2020年6月20日

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 おれはおれ自身の錯乱を整理したくてキューバにやって来たんだ、とその痩せた女は繰り返すばかりだった。きれいな女だった。だが、女はどこか破綻していて、世の中の遍くから切りはなされているようにみえた。ほとんどまばたきをしないし、目の焦点はあっていなくて、口元は常に薄ら笑いを浮かべて、最初に会ったとき遊星ははっきり狂っていると思った。女はバルセロナからの直行便ここヴァララデロに来たが、ツーリスト・カードなど入国に必要な書類はちゃんとそろっていて、その挙動がおかしかったために、ヴァラデロの、しかも空港の近くに住んでいる遊星に連絡があったというわけだ。遊星がキューバにやってきたのはつい一か月前で、きっかけは長年つきあっていた恋人との別離だった。巻いた赤毛のかわいかった恋人は遊星が結婚を考えだしたころになって、ごめんなさい、でもやっぱりあなたのこと幼馴染以上に考えられないの、と言った。彼の若い精神は悉く傷つき、割れて粉々になったガラスの上を踏み荒らされたような気分になって、ぬくい水たまりのような故郷からどことも知れぬ南国に旅立ち、最初はハバナからサンチャゴまで安ホテルを泊まり歩いてうろうろしていたのだが、どういうわけか今はヴァラデロに家を借りて住んでいる。職業は一応大学生なのだが、現在は留学という扱いで一年の休暇を取っているので、毎日サルサを横耳にじゆうに羽を伸ばす日々が続いている。ヴァラデロはキューバ随一の施設と規模を誇るリゾート地で、首都ハバナから車で二時間強という位置にあって、国際線が発着する空港も備えている。
 ハバナには大使館も含めて十数人の日本人が住んでいるが、遊星の知る限りヴァラデロにはひとりだけだ。二世や三世も含めればもっといる。ここには昔、デュポン財閥総帥の住居と広大な庭園があって、日本人の入植者が働いていた。
 遊星はお人よしではない。キューバという国はいろいろな意味で強烈な国で、十九歳のお人よしが住もうと思っても、ひょんなことですぐにはじき出されてしまうだろう。だから、もしその見るからにおかしな旅行客が男だったら、すでに三十万キロも走っているぼろぼろのメルセデスを走らせてこんなところに来なかっただろう。また、その旅行客が女優であると名乗り、それを裏付けるような容姿でなかったら、この旅行客は頭がおかしいから手に負えないとでも言って、さっさと家に帰っていた。しかし旅行客は女で、飛び切りの美人で、しかも自分のことを女優だと名乗った。
 女はがりがりに痩せて眼だけが大きく見えたが、とてつもなく美しい女だった。鼻筋はするりと通ってその頭にうすく光の筋を載せるほどだったし、切れ長な瞳は時間をかけて蒸かした甘いもの類を思わせた。棒切れのような細い脚には赤いハイヒールを履いていて、そのすぐにも折れそうな様子が、どうしようもなく男の欲を掻き立てるものだろうと遊星は思った。また、なんと表現すればいいものか、その女には妙な緊張感と、それから威厳のようなものがあった。
「おまえは誰だ? ヨハンの知り合いか?」
「いえ、俺はここに住んでいる日本人です」
 それが二人の、最初の会話だった。女は脚を組んで、人気のないヴァラデロ国際空港の入国管理官待合室にいた。遊星は顔をしかめた。部屋は病院のようなリノリウム張りでしかも管理官たちが吸うキューバのたばこの匂いでいっぱいだった。そんな臭く不愉快な部屋の中で、女は遊星に対してすっきりとはりのある声で問いかけた。
「俺は不動遊星。大学生です。あなたはどんなご用事でここへ?」
「なあ、ヨハンに伝えてくれないか、おれはおれ自身の錯乱を整理したくてキューバにひとりでやって来たんだ、おれははやいとここいつと決着をつけなくちゃなんなかったんだ、錯乱を整理するんだ、ヨハン」
 女はここに来る途中管理官にフランス語で話しかけていたらしいが、だれ一人彼女の言っていることを理解できなかった。だから遊星が呼ばれたというわけだ。しかしもしフランス語を解する管理官がいたとしても、彼女の言っていることは誰一人理解できなかったに違いない。
「ヨハンはサプライズがすきだって知ってたけどさすがに今日は遅すぎやしないか、いつのまにこんな男雇ったんだよ、ヨハンが言うならおれはいつだってなんでもするのに男なんて雇ってさ、ああでもそれじゃサプライズにならないもんな、おれも男に生まれてたらよかったけど男だったらちゃんとセックスもできないし街中で手つないだりすることもできないもんな、ところでおまえは誰なんだ? ヨハンの知り合いか?」
 入国目的さえわかれば解放してやれるんだがな、こわもてを崩した管理官が言ったが、もし女が今すぐ立ち上がってこの管理官にキスでもすればすべて解決するだろうにと遊星は幻想した。キューバの管理官はアメリカやカナダなんかよりもよっぽど実直でまじめだったが、いわゆるいい女というものに弱かった、それはこの国の性質かも知れないし、このむさくるしい職場に疲弊した男たちの悲しいさがかも知れなかった。
「観光にいらしたんですか?」
 と遊星は女に尋ねた。
「おまえはほんとうに誰なんだ、いいからヨハンに伝えてくれないか、ヨハンが言ったんだ、十代が行くならオレは先回りしてヴァラデロで待ってるよ、だから追いかけて来いよな、って、だからおれはここに来たんだ。いったいここはどこなんだ? おれはこんなところになにをしにきたんだ? いや、いわなくていい、わかってる、お願いだから答えないでくれ、そうだ、おれはおれ自身の錯乱を整理するためにこのキューバとかいう国にきたんだ、ヨハンはどこだ? おまえは誰なんだ」
 その女を残してさっさと帰るべきだったのだ。関わり合いになるべきではなかった。遊星には帰れば自らを迎えてくれる安息の我が家があったわけだし、現状の生活に満足していたので、べつに慈善活動じみた救済の手を女に差し伸べなくてもよかった。もっと言えば、彼は本物の女の肉の感触がなくても液晶画面で家族の写真を眺めていれば満足できる、そういう男だった。俺には手に負えない、そういうふうに正直に告げて部屋から出て、海沿いの道を走り、家に戻ってコーヒーでも沸かし、読書でもして、すべてを忘れることもできた。女の身柄は、空港当局に拘束され日本大使館の協力のもとにいずれパスポートに記載されている住所か本拠地に送還されるだろう。女の名前は遊城十代といった。ゆうきじゅうだい、ふしぎな響きの名前だった。
 しかし、そこで遊星は考えて、ヨハンとかいう人とはお知り合いではないし、俺は彼の使いではありません、と答えた。それは、会ってすぐに彼女のムードに魅き付けられたからだ。女には、気品と、相手にも緊張を強いる独特のオーラがあった。こんな女を言葉の通じない官憲の保護下に置くのは忍びない、と遊星は思ったのだった。
「そりゃあそうだ」あっけらかんとして、彼女が言う。瞬きひとつするともう彼女は別人だった。理知と機転に富んだ、賢い女の表情になっていた。
「ヨハンはもう死んだんだから」

 遊星は女の身元保証人になって、入管手続きと税関でのチェックを済ませ、スペイン人とドイツ人とベネズエラ人の団体客で混雑している空港を出て、彼女のツーリスト・カードにあるホテルまでメルセデスで送っていくことにいした。身元保証人ということは、もし女がキューバに敵対する国のスパイだったというような場合には、遊星も日本へ強制送還されてしまう、ということだ。遊星は隣を歩く女の横顔を見てひやりとした。狂った女の仮面を取った女は、そういった職業に手を付けていてもおかしくはない、と遊星を不安にさせた。
 ヨハンは死んだ。沈黙に耐えかねたらしい女は、第一駐車場からメルセデスが運ばれてくるまでにそういうような話をした。
「ヨハンはすごくいいやつで、おれが知っている中でも一番のいい男だった、あれ以上の男には終生出会えないだろうと思わせるほどいい男だった、あいつはすごくやさしくて、最後までおれのそばにいてくれて、おれはあいつを愛していたんだ、たまによこしてみせる涼しげな流し目が好きだった、抱きしめてくれる腕が好きだった、だが死んだ、ほかの死んでもいいような人間を押しのけて、短い人生を全うしちまった、世の中には死んでいい人間と、そうでない人間と、死んだほうがいい人間とがいるが、ヨハンは生きていなければいけない人間だった。あいつとこの国で過ごした時間はおれに錯乱を与えた。例えばこの国には涙も詰まるほどきれいなピンク色の夕焼けとか心まで洗われるような雨季のスコールとかそういうのがあってヨハンはそれを愛してた、見ろよ、十代、キューバの夕日はきれいだろ、とか言って浜辺のど真ん中でおれの肩を抱くんだ、でもおれはヨハンしか見てないからうまくへんじができなくて、ああそうなのかとか生返事をするんだ、十代はばかだなあ、ヨハンは笑っておれの頭をなでてくれる、十代はばかだけど世界一かわいいもんな、そういう風に言うときのあいつの顔がいちばんすきでおれはずっとずっと見とれてた、だから夕日のことは全然覚えてないんだ、夕日も、身体にねっとりと絡みつくような熱も、スコールも街並みもぜんぶだ、ただヨハンの笑った顔と錯乱だけが残った、おれは、この錯乱を整理するために、この国に来たんだ、自分を罰するためでも、旅行気分できたわけでも、ない」
 話し方に魅力的なリズムがあり、気持ちのいい声なので、何を言っているかわからないはずの周りの観光客までが、そして遊星が、物音を立てず静まり返って彼女の話を聞いた。それは劇的なパフォーマンスで、まるで異様だった。映画の一シーンや白昼夢のようだった。
「恋人だったんですか?」
「わからない」
 そう答えると、彼女は話すのをやめてしまった。