2023/04/26

 

 歩き出して十秒もしないうちに、呼気から入ってきて血液の流れに乗った熱気が全身にまわり、小銀の色素の薄い皮膚からじわじわと汗が滲みはじめた。喉の奥が乾燥して息苦しい。歩道もなく、きちんと舗装もされていない車道は、ただでさえ虚弱な身体からみるみるうちに体力を奪っていく。コンクリートの割れにキャリーバッグの車輪が引っかかる。小銀は眉間に深くしわを寄せ、唇を噛んだ。なんなんだこの国は! 
「Hei, Sayang, Kau mau kemana?」
 焦燥と苛立ちは、彼女から十分な判断力を奪った。話しかけられ、肩を掴まれても、はじめそれが自分に対するものだとは気付かなかった。
「Hei, ......hey, where're you going?(おい、どこ行くんだ?)」
「ん?」
 その人が英語を使ってはじめて、小銀は立ち止まって顔を上げた。現地の若者が数人、空港提携の有料駐輪場のフェンスの前で屯していて、その中の一人が彼女に声をかけたといったありさまだった。みな傍らに蛍光緑の〈G〉のマークをぶら下げたバイクを停めているのを確認して、彼女は咄嗟に男の手を振り払い、たっぷりと警戒を眼差しにたたえて後ずさる。この国にはGoJekと呼ばれるバイクタクシーの配車サービスがあって、彼らはおそらくその従事者だった。
『悪いが、タクシーは不要だ』
『……違うって!』彼は気を悪くした様子もなく、鷹揚に腕を広げてオランダ訛りの英語を話す。『こっちは行き止まりだぜ。どこにも行けやしねえ』
『は』
 ここにきてようやく我にかえり、小銀はあたりを見回した。すぐ手前で道が終わっている。木々の向こうでけたたましくクラクションが鳴る。汗はとめどなく流れ落ちる。不安が募る。親弘……彼の名を福音のように唱え、自分をなんとか鼓舞しながら、彼女はマップを開いて現在位置を確認した。
『しかし、ホテルはこの向こうに……』
ジャカルタ・エアポート・ホテルか? そんならゲート5からシャトルバスに乗らなきゃなんねんだ。災難だったな、お姉ちゃん!』
 若者らがかっかと笑い、一斉に小銀を小突く。一人が持っていた袋から串に刺さった焼き鳥のようなものを彼女の口に突っ込み、元気出せ、と背中を叩いた。
『サテ・アヤムだ。ま、がんばれよ!』
 甘タレのついた串を神経質にがじがじと噛みながら、彼女は元来た道を引き返す。

 空港のターミナルに戻ってきて十分、シャトルバスに揺られて三十分、ようやくホテルに着く頃には、小銀は心身ともに疲れ果てていた。フロントでチェックイン手続きをしているあいだも、部屋のキーを渡されてエレベーターに乗るときも、一歩ごとに鉛を履まされているような気分だった。もう食事をする気にもなれない。スニーカーを脱ぐその作業すら億劫だ。
 デスクにキーを放り投げ、無心でベッドに倒れ込む。
「ちかひろ」
 親弘。
 うとうとと微睡を彷徨いながら、愛しい彼の記憶の輪郭をなぞる。浅黒く健康的に焼けた顔。優しく理性的な光をともした目。肉厚な唇。筋肉質な身体。眠りの闇の中から皮の厚い手のひらが伸びてきて、疲れ切った背中を撫でてくれた気がして、小銀の目はにわかにうるんだ。会いたい……彼に触れたい、触れられたい。思い切り抱きしめられたい。個の輪郭すら溶け合うくらいに触れ合ってひとつになりたい。彼を失ったあの日から、一寸も休むことなく、小銀はそう願い続けてきた。そして、その願いはじきに叶えられる。
 茹だるような熱気に、現地人の快活さに、親弘の息遣いを感じる。すぐそこに感じる。明日には、小銀は彼の家を訪れ、あの頼もしく鷹揚な腕にひしと抱かれるだろう。それなのに……もろ手を上げて喜べないのは、こんなにも不安なのはなぜ?
 眠気のうすぼんやりとした雲に包まれて、小銀は夢を見た。タクシーから降り、運転手からキャリーバッグを受け取った彼女は、目の前の家、木組の簡素な家のポーチに、うっすらと微笑を浮かべて立つ親弘を見た。親弘! 転げるように走り出し、小銀は一目散に彼の腕に飛び込む。彼の伸びた前髪が、小銀の白い額をおだやかにくすぐる。
「親弘、聞いてくれ」つま先立ちになってキスをねだりながら、とっておきの秘密を打ち明けるような声色で、小銀は囁いた。「実は、私——」
 ……優しかった腕に拒絶されたかと思えば、ふっと現実が彼女のところに帰ってきた。夢だ。そう、夢だった。だが現実において、彼女の心臓はどくどくとさかんに働き、急に血圧が上がったことで手指の先は小刻みに震えている。
「なんて夢だ……」
 小銀は舌打ちをして起き上がった。シャワーでも浴びれば、少しは気も紛れるだろう。

 

 

 翌朝、九時きっかりに目を覚ました小銀だったが、起き上がってすぐに強烈な吐き気に襲われた。口を覆う間もなく逆流してきた胃酸がシーツに飛び散った。食道が焼けるように痛む。鼻の奥がツンとする。身を引きずってトイレに向かい、便器にしがみついた瞬間、第二波がやってきて、今度こそ抑えきれずに嘔吐してしまった。寒くてたまらないのに、汗が止まらない。息を吸い込んで吐き出すたびに、その音が頭蓋にがんがん響く。
 心中で悪態を吐きながら、彼女はそのまま床にへたり込んだ。くそ。どうしようもない孤独感に襲われ、小銀は自分の身体を抱き締めた。
 十時、注文を受けたボーイが果物を持って小銀の部屋にやってきた。彼は真っ青になりながらドアを開けた小銀を見て飛び上がった。
『えっと、お皿ここに置いときますね』
 下手くそな英語が彼女の身を案じる。
『ありがとう。……流行り病なんかじゃないから安心してくれ』
『とんでもないことです、そんな! 大丈夫ですか? お医者さまをお呼びしましょうか?』
『いや、不要だ。理由はわかっているから』
 小銀は妊娠しているのだ。
 親弘に破瓜を委ねて以来、彼以外と関係を持ったことのない小銀だ、父親は明白だった。妊娠二ヶ月、時期からみてもあの夜にできた子供で間違いない。
 だがそれを彼に明かす勇気がない。あのようなメッセージを受け取った今でさえ、親弘が去ったのは自分をもう愛していないからではないか、そんな疑念を拭い去ることができていないというのに、おまえの子を妊娠しているのだと……そしてその子を産みたいと思っているのだと、どうして打ち明けられよう?
 ボーイは甲斐甲斐しく彼女の汗を拭い、シーツを取り替えて、また何かあればいつでも言ってくださいと、そう言って部屋を後にした。ゆったりと枕に背を預け、ため息をつく。
 ベッドサイドに置かれた大皿には、小さくカットされたメロンやスイカ、オレンジ色の果実が、おそらくパパイヤだろう、美しく盛られている。小銀はスイカを指でつまみ、しゃくりと音を立ててひと齧りした。甘みの強い瑞々しい果汁が溢れ出て、痛んだ喉を潤してくれる。ふと思いついて、スイカの一つ抜けた果実盛りを写真に撮り、まりなとのチャットに送信してみた。
〈スイカおいしい〉
 そうしたら一分もしないうちに電話がかかってきた。
「小銀、おはよう! くだものとっても美味しそうね!」
「おはよう。まりなはいつでも元気だな」
「もちろんよ。あなたはどう?」
「朝からつわりがひどくてかなわない。胸がむかむかするし……でも、まりなの声を聞いたら元気出た」
「嬉しいけど、無理はしないのよ。親弘に会えるまで気を抜かないこと。いつもみたいに助けに行けないんだから」
「わかってる」
「いい? あなたの不調は、そのまま赤ちゃんの不調にもつながるんだからね、ちょっとでもしんどくなったらすぐ休んで」
「わかってるよ」
 わかってない! ぷりぷり怒るまりながかわいらしくて、小銀ははしなく吹き出した。

 体調が回復してきたころを見はからってホテルを出る。正午近くになり、気温もいよいよピークに達する時ごろだ。太陽は猛然として輝き、コンクリートの地面は鉄板のように熱されている。現地人も観光客も、みな一様に額に汗を浮かべ、灼熱に表情を歪めている。それはタクシーを探してロータリーを歩く小銀も例外ではない。
 この日のために用意したサマードレス、スカート部分にレース細工をあしらった上等のものだが、汗で胸元がびっしょりと濡れてしまった。吸い付いた布地が透け、小ぶりな乳房の形がはっきりと浮き出てしまっている。すれ違う人々の視線を如実に感じ取り、彼女は日除け帽子のつばを引っ張って顔を隠した。
 タクシーは五分ほどで捕まった。ブルーバードの名を冠し、また実際に青く塗装されたその車体を操るのは、五十代中ごろといった印象の男性だった。
「Mau kemana」
 よく効いた冷房に一息つく小銀に彼は何か尋ねたが、ひどく訛った現地語は小銀に何の理解ももたらさない。
「Pardon?(なんだって?)」
「Anda mau pergi ke mana?」
「ええと、ジャガガルサ……レンテンアグン」
「Lenteng Agung?」
 必死で首を縦に振ると、彼は心得たとばかりににこりとし、メーターをリセットした。ほどなくして、車はゆるやかに走り出す。英語が通じないのだ、この運転手、気の良い男のようだが、目的地を詳細に伝えるには苦心するかもしれない。
 車は巨大なスカルノ立像を囲む環状道路をぐるりと周り、高速道路に乗った。すると、昨晩のチカチカと騒がしいばかりだったジャカルタとはまた違った趣の街並みが、かなたから小銀の目に飛び込んできた。高層ビルの代わりに小さく素朴な家々が軒を連ね、幅の広い川岸には、枝を組んだだけの建物がいくつも迫り出している。歩道に座り込む子供たち、木陰で涼む老人たち。緑に薫るプルメリアの低木には、小さな白い花が無数についていてここからでもわかるほどだ。牧歌的で悠然たる眺望に、小銀はまた親弘のことを思い出した。熱烈でカラフルなジャカルタが夜の親弘だとしたら、今小銀の前に広がるジャカルタは、昼の、おだやかで優しい親弘だ。
「Jepang, jepang, ......oh, dari jepang」
 運転手が、並走する車やバイクを指差しながら笑う。
 小銀は帽子を脱いでブランケットをかぶり、流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。

 静穏なうたた寝は、大音量の歌声にあえなく引きちぎられた。びっくりして飛び起きる。
 Googleマップによると、車はすでにレンテンアグン付近まできているようだが、ひどい渋滞にはまっていた。二車線の道路に車やバイクや原付が詰めかけ、所狭しとひしめき合っていた。車社会の発展途上国ではよくみられる光景だ。その、車やバイクや原付の中に、場違いにボリュームの大きい歌声が響き渡るのだ。
「What?(なに?)」
 できるだけ易しい英語で、小銀は運転手に問いかけた。
「Apa?」
「What......the song?(この歌はなに?)」
「Song? Ah, Quran, prayer, Islam(歌? ああ、コーラン、祈り、イスラムの)」
コーラン……」
 コーラン、祈り、イスラムの。
 この、奇妙な歌のようなものは、イスラム教信者の祈りなのだ。
 祈りは音階の上下を繰り返しながら、高らかに、また厳粛に紡がれる。言語に明るくない小銀にその内容はしれない。だが、発音ひとつにも、大いなる神への賛美が満ち溢れ、敬虔な信仰心がみなぎり、聞く者の心を自然に引き締めるような調子だった。運転手は指を組んで軽く首を垂れた。小銀もそれに倣ってそっと目を閉じる。
 親弘。
 私の赤ちゃん。

 渋滞を抜けて、運転手は適当な飲食店の前に車を寄せた。レンテンアグン地区に着いたのだ。運転手に二千ルピアを支払いながら(日本円で千八百円ほどだ)、見慣れない街に視線を巡らせる。詳細な住所を正確に伝えられない小銀は、ここから親弘の家まで徒歩で向かわなければならない。
 もうすぐ会える。はやる気持ちを持て余しながら、キャリーケースを引きずり小銀は歩く。歩道には百日紅の木が植えられ、日陰も多くいくらか涼しい。店先にパパイヤやまだ緑色のマンゴーを吊るす果物屋、赤青黄のラインがまぶしいインドマレットという名前のコンビニエンスストア、蛍光ピンクの壁紙の散髪屋、屋外レストラン。扉を開けた状態で走るオンボロのバス、小さな車体に三人もの人間を乗せたバイク。プラスチックの皿を差し伸べる物乞い、石畳の隙間に生えた雑草を抜いて遊ぶ少年たち。かなたの空には、薄く藤色に山嶺が浮かんでいる。
 マップに従って十分ほど歩いたところにある角を右に曲がり、狭い道路に入ると、また雰囲気の違う住宅地に出た。舗装されていない土の道が続き、左右に連なる民家はどれもこれもひどく古びている。すれ違った主婦らしい女は、脚を縄に括られた鶏を二羽、しっかと握っていた。よく見ればその鶏たちはまだ生きているらしく、ときおり苦しそうに羽をばたつかせ、首をぶんぶんと振った。
 キャリーケースの車輪に石が詰まり、回らなくなったので小銀は足を止めた。ふと顔を上げると、これまで通ってきた民家とはどこか異質な、西洋風のアイアンフェンスを構えた大きな家が建っていた。外からでも十分に伺える庭は広く、プルメリアや蘭、それから名も知れぬ南国の花が競い合うように咲いていた。家は、インドネシアの一般的な家屋と同じく煉瓦に塗料を重ねた種類のものだったが、屋根に天窓が取り付けられていたり、表の扉に小ぶりなステンドグラスがついていたりと、随所に西洋的な意趣が見て取れた。
 その、美しい家の玄関扉から、ひとりの女性が音もなく姿を表した。
 豊かな黒髪をおさげにして左右に垂らした彼女は、白百合を思わせるほっそりとした体躯に伝統的なバティックワンピースを身につけ、素足にはビーズをあしらったサンダルを履いていたものの、間違いなく日本人だった。彼女は傍らに子猫を伴い、プラスチックのジョウロを持ってポーチから静々と降りてきた。が、呆然とする小銀を見とめて、
「小銀さん?」
 鈴を転がすような声が小銀の名前をはっきりと呼ばわった。
「は、はい。榊小銀です」
「まあ、あなたが。はるばるようこそおいでになりました。……親弘さんを探しているのね?」
 息をつめ、肩をこわばらせて、小銀は立ち尽くす。
「話は聞いていますよ。親弘さんは、いま夫と一緒にこの家の裏のモスクに出かけています。休みがてらお茶でも……と言いたいところだけれど、一刻も早く彼に会いたいってお顔ですね」
「はい……ごめんなさい。ええと、あなたは」
「気にしないで。矢崎百合子と申します。夫と二人で、東南アジアの社会史を研究しているの」
 矢崎夫人は貞淑に微笑する。
 だが小銀は貞淑でなんていられなかった。親弘が、親弘がいる、すぐそこに! 二ヶ月と少しのあいだ、絶えず夢見て、不在の寂しさのあまり涙すらこぼした……それほどまでに求めたかの人がいる。彼に会える。
 半ば放り投げるような形でキャリーケースを放棄し、夫人の示した裏道へと走り込む。驚く彼女の声など構っていられない。蛍光緑に濁った側溝を飛び越え、庇に粉ジュースや洗剤の小袋をぶら下げた商店をすぎて、さらに裏へ入る狭い路地が口を開けているのを見る。小銀の足は自然とその路地へ吸い込まれる。
 ——光の中で、子供たちの笑い声がきらきらと弾けた。
 眩しさのあまり小銀は目をすがめる。限られた視界の中で、金の鷲細工を施したエメラルドグリーンのドームを頂き、純白の柱を四方にめぐらせたその建物を見る、きっと夫人が言うモスクだ。祈りの地。人々の憩いの場所。庇の下から伸びた電線が、木板を貼り合わせただけの質素で小さな家々に電力を供給している。その中でも一等低い位置に垂れ下がった電線をネット代わりに、子供たちがバレーボールに興じていた。
 みな日に焼けて真っ黒だ。男の子も女の子も、泥だらけのTシャツを着、サンダルの足を快活に動かして元気よく駆け回っている。それに紛れて、低く朗々と声を響かせながら躍動する一人の男の影。
「Lewati aku, lewat sini!」
 親弘だ。
「親弘!」
 小銀は胸いっぱいになりながら叫んだ。子供たちが投げたボールを受け損なった親弘が顔をあげた。
 破顔する、
「親弘、親弘、親弘!」
「小銀!」
「親弘……!」
 子供たちの群れをかき分け、まろぶように親弘に駆け寄り、……そのまま勢いに任せてひしと抱きつく。スパイスの気配。汗の匂いとタバコの煙のほろ苦い香り。太陽に炙られた皮膚の熱さ。小銀の頬は彼の裸の胸に押し付けられ、肩や腰は太い腕に抱かれ、脚すら絡んで、ああ、愛しい。愛しい。愛しい。親弘。溶けそうだ。このまま皮膚まで溶けて一つになれたらいいのに。
 小銀の繊細な下瞼に涙が滲む。皮の厚い親指がそれをやさしく拭い、刹那、二人の視線は領域を共有し、同じ感慨に兆した。まるでそうであることが当然であるかのように、小銀は瞼を閉じた、硬い背中に手を回す、降りてきた優しい口づけを緩やかに唇を開くことで歓待する。ところどころ皮の剥けた皮膚の、やわらかい感触、言葉も、社会も、過去も未来もなく、ただその人にすべての意識と感情を集約させて……親弘の舌が歯列の間を割って入ってくる、侵入してくる、ああ、入ってくる、小銀は狂おしいほどの歓びにさらに歔欷した……、「小銀」ひどく熱っぽく、彼が彼女の名を呼ぶ、「会いたかった」
「わ、私も、どんなにおまえに会いたかったか……しれない、親弘、親弘……」
「お前を置いていって、悪かった、だから泣くな」
「もう離れないで、そばにおいて、どこにも行かないで」
 声は喉奥に滲み、しまいには震えてほとんど言葉にならなかった。かわりに涙がとめどなくあふれてやまない。薄い水の膜に透けて、親弘の目が揺れていた。
「泣くなよ……」
 不意に、その目に不安と欺瞞の緑がよぎる。
 小銀ははっと我にかえり、そのことについて……なにか親弘が隠しているのではないか、そうでないにしても、話しあぐねているようなことがあるのではないか、問いただそうと口を開いた。しかし何か言うより先に、試合中に知らない女と抱き合いはじめた親弘を不審に思った子どもたちが集まってきて、勢いよく二人を取り囲んだ。小さな口が次々に何か言う。
「Siapa orang ini?」
「Temanmu? Atau kekasih? Istri?」
「Cantik cantik ya!」
「囲むな囲むな! あー……小銀、ちょっと今から付き合えるか?」
 女の子を肩にぶら下げ、弟を背負った男の子に腰にしがみつかれながら、息も絶え絶えといった様子で親弘が言う。
「矢崎先生に夕メシの買い出し頼まれてんだわ。歩きながらゆっくり話そうぜ」

 初心な中学生がするみたいにぎこちなく手を繋いで、大通りまでの道を二人歩く。
 話そうといったわりに、親弘はなかなか口を割らない。その代わりに、ちらちらと小銀のほうに視線をやってはため息をつき、眉間に縦じわを寄せたり頭を掻いたりしてみせる。手のひらにじわじわと汗を滲ませる。そしてとうとう、ぽつりと一言、こう言うのだった、
「その格好……似合ってる」
 小銀は白い頬をほのかに赤らめて、愛する男の手放しの賛辞を喜んだ。
 大通りに出てからは、バスで市場の最寄りまで向かう。正確にはアンコタと呼ばれる小型乗合バス、パラトランジットで、インドネシア各地で見られる手軽な移動手段だ。運賃も三千ルピアほどと非常に安価である。が、日本からの観光客ということで、小銀は五千ルピア請求された。
「いいとこだろ。おおらかっつーか、大雑把っつうか、みんな楽しそうっつうか、ま、おもしれえんだよな、この国。何も考えなくたって地球は回るし俺は金子親弘なんだって、そんな気分になる」
 開け放たれた扉からの風に短い黒髪を靡かせながら、親弘がまなじりを緩ませる。小銀はその隣にぴったりとくっついて座り、彼の話に熱心に耳を傾けた。車内には他に五人ほど人が乗りぎゅうぎゅう詰めになっていたので、小銀が親弘にべたべたとくっつこうが注意を払うものは誰もいない。
「日本じゃこうはいかねえよ、やれ決まりだ、ルールだ、道徳だ、倫理だって、杓子定規で頭が痛いこった」
「それが町を出た理由か?」
「いや……ああ、そんな顔すんな、お前が嫌になったとか、そんなんじゃねえ。断じてな。お前のことは好きだ。世界で一番愛してる。お前に出会えたってことだけで、俺は日本に生まれてよかった……」
 最寄りに半ば放り出されるような形でバスを降りてからは、再び歩いて市場を目指した。ゆるやかな傾斜のついた一本道、ラヤ・ジャガカルサ通りは、さまざまな種類の露店や屋台の並ぶ目抜きの通りだ。まだ気温の高いこの時間でさえ、主婦や子供が詰めかけて大いに賑わっている。
 途中、フレッシュジュースの屋台で、親弘がアボカドジュースを買ってくれた。アボカドのスムージーにチョコレートを加えたもので、その字面の奇怪さに初めは激しく遠慮する小銀だったが、口に含むとトロリと濃厚な甘味と香りが舌の上で溶けて、結局夢中になって飲んだ。
 食器、古着、子供だましのプラスチックアクセサリーやブリキのおもちゃ。照りつける強い日差し、威勢のいい客引きの声、脂肪が焼ける甘ったるい匂い。ふたたび目眩と吐き気を覚えながらも、親弘と手を繋いで歩いているというただそれだけで、小銀は誰よりも美しく微笑んでいられるのだった。