわらかい無垢な子供の両手が、ジョニーの右手を包み込む。
「泣くなよ、ボクがいじめてるみたいだろ。パパ……」
空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
少年は父親と繋いでいた右手を離し、舞い落ちる花のひとひらをふっと捕まえてみせた。立ち止まり、期待のうちに幼い指を開く。一枚だけだと思っていたが、よく見ると、薄い花びらが二つ連なって、彼の手のひらの上につんとすましていた。母親が口の端を緩やかに持ち上げて、彼の左手を優しく握り込む。
「それ、食べられるんですよ」
「え!」少年は驚いて、二枚の花びらをまじまじと眺めた。「本当?」
「本当ですよ。ママの国では、花びらを塩に漬けて、甘いパンの上に乗せて食べるんです。あとは……お湯に溶いて、飲み物としていただくこともありますね」
「あんまり美味しくなさそうだけど」
「馬鹿にするなよな。ママのサクラアンパンは美味しいんだぞ。ルチは食べたことないから知らないだろうけど」
繋いだ手を離されて不満げな父親が、子供のように拗ねて言う。母親は呆れたように肩をすくめるのみだったが、少年はまだ幼かったので、売られた喧嘩は買わなければ死ぬとばかりに父親に噛み付いた。
「いいもん、別にさ。パパのバカ。それより、ねえママ、ローストビーフ作ってきてくれた?」
「ええ、もちろん。今日はルチの誕生日ですからね。食べたいだけ食べていいんですよ」
持っているバスケットを掲げて、母親は得意げに胸を張った。少年はたちまち飛び上がって、勢いよく母親の腰に抱きついた。勢いに耐えられず後ろによろめいた母親の身体を、父親があわてて受け止める。
「ほんと! ママ、大好き!」
「百合子……ルチが好きに食べたら、僕の分がなくなっちゃうんだけど……」
「ボクの誕生日パーティーなんだから、全部ボクのなのは当たり前だろ?」
「まあまあ。ジョニー、今日くらい良いじゃありませんか」
親子は遊歩道脇に手頃な芝生を見つけて、その上に大きなシートを敷いた。中央に座った少年の目の前に、母親が腕を振るって作った宴会料理の数々が並べられる。父親が急いで買ってきたホールケーキも一緒だ。
ケーキの上の、いちごの間を縫うように刺さった五本のろうそくに火が灯された。両親の歌に合わせて、少年が息を吹きかける。火がみんな消えてしまうと、二人は一斉に拍手をし、小さな少年の身体を思いきり抱きしめる。
母親の柔らかい唇が、少年の、興奮で上気した頬にもたらされた。
「お誕生日おめでとうございます、ルチアーノ。パパとママの子供に生まれてきてくれてありがとう」
父親も、照れくさそうな笑顔を浮かべながら、反対側の頬に同じように触れた。
「誕生日おめでとう、ルチアーノ。パパとママは、おまえのことをずっとずっと愛しているよ」
少年は……幸せだった。幸せすぎて、明日には世界が終わってしまうのではないかと思うほど。
それは食らった誰かの記憶だったかもしれない。あるいは、ジョニーと百合子には本当にそんな未来が用意されていたのか。どちらにせよ、百合子には関係のないことだ。だってもうすぐ死ぬのだから。
闇の中で、百合子は耳を塞いで蹲っていた。口に押し込んだ人々の魂が彼女に囁くのだ……呪いを、怨恨を、憤懣を、悪念を。外に出ようと喉を遡る彼らを、彼女は自らの首を絞めることでなんとか抑えようとした。人の魂を食らうことは、古来から(規制)の習性、そして傷つき朽ち果てた彼女の身体を維持するためには不可欠なことだった。
「いや……怖い、です……ジョニー、ジョニー……」
愛する男の名前を呼ぶ。
もうすぐ彼は、魔女から譲り受けた滅びを携えて、百合子のことを殺しにくるだろう。わかっている。悪役は正義の味方に成敗されるものだと決まっているのだ。今思えば、百合子がジョニーを愛して、彼の元に嫁ぐ決意をしたのは、この日のためだったのかもしれない。優しいジョニー。ひたむきに百合子を愛しながらも、人々を苦しめる悪いものをを見逃すことなどできるはずもない、誠実で美しいジョニー。
涙が溢れて止まらないのに、唇はひとりでに微笑みの形をとる。
「……いいえ。怖がることなどありません。だって……全ては彼と生きるため。そのための食事、そのための犠牲です。当然でしょう? 今まで散々私のことを苦しめた世界。今度は私が、痛くて怖くて泣いてしまうほど、辛い目に合わせてあげます」
思えば、自我を獲得したその時から、百合子は耐えず苦痛にさらされてきた。薄っぺらく壊れやすい人間の肉体に内包された大いなる矛盾。双方がお互いの領域を守ろうと争闘し、それが幼い少女の肉を、骨を、精神を、容赦なく引き裂き、傷つけてきた。
魔女は彼女に、人間として生きろと言った。やさしい両親とやさしい兄は、彼女を人間として受け入れた。だから彼女は空腹を訴える内臓の痛みを、人間の部分を侵略しようとする何かの蹂躙に抵抗し、なんとか形のある理性を保ってきた。魔女にも、家族にも、感謝こそすれ恨みなどかけらもない。しかし、人間であろうとする限り、彼女はやはり激しい倒懸から逃れることはできなかった。
そこに、ジョニーが現れた。闇夜にきらめく流れ星のような人。
ジョニーは誰にでも親切で、善良で、清廉だった。でも、彼女には特別優しかった。いつもひたむきに、まっすぐに彼女のことだけを見つめてくれた。そっと抱き寄せてくれる腕は温かくて力強くて、彼は彼女を泣き虫だなんて笑うけれど、彼の胸の中ではじめて彼女は泣いたのだ。涙を拭ってくれるとき、彼は天使のように優しく、神のように偉大だった。
彼にはじめての恋をした。心から好きになった。彼と生きることができてはじめて、人間として生きてきた自分が報われた。彼の隣にいられたら、痛みすら愛おしむことができた。
彼に促されて顔を上げて、花の色が、かたちがとてもきれいなものなのだと知った。空の抜けるような青さを知った。雲は白くて、木の葉は透き通るような緑で、風は気持ちよくて、雨に濡れるのも彼となら悪くなかった。子どもは無垢で可愛くて、大人はみんな親切だった。教えられなかったらきっと知らずにいたことを、彼はたくさん教えてくれた。
どうしようもなく意地悪な世界でも、それでも……ジョニーと一緒にいられる時はいつでも、本当に幸せだった。
「早く来てください、ジョニー……お願い来ないで……」
寂しくて寂しくて、百合子は膝を抱え、声を上げて泣いた。もう一度やり直せたらどんなに良いだろう。
立ち上がる。
どこかで泣いている声がする。寂しがりやで、泣き虫な彼女が、感じやすい子どものように泣いている。たった一人で。
ただ、抱きしめてやりたいと思った。怯える肩を抱き、大丈夫だよと……たとえ彼女が世界でいちばんの悪党だったとしても、自分は彼女を愛しているのだと、わけもなく、そう伝えたかった。
ジャケットだけを羽織って家を出ようとしていると、三階から誰かが勢いよく降りてきた。遊星だ。彼は包帯を何重にも巻き、ギプスまでつけた左手首を首から吊り下げた痛々しい姿だったが、眼だけは大きく見開かれ、針のような光がのぞいていた。頷いてみせる。
もう真夜中もずいぶん過ぎた頃だというのに、パレルモの街は混乱と叫喚で溢れていた。雑然たる声が波のごとく起こり、沈み、また起こった。戦争でも始まったかのようだった。前触れもなく倒れた愛する誰かを必死に抱えた人たちが、病院に詰めかけている。訳がわからずに呆然と立ち尽くす人、狂ったように救急車を呼び続ける人、泣き叫ぶ子供。サイレンの音が遠くで鳴っている。
ひしめき合う人々、身動きもできないほどの人混みを両腕でかき分けて走る。腕の痛みで遊星の足が鈍りはじめる。ジョニーはそのことを知ると、路地に入り、停車したタクシーの運転席で居眠りしていた運転手を叩き起こして、モンデッロ・ビーチに急ぐよう捲し立てた。
百合子は果てで待っていると言った。それなら、二人のたどりつく場所は同じだ。
風が潮騒とともに胸の中に吹き抜けてゆく。
消え入りそうなほど遠くまで続く海原に、おぼろな薄明の桃や紫がほのかに横たわっている。波はくすんだ銀色の飛沫をあげながら、ゆるく、穏やかに打ち寄せる。波打ち際では、真珠のレース編みのように、みなわが花を咲かせていた。
濡羽色の美しい黒髪がつややかに翻り、百合子がいる、と思った。
百合子は家を去った時のままのネグリジェ姿で、その薄い生地が、光とともに彼女の真っ白な身体の輪郭を透かしていた。裸足のままずいぶんの間走ったのか、拵えた人形のパーツのようだった足が血まみれで、赤いのと白いのが、なまめかしさの均衡をうまい具合に保っていた。無害そうな、やわらかそうなうなじが、項垂れているために薄明かりの中で白く浮かび上がっている。途方に暮れたような横顔で長いまつ毛が羽ばたき、その度に青い影が柔らかく羽ばたいた。
「百合子」
彼女が振り返り、ジョニーを見た。瞬きひとつせず、恍惚としたように、あるいは途方に暮れたように、まっすぐにジョニーを見つめた。
「ジョニー」
花びらのように、薄く頼りない唇が、似合わない笑みの形をとった。
「……やっと来たんですね。遅いから、待ちくたびれてつい食べ過ぎちゃいました」
はじめてキスをしたときも、彼女が泣いていたことを思い出す。ジョニーの胸に顔を埋めて、もう二度と離れたくないというような、やっと自分の居場所を見つけたのだというような、そんな必死さで……小さな手で濡れたシャツの背中を掴み、小鳥のように顫えながら、彼女はジョニーの唇からのやさしい愛撫を求めた。
同じだ。顔では笑っているが、いま、きっと彼女は泣いている。
「どうしたんですか? 私を殺しに来たのでしょう。何もしないで、とぼけたみたいに突っ立って、何をしにきたか忘れたのですか?」
「どうしてこんなことをするんだ!」
彼女を抱きしめようと腕を伸ばすジョニーに先んじて、遊星が咆哮した。
ジョニーに向けた笑顔から転じて、末恐ろしくなるほどの無表情になった彼女が、羽虫にやるような視線を兄にやった。遊星の精悍な男の顔が恐怖に歪む。
「どうして、ですか?」
「ジャックを殺して、罪のない人間を死に追いやって、お前は一体何がしたいんだ!」
遊星の激昂はおよそ彼らしくないものだったが、ジョニーも百合子も、そんなことには見当もつかなかった。
小さな動物がするように首を傾げて、百合子は心底おかしいといった様子で吹き出した。口元を軽く押さえ、肩を震わせながら、喉の奥で押し殺した笑い声をあげる。
「決まっているじゃないですか。私に優しくないこの世界に思い知らせてやるためです。愚かでかわいそうな兄さん……本当に何も知らないんですね。大切だなんて言いながら、本当は私になんて興味もなかったんでしょう? やさしい両親の愛を横取りする私が邪魔だったんでしょう? 当然ですよね、私は本当の妹じゃありませんから!」
「……」
「ばかな兄さんは知らなかったでしょうけど、私、人間じゃないんです。でも、同時にどうしようもなく人間で……この忌々しい矛盾は、私の身体、私の精神、私の心をずっと傷つけてきた。生まれてから今に至るまで、一瞬たりとも、痛くなかったことなんてなかった。起きていても寝ていても、痛くて痛くて、瞬きをするだけで痛くて……」
笑っていたはずの彼女の表情はくしゃりと歪み、ぽつりと放り出されたような涙が一粒、彼女の下瞼からこぼれた。
「でも心臓は勝手に生きようとするんです。死のうと思ってナイフを喉に当てても、崖の上に立ってみても、どうしてもできなかった。どうしてかなって、こんなに辛くて苦しいのにどうして死ねないのかなって、あなたたちが来るまでずっと考えていました。いまやっと分かった。……あなたのせいです! ジョニー! あなたがいたから……あなたなんかに出逢っちゃったから!」
百合子はもう、笑いも、泣きもしていなかった。純然たる激情だけがジョニーに差し向けられ、それは百合子の右手をどうしようもなく突き動かした。細くたおやかな指が……ジョニーの手を握り、ジョニーを抱きしめ、ジョニーを労ってきたあのやさしい指が、いま、彼の命を奪おうと伸ばされる。
でもうまくいかなかった。震えて、指を握り込むことができないのだ。彼女は自らの腕を制御しようと必死に歯を食いしばりながら、それでも目の前の無力な男一人殺すことができず、もどかしそうに首を横に振った。
「いや……どうして? どうして、どうして!」
「ジョニー」遊星が抑揚のない声でジョニーを呼ぶ。「彼女を殺せ」
「遊星!」
「分かっているだろう、ジョニー!」
遊星の絶叫は、獣が遠吠えするのにも似て、深い怨恨を帯びて響いた。
「あれはもう百合子じゃない! 百合子はもういない! 百合子は……百合子はあんなふうに、笑いながら命を弄んだりしない!」
百合子が怒りとともに兄を振り返り、震えていた右腕をまっすぐに伸ばした。今度は、ためらいも加減もなく、ただ兄の命を捻り潰すべく、彼女の優美な掌が開かれる。