2023/05/02

 

 駆ける、駆ける、駆ける。全身を覆う雨水に混ざって、涙が後ろへこぼれゆく。インドネシアの路地はどこまでも続く、のぼり、降り、うねって行き止まり、かと思えば家と家の隙間にまた細い路地が現れる。雨のカーテンを掻き分けるように、押し寄せる雨雲から逃れようとするように、小銀はどこまでも走り続ける。
 まりなはすぐに応答してくれた。聡い彼女は電話口での小銀の嗚咽にすぐ異変を察知したらしい、一言一言を区切って言葉を口にしながら、落ち着くようにと促す。しかし小銀は落ち着いてなどいられないのだった。身体が震えてやまないのだ。過呼吸が止まらない、胸の奥が締め付けられて苦しくて、うまく言葉を発することができない。自分で自分の肩を抱き、どこともしれない植え込みの中にうずくまる。
「まりな」
「うん」
「まりな! まりな、今すぐここにきて抱きしめてくれ、でないと私は……」
「少し落ち着いて。親弘は? 一緒にいたんじゃないの?」
「いない、ひとりだ。ひとりきりだ。もうどこに行ったかも知れない」
 親弘との決裂を口にするたびに、胸に灰色のもやが立ち込めて、殊更におそろしく、息苦しくなる。膝に顔を埋める。くぐもった声でまりなに訴える。
「親弘に知られた、子どもがいるってこと、そうしたら……あいつは何も言わなかった、無表情で立ち尽くして、私はその顔が見たくなくて……どうしよう! まりな、親弘に嫌われたら私、もうどう生きていけばいいのかわからない!」
 彼だけが羅針盤だった。彼のやさしい言葉が、温かい手のひらが、抱きしめてくれる腕が、小銀の皮膚や骨や内臓に染み付いて、細胞のひとつ一つをすげ替えてきた。それらを一息に引き抜かれて、小銀はようやく、すかすかになってしまった自分を直視したのだ。依存性が強いからでしょ、それと同じで……かつてのまりなの言葉がよみがえる。
 煙草は肺機能を劣化させる。薬物は内臓や精神を破壊する。親弘は……冷酷な世間を渡り歩き、何からもその弱点を隠し通すための鋭い爪、氷の膜で覆った心を圧倒し、再起不能になるまで叩き潰した。いま、小銀はその清算にすっかり追い立てられていた。
「小銀……」
 ためらいを帯びたまりなの吐息がすぐそこで弾け、彼女に抱きしめられているような気分になって小銀は束の間の安息を得る。
「……もう、いいよ。帰ってきたら?」
「え」
「そうよ、日本に帰っておいでよ。それで赤ちゃんが生まれるまで私の家にいたらいいわ。わたし、きっとうまくやる。あなたのことも、赤ちゃんのことも大事にする」
「まりな……?」
「好き」
 目の前を落ちてゆく雨粒がとてもゆっくりとしたものに思えて、小銀は目を見張った。
 だがそれはほんの一瞬のことだった。瞬き一つののち、雨はふたたび蕭条として小銀を取り囲んでいた。桃色の小ぶりな花びらから溢れた水滴が、小銀の頬をやわらかく打った。
「あなたのことが好きなの」
 宝物を差し出すような声で、まりなは繰り返す。
「覚えてるかな。親弘が熱を出して学校を休んだとき、プリントを届けに行ったでしょ? クラス委員のわたしと、親弘の家に行き慣れていたあなた、一緒になったのはその程度の理由からだったわ。そのとき、わたしたちが来てるのに、すごい寝相で寝てるあの人を見たあなたが……いいえ、理由なんか関係ないわよね。いつのまにか、わたし、あなたに恋をしてました」
 覚えているとも。うららかな春の日、季節外れの風邪をこじらせて、親弘は一週間も学校を休んだ。担任ははじめ親弘と親しい小銀にプリントを届けるよう言いつけたが、コンプライアンスがどうとかで、すぐにまりながお目付役に指名された。
 記憶のもやが小銀を覆い、雨粒は、薄く壊れやすそうな桜吹雪に変わる。二人はほとんど会話もなく校門を出て、小銀の記憶を頼りに親弘の家を訪れ、インターホンを鳴らしても応答がなかったので、開けっぱなしの扉から中に入った。両親はなく、ただものすごく捻くれた寝相の親弘が、大量のペットボトルごみの中で寝こけていた。あまりにおかしくて二人で笑った。
 帰り道、そのことで二人は少しだけ盛り上がった。……吉野もそんなふうに笑うんだな、ちょっと意外だ……思えば、それがまりなと話した最初の時間だった。
「親弘のことだって大事よ。クラスメイトだもの。でもね、それ以上に、わたしの好きなあなたを……だめにしようとするあの人のこと、許せないの……身勝手だって笑う?」
「いや」
 小銀が首を振ると、長い髪から細かく水飛沫が散り、虹が立った。
「ありがとう」
 電話口でまりなが息を呑む。
「気持ちには応えられない。私は私から親弘を拭いきれない。親弘がいなければ、私も私ではないんだ。でも、まりなが私を好きでいてくれてよかった」
「小銀」
「私も。まりなのこと、大好きだから。親弘がいちばんで、おまえは二番めだ。な……身勝手同士、お似合いだろ」
「……ばかね。なに本気にしてるの。冗談に決まってるでしょ……」
 まりなの泣き笑いが瞼裏の海に浮かび上がる。小銀は目を閉じて耳を澄ます、彼女の息遣い、亡羊の嘆、押し殺された小さな嗚咽まで、聞き漏らすまいとして耳を澄ます。

 ——わりいけど、夢で終わらせる気はさらさらねえよ
 現実の喧噪から遠く、意識の奥底、感じやすく繊細な部分で、彼の声を聞く。
 ——聞かせろ。お前はどうしたい?

 小銀の母は、彼女が二歳になるころにはすでに亡き人だったはずだが、夢の中では、五歳の小銀が高熱を出して母の介抱を受けていた。蝋燭のかすかな灯りの中で、ポーランド産の上等な羽毛布団に埋もれ、すぐぬるくなるタオルをひっきりなしにかえてもらいながら、熱っぽさに喘いだ。母の指先が頬に当たるのにすら、冷たい、と悲鳴をあげる。心細さのあまり涙が滲んでくる。
「よし、よし、泣かないことよ。あなたはあたしとあのひとの娘なのですからね、心を強く持って、ほら、タオルが落ちてしまうわ……」
 母は子どもに向ける甘やかな声で小銀をあやした。しかし、発熱に伴う鼻水や頭痛、耳鳴りが、幼い彼女を徹底的にいじめ抜くのだった。
 と、そこで、扉の開くがちゃりという音が、母と娘の間の静謐を破った。小銀はそちらに顔を向けて、一体誰が入ってきたものかと目を凝らしたが、高熱のために視界がかすみ、それはままならなかった。黒く大きな影が、のっぺりと、スツールに腰掛ける母の上に落ちるのがわかる。スパイスの効いた香水の匂いが、快く鼻腔に広がった。
「あなた」
「様子はどうだ」
「ううん……ずっと熱が下がらないの。きっとあたしに似たのね……いやだわ、こんな、こんなで失うことになったら」
 母は神経の細い人だった、らしい。驚きのあまり文字通り卒倒したり、雨が降るとふさぎ込んで一日中ベッドに潜ったりしているような人、というのは、誰の談だったろう。
 影は小銀の上にも静かに降り掛かり、小銀の汗ばむ額に触れた。その手があまりにもやさしいものだったので、小銀は驚きながらも……それが当然であるとも感じていて、そうした違和感をみな腹の中に下した上で、こう口にしていた。
「お父さん」
 舌ったらずで、ほとんど掠れ切った呼びかけだったが、影はきちんと反応を返した。手のひらを滑らせ、頬の輪郭を確かめて、眉間の皺をほぐすようにくすぐった。それから、
「小銀」
「おと、……さ……」
「大丈夫だ、おまえはおれのただ一人の子なのだから。さ、安心して休みなさい」
 その声があまりにも、やすらぎに満ちた響きだったので……小銀はみるみるうちに深みへと沈んでゆくのだった、深く、深く、もっと熱く激る領域へ、意識は発熱のあまり朧になり、あるいは知覚した覚えのない親の愛情というものに揺さぶられ、やがて個の輪郭すら曖昧になってゆく。
「小銀!」
 ——名を呼ばれて、彼女の意識は再び浮上した。
 身体は激しい熱に覆われたままだったが、少し様子が違った。彼女は生まれたままの姿で、脚を左右に開き恥部を晒した状態で、くしゃくしゃのシーツの上に横たわっていた。膣口はもう十分すぎるほどに潤み、小指の先ほどの陰核もまるまると勃起して、小さな容積の中にはち切れんばかりの欲望を溜め込んでいた。それをおもちゃにするように弄るのは親弘の人差し指だ。伸びた爪の先がむき出しになった芯の部分にチョンと触れ、それだけで小銀は大袈裟なほど背中を反らして歓喜した。
「親弘、はやく……」
「かわいー、小銀、エロい顔してんぜ」
 腰を振り、身を捩って解放を訴える小銀を、愉悦に唇を歪めて親弘が見下す。欠けて段のついた爪に容赦無くつつかれ続けて、小銀はさらに激しく泣き叫んだ。
「な、オマンコって言え。言ったらいれてやる」
 親弘が、降って沸いた思いつきを考えなしに呟いた。
「は……」
「つか言うまでいれねえ。一生いれねえから」
「ば、ばかを言うな、おまえ……」
「俺は本気だぜ」
 悔しくて、恥ずかしくて、歯噛みしながら目を逸らす小銀である。卑劣で、残酷で、愛しい親弘。意地の悪い笑い方が誰よりも美しい親弘。
「誰が言うか」
「へえ? お前、我慢できんのか」
「おまえ、親弘……」
 睨みつけてやればやるほど、勝ち誇ったように彼は口角を吊り上げるのだった。
「なんとでも言いやがれ、俺は今最高に気分がいいんだ」
 言いながら小銀の腰をつかみ、むき出しになった陰茎を擦り付けてくる。濡れた入口を迫り出した部分や浮き上がった血管などが自由気ままに刺激し、焦れ切った肉体が悲鳴をあげる。小銀は唇をかみしめて堪えた。誇りまで捨てさせられてはたまらない……しかし、親弘は余裕ぶって鼻歌など歌い始める始末だ。この遅漏、鬼畜野郎、罵倒は気の抜けた空気になって鼻から抜けてゆくばかりである。
「お前よ、強情張るなよ。たった一言言うだけだろ? ふんじばって無理矢理言わせてもいいんだぜ」
「う……いやだっ」
「このくそばか、おりゃっ」
「い、っひ!」
 ことさらに強く押し付けられて、小銀は堪えきれず悲鳴を上げた。太い。硬い。脈打っている。ああ、だめだ、親弘に侵食される、窒息させられる。熱い。熱い。熱い。
「おまんこ! いれ、いれろ、ちかひろっ、は、やく……おまんこにいれて!」
 ついに叫んだ。そうしたら、親弘はしてやったりとばかりに不敵に笑い、一息に奥までを踏破して、子宮口を半ば押し上げるような形で静止した。開発された尿道から何かがだらしなく漏れる。脳でシナプスが引きちぎられていくような感じがする。誇りなんてもう、あってないようなものだ。
 彼はゆるく腰を動かし、その度に先が食い込んで小銀を狂わせた。太い指が震える掌に絡み、しっかと握りしめた。
「な、俺のこと好きか。好きだろ? 言って……、言え、言えっ」
「……っ、す、すき、ちかひろ……」
「俺のだ。俺の……俺の小銀……!」
 熱くて熱くて、触れた指先から蕩けあいそうだ。

 

   Isha ——イシャーウ、星飛ぶ

 夢から覚めて、今生まれたばかりの気分だ。
 瞼の裏で、薔薇の花を透かして見るような朝の光を感じ取り、緩慢に覚醒に漕ぎ着けた。清潔なパジャマに着替えて、小銀は矢崎邸客間のベッドの上にいた。かすかなみじろぎにも、枕からアロマの香りがたつ。雨上がりの湿気を帯びた風が半開きの窓から入ってきて、額の上にぱらぱらと広がる前髪を巻き上げる。
 ベッドのそばに腰掛けていた矢崎夫人は、小銀の目覚めを確かめるや否や勢いよく立ち上がって、何か言葉を詰まらせ……その繊細な掌で、小銀の頬を打った。
「あなた自身はおろか、お腹の赤ちゃんまで危険に晒す軽率な行動でした。反省なさい」
 おぼろな意識では何をされたかということについてすぐに知覚することができず、小銀はただ呆然とするばかりだ。遅れて、打たれた場所から焼け付くような痛みが広がり、咄嗟に頬をおさまえた。夫人を見上げる。透き通る虹彩を涙の膜が覆い、張力を離れたぶんが下瞼にぽろりとこぼれ落ちる。泣いていた。
「昨日の雨の中で、あなた、膝を抱えて気を失っていたそうですよ。高熱でした。肺炎を起こしていたんです。肺炎は、胎児を流産に追い込む可能性もある非常に危険な病です。あるまじきことです。自分が、親弘さんの恋人である前に、母親なのだという自覚をお持ちなさい」
 彼女の涙に意識を洗われるようにして、昨日のことを思い出す。親弘に子どものことを話した。まりなの愛の告白を聞いた。親弘の冷たい目。通話特有のノイズを帯びたまりなの声。雨の音。愁傷。強い眠気。
「親弘は……!」
 慌てて飛び起きようとしたが、頭に強く鈍い痛みが走り、甲斐なく身を折ってうずくまった。逸る肩をそっと押しとどめられる。
「まだ起き上がらないで、熱が引いていないのですよ」
「親弘、親弘」
「親弘さんは出ています。彼のことはもっと強く叱りましたから、しばらくは顔も見せないでしょうね」
 そばに控えていたデヴァンが、彼の女主人に折り畳まれたハンカチを渡す。
「あなたを抱いて、うちに連れ帰ったのは親弘さんです。自分が雨に濡れるのもかまわず、あなたにひどい熱があると、自分たちの子どもが危険にさらされているのだと、そう訴えて、私たちに医者を呼ぶよう頼みました。あなたが眠っている間もずっとそばについて……私たちだって、胸が潰れるような思いでいたんですよ、でも彼の様子を見ていたらとてもそんなこと言えなかった。ひどく憔悴した様子でした。あなたたち二人に、いったい何があったのですか」
 言葉につまり、小銀は沈黙した。
 遠くから、子どもたちがはしゃぎ回る声が聞こえてくる。無邪気な鳥の囀り、棕櫚の葉の擦れあって立てるさわやかな音、時折、表通りで渋滞を起こす車両やバイクのクラクションも。
 夫人の可憐な声が語る親弘の姿に、目眩を起こしそうな思いだった。彼が言ったのか、小銀の腹の中で育ちつつある小さな命の原型を、自分の子どもだと? 彼の冷たい目と、頼もしく力強いその言葉を交互に顧みて、混乱し震えさえする指先を小銀は固く押さえつけた。逸ってはならない。余計な期待も不要だ。
「いいですか。レンテンアグンの医療機関ではどうしても限界があります。発熱が落ち着いたら、すぐ帰国して精密検査を受けなさい」
 硬質な口調とは裏腹に、至極優しい手つきで、夫人は小銀の身体を抱きしめた。

 退屈なベッドの上で過ごした。意識は明瞭であるのに、身体全体が熱く気だるさに包まれていて、思うように振る舞えないのがつらかった。
 昼ごろ、矢崎氏が、サラクという果物を持って見舞いにやってきた。茶色い蛇の鱗のような皮に度肝を抜かれ、激しく遠慮する小銀だったが、実際皮を剥けば出てきたのはニンニクのような形のごく普通の果実だった。独特の匂いがするものの、味もナッツのような香ばしさがあっておいしい。
 夢中で頬張り、時折皮を出す小銀を、彼は柔和で純朴そうな目で見ていた。
「妻がすまないね」
 夫人が残していったスツールに腰掛け、矢崎氏はそう切り出した。
「彼女はなかなか子どものような人でね、僕が長く仕事に出ていると癇癪を起こすんだよ。嫌いな野菜はみんな僕の皿に移すし、雨の中フィールドワークに飛び出して風邪をひいたことだってある。でもね、きみにはああして思い切り怒ったんだ。さて、どうしてかな」
 小銀は首を横に振ることで否定の意を示す。
「僕らには子どもがない。妻は幼いころからとても病弱で、ある日身体を持ち崩した拍子に子宮の機能を失った。もちろん、僕もわかっていて彼女と結婚したのだし、それに関して不満はないよ。でも、お互いどことなく寂しさを持て余していた。そこに、親弘くんがきて、きみが来た。まだ未成熟で弱い子どもたちだ。
 妻はきみたちを愛してる。きみが痛ければ彼女も痛いし、きみが辛ければ彼女も辛いんだ。彼女は、いつか赤ちゃんを失ったかもしれないきみの代わりに、怒って、泣いたんだ」
「私も」先んじて言葉が飛び出した。そのことを恥じらいながら、小銀は言葉を継ぐ。「……百合子さんのこと、好き、です。その、変かもしれないけど……」
「変なことなんてないさ。聞いたらきっと喜ぶよ、彼女」
 さて、僕は不機嫌なお姫さまを宥めてこなきゃ、矢崎氏はそう言ってスツールから立った。
 彼が去ったあと、シーツにくるまりながら、わずかにふくらんだ腹の上に手を当ててみた。まだ話もしなければ動くこともない生き物だが、生きているのだということだけはわかるのだ。耳をすませれば、小さな胸の音が聞こえてくるような気がする。見ている夢がわかる気がする。ふいに泣きたいような気持ちになって、小銀は自分の肩を抱いた。自分は、この子を酷い目に遭わせた。
 親弘がどう思っていたとしても、彼が、彼女が小銀の子どもであることには変わりない。産み、育て、やがて巣立ってゆくまでそばにいる。たとえそれがどんなに大変な道のりであったとしても。

 こん、こん、という、何かを打つような音で、意識は再び浮上する。
 荘厳なテノールアザーンを唱えるのが聞こえてくるので、午後の礼拝、アスルが始まるのか、と思って瞼を開けた。仄暗い。もうすっかり日が沈んでいる。午後をすっかり寝過ごして、日没後の礼拝、マグリブが始まるころになってしまったようだ。この際朝まで眠ってしまおうと枕に顔を埋め、シーツをかぶり直したところで、またもあの軽やかな音が耳がらに飛び込んできた。
「なんなんだ、いったい!」
 存外に大きな声が出た。ベッドの上で跳ね起きてドアを睨む。が、すぐに音の出どころがドアではないと知れた。一際強く窓が打たれたからだ。
 まさか。おぼつかない足でなんとか立ち上がり、窓辺に駆け寄ってカーテンを引く。薄いガラスの向こう、小さな屋根のつっかかりに足をかけて、親弘が立っていた。
 二人は言葉もなく、しばらく見つめあっていた。親弘の瞳は、かなたへ引いてゆく残光のかけらを拾って鈍い赤に輝いている。青や紫の薄闇に全身を覆われて、それでも美しい目鼻立ちはしっかりと見て取れる。たとえ完全な闇の中にいたとしても、小銀は彼を見ただろう。彼の背後で空は徐徐に暗くなり、青紫から黄金へ、そして黒へと変化していった。光量が減るにつれて、彼以外の情報は意識からどんどん遠ざかっていって、取り戻すのが極めて困難になっていく気がした。暗闇に押し込まれ、言葉は凝縮される。ぽつんとともった宵の明星が、親弘が、不意に破顔した。
「よお」
「親弘……」
「なにぼけっとしてんだ、はやくここ開けろー」
 昨日だって聞いていたはずの親弘の声が、何年も忘れていた思い出のように愛おしく思われる。 
 思考もまとまらないまま鍵を開き、窓を押し上げると、彼は軽やかな所作で室内に降りた。
「ここ、二階だぞ」
「こまけえことは気にすんな。ほら、飲めよ」
 ジーンズの尻ポケットに無理やり突っ込んでいたらしいペットボトルが差し出される。水だ。困惑しながら受け取るものの、手が震えて蓋を開けることができない。親弘は、そんな小銀の手からペットボトルを取り上げると、代わりに蓋を開いて渡してくれた。
 インドネシアの硬質な水。口に含めば、乾いた口腔粘膜へにわかに染み渡り、小銀はたまらずため息をついていた。昼から何も飲んでいないのだ。
「あ、ありがとう」
「いいってことよ……おいおい、ふらついてんじゃねえか、天下の榊小銀が情けねえ」
「……おまえ、何しにきたんだ」
「見舞いに来たんだよ、当然だろ。彼氏なんだから——」
 腕を引かれ、広く頼もしい胸へと倒れ込む。じわりと、目の裏が熱くなる。スパイスの気配。汗の匂いとタバコの煙のほろ苦い香り。夕暮れの光の中で温められた皮膚のあたたかさ。
「百合ちゃん、ばかみてえに怖くてよ」
 耳のそばで囁かれる彼の声は夜の潮騒にも似て、小銀のささくれだった心を洗う。
「目えつり上げて俺に怒鳴るんだ。赤ん坊が死んだらどうする、手前はとんでもない愚か者だ、ってな。でもそれより参ったのはさ、めちゃくちゃ泣くんだよ、あの人。矢崎さんも医者のじじいもボーゼン。おもちゃ買ってもらえなくてごねる子どもよりタチわりい。あんまり泣くから俺、逆にめちゃくちゃ落ち着いてたっつーか」
 言葉に反して、小銀を抱く腕は震えていた。
「落ち着いて、そんで考えた。お前のこと、赤ん坊のこと、俺たちの未来のこと。そんで、俺なりにとりあえず答えを出したから、お前に……伝えたくて」
「親弘」
「その前に一つ聞かせろ。小銀、まだ俺のこと、好きか」
「舐めるな!」
 小銀は勢いよく身体を離すと、親弘の頬を思い切り打った。
「愛してる……親弘」
 言い終わるより先に涙があふれた。
 頬を伝い、顎からこぼれて、涙は黄昏の中の星になる。恐れをたたえた唇がそれを拭い、目尻を軽く吸って、やがて……小銀の方から唇に触れた。たくましい腕に強く抱かれる。手のひらが、小銀の赤毛を静かにいとおしむ。
 そこに、言葉はない。
 そこに、社会はない。
 そこに、過去はない。
 そこに、未来はない。
 言葉は宙に浮き、風に攫われるだろう。空を満たした夜は、朝に塗り替えられるだろう。闇とともに眠れば、夢を見るだろう。いつでも目が覚めれば、光に満ちているだろう。地は天の秩序にしたがって粛々と運行され、星は悠久の時をこえいまも輝いている。親弘がそこにいる。
「俺だって」
 冷たい舌が、小銀の下唇を情け深くいたわる。
「俺だって愛してる。小銀……俺たちの赤ん坊……大事で大事でわけわかんなくなるくらいだ、足の先まで食っちまって、腹の中にしまってずっと隠してたいくらいだ。でも、俺は俺の弱さのためにお前を傷つけた」
 最後に、彼はぽつりと口にした。
「悪かった」

 親弘に抱かれ、二階の窓から外に飛び出した。彼の動物じみた運動神経が、屋根から一階窓の庇部分、そして地上への着地を難なく成し遂げた。悲鳴をあげかけた小銀の唇をねんごろな接吻で閉じてしまうことも忘れない。
 車庫にひっそりと停められていたのは、黒の車体に剥き出しのエキゾーストパイプが銀色にきらめく、古めかしい雰囲気のネイキッド・バイクだった。町で彼が乗り回していたハーレー、ふんぞり返った感じのクルーザーとは趣を異にするものだ。彼はシートを開けてフルフェイスのヘルメットを取り出し、小銀に寄越してきた。わざわざパンツスタイルに着替えさせたのはこのためかと、どこか浮いた思考を巡らせる。
「どこに行くつもりだ」
「まあ、それは着いてからのお楽しみってことで」
 親弘がハンドルを握る後ろに乗り込むと、彼はすぐにエンジンをかけ、グリップを思い切りひねって矢崎邸の庭を出た。
 見た目の寡黙さに反して、バイクはあっという間に速度を増し、小銀は振り落とされまいとして必死に親弘の背にしがみついた。屋台や露天で賑わう市街地をしばらく走ると、五本の車線を備えた、太い幹線道路に出る。他に並走するもののない中、親弘は遠慮なしにアクセルを開ける。
 すっかり残光の引いたとばりに無数の星がきらめく。二人もまた青い流星になる。スピードが快い。排気音に心が躍る。風の中で、いつしか小銀の涙は乾いていた。
「お前を最後に抱いた夜——」
 親弘の声は、耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうなほど小さく、頼りないものだった。
「電話がかかってきた。電話帳にお前と両親しか登録してないもんだから、お前に腕を貸していたそのとき、親が電話をかけてきたんだと思って嬉しかった。親父もお袋も仕事人間で、家には全然帰ってこないし、連絡も滅多によこさない、毎月口座に金が振り込まれるのでかろうじて生きてるってわかるくらいのもんだ。だから電話かかってきたそんとき、びっくりしたし、それはそれは嬉しかった。
 だが電話に出たのは親父でもお袋でもなかった。名前も知らねえ弁護士を名乗る男だった。そいつが俺にな……いらねえ、って言うんだ。何が? 俺がだよ。金子親弘さんですね、ご両親が離婚されることになりました、あなた、どちらからも扶養を拒否されているので、離婚裁判で親権を取り決めることになりますが、どう思いますか? って、こったよ」
 小銀はなにも言わなかった。彼の告白を聞きながら、その肩越しに、うっすらと微笑する横顔を見た。
「金が振り込まれるたびに愛されてるんだって思った。電話はいつも繋がらなかったけど、どこどこの国に行きてえ、ってメールを打ちゃ、必要な分だけ金が振り込まれる、愛情のなすことだって信じてた。なんてこたねえ、夢物語だぜ。親は俺のことなんか愛しちゃいねえんだ、金さえ寄越しときゃ大人しくしてる厄介者だって思われてたんだ、考えたらもうどうしようもなくて、マジで好きだと思ってたお前のことすら置いて、この国に来た。別にどこでもよかったさ、他に頼れる大人が百合ちゃんしかいなかったってだけで。
 小銀、お前が好きだよ。世界で一番愛してる。誓ってもいい。でも、怖い、いつか嘘になって、お前を愛せなくなるんじゃないかって、お前が愛してくれなくなるんじゃないかって……子どものことはもっと恐ろしい、うまく愛せなくて、俺のような思いをさせるかもしれないって、それなら子どもなんて一生いらねえ、お前だけいればいい、そう思ってたから……あのとき、言葉が出なかった。でも同じだけ嬉しかったんだ。ほんとだぜ。
 抱きしめてやればよかった。不安だったよな、お前、訳もわかんねえうちに孕まされて、一人で置いてかれてさ。ごめん。そんで、ほんとはこう言いたかったんだよ、ありがとう——自由の利かねえ身体で、こんな遠くまで俺を追いかけてきてくれて、俺との子どもを大事にしてくれて、まだ愛してるって言ってくれて。こんなん一生かけても返せねえよ、返しきれねえよ、な、小銀。小銀……愛してる。俺と」
 そこで言葉を切り、振り返った。強い意志をたたえた灰色の瞳に、遠く、南十字星を望む。
「——結婚しよう」