2024/01/30

 

 

 


 強い意志に満ち溢れた明晰なまなざしが、テーブル越しに純子へと降ってくる。はじめのまっすぐな想い、言葉が、純子の傷ついた細胞に触れ、浸透してゆく。
 純子はふうとあからさまに嘆息し、ベルベットのソファに深く腰掛けた。はじめから視線を逸らす。夜のジャカルタは、大通りを中心に青や金やピンク色にライトアップされ、神聖な祈りの場であるイスティクラル・モスク、その白亜のドームでさえ、エメラルドの照明に煌々と光を帯びている。夥しい数の人や、車や、オートバイが、空へと伸び上がったビル群の間を、せこせこと過ぎてゆく。ひとつ道を外れれば全盲の物乞いが、プラスティックの椀を行き交う人々に向かって差し伸べ、女たちがほとんど軟禁状態で家庭に縛られている。純子はそれを、四十六階から神のように、無感動に見下ろし、目の前の恋人は純然たる美徳をたたえてただ座っている。
「なんでも?」
 存外に低く、アパシーな問いかけが、はじめに差し向けられた。
「なんでもしてくれるのね」
「うん」
 それでも彼女は頷く。純子は、肘を張って伸び上がり、美しい顔へと鼻先を近づけた。額から頬へ垂れた長い前髪を指でさらい、顕になった瞳に、青い陰質の花のように微笑した。
「……お願いしたいことがあるの。きっと、してくれるわね」

 ちょっと待ってください、と通話を辞して、三十分ほど経過したあと、彼は律儀にも折り返しの電話をよこしてきた。
「すみません、夜(イシャー)の礼拝の途中だったので。いま、あいつも一緒にいます。このあいだのホテルでいいですか?」
「いいわ。ごめんね、突然、大丈夫だった?」
「はい。大丈夫じゃないとしたら……それは、あのとき、あなたについていくことを決めた俺たちに責任があるので。じゃあまた後ほど」
 彼がほとんど一方的に畳み込み、三十秒ほどで通話は終了した。事前に、こちらの要望は概ね伝わっているので、大した問題ではないが、彼のひどく簡明であるさまはどうしても公貴を想起させる。過ぎ去ったはずの嵐が再び戻ってきて腹の中を荒らしはじめたので、舌打ちして、純子はデスクを荒っぽく探った。手のひらに触れたビニールの小袋を二つ、まとめてちぎり開け、中のカルシウム粉末を吸い込むようにして飲む。
「はじめ、行くわよ。何してるの」
 空の小袋をゴミ箱に叩き込み、純子は声を張り上げた。照明を落とし、カーテンもすっかり閉め切ってしまった暗い部屋、手洗いでもじつく彼女の小麦色の髪だけが、玄関扉の隙間から明かりを拾ってかすかに光を帯びていた。「本当に行くの?」ほとんど消えかかりの、引き攣ったような声が、茫漠とした闇の中から聞こえてくる。
「あんたが言ったんじゃない。なんでもしてくれるって」
「そうだけど……」
「別にいいわよ。無理しなくても。今から電話して、行けません、ごめんなさい、って言えばいいだけなんだから」
 糸を緩められた操り人形みたいな、ぎこちない動きで、手洗いの壁からはじめが現れた。
 光の中につまびらかになった彼女の姿態を、知らず、純子は嘲笑していた。ほどよく脂肪のついた甘い情調の肉体、その皮膚に赤くでかでかと書かれているのは、口にするのも憚られるような、ひどい侮蔑の言葉の数々。卑猥な意味を帯びた記号、絵文字。はじめには見当もつかないだろうが、この九年間、神経質に記録をとってきた純子には重大な意味をもつ三桁の数字。全て純子が、ディオールの口紅をほとんど半量使って描いたものだ。ほとんど玩具のような扱いを受けた自らの身体を、必死に抱き込む細い腕が悲しい。
 のろのろとした動きに焦れて、純子が右手に持っていた麻紐を強く引くと、陰核に引っかけたピアスが突っ張って、はじめは短く悲鳴をあげる。緩み切った尿道から、尿とも潮ともつかない液体が滴る。
「純子……」
 哀願に潤んだ目がためらいがちにこちらを伺う。純子がかぶりを振って、あらゆる申し立てを受け入れない姿勢を示せば、今度こそ、彼女はもう何も言わなくなった。うつむきかげんに、足枷を引きずるみたいな重い足取りで歩き出す。玄関扉に鍵をかける。肩に薄手のサマーコートをかけてやると、震える指が、胸の前で襟をしっかと握りしめた。
 大通りの賑わい、地元屋台街の喧騒からも遠く、奇妙な程に静まり返った細い路地裏を、犬とその主人のように歩く。窓が割れ、ほとんど廃墟同然の低所得者向けコスト、誰も使わなくなったカトリック教会、乗り捨てられた古い日本製オートバイ、意味不明のスプレー落書き。月明かりすら届かない。靴を履くことを禁止された小さな足は、砂利やガラス片の散乱する悪路を踏みしめて、うっすらと血が滲みはじめている。それで歩調が鈍れば、リードを引かれ陰核を虐待されるので、彼女は諾諾と歩き続けるしかない。
 少年たちは、いつかのラブホテルの一室で、ベッドに腰掛けて待っていた。廊下から引き摺り込まれたはじめの姿を一目見て、刈り上げの方は目に見えて取り乱したが、眼鏡は寡黙なまま純子を見、かすかに眉を寄せるにとどめた。
「この格好で連れて来たんですか」
「そうだけど?」
 ほとんど剥ぎ取るみたいにしてコートを取り、玄関扉のフックにかける。全裸にされたはじめは、まぶたや耳までを真っ赤にして、力なくその場にうずくまってしまった。
「あなたの恋人でしょう、いいんですか」
「この子、あたしのためになんでもしてくれるんですって。だからきっといいんでしょう」
「純子、だれ……?」
「発言を許した覚えはないわよ、はじめ」
 リードを強く引き、ぴしゃりと言い伏せれば、奴隷の気性を子宮に持て余す彼女は、もう何も言えなくなってしまう。野良犬がするみたいに顔を伏せ、熱い息を吐きながら、半開きの口からぬるぬると唾液をこぼす。股の間で赤いカーペットが湿っている。豊かな胸は下垂し、乳頭から滲み滴った乳汁が、行儀良く並べておいた可愛らしい膝へと伝った。
「なあこれなんて書いてあるの? ジャパニーズ?」スラックスの下でゆるく勃起しはじめた様子の刈り上げが、場違いに無邪気な調子で聞いてくる。
「どうしようもない淫乱女、って書いてあるのよ」
「うわ」
「あんたって最低だ、本当に……」
「最低なのは二人も同じでしょ。礼拝のあとに、澄ました顔で女を抱きに来てるんだから。ブルネイではね、あなたたちみたいなのは石打ちで殺されるのよ、脚を切られて、町中を引き摺り回されるのよ、知ってた?」
「そういうあんたは地獄(ジャハンナム)に行きますよ、確実に」
「なんとでも言えば。あたしは、あなたたち二人が今日、この子を陵辱してくれたら、何の不足もないんだから」
「純子!」
 上がる悲痛な叫びを、黙殺した。
「膣にさえ挿れなければほかは好きにしていいわ。どこもかしこも感じるマゾだから、二人もじゅうぶん楽しめると思う。後ろもほぐしてあるけど、けっこう具合いいのよ、それが嫌なら口に突っ込めばいいし」
「純子、やだ、じゅん……」
「ねえはじめ、あんた、なんでもしてくれるって言ったじゃない、嘘だったの。それとも、あれはただのその場しのぎだったってわけ? あたしのこと好きなんでしょ? どんなあたしのことも愛してくれるんでしょ? それなら早くほんとのあたしを受け容れてよ。あたしの罪を一緒に背負ってよ。どうして泣くのよ。あたしが悪いことしてるみたいじゃないのよ」
「純子以外としたくない、純子じゃなきゃいや」
 ぽろぽろと、下瞼から大粒の涙をこぼして、はじめは純子のハイヒールの足にすがりつく。汗と鼻水で無様に濡れた頬を、唾液でつやつやと潤んだ唇を、骨と皮ばかりの鷺脚に押し当て、祈るように訴えた。
「純子を愛してる。純子だけなの。純子とじゃなきゃ、いや」
「……」
「純子が嬉しいことは、わたしも嬉しい。できるだけのことはしたい。でも……純子、さっきから泣きそうな顔してる」
「……ああ、それはね、はじめ」
 不意に、純子の口許へ、快哉の笑みが駆け上がる。純子は膝をついてかがみ込み、いまだくるぶしにくっついて泣いている美しい恋人の顎を、指の先でやさしくすくった。キスをする。カルシウム粉末でほのかに白くなった唇で、柔らかい皮膚をはさみ、小さな舌を前歯で甘噛みし、涙の香る頬と頬を擦り寄せる。手のひらでつややかな髪からうなじまでをおもむろに撫でる。純子が回した腕の中ではじめは、安堵と心弛びのために静かに嘆息した。およそ気が触れたかとさえ思われた純子の、奇妙なほど懇切な態度……それにすっかり気を緩めてしまった彼女は咄嗟のことに反応すらできない。純子は、いままでねんごろに扱っていた恋人の身体を、ベッドの方へ思い切り突き飛ばした。
「はじめがあたし以外の手でけがれることが、泣きたくなっちゃうくらい嬉しいからよ」
 仰向けに倒れ込んだはじめの、茫然とした表情。ついで、彼女の瞳にうつろう、云い知れぬ失望の色。純子は顎を引いて、少年たちに然るべき対応を求めた。

 ダブルベッドに、裸の少年二人が、窮屈そうに折り重なりながら眠っている。
 そのすぐ足下、埃汚れの溜まった赤いカーペットの床の上で、純子の恋人は気を失っていた。呼吸は浅く、身じろぎすることもないので、ともすれば死んでいるのではないかと思われた。琥珀を漉いて作ったような、淡い黄金色の髪から、ほのかな銀色の光を帯びて透き通るような皮膚に至るまで、尿や精液や、そのほかあらゆる種類の体液に塗れ、汚れている。縦割れの肛門は緩んで、白っぽい粘液を垂れ流し、手のひらや指先にまで擦り付けられたものが乾いている。昨晩、純子がほどこした最低の落書きもほとんど消えてしまうほどの壮絶さで彼女は少年たちに陵辱された。だというのに、彼女の肉体は、絶えず白く清冽な冷たい香りを放ち、軽く瞼を閉じた寝顔には神的なものさえ感じられた、窓から差し込む清らかな朝の光にむかって、彼女は、今まさにほころんだ青い花の神秘に静かに志向していた。
 残酷なことだった。母親の胎内で、受精した細胞が二つに分裂した、まさにそのときから、拭っても拭い去れぬ原罪を抱えた純子と、尊厳と実体とを踏み躙られてもなお神聖な彼女は別の生き物だった。命に貴賎はないというのは嘘だ。幻想だ。二十世紀にアメリカで、アルジャーノンが訴えてきたことそのものではないか。そうでなければ、バラバのかわりに処刑されたキリストが、三日後復活して天にあげられるものか。ヴィシュヌがブッダになって地上へ降りてくるものか。ブラウスのボタンを上まで留めて、純子はベッドに背を向けた。サイドテーブルに十万ルピア札を何枚か叩き置き、靴を履いて、ホテルから静かに立ち去った。
 巨大な駐輪場、高いコンクリート壁の路地を抜けて、ジャラン・サトリア大通りへ出る。液晶のひび割れのために、文字の判読すら困難となった携帯電話に、一件、着信が入っている。午前七時。迷ったが、純子はその知らない番号に折り返し電話をすることにする。三コール目で、細く囁くような女の声が、純子の問いかけに応答した。
「手嶋純子さん?」
 初めて聴く声だったが、純子にはそれが誰であるのか、はっきりとわかった。
「純子さんですよね?」
「そういうあなたは、公貴……さん、の奥さん」
「そうです、まあ、折り返しくださったのね。ありがとうございます。正直、期待していなかったのだけれど。嬉しいわ」
「どういう用件? あたし、そんなに暇じゃないんですけど」
 このあいだ、酷い取扱い方をしたためか、スピーカーからの声にはひどく雑音が入っていて聞き取りづらい。雑音というのは、タバコの包み紙のセロファンを揉みこんだ時のような音だ。
「夫とあなたが過去に、性的な関係を持っていたということは、知っていました。それで、半年前夫があなたを頼ると言い出したとき、ひどく不安になって、礼を欠いたのを、申し訳なく思っているの。ごめんなさい」
「そうですか、あなたは、欲求不満の解消のためにいま、あたしに電話をかけてるのね」
「そのとおりだけど、気を悪くなさらないで。お礼をしようと思っています。夫からは、すでに何か差し上げたみたいだけど、わたくし個人として、あなたにお礼申し上げたいの。何か入り用のものはありますか?」
「ありませんし、あったとしても、あなたには教えません」
「そうおっしゃらないでください。なんでもいいのよ、お金でも、ものでも、人の心でも」
「人の心? ……じゃあ、あたしが今、公貴と離婚してもう彼に近寄らないでくださいと言ったら、あなたはそうするの?」
「もちろん」
 吐息だけで、彼女が笑ったのだとわかった。「わたくしの知らない相手だったら難しいかもしれないけど、公貴さんのことは、じゅうぶん知っているもの」
「食えない女」
「そうでなければ、あの人と結婚してうまくいくはずがないわ。公貴さんが、どうしようもない破綻者だということは、あなたもよく知っているでしょう。いまどこにいらっしゃるの?」
ジャカルタ
ジャカルタ、そう、懐かしいわ、あの人と新婚旅行でアジアを巡ったとき、一週間だけ滞在しました。排気ガスがひどくて、わたくしずっと寝込んでいたんです。リッツ・カールトンがあるでしょう?」
「あります」
「そこの、いやに広いキングツイン、七十二階だったかしら、アスパラガスを四つ並べたみたいなビルが東に見えるのよ」
「じゃあ、あなたがいま、孕んでいるその子どもをください。産まれたらすぐにあたしに、インドネシアによこして、そうして、二度とかかわらないでください。あたしがあなたに求めるのはそれだけです。できますか?」
「それで、自分のもとに戻ってきた娘を、あなたはどうするの?」
「殺します、殺して、あたしも死ぬわ、あたしの系譜が、もうこの世に残っていて良いはずがないんです。あなたに托卵したのは間違いだった。あたしの遺伝子が、いま、あなたの腹の中で転写されているということも、悍ましい間違いなんです」
「良いわ、そのようにします」
「早くしてください」
「焦っているの。無理もないですね。そう、あなたに一つ、サジェッションを与えましょう」
 純子は、往来で足を止め、ひどい雑音の中の彼女の声に耳を澄ませた。
「バリに行きなさい」
 カルシウム粉末を、小袋ごと齧りながら、従業員用エレベーターに乗り込み九十階まで上がる。ブラウスの襟をただし、ストッキングのほつれをうまくスカートの中に隠して、更衣室を出る。ラッフルズ・パティスリーの厨房には、気難しく、いつも不機嫌な若いパティシエがいて、純子の顔を見ていると気が滅入ると声を荒げることもあれば、今夜一緒に食事をしないかと甘ったるい声で誘いをかけてくることもある。その彼が、今日は殊更にへそを曲げていて、厨房で顔を合わせた瞬間に訳のわからないことで怒鳴りつけてきた。純子は急いでスカートのポケットを探るが、小袋はなかなか出てこない。パティシエは喚き続け、純子以外のウエイトレスたちはどうすることもできず、隅でおろおろしている。
 ついに、指先がプラスティックの袋に触れた。それと同時にパティシエの平手が純子の頬を打った。純子は右へ軽くよろけたが、すぐに後ろ足で立ち直り、彼を刺し貫くほど睨みつけた。厨房にはコニャック・ナポレオンの、でっぷりと太ったレッドゴールドの瓶が、三つほど並べて置かれている。そのうちの一本を掴んで厨房を飛び出し、ホールの、照明で金色に輝くケーキショーケースに振り下ろして、力の限りに叩き割った。

 明けてもなお霞んでいるような春の空だった。この町にも桜が咲き、緩慢とした春風が日光を絹のように漉して流れていた。
 十五歳の手嶋純子はすべてを諦めて、新品のローファーを履いた重たい足で、正門坂を上っている。右肩にかけたスクールバッグの根革で、間抜けに口を開いた小猿のストラップが揺れている。この坂を登った先には、かねてより彼女が進学を希望していた高校があって、今日はその入学式であるのだが、気分はもやついたまま晴れることはない。もはやロードを降りた身である自分に展望はない、そうした怯懦が、純子の骨ばかりの身体へ泥のようにまとわりついて離れない。なにかほかに、そう、アルバイトをして、男の子と遊ぶというのはどうだろう? 純子は、人より痩せてこそいるが、顔はそう悪いほうじゃない。むしろかわいい方だと自分でも思う。あとはよく食べて肉をつけて、イケメン、そう、キムタクみたいな男の子を見つけて、得意のカラオケで惚れさせてやるというのはどうだろう。相手はキムタクなんだから、当然、歌の上手い女の子が好きに決まってる……空想は、背後の女子高生たちのひそひそ声で不意に、とぎれた。
 色素の薄い髪が、舞う花の中で音もなく翻ったと思えば、坂の上の方へ急速に遠ざかっていった。言葉もなく、純子はその後ろ姿を見ていた。肉付きの悪い脚が、低速ギアのままぐるぐるとペダルを回す。つやつやした白いフレームに、青いコラテックのロゴが誇らしげに輝いている。リュックの金具にゲームキャラクターのストラップがふたつ、ジャラジャラと揺れている。腿の横で縛ったプリーツスカートの裾から、ユニクロの、三枚九九〇円の下着がのぞく。
「きみ、けっこう登るじゃん」
 駐輪場で、ロードを降り、スカートの裾をせっせと直す、その女の子の背中に声をかけていた。
「自転車やってたの? 見てたよ、のぼってくるの。あたし南中出身の手嶋純子。きみは?」
 やってしまった、焦りを募らせる心中とは裏腹に、唇からはぽろぽろと言葉が溢れて止まらなかった。ロードをスタンドにかける女の子は寡黙だった。べらべらと話す純子に視線もくれない。どころか、聞こえているかどうかすらわからないほどの無反応。だんだん不安になってきて、忙しなくスカートの裾を弄ったり、靴底を鳴らしてみたりする純子を、ふと、小さな頭がかえりみた。長い前髪に、意志の強そうな瞳が透けているのが印象的だった。
 ぼそぼそと、抑揚のない声が言う。純子は耳を澄ませる。
「青……八木、は……一、はじめは」
 春霞の中に、彼女が、細い人差し指を一本たてた。
「いちばんの、いちだ」
 その爪先に、あらゆる時間、空間、光、運命が収束してゆくと、ひととき、純子は錯覚した。

「やめて! 純子、やめて!」 
「うるさい!」 
 追い縋る手を、力のままにたたき伏せる。頼りなく放り出され、ベッドの上へ崩れ落ちたはじめの眦から涙が散る。
 はじめが抵抗しようとすればするほど、純子の絶望は谷底を深め、錯乱はますます混線を極めた。全身の血管という血管が、リンパ管が、神経が、筋が、折り重なりひきつれあい、絡まり、ちぎれて、自我はばらばらになっていく。否、自我など、ないのだ、人の身体の中は空洞だ、まったくなにもない。純子はどこにも着地できない。耳元で常に何かが囁いているが、わからない、光は乱反射して視神経を焼き、うらはらに、背骨はしんしんしんと冷えてゆく。はじめがまた身体を起こそうとするのを押さえつける、力を加え、ねじ伏せる、そうして、純子と彼女とを隔てる着衣をほとんど破るみたいにして取り去り、彼女を裸にした。
 バリに行きなさい。
 はじめが腕を伸ばし、純子になにかしらの力ではたらきかけようとするが、純子にはそれがわからない。頬に触れる指が氷のように冷たいのも知覚できない。股を開かせ、未だ未開の膣穴を指で広げた。純潔の証に、彼女の穴は粘膜の薄い皮で守られている、それをかき分けて中を覗き込む。女の機関が確かに息づいているのを確かめる。
「ねえはじめ、あたしを愛してる?」
 うわごとが、唇をついて出た。瞼を涙で濡らしながらはじめは頷いた。
「純子を愛してる」
「ねえあたしってダメなのよ、あんたみたいに清らかじゃないの、汚れてるのよ、それでもあたしを愛せる? 一緒に罪を背負ってくれる?」
「愛してる、純子、わたしは、世界の終わりまでいつも純子と一緒にいる」
「嘘つかないで!」
 無遠慮に指を挿入されて、はじめの、美しい顔が痛みに歪む。
「一人きりじゃ耐えきれない、はじめ、愛してるなら穢れてよ!」 
「純子……!」
「どうしてあんたは、青八木一なの、どうして男に生まれてこなかったの、どうしてあたしは女に生まれてきてしまったの、なぜ、さいしょから嵌まるはずのないパズルに、こんなにも……一人で清らかでいないでよ!」
「純子、愛してる、ほんとよ」
「あたしは、あんたのこと本当に愛してたことなんて一度もない!」
 シーツの中から、透明な青い蓋のタッパーを探り当てた。先ほどまで冷凍室の中にあって、いま、常温に触れ白い中身がわずかに溶け始めていた。はじめは——唇をかすかに震わせたまま放心している。抵抗はない。左手だけで器用に蓋を開け、中のものが半液体状になっているのを確かめる。それを彼女の膣口に当てがい、傾ける。果たしてそれは滞りなく膣へと流し込まれた。子宮口はわけもわからないままただ本能のプログラムに従って蠢き、古賀公貴の精液を飲み込んだ。
 腹の底から開き切った喉に胃液がつき上げてきて、純子はそのままひどく嘔吐した。