2023/10/05

 

 

 

 それは、老いたはじめの甘美な回想だったかもしれない。あるいは、愛する人とほんとうの家族になった晩、少女のはじめが見たうたたねの夢だったかもしれない。きらきら、きらきら、無邪気な子どもの声がしゃぼん玉のようにはじける。涼しい風が吹いてはじめの前髪を巻き上げ、山吹色の光の気配が、頸の皮膚を悪戯っぽくくすぐる。幸福のためにため息をつき、その心地よさのままに瞼を開いた。
 秋の庭に、はじめは立っていた。先日越してきたばかりの自宅の庭だ。サトウカエデのみごとな紅葉。黄金色の小さな花から芳醇な香りを漂わせる金木犀の灌木。ダリア、竜胆、まだつぼみのままの月下美人。木桶に、ジャムを作るために集めたクラブアップルの実。その向こう、ガーデンフェンスごしに見える葉山の海。白群の空。背後に、ハーフティンバー様式の、左右に大きく翼を広げたような佇まいの品格ある母屋。傍らにガラス張りの温室、はじめがこの屋敷を修復するにあたって、不動産屋に細かく指定して作らせたもの。
「まあま!」
 柔らかい腕が背後からはじめに抱きついた。見下ろせば、薄いレモン色のシフォンシャツを着た、かわいらしくいとおしい女の子が、くりくりした青い目ではじめを見上げていた。薔薇色の頬。乾草にもにた肌のにおい。小さな頭の上にお団子が二つ。親譲りの奔放な癖毛をまとめるのは、本当に大変なのだけれど、彼女はこの髪型を気に入って毎朝母親にセットをせがむ。純真で無垢な存在。この世にたった二つの、はじめと、純太の宝物、その片割れ。娘の一陽だ。今年で二歳になる。
 はじめは、おやつのためのアップルパイを作るのに、庭の青リンゴを収穫しようとして、表に出てきたのだった。キッチンに立っていたときのまま、青いチェック柄のエプロンにロマンチックな紅椿をあしらったスカーフを巻いて、生白い素足のまま、灌木の幹のそばに立っていた。ふわふわと柔らかく跳ね上がる前髪を優しく撫でてやる。えへへ、ともうふふ、ともつかない笑い声をあげて一陽、「たあねぎ」
「玉ねぎ?」
「あい」
 小さな手のひらが固くむすばれていたのを、もったいつけながら開く。泥まるけの小さな手の中に、”玉ねぎ”が、すでに緑の芽を窺わせて……慌てて彼女を顧みれば、すっかり茶色く汚れたタンガリーの外ポケットから覗く、大小さまざまの玉ねぎたち……玉ねぎではない、球根だ、チューリップの!
「んふふふふ」
 伸ばした手のひらをすり抜けて、冬生まれのおませな王女殿下、無邪気にくすくす笑いをする。
 彼女らが生まれて初めての春、まだ都内の狭苦しいアパートで暮らしていたころに、色と品種を厳選して選んだチューリップの種、この庭に移してからも、種類ごとにかためて埋めておいたのだが。使い終えたときのくちゃくちゃになったパレットのさまを、来春、ちぐはぐな場所で咲くであろうチューリップたちに重ねながら、はじめは反射的に身を翻して娘を追いかけた。
「一陽」
「きゃ!」
 二歳の足で走れる距離などたかが知れている。とはいえ、悲鳴を上げながら逃げ惑う小さな獣を追いかけ回して捕まえるのは、もうそこまで若くもない身、まったくもって簡単なお役目とは言い難かった。彼女はクラブアップルをためて会える木桶を盛大に引き倒し、まろびでる小さな果実に転ばないだろうかと母親をハラハラさせ、かと思えば睡蓮の水瓶に額を強く打ってよろけ、そのまま盛りを迎えた秋薔薇の茂みに勢いよくダイブ、するところをなんとか抱きとめた。
「まあま、おあな!」
 母親に抱っこされて、一陽は嬉しそうだ。舌足らずに何か言った。元気よく動く、そのふくふくした頬に唇を寄せる。
「あまり心配させるな」
「あいー」
 大事はなんとか避けたが、せっかくのブラウスが土だらけでだいなしだ。突っ込んだ勢いでちぎれた薔薇の葉も何枚かくっついている。このぶんでは、一度風呂を沸かして入れなければならない。ともかく、ほっと一息……つく間もなく、こんどは背後でけたたましい鳴き声が上がったのに、はじめは肩をびくつかせた。ネオンブルーのフレームがまぶしいスペシャライズドのキックバイク、幼児にはあまりにも立派すぎる代物、から転がり落ちて、男の子が泣いていた。そばで聡明なボーダーコリーの幼犬・キャベツがおろおろしている。
 はじめの宝物の、その片割れ。名前は一月(いつき)。不躾かもしれないが、はじめは、泣いている息子を前にして、胸に迫り上がる幸福を抑えることができずにいた。一陽と一月は双子の兄妹で、一月の方が数時間早くに産まれたのだが、体重二千グラムに満たない未熟児だった。先天的な腸閉鎖があり、早急な手術が求められた。母親に抱かれるよりも先んじて腹をメスで開かれ、保育器に入れられて、さまざまな種類のチューブやコードに繋がれた彼を見るはじめの心は不安と懺悔のために今にもひしいでしまいそうだった。それが今、自転車を乗り回し、転んで泣くくらいに元気にやっている。
「一月」万感の思いで彼の名前を呼んだ。
「ままあ」
「まずは自転車を起こして、立てるか」
「んんー……」
 脚に一陽を張り付かせたまま、はじめが補助に回ろうとすれば、小さな手がそれを跳ね除けた。勇敢な王子殿下はブラウスの袖で汗と涙で汚れた頬を拭い、ハンドルを起こして、よろよろと立ち上がった。誇らしげに胸を張りながらも、大きな自転車を抱えてバランスの崩れた小さな身体を抱きしめる。怪我はなさそうだ、妹同様、クマの刺繍のついたタンガリーは泥と芝生だらけだけれど。
「えらいぞ。さあ、お風呂に入って、それからおやつにしよう」
「おあな?」
「お花じゃない。りんご、擦ったやつ」
「りんよ!」
 はしゃぐ一陽の手を取り、一月を右腕に抱き上げ、キャベツを左脚にじゃれつかせて、はじめは母屋の方を振り仰いだ。琥珀色の光でみな天の金属のように輝く、夢のような秋の午後だ。

 早々に風呂から上がり、濡れ鼠のまま駆け回る子どもたちを捕獲してバスタオルに包む。ふと、ダイニングの方で、電話のベルがけたたましく鳴るのがこちらにも聞こえてきた。身体にタオルを巻いただけの格好で足早にダイニングに向かった。
 ダイニングルームは、この邸を改装するにあたってはじめが細かく注文つけてこだわった部屋の一つだ。壁紙には英国の、ファローアンドボールのエメラルドグリーン、電灯や燭台はイギリスで買い付けてきたとても古いもの、ダイニングテーブルはかわいらしい猫脚のマホガニー。フレンチアンティークのカップボードには、はじめにはよくわからないものの、純太が気に入って集めてきたカップやソーサーなどが飾ってある。南向きのベイウィンドウからは昼下がりの清潔な光が差してきて、よく磨かれた木のフローリングを白く温めている。
 壁掛けの古い木製の電話は番号が表示されないタイプのもの。一も二もなく、受話器を取って耳に当てた。
「はい、手嶋ですが」
「よ、はじめ、元気にしてるかあ?」
 姿は見えなくとも、電話越しに話しているのが、世界で一番大好きなその人だということはすぐに知れた。艶々と潤いのあるセクシーな男の声だ。
「純太」
 彼の声はいつだってはじめの心を柔らかにくすぐる。「時間、だいじょうぶなのか」
「大丈夫、今の今まで走り込んでたとこ。やっぱワールドマッチを走るチームはちげえや、イタリアにいたころも頑張ってたつもりだけど、段違いだよ、夜中だろうが早朝だろうが起きてようが寝てようが練習練習、トレーニング、レース、って感じ。汗だくだよ、もう、早く家帰りてえー!」
 純太は、サイクルロードレース・ワールドチームの選手で、年始から秋の末までをホームタウンのニューヨークで過ごしていた。去年まではイタリアにいたのが、春先、チームの合併であちらに異動になったのだった。小柄で貧弱なアジア人のハンデを背負い、強豪チームのネームバリューを背負って、すでに心身疲れ切っているだろうと思われた。つとめて優しい声で、はじめは彼の言葉に相槌をうった。
 深夜のマンハッタンの喧騒が彼の呼吸に混ざる。車のクラクション、若者たちの活気ある話し声、自転車の車輪の音、セントラルパークの、どこか大通りに近いところにでもいるのだろうか。目を瞑って彼の視界を夢想すれば、吐息だけで微かに笑う気配がした。
「はは、ごめん……嬉しくてさ。さっきまでもう寝そうってくらい疲れてたのに、こうやっておまえと話してたら、なんだかすぐ元気になってきちゃった。ああ会いたいなあ、はじめ、子どもらにもさ、元気にしてるのか、あいつら……」
「毎日、賑やかで楽しい」
「頼もしいよ」
「一月は……月はじめのブルターニュを観て、感動したらしい、毎日自転車練習してる。このあいだもすごく熱が出て……乗りたいって泣いてた。一陽はあいかわらずだけど、元気だ、よく食べて、よく遊んで……最近は少しわがままも言う。パパに会いたいって。いい子にしてるよ、二人とも」
 うれしい。知らず、語る言葉に力が入る。ひどい時差がある中で、疲れた彼に甘えてしまって申し訳ないとは思うのだけれど、久しぶりに聞く彼の声や言葉は、はじめが今でも彼に恋をしていることを思い出させてくれる。受話器を耳に押し当てたまま、はじめはダイニングを振り返った。子どもたちは、どこから持ってきたのだか知れない菓子の空き箱を、積み木にして遊んでいたが、母親の様子から電話の向こうの存在を賢しく察したようだった。一月のほうがフローリングから立ち上がり、つたない足運びでこちらへ近づいた。
「ぱぱ」
 一月の呼びかけに、電話の向こうで純太が息をのむ。くるんと栗毛が渦巻く小さな頭を片手で撫でてやり、はじめは目を細めた。不在の父親の存在をあの手この手で刷り込んだ結果だ。電話の音量をあげ、伸ばされた手のひらに、受話器をそっと握らせてやった。
「そうか、もうパパって言えるんだな」
「いつきジテンシャする」
「え、あれ、すごくね? はじめ!」
「賢いんだ、一月は」
「りんごする」
「そうかー、りんごか、一月はすごいなあ」
 受話器から零れる、歌うような声は、優しくあたたかで、清らかだ。それに一月の、心なしか嬉しそうな応酬が追随する。目を閉じて静かに聞き入った。

 暖炉の低い焔が、時々ひら、ひら、燃え上がる。オレンジ色の光が、鉄のファイアーツールやウッドホルダー、銅製のやかんと蓋付き小鍋、ハトとオリーブをあしらった小さなステンドグラスの窓、カシュマール産絨毯の鷹揚なブルー、ほっそりとしたはじめの座姿を詳らかにする。はじめは、天鵞絨のカウチにゆったりと腰掛け、オケージョナルテーブルの上に飾った花や小物を鉛筆でスケッチしていた。ロイヤルコペンハーゲン青い花瓶に、アジアティックリリー、黄色やピンクのデイジー、種になったレタスポピー、可愛らしいディル、それから庭で収穫された歪な形のりんご、オールドファッションのガラスの水さし、二十世紀のドイツで作られたという、末広がりのローゼンタール・ティーカップ。寝ているキャベツがころんと寝返りを打つ。ピンクのお腹を見せる。
 やわらかい鉛筆の先を緩慢に動かしながら、いとおしいかの人の声をいまでもリフレインさせるはじめである。純太、大好き、言外に寂しさを訴える妻に、しかし彼は答えなかった。
「俺も——おやすみ、はじめ。愛してる」彼はマイクに軽くにキスをして、そのまま電話を切った。そのときのことを回顧すれば、耐え難い寂寞が胸中押し寄せてきた。子どもがいたって、まだ三十にも満たない若者なのだ、いくら気の長いはじめとて、夫の不在にいつまでも耐え続けられるわけではなかった。クロッキー帳を放り出し、キャベツの腹に顔を埋めて少し泣いた。
 さて、時刻は二十一時を回り、子どもたちを寝かしつけてからそろそろ一時間ほど経つ。一陽あたりが起きて遊んでいてもおかしくない。キャベツを起こさないよう努めて静かに立ち上がったが、一歩スリッパの足を踏み出した瞬間にびくりと身体を振るわせ、ぴょんとカウチから飛び降りてはじめに追随した。
 灯りを持って応接室から廊下に出、吹き抜けの階段を静かに上る。キャベツも器用に前足で段差を上りついてくる。二階の、一番大きな和室がはじめと子どもたちの寝室だ。はじめの敷布団の両側に小さなものを二つ敷いて、一月と一陽、それぞれに割り当てているが、だいたいはじめが寝る頃にはひどく寝返りを打って無秩序なことになっている。実際、ふすまを開けて中を伺ったはじめが最初に見たのは、床の間に頭を乗り上げた姿勢のまま寝ている一陽の姿だった。
 キャベツを廊下に残したまま、音を立てないよう忍者のように部屋へ入り、まずは一陽にとりかかる。小さな身体を抱き上げれば、によい、と、何やら寝言を言ったが、起こしては大変なので返事はしない。頭から敷布団の真ん中に寝かせてやる。タオルケットをかけ、寝息が安定したのを確認してから、今度は一月の布団へ向かう。
 妹と比較して、一月の寝相はだいぶんよい方だ。うつ伏せか、横向きか。布団を蹴飛ばすようなこともない。しかし、今日は何故だか仰向けだ。はじめが感じた最初の違和感はそれだった。なんともなしに、額にかかった前髪を払ってやろうとして——熱い! 見当もつかぬまま指を離し、遅れて、彼に異変が起きているのだとようやく察知した。今度は手のひらで額を触る。熱い。汗ばんでいる。熱がある、それもかなりの。思わずその顔を、唇に何かついているのを見て、はじめはすんでのところで悲鳴を上げるのを抑えた。背中に冷たい汗が滲む。触れた指先が震え出す。
「一月」
 はじめ自身が驚くほど、小さく弱々しい、覇気のない声だった。潤んだ目がはじめをぼんやり、見た。
「まま、いたい」
「一月——」
 慌てて和室を飛び出す。もつれる足をなんとか奮い立たせ、階段を下り、ダイニングに駆け込んで電話機に縋った。ダイヤルを回そうとするのに、震える指先はとても使い物にならなかった。落ち着け。落ち着け。深呼吸を繰り出すが動悸はいっこうにおさまらない。そうだ、クイックダイヤル! テーブルに置きっぱなしにしてあった端末を取り、電話機能を探し当て、あらかじめ登録してあった三桁になんとかダイヤルした。
 救急車はすぐにやってきた。一月の脈をとって熱を測り、意識の状態を見て、可能性は低いが、腸閉鎖が再発している可能性があるのでこのまま医療施設に運ぶ、と告げた。同乗し、一月が処置されている間、何度純太に連絡を取ろうと思ったか知れない。ニューヨークはいま朝だ。妻が遠方の夫に連絡したとて何の支障もない時間だ。しかし、彼は今週末イル・ロンバルディアを控えていた。彼には万全のコンディションで臨んでもらわなければならない。とにかく今は駄目だ。処置室の前の長椅子に座り、額を伏せて、一月の無事を一人で願うばかりだった。
 結局、一月は、腸閉塞を再発させたわけではなかった。重ためのウイルス性胃腸炎とのことだった。数時間点滴されたあと、処置室から出てきた一月は、まだ少しだけぐったりとしていたけれど、先よりはずいぶん顔色が良かった。薬を何種類か持たされて、朝方、タクシーで帰宅した。別の部屋に一月を寝かせたあと、はじめは再びダイニングに降りて、電話機から純太に連絡を取った。
「純太」
「おはよう、はじめ。どうした、こんな時間に、珍しいな」
「純太……」
「……はじめ、なんで泣いてるんだ? 何かあったのか? はじめ……はじめ?」