2023/01/01

 

 

 

 ジョニーが小さな身体を捕まえてくすぐると、ルチアーノは足をバタつかせて抵抗し、ジョニーの右腕に噛み付きもしたが、百合子が見ているとわかると一転して嘘泣きをはじめた。息子のやんちゃな性格を深く理解している両親とは対照的に、百合子はすぐに駆け寄ってきてジョニーから彼を引き剥がし、ばか正直にその身を案じた。
「お姉ちゃん、痛いよ。ジョニーのやつ、ボクの頭を叩いたんだ、ゲンコツで!」
「僕はそんなことしてないぞ! 百合子、信じて。ルチアーノは嘘をついてるんだ」
「ジョニー、ルチはまだ子どもなんですよ。あんまりいじめたら可哀想でしょう」
 百合子は縋りつくルチアーノの額をやさしく撫でながら、眉根を寄せ、少し怒ったような顔をしてみせた。そのときルチアーノが見せた勝ち誇ったような笑みといったら、なかった。
 一家をリビングルームに案内したあと、百合子は背伸びしてジョニーの耳元に唇を寄せ、こんなことを言った。
「ジョニーってば、ルチに揶揄われていたでしょう。ほんとうは叩いてもいないのですよね」
「百合子」
「簡単なイタリア語なら、私にもわかります。心配しなくても、ジョニーは世界で一番格好良くてスマートですよ」
 彼女の小さな唇が蝶のようにジョニーの頬に触れ、すぐに離れていった。
 黒目がちな瞳が少しばかりの羞恥を帯びてジョニーを見上げ、すぐに逸らされる。自分から仕掛けてきたくせに、耳まで真っ赤にして、小さくなって俯いている。
 周囲に誰もいないのをいいことに、恥も外聞もなく、ジョニーは愛しい妻を抱きしめた。彼女の細い身体の輪郭は、ジョニーの感覚器官を大いに充し、楽しませた。かわいい。愛おしくて胸が苦しい、大好きだ。
 百合子は必死になって身を捩ったが、ジョニーは彼女の抵抗を愛らしい乙女の恥じらいと思って真面目に取り合わない。
「ジョニー、後ろ。後ろ!」
 背中を叩かれ、涙声で訴えられて、ジョニーはようやく彼の背後を顧みた。リビングルームから二人を隠す漆喰の壁、その影に隠れるようにして、悪魔か死神か、こっそりと覗く人影が一つ。莞爾と微笑んだルチアーノが、弁えず愛し合う夫婦を眺めている。
 宴会の席での話題は彼によって大いに盛り立てられるだろう。
 最悪だ……。

 百合子が腕を振るって作ったシチリア料理や彼女の故郷の伝統料理の数々が、目も舌も大いに肥えた賓客たちを喜ばせた。彼らはワイングラスを片手に和やかに談笑し、やがて夫婦の案内を受けて外庭に出た。
 三階建ての白い家屋は小さな城のように厳格な構造(かまえ)を誇り、新人庭師が慌てて手を入れた二千平方ヤードの庭園は、薔薇や芍薬、百合、ペンタスなど、彼のプリンセスを喜ばせるための花で満たされていた。噴水の水盤からこぼれる飛沫は陽光に照らされて宝石を宙に撒いたような幻想を見せ、よく磨かれた石畳の上を影法師となって優雅に滑り落ちてゆく。夫婦の家は美しく、その昂然たることに、人々は夫婦の生活に欠け一つないことを知った。
 しかし、幸福は長くは続かないものだ。
 斜陽が庭中を赤く照らし、人々の横顔に墨のような翳りを落とす夕暮の頃、ジョニーは彼の肩によりそう妻の姿に奇妙な予感を覚えた。……あまりにも美しいのだ。恋のためらいに目尻を潤ませていた少女のころから彼女は美しく、ジョニーもそれを好ましく思っていたが、それとは訳が違う。彼女の全身に影のようにのしかかり、肉や骨の一かけに至るまでを支配せんとするような、圧倒的で、人間離れした美しさ。あまりにも完全で、それ故に人間の正気を感じさせない、無機的な美しさ。そして、彼女の皮膚や瞳や細い髪の一本一本は、命の器としての肉体に不相応なそれを支えているのに耐えかねて、すっかり辟易しているように感じられた。
 朝、百合子が口にした一抹の不安。ジョニーはそれを取るに足らないものと思い、華やかなパーティーの雰囲気や香りの良いワインの舌触りに酔ううちにすっかり忘れてしまうほどだったが、予感が首にひたりと押し当てられたのを感じた時、はからずもそのことが彼の頭をよぎった。
「今が幸せすぎて怖いんです」
 ささやきが蘇る。
 予感は不吉だった。恐れが背筋を駆け上り、そのあまりの冷たさにジョニーは深くため息をついた。心臓の音が警鐘を打つように全身に響き、また、暗色の興奮のために、その指は小刻みに寒慄した。
 不安のうちにジョニーが妻に視線を向けたとき、彼女もまた、彼のことを見上げていた。
 震える唇が何か言おうと蠢く。青い瞳に何か不定形の影がよぎり、かと思えば、不意に、華奢な身体がぐらりと横に傾いた。細い手足や結った髪が宙に踊り、その様子は操り糸をふっつりと切られた人形を思わせた。統率を失った頼りない身体は芝生の上に放り出され、そのまま動かなくなった。
 しばらく、誰も、何も言えなかった。
 最初に動いたのは、海を眺めながら一人で飲んでいたパラドックスだった。彼は持っていたグラスを動けずにいる客の手の中に押し込むと、倒れた百合子に駆け寄り、腕の中に抱いた。臥した身体を仰向けにし、頬を軽くはたいて呼びかける。見開いた目は何もかもを平等に映しとるガラスのようだ。顔色は病的に白かった。意識がない。
「この馬鹿、何をぼうっとしている。早く手を貸せ!」
 彼の鋭い一喝で、ジョニーはようやく正気を取り戻した。慌てて百合子に近づき、その肩をゆする。支えを失った小さな頭がぐらぐらと前後に振れる。
「百合子、百合子しっかりしてくれ。いったいどうしたっていうんだ? 百合子!」
「喚くな。ゆするな。彼女を私の診療所に運ぶ。車を出せ」
 ジョニーがその身体をかき抱き、名前を呼んでも、彼女は何の反応も返さない。かろうじて薄い胸が緩く上下している。
 ルチアーノがわっと泣き出した。

 深夜、百合子はベッドの中にいた。大小さまざまな大きさの毛布が彼女の細い身体を包み、その隙間からほっそりと伸ばされた手は、ジョニーの硬質な掌にしっかりと握られていた。
 ランプのほの灯りが、ふっくらと生気を取り戻した頬やきらめく海の瞳、軽く結ばれた唇を薄く平坦に照らしている。髪が横に流れたことで露わになったすべらかな額を、ゆるく曲げた人差し指でそっと撫でてみた。百合子はくすぐったそうに小さく笑う。
 夕方にあったことがまるで嘘のようなおだやかさだ。
 ともすれば崩れ落ちそうになる膝を必死に奮い立たせながら、百合子をパラドックスの診療所に運び込んだ。パラドックスはすぐに検査を行い、彼女の身体の隅々までを検分した。しかし、
「神経調節性失神」
「……」
「の疑いあり、だ。断定はできん。冠攣縮性狭心症……心臓疾患の類、あるいはストレスに起因する身体症状症も考えられるが、どこにも異常が見られない以上、原因を特定することはできない」
 血液検査や心電図検査は、彼女の身体のどこにも異常を見出さなかった。どのデータも、彼女が至って健康かつ正常であると示すのだ。
「そんなわけがない。ちゃんと調べてくれ」
「詳しい検査がしたければ、もっと大きな病院にかかることだな。紹介状は書こう。だが、設備自体はうちのものとそう変わらん。出る結果は同じだ」
 口ではそう言いながらも、パラドックスは納得もいかない様子だった。
 自律神経を整えるための漢方薬をいくつか処方され、ジョニーは百合子を伴って帰宅した。
「疲れが溜まったんだ」
 頬や唇にも指を滑らせながら、ジョニーは低く、優しく囁いた。
「たくさん食べてしっかり寝ればすぐよくなるよ。心配しないで」
「ジョニー……」
「ん?」
「ありがとうございます。ジョニー、だいすき」
 ぼんやりと潤んだ夢うつつの瞳が、ジョニーを見て、ゆるやかに目尻を崩す。触れたら簡単に消えてしまうような、薄氷の微笑み。
 百合子が倒れたその時、ジョニーの全身を駆け巡ったあの不吉な予感が、再び彼の心を押し潰した。
 六年前、パレルモの町中を走り回ってようやく百合子を見つけたかの日、ジョニーの予感は見事に実現したのではなかったか。そう、彼の予感は当たるのだ、残酷なほどに。
 現代医学は彼女の身体に何の異常も見出さなかった。しかし、ジョニーにはわかる。不思議に透ける四肢。水の中を自由に回遊する肉体。ジョニーが何よりも愛おしむこの少女は、ジョニーが知り得ない何者かによって侵されている。
「百合子……」
 寝息を立て始めた百合子の痩躯を、ジョニーは力の限り抱きしめた。
 一体誰が、実直なこの青年から愛する妻を奪い去ろうとしているのだろう?
 答えはない。今はまだ、その時ではないのだ。


 シチリアにも秋がやってきた。
 わずかに日差しの和らいだパレルモ郊外の丘を、二人の男が歩いていた。一人は二メートル近い長身の美丈夫で、秋の麦穂のようなこがね色の長髪を涼しげに翻し、大股でずんずんと先を闊歩する。遅れて、二人分の大荷物を抱えたもう一人が、女王に付き従う働きアリよろしく、汗だくになってそのあとを追った。彼が石畳の溝や欠けたタイル片に躓きそうになるたびに、短く切り揃えた黒髪が揺れる。
 不動遊星、二十五歳。成田空港からシンガポールミュンヘンを経由して、ここパレルモの地に降り立った。
「遊星よ、もうとっくに通り過ぎてしまったのではないか? 一度引き返すのはどうだ」
「いや……、もう少しで着くはずだ。ほら、あの家じゃないか」
 三階建ての、小さな城のような構えの一軒家。真っ白な壁は午後の陽に真珠色に輝き、高い石造りの塀からは、棕櫚の葉や、秋薔薇の可憐な花房が、風に吹かれてかすかに揺れるのが見える。
 遊星はその様子を、目を眇め、まぶしいものを眺める思いで見た。
 百合子の家だ。

 再会の熱い抱擁を期待していたわけではないが、それにしても、ドアから顔を出したジョニーの顔にあまりにも覇気がなかったので、遊星はすっかり拍子抜けしてしまった。
 結婚式のとき、叙階を受ける司教のように胸を張り、誇らしげに花嫁に口づけをしたあの男は、今や見る影もなく痩せていた。来訪者に送られる視線は苦悶を隠そうともしない。伸びた髪は手入れを怠ったために乱れてところどころ跳ね上がり、目の下には隈がくっきりと浮かんでいる。いつも闊達として、若々しい魅力に溢れていた彼と同じ人間であるとはとても思えなかった。
「やあ、遊星義兄さん。久しぶり、ジャック。よく来てくれたね」
「ジョニー……少し痩せたのではないか」
 彼にジャックを紹介したのは二人の結婚式の日で、今日は二度目の対面になるが、そのジャックでさえ、目の前の男の様子がおかしいと気づいたようだった。
 彼は力無く首を振り、微笑む。
「それよりも百合子が……」
 遊星が妹の失神を知らされてからもう二月ほどになる。彼女の容態は決して思わしいものではない。
 初めは週に何度か意識を失うくらいのものだったが、日が経つにつれて高熱や身体の節々の痛み、肺炎などの症状が現れるようになり、彼女はすっかり消耗していた。今では起き上がることすらままならず、ジョニーの懸命な介抱を受けながら、一日の大半をベッドの上で過ごしている。さらに悪いことには、どの医者に診せてもその原因がわからないというのだ。投薬治療から民間療法に至るまで、あらゆる手を尽くしたが、彼女は衰弱していく一方だった。
「最近では起きている時間の方が短いくらいなんだ。今も寝てると思うけど、よかったら顔だけでも見ていってくれないかな」
 ジョニーに案内されたのは、三階奥の、南向きの部屋……夫婦の寝室だった。
 ドアを開けてすぐ、むせかえるほどの甘い香りが遊星の鼻腔をくすぐった。花の香りだ。部屋はさまざまな種類の花で満たされていた。それは例えば蘭の花や薔薇、紫陽花、カーネーション、カメリア、桃やはたんきょうの長い枝に咲いた花々や、いく抱えあるとも知れぬジャスミンの花々などだった。花々はまるで古代の神々の迷路のように、あるいは美姫を隠す薄い雲のヴェールのように、三人と百合子の眠るベッドの間を遠く隔てていた。
「百合子。起きてる?」
 ガウラの白い花弁を押し分けながら、ジョニーはベッドに近づいた。
 彼の広い肩越しに、遊星は妹を見た。百合子は薄藤の絹のネグリジェにレースの羽織を見につけて、ベッドに寝そべっていた。カーテンのわずかな隙間から白昼の光が差して、彼女の全身を薄闇の中につまびらかにした。
 その顔は熱く火照り、高熱がもたらす苦痛が端正な眉の間にくっきりと刻まれていた。汗で濡れた前髪が額に貼りついている。ネグリジェの襟元は広くくつろげられ、白い皮膚薬を塗られた鳩尾と、静かに女の展望を見せる小さな乳房が露わになっている。
 薄く開かれた唇は甘やかに、苦しげに喘鳴し、その合間に、百合子はジョニーの名前を呼んだ。冬の枯れ枝のようになった腕が夫を求め、ジョニーはそれに応えて、彼女の唇や頬に悲痛な接吻を浴びせた。
「百合子、義兄さんたちが来てくれたよ」
「まあ……兄さんが……」
「呼んでもいいかな?」
 百合子が首肯し、二人はベッドに近づいた。
 哀れな妹は、兄と、その恋人の姿を見とめると、憔悴しきった顔に嬉しそうな微笑みをのぼらせた。
「遊星兄さん、ジャック、遠いところから……ありがとうございます。こんな格好で……お相手もできなくてごめんなさい」
「いいんだ。そのままで、何も喋らなくていいから……」
 すっかり憔悴しきった、羸弱でいたいけな妹。幼い頃は遊星の後ろをちょこちょことついて回り、将来は兄さんと結婚するのだと言って憚らなかった妹。頬を薔薇色に染めて、嬉しそうな顔をして、異国で出会った青年と恋に落ち、嫁いで行った妹。いつも溌剌として、美しく優しかった妹。薄い微笑の上に健康で幸福だった彼女の幻想が次々に蘇り、遊星は胸をきつく詰まらせた。再会の挨拶もそこそこに駆け寄り、か細い蒲柳の身体を懸命にかき抱いた。
「兄さんってば、ひどいお顔。あまり寝ていないのではありませんか? ジャック?」
「ああ。家を出てからこの家に到着するまでの三十七時間、遊星は一分たりとも睡眠を取らなかった。それもこれも、お前がいつまでも寝込んでいるからだ。こいつを心配するくらいなら、早く自分をなんとかしてしまえ!」
「ジャック、なんてことを言うんだ」
「いいえ、兄さん。ジャック、ありがとうございます。そうですよね、いつまでもみなさんに心配をかけるわけにはいきませんから……」
 健気にも気丈に振る舞おうとする妹がいじらしくて、切なくて、遊星は彼女をますます強く抱いた。
 彼女の苦しみを代わりに背負えたらどんなに良いだろう。
 ジャックは難儀だとばかりに眉を吊り上げ、腕を組んで唸った。ジョニーの表情は逆光に翳ってよくわからない。

 四人で昼食を取ったが、百合子はまた料理を残した。
 流動食でなければ喉を通らない彼女のために、りんごの擦ったものや、限界までふやかした粥を用意するのだが、ほんの数口食べただけで、彼女はもう十分だからと匙を置くのだ。ジョニーの作るご飯はなんでも好き、と言ってくれた、かつての彼女の姿を思い出す。
 まだ八割ほど中身を残した皿を水に晒し、洗い流す。振って水滴を落としたものを横に渡すと、ジャックの無骨な手がそれを受け取り、柔らかいふきんで拭う。
「ジャックって、意外と家庭的なんだ」
 ジョニーの発言は失礼極まりないものだったが、彼は苛立つこともなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「放っておくと、遊星は飯も食わなければ風呂にも入らない。俺がやらなければ死ぬぞ、あれは」
「でも、君なら家政婦を雇って派遣することもできるだろう? わざわざ自分でやることもないじゃないか」
 兄妹の幼なじみにして、遊星が長年の片思いを実らせて手に入れた恋人、ジャック・アトラスは、世界的メンズファッションブランド〈アトラス〉のオーナーだった。企業経営から商品のデザイン、イメージモデルに至るまでを一手に担い、その辣腕で業界のトップに上り詰めた若きカリスマだ。
 ジョニーが学生の頃から愛用しているオーデコロンもアトラス社のものだ。だから、百合子との結婚式で遊星から彼の紹介を受けた時、ジョニーは腰を抜かすほど驚いた。噂に違わぬ美貌や威風堂々たる佇まい、尊大な立ち振る舞いに、本物は格が違うのだと妙に納得したものだった。
 そんな彼が、遊星が適当に選んだ田舎のアパルトメントの一室にその長身で押し入って、料理に洗濯にと世話を焼いているさまを想像すると、あまりのアンバランスさに笑ってしまいそうになる。
「俺は遊星に惚れている。遊星のために働き回るのは、まあ、趣味のようなものだ」
「……」
「金だけではどうにも押し通らないことが、この世にはままあるということだな。例えば、百合子の不調……さて、お前は彼女について、どこまで知っている?」
 ジャックは最後の一枚をすっかり綺麗にしてしまうと、手についた水分をふきんで拭いながらジョニーを見た。
 深い紫色の瞳が理性を帯びてかちりと煌めく。宝石に入ったひびのような形の虹彩が、ジョニーに全ての意識を向けていた。居た堪れなくなり、ジョニーの視線は遊星を探してキッチンを一巡したが、すぐに彼が百合子の部屋に残ったことを思い出した。
 ジャックが、ジョニーの胸の内に閉じ込められた疑念をつまみあげ、その存在を炙り出そうとしていることは明らかだった。だが、一体何のために? 彼は何を知っている?
「あ……ええと、原因はまだわからないんだ。いろいろな病院を回ったけど、どこにも異常が見つからない。悪いところがないとなると、病気かどうかも……」
「何を恐れている? もっと本質的なことだ」
「本質的なこと」
「例えば、……あの女はどこから来たのか、とか」
「まさか」ジョニーは押し殺していた息を吐き、目の前の男を見た。「*百合子が誰なのか*、知ってるの……?」
 不思議な百合子。原因不明の病。彼女が普通でないことはもはや明白だった。
 遊星と百合子はよく似た兄妹だが、その質が異なるものであることはジョニーにもなんとなくわかった。男だとか女だとか、年上だとか年下だとか、そういう問題ではない。皮膚の下に流れるものが違う。呼吸の時、吸って吐き出すものが違う。よく似せて作られているが、二人は本来相入れないはずの、異界のもの同士だ。
 ——百合子は人間ではない?
 それは恐ろしい天啓だった。逆境にあっても朗らかで、誰にでも優しい、天使のような百合子。ジョニーだけをひたむきに愛してくれる百合子。ジョニーと寄り添って生きることを望んでくれる百合子。誰よりも愛おしいその少女が、そもそも属する場所の違う、一生混じり合うことのできない異邦のものかもしれない。
 ジョニーは、たとえ百合子が地球に飛来したタコ星人だったとしても彼女を愛する自信があったが、それはその発想が現実のものでないという確信のもとに成りたったものだ。もし、真実になったとして、果たしてジョニーは正気でいられるだろうか。彼女を愛し続けることができるだろうか。
 人間は、自分とは異なるものを排斥したくなるようにできているのだ。
「……そう不安がることはない。真実はもっと単純だ」
 ジャックはジョニーの葛藤を見透かして、くつくつと低く笑った。
「百合子は人魚なのだ」
「人魚?」
「そうだ」
「人魚って、人魚(mermaid)?」
「ああ」
「に、人魚。へえ。だからあんなに綺麗なんだ……」
 その反応なら問題ないな、ジャックはジョニーから視線をふっとそらし、勝手にメーカーでコーヒーを淹れはじめた。
 人魚。人間の特徴と魚の特徴を併せ持つ架空の動物。物語の中ではしばしば女性の上半身と魚の下半身を持つ生き物として描かれ、その起源は、アイルランドのメロウやギリシャ神話に登場するセイレーンなどの伝説に見ることができる。
「むろん、本物の人魚などこの世に存在しない。百合子は人工的に作られた、最初にして唯一の人魚だ」
「……どういうこと?」
「彼女は、動物の遺伝子を人間の受精卵に組み込む実験の最初の被験者だ。たった一人の科学者の暴走の末路だ。被験者は複数いたらしいが、(規制)の遺伝子を打ち込まれた彼女だけが、生物としてこの世に生まれるに至った。結局、この実験は告発され、結されるに至ったが、生まれた個体を廃棄することは誰にもできなかった。それを引き取って育てたのが、遊星の両親だ。彼女は百合子と名付けられ、以後お前の元に身を寄せるまでの十三年間、本当の娘のように育てられてきた。
ここまでは良い。問題は、この実験が凍結されたことで、彼女の身体に起こるその後の変化を観測する人間が誰もいなくなったことだ。
これは俺の仮説でしかないが、おそらく、彼女の不安定な遺伝情報が何らかの不具合を起こし、このような原因不明の不調を引き起こしているのだろう。となると、普通の医者には彼女を治療することはできない。科学者は獄中で狂気を引き起こし、彼女の両親はもういない」
 ジャックの話はまるで現実感がなく、突拍子もないものだった。だが、彼はやたらに冗談を言うようなたちの男ではない。ジョニーに差し向ける眼差しは変わらず誠実なものだったし、百合子の、おとぎ話のような真実を語る声はいやに静謐だった。
「遊星はこのことを知らない。百合子本人でさえも、自分が普通でないとわかってはいても、ここまで仔細な事情は知らないだろう。彼らの両親は俺だけに秘密を打ち明けた。なぜかは、わからない」
 コーヒーが出来上がり、彼はそれを取って啜った。
「……つまり、百合子は(規制)と人間のあいのこだけど、それぞれの遺伝情報が噛み合わなくて今不調を起こしてるってこと?」