2020年6月25日

A-5


「研究するのは、高校時代に想像していたよりずっと楽しいです。同じ志を持った仲間と、愛してくれる女の子がいてとても幸せだった」
「女の子?」
「ここに来る前に別れました」
 ふうん、そりゃ災難だったな、と言って、十代は一定のペースでロブスターの身を食べ続ける。ほかの客が、それも男たちが遊星のほうを時々羨ましそうに見た。彼らが連れている女よりも十代のほうが数段美しいからだ。熱帯のリゾート地では十代のような真っ白な肌は本来似合わないが、レストランの中では違った。十代はその白く滑らかナ波多方緊張感を促すオーラを発して、ほかの、よく日焼けした女たちの存在を平凡で希薄なものに変えた。大理石やワインやレストランに等級があるように、人間の女にもランクがあるのだとその場に居合わせた者たちに思い知らせる強さと美しさを十代は持っている。遊星は恐ろしくなった、こうして話しているだけで、遊星は「ヨハン」に罰せられる危険を案じた。十代はそんな恐れなど存ぜぬといった様子で、遊星の目を見て話し続ける。
「オレはもう何度もこの国に来てるけど、遊星ははじめてか?」
「はい。彼女の記憶から逃れたいと、その一心だったので。できれば思い出のない、知らない土地が良かったんです。思い出せば、それこそ首をつってしまいそうだった」
「……なんというか、おまえ、一途だなあ」
 十代のその笑顔が、遊星にはまぶしかった。あんなに執心していたはずの恋人との思い出が、きよらかな水に洗われ、純度を取り戻していく、遊星はこんな笑い方をする女を知らない。演技しているときの、一ミリも狂いのない笑いとは違って、汚いものや穢れたものを一切許さない、そうであれば粉々に砕いて純度の高いものに再構成させるような、そういう厳しい笑い方だった。
「一途な男はお嫌いですか」
 追い立てられたような気分になって、遊星は言った。まぶしすぎて眼がつぶれそうだ、と思った。
「好きだぜ」
 遊星が手洗いに立ち、帰ってくると、一人になった十代は別の男に声をかけられて首をかしげていた。男は、おきれいですね、と十代をほめ、十代はありがとう、と返事をした。男の言葉がまるで響いていないのは明らかだった、美しい彼女はヨハン以外のどうでもいい相手からの言われ慣れた言葉になど興味もないのだ。遊星は彼女の笑っているのを見た。面白がっている。
 彼女は男と二、三言葉を交わし、遊星の目の前で店を出た。あとでわかったことだが、遊星が財布を開けるころには、レストランの会計はすべてすんでいた。
 
 ホテルの部屋から電話をかけてみることにした。キューバの電話事情は最悪で、遊星の家にも電話はあるが、外国人専用回線ではないので国際電話はもちろんのこと、市内電話もかかりにくい。
 遊星は十代に鍵を預かっていた。ロックを解除して部屋に入り、スラックスのポケットから紙切れを取り出し、眺めた。十代の帽子の裏に挟まっていたものだ。何十回、何百回と開けて、そのたびに几帳面に折りたたみなおしたのだろう、ファクシミリ用紙独特の光沢はすでに消えかかり、表面は黄色く変色していて、折り目は破れかけていた。遊星は何度も十代の不在を確かめ、折り目でちぎれないように丁寧に紙切れを開けた。スタンドの明かりで、ヨハン・アンデルセン、という文字が見えた。
 八回のコールのあとで、低い、不機嫌そうな女の声が聞こえた。
「ママ?」
「え?」
「もうかけてこないでって言ったでしょ、わたし、結婚したのよ。大丈夫だからもうやめて」
「失礼ですが、アンデルセンさんですか?」
 遊星は声が大きくなった。雑音が多く、相手の声は聞き取りにくい。
「え?」
「もしもし、実は今、キューバからこの電話をかけています」
「何をおっしゃっているのかよくわからないわ、あなたは誰?」
 声が聞きとりにくい。キューバでは、電話はいつ切れてしまうかわからない不安定な通信手段だ。遊星の実家は長野にあるが、キューバからの電話を母親が切ってしまったことが何度もあった。交信状態の悪い電話は基本的に相手に不快感を与えるらしい。
「俺は不動といいます、大学生で、キューバに留学しているものです」
「ママじゃないの?それはママの電話でしょ?」
「ママというのは、ユウキジュウダイさんのことですか?」
「そうよ。そして、わたしはあなたのことを知らないわ」
 電話口の女は十代の名前に反応した。しかし、不機嫌そうな声は変わらない。
「誰かは知らないけどママに伝えてちょうだい。パパはもう死んだ。わたしはもうママの子じゃないし、この家もママのものではない。もう電話してこないで、って。ママ、そこにいるんでしょう?」
「いえ、俺は独断であなたに電話をかけたんです。十代さんはいません」
「あなた本当は誰なの?」
あなたがどんなうそをついてもわたしにはわかるのよ、女の言葉にはそういうニュアンスが含まれている。この電話を早く終わらせたいと遊星は考え始めていた。
「ママと寝たの?」
「十代さんと、ですか?」
「そうよ」
「いいえ」
「じゃあ、あなたはママとどういう関係なんですか?」
「知り合いです」
「名前をもう一度言ってくれる?」
「俺ですか、不動です」
「本当にキューバなの?」
 本当に、ママがキューバにいるの、と、そう問われているような気がした。遊星は喉と胃のあたりに強い不快感を覚えた。恥ずかしさとか自己嫌悪とかコンプレックスとか理由のない不安とか、そういうマイナスの神経をポイントで攻撃してくるようなしゃべり方だった。催眠術をかけられたようになって、遊星はベッドの端に座り込んでしまった。
「そうです、キューバです」
 はやくこの電話を終えたい一心で、やっと声を出した。
「ふーん、そういえばこの、微妙な音声信号の遅れと。やや音楽的な雑音がそれっぽいわね、キューバなのね」
「そうです」
「たばこの包み紙みたいなセロファンを左手でくしゃくしゃってもんで受話器に近づけながら話すと人工的に雑音を作れるのよ、あなた今、セロファン紙を片手に握ってない?」
「え?」
「雑音を作ってない?」
「そんなことはしていません」
キューバのどこ?」
「ヴァラデロという街です」
「ヴァラデロ、ああ、きれいな海があるところね、古いお城みたいな、オレンジ色のレンガ造りの家のある海岸で、三人で泳いだ記憶があるわ、ものすごくビーチが長いのよね、五キロ? もっとだったかしら」
「二十キロです」
ハバナじゃないのね」
「ヴァラデロです」
「ビーチサイドのホテル?」
「そうです」
「海は見える?」
「目の前にあります」
「ちょっと、受話器を海に向けて、波の音を聞かせてくれませんか?」
「わかりました」
「懐かしいヴァラデロの、波の音を少し聞いてみたの」
「わかりました、ちょっと待ってください」
 遊星は電話を移動させ、受話器をベランダに突き出して海のほうに向けた。
「もしもし、聞こえましたか?」
 電話は、切れていた。
 
 日付が変わってしばらくしてから、十代は帰ってきた。ミニドレスから露出したすべらかな項からバニラビーンズのボディソープの匂いがして、それはこのホテルには置いていないものだった。遊星はシャワーを浴びて着替えているところだったが、ドアのノックを聞くと、裸のまま彼女を出迎えた。
 十代は裸の遊星を見ると特に詮索もなくそのわきをすり抜けて部屋に入っていった、肩に掛けていたピンクゴールドのハンドバッグを奥のベッドに放り投げ、靴を脱いでベッドのサイドテーブルの下に入れ、息を大きく吐き出しながら身体を投げ出して唸った。
「遊星」
 ため息交じりに遊星の名前を呼ぶ。
「何か飲み物をくれないか」
「水でいいですか?」
「そうしてくれ」
 彼女はだいぶ酔いが回っているようで耳から首筋に至るまでが赤かった。そのラインの上に、露骨な鬱血痕があるのを見て、遊星は顔をしかめた。コップを置き、十代のほうへ歩み寄る。
「どこへ行ってたんですか」
「どこだっていいだろ」
「教えてくれないといやです」
 十代は壁に押し付けられて、不機嫌そうに眉を上げた。それは遊星への嫌悪感というよりは、眠たいから寝かせろよ、という不満に近いように思われた。ベッドサイドのランプだけが光源になっていて、彼女の小さな顔や弱々しく力を失った手首、化粧の落ちた唇などが、こまやかにオレンジ色に輝いて見えた。久しく味わっていない女の身体だ、と、遊星の本能が耳の下のあたりでさざめいた。
 抱き上げると、細い身体はとても軽く、とてもではないが先ほどのロブスターの身を間食した女の肉体とは思えなかった。抱きしめれば折れるどころか小麦粉のように崩れてしまいそうだ、と遊星は夢想した。
「あの男に抱かれたのか。俺というのがいながら」
「おまえ、なんのつもりだよ」
「好きです」
「へえ?」
「出会ったばかりのあんな男に抱かれるなど許さない、オレのところにいてください、十代さん、好きです」
「おかしなことをいうんだな」十代は、笑わなかった。「おまえだって、今日出会ったばかりの他人じゃないか」