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            パーフェクト・ワールド・エンド


 ある瞬間における全ての力学的状態と力を知ることができ、その能力を持ってして過去も未来も見渡すことのできる、不老不死さえ手に入れた魔女。それが遊城十代という人間だった。
 目も眩むほどの昔、生まれてから十数年の間は、まだごく普通の人間の少年だったのだ。しかし、いつのことだったか、右半身には女が住むようになり、そのうち肉体や精神が時間の縛りを受けなくなって、身体の成長が止まった。やがては人の心や魂の形が見えるようになり、その奇妙な体質は、彼を社会から遠く隔絶するに至った。
 彼は孤独だった。人間でありながら人間の枠を飛び越えた彼は、旅をする中で自分がどこにも接続しないさみしい生き物なのだと知った。それでも良いと思っていた。恋をするまでは。

 ——神様が遣わした天使は、地上に愛を運ぶのが仕事でした。仕事が終わったら、天使は神様のもとへ帰らなければなりません。天使に恋をしたわるい王様は、天使が助けてあげようとする人間がいなくならないように、いつもみんなを困らせておくことにしました。みんな王様がきらいになって、やがて力を合わせて殺してしまいました。
 でも優しい天使だけは、わるい王様をきらわずに、ひとつだけ王様の願いを聞いてくれたのです。王様は言いました、天使と一緒に……
「……何それ。そんなの、救いがなさすぎるわ」
 最初に、利発な娘らしくない不満な声が、右手から上がった。
「そうだよ! 王様は反省していい人になって、みんな幸せになりました、でいいじゃん!」
 後に続いて、妹に同調した息子が、唇を尖らせて文句を言う。
 とあるありふれた家庭の休日。午後の光が差し込むリビングルームのソファの上で、母親が子供たちに絵本を読んでいる。
 絵本は原典で、綴られている言葉はこの国の言語ではない。母親が丁寧に翻訳したのを、子供たちが熱心に聞き入っていた。のだが、どうやら二人ともお気に召さなかったようだ。この双子の兄妹は、向こう見ずで調子の良い兄と、理屈屋でませた妹はことあるごとに意見を違わせ、仲の良い喧嘩ばかりしているのだが、この時ばかりはピッタリと意見を揃えてくるのがおかしかった。
 母親は肩をすくめ、飼い猫に言い聞かせるような甘い声で兄妹を諭しにかかる。
「いや、これでいいんだよ。悪い奴の最期は惨めで寂しい結末であるべきだ。そうじゃなきゃ、悪い奴が救われても、ひどい目に遭わされた奴らに救いがない」
「はあー……ママってば、どうしてこんなに捻くれちゃったのかなぁ」
「そうよ、ママ。どんなに悪い人だって、やっぱり救われるべきよ。だって……神様がこの世界に遣わした、同じ命なんだもの。誰にも救われないまま死んじゃうなんて、かわいそうじゃない」
 わざとらしくため息をついて息子は首を振り、娘は聖句を読み上げる信徒のように胸を張って宣言した。どちらの意見も、母親にとっては耳が痛いものだ。さすがは魔女の子どもたち、他人の心の闇を的確に把握している。
「なんだ、絵本を読んであげてるのか? 十代は偉いなぁ」
 後ろから朗らかに声をかけてくるのは子どもたちの父親……母親にとっては夫にあたる男だ。四人分のホットココアをトレイに乗せて運んで来て、喜ぶ子どもたちの手の中に一つずつ手渡してやる。絵本で両手が塞がっている母親の分と自分の分をソファテーブルに置き、彼は娘の隣に極めて紳士的に腰掛けた。最近娘は反抗期に差し掛かったらしいのだ。父親の下着と一緒に洗濯して欲しくないだなんて言われる日も、そう遠くないのかもしれない。
「うん、でも、ひどい話なんだよ!」
「そうそう。ママの絵本のセンス、やっぱり変。王子様みたいなパパを見習ったほうが良いと思う」
「そうだなぁ……」
 身振り手振りで、絵本の内容がどんなに残酷だったかということを伝えようとする息子の頭を、父親はゆったりとした手つきで撫でてやった。
「多分それは、書いた人がものすごく意地悪で、ものすごく寂しがりな人なんだな。な、十代? だからさ、みんなでママを慰めてあげようぜ」
 家族全員の視線が、一斉に母親に突き刺さる。
 何か言おうとするより先に、左右から子どもたちに抱きつかれた。たったそれだけなのに、母親の目からは意図せぬ涙がこぼれ落ちる。
「よくわかんないけど……ママ、大丈夫だからね。オレたちずっとママと一緒だからね?」
「そうよ! わたしたちがいるわ、ママ。だから、ね、泣かないで」
 父親は、優しい子どもたちを誇らしげに見渡してから、みんなの肩を一度に抱いてしまった。大きな掌が、妻の背中を撫でさする。
「震えてるのか? ばかだな。俺たちに怖いものなんて、いったい何があるっていうんだ」
 涙が流れるのは幸せだからだ。悲しい時にはきっと笑いが止まらなくなる。魔女の感情表現は、そういうふうにできている。

 凄まじい唸りを立てて燃え上がる街の中に、一人、魔女だけが取り残される。
 魔女が立ち尽くす瓦礫の山は、かつて温かな家族の団欒を守っていた家の骨組みだ。子どもたちが熱心に育てていた庭の花が炎でゼラチンのように透けて見える。車中泊旅行に行こうと購入したばかりだったキャンピングカーは、電柱の倒壊に巻き込まれてすっかりひしゃげ、芋虫の死骸じみたスクラップに成り果てている。
「みんな……いったい、どうしちゃったんだよ? どうして……返事してくれねえんだよ……」
 彼は取り憑かれたように瓦礫の隙間に飛びつき、灰や鉄や石の類を素手でかき分け、掘り返そうとした。繊細な手はあっという間にささくれ立ち、舞い飛ぶ火の粉のために火傷を負い、それでもなお、彼は手を動かすことをやめられなかった。
 もしかしたら、この下でまだ子どもたちが、夫が生きているかもしれない。喉を潰されて助けの声が出ないのかもしれない。あるいは、精神的ショックのために失神して、そもそも助けを呼べる状況にないだけなのかもしれない……あらゆる希望的観測のために、彼は無我夢中で瓦礫の海を掘り起こす。
 凄まじい量の汗が、彼の額を幾粒も滑り落ちる。冷たく美しい横顔は赤やオレンジの炎に照らされて、まるで彼自身が炎の一部になったかのように燃え上がる。
「あ……」
 彼が探していたものはすぐに見つかった。
 煤だらけの腕で、黒焦げのそれを抱き上げる。髪も皮膚も、粘膜に至るまでもが焼き尽くされ、溶け切って、もはや顔も判別できないほどだったが、彼にはそれが誰なのかわかった。わかってしまった。
 指で愛おしい額を撫でてやる。つとめて丁寧にしたつもりだったのに、それは触れた部分から簡単に崩れ落ち、空気の中にほろほろと解けていった。大丈夫だと胸を張って言った、勇敢な息子。
「あ……ああ、あああああ——」
 絶叫しながら腕の中に残った灰をかき集め、自ら口の中に押し込む。飲み込もうとする。本来入ってくるべきではない異物に消化器官は抵抗し、彼は何度もえづいたが、それでも無理やり嚥下する。
 泣かないでと言いながら涙を拭ってくれた娘は、息子と寄り添うような形でこと切れていた。そして……笑いながら全てを受け入れてくれた、魔女が長い生涯でたった一度恋をしたその男は、全身を余すことなく炭化させながらもなお、子どもたちを庇って。
「は、ハハ……ハハハ……」
 ひきつれた唇からひっきりなしに笑いがこぼれる。すべてに絶望した彼を抱きしめてくれる人は、もうどこにもいないのだ。
 神話の中で、魔女に愛された人間は一人残らず不幸になった。

「本当に作るのかよ、そんなもん」
 生意気で口達者な魔女の弟子が不満げにつぶやく。
「身体を作り直すだけならまだしも、魂の蘇生は完全に禁忌だ。他ならともかく、人間程度が手を出していいものじゃない。あんたなんかにやらせたらどれだけ犠牲が出るかわかったもんじゃない」
「ああ。家族を取り戻せるのなら……みんながまたオレに笑いかけてくれるのなら、オレはなんだってする」
「それで他の人間がどうなってもいいっていうのかよ?」
 移り気な子供特有の白痴めいた笑顔を浮かべながら、魔女の弟子は腕を広げて宣った。彼はただ師の行く末を案じている。運命の波間から拾いあげられたその時に、師は彼にとって第二の母となったのだ。
「ボクにはわかる。あんたはきっとろくな死に方しない。人を悲しませたら、悲しませた分だけ酷いことが返ってくるんだ」
「親になるのってさ、他の何を犠牲にしても大切なものを選ぶことができる生物に生まれ変わるってことだったんだ。これは最近知ったんだけど」
 そうだ、走り続けなければ。走り続けなければ死んでしまう。悲しみや憎しみや苦しみや怒りに囚われて、もう二度と立ち上がれなくなる。今までだって、走っていれば余計なことを考えずに済んだのだ。走って走って、ようやく辿り着いた場所があの幸福な家だったらいい。そのためならなんでもする。たとえこの身が滅びようとも。
「ありがとな、ミスター・ローストビーフマン。心配してくれたんだろ」
「違うっての! ボクにはルチアーノって名前がちゃんとあるんだってば!」
「ありがとう。ルチアーノ」
 いつか夫がしてくれたように、弟子の頭を撫でてやる。彼は不服そうにそっぽを向いたきり何も言わなかった。

 永遠の可能性を追い求め、世界最高水準の技術力を振り翳して人々に災厄と混乱を撒き与える秘密組織……通称〈NEX〉の真の存在理由は、冥界に旅立った三人の人間を、この世界に蘇生させることだ。
 魔女は人の心の闇を握り、自由に操ることができた。その力を持ってして〈NEX〉の最高責任者として君臨した彼は、人々から効率的に魂を吸い上げるため、見るに耐えないさまざまな悪行に手を染めた。違法麻薬の開発、流通。まだ幼い子供の誘拐。人体実験。洗脳。カルト宗教を利用した経済的支配。機関はすぐに取り締まりに動いたが、彼らが真実に近づくたびに、魔女は組織の人間を切り捨てることでまんまと逃げおおせた。
 ある日、ついに魔女の正体を突き止め、彼の住処に突撃してきた人間たちがいた。
 金も権力も恣にしているともっぱら噂の〈NEX〉最高責任者が、焼け果てた街の廃墟に住んでいるのだと知って、彼らは驚いたようだった。だがそれだけだ。彼らは実に手際よく、寝ている魔女を取り囲んで追い詰めた。
「君が失った家族を取り戻そうとしていることはわかっている。その悲しみは同情に値するものだ。だが、そのために多くの犠牲を生んでいることについて、君は正しく罪に問われなければならない」
 仄暗く甘い心の闇の匂いをさせながら、進み出て男が言う。
「ここにいるのはみな、君に家族や愛する人を奪われた者たちだ。しかし、今君と対峙するのは、復讐などという単純な理由からではない。十代、生きていれば、大切なものを失うのは誰だってあることだ。でも絆で繋がっていた存在を未来につなげるために、復讐よりも先にやるべきことがある。まだ手の届く場所にいる誰かを守るために戦うことだ。人類はそうやって未来を繋いできた。大切な人の死につまずいても、起き上がって、それを乗り越えてこそ人は人だ」
 魔女はそれを、冷たく醒めた目で聞いた。男の声は真摯だった。正しいというのは、きっと彼が言うようなことを指すのだろう。だが、人の矛盾、人の欺瞞を見通す体質を手に入れた十代にとっては、そんなものは理想論としてしか響かない。そうあれば立派だ、という程度のものだ。教訓混じりの童話だ。
「転がってもまた立ち上がって走り出す。そうだろうな。それが正しさだ。でも、大切な人が自分をつまづかせた石ころみたいな言い方は好きじゃない」
 つまらない説法から解放されて、ようやく居眠りから覚めた学生のような様子で、魔女は起き上がる。声は低く、冷たく、高らかに、愚かな人間に向かって振りかざされる。
「大切な人を失って、落ち込んで、立ち上がって、それが成長か? 大切な人の死を乗り越えて歩き出すことがそんなに偉いのか? 本気でそう思ってるのか?」
 赤い靴に包まれた右足が一歩踏み出すと、魔女を取り囲んでいた輪が大きくなった。
 畏れと恐怖は魔女が足を進めるだけで彼らの本能から沸き起こり、足をすくませ、戦意を奪う。崇高な理想論を持ち出してきたところで、人間が魔女に敵うはずがない。大切なものを失い、憎悪のうちに叩き込まれたとしても、ただの人間にはどうすることもできない。蟻は象に踏まれて仲間を奪われても、その足の裏を悲しげに見上げることしかできないのだ。彼らはそれを、本能の部分で理解している。
「失った人を呼び戻す方法が無ければ、諦めて思い出にするしかない。思い出になるのは相手がもう傍にいないからだ。そして人間ってやつは思い出を忘れるように出来ている。だけど、もしも失ったものを取り返す方法があったら? たとえそれがどんな悪魔的な方法でも、オレは実行に躊躇はしない。文句があるならオレを殺して止めてみろ。オレは止まらない。全身の骨が砕けようが、肉片になろうが止まらない。そういうふうに出来ている。罪を犯す覚悟も、報いを受ける決意も出来ている。いいさ、じきにオレの夢が叶ったら、その時はオレを好きにするがいい。お望み通り牢屋にぶち込むなり拷問するなりすればいい。それでも不安なら、内臓を引き千切るなり脳髄をぶちまけるなり子宮を犯し尽くすなり好きなようにすりゃいい」
 魔女は、歌うように言った。
「オレは今走ってる途中なんだよ。邪魔をするな」

 物語の結末は、昔からいつだって同じものだ。絵本の最後に、使い古された黙示録を読み上げるような無関心さで、たった数行のうちに描かれる。子供たちは主人公のワクワクする冒険譚に興味があるのであって、悪役の寂しい最後などには見向きもしない。
 正義の味方が現れる。
 魔女が唯一、その力を向けることのできない存在。この世のどの悪意も寄せ付けない存在。魔女の夫が蘇り、龍と化した彼の前に立ち塞がった。
「やめるんだ。もう誰も傷つけるな」
 凛とした美しい声に呼びかけられて、魔女はそのとき、自分が語ってきた全て、自分が積み上げてきた全てを忘れて、目の前の男の存在のみに向き合った。男のまなざしは真っ直ぐに魔女の心を射抜き、その瞬間、彼は懐かしく愛おしい日々、無力な人間の心に立ち返った。その一瞬が彼の天命を定めた。
「■■■……」
 花の中で、あっという間に核を貫かれ、魔女は地に葬られた。彼が編み上げた奇跡だけが残った。

 これは史実ではない。魔女のはらわたに寄生した可能性《神》が、今も刻々と見続ける夢のひとつだ。だが、魔女にとっては、苦しく、愛おしく、かけがえのないひとひらだった。
 魔女の魂はこの地上に、この星に縛られた。人の道を外れた魂は、もう二度と輪廻の輪に乗ることも、転生することもない。そして、その肉に残された憎悪や悲しみ、怒り、痛み、後悔、妬みなどを養分として、魔女の眠る土からは花が芽吹いた。ありふれた、取るに足らない花。風に吹かれて、白く小さな花冠がかすかにそよいだ。
「わかってた……あれはオレの大好きな人じゃない。でもすごく似てたんだ。本当に蘇ったんじゃないかって思うほど……」
 魔女の目にはまばゆすぎるほどの光の中で、その人の背中が振り返る。もう顔も、声も、手のひらの感覚も思い出せない。彼がどのように語りかけてくれたのかも、どのように涙を拭ってくれたのかも、どのように愛してくれたのかも思い出せない。ただ、魔女の冷たい皮膚に触れた手が温かったことは覚えていた。その灯火は、これからも永遠に魔女の心を暖かく照らし続ける。
 みっともなく地に這いつくばりながら、魔女は無窮の空を見上げる。
 東の空から一筋の金の光が射し込んできた。夜を払う朝の訪れに似て、穏やかで温かな光だ。風が吹いて、地上から花びらが一斉に舞い上がる。花になんて興味もなかったが、それでも、愛おしく美しいものだと思った。
「ありがとう。……ジョニー、百合子。オレの夢を叶えてくれてありがとう……」
 本当は、子どもたちの語るハッピーエンドが真実なら良いと思っていた。
 無数の命が編んだ奇跡。それがいま、清らかな少女の傷を癒していく。

 

「やあ、ハッピーエンドだ。よかった、よかった」
「この人ってば……本当に呑気ですこと。今回は丸く収まったから良いけれど、元はと言えば全部あなたのせいじゃありませんか」
「いやあ、ほんとだね。参ったなあ。でも私は最初に言ったはずだよ? 国際結婚は大変だぞう、って。それを無視して彼のところにすっ飛んで行ったのは百合子じゃないか」
「そういう問題じゃないわよ。ねえ遊星?」
 呑気に話しているこの人たちはなんだろう。
 久しぶりに、本当に久しぶりに会ったのだから再会の抱擁の一つでもしていて良いはずなのだが、そんな気分になれない。いや、その前に、身体がうまく動かせない。肺が冷たくて、うまく息が吸えない——
「ともあれ、お疲れ様。おまえはよくやったよ、遊星。さすが私の息子だ」
「わたしたちは一緒に行ってあげられないけれど、途中まで送っていくわ。昔みたいに」
「そうだ、たまにはおんぶでもしてあげよう。どうだい? 大舟に乗った気分で」
「もう……幼稚園児じゃないんだから」
 その人に腕を掴まれて、ようやく身体が意のままに動くようになった。咄嗟に首を振って抵抗する。まだ。まだ行けない。今更虫が良すぎるかもしれないが、それでも、譲れないたった一つのこと。
 見届けたいものがある。

 

 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 ジョニーは咄嗟に左手を伸ばし、舞い落ちる花のひとひらを捕まえようとした。立ち止まり、期待のうちに指を開く。捕まえたと思ったが、花はジョニーの指と指をうまくすり抜けたようだ、大きな掌はもぬけの殻だった。
「コツがあるんですよ」
 ジョニーの隣に寄り添うようにして歩いていた百合子が、がっくりと肩を落とすジョニーの背を軽く叩く。
「風が吹いていないあいだは、花びらはおおむね真っ直ぐ落ちてくるんです。それをこうして、タイミングよく掴むと……ほら」
「おお」
「ね、簡単でしょう?」
 ジョニーが拍手を送ると、彼女は頬を染め、照れ臭そうに微笑んだ。愛おしい笑顔だ。眩しい。治療の間はなかなか外出もできずにいたので、昼の陽の下で自由に遊ぶ彼女を見るのは本当に久しぶりかもしれない。
 今日の百合子は、裾に黄色いミモザをあしらったワンピースに、薄桃色のレースカーディガンを羽織った春らしいスタイルだ。足を包むのはヒールのついていない白のパンプス、耳に飾られているのは小さな花のイヤリング、髪は三つ編みにしたのをリボンで結んで整えてある。これはジョニーがやった。可愛い百合子をますます可愛くできるようになってきたと、自分で自分を褒めてやりたい気分だ。彼女が軽やかにステップを踏むたびに、細い首を飾るハートのネックレスも一緒に揺れるのが可憐だった。
 二人が歩くのは、かつてルチアーノの夢をのぞいたときに、彼が両親とともにいた場所だ。
 あの後、百合子の回復の報告を兼ねて向かいの家を訪ねた二人は、夫婦から不可解な返事を受け取った。ルチアーノなどという少年はこの家にはいないというのだ。
 彼らは夢でも見ていたのではないかと言うが、ジョニーは確かに、百合子をめぐって彼と口喧嘩をした。彼の手から運命の切り札を受け取った。夢であるはずがない。
 彼はどこに行ってしまったのだろう。
「イタリアにこんな場所があったなんて」
 百合子が嬉しそうに鼻歌を歌いながらそんなふうに言ったので、ジョニーはすぐに彼のことを忘れた。今日は久しぶりの百合子との行楽だ。余計なことに考えを巡らせている場合ではない。
 整備された遊歩道の右脇に、一定間隔ごとに連なるようにして花の木が植えられている。この花はサクラといって、彼女の国の大昔の首相がイタリアに贈ったものなのだそうだ。小さな薄紅色の花が鈴なりに垂れ下がっているのが綺麗だと思った。
「どうかな、君の国のとは何か違う?」
「いいえ、同じものです。懐かしい。よくこうして、家族でお花見に行ったんですよ」
「オハナミ」
「今日のように、ご馳走やお酒を持って、桜の木の下でピクニックをすることです」
「へえ、素敵だね」
「ええ」
 頷いて、彼女はふたたび花の盛りを見上げた。青い瞳が眩しそうに眇められる。
「綺麗……もう春が来ていたのですね」
 不意に、彼女が前に抱えたバスケットめがけて、後ろから長い腕がぬっと伸びてきた。
「これは俺が持つ」
 月の光芒を集めて束ねたかのような細い金色の髪が踊る。すみれ色の瞳はたとえ一人になったとしてもその輝きを失うことなく、日増しに一層冴え渡ってゆく。ジョニーにはそれがまぶしい。もしあの時百合子を失っていたとして、ジョニーにはそんな目をして生きてゆく自信がなかった。
 ジャックだ。銀の指輪の光る左手は瞬く間に百合子からバスケットを奪い去り、ただでさえ多い彼の荷物の一つに加えてしまった。
「ジャック!」
「えっ、ああっ、これ以上君に荷物を増やされたら、僕の立つ瀬がないんだけど……」
 大判のピクニックマットに組み立て椅子、彼の使用人が昨晩からキッチンに立ち、気合を入れて作った四段重ねのお弁当と、すでに相当の量を抱えているはずなのだが、彼は相変わらず平然としている。ワイシャツの袖からしなやかに伸びた二の腕の筋肉の成す技だろうか。遠巻きに彼を眺めていた女性ファンたちが色めきたつ。
 それに対し、ジョニーの荷物は小さなショルダーバッグひとつ切りだ。ジョニーとて鍛えていない訳ではないのだが、彼と共に行動しているとどうにも活躍の場面が少ない。
「ごめんなさい、わたしが頼りないばかりに」
 まだ兄の負い目を拭いきれない様子の百合子が、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
 しかし、彼女の懸念とは裏腹に、彼はやはりどこまでも高潔で、底なしに優しい人間なのだった。骨張った男の手が、自らの肩の位置で揺れる妹分の頭に軽く乗せられ、その髪をくしゃくしゃと撫でた。それだけで、百合子はつぶらに見開いた瞳をいっぱいにうるませ、俯いて言葉を詰まらせる。
「これくらいどうということはない。一人の身体ではないのだ、もう少し自分を労れ」
「はい……」
 彼女の腹では、ジョニーとの絆の形が芽吹いたばかりだった。これからもたくさんの苦難が訪れるだろうが、三人なら、確実に一つ一つを乗り越えて行ける。
 感極まって立ち止まってしまった百合子の肩を、ジャックが軽く押し出した。
 彼女は再びジョニーの隣に並んで歩く形になる。空になって手持ち無沙汰に揺れる華奢な左手を、ジョニーはしっかりと掴んでみせた。初めてデートした時のように優しく指を絡めると、彼女は恥ずかしそうに頬に熱をのぼらせながらも、しっかりと握り返してくれた。
「ジョニー」
 百合子が微笑んだ。彼女の美しい笑顔を、ジョニーはこの世の何よりも愛している。
 ジョニーはふと思い立ち、風にあおられた薄くはかない花びらの、その一枚を今度こそ掬い取り、妻の耳の上に飾ってやった。
「兄さん」
 つぶらな目がいっぱいに見開かれる。
 その時、一陣の風が吹き、向かい合うジョニーと百合子のそばに、懐かしい気配がふっと現れた。花の中で、その人は青く、溌剌としたまなざしを妹に向けた。いたわりに満ちた手が伸び、そっと頬に触れた——かと思えば、それは花だった。再び舞い込んだ風のために花は百合子の頬を離れ、追い縋る指をもすり抜けて彼方へと運ばれていった。
「兄さん……」
 白くもやがかった道の向こうを見つめる百合子の瞳がにわかに潤み、耐えきれず張力を離れた一粒が、今度こそ彼女の頬を伝う。
「見ていますか。わたし……幸せで……」
 一度こぼれてしまえば、あとは形なしだった。にわか雨で溢れ出した小川のように涙はあとからあとから流れた。繊細な両指が顔を覆う。
 微睡を帯びた穏やかな春の陽射しの下で、百合子は声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣いた。
「良いのでしょうか。わたし、こんなに幸せで良いのでしょうか」
「大丈夫さ」
 ジョニーは泣き虫な妻の肩を抱いて、震える唇にそっとキスをする。
「今まで痛かった分、百合子にはしっかり幸せになってもらわなきゃ」

 美しい妻の身体を抱きながら、ジョニーは渺々たる波の彼方に上る朝陽を眺めていた。海のきわから清々しい金色の光が溢れ出し、夜闇の中に沈みおぼろげになっていた街や人々の輪郭を克明に浮かび上がらせる。雲一つ無い群青の中に、まだ夜の名残の白々とした月と、淡い金星の輝きが残っていた。少し伸びた前髪が、風に攫われて瞼の上で軽やかに舞った。
 自らの身に起こる変化に怯えていた彼女は、いま、この世で最も無害な生きものになってジョニーの腕の中にいる。薄っぺらい身体の内側を長らく荒らし回っていたものは永遠に去り、とうとう、彼女の心は解き放たれ自由になったのだ。本当の人間に生まれ変わった彼女はもう二度と傷つかない。誰も傷つけない。幸せだけを甘受しながら、ジョニーのそばで死ぬまで生きてゆく。
「よお」
 誰もいないと思っていたビーチに、女がいた。……いや、その人が女でもなければ男でもなく、その両方でもあることを、すでにジョニーは知っていた。
 赤いショートドレスの裾から、長さの異なる脚が二本、しなやかに伸びている。肩で真新しい白衣が踊るのを、まるでヒーローのマントのようだと思う。ジョニーを見る二つの瞳は甘い榛色だったが、海の向こうからの光を帯びて、まるで緋や碧の宝石をはめ込んだかのようにきらめいた。
 彼女はジョニーに向かって近づいてきて、彼の腕の中で眠る百合子の顔を覗き込んだ。
 鼻から抜けた吐息が、かすかに開かれた唇からこぼれ落ちる。
「よく寝てる」
 寝顔は幸せそうだ。きっと優しくて幸せな夢を見ている。
「——悪いことをした王さまは、みんなに嫌われて殺されるはずだった。でも、天使は……優しくて勇敢で愛情深い天使は、王さまのことを顧みて、彼の手を引いて長い夜の中から連れ出してくれた。天使に救われて、その底なしの優しさに心打たれた王さまは、今度はみんなが喜ぶようなことをたくさんした。みんな王さまが好きになった。王さまは賢王として慕われるようになって、死んだ時には天使も含めて国中の人が悲しんだ。
 新訳版の結末はこうだ。オレはそんな甘ったるい話、受け入れられなかったよ。どうせ綺麗事だって。でも、そういうのを愛して、つないでいける人間が、この世にはまだいるんだな」
「何のこと?」
「こっちの話」
 彼女の真っ白な冷たい指先が、百合子の額をくすぐり、前髪をそっとかき分けてやる。そして彼はそこに静かに唇を寄せた。まるで洗礼者が敬虔な信徒に祝福を施すみたいに。魔女には不似合いなやり方だった。
 百合子は赤ん坊のようにむずがり、ジョニーの胸に顔を埋めてしまう。薄く開いた口で何かむにゃむにゃと寝言を言っている。夫の胸に甘える無力な少女の姿を見て、彼女はようやく肩の荷が降りたように、笑った。
「そのまま死ぬまでお姫様でいればいいさ。頑張れよ、王子さま」
「十代、ありがとう。君が百合子を助けてくれたんだよね」
「ん?」
 ジョニーの感謝の意味を理解できなかったらしい。彼女は子供じみた仕草で首を傾げてから、
「ああ……」
 何か探るような目でジョニーを覗き込み、ようやく、合点がいったとばかりに頷いた。
「そんな大層な話じゃない。オレは……オレの夢のために、お前たちを利用しただけだ。オレみたいなひねくれた生き物には理解できない領域の話だったからお前たちに託した。一個人を幸福にしたり不幸にしたりするのは管轄外なんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。ま、要するにお前たちで賭けをしてたってことだな。オレは負けたけど、勝ったオレもいるし、そもそも賭けをする必要のない幸せなオレも確実にいる。そういうのがいまこの世界にある数字じゃとても表せないくらいたくさん集まったのが、オレの腹ん中でぐうすか寝てるこいつって、そういうこと。アカシアの木の葉っぱを数えたことあるやつなんかいないだろ?」
「言ってること、難しくてわからないよ」
「そっか、そうだよな、忘れてたけどお前は人間なんだ。神様じゃない。そんじゃ、起きたら奥さんにでも聞いてみな。多分まだ少しなら容量が残ってる」
 彼女の言うことはジョニーには最初から最後まで訳がわからなかったが、彼女が、百合子が起きたら、と言ったことが無性に嬉しくて、笑った。
 腕の中の百合子もますます嬉しそうだ。相当良い夢を見ているらしい。じきに目を覚ましたら、そうしたら、どんな夢を見ていたのか聞こう。きっと素敵な物語が聞けるはずだ。

 たわいもない日々を二人並んで生きていく。
 もしまだ幻だったとしても、いつかきっと本当になる。

 

 

パーフェクトワールドエンド:おわり〉