2020年6月26日

A-6


 その夜、非常に奇妙な夢を見た。遊星の夢はたいてい平凡だが、その夜は違った。疲れていて、それも変な疲れだった。頭というか、神経というか、今まで使ったことのない部分が消耗していた。具体的に言うと、目と、右のこめかみと、脳の奥のほうだ。身体は強く睡眠を要求していて、何十回となく眠りに引き込まれそうになるが、十代の背中のイメージがそれを破る、その繰り返しだった。
 彼女の背中は濡れていた。年季の入った蛍光灯の照明で、髪の生え際のあたりから背骨の隆起にかけてを白くてからせているのが、なんとも形容し難く、エロティックだった。すべらかで美しい、真っ白な背中。それとなく上気した形の良い耳。その凄艶な雪原の上に、ぽつぽつと椿の花弁が散らされている。遊星はこの背中をすぐ好きになった。唇を押し付けるとほのかに血色を滲ませ、呼吸にも肉慾が篭りだすのがなんともいじらしく、熱っぽかった。潤みきったヴァギナを甚振り、きれいなかたちをした乳房に顔を埋めていたりすることももちろん好かったが、ともすればあの背中を思い出し、どうしようもなく愛おしくなって指を走らせるものだった。雪原はどこまでも広がっていた。
ああ!彼女は遊星を見ないまま、後ろから挿れられて身体を仰け反らせた。ああ、ああ、ああ!甘く喘ぐたびに、背中の皮膚は緊張し、緩み、また緊張した。まるでそれじたいが、遊星に媚び、誘い、歓待しているかのようだった。美しいイメージ、つまり、昨夜の出来事なのだが、どうやっても消すことできず、最後には怖くなってきた。気になることがあった夜にそのことを忘れて眠りにつくいい方法を昔祖父に聞いた。目を閉じたときそういうものはたいてい映像としてあらわれる、それを、例えば井戸の底や深い谷に落とすのだ。何度かそういうことをやると、ばかばかしくなって、緊張しきった神経が心地よく緩む、脳と身体が一瞬リラックスして、そういうとき口元は微笑んでいる。そういう神経の裂け目を作ってやると、眠りはそこに入り込んできてくれるのだ。遊星は後片付けをすべて終えてから、そのやり方を何百回と試したが駄目だった。深い井戸の底から、十代の声が、遊星、と呼んだ。それは彼女がセックスをしているあいだ切羽詰まって縋り付いた男の名前ではなく、レストランで向かい合って食事をした男の名だ、そんな気がした。
 もう明け方近くだったのではないかと思う。二、三時間眠って、その夢を見た。ハバナだと思われる、原色のペンキで塗られたバルコニーに遊星はいる、強い香料の匂い、キューバの女が好むバニラに似た匂いがどこかから漂ってくる。外は日差しが強くて、あらゆるものの影が強い。外から家の中に目を戻すと、あるいはそれとは逆に視線を変えても、強いめまいが起きる。バルコニーだから、遊星は二階にいることになるが、家の中で行われていることをあえて見ないようにしている。音楽が聞こえているので、たぶんダンスのレッスンとかそんなものだが遊星は見ない。また目をつぶっているわけでもなくて、見ない。何も見ないという意思で、見ないようにしていた。バルコニーの下で、何か残酷なことが行われる予感がする。ヴァニラの香りのように、その組成が科学的にわかっている物質の、細かな粒子として、予感が漂ってくる。その予感に導かれるようにして、遊星はバルコニーの下の通りを見下ろす。そこには、ほとんど牛ほどの背丈の大きな山羊と、ターバンを巻いた老人がいた。老人は片方の手にナイフをもっている。半月形の、細く長いナイフだ。遊星は何が起こるかわかっているが、目をそらすことができない。老人は、その動作を何十年も毎日やってきたというような滑らかなやり方で、ナイフで山羊の首を落とした。遊星は前もって知っていたからこれが斬首だとわかったのであって、老人はただ山羊の首をやさしくなでただけに見えた。それにずいぶん長い間、山羊の首は胴体から離れることなく、一滴の地も流れなかった。首が地面に落ちる寸前まで、八木は首を動かして、青い草を食んでいた。地面に転がった山羊の首を見て、遊星は絶句した。山羊の首の断面に人間の顔が埋まっていたからだ。そうなんだ、というふうにターバンを巻いた老人が、遊星に向かって笑いかけ、うなずいた。こいつはさっき人を食ったばかりなんだよ。山羊の首に埋まっている人の顔は何か消火器から出続ける分泌液で溶けかかっていた。溶けた顔の残骸はクリーム色の汁となって山羊の首からの地とまじりあい昼間の地面へと流れ出て、ターバンを巻いた老人の影と見分けがつかなくなった……
 
 遊星がようやく起床するころには彼女はシャワーを浴び終わっていて、寝ぼけ眼で体を起こした遊星を見ると、空いてるぜ、と微笑みさえよこしてみせた。それは自らの領域を一晩のうちに許し、不躾な土足の世話をしてやった女が浮かべる、一種の愛情を含んだ笑みだった。遊星はおかしくなりそうだと思った、この女と、まさか同衾することになるとは、強烈な罪悪感と後悔が一度に襲ってきたが、顔を覗き込まれ、キスをされると、それすらどうでもよくなってしまうのがなんとも恐ろしかった。
 彼女はまだ裸だった。リネンカーテンの、半分空いた隙間から差した朝日が光芒を作り、彼女の白い身体のすべてを照らしていた。浅黒さにほと縁遠く、この常夏の地でむごいほど色白の肌は、冷泉の潮にたえず洗われて滑らかに引締っている。お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、芙蓉色の一双の蕾をもちあげていた。まるで名工が王に献上すべく作り上げた賭命の彫刻の、今まさに磨き上げられたばかりのようだ。彼女の強い魅力に思考すら手放した遊星が最初に行ったのは、彼女の身体を持ち上げて、強く抱きしめることだった。
「どうしたんだよ」
 くすぐったそうに笑いながら、十代は抱き返してくれる。それは遊星に過ぎ去った幸福な日々を連想させたが、それすらもう問題ではなかった、柔らかい身体を抱くと、まるでふわふわの羽毛を何枚も重ねた上を歩いているみたいに、おぼつかない心地になった。あつくるしいぜ、と、十代は軽く抵抗したが、本気で抜け出そうとはしていないみたいだった。
「おはようございます」
「うん、おはよ」
「よく眠れましたか?」
「おまえの腕が枕にしてはものすごくかたいこと以外は、快適だったぜ」
「そうですか、それは、すみません」
「電話したんだろ?」
「……はい」
 昨日遊星が無断でヨハン・アンデルセンの電話番号にコールしたことについて言っているのだということはあきらかだった、彼女はちゃんと気づいていたのだ。
「で、欲しい情報は手に入ったか?」
「いえ、ただあなたの娘と名乗る女性につながっただけでした」
「その子はアンナ。ヨハンの娘だ」
「ヨハン、さんは、ご結婚されていたんですか?」
「里子だよ」
 アンナという固有名詞は十代の顔をさみしく、醜くした。睡眠不足にもかかわらずきのうとは比べ物にならないくらい十代の前でリラックスできるようになったのは、応対に慣れたわけではなく、彼女が抱えているさみしさに気づいたからだ。ほかの人間にも共通にあるものをその人が持っていることがわかれば、安心できて、それがリラックスにつながる。
「アンナとは来た時からそりが合わなかった。オレはヨハンが取られた気がして悔しくて、アンナはやっとできた父親にいかがわしい愛人がいることが許せなかったんだ。それでもママと呼んでくれてうれしかった。この国にも何度も三人で来たし、分かり合えると思うときもあった、手をつなげばつなぎ返してくれた、そういう関係だったんだ。でもヨハンが死んで、オレたちには何のかかわりもなくなって結局絶縁した、ただヨハンとの思い出の家は正式な相続人のあいつに引き渡されてもう二度と入れない、アンナは最近結婚したみたいで自分の父親の愛人を夫に紹介することを怖がっている、違うんだ、ちゃんとおまえの父親を愛してる、おまえのことも愛してるよ、って伝えたかったけどおれたちには時間がなかった。ヨハンが死に急ぎすぎたんだいまだってちゃんと伝えたい。でもオレはもうヨハンのことしか覚えていない、あいつのことしかみていなくて、あいつの、笑顔と錯乱、それだけだ、それだけしかオレにはない」
「きちんとはなせば、わかってもらえるときがきますよ」
「いいんだ」彼女は音もなく息をつめた。そこにあるのは、海外で暮らす日本人の女の顔によくある、独特の寂しさだった。「わかってる」
「なあ、遊星」
「なんですか」
「オレは今年で六〇になる」
 十代は遊星の驚く顔をまじかに見ながらそう言った。十代の顔は、きのうとは少し変わっていた、その変化は何かを覚悟したような目つきであったり、固く引き結ばれた唇であったりした。
「四か月前は五十九だった。その一年前は五十八だ。オレはおまえが思うほどきれいな人間じゃないんだ。ほんとうはこうして抱かれる権利もない、やさしいおまえの腕の中で眠ってそういうことがわかったよ、おまえは、ヨハンじゃない、それなのにオレが覚えているヨハンのふりをする、オレはもういい年したおばさんなのに、むかしの出来事から逃れられずにずっと、ずっとだ、出会った時からずっとお前に甘えている、こんなオレを軽蔑するだろう、してくれていいんだぜ」
「十代さん」
「おまえの腕がオレをとらえて、抱きしめられたとき、オレはオルガズムの絶頂にいながらヨハンのことを考えていた、オレを置いていったヨハンのことを考えていた、ヨハンだけじゃない、友達も先生も知り合いも、いずれオレを置いていく、おまえもだよ、遊星、おまえもきっとそうなるさ、理由はもう覚えちゃいない、大事な出来事、人生の転機になるような大事な出来事だったはずなのに覚えていないのはきっと脳が覚えていたくないからなんだって思ってる、よっぽど怖い出来事だったんだ、ただずっとこのままなんだって告白した時のヨハンの顔は覚えてるよ、
 ええ、じゃあ十代、死ねないのか、
 そういうことになるみたいだ、
 エクスタシーをいっぱいやってもそれはだめってことなのか、
 ごめん、ヨハン、
 まったくだぜ、俺を一人にするつもりか?
でも結局オレが一人になったよ、ヨハンは、ヨハンは生きていたころには手に入れられなかった美しさを得て、オレのところを離れていった、オレはヨハンの不在を受け入れられない、だからおまえに、ごめん、遊星、ごめんな」
 十代はうなだれて、もう一度、ごめん、と言った。彼女の美しい唇と目許は涙ではない何かで濡れて光っていた。
「へんなんだ、遊星、オレはおまえに、なにをしてほしいのかわからなくなってる、ヨハンとしてそばにいてほしいのか世話をしてほしいのか、それともただ単に不動遊星としてそばにいてほしいのか、わからない、でも少なくとも昨日は悪い気分じゃなかった。むしろ幸せだったと思う」
 十代は指を組み、ひざの上でぎゅっと結んだ。骨ばって皮膚の薄さがわかるのは、十代が痩せているからだ。強くやりすぎて爪が食い込む白い手の甲が赤色ばんでくるので、遊星はそのうえに自らの手のひらを重ね、細くたよりない肩を自分のほうへ優しく引き寄せた。至近距離で目が合い、十代の瞳の中に、遊星が映っているのがみえ、それは遊星に歓喜と激情をもたらした。顎を救い、見つめあう、十代は表情を変えないまま浅い呼吸を繰り返していたが、まるで人形が傾けられて目を閉じるときのようなしぐさで、その睫をそっと頬へ向けた。遊星の指が薄く色気づいた肉を行き来する、そして薄く開いた唇へ、やさしくキスをした。
 そして長い沈黙が二人に訪れた。二人はまるで愛し合う恋人同士のように、事実愛し合っているのだと遊星は思った、何度も何度も触れては離れ、互いの存在が、同じ世界に存在しているということを確かめた。彼女のうるんだ瞳の表面から下瞼へにじむように涙が伝い、それは裸の胸の上をしっとりと濡らした。
「今、はっきり聞きますが、俺のことは必要ないんですか、もしあなたが必要ないと思っているのなら、今、言ってください、俺は帰ります」
 距離を取ってすぐ、まだぼんやりと、うっとりと遊星の顔を見る女の肩をつかんで、そのように言った、彼女は、遊星をしばらく眺めて、やさしく微笑み、悲しそうに首を振った。その間、海からの風でブロンドに近い茶髪が揺れ、顔を覆っていた濃い影がまるで生き物のように動いた。最高のライティング効果を持った魅力的なしぐさだったが、遊星は冷静さを保った。女優は、誰かを演じるときだけ、女優としての力を発揮するのだ。
「そんなことない」
「ならそれだけでいいんですよ、どうかあなたのお役に立たせてください、十代さん、年が何ですか、たとえあなたがなんであろうと、俺には関係ない。あなたを愛しているのだかtら」
「でも」
「だから他人なんて悲しいこと言わないでください」
 手の甲にキスをしながら遊星がそう懇願すると、十代は、まだ引きずってんのかよ、と笑う。
「わかったよ」
 そう十代は言った。
「お前にアテンドを頼もうと思う」

 朝食のあと、散歩に誘う十代をビーチに残して遊星が部屋に戻ったのは、アンナ・アンデルセンに再び電話をかけるためだった。それは彼女にアテンドを任された身としての責任感からかもしれないし、はたまた一人の男として、愛する女を守ってやりたいという身勝手欲望からかもしれなかったが、とにかく遊星は十代に部屋へ戻る旨を伝え、黒のロングワンピースを着て鍔の広い帽子をかぶった魅力的な彼女をビーチに残して、鍵を借り受け、こうしてひとり固定電話の前に立っている。
 電話は特に何も変わったところはなかったが、用紙排出口から、まあたらしいファクシミリ用紙が出ているのを発見した。とりあげるとそれはまだ排出されたばかりのようで、文字の上を指でなぞると、黒いインクがかすれた尾を引いた。
 
 十代へ、
 手紙を読んだ、
 馬鹿なことを言うんだな、
 愛が不滅だとか、そんなこと誰が教えたんだ、
 不滅なものは偽物だ、 
 不滅なものなど、どこにもないんだ、
 これは、一時期を共に生きた男からの最後のサジェッション、最後の愛情の一滴だと思ってくれ、
 甘えてはいけない、
 十代、
 自分自身なんかどこにもいないんだよ、
 いるのは、仕事とともにある時分、他人の隣にいる時分、誰かに抱かれている自分、関係性の中でおびえ、ある一瞬歓喜に震える自分だけだ、
 無人島に行ってごらん、
 思い出にふけるときと、救助されるであろう未来を考えるとき以外は、自分なんかどこにもいないことに気づくだろう、
 俺とまだ一緒にいたい?
 ふざけたことを言うんじゃない、
 十代、言ったじゃないか、
 俺はそこにいる、
 お前が見つめる先に、俺はずっとずっといたじゃないか、
 俺の不在を受け入れろ、
 おまえがなにを思おうが、だれといようが、俺はずっとお前のそばにいるよ、
                              ヨハン・アンデルセン
 
 日付は約一年前で。手紙の最後には自立を促すアンナの付記があった。ヨハンは死ぬ前に自分の行く先を悟り、十代に手紙を書いたが。今まで届かずにアンナの手元にあったのだ、
 俺の不在を受け入れろ、
 遊星はヨハンの返信を読んでわけのわからない嫉妬を覚えた。ヨハンと十代の関係が濃密で、それが実質の支配と被支配に貫かれているからではない。積極的にお互いの不在を受け入れようとしてそれを果たせないでいるからでもない。遊星は、アメリカ西海岸、メキシコを経て音楽に対する考え方が変わった。L・Aであるラップグループの写真を撮っていた。ダウンタウンの黒人ゲットーで人気のあった破滅的で破壊的なラップでメンバーは全員二十代の初めだったが、遊星が写真を撮り始めてから半年後に三人がエイズを発症し一ヶ月の間に三人とも死んだ。L・Aで最も過激だと評判だったそのグループは三人のメンバーを失って当然消滅してしまい、残りの二人もその三か月後に死んだ、エイズではなく、スーパーマーケットに強盗に入って自警団に撃たれたのだった。彼らは、音楽におけるメロディを憎んでいた。ラップやハウスは大体機械的なビートや騒音に近い電子音がそのサウンドの大部分を占めている。メロディは干渉を発生させる装置であり、基本的には旧世界とそれに属する有産階級と最下層民のものだとラップやハウスのミュージシャンは知っているのだ、遊星はその態度を潔いと思ったが、ずっと聞き続けるのは苦痛だったし、何より日本人の彼とは相いれないコンセプトだった。キューバの音楽は違った。