2024/1/9

 

 

 

 虚ろな心をもてあましたまま春がすぎ、夏がやってきた。抜けるように青い穹窿に、白い雲がむくむくと立ち上がり、激しく夕立を降らしたかと思えば、急に生やさしく涼風を吹かしたりする、気まぐれな季節だった。はじめに彼がもたらされたのもまた、夏の気まぐれによるものだったのかもしれない。
 その日、降雨がひどく、みながみな傘を差し、早足で帰路を急ぐ夕暮れ時、はじめはTシャツ一枚に画板を背負って自転車を漕いでいた。画板は、はじめの脇の下ほどの高さがあるもので、背負うとちょうど角の部分が頭の上で庇のようになったが、雨漏りした。絵の具混じりの水が淵から絶えずこぼれて、不精に縛ったはじめの髪や、病的に白く痩せた頬に流れた。道ゆく人はギョッとしたような顔つきではじめを見たけど、絵の具まみれになるのはいつものことだったし、気にはならなかった。
 T美術大学芸術学部は、学科を問わず、新入生に共通の課題を出す。今年はそれが、人物画、ポートレート表現だった。はじめは、高校の時からの親友で、同大の建築学部に進んだ手嶋という男と約束を取り付けて、一つの季節をかけ、お互いの姿を表現に閉じ込めた。手嶋の方は、いくつか質問をし、それをメモに取って持ち帰っただけだったので、結局何を作って提出したのか、はじめには知り得なかった。はじめはといえば、彼の横顔を描いた。大学生になり、ますます精悍に、硬質ささえ感じられるようになった骨格を、うねるような長い天然パーマを、喉仏の小さな骨のとっかかりを、太い鎖骨を、見て、描いた。高校のときからはじめはよく彼の絵を描いていたし、その頻度は目を閉じていても手だけで紙面に彼を落とし込めると思われるほどだったが、実際、彼は変わっていた。鍛えても肉がつかないと嘆いていたはずの脇腹に、ようやく、うっすらと、トレーニングの成果が現れはじめているのを感じ取って、絵筆を掴んだまま瞼を伏せるはじめだった。
 講評が行われた。ひどく屈折したコンプレックスの、唾棄すべき副産物だと、講師ははじめの作品を酷評した。君は処女だね? 揶揄混じりの質問に、固まって座っていた女子の集団がくすくす笑いをした。男を知らない君の、この男への醜いあこがれが凝り固まって、こんな気持ち悪いものができたんだ……すぐにもその、あさましい理想を捨てたまえよ、それでこの作品ともいえない絵を精神病院に持って行って、どうぞ私を治療してください、と頼み込むがいい……彼が次の生徒を呼び出す段になって、ようやく、はじめは彼に手ひどく馬鹿にされたのだと知った。手嶋がこの場にいなくてどんなに良かっただろうとそれだけを思った。真実だったからだ。ほとんどの生徒が作品の修正を命じられる中で、はじめには再制作が課された。
 すべてがばかばかしく思われる家路である。細身のホイールが水溜まりを跳ね上げて、磨いたばかりの白いフレームに泥が散る。雨足はますます強くなる。絵の具はますます水溶して、瞼を流れ、咄嗟に瞬きしたのも間に合わず、目の粘膜にぬるりと入ってきた。痛みを感じてはじめは、ぎゅっと目を閉じたまま、勘だけでペダルからクリートを外してアスファルトを踏んだ。思わずため息が漏れた。ハンドルにかけたリュックの、両ポケットから目薬を探す。
 微睡むとき、眠るとき、今のように目を閉じているとき、耳の裏から青白く光の透けた瞼の皮膚へしんしんと、沁みてくる言葉があった。……やめよーぜこういうの! 冗談だろ? 笑っちまうよ!
「目薬?」
 つむじの上に、誰かの声が降ってきて、見えもしないのにはじめは首を上に逸らした。
「俺のでよければ貸すけど、どう? 人のだからって気にするタイプ?」
「……いや。貸してほしい。変なの、目に入って、痛い」
「ほい、蓋外してあるから」
 伸ばした指先に、プラスティックの小さな容器が触れた感じがする。すぐさま掴み取って、今もつきつきと痛む右目に中身を一滴垂らし落とした。しみた。睫毛までが優しくしめって、痛む眼球を慰撫するのが感じられる。
 瞼の中で清涼感を転がし、痛みが取れてきたころをみて、ようやく、親切な異邦人のことを思い出すはじめである。おそるおそる瞼を開けた。視界が白むのは、夕立雲がちぎれて、梔子色の光がさしてきたからだった。未だ細く降り続く雨は、まぶしく光踊し、しばらくの間、はじめを幻惑していた。逆さになったあの人の顔が、水溜まりからこちらを覗き込んでいる。かと思えばそれは写像で、ほんとうはというと、斜めに傾いた姿勢で静止したホイールのすぐそばに、知らない男が立っていた。
 よく焼けた顔、濡れた黒髪が垂れている中で、青い目が深夜の燭光じみていた。ろうけつ染めのシャツに薄手のフィッシャーマンパンツ、まるで出自のちぐはぐな放浪者のような身なりなのに、不思議と小粋な、高潔な感じのする青年だった。剥き出しになった太い首から、こちらに差し伸べられた無骨な手のひらにかけて、渦巻く火のような、竜のような、奇妙な紋様が刺してあった。これが、トライバルといって、マレーシア・ボルネオ島を起源とする伝統的なタトゥデザインだということを、のちにはじめも知ることになる。
「それで、今日からしばらく君の家に泊めてほしいんだけど」
 彼の要求に、ほとんど反射的にはじめは答えた。
「今から床屋に行ってパーマをかけてこい。それが条件だ」
 行きずりの彼との生活が、うまくいくはずがないなんてこと、はなからわかっていたはずなのだが。この時の選択は実にいかれていたと、いつも、そのように回想する。

 彼ははじめの出した条件を聞くと、すぐさま頷いて、つっかけだけの足で踵を返し、一つ目の角を右折して見えなくなった。はじめはそれから家に向かってまた漕ぎ出したわけだけれども、一人暮らしのアパートの、古いアルミドアの前に立つころには、彼のことなんか夢かまぼろしのように感じていた。鍵を差して中に入り、ビンディングシューズを脱ぐ。廊下兼キッチンスペースの、ただでさえ手狭な壁に取り付けたラックに、愛車を引っ掛けて固定する。背負っていた画板はもくろみ通りすっかりダメになっていたから、水張りしてあった画用紙だけを破り取って、シンク脇のゴミ箱に突っ込んだ。そうしたら急に、濡れ鼠になった我が身が不愉快に感じられて、リュックを放り投げるのもそこそこに浴室へ飛び込んだ。
 この物件に住もうと決意したとき、決め手になったのが、浴室とトイレが分かれているということだった。浴室は青いガラスのタイル張りで、小さいが浴槽もあったし、浴槽と手前の壁の間にやぼったいガスの給湯器が狭そうに収まっているのも、なんだか愛らしかった。濡れた服を脱いで裸になり、大きな鏡の前に立つ。薄い色の髪、化粧っけのない顔。痩せこけて骨の浮きでた、灌木の幹のような身体。どこにもかしこにも魅力のない身体だ。生娘でしかたない。
 はじめが風呂から上がり、髪を整えたころに、インターホンが鳴った。
「住所、先に聞いておけばよかった。探すの大変だったんだぞ」
 てきとうに羽織ったキャミソールの、肩紐がずるりと二の腕の方へ落ちた。軒先で、あの男がへらへらと、腕輪だらけの右手を振っていた。
「ほ……んとにきた」
「へ、だって、来ていいって言ったのおまえだろ」
「夢かと思った……」
 ぼさぼさと、雑に伸ばすばかりだった長い髪は、顎の辺りで揃えられ、はじめの注文どおりゆるくパーマがついていた。頬へ垂れた一房に透けて、シルバーのカフや、大ぶりなエスニックピアスが、雨上がりの湿った空気の中でキラキラと光を帯びている。
「うん。来たよ」
 人好きのしそうな笑顔で、彼がまた、はじめに手のひらを差し出した。
 その手をおそるおそる握り返そうとしてふと、ほたりと落ちてきた水滴に、はじめは顔を上げた。髪や顔、手以外のあらゆる部分が濡れていた。夕立の中傘も刺さずにいたのは彼も同じだ。まさかその身なりで床屋に行ったのか。傍迷惑にも程がある。
 ほとんど握りかけていた指をひしゃりとはたき落とし、胸ぐらを掴んで浴室に放り投げた。「シャンプーはそこのピンクのやつ、あとは石鹸使え、脱いだ服はこのカゴに……着替えは?」「そこのリュックから取って。洗濯ってどうするの?」鼻歌混じりの呑気な声が、特有の反響を帯びて帰ってくる。見れば、自転車ラックのちょうど真下に、大きくて硬そうなバックパックが立てかけておいてあった。オリーブグリーンのサルエルパンツと、エジプトの壁画を思わせる印刷を施されたキーネックが、すぐに見つかった。「近くにコインランドリーがあるから後でまとめて行く」「リンスとかコンディショナーとか、洗顔とか、ないのかよー」「? ない」「うそ、おまえってほんとに女?」はじめは、さほど腹を立ててもいなかったが、浴室の戸を一度激しく殴りつけておいた。
 誰かと暮らすなんて、はじめてだ。彼がシャワーを浴びているあいだ、この奇妙な巡り合わせにそわそわと落ち着かず、畳の上で一人、立ったり座ったりを繰り返した。何も考えずに引き入れてしまったが、この部屋は完全に一人暮らしのためのものだ。広さは六畳ほど、布団一つに、きちきちと並べた画板や画材、資料など、ちゃぶ台、それから背の低い本棚、ほとんど腰掛けがわりのもの、そこから溢れた書籍の山、整頓されていないわけではないが、人ひとりが満足に布団を敷けるほどの余裕はない。どこに寝かせたものだろうと、考えあぐねているうちにも時間は過ぎていき、やがて浴室の戸が開いたのではじめは背筋を伸ばした。
「おまたせ」
 そういえば、はじめは、彼の名前も知らない。
 水気を含んで皮膚にまとわりついた髪の毛をかき回すようにしながら彼は、「すげえ、くるくる」はじめを見て破顔する。
「なんか、耳がこしょばい」
「そういうもの。ここで暮らすなら、ずっとそれでいてもらうから」
「マジかよ」
「手入れも大変だと思う。朝、まとまらないっていうし。ああ、それじゃあ、あとでリンスも買いに行かなきゃいけないな。洗濯がてら薬局行こうか」
「なんかめんどくさそうだなあ、えと、おまえ」
「一」みずから名前を口にするときはいつでも、身が引き締まるような思いがした。「わたしは、青八木一」
「はじめかあ、いい名前だな」
「おまえは?」
「なんて呼びたい?」
 はじめのそばに屈みこんで彼が、海の瞳で覗き込んできた。それだけで息が詰まるような思いがして、うまく言葉がまとまらなくて、はじめはうろたえる。はじめの弱さも、あさましい性根も、見透かしているかのような物言い。いやな感じがする。
「なんて呼んでもいいよ」
 念入りに、急所へ囁き込んでくる。悪魔のような男だと思った。
「な……まえは? おまえの」
「いろいろあるけど、ないのと同じさ。どれが本当の名前なのか自分でも知らないし」
「じゃあ」
 自分が言おうとしていることを省みて、はじめは背中にびっしりと汗をかいていた。
「純太。きょうから……おまえは、純太だ」
 純太。愛おしさや、いつくしみが混じりあって、胸をふさぐ。その名を呼ぶことに、はじめはまだ少し、ためらいを残している。純太ははじめの想いなど知る由もなく、眉を下げて微笑しだ。