2023/09/27

 

 

 


 奥ゆかしく寡黙な割れ目に触れ、指でそっと左右に押し開くと、やはり、薄桃色の肉が忙しなく呼吸しているのだった。日照りの粘膜はしっとりと濡れ、まるでそれ自体が感じやすい生き物であるかのように、うねり、震えて、純太の指や、あるいはまた別のものが触れるのを今か今かと待ち構えている。
 そのとき、純太の魂をにわかに覆ったのは、欲情や期待といった、ありふれた感情ではなかった。失望、落胆、幻滅などという、身の程知らずで礼儀を欠いた感情でもない。裸の胸に、光速にもにた激情の矢が静かに突き通って、純太は、そう、安心したのだ。彼女がどこにでもいる普通の女だということに。愛を囁き、手を握ってやり、裸に剥いて感じやすい部分をいやらしく撫でてやれば、股が濡れてくるような生き物だっていうことに。

 

 当人たちにとっては、喜ばしい恋の一ページだったのだろうけど、鏑木一差には完全なフェータルエラーだった。
 申し訳なさそうに頭を下げた親友と、その隣で困った顔をする彼の恋人の前で、十九歳男性・大学一年生・住所不定の一差は、あろうことかごねて暴れた。題目としては、どうしてオレに相談しなかったんだ、おまえはオレより女の方が大事なのか、オレは明日からどこで住めばいいんだ、というところだった。冷静になってよく考えれば、上京してから三ヶ月、いまだに住むところを決めずだらだらと部屋に居座っていた一差が十割十分悪いのだが、親友は三人兄弟の長男で一差にもとことん甘かったし、彼の恋人は実に慎み深い性格だったので、誰もそのことに言及しないまま、三人揃ってまんじりともしない夜を過ごした。
 結局、折れたのは一差の方だった。頭が冷えてくるにつれ、二歳にも満たない子どもの頃から絶えることなく自分のわがままに付き合わされてきた親友を、哀れに思う気持ちが芽生えてきたのだった。親友が丹念にアイロンをかけた服、親友が綺麗に揃えて本棚に整えておいた教科書の類、親友が揃えてくれた生活必需品、冷蔵庫の中に入っていたおにぎりのパックを三つほどスーツケースにつめて、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら部屋を後にした。「幸せになってくれ、段竹」いっそ清々しいほどの被害者面で笑い、親友にひどい罪悪感を植え付けたのを最後に、一差は彼のアパートを出た。まではよかった。
「古賀さあん、オレ、今日から家無しなんすよ……どうしたらいいんすかね……」
 早朝の教室にはまだ、明け方の雨の匂いが濃厚にたちこめている。わずかに開けた窓の隙間から白い霧が漂ってきて、長机に突っ伏したままの一差の鼻先を甘くくすぐる。降水こそしていないが分厚い雨雲に面隠した空は灰色だ。そこから半透明の垂れ幕が落ちて、湘南台の街全体を仄暗く覆っている。前列に座り、昨日の小テストの採点をしていた古賀が、いつになく憂鬱なため息とともに赤ペンを置き、無言で窓を閉めた。「ホテルにでも泊まればいいんじゃないか」
「だからあ……お金ないんですよ、実家戻るのもアレだし……はあ、サイアクだな……」
「鏑木、お前、俺になんとかしてもらおうと思ってるだろ」
 鏑木を振り返り、堅物な黒縁眼鏡を押し上げて古賀がほくそ笑む。伏せた頭をこづかれるが、その手つきはどこか優しい。
 良い人だと思う。古賀公貴、三年生、入学式後の言語オリエンテーションの際に、大ホールで迷ったのを助けてもらってから、なんだかんだ世話になっている先輩のひとりだ。英語はおろか日本語すら若干あやしい感じの一差が、フランス語クラスでなんとかやっていけているのも、本校舎の自転車競技部に入部できたのも彼のおかげだ。その上で、もう一声だ、鏑木は椅子を激しく揺らして立ち上がった。
「なんとかしてください、古賀さん!」
「少しは自分でナントカする気概を見せたらどうだ」
「頼みますよ! もう古賀さんしか頼れる人いないんすよ!」
 傍らのスーツケースをばたばたと叩けば、教室前方にポツンと座っていた生真面目な同級生が驚いて振り返った。古賀はそんな一差を眼鏡越しに横目で見て、仕方ないとばかりに小さく肩をすくめる。手前の椅子にどかっと腰を下ろしたかと思うと、まあそう情けない顔をするな、と急に声色を和らげた。
「いいことを思いついた」
 ジャケットの懐から、黒に金の箔押しをした小さな箱を取り出しながら、視線を伏して言う。
「助けてくれるんすか!」
「いいから座って聞け。俺の家は北鎌倉の方にあるんだが、一つ空いている部屋がある。家賃なし、三食昼寝つき、その他大抵の家事は家の方でやってくれる。このキャンパスに通うにも自転車一つあれば十分事足りるし、天気が悪いなら俺が車を出してもいい。その部屋を、お前に貸してやる」
 もぞもぞと座位を正した鏑木の顔を眺めて、古賀は何かことありげに微笑した。平たい唇に咥えた煙草の先端に、左手のライターから火が移って、彼が息を吸うのに合わせて赤い光を帯びた。
「ただし、お前に三つの掟を課す。これを遵行しろ。できるか」
「はあ? ルールってことすか? 余裕すよ、オレ、高校んとき一回も校則破ったことないんで!」
 胸を張って威勢よく言い切れば、彼は言葉なく首肯し、背後の小テストの嵩から一枚取り出したのを裏返して鏑木の前に置いた。硬質な明朝体が白い紙面に澱みなく展開する。
 ・家の中で起きたことは口外しないこと
 ・余計なことはしないこと
 ・家人の協力要請には可能な範囲で応じること 以上
「ヨウセイって、掃除しろ〜料理手伝え〜みたいな感じのことですか?」
「まあ、そうだな」
「わっかりました! 任してください!」
「サインしてくれ、ここに」
 二つ返事でペンを取り、その文字列の下に大きく氏名を記入する。書き上がるとすぐに、古賀は紙面をスマートフォンのカメラ機能で撮影し、メッセージアプリを立ち上げて何方かへ送信した。裏返したのは鏑木に返却された。
「げ……」
 それは鏑木が昨日四苦八苦しながら埋めた、フランス語クラスの小テストだった。単語が一つかろうじて引っ掛かってるの以外は、赤ペンで大きくチェックをつけてあった。家探しもいいが、勉強ももっと頑張れよ、古賀がため息まじりにつぶやく。

 鎌倉市山之内の丘陵麓に立地する旧手嶋邸別邸、通称鶯吟邸は、江戸後期に建造された桟瓦葺きの民家だ。三方に巡る板張りの縁側に腰付き格子ガラス戸、太い梁や柱に支えられた三つの和室に土間、囲炉裏に作り付けの書棚と、江戸の庶民の暮らしを豊かに反映した和風建築だ。もとは二階建て構造で、練馬区の農家が住居としていたのを、京都の手嶋本家が買い取って移築し、ゲストハウスとして用いていた。それがなごって現在も、浅井に雇われた庭師が広大な庭園と家屋とを手入れしており、先年にはその明媚であることから市の景観重要建造物にも指定されたばかりである。古賀が住んでいるのは、その鶯吟邸の一室なのだという。
 運転席の古賀の、淡々とした解説をほとんど聞き流しながら、一差はドアウィンドウに張り付いて外を眺めていた。湘南台のキャンパスから南下して辻堂駅藤沢市街を通過して、いかめしい黒のメルセデスは県道二一号線に入っていた。モノレールの高架線をくぐり、北鎌倉駅の白い木造の駅舎を横目に過ぎれば、街並みもひとときに古都鎌倉らしい趣のあるものに様変わりする。円覚寺の背の高い黒松、まだ緑の葉のもみじの木、塗り壁に瓦葺きの山之内会館、長い石畳の東慶寺。住居やカフェ一つをとっても、どこか経年を感じさせる貫禄があった。
「住人は、俺以外にふたりいる。仲良くとは言わないがうまくやれ」
 唇に笑みを含んで古賀は、威嚇する動物のような顔つきで背を伸ばした鏑木を振り返る。「偏屈で癖のあるやつらだ」
「へ、変な人ってことすか」
「変……ではないかな。そういう意味ではお前の方がよっぽど変だ。ああ、はじめとは気が合うかもな」
「はじめ?」
「青八木一。女だ。いいやつだから、お前も気にいると思う」
「女がいるんすか!」
 にわかに慌て出した鏑木を、古賀は喉だけでくっくっと笑った。
 第三鎌倉道踏切を渡って、手前のT字路を左折する。道が悪くなり、座る鏑木も、窮屈そうに納まった彼の白いフェルトもガタガタ揺れる。少し進んだところをすぐに右折し、大きな銀杏の木を過ぎれば、ゆるやかな傾斜の道にさしかかった。鶯吟通りだ。左手には石で舗装された小川、カフェや住居に渡るための小さな橋がかかっているのが可愛らしい。右手には苔むして深緑色の崖、青竹やヤツデ、シダの類が、手前に向かって静かに首を垂れている。一分もしないうちに車は突き当たりの、竹と石で組んだだけの慎ましい門前に到着した。銅製の表札がかかっていなかったら、禅寺の表門かと思ったかもしれない。
「公貴、おかえり——」門扉をガラガラと開けて、Tシャツにハーフパンツを引っ掛けた格好の、きやすい感じの青年が出てきて二人を迎えた。「ああ、お前が例の」
「か、鏑木一差っす、えっと」
「手嶋だよ。手嶋純太。鏑木、降りてきて荷物出せ、こっから徒歩だから」
「ええ?」
 バックドアを開け、フェルトと一緒にひとまず降車する。外してあった前輪を取り付け、軽く前後させて挙動を確かめれば、おお、と手嶋が声を上げた。
「鏑木も自転車乗りなんだ」
「あ、はい、古賀さんとおんなじで」
「おい純太」
「はいはい——鏑木、俺んち車停めるとこないから、いつもパーキングに停めてんだ。公貴が行ってくれるらしいから、俺たちだけで先に行こう」
 一差の、オレンジのスーツケースを担ぎ上げて、手嶋が笑った。右に傾げた頭から、つややかなパーマヘアが波打ちながらこぼれた。女性的というわけではないが、腕も脚も痩せているし、所作にもどこか品格があるので、中性的で優美な雰囲気があった。そのままくるりと踵を返して扉の中に入ってゆこうとするので、一差も慌ててフェルトを抱え、その背中を追った。
 平たく舗装された白い石の道は終わりが見えないほど長い。ヤマモモ、サワグルミ、クヌギケヤキ、紅葉に蝋梅、さまざまな種類の木陰の中を縫うように進む。道に沿って植えられた紫陽花の木、その無数の手まり咲きが、極めて明媚だった。白や薄藤色もあったが、ほとんどが目の覚めるような青だった。狭い道にあってフェルトのホイールやハンドルが突っかかるたびに、装飾花が揺れてみずみずしい露が飛んだ。二人は長い石段を踏み締め、竹林庭園を抜けた。本邸までが無駄に長い、左腕で汗を拭いながら、一差は内心ため息をつく。
 葉ずれの音がさざ波のように寄せては返す。湿った風が一差の耳もとでつむじを巻く。一差は、ふと、生い茂る紫陽花の葉の群れ、剛健な木々の幹の向こうに、白い霧のかたまりのようなものを見た。脚を動かしながらもよく見つめればそれは一匹の白い雌鹿だった。菖蒲の花びらのような耳を伸ばし、可憐な桃色のはなづらをすっと西の方に向けて、静かに歩いていた。聡明そうな琥珀色の目が木漏れ日を呑んで光をたたえた。かと思えばそれは裸身の女だった。生まれおちて間のないような、つややかで痛々しいからだだった。黄金を漉いたみたいな髪、オパールセントガラスみたいな白い肌だった。繊細そうな細い脚が、地面につき立つみたいにしゃんと立っていた。
 息を飲み込むより先んじて白昼夢は終わった。後ろから追いかけてきた古賀が、「鏑木」、声をかけたからだ。
「何してる、ついたぞ」
 一差はおお、と思わず声をうわずらせた。武家屋敷というには粗末な桟瓦葺きの平屋だが、黒い漆塗りの壁や柱の重厚な雰囲気には気おされる感じがした。障子作りの玄関扉の手前、庇のある部分に、黒いキャノンデールが停まっている……手嶋のだろうか。前庭の開けた空間は芝生敷になっていて、ぽつぽつぽつと、渡って歩くための飛び石が置いてある。
「お前の部屋、裏から入るんだけど、先にこっちでお茶でも飲んでく?」
 扉のわきにスーツケースを置きながら、手嶋が尋ねる。一も二もなく頷いた。
「覚えてるか」一差からフェルトを取り上げてキャノンデールの隣に揃えて置き、たまさか、古賀が言った。「余計なことは言うなよ」
 産毛が立つような悪寒を、気のせいだと思った。だがその正体はすぐに知れた。引き戸を開けて土間に入った手嶋が、なんの前ぶりもなく、シャツを脱いだのである。言葉もなく硬直する一差を追い越した古賀も、なんでもないことのようにジャケットを脱ぎ、なんでもないことのようにスラックスを脱いだ。布連れの音が妙に冴えて聞こえて来る。冷たい血が足元から上ってくる感じがする。二人の男は、まるで靴を脱いで靴箱に揃えるみたいなくつろぎようで、下から上から裸になった。手嶋はすでに全裸だった。古賀は一つ肌着を残していたが、手嶋が背伸びして彼にキスして、そのまに慣れた手つきでそれを脱がせてプラスチックのかごに放った。
「おかえり、公貴」
「ただいま……純太」
「汗流したいんだろ、手伝ってやるから待ってな」
「ああ」
 ブロンズを思わせる、頑丈に張り詰めた美事な姿態に、小柄だが引き締まった鞭のような肉体が絡んだ。自転車乗りの剛健な身体だが、それでも古賀の長身の前にありながら、手嶋は力無い女のようだった。太い腕に抱かれて、手嶋はふたたびつま先立ちになり、古賀の唇を貪る。無理な姿勢に震える脚の間に古賀の膝が入る。無骨な指は手嶋の顎をさわり、肩甲骨をすべり、背骨の隆起を数えて脇腹にまわった。
「あっあ……あッ……」
「純太……」
「公貴……あと、あとで、な」手嶋の耳がらにかぶりついていた古賀が、はたと目をしばたかせた。皮膚を離れて彼の唇はつやつやと湿っていた。「俺、お茶淹れてくるから」
「いやいやいや、何やってんすか!」
「これがうちの家流なんだわ」白けた声で、古賀から身を離した手嶋が言う。
 唖然として立ち尽くす一差をあと目に、古賀は全裸のまま板敷きにあがり、縁側を渡って手前の和室に入った。手嶋はというと、自分の分の靴を几帳面に揃え、板敷きを叩いて一差にも家に上がるよう促した。
「俺たち愛し合ってるの。だからルールを決めた。そのうちの一つが、家では何も身につけないで過ごすこと」
「はあ……」
「悪いな、公貴が説明しないで連れてきたんだろ。ま、お前まで付き合う必要はないし、そのうち慣れるだろうし、大丈夫さ。公貴と一緒に手前の部屋で待ってな」