2023/04/25

 

 飛行機が飛ぶ音の中で目を閉じると、よく焼けた大きな手のひらに身体中をまさぐられ、意識が茫漠としてその輪郭を失ってゆくさまを思い出す。
 暗い視界で不安のために震えていると、ふっと首の薄い皮膚に優しいため息がかかって、そこからほのかに甘い痛みが広がる。触れられることを期待して、全身から熱が集まってくる。緊張してんのかよ、低く、掠れた声、その音節のひとつひとつにさえ深く感じ入り、小銀はやせぎすの身体に燻る熱を持て余す。薄い氷で覆われた心をやさしく紐解かれ、すっかり小さく無害な生き物に作り替えられてしまう。不意に唇のささくれが頸静脈の上をかすめ、彼女は堪えきれず歓喜の声を上げた。
 いつもそうだ。どんなに気丈に意識を保とうとしても、頸にキスをされながら全身をやさしく愛撫されると、もうそれだけでだめになってしまう。脳幹の部分から気だるさがふわふわと彷徨い、彼を見つめる視界さえあいまいなものになって、しまいには、普段恥ずかしくて押し黙っているようなことをぺらぺらと臆面もなくしゃべってしまう。
 親弘、すき、大すき。愛してる。
 胃もたれするほど甘ったるい声色。言えたことに安堵して涙すら出てくるしまつだった。
 彼は小銀の頸に唇を触れさせたまま、喉の奥でかすかに笑った。……俺もさ。ささやきは海から流れ込んでくる凱風のように、小柄な耳がらをくすぐり、もて遊んで、そのまま耳管を吹き抜けてゆく。愛の言葉が左脳に直接ふりかかり、背骨が溶けてしまいそうなほど気持ちいい。
「愛してるぜ」
「ち、親弘、……ちかひろ。はやく、早く、早く、はやくっ」
「焦るなよ。俺は逃げねえから」
 触れられてもいない膣口からはバルトリン腺液がとめどなく漏れ出し、尻のほうまでをぬるぬるとはしたなく濡らす。膣壁も火傷したみたいに痺れてやまない。小銀は焦れに焦れて、たまらず陰核を摘んで激しく擦った。空腹の犬がするように、無様に呼吸しながら、夢中で彼の名前を呼んだ。
「親弘、親弘、親弘、親弘」
 彼を求めて痙攣する肉体を、太く健康的な腕がしっかりと抱きかかえた。青く硬い皮の内側で、時期を逸して熟れきった冬の果実、それが今、彼の前に晒される。晒されてしまう。つまびらかに、偏執的に、その細部に至るまで!
 眩いほどの開放感。白く光に貫かれて、声もなく震える。もはや無音。幸福の極致。遅れて、心臓がどんと打ちのめされ、無理やり開かれた股関節の軋みが背骨を駆け上る。耳鳴り、苦痛すら彼に包まれて甘く弾け、わけもわからず、小銀は広い背に必死にしがみついていた。伸びた爪に表皮組織をえぐられ、彼がついた吐息すら小銀を昂らせた。
 子宮に先が到達するのがわかる。ここに、……ここに彼が吐精すれば、きっと妊娠するだろう。小銀は彼の子を孕み、彼の子を産むだろう。そう思ったら、
「出して。親弘、だして。おねがい」
「小銀」
「おまえのこどもがほしい……」恥も外聞もなく、小銀は愛しいその人に縋りついた。未成年の少女が、榊家の一人娘が、子を産み育てることがどれだけ大変なことか、小銀はわかっていた、もしそうなれば父は彼女を殺すかもしれない。しかし、それでも、脳をぐずぐずと浸食する欲望に逆らうことができず、小銀は彼に媚びた。
 腰を振り、あさましく彼を歓待する。寄せては返す快楽の波の中で、彼がぎゅっと顔を歪める。ああくる、くるんだ、もうすぐだ、もうすぐだ、もうすぐだ。そして、瞬間、すべてが小銀の望み通りになった。彼は実直にも腰を引こうとしたが、小銀が細っこい脚で拘束していたためにそれはままならなかった。流れ込んでくる。ほとばしる。満たされてゆく。
 小銀は陶然と目を閉じる。この世のすべてが、自分を祝福しているのだという気分でとても幸せだった。
 次の日には、それがみんな取るに足らない馬鹿げたものだってこと、これ以上ないほどに理解することになるのだけど。
 ——この飛行機は、ただいまからおよそ二十分でスカルノハッタ国際空港に着陸する予定でございます。
 客室乗務員の流暢な英語。幸せなまぼろしは、小銀の手のひらからあえなく取り上げられる。彼女はゆめうつつのまま半身を起こし、着陸に備えて傾けたリクライニングを元に戻す。親弘、……心のうちだけでそっと呼びかけた。
 窓の外を覗き込むと、水平線まで余すことなく青い海が、強い日光を反射してきらきらと輝いている。まぶしいくらいの白い光の中にポツポツと浮かぶのは、色とりどりに塗装された船、おそらくエビ漁のためのもの、それからダークグリーンのあざやかな群島。ジャカルタ湾。インドネシアの首都・ジャカルタの美しい近海。

 金子親弘が、自由奔放で、なにものにも縛られない放埓な男だということは、小銀もよく知るところだった。そしてその性質はしばしば孤独な彼女の道標になった。
 小銀は町の大地主・榊氏の娘で、鋭い氷柱を思わせる冷たい美しさもあいまって、幼い時分から周囲の人間を遠ざけた。誰もが彼女を通じて榊氏の面影を見、冗多に恐れた。だが親弘はそんなことお構いなしで彼女に近づき、ずけずけとその心の内部にまで踏み入ってきて、すっかり住み着いてしまった。最初はその存在を疎み、持て余していた小銀も、彼と同じものを見、同じものを聞き、腕を携え、唇を擦り合わせ、ある夜ついに肉的に通じるに至った。痛みと流血の果てに彼を愛した。当然の流れだ。
 二人の心は危険なほどに癒着したかと思われた。しかし、ある日、親弘はなんの音信もなく、その消息を絶った。彼の両親も、高校の友人も、教員も、小銀ですら、その行方を知らなかった。はじめは誘拐被害が疑われ町を上げての捜索活動が行われたものの、格闘術に優れ、体格も良い親弘だ、捜査が進むにつれ誘拐の説は薄れ、ついに捜索が打ち切られたことで町の見解は固まった。彼は去っていったのだ。
 半身を引きちぎられたような思いで小銀は生きた。その様子は、ようやく、ぽつぽつとできはじめていた彼女の友人が、重い神経衰弱を案じるほどだった。
「誤解を恐れずにいうけれど、わたし、親弘くんがいなくなって少しホッとしたの。彼、榊さんのことを守っているというよりは、囲っているみたいだったから」
 吉野まりなはそんなふうに彼を評した。同じクラスで、それなりに親交のあった女子生徒だ。
「親弘くんのそばにいるあなた、どんどん綺麗になっていくから、羨ましいけどちょっと怖いねって、みんな噂してたんだ。わたしは、怖いとは……思わなかったけど、でもすごく心配してた。ほら、タバコが怖いのは、依存性が強いからでしょ? それと同じで……」
 彼女が善意からそう言うのは重々承知だ。それが余計に悔しくて、悲しくて、放課後の教室で小銀は激しく泣いた。静かに肩を抱いて黙っていてくれたまりなのことを、のちのち小銀は親友のように思うに至るのだが、そのときは、わけもなく彼の仇のように思えてならなかった。そしてそんな自分が情けないのだった。こうしている間にも、親弘の輪郭は急速にぼやけていく。声も掌の温度ももううまく思い出せない。そうした忘却の先で自分が生きていることを想像するだけで胸がかき乱されて苦しかった。
 そうやって苦しみながら二ヶ月、ある夜、泣き伏す小銀の傍らでスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。もはや期待していなかった、見ることもないだろうと思っていた名前、金子親弘。小銀ははっと顔を上げてそれに報いた。震える指でロックを解除し、メッセージアプリを開いた。親弘、金子親弘。ピースして笑うアイコンの彼。メッセージ、一件。
 よお、元気にしてるか。もうすぐ春休みだろ。俺んとこ来いよ。Jl. Harapan No.79, RT.6/RW.7, Lenteng Agung——

「小銀? 無事着いたのね、おつかれさま!」
 夜中だろうがまりなはいつも快活だ。
 日本とインドネシアは時差二時間、向こうはすでに二十三時を回るころだが、空港に到着してすぐに彼女からの着信があった。入国審査場を目指して動く歩道に乗り、キャリーバッグを引き回しながら応答する。タギーヤやヒジャヴをつけたイスラム教信者がひしめき合う空港内で、日本語を話しながら一人歩く小銀はどこか異質だった。
「ああ……なんとかな。だが身体のあちこちが痛い」
「仕方ないよ、LCCだったんでしょ? わたしも初めて乗ったときは全身筋肉痛になったわ」
「しかもひどいんだ、機内食が、肉だったんだが、まるで味がしない。身もパサパサしててとても食べられなかった。おかげで八時間ものあいだ断食状態だ。信じられない。二千ドルも払ったんだぞ」
「小銀ってばお嬢様なんだから。機内食なんてみんなそうだよ。まあまあ、早いとこホテルにチェックインして、それからご飯を食べられるところ探しましょ」
「うん」
 まるで一緒に旅をしているかのようなまりなの言い回しに思わず口許が緩む。彼女は親切だし、よく気がまわる。話していると楽しい。親弘に抱いていた恋慕とも劣情とも違う好意を、小銀は彼女に対して感じている。
「遅くに悪かった、また明日かけるから。おやすみ」
「おやすみ。写真送ってね」
 電話を切ってからも、まりなの言葉を思い出して微笑みがこぼれた。写真か。親弘は写真を撮られそうになるとすぐ逃げる癖があった、会いにいって、一緒に写真を撮りたいと言ったら、彼は応じてくれるだろうか。
 成田空港からシンガポールチャンギ空港を経由し十時間、小銀ははるばるインドネシアにやってきた。親弘に会うためだ。あの夜親弘は、彼が住んでいるという町の住所と、そこにピンを差したグーグルマップのリンクをメッセージアプリで送信してきた。ジャカルタ、レンテンアグン地区。ここスカルノハッタ空港からはタクシーで二時間ほどの場所だ。現地時間二十一時、移動するには夜も更けて、さらに長時間のフライトで小銀はくたくたに疲れ切っていた。空港近くのホテルに一泊滞在し、翌朝移動することにする。
 入国審査を終え、空港のロビーを出るやいなや、湿気を含んだ熱風がじっとりと頬を打った。三月、この地は雨季なのだ、もう深夜だというのに、冗談かと思うくらい暑い。それに加え、排気ガスと埃の匂い、車やバイクが道路を縦横無尽に行き交う音、そこかしこに点在する屋台の塗装の色、コンビニの明かりと、否応無しに飛び込んでくる情報の多さに眩暈がする。山間の、涼しく穏やかな町を出たことのない小銀には、あまりに刺激的すぎる国だ。
 マップによると、ホテルはここから五〇〇メートルほど南に降った場所にあるようだ。小銀はキャリーバッグの持ち手を握り直しながら、その喧騒の中へのろのろと彷徨い出た。