2024/01/29

 

 

 


 純子は、自分でもそれと知れぬうちに、唇の端に愉悦の笑みを浮かべていた。従順でかわいいはじめ。純子を慕うあまり盲目的にのめり込みすぎたはじめ……便器横に設置された、ホース型のシャワー設備を引き寄せてきて、彼女の直腸を洗う。粘膜に激しく冷水を浴びせかけられて、彼女は居心地悪そうに、純子の左肩にしがみつく。その吐息は、排泄器官を丹念に洗浄される恥辱に、すでに陶酔の色が濃くなりはじめている。下腹を押して排水させたあとは、インド・マレットで叩き売られていたビオレのハンドクリームで、凍えきって、胡桃のように固く閉じた穴を、宥め広げていく。そうして準備の整った縦割れの肛門を、えもいわれぬ感情で眺める純子だった。
「えらいよ、はじめ、ちゃんとできてるわよ」
「……うん、純子……」
「おしりさみしいでしょ? すぐ入れてあげるからね」
 鼻先にまで血の気を集めて、控えめに、はじめが首肯した。
 口に含み、たっぷりと唾液でぬめらせた一つ目のサラクを、入り口に優しくあてがう。無数のとげが、敏感な皮膚に触るのがわかって、それだけではじめの身体は落ち着きを失う。「大丈夫だから」……実をくるくると回して、最適なポジションがわかったところですぐさま挿入した。きついのは肛門を押し広げる一瞬だけで、少し力を加えて押し込めば、直腸が余裕を持って果実全体を飲み込んだ。
 腸壁を掻かれる快楽に、はじめがようやく、色のある吐息をもらした。彼女が激しく呼吸するたびに肛門が閉じたり広がったりして、サラクの皮の褐色も見え隠れする。同様に、二つ、三つ、焦らすことも忘れて押し込めば、子宮にも圧がかかったか、あっ、と短く哀切な声が上がる。くねくねと死にかけの蛇みたいに、タイルの上ではじめの身体がよじれる。
「純子、純子」
「心配しなくても、ちゃんと入ってるわよ。ほら三つ、四つめも……」
 四つめは、前の三つよりも一回り大きい。形状も、単純な球形ではなく、レモンにも似て二端が尖っている。純子は、ただでさえ感じやすい恋人にこの奇形を押し込むのかと躊躇ったが、すでに三つの果実を蓄えた肛門が貪欲に収縮を繰り返しているのを見て思考を放棄した。果たしてはじめは、この凶悪な形状の奇形をも、腹の中にしっかりと飲み込んでしまった。
 手洗いの、そっけない白のタイル床で、美しく高潔な恋人が、目隠しをされ、肛門にフルーツを詰め込まれて、麻のひもだけを外へ垂らした状態で泣き濡れている。惨憺たるその姿態、獣性を多分に含んだ艶やかさにくらくらする。
「じゅんこ……」
 発作的な加虐欲に駆られる純子を、呼び止めるか細い声があった。
「その、トイレ……いきたい」
 羞恥と苦痛の汗にぐっしょりと濡れた手が、すがりつくものを求めてよるべなく伸ばされる。異物に膀胱を圧迫されて尿意を催したのだということはすぐに察された。便器は、はじめが横たわるところの、すぐ付近にある。壁に縋って立ち上がり、三十センチも歩けば彼女はすぐにでも落ち着けるだろう。だが加虐に志向して尖りきった純子はそれを許さない。
「そこでしていいわよ」 
 冷たく命令した。
「聞こえなかった? そこでおしっこしてよ」
「えっ、純子? でも」
「でもって何。あんたいまあたしとセックスしてるんでしょ。セックスの途中に、立って、おしっこ行かせてください、なんて、ありえないでしょ」
 一語ずつはっきりと発音しながら、針でちくちく刺すように、強く言い含める。
「そうしたらあたしが飲んであげるから」
「……純子、恥ずかしい……」
「恥ずかしい? いつももっと恥ずかしいことしてるのに、今更じゃない? おしっこしなさいよ」 
「う……」
「出てすぐのおしっこって無毒なのよ、酸化して有毒な物質ができるわけだから、酸化させなければ良いのよ。あたしがあんたの穴から直接啜って飲んであげるから」
 折り畳まれた脚を掴んで大きく広げさせ、まだ絆創膏を貼り付けたままの下腹を指で圧迫する。はじめは押し寄せる波を逃れようとしてか、つま先を丸めて何か力を込めたが、そのひょうしに括約筋が緩み、サラクを一粒排泄してしまう。
「あたししか見てないわ」外に出た分を、締まる肛門に無理やり押し戻す。「はじめ。おしっこしなさい、今、ここで」
 顔を引きつらせ、嗚咽しながら、はじめは女主人の命令に忠実に従った。手嶋純子の命じることに、彼女が反抗できるはずもないのだ。純子はぐず濡れの性器にむしゃぶりついてそれを飲んだ。目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように、はじめが自分の口腔内に放尿する音を聞いていた。

 二ヶ月前は毎晩四錠飲んでいた。それで事足りた。でも、次第に効き目が悪くなってきて、先月五錠に増やした。それもすぐに効かなくなったから、今は七錠飲んでいる。手のひらに載せた分を、ほとんど数えることもしないまま口に放り込み、ミネラルウォーターで喉奥へ押し込んだ。
 デスクから離れてベッドを振り返れば、未だ裸で横たわったままのはじめが、カーテンの隙間から月を眺めていた。月は、まだ東の空に近く、煌々と黄金色を帯びていて、その光が彼女の髪や肌や夢のような色あいの虹彩に、細雨のように降り注いでいた。はるか彼方の天体を望む表情はあどけない。シーツの上に投げ出した小さな手が、内側へかすかに丸まっているのが、赤ん坊のようで愛くるしい。床に投げ出され丸まっていた毛布を取り上げ、肩からかけてやると、肌寒かったのだろう、はじめはすぐにそれへくるまり、浅い息を吐いた。
「ありがと」
 毛布の裾からちょこんとつき出た顔が可憐に笑う。
 純子もはじめに微笑んで、同じ毛布の中に潜り込んだ。暴風のように純子の心を渦巻かせていた暴風はすっかり去ってしまい、後には凪いだ湖面が、彼女への恋情を静かに湛えているばかりだった。毛布の中に抱き込んだ、彼女の上半身のあらゆる場所に口づけする。産毛の生えた真っ白な頸、肩甲骨、浮き出た鎖骨、トパーズ色の燐光を散らす細い髪、純子の歯形、吸いつけた鬱血痕、彼女は気にする様子もなく、くすくすと無邪気に笑う。
「はじめ好きよ」びっくりするほど甘い声が純子の唇をついて出た。感慨に鼻の奥がツンと痛くなり、あるいは胸が引き絞られるように痛んで、それを悟られるのを恐れて、急いで唇を噛む。瞼を伏せ、毛布の塊ごとはじめを抱き寄せる。裸の胸同士が触れて柔らかく形を変える。「大好きなの……」
「わたしも大好き、純子。突然どうしたの」
「なんでもない……なんでもないの。ねえ、はじめ、今でも学校や部のみんなと連絡を取ったりする?」
「しないよ、純子もしてないんでしょ」
「公貴とも?」
「うん」
「じゃあ、男の子と話したりはする? 職場とか、街とか、お店とかで」
「しないし、相手にもされない、純子と付き合ってるってちゃんと言ってるし」
 薄い肩に顎を乗せ、間近に恋人の横顔を見つめながら、純子は自らの小狡さについて思う。清廉潔白で、途方もなく清らかなはじめと、ずるくて矮小な純子。
「わたしには、純子しかいらない。純子を愛してるから」
 泣くかもしれない、と思ったが、泣けなかった。
 純子ははじめを、シーツの海の上に解放した。ふしぎそうに見上げてくる目は、純子の手がはじめの右脚を掴んで、つま先を唇にくっつけてみても、ぼんやりと倦怠をたたえたまま咎めることをしなかった。
「あたし、はじめの足が好き」 
 うとうとと首を振りながら、はじめの右足の小指を舐め、しゃぶる。ネイルもしたことのない少女の足、日々クリームで手入れを施しているからか、ほのかにミルクのような香りがする。
「汚い……」
「はじめの身体に汚いところなんてない。はじめはきれいよ、何よりも……ねえあたし幸せ。ずっとそばにいてね」
「もちろん、純子」
「目が覚めたら、久しぶりに外に食べに行かない? 買い物もしたいな、ディオールの新しいアイシャドウ、きっとはじめに似合うと思うの……」 
 優しい腕の中で、何の不安もなく、眠った。

 まだあてどなくアジアの海を彷徨っていたころ、純子は二十歳、はじめに至っては二月に誕生日を控えた身で、まだ十九だった。二人はジョグジャカルタ国際空港からインドネシアに上陸し、市街地の民宿二ヶ月ほど滞在したあと、こんどは東ティモールに渡るつもりで手続きを進めていた。東ティモールインドネシアから独立した小国で、同国と領島を共有していることもあって空路の便がよく、治安状態も安定していた。平たく言えば、インドネシアは終の住処としては不格であると、二人は考えていたのである。
 このときジョグジャカルタでは、独立記念日に関連した観光客向けのイベントが多数開催されており、出国一週間前まで娯楽にも摂食にも不足しなかった。純子は、ブリンハルジョという大地下市場で、日本人の男子大学生一団と知り合い、親しくなった。彼らとよくパーティーに出かけ、食事をし、現地の歌手のコンサートに赴いて夜を踊り明かしたりもした。そのとき、純子とはじめは彼らと地元の屋台で食事をしていたが、彼らもまた、二人の出国に合わせてジョグジャカルタを出発し、北のスマランという街に行くのだと明かした。列車を四度も乗り換えて、三時間半かけて北上するのだという。その中途で、ボロブドゥールという、ジョグジャカルタ郊外の施設を訪れるのだということも。
「ボルブドル?」
 はじめが辿々しい発音でそう聞き返すと、彼らは大笑いした。
「ボロブドゥールだよ。なんだ、きみら、まだ行ってなかったの。ジョグジャカルタまできてボロブドゥールに行かないなんて、極楽寺だけ見て、石清水を見ないで帰るようなものだよ」
 すぐにチケットを手配した。このとき、感染症の流行のためにボロブドゥールは入場規制を行っていて、一日二百人までしか入場できないきまりになっていたから、チケットの日取りは出国の前日になった。
 当日、バスで現地に向かった。バスは水田の並ぶ肥沃なジャングル地帯を一時間半かけてくぐり、土産物屋の殺到する表通りを窮屈そうに抜けて、ボロブドゥール寺院遺跡公園に到着した。規制のためか、入場口はとてもすいていた。受付の男性にチケットをよこすと、椰子編みのサンダルと、トートバック、それからバーコードの印刷されたリストバンドを手渡され、公園内はこのサンダルで歩くようにと英語で指示を受けた。サンダルは、とてもではないが歩ける代物ではなかった。薄い靴底に、申し訳程度の薄っぺらい甲バンド、前坪の代わりなのか、木で作った留め具のようなものが、親指と人差し指の間で挟めるようになっているが、痛かった。特に砂利の上を歩くときなど、痛いわ滑るわで、しばらく二人難儀して歩いた。練習がてら観光客たちの間をうろうろしていると、職員がやってきて、公園内に入るよう誘導をはじめた。
 ボロブドゥールは、八世紀の後半から九世紀前半にかけて建立されたと言われる世界最大級の仏教遺跡である。大噴火で、気の遠くなるほどの時間火山灰の下に埋もれていたが、十九世紀初頭にイギリスの提督らがこれを発見し、発掘・修復作業が行われて今に至る。そうしたパンフレットの説明をほとんど読み流しながら、歩きにくいサンダルで、本殿に向かう通りを歩いた。菩提樹の葉がそよそよと風に擦れる音を立て、千年前に作られたという石畳や、白い貝の床面装飾などにやわらかく木漏れ日を振り撒いていた。純子はというと、飽きていた。未開拓の土地も多いアジア地域において、古典古代の遺跡などそう珍しいものではない。ベトナムにはタンロン遺跡があるし、ミャンマーにはバガンがある。カンボジアにはアンコールワットがあって、これには純子も深い感銘を受けたが、逆に言えば、感銘を受けただけで終わった。だいたい、自分の一生にすら責任をもって向き合えない純子に、古代人のよくわからない信仰を受容できる余裕などないのだ。
 本殿は、丘の上に安山岩や粘板岩を積み上げて形成された、十一層からなるピラミッド状建築である。寺院として利用されていたというが、外部に張り巡らされた幅二メートルの露天の回廊が主な施設であり、内部空間を持たない。RPGゲーム的探索を期待していたらしいはじめが、隣であからさまにがっかりしていた。
「暑いし、登るの大変そうだし。もう帰る?」純子が気を遣ってそう提言するほどだった。はじめは少し逡巡した様子だったが、結局、すぐに頭を横に振った。
 二人の肌を撫でる空気が、明らかに変わったものと思われたのは、高い階段を登って第一層に到着したそのときだった。
 回廊の壁面もまた石作りで、精緻なレリーフが一面に施されていた。右から左へ、壁伝いに歩いていくと、物語を読み取ることができるという、いわば絵巻物的な仕掛けが施されているのだった。はじめが見上げる先に、右手で空を、左手で大地を指差して立つ、やたら不遜な赤ん坊が彫られている。
「お釈迦さまだ」
 重たい感慨と敬服をもって、はじめがつぶやいた。
 三層目から上は、色界といって、人間ではないが神にもなれない、中途半端な有情たちの領域となる。ここからは、欲望も物質的条件も超越した精神世界、無色界たる八層以上をめざして、急で狭い石段をひたすらに登っていかなければならない。西洋人と思しき大柄な観光客と、押し合いへし合い、這うようにして登っていく。日差しは強いが不思議と汗は流れない。ただ全身の産毛が、何か大きな圧力のようなものを感じけばだっている。いやいや、妖気レーダーでもあるまいしと、純子は一人ごちる。はじめは先から異様なほど寡黙でいる。
 八層を目前とした第七層で、ついに、純子をひどい浮遊感が襲った。石畳の突っかかりに足を取られてふらつき、あっという間にバランスを失って倒れた。壁面に背を酷くぶつけたが、そんなことも気にならないほど、頭から血の気が引き切ってしまって、みぞおちのあたりにはひどい嘔吐感があった。
「純子……水飲んでた?」坐禅を組んだ大きな仏像のために、ちょうど日陰になったところに純子を座らせて、はじめ、「汗かいてない」
「そういえば、忘れてた、かも……」
熱中症。ごめん、わたし、純子のことぜんぜん気にしてなかった」
「気にしないで。こちらこそごめんね。あたしはここで休んでるから、はじめだけでも上まで行ってきなよ」
「でも……」
 八層以上、無色界は、円形の回廊になっていて、ストゥーパと呼ばれる巨大な仏塔が七十二基も並べられている。目透かし格子状に石を積み上げて作った釣鐘状の空間の中に、曼荼羅を模した仏像が一体ずつ納められ、この構造じたいが悟りの世界を表現する、いわばこの寺院の中核にあたるものとされる。
 ぐったりと座り込む恋人に、当初はじめは遠慮した様子でいたが、純子が促すとためらいがちに頷いて踵を返した。すぐ戻るからと、言い終わらぬうちに彼女の姿は上層へと消え、それから十五分ほど、純子は一人でいた。組んだ石と石の間から、丘陵からの風がさわやかに吹き込んで、純子の首を冷やした。
 はじめは、今までのどの表情ともことなる、奇妙な顔つきになって戻ってきた。どの言葉も、彼女のそのときの様子を示すのにふさわしいものはないと思われた。
「純子、ここに住もう」
 彼女はそう言って純子を困らせた。

 はじめが、恋人に対して愚直と言っていいほど正直で、従順な女であることは、十分すぎるほど知れていることである。だがそれとは別に、ごく個人的な満足のために、純子は彼女とメールアカウントを共有させていた。
 最初は、電話番号もメールアドレスも、いっさい与えないつもりでいた。しかし、彼女が広告会社で働くようになって、連絡先がまったく存在しないという状況が、社会的信用のためにもよくないのだということがわかってきた。デザイナーはクライアントと接する仕事なのだから、当然、連絡先を付記した名刺を作らなければならない。ある程度社内でも幅を利かせられるようになれば、家に持ち帰って仕事をするということもあるだろうし、そうなれば遠隔でやり取りできるツールは必須になってくる。このような事情を鑑みて純子は、アカウントを自分に共有するということを条件に、はじめにメールアドレスを持たせることにしたのだった。
 彼女のアドレスに日々届くのは、会社のものと思われる、事務的なインドネシア語のメール、広告メール、それからよくわからないアラビア語の迷惑メール。人の息の感じられない、無機質な受信ボックスを眺めるのは、純子にとってほとんど日課のようになっていた。彼女の交友関係が非常に限られたものであること、それすら自分の監視下にあるということは、純子の不安と執着を慰撫し、十分な満足をもたらした。はじめは純子以外の誰のことも愛さない。純子だけを見つめ、純子だけにすがりつく。その事実を何度も何度も反芻し確かめてようやく、純子は安心して日常を過ごすことができるのだった。
 ——青八木さん、お元気ですか、
 だがこれはどうしたことだろう。純子は唇を強く噛み締める。犬歯が食い込んだために、唇の皮膚が破れ、滲み出した血液が顎を伝ってデスクへと滴った。
 ——俺は元気です、元気というか、すげえ元気というか、とにかく絶好調です、
 おそらく、このことを、ベッドで眠るはじめは知らないだろう。だから純子の燃えたぎるような怒りと嫉妬は、彼女には謂れもないのだが、理性ではそうとわかっていても、自らを抑えることができそうもない。デスクから探り当てたビニールの小袋を歯で齧り開け、白いカルシウム粉末を勢いよく呷る。
 徹底して口語調で、周りくどいが、飾り気のない正直な文体だった。それはかつて、学生時代の純子が、好ましく思っていた彼の印象とそのまま合致した。
 ——あのときはまだ若かったんで、言えなかったすけど、俺、あなたのことがずっと好きです。いまでも、どんな女の子を見ても、青八木さんはああだったなとか、考えてダメなんです。早く結婚しろって、みんなは言うけど、俺はまだぜんぜん待てます。いつ千葉に帰ってくるんですか。顔見せてくださいよ。そんで、また一緒に走りましょう……
 ほとんど反射で迷惑メールフォルダに叩き込み、椅子を跳ね除けて立ち上がった。スニーカーを履くこともそこそこに外廊下へ出て、怒りのためにぶるぶる震える指で携帯電話を操作する。歯軋りが止まらない。靴底がアルミの床を激しく打つ。
 公貴はほとんど半コールのうちに応答した。彼が何か言うより早く、
「おまえだな、はじめのアドレスを鏑木によこしたのは!」
 半狂乱で叫んだ。
「おいおい、穏やかじゃないな、どうした?」
「しらばっくれるな。あたしはおまえにしか、はじめのアドレスを教えてないんだ。それも緊急時の連絡のためだって何度も何度も何度も何度も何度も何度も言い含めたのに。それでおまえはうんと言っただろ。それなのに、なんで、日本から、鏑木がメールを送ってくるんだ!」
「純子、弁えろ。夜中だぞ」
 彼の声はあくまで鷹揚で、だからこそ、純子の憤慨はヒートアップする一方だった。
「そんなことはどうでもいい。言え。おまえだろう」
「そうさ、俺が、鏑木にはじめのアドレスを教えた」
「なんで!」
「なぜ? 教えてくださいと言われたからに決まってるだろ」
「おまえに限ってそれだけのわけないだろ。あたしは誰にも教えるなって言ったんだ。本当のことを言え、今、すぐに!」
「面白くなりそうだったから……と言えば、お前は満足するのか? まあ……フフ、そっちが本音と言えなくもないんだが」
「死ね!」
 へし折らんばかりに握りしめていた携帯電話を、階下に向けて力の限りに投げつけた。
 あまりの怒りに目が眩む。全身に静電気が立ち、内臓までがぐずぐずと煮立ってくるような思いだった。憤懣。憎悪。嫉妬。それらを一緒くたに煮詰めた鍋が、何の前触れもなく頭の上に落ちてきて、純子は脳味噌ごと押しつぶされる。苦しい。熱い。痛い。惨めだ。今度こそ、涙が溢れると思ったが、下瞼はからからに乾いて、本来の機能を果たすことすら困難だった。外気に触れ、急速に冷えてゆく自らの身体を抱きしめる純子の背に、聖別された天使の声が降ってきた。
「じゅんこ……?」
 はじめだった。
 目が覚めたとき、隣に純子がいないから、心配して探しにきたのだろう。つややかで痛々しい、まだ生まれおちて間もないみたいな裸の肉体に、毛布一つ巻きつけただけの格好で、玄関扉からこちらを覗いている。純子と目が合うと、飼い主を見つけた子犬のような表情で破顔した。純子の胸に目まぐるしくさまざまな思いが去来した。這うようにして駆け寄り、小さな身体をはがいじめにした。豊かな胸に頬を寄せる。心臓の上に耳をつける。拍動している。
「ねえはじめ、はじめはあたしのこと愛してる?」
 何も介在させたくはない。二人の間には皮膚ですら邪魔だ。
「? 愛してる。純子、大好き」
「あたしだけ? あたしだけを愛してる? どんな人間でもあたしを許せる? あたしと一つになってくれる?」
「純子どうしたの? 純子だけだよ、純子とずっと一緒だよ……」
「はじめ、はじめ、はじめ——」
「純子、大丈夫……ゆっくり息をして、そう……大丈夫……」

 万物は流転する。誰も、同じ川に二度と入ることはできない。
 二十五歳の純子は、十九歳の純子とは違う。
 十九歳のはじめは、十五歳のはじめとは違う。
 耐え難く思って純子は頭を抱え、ひとりうずくまっていた。せっかく、骨を砕き、皮膚をむしり、手のひらにピンを刺して留めおいたのに。ただ一人、純子だけのものにしたのに。捕らえた蝶は、標本箱の中にあってもたえず細胞分裂アポトーシスを繰り返し、いつのまにか、異質な存在へとすりかわっている。美しい肉体は美しいまま、純子の知らない果てへと去っていく、そんな空想に怯えた。
 看護師が純子を呼びにくる。事務的な口調で名前と年齢を確認すると、視線を軽く傾けて、診察室に入るように指示される。
 飾り気も何もないリノリウムの床、白い壁、消毒液のツンとした匂い、そっけなく置かれたアルミの丸椅子。いっそ病的なほどの静寂の中で、空調装置のファンだけが無機質な音を立てて回っている。医師は相変わらず無償髭を生やしたまま、やる気のなさそうな表情で純子を迎える。今日はどうしましたか?
「あの、もう耐えきれません。死にたいんです——」
 お薬増やしときますね、そう言って医師は、赤ボールペンで何かカルテに書き込んだ。

 エンマル・ジャパニーズ・レストランは、中央ジャカルタ近郊ではもっとも評判の良い日本料理店のひとつだ。もっとも、日本生まれ日本育ちの純日本人たる純子からしてみれば、この店のメニューに正統な日本食は一つもない。あるのは、アメリカの文化に多分な影響を受けたと見られるカリフォルニア・ロール、ナマズティラピアや鯉なんかを刺身にして、ごちゃごちゃと詰め込んだ海鮮丼、見た目は良いのに味がなんか違うラーメン、七輪のようなもので焼く鶏肉の焼き鳥もどき、ステーキ、インドネシアン・タフ、ケチャップ・マニスで味をつけた穴子のどんぶり……それでも、二人が文句を言わず常連をやっているのかと言ったら、日本食でないにしても、この店の料理が美味であるからだった。ほとんどミー・ゴレンだろうと笑ってしまいそうになる〈ヤキソバ〉も、口にすればそこそこおいしいし、刺身を食べれば、それがどんな種類の魚であろうとも日本を懐かしく思い出すことができる。そういうわけで、ちょっと良いものが食べたいと二人が合意したとき、足を向けるのはいつもこの店なのだった。
 プラザ・オフィスタワーの四十六階、ジャカルタの夜景を一望する贅沢なソファ席。はじめは、いつものTシャツ姿とはうって変わって、クバヤという青いビロードのブラウスに真珠のブローチをつけた出立ちで、清楚な美貌にはうっすらと化粧さえしていた。春の花びらを張り合わせたような唇には、いつか買い与えたロムアンドのリップグロス、薄青い瞼にはほのかにラメの入ったクリオのアイシャドウ、プチプライスで統一されているにも関わらず、向かい合う彼女の品格は決して打ち消されない。小麦色の長い髪を耳元でとめ、いっしょうけんめいラーメンを啜る美しい恋人を、純子は半ば夢見心地で眺めた。
 純子の視線に気がついたはじめが、龍とパンダが描かれたどんぶりから顔を上げ、上目遣いにこちらを伺う。純子は微笑するだけで返事に代え、自らも箸でステーキを口に運んだ。あまり味がしない。
「仕事、うまくいきそうなんだ。中国の……インドネシア大学で中国語を教えてるっていう先生が、デザインを見てくれて。今日、これなら多分大丈夫だって」
「そう、よかったじゃない」
「うん……」
 さっきからずっとそうだった。会話が、続かない。生来多弁のはずの純子がほとんど喋らず、無口なはじめが何か話そうと努め、結果、うまくいっていない。純子は、二人でいるあいだの沈黙を気まずいと感じたことはないが、はじめのほうはそうではないようだ。いたたまれないといった様子で、ラーメンスープの水面をじっと覗き込んでいる。
「あの、純子……元気ない?」
 気負うあまり、結局直球で切り出してしまうのは、いかにもはじめらしい。
「そんなことないわよ」
「でも……」
「……そうね、少し頭痛がするの。でもはじめが気にすることじゃないわ」
「言って、純子。わたしたち二人でひとつでしょ。純子が辛いなら、わたしも一緒に分け合いたい。そのためならなんでもする」
「なんでも?」