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   後悔の話

 不動アキラは十八歳、高校最後の夏、部活動で長らく世話になった男性の友人に恋をしてしまったことがすべての始まりだった。平成初期の当時、まだ同性間の恋愛は差別と偏見の対象であり、幼い頃からその価値観を何の疑問もなく受け入れていたアキラにとって、自分がゲイであるかもしれないという疑念は強い恐怖を生むものだった。
 アキラはその友人を徹底的に遠ざけたが、それでも、誰かと話して嬉しそうに笑ったり、照れて顔を赤らめたりする彼の姿を見ていると、若い心はやるかたのない愛着に頼りなく揺れるのだった。普通の男がそうであるように、自分以外の人間と親しげにしているところや、近い距離でのスキンシップに興じているところを見たりすると、嫉妬で全身の血液が燃えたぎるような感じがした。
 結局、耐えかねたアキラは、思い切って彼に愛を告げることにした。女々しくもラブレターを書いて彼の下駄箱に仕込み、校舎裏に呼び出して告白した。
 しかし……彼はすげなくその言葉を跳ね除けた。
「なんだよ、それ。気持ち悪りぃ」
 それが、アキラの覚悟に対する彼の答えだった。彼はアキラがよこしたラブレターを目の前で破り捨てると、自分にはもう愛する女性がいる、自分にも彼女にも、今後二度と近づかないでくれ、と、そのように告げた。
 残されたアキラに待っていたのは、果てしない絶望と悲嘆だった。大きく口を開けて待ち構えていた後悔という魔物に飲み込まれ、アキラはすっかり消沈してしまった。部活動も、その後の高校生活も、あらゆるものが取るに足らない、つまらないもののように思われた。
 アキラは自分の生まれ持った性質を呪った。ウェルテルやトリスタン、薫の君、その他さまざまの恋に敗れた男たちを思い浮かべ、自らの苦悩を飾った。
 そんなとき、寡黙で、普段はほとんど言葉を交わすことのない父が、アキラの肩をそっと叩いた。

 父の名を知らずとも、父の青春の名を知らない人間は少ない。
 一九七〇年台前半、ハードロック・ブームの魁を切る形で現れたロックバンド、<サティスファクション>が世界中で絶大な人気を博した。
 メンバーは四人、みな二十代前半の若い少年たちで、そのルーツをニューヨーク最大のスラム:サウス・ブロンクスに置いていた。貧しい彼らはまっとうな教育を施されることなく長じたため、旧来のクラシカルな音楽性を持たず、当時としては非常に斬新で奇抜な演奏を得意とした。その結果、若年層を中心に大きな支持を獲得し、その勢いはメジャーデビューから一年も経たないうちにローリング・ストーン誌の表紙を飾るほどにまでのぼった。
 いまだに信じられないが、父はその伝説的なバンドのメンバーだったのだという。
 アキラは、そんな父を長らく避けていた。もう何年も口をきいていなかったし、父の方からも、アキラと関わりを持とうとする様子を少しも見せなかった。彼がニューヨークで育った日系アメリカ人で、日本語があまり得意でなかったことや、今でも衆望を集める彼に近付かんがためにアキラを利用しようとする人が少なくなかったこともあって、思春期の心は父から離れてしまっていたのだった。しかし、驚き動揺するアキラを見つめ返す父のひとみは、昔と変わらず、息子への果てしない愛情と思いやりに青く輝いていた。
 こわばって灰色に落ち込んだ心は、その優しい眼差しにほんのりと熱を持ちはじめた。
 父は、アキラの手を引いて、暗い部屋から連れ出してくれた。ベランダに並んで立ち、仄かに薄明の訪れを予感させる東天と、その中に浮かぶ豊饒の星々を望んだ。むっつりと黙って視線をかなたへ投げかけていた父が、ふと、こちらを振り返る。その目が何かを訴えかけてくる。思わず首を引く。
 アキラを真っ直ぐに見つめながら、父はこんな話をした。


 ユウセイ・フドウというのがおれの名前だ。日本人の父親がビジネスをしにニューヨークにやってきて、現地の母親と出会って、そうして生まれたのがおれだ。幸せな赤ん坊だったと思う。父の思いは幼い息子に真っ直ぐに注がれていたし、母の手の温もりはとても優しかった。
 でも、おれがまだ三、四歳の時、両親は自動車事故に遭って死んだ。即死だった。後部座席で、ゆりかごに乗せられていたおれだけが、炎上する車の中から助けられた。
 異国の地におれの居場所はなかった。警察は今よりずっと無慈悲なやつらで、簡単な身辺調査の後、放り出されたおれは孤児になった。物乞いも盗みもやった。まだ母親の腕が慕わしい年頃の子どもが一人で生きてゆくには、ニューヨークはあまりにも過酷な街だった。
 ある日、地下鉄の無人駅でダンボールにくるまって寝ているおれを、数人の男たちが抱えて地上に運び出した。やつらは人攫いだった。物好きのコレクターの慰みものにするためか、ストリートギャングの”一兵卒”にするためか、目的はわからないが……口を塞がれて、車に押し込まれて……どこか違う場所について、男の一人がトランクを開けた隙をついておれは逃げ出した。でももうそこは住み慣れた”ビッグ・アップル”ではなかった。
 サウス・ブロンクス、ニューヨークの辺獄。五十年代から六十年代にかけて、豊かだったその地は馬鹿げた政策の余波でスラムと化していた。その、ギャング、酒、ドラッグ、死、あらゆる不幸がすぐ鼻の先にある恐ろしい地でも、おれは一人で生きた。生きること、生きたいと思うことが、その時のユウセイ・フドウそのものだったんだ。

 一人暮らしは、概ねうまくいっていた。モット・ヘブン地区のヒスパニック集団がとても良くしてくれて、食いぶちに困ることはなかったし、なにより、まだ子どもだったから。だが、六歳かそこらのとき、高熱が出てどうしようもなくなったことがあった。
 雨のせいで身体は冷え切っていたし、汚染された砂が巻き上げられて気管を汚した。身体が動かなくても腹は減った。最初のうちは恐怖と孤独で震えが止まらなかったのに、意識がぼんやりしてくると、そんなことはもうどうでも良くなってくるんだ。熱と、寒さと空腹がごちゃ混ぜになって、真っ黒な、タールの色をした放心になる……その上に、何かもやもやした形の穴がうっすらと開いてきた。それは死の予感だった。
 おれの心臓は生きたいと、そう叫びながらビートを刻んでいた。それなのに、身体は、予感に覆われてもうすっかり諦めてしまった。人間は、何か大きな、抗い難いものを直感したとき、自然に膝を折ってしまうようにできている。そのほうが、楽に生きられるからだ。おれも例外ではなかった。
 でも、それを良しとしない誰かが、死にかけのおれの手を引いた。
 それが、ジャックだった。
 おまえも知っているだろう、ジャック・アトラス、<サティスファクション>のベーシスト、おれの生涯の戦友。でも、そのときはまだ、お互いただの孤児だった。
 ジャックは雨の中道路に仰臥するおれを見つけると、小さい身体で必死におれを背負って、自分のねぐらに連れ帰って一晩中看病してくれたらしい。看病といっても、ろくに教育を受けてこなかった子供にできることなんか高が知れている。濡らしたタオルで身体を拭いて、ゾウムシの幼虫を口に押し込んで、夜にはくっついて寝て、体温を移す、それくらいのものだ。それでも、おれにとって、物心ついてから初めて受け取るきちんとした愛情だったんだ。
 朝になって、目を覚ましたおれは、嬉しそうに覗き込むジャックの顔を見た。雨上がりの明るい光に、ジャックの笑顔がきらきらかがやいて眩しかった。そのときから、おれは……ジャックを愛してた。
 そう、おれはジャックを愛していた。この国の人たちは、男性と女性が愛し合うことが正しいとみな口を揃えて言うが、一人で生きてきたおれにとって愛はジャックの形をしていた。ジャックはおれに音楽を教えた。市場で売り叩かれていた、ジャックの宝物のギターを、二十五セント硬貨で弾いて弾くんだ。
 やがておれたちはクロウ・ホーガンに、カリン・ケスラーに出会った。小柄なクロウはありとあらゆる瓦礫を集めてきてはドラムにしてしまう天才だったし、お調子者のカリンは歌とピアノが誰よりもうまかった。ギターとベースが違う楽器なのだということも、カリンが教えてくれた。ジャックがどこからか古いエレキベースを盗んできた。四人でロックをやった。
 おれが十八のとき、四人の青春は<サティスファクション>という名前のロックバンドになった。<サティスファクション>が有名になって、おれたちはようやく、一人ひとりの人間としてこの世に生を受けた。ユウセイ・フドウは、生きることへの渇望という不定形のものから、一人の人間になったんだ。それと同時に、おれとジャックの関係もまた、形をもった文化的なものに変容しようとしていた。
 ある日、好きだと言ったら、彼はキスもハグもセックスも全部おれにくれた。
 幸せだった。
 
 <サティスファクション>の勢いは止まるところを知らない。おれたちはサウス・ブロンクスのクズから世界のスターに早変わり、清潔な家も旨い料理も、女の子からの投げキッスも、全てのものが瞬く間に満ち足りた。おれたちは正式に事務所と契約を交わし、定期的な収入を手にし、アルバムを出し、おれたちを求めるファンの声に応えて海の向こうにも演奏しに行った。もう誰もおれたちを孤児と呼ばなかった。
 だが、躍進も長くは続かなかった。カリンがエイズで死んだんだ。<サティスファクション>の栄光も最高潮に達しようとする、まさにそのときに。
 二十一歳になったばかりのおれは、カリンの死を心の底まで受け入れることができなかった。直前まで、おれたちはカリンがエイズだなんて知りもしなかったんだ。
 やつはきっと、死ぬまでずっとロックをやりたかったんだ。ホスピタルに押し込まれて、訳のわからない薬を打たれながら死んでゆくのが嫌だったんだ。何年も一緒に苦楽を共にしてきた仲間の思いが、おれたちには手に取るようにわかった。わかるからこそ、手遅れにならないうちに気づけなかった自分を、おれは憎んだ……。
 結局、おれたちはロックを止めることになった。ボーカルを失ったロックバンドなんて、石のついていない指輪のようなものだ。カリン以外に<サティスファクション>のボーカルはいない、というのが残された三人の共通認識だったから、バンドの瓦解は自然な成り行きと言えた。
 青春は過ぎ去った。それでもジャックはおれのことを好きだと言ってくれたが、おれは……。……ただの人間になってしまったおれは臆病だった。疲れていた。おれはジャックを振った。
 愚かなおれはジャックをメキシコ料理の店に呼び出し、緑色のワカモーレを奥歯で噛み潰しながら、ジャック、別れよう、と言った。その声があまりにも平坦で、冷え冷えして、おれは卒倒しそうな気持ちがした。だが、ジャックはそうではなかった。怒ることも、泣くこともせず、竹編みの椅子の上にしゃんと佇んで、ジャックはおれの顔を見た。ゼログラフィが文書を正確に写し取ろうとするみたいに、おれの顔のあらゆるパーツ、おうとつ、額のふちから顎の先に至るまでを、見た。
そのときの、ジャックのきれいな目を、おれは罪悪感とともに強く記憶に刻んだ。きっと生涯忘れることはないだろう。やがて彼はおれから視線を逸らして俯き、顎を軽く引いて、小さな子猫みたいに頷いた。

 ジャックのことを忘れたくて、おれは結婚した。女性なら誰でもよかった。ジャックのことを忘れられたらそれでよかった。その人は、<サティスファクション>が海外ツアーで日本を訪れたときに、落としたハンカチを拾ってくれた人だった。小柄で、綺麗というよりはかわいい人で、笑うと頬の上に小さな笑い皺ができるのが魅力的だった。何もかもジャックと違ったから安心できた。結婚式は父の故郷の小さな町で挙げた。すぐにおまえが生まれた。
 今はとても幸せだ。母さんのことも、おまえのこともおれは本当に愛している。だが……それでも、ジャックを、あのあと、誰にも別れを告げずに姿を消してしまった美しいジャックのことを、おれはいまだに忘れられないでいる……


 言い終わらないうちに、父はアキラから視線を外し、夜明けの空を眺めた。地平線から溢れ出した朝の光が、父の、老いに流されゆく男の横顔のあまねくを白く照らした。
 父の告白は、アキラの苦悩への答えでも、ヒントですらもなかった。彼はただ、自分の中に長らく渦巻いていた後悔を、一思いにアキラにぶつけただけだった。
「軽蔑するか」
 そう問いかける声は低く引き絞られて、掠れている。
「おれは、弱いんだ。おれの恋も弱かった。結局そんなものは幻想にすぎないんだ。ひとときの、名前のない激情を何か美しい言葉の中に当てはめて、勝手に満たされる人間のエゴだ。おまえを悩ませる価値もないものだ。だが、おれは……それでも……」
「父さん」
 アキラが、皺の増えた大きな手を一思いに握り込めると、父は力なく笑った。肩をすくめる仕草に、深い倦怠が滲んでいる。
「アキラ、おまえは後悔なんてするな。おまえの意志が、選択が、間違っていたなどと思うな。目を逸らさず、信念を持って突き進むことができれば、いつかそれは本当になる。おまえは、今のおまえのままでいいんだ」

 翌日、アキラは学校に行くことにした。
 教室に入ると、クラスメイトたちがひとときこちらを一瞥し、またすぐに各々の世界に帰ってゆく。窓際の席、愛した男が忌々しげに視線を逸らすのを、アキラはとても静かな気持ちで眺めた。




   父の秋扇

 雨季のヴァラデロはすっかり南国の陽気だ。潮の強い香りに強い陽射とカリブ海からの湿っぽい季節風が混じって、じっとりと肌をなぶる。
 ファン・グアルベルト・ゴメス空港は、スペイン人の観光客や客待ちのタクシー運転手、土産売りの老婆なんかで、ジャングルの密林もかくやとばかりに混み合っている。この、発展途上国の空港ならではのひどい混雑と無秩序の間を抜けてターミナルに辿り着くまでの間に、アキラは目が霞むほどの汗をかいてしまっていた。彼は日本からここに来るまでに、ニューヨーク、フランシスコ、メキシコシティを経由したが、キューバの熱気はそのどれとも違っていた。蒸れた草むらの中に足を突っ込んでいるときに似た居心地の悪さに、アキラは眉を寄せる。
 約束の時間を五分過ぎて、迎車のタクシーがターミナルに滑り込んできた。
 黒のメルセデスで、窓越しに手のひらを上げたのはアフリカ系の男だった。予約の電話を入れたとき、やけに流暢な日本語を喋るので、てっきりアキラと同じ日本人なのかと思っていた。彼は車から降りることなくアキラを手の動きだけで呼び寄せ、後部座席に乗り込むよう指示した。
「ようこそ、ヴァラデロへ。あなたが不動アキラだね」
「ああ」
 不動アキラ、十九歳、男性。漠然とした、しかし非常に切実な若い衝動のために、大学進学を先延ばしにしてアメリカ大陸を一人で旅している。
 足元には小さなトランクケースが一つ。三日分の替えの洋服に大きな地図帳、野宿のためのテント、非常食、マッチ、日記帳、機内で購入した旅行雑誌、それから睡眠薬の瓶……乗り物酔いのひどいアキラにとっての命綱……中身はそんなものだ。彼は先にそれを持ち上げて座席の奥に押し込むと、自分も身をかがめて車内に乗り込んだ。
「オーケー、アキラ。よろしく。それじゃあシートベルトを締めて。ツーリストカードは持ってる?」
 アキラのツーリストカードを見て、男は承知したとばかりに頷き、再びエンジンをかけた。ツーリストカードにはヴァラデロ中心部にあるカサ・クレマというスペイン資本のホテルの名前が載っている。事前に手配しておいたところだ。初日はここで休み、明日からさまざまな遺跡や観光地を見に行くことになっていた。週末にはヴァラデロを出て、ハバナ、トリニダの方にまで足を伸ばす予定だ。このタクシードライバーは、アキラがキューバに滞在するあいだ、送迎とガイドを担当してくれることになっている。
 アキラが革の座席に身を預けたのを確かめて、男がメルセデスを発進させる。
 車はすぐに市街地に入り、そのうち海に出た。ヴァラデロはキューバの北東に伸びた半島の町だ。赤やオレンジの花が吹きこぼれるみたいにして咲く灌木、パステルカラーの眩しいスペイン様式の集合住宅、健康そうな栗毛の若駒が引く国旗色の馬車。二十キロ先まで続くカリビアンブルーの海に、青ざめた砂浜のコントラストが痛いほどまばゆい。うら若いヨーロッパ人たちが半裸になってビーチバレーに興じているのを、アキラは肘をついてぼんやりと眺めた。ため息が不意に溢れる。
 男は単調な直線の道路に飽きたのか、ハンドルから離した右手で車に備え付けてあるCDプレイヤーを操作した。聴き覚えのあるボーカルのロックバラードが、質の悪いスピーカーから流れ出した。つれない恋人の歓心を求め、嘆き悲しむ男の心をハスキーボイスで歌うのはカリン・ケスラーだ。
 <サティスファクション>のメジャー曲の一つだ。
「知ってるかい」男がバックミラー越しに歯をみせる。「キューバに一人で来るアジア人の男は、みんな失恋してるって相場が決まってるんだよ」
「……<サティスファクション>?」
「ファンなんだ」
 快活な笑い声。彼らのファンには旅の間に何度も遭遇してきたが、今回も、やはり誇らしくて胸がくすぐったくなった。間奏に入り、ワウペダルを踏んだような、煌びやかで無駄のないギターソロがやってきて、これ俺の父さんが弾いてるんだ、と何度も口にしそうになった。むずむずと膝をこすり合わせるアキラに、何か勘違いしたらしい、男はさらに声高に続ける。
「ここだけの話なんだが、オレは前に一度、ジャック・アトラスを乗せたことがある。この車にな」
「何だって?」
「住んでるんだ。ジャックが、この、ヴァラデロに」
 青天の霹靂だった。ジャック・アトラスが、ここ、ヴァラデロに住んでいる。かつての父の恋人、別れを告げられたあと、誰にも行き先を告げることなく姿を消したというあの人が。
 会ってみたい。

 無理を言って、ホテルよりだいぶ手前の市街地で一度降ろしてもらった。遠くはあるが、歩いて行けない距離ではない。家で妻と子が待っているという男には、ひとまずの暇を出しておいた。
 大通りが長い露店市になっていて、ヴァラデロ・ストリート・マーケットという立て看板がそこかしこに立っていた。連立する藁葺きのパラソルの間を、派手な色のシャツを着た観光客集団が多く行き来する。チェ・ゲバラという革命家の顔をプリントしたTシャツ、繊細なかぎ針編みのワンピース、雄牛の角、煙草、アルミ缶でできた車の模型、細やかに彫刻を施された黒珊瑚の置物、さまざまな土産物が、それぞれの物売りたちの前に所狭しと並べられている。果物や野菜の量り売りもあって、アキラはその中からココナッツを一玉、二ペソで買った。
 薄く剥いたココナッツにストローを刺し、中身を飲みながら歩いていると、出し抜けに、後ろから老人が声をかけてきた。節くれだった指や腕に色とりどりの宝石を付け、口に太いシガーを咥えた傴僂の老人だ。振り返ったアキラを見るなり、老人は、あんた、人を探しているのだね、とスペイン訛りの英語で言った。
「オレの知り合いにサンテリアのシャーマンがいる、あんたがもし人を、或いは他の何かを探しているのなら、彼に聞くのがもっとも良い手がかりになるだろう」
サンテリア?」
「ああ」
 サンテリアというのは、スペイン人の抑圧下にあったかつてのキューバ人たちが脈々と受け継いできた、シンクレティズム的な秘密宗教だ。多くの宗派があり、習慣、ルール、教義も多岐に渡るが、それぞれが独自の打楽器やリズムパターンそれに歌や踊りを持ち、毎年決められた時期に儀式を行う。そして、この儀式を通じて神や精霊に肉薄し、その声を直接聞いて他者に伝える者こそが、シャーマンと呼ばれる呪術師であるというわけだ。
 だが、アキラはサンテリアについてもシャーマンについても何一つ知らなかったし、彼らの名を騙って観光客をうまく利用しようとする詐欺師の存在にもさっぱり感付かなかった。老人の話は、異郷の熱気と雰囲気に巻かれて非常に魅力的なもののように思われた。
「どうやったら、その、シャーマンに会えるんだ」
 のぼせた声で、アキラは尋ねた。
 老人はもったいぶって散々アキラを焦らしたが、最終的に、鑑定料として百ドルを要求した。普段は紹介料も請求するのだがあんたは若いから、と、そのように付け足しもした。それはアキラにとって、容易に出せはしない価格だった。だが、出すのが不可能というわけでもない。
「オレはあんたを見てピンときたんだ。サンテリアの儀式は秘密のものだから、今後、あんたの気が変わっても、もう彼らに会うことはできない。今日限りだよ。せっかくのチャンスを逃したくはないだろう?」
「だが……」
「オレがあんただったら、そんなばかな真似はきっとしないね」
 アキラは迷ったが、結局、彼に金を渡すことにした。
 ココナッツを老人に預け、トランクケースから財布を取り出し、紙幣の枚数を数える。老人の目がその様子に熱心に視線を注ぐ。なんだかとても居心地が悪くて、一枚一枚を捲る指の動きが自然にゆったりとしたものになる。
……やにわに、強い力で腕を後ろに引かれた。
「言葉巧みに観光客を欺いて金を搾り取るのがペテンの常套だ。本物のシャーマンは客と会って対価を決める」
 毅然とした、風格のある男の声だ。混じり気のない、綽々たるアメリカンイングリッシュだ。
 目の前の老人は途端に慌て出して、小さく身体を丸めながら反論する。
「あ、あんたいったい何なんだ、何が言いたいんだ。取引の邪魔をしないでくれんかね」
「それは自分に問えばわかることではないのか、老人」
 アキラの耳の横をしなやかな腕が横切り、老人のゆったりとした服の襟元を掴み上げた。金や、オウムガイの羽で作ったカラフルな装身具がジャラジャラと音を立てて揺れた。アキラのココナッツは老人の掌を離れ、床に悲しく転がる。まだ八割残っていた中身が、乾いた砂の上に染み広がる。
 老人はすっかり腰を抜かしてしまって、なにやら声高に叫ぶと、這うようにして雑踏の中に消えていった。逃げ足に転ばされた子どもがわっと泣き出す。哀れなほどの醜態だが、無理もないな、とアキラは他人事のように思っていた。何せ、アキラの後ろに立っていたのは、二メートル近い長躯の男だったのだ。
 その人は……、四十過ぎの頃とは思えぬほど、あざやかな、溌剌としたエネルギーに満ちていた。爛漫と咲き溢れる奔放で艶やかな華麗と、恐ろしいほど閉じた虚ろな貞淑さをその身ひとつに備えていた。ドレスシャツから覗く匂いやかな白い皮膚、眩い太陽の髪、楚々とした、それでいて非常にコケティッシュな菫色の瞳、そのすべてがみずみずしく活力に溢れ、かつての栄光の星がその上に爛々と輝いていた。
 静粛に注がれる眴せに、身がすくむような感じがする。この優雅で厳粛な美しさがなにを原動とするものなのか、その時のアキラにはわからなかったが、ただ一つ、はっきりしていることがあった。
 アキラが探していたのはこの人だ。
「ジャック・アトラス……」
 それが彼の名前だった。
「おまえは」……美しいジャックは、静かに息をつめてアキラを見下ろした。漠々たる群衆の中で、彼の存在だけが水を打ったように粛々としていた。
「……ユウセイの息子か」

 行方知れずになってからのジャックは、やはりここ、キューバ・ヴァラデロに住んでいた。もうだいぶ長いようだった。ああした詐欺師の対応はもう慣れっこのようだし、野次馬を払うスペイン語も堂に入っている。
 彼は飛行機で一晩を過ごしてすっかり腹をすかせている、また二ペソのココナッツを失って項垂れているアキラを見下ろして、食事にでも行くか、と提案した。
 ジャックが案内してくれたのは、ホテル街のはずれにあるレストランだった。マンシオン・ザナドゥーと呼ばれる、デュポン財閥の別荘を改築して作られた歴史あるスパニッシュ・コロニアルだ。マホガニーの天井装飾や真っ白な石の壁、情趣溢れる古風な装飾などが明媚だった。そのアンティックなムードにジャックの白い肌はよく似合った。ジャックは、食事を楽しんでいた黒肌の現地人たちに注目された。
 二人は小さなボールルームを改装した、海の見えるテーブル席に案内された。
 ジャックはスタンダードなコースを二人分に、ボリバーという名前のシガーと、七年もののラムをストレートで頼み、アキラにも勧めた。まだ未成年であるからとアキラが断ると、「それくらい何だと言うのだ。おまえの父親は、十になる頃にはテキーラを呷っていたぞ」
「あの、静かで控えめな人が? 想像できないな」
「家族の前では大人しく振る舞っているのだろう。ユウセイは、俺たちの中でいちばんの型破りだったのだぞ」
「本当に?」
「ほんとうに」上機嫌な様子でくすくすと笑う。ジャックが笑うのは、白くて小さな釣鐘草の花が風に戦ぐのに似ている。
 ジャックがグラスに注がれたラムを一息に飲む。琥珀色のラムが、薄い皮膚に包まれた喉を滑り落ちてゆくのを想像する。
 前菜はすぐに運ばれてきた。人参を薄くスライスして蒸したものと、ウオーターメロンやマンゴー、パパイヤなどのフルーツ、小さなエビを揚げたもの、それからランゴスティン、つまりロブスターのカクテルだった。アキラがエビを一、二尾つつきはじめた所でスープもやってきて、これはランゴスティンのクリームスープだった。
 熱帯の海に育まれた魚介の、ぎゅっと詰まった実に舌鼓を打ちながら、何気ない取り留めのない話をした。ジャックは父の近況を聞かせてくれとせがんだ。二人はこの二十年の間、会うことはおろか、声で語らうことすらしていないのだと彼は言う。このあいだ重いものを持ち過ぎてぎっくり腰になったのだということを話したら、やつも衰えたものだ、と独言て、ジャックはその流麗な眦を緩めた。
 ほどなくして、メインの、ランゴスティンを丸ごと使ったグリルが運ばれてきた。アキラは淡々と殻と実をナイフで分けながら、内心とても驚いていた。父のことで、ジャックがもっと沈んだ様子を見せるのではないかと思っていたからだ。彼が独り身であるということが、アキラのそうした想像をさらに助長した。しかし、今目の前に座るジャックは豊かな魅力を湛え、快哉たる面持ちでアキラに笑いかけてくれる。
「何か強い酒を」
 黒服のウエイターを呼び、ジャックはそう言ってポーランド産のウォッカを頼んだ。
 首にバンダナを巻いた髭の男がフロアにやってきて、よく磨かれたサクソフォンで有名なジャズを演奏した。ジャックはシガーに火をつけて咥え、革靴をゆっくりと鳴らしながら、その奏楽に聞き入っている。すぐにウォッカがボトルで運ばれてくる。隣のテーブルにいたカップルがジャックの顔を盗み見ながら何かを噂している。
 肝心な話はできないまま、アキラはデザートのはちみつ漬け蒸しパンに手を伸ばした。バルコニーの外では、灰色の雲がにわかに海上に湧き起こり、ビーチを厚く覆い始めていた。

 邸を出るころ、ヴァラデロはスコールに覆われていた。キューバでは、雨季になるとよくスコールが起こり、視界が霞むほどの雨が降る。強い雨脚の中、市街地へと続く大通りでは、子どもたちが転げ回ったり跳ねたりしながら大喜びで遊んでいる。婦人たちが勝手口から出てきて、自分の子どもを家に連れ戻そうとずぶ濡れになりながら探して歩いている。
 ジャックはしばらく、積雲や積乱雲が層をなす鈍色の空をふり仰いでいたが、やがて「俺のアパートが近い、雨が止むまでそこにいるのが良いだろう」と言ってくれた。
 ビーチのすぐそばにある上等のアパートの五階、オーシャンビューの小さな部屋がジャックの終の住処だった。
 狭くとも、内装は遊び心に溢れ、かといって輻輳しすぎるわけでもない、居心地の良さそうなところだった。海を望むガラス張りの出窓には熱帯の花が色鮮やかに咲き乱れていたし、背の低い本棚に収まった色とりどりの背表紙には、それぞれへの思い入れを感じられる手作りのカバーがついている。吹き抜ける潮風にかすかに音を立てる真鍮のベルは、ジャックの楽園をより一層すてきなものにした。ジャックはもうロックをやめたと言っていたが、それでも、エスニックなつた模様の壁にはよく手入れされたエレキベースが立てて置かれ、手作りの風情に満ちた小さな木製のラックは、時代を問わずさまざまなジャンルのレコード、テープ、CDなどをいっぱいに抱えていた。
「コーヒーで良いか」
 リビングの奥のキッチンに引っ込もうとして、立ち止まり、顔だけをこちらに出したジャックがそう聞いた。頷きだけで返す。彼も点頭すると、今度こそキッチンに入り、そのうち低く豆を挽く音と香ばしい香りがこちらにまで漂ってきた。
 二人掛けの大きなソファに腰を下ろして、アキラは部屋を見渡した。ローテーブルを挟んで反対側の壁際に、陶器の器や金属のツヤツヤした置物、トロフィーを飾ったガラス棚があり、その上にたくさんの写真が飾られていた。みな木の写真立てに丁寧に収められ、埃一つついていない。
 アキラは身を乗り出し、その一つ一つをつぶさに観察した。宝石で全身を着飾った女優や、貫禄ある老映画監督など、アキラでもその名を知るような著名人たちが、ジャックと一緒に写っているのだった。ひときわ大きな額縁の中には、栄華を極めた頃のサティスファクションが四人で映るブロマイド写真が収められていた。
 そうしたものの中に、アキラの父……ユウセイが、一人で映った写真もあった。アキラは息を飲んだ。柔らかいソファから知らず腰を浮かせ、年若い父の肖像に顔を近づける。
 寡黙で、いつも仏頂面の父が、こちらに向かって笑顔で腕を広げていた。アキラによく似た薄い頬肉はゆったりと持ち上がり、男らしく凛々しい眉は、至上の逸楽に優しく緩んでいる。精悍な若者のパーツすべてが、撮影した誰かへの愛しさ、慈しみに溢れている。こちらが恥じ入ってしまうほどに、写真から迸るのは愛情と喜びのみだった。
 父もこんな顔をするのだ……、十九年の半生のうちで、初めての発見だった。
 ジャックがアイスコーヒーを淹れて戻ってきた。
 彼は、父の写真を眺めるアキラの姿を見て、はじめて傷ついたような表情を見せた。それほどまでに、アキラは青年の頃の父に生写しだったのだ。彼の美しい顔が望郷の悲しみに歪むのに、アキラの胸にも、言いようのない痛みが去来するのだった。
「砂糖はその中だ」
 長いつま先が、ローテーブルの上に慎ましく座り込む小さな白磁のシュガーポットを叩く。
「ありがとう」
「おまえの母親を都合のよい後釜にする男ではないぞ、やつは」
 ミントを乗せたフローズン・ダイキリを携えて、ジャックもソファに腰掛ける。アキラは、はじめ彼が何を言っているのか理解できなかったが、……要するに、ジャックは自らの不義をアキラに詫びているのだ。
 エアコンの送風がジャックの長い髪をかき乱す。
「無論、あれから二十年あまりだ、おまえが心配するようなことはもうなにもない」
「違う……父さんは」
 あなたを忘れられないと言ったんだ、そう口にしようとして、やめた。おかしなことだ。アキラという息子にとって、父のそばに寄り添い、支える相手は母しかいないはずなのだ。それなのに、アキラはいま、ジャックに求心する父の心を暴露しようとした。
 肝が冷えた。アキラは、この、出会って間もない他人同然の男に強く惹かれていた。それは彼が放つ独特なオーラ、ほかのあらゆるものの存在感を希薄に変えてしまう強いオーラにあてられたからであり、また、アキラ自身が、この人を憎からず思い、その歓心を得たいと感じはじめていたからでもあった。その気づきは恐ろしい啓示だった。多重に交わった想いの糸が、冷たい運命のかたちに絡まりはじめていた。
「まだ父さんを愛してる?」他の選択肢を頭の中でひたすらに潰しながら、アキラは、ただ一言そのように聞いた。
ジャックはスプーンで乳白色の細かな氷を掬い、それを上品に口に運んだ。薄いスイートピーの花弁を思わせる唇が、冷えた金属に触れてうっすらと濡れた。
 彼は顔を上げた。その目は少しもたじろがなかった。水を打ったような強い張りを帯びて、アキラのことをまっすぐに見つめた。
「永遠の愛があるのだということを、俺は最後に、ユウセイに教わった。いまは、それだけがすべてだ」
 ジャックは澱みなく答えた。使い古された、軽々しい表現のかたちをとって、彼の内側から密度のある重たい何かが吐き出されたことを、このときアキラははっきりと感じていた。

 スコールは、やがて雷を伴う大雨に変わる。
 アキラはジャックのアパートに泊まることになった。一度暇を出した運転手を再び呼び戻すほど気ままにもなれず、かといってこの雨ではホテルにたどり着くのも困難だろうと思われたからだ。ジャックはアキラが予約していたホテルにスペイン語で電話を入れ、夕食のためにプエルコ・アサードと呼ばれる豚の丸焼きを振舞った。キューバに滞在する間、この部屋を自分の家のように思え、そんなふうにも言ってくれた。
 夕食の後にシャワーを浴びたが、とても快適だった。地元のアパートメントには珍しく、足を伸ばして入ることのできるバスタブがあり、湯加減もちょうどよく暖かく、アキラは本当に自宅にいるような気分でくつろいだ。
 寝巻きに着替え、ジャックと入れ替わりに浴室を出る。頼まれたとおりに窓辺の花に霧吹きで水をやる。紫色の花弁が、水滴を帯びて生々しく輝く。
 ロビーに放ってあったバックパックから寝袋を取り出し、広げようとしていた頃に、ジャックはリビングに戻ってきた。開襟シャツに、ゆったりとしたパンツを合わせた装いで、長い髪はまだ幾分か湿っていた。寛げられた襟元から、首の辺りが花の色にじんわりと温められているのを見とめ、アキラは勢いよく視線を逸らす。
「風呂、ありがとう。じゃあ俺はもう寝るから」
「何?」ジャックは、アキラの寝袋とアキラ自身を交互に見て、不思議そうに首を傾げる。「その布切れで寝るのか?」
「うん……」
「この部屋にもベッドくらいはあるぞ」
 ベッドで一緒に寝ればよいのだ、と、彼はそう言いたいのだ。
「おまえ一人増えたところで、どうということはない!」
 ジャックの微笑みは快活だった。後ろめたいところのない、実に晴れやかで曇りなき笑顔だった。
 アキラは自らの性質と、今日のうちに立ち起こったあらゆる心情の変化の一つひとつを検分し、これらが引き起こすたった一つの可能性をも見通して、その上で、頷いてしまった。彼の純情は甘い香りの誘引だった。しおらしく恭順の意を示したアキラを見下ろし、ジャックはとても満足そうだ。
 寝室は、キッチンの奥、短い廊下の一番奥に配置されている。手狭な室内に、大の大人が2人で足を伸ばしても余りあるくらいの大きさのベッド、支柱に寄りかかるクリプトステギアの鉢植え、雑誌や楽譜の詰め込まれた本棚、それからレコードプレイヤーくらいのものが、至ってシンプルに配置されていた。天井近くに横たわる明り取りの窓の中で、くろぐろとした雷雲が塒を巻いている。
 シーツは石鹸の良い匂いがする。その薄い布の中で、二人、おのおのの眠りを探った。
 アキラは、眠れなかった。毒々しい蛍光色の思考が絶えず彼の脳裏を支配した。瞼の裏は今日起こった出来事の数々で大渋滞だ。しかし、目を開けたら開けたで、横には穏やかに呼吸するジャックがいる。麗しい横顔に浮かぶあどけない表情、無防備に開いたシャツの胸元が、若いアキラの胸を悪戯にくすぐる。
「……眠れないか」
 不意に、囁くような声がそんなことを言ったので、アキラは大袈裟に肩を震わせた。ぎゅっと閉じた瞼の向こうで、かすかに微笑む気配がする。
「俺もだ」

 その一言は、十九歳のアキラの官能の部分に真っ直ぐに突き刺さった。
 ジャックにとっては、何気なく発した言葉のうちの一つだったのかもしれない。しかし、アキラにとっては違った。彼は、いま受けた衝撃を自らの中で理性的に処理することができなかった。腹のあたりから情緒の風がつま先、頭の先に至るまでをざわざわと駆け抜け、遅れて夥しいほどの甘い感覚が、同じ軌跡を順当に辿ってはじけた。指や頬や足先に、あるいは別の部分に、自らのうちで起こったとは思えぬほどに煮えたぎった熱が上った……要するに、アキラは彼に欲情したのだった。それはもうはっきりと、言い訳が立たないほどに。
 アキラはがばりと半身を起こしたかと思うと、瞼を閉じたままのジャックの身体を烈しく掻き抱いて接吻した。驚き痙攣する肩を強く掴み、柔らかいベッドの上に押しつける。濡れた舌は熱い粘膜のすみずみまでをたしかめ、その実在性を神経の末端に至るまでに浸透させた。
 白い肉体は震えていたが、拒絶のそぶりはなかった。
 シャツのボタンを乱暴な手つきで外す。粗雑な扱いのせいで糸はほつれ、ボタンのいくつかは、急いた爪先に弾かれて床へ転がった。とうとう指が袖ぐりの脇の温かい皮膚に触れたとき、アキラは全身が燃えるような心地がした。
 目の前に差し出された肉体は実に巧緻なものだった。そのすみずみまでをアキラの視線がゆき、その通りを、今度は唇がたどった。彼の肌はこの国にはない冷たく深い雪の輝きを放った。白痴ではないかと思うほど無抵抗な肉のやわらかさ。頸や、手の甲、脇腹などに、ほのかに透いて見える青い血潮。たいらな胸は呼吸のたびに緊張したり弛緩したりする。肋骨から腰に至るまでを無駄なくしなやかに覆う筋は、その輪郭をあでやかに描き出し、腹筋の筋目の下に、慎ましく謙虚な臍窩を絞っている。少しも衰えを見せない、まただらしなく弛んだところのない身体は、さながら古い彫像のようで、その無機質なほどの厳粛さがかえってアキラの情念を煽った。
 唇が首のほうへと昇ってゆく。鎖骨は、この美しい肉体と首との間に流れる稟性を正しく律した。肩から鎖骨、頸にかけて流れるのは天使のアークだ。その軌跡にいくつもの愛嫵を施した。そうしてようやく、アキラの視線は、ジャックの美しい顔を真っ直ぐに捉えた。
 形よい鼻梁の美麗なこと。凛々しく顳顬のほうに連なる眦は、驚愕と高揚に微かに上気して赤い。瞬きのたびに頬の上で踊る睫毛の青い影、外界に冷たく張り詰めた怜悧な頬のやわらかさ。そして、女のように赤みを帯びて濡れる唇……そこに、アキラは自分の唇を再び圧し付けた。
 かつて父もこうして、彼を愛したことがあっただろうか……。口づけは揺籃となり、夢と、おぼろげな現実のあいだを頼りなさげに行き来した。接吻の空隙に、ふっと漏れ出たかの人の名前を、アキラは聞き逃さなかった。
「俺は父さんに似てる?」
 口をついて溢れた言葉は、どこか子供の駄々のようでおかしかった。
 彼は頭を振って否定する。お前はお前だ、、、、、、、淋しいすみれ色の瞳がそのように言う。
 愚直にもアキラはその答えに非常に満足した。汗の滲み始めた寝巻きを雑に脱ぎ捨て、裸の胸を、腹を、狂おしいほどに触れ合わせた。まるでそうあることが正しいのだと言わんばかりに、二度と離れることは不可能だとばかりに、皮膚と皮膚との隙間を限りなく埋めた。皮膚でさえ邪魔だ、溶け合ってひとつになりたい。
 震える指で彼の右手を探ると、扇のように折り重なった優美な指先が開いて、アキラの掌にそっと重ねられた。遠い昔、二十五セント硬貨でギターを弾いてみせた、繊細な指だ。
 こうして、アキラは父のかつての恋人のところに入り果せた。押し入ったときの痛みが、彼のけなげな貞節に思えて胸が痛んだ。年下の若い男に暴かれながら、彼は歔欷の醜さに顔を歪めることなく、一筋、静かに涙をこぼした。それでも彼は抵抗しなかった。アキラの好きなようにさせていた。



 ハイウェイに乗って大西洋沿いを南下すると、ジャックのお気に入りのビーチが見えてきた。のっぽのヤシが数本植えてあるだけの殺風景なところで、車が降りて行けるくらいの大きなスロープが浜辺に渡してある。普段はもう少し活気があるのだが、その日は人っ子一人見当たらなかった。船もボートもなく、また海の向こうの島々も蜃気楼の中にぼやけて、おれたちは本当に二人きりだった。神さまが用意してくれたおれとジャックだけのパラダイスなんじゃないかと思った。
「ユウセイ、何をぼうっとしてる。早く行くぞ」
 助手席で水着に着替えたジャックが張り切っている。タックルするみたいにしてドアを開け、裸足で波打ち際の方に走ってゆく。白く張り詰めた肉体が強い陽の光に眩しく輝いた。競走馬みたいに引き締まった二本の脚がのびのびと自由に跳ね回り、金色の小さな砂を激しく巻き上げた。
「ユウセイ!」
「待ってくれ、いま行く」
「遅いぞ!」
 おれはきちんとエンジンを切り、サイドブレーキが降りているのを確認してから車を出た。トランクに詰め込んだパラソルやデッキチェアを両腕に抱え、快然と踊るジャックの足跡に続いた。
 海はずっと向こうまで青い。珊瑚礁のまだら模様の上に、細切れの日影が躍動する。砂浜は犬が飼い主のそばでするようにのっぺりと横たわり、いたずら好きの小波がその脇腹をこちょこちょとくすぐる。海軟風が思うより強かったので、おれはひとまず荷物を乾いた砂の上にまとめて置き、ジャックの姿を探した。
 焦れたジャックはすでに腰の上まで海に浸かっていた。寄せては返す波の中で彼は回遊魚のようになり、水飛沫を上げながら奔放に遊んだ。
 おれが波打ち際に近づくと、彼は両腕を差し出して飛び込んでくるように誘った。サンダルを脱ぎ、ズボンをまくり上げて、彼の方へ勢いよく飛び込んだ。だが、水に入る直前、膝くらいの大きさの岩に爪先を引っ掛け、おれは全く見当違いな方向にその身を投げていた。身体が水に叩きつけられ、潮の匂いがにわかに口の中に広がる。鼻先がツンとする。
 大量に噴く白い泡の向こうに太陽の輪郭が浮かび上がってくる。かと思えば、それはふっと翳り、かわりに美しいその人の像が結ばれた。水中であるにもかかわらず、きらめく強い明眸は真っ直ぐにおれの心を射抜いた。強く引き寄せられ、脇の下に腕を回される。彼の甘い皮膚の中で、心臓の音が海なりのように響いている。二つの若い肉がゆるやかな水圧のなかで一つになる。
 おれはジャックにキスをした。
 唇はすべすべしていて、よく磨かれた陶器のようだと思った。おれのそば以外に行くあてもない唇。つめたくて、清らかだ。
「転けたのか?」
 気道に新しい空気がどっとなだれ込んできて、おれは咽せた。ジャックに引き上げられたのだ。頭から爪先までずぶ濡れになった彼が微笑んだ。
「ジャックが来いって言った」
「そう不貞腐れるな。せっかくのかわいい顔が台なしだ」
「不貞腐れてなんかないさ」そう言いつつも、唇は不満をたたえてみるみる尖ってくる。
「駄目だなあ、おまえは……」
 それは愛の言葉だった。
 手を引かれ、二人で再び沖の方へと泳いでゆく。背伸びすれば足がつくくらいの浅い場所で魚を探した。岩影に長い体を隠したウツボや、巨大に膨れ上がった小魚の群れ、ペンキで塗りたくったみたいな蛍光色の蟹なんかが二人を絶えず驚かせた。大きなイタヤラが目の前を悠然と通り過ぎていった時などは、我を忘れて興奮した。
 日が傾くころ、おれたちは浜に上がった。波打ち際に座り込み、夕暮れの海を見ながら冷えたビールを飲んだ。
 おれはふと、こんなことを言っていた。
「海のそばが良い。毎日ジャックと泳ぎたい」
「なんのことだ?」
「家」アルコールで舌がもつれ、うまく言葉が出てこない。「ジャックと住む家のこと」
 彼の花顔に淡い喜色が広がった。頬は、果実が内側の豊かさを皮の上に透かすような感度でうっすらと赤みを帯び、唇の端に幸福の予感を帯びて微かな笑窪が刻まれる。
「潮気はギターをだめにするぞ」
 彼はそんな憎まれ口を叩いたが、薄く繊細な下瞼に涕(てい)の震えが走るのを、おれは決して見逃さなかった。
「そうしたら、また新しいギターを買う」
「車は? エンジンルームなどすぐに錆び付こう」
「それも買い直そう。今のおれたちにはそう高い買い物じゃない」
「犬の毛が縮れる」
「犬はかんたんには買い換えられないが……毎日洗ってやろう。オレンジやレモンのシャンプーで、抱きしめたら良い匂いがするように」
「……おまえの好きにしろ」
 ジャックの頭が、諸肌が、おれの肩に柔らかく預けられる。
 おれは胸がいっぱいになって、その身体をきつく抱きしめた。小さな波が足先まで迫り、やがて静かに引いて行った。







 花弁を透かして見るような、淡い、銀色の光が、アキラの瞼を柔らかく覆う。前髪が跳ね上がり、顕になった額がほんのりと熱を持ちはじめる。
 彼ははじめこの贅沢な微睡みを手放すのは惜しいとばかりに、瞼の上に差した雨上がりの陽光から逃れるようにして寝返りを打った。清潔なシーツに顔を埋め、やわらかい枕に頬を擦り付ける。だが、ぬるま湯のようなうたた寝の中に、小さな疑念、胸騒ぎのようなものが立ち起こってきて、意識は急速に覚醒へと求心していった。長い眠りの間に、何か悪夢でも見たのかもしれない。
 胸騒ぎは次第に大きくなってゆき、すぐに看過できないほど膨れ上がる。何か、自分自身でもその実態を把握できないような不安に、唇を噛む。本当になんだろう。……その正体はすぐに知れた。
 朦朧としながらも、無意識に隣を探ったアキラは、いつまで経っても反応を返さない指先に違和感を抱き、ようやくうっすらと瞼を開いた。見覚えのない、低く、小さな天井。紫色の小ぶりな花をつけたクリプトステギアの鉢植え。年季の入ったレコードプレイヤーに、粋の良い小さな本棚。ここはジャックのアパートの寝室だ。
 ジャックは、いなかった。
 弾かれたように飛び起き、上半身裸のままでベッドを飛び出した。嫌な予感がする。心臓が歪な鳴り方をして、歯は知らぬうちにガタガタと震えてくる。「ジャック!」……大声で呼んでみたが返事はない。
 果たして、彼は薄暗いリビングの、ソファの上にいた。子供のように小さく膝を抱えた姿勢で横たわっていた。その手のうちには、……アキラが飛行機酔いのために持ってきた、小さな睡眠薬の瓶が握られている。中身はない。まだ二、三粒しか使っていないはずの錠剤が、ひとつもない。
「ジャック!ジャック!!」
 転がるように駆け寄って肩に手をかけると、ジャックは力無くアキラのほうへ倒れ込んだ。昨晩、腕の中で熱く燃え上がっていた身体は、恐ろしいほどに冷たく、そして軽かった。
 死んでいた。
 誇り高く美しく、清廉で、まっすぐな……咲く季節を間違えた冬薔薇のようなその人は、いま、アキラの目の前でその存在を散り散りに引き裂かれ、沈黙した。
 顎に触れ、そっと持ち上げる。まるでそれ自体が感じやすい生き物であるように、首が伸び上がり、真っ白な薄い皮膚が晒される。気管にとどまっていた最後の呼吸が、一縷の望みをかけて寄せられたアキラの耳がらをゆったりと撫で、どこかへと消えてゆく。
 アキラは間違えたのだ。今度こそ、完全に間違えた。彼が踏むのは父の二の轍だ。浅はかで、愚かな不信の道だ。
 他に並んで飾られていた父の写真は、いま、ガラス棚の上に伏せて置かれている。


 その後、不動アキラ少年が辿った道は、至って平凡なものだ。彼はジャック・アトラス殺害の容疑を早々に解かれ、日本に帰国し、地元の大学に進学した。中堅私大の文学部、専攻は日本文学科、誰しもが書けそうなつまらない修士論文を書き、つまらない会社の内定をとって卒業した。社会に出てからは、それなりの成功を手にし、それなりの収入を得て、何も知らない両親をアメリカ旅行に連れて行った。そのうち、変わる世間の中で同じ嗜好を持つ恋人にも出会い、彼と内縁関係になって、その後老衰で死去するまでの五十年間を一緒に過ごした。
 だが、父にジャックの死を告げることだけは、生涯なかった。