2023/06/07

 


 あんまり愛しすぎていた。幸福だったが、これ以上があってはならないと、シルバーはじゅうぶんすぎるほどに理解していた。
 夜天光ばかりがしんしんとものどもを薄青くする真夜中、シルバーの細腰にしがみつくような形で、彼の腕が覆いかかっている。彼の鼻先が身を起こすシルバーの裸の腹に押し付けられている。無垢な寝息が臍のあたりを湿らせる。シルバーはそうした様子をたまらない気持ちで眺めた。明日、シルバーは彼のもとから去り、永遠に帰ることはない。彼の消息すらわからない北の地平で、生きているか、あるいは死んでいるか、どちらともつかないが、とにかくもう二度と彼には会えない。今ではこんなにも近くに、熱く、たしかな血のめぐりを感じているというのに、明日になれば一様におとぎばなしの世界のものになる。ハインリヒは、王子が蛙に変身させられたさい、悲しみのあまり弾けてしまわないよう心臓に鉄の輪をはめたのだという。シルバーは、どうしてくれよう、この張り裂けんばかりの悲しみを、どうやり過ごせば良いものか?
 瞼を伏せ、静かに眠る彼の顔のつくりを人差し指でたしかめた。どこかラテン的な情緒のある彫りの深い骨格、高い鼻梁、唇はゆるく引き結ばれ、黒いまつ毛が頬に長く影を落としている。瞼の皮膚に触れてみると、彼は居心地悪そうに身じろいだ。そうして、ますますシルバーにしがみつくのだった。ああ、ゴールド。いとおしい人……離愁がシルバーの心に取り憑き、今しがた固めたばかりの決意を粉々に打ち砕いた。シルバーは頭を抱えてうずくまった。やはりだめだ。俺にはできない。翌朝九時きっかり、シルバーはシャフハウゼン行きの列車に乗ることになっているが、このまま彼の胸に顔を埋めて永遠に眠っていられたら……こんな思いをせずに済むというのに……今ならまだ戻ることができる、彼との美しい日々に、目が覚めたらもう十時過ぎ、彼はシルバーの髪を愛しみながら、お寝坊さんだな、そう言ってキスをしてくれるのだ。そうしたらシルバーは、その瞬間に死んでしまったとしてもよいのだ。
 ふいに、彼が仰向けに寝返りを打った。むにゃむにゃとなにか言っている、かと思えば、不自然なほどはっきりと、シルバー、このようにつぶやいた。
 その瞬間、シルバーは頭のてっぺんから爪先までを名も知れぬ感慨に打たれ、泣きたいような笑いたいような、ふしぎな気持ちに満たされた。そうだ、シルバーはひとりごちる。オレが行くのは、いたずらに一人になるためではない、彼を守るためなのだ! ばらばらになったかと思われた決意は再び一つになり、今や強固なものなってシルバーを支えた。手や足の先がほのかに熱を持ち、温められた涙が、涼しい目尻から音もなくこぼれた。シルバーはうっすらと微笑んだ。幸福だった。彼のために行くのだ。
 シルバーはふたたび彼を覗き込み、薄い瞼を閉じて、その繊細な唇でそっとくちづけた。皮膚を伝って流れ込んできた温もりのためにシルバーはまた涙を流した。主よ、子キリストよ、彼と、彼のためにゆく私を祝福してください。窓の外では雨が降りはじめ、外界と隔絶された静けさが、二人を蕭条と取り囲んだ。さよなら、胸の中だけで呟く。さよならいとおしい人、さよなら、さよなら、さよなら——

 

 少年には神も仏もいない。もし神がいるのならば、信心深い父をきっとお救いくださっただろう。ユーバーリンゲン駅、その小さく牧歌的なターミナルの一角に立ち、濡れ鴉のつややかな羽毛にも似た豊かな黒髪のこの少年は、憎くてどうしようもないとばかりにひとつ舌打ちをした。琥珀を丹念に削ってこしらえたような瞳は憎悪と疑念のために眇められ、ささくれひとつないやわらかな子どもの唇も、冷笑にひきつれてひどく歪んでいた。上等な黒のウールでできたショートパンツから覗く、春の若鹿を思わせるしなやかな脚、それから本革で誂えられたローファーの足先は、不調法な貧乏ゆすりに揺れ、また小麦色の煉瓦の道をさかんに叩く。
 少年はつい先日十四歳を迎えたばかり、ただでさえ思春期特有の臍曲がりを持て余していたが、長時間の移動が彼の不機嫌に拍車をかけた。ニューヨークからフランクフルトまで九時間、別の航空機に乗り換えて二時間、チューリヒからは各駅停車で四十分、ようやくドイツに入国したかと思えばそこからさらに一時間。苦心してたどり着いた町がニューヨークとは似ても似つかぬ田舎町だったものだから、彼はすっかり腹を立てていた。
 主よ、わからずやで怠け者の主よ、どうぞ一刻も早くご逝去あそばしてください。アーメン。
 とんでもない祈り文句を高らかに叫ぶ。どうせ英語の通じない田舎者ばかりだとたかを括っていたわけだが、すぐそばの停留所でバスを待っていた白衣の老司祭が、少年を振り返って眉を吊り上げた。後ろに付き従っていた修道女たちが何か小声で囁き合う。少年は悪びれもせず、あれは救いようのない愚かものだ、キャリーケースに小さな尻を預けて背から後ろに倒れた。神なんかいないんだ、そんなこともわからねえやつは愚かだ。
 午前九時きっかりに、大通りから逸れた黒いメルセデスがターミナルに滑り込んできた。左前の窓が開き、オレンジがかった赤毛を後ろに撫で付けた格好の青年が手を軽く上げて挨拶をした。少年が近づくと、彼は運転席から降りてきて重たいキャリーケースを軽々と持ち上げた。
「君がゴールドだね」トランクを片手で開けながら、流暢な英語で彼が尋ねる。
「……そっス」
「右に乗ってくれ」
 助手席に乗り込むと、バニラとトンカビーン、それからスパイスの香りが鼻腔をくすぐった。おそらく香水のにおいで、少年、ゴールドには大体どこの国のブランドのものかというところまでたやすく見当がついた。彼が戻ってきて運転席に座り、シートベルトを締めてエンジンをかけた。いまだにこちらを睨みつけている司祭を背後に、車は滑るように走り出す。避暑地として賑わう赤い屋根の市街地、ボーデン湖のほとりをすぎ、ちょっとした森のようなリッパーツロイター通りに出たところで、寡黙な彼は再び口を割った。
ヴュルテンベルクへはるばるようこそ。ジークフリートだ。<ruby>学園<rt>シューレ</rt></ruby>ではラテン語を教えている」
 ジークフリートは愛想のない感じの青年で、しゃべっている間一度たりともこちらに視線をやらなかったが、ゴールドもまたさらに田舎へと向かっているのに苛々していたので、さらにそっけなくあごを引いた。
「ども、ゴールドっス」
「知っているさ、ゴールド、十四歳、ニューヨークの名門アンダーソン中等学校二年生、だったのが暴力沙汰をおこして中退。うちの学園に転入することになったんだったな。一体何があったんだ」
 あまりにもあけすけな質問に、ゴールドは今度こそ衒いもなく顔を歪めた。
 昨年度六月、つまり三ヶ月ほど前、ゴールドは中等学校の同級生を立てなくなるまで殴りつけた。それまで彼は信心深い優等生として名を通していたから、この沙汰は少なからず周りを驚かせ、もっぱらの話題にされた。はじめは内輪で済ませるつもりだった学校側もこうまで話が広まると黙ってもいられなくなり、彼は半ば放校されるかたちでドイツに留学することになった。母親は黙って息子を送り出した。本人は少しも罪の意識を感じていなかったが、母親が責めも叱りもしないのがどうにも居心地よくなく、結果すっかり虫の居所を悪くしている、といった次第だった。いっそ激しく泣き罵倒された方がどれだけましだったことか。
 黙り込むゴールドを、大して気にした様子もなくジークフリートは、ホームセンター横の環状道路で進路を右にとった。車は、ぽつぽつと点在する農村、初秋を迎え今が盛りの田畑以外はめぼしいものもない、殺風景な山道に抜けた。やがて緩坂の向こうに、四つの尖塔を備えた赤い屋根の古城が見えてきた。 
「あれが俺たちの学園、シューレ・シュロス・ズィーリオスだ」
 ジークフリートが指を差すのにつられて、ゴールドもまた、身を乗り出してその城を眺めた。
 シューレ・シュロス・ズィーリオス、ズィーリオス城校は、かつてのバーデン公・マクシミリアン王子の支援を受けて開設された歴史ある<ruby>寄宿学校<rt>ギムナジウム</rt></ruby>だ。十五世紀ごろに落成したハイ・ゴシック様式のズィーリオス城でシトー派修道院と居を同じくし、その精神に従って、大学進学を控えた生徒に宗教・倫理ほか一般授業を展開するほか、神学校を志す生徒たちへの専門的な宗教教育も行っている。小学校から上級高等学校までの生徒がここに通い、十四歳のゴールドはグレード八、下級高等学校一年生にあたる。また、ほとんどの生徒がドイツ人だが、ゴールドのようなアメリカ出身者も多く、ほか、スイス、スペイン、フランス、中国、韓国、インド、オーストラリアなど、さまざまな国からの留学生を受け入れている。
 車は山道から整備されたトウヒ並木道に入り、やがて城の前広場で停止した。車を出ると、むせかえるような花の香りが、高原の風に乗ってゴールドの顔に吹き付けた。城の右脇に芍薬や薔薇で桃色一色になった庭園があり、植え込みの中を、金髪をポニーテールにした格好の修道女が熱心に手入れしている。美しいが、ゴールドにはどこかむずがゆく思われる。
 ジークフリートはトランクからキャリーケースを取り出し、車に鍵をかけるととっとと城の方へ歩き出した。ゴールドもその後について歩きながら周囲をキョロキョロと見回す。正面には巨大な薔薇窓を備えた煉瓦づくりのファザード、獅子像が支える正面玄関の尖頭アーチ。左右に均等に配置された三つ窓に、吹き放しになった柱廊。ここ一帯でよく見られる赤い屋根。美しく絢爛なこの棟は、おそらく修道院の礼拝堂だ。幼いころに通った近所の聖堂よりずっと大きい。その奥に同配色の校舎、二つの寮を備えた西塔・東塔に一際大きな北塔、四つの棟を連結する長い回廊。重厚感のある金の窓枠、空白恐怖に近い豊饒な装飾。学園と呼ぶにはあまりにも華麗すぎる城だが、そこかしこを歩くジャケットの生徒たちは気にする様子もない。
 二人は礼拝堂を避けて裏の校舎に向かう。警備員が二人、向かい合って守る正面玄関のマホガニー扉の前で、ジークフリートはふと立ち止まり、背後の少年を顧みた。彼はこちらに近づいてきてゴールドの胸元を見下ろした。
「赤のリボンはキリストの贖罪、神の愛を象徴する重要なものだ。いつでも整えていなさい」
 言いながら、乱れたリボンを結び直してくれた。ゴールドは途端につまらない気分になって、気のない返事をしながら脚の虫刺されを掻いた。

 校舎の左手から化粧漆喰の豪奢な長い回廊を渡り、堅牢な両開き扉から西塔に入ると、一人の男子生徒がロビーで待っていた。
 彼は黒のジャケットにスラックス、赤のリボンと、この学園では一般的な制服の着こなしかたをしていたが、その左胸には薔薇を模した金のバッジをつけていた。ジークフリートと、いい加減絢爛さに胃もたれしはじめたゴールドを迎えて、彼は丁寧に頭を下げた。ジークフリート先生、ごきげんよう、教師と生徒の間柄にしてはやや堅苦しいくらいの口調で挨拶をしてから、鋭い碧眼がゴールドにも向けられる。
「グリーン・オーク、四年生だ。パウロ館の寮監、生徒評議会議長を兼任している。ここからはお前の部屋までは俺が案内する」
「うす」
「伝統ある学園の生徒なら、背筋を伸ばし、はっきりとした声で返事をしろ。わかったな。先生、私たちはこれで失礼いたします」
「……ああ。ゴールド、またラテン語の授業で会おう」
 ゴールドはほとほと嫌気が差していた、杓子定規の優等生がまたひとり、暑苦しいったらありやしない。肩をすくめて適当に受け流すことにする。ジークフリートが苦笑しながら手を振り、二人の背中を見送った。
 パウロ館は五階建ての西塔全体のことで、主に一般生徒の寮として用いられている。一階にはロビー、二階から四階には寮部屋、五階には寮監室と、上級生のためのサロンが設けられている。中世の古城だ、エスカレータやエレベータの類はもちろん存在せず、ゴールドは長い螺旋階段を地道に登って五階までを踏破した。キャリーケースを抱えた状態でだ。最後の段を上がるころには、彼の足は木偶になっていた。グリーンはそんな彼を意に解すことなく廊下を進み、薔薇と天使を浮き彫りにした扉の前で立ち止まった。
「寮監室、俺と、副監のレッドが暮らしているのがここだ。館内で何かあればすぐに知らせに来るように」
 次に塔の中央に位置するサロンを訪れ、細々と説明したあと、再び四階に戻り、ようやくゴールドに自室を与えた。マスターキーで扉を開けてゴールドを通し、「入学式は十一時からだ。それまでに正装を整えて礼拝堂に来い」と言い置いて出ていった。
 グリーンに振り回され、ゴールドはすっかり疲れ果てていた。ひとまずどこかで休もうと部屋を見回し、これが二階建て構造になっていると知った。もともとは上下に配置されていたのを改装して繋げたのだろう、吹き抜けと木製の螺旋階段を介し、二つの部屋が繋がっている。中は上品な色合いの家具や壁紙で統一され、皆が集まる一階部分は石造りの暖炉を中心に生徒が憩えるよう上品なペルシャ絨毯が敷かれている。左手にはバスルームにつながる扉、右手階段下にはコンロを三つも備えた立派なキッチンと食器棚。天鵞絨の赤いカーテンに覆われた、ゴールドの身長の二倍ほどある高いアーチ窓からは、ズィーリオス城まで彼が車で上ってきた山道、田園地帯、ヴュルテンベルクの町、それから雄大なボーデン湖までを一望することができた。二階には、本棚や勉強机、クローゼット、それから簡素な天蓋付きのベッドが二つ置かれ、そのうちの左側のベッドの中に、誰かいるらしいこともわかってきた。
 ゴールドはひとまずもう片方のベッドに寄せてキャリーケースを置き、リボンを解きながら階下のバスルームに向かった。昨日の朝にニューヨークを立ってから一度もシャワーを浴びていないのだ。バスルームもまたシックな雰囲気で統一された美しいところだがゴールドは脇目も振らず服を脱ぎ、シャワールームに入って暑い湯を全身に浴びた。全身の汚れを落とし、ようやく人心地ついた気分になる。
 スラックスを履き、軽くシャツを羽織った格好でバスルームから出ると、さっきベッドに入って眠っていた同室の生徒が、パジャマのままキッチンに立っていた。髪を短く刈り、切り損ねたアホ毛を二本額の前に垂らした少年で、彼はゴールドに気づくと気の良さそうな笑顔で応じた。
「君がゴールドくんでやんすよね。おいらはジュリアン。会えて嬉しいよ、よろしく!」
 ジュリアン、というのは、ドイツではごくありふれた名前だし、彼の英語はいかにもな田舎なまりだった。ゴールドが名乗ると、彼はさらに顔を輝かせて握手を求めてきた。
「留学生が来るってことは聞いてたけど、君みたいな都会っぽい子とは思わなかったでやんす。ココア、作ったんだけど、ゴールドくん飲むでやんすか?」
「……、おう」
「ザクロもあるけど、入学式のあとはきっと豪華なご飯が待ってるだろうから、今日は我慢でやんすよ」
 彼がかき混ぜるコーラルピンクの小鍋から甘い香りが漂ってきて、ゴールドは思わず腹を慣らしていた。ジュリアンがにっこりする。
「もうすぐできるでやんすからね」
「それはいいけどよ、ジュリアン、着替えなくていいのかよ? 入学式十一時からだろ。もう十時半だぜ」
 ジュリアンははっと壁時計に目を写し、途端に慌て出した。鍋ほったらかしでドタドタと二階に上がるので、ゴールドはニヤニヤしながらコンロの火を消してやった。鍋の中身も一なめ拝借する。ミニマシュマロが大量に染みていることもあって、甘ったるいくらいに甘い。

 十一時二分、ゴールドとジュリアンが駆け込むころには、礼拝堂は静まり返ってすっかりミサの準備を整えていた。ミサというのはキリスト教の伝統的な典礼で、この学園では毎朝簡易的なものが実施されるほか、行事毎に大規模なものが執り行われるという話だった。聖書と聖歌集を抱え、二人して整列する黒衣の生徒たちの中に紛れ込んで礼拝用の長椅子に座る。正面に祭壇と採光窓を備えたドーム、ステンドグラス、天使や聖家族を模った雪花石膏装飾、左右に背の高い窓、背後には黄金に輝く巨大なオルガンが設置され、そこに例の金バッジの女生徒が現れて演奏台に座った。かの有名な讃美歌一九四番がオルガンによる音色と生徒たちの声楽で演奏される中、白衣にストールをかけた長身の司祭が入ってきた。ジュリアンも生徒たちと一緒になって歌っていたが、ゴールドは、歌詞もメロディも十分に記憶しているにも関わらず、黙ったまますまし顔の司祭の顔を眺めた。侍従の生徒が祭壇の左右に蝋燭を灯し、その中央に司祭が立って、式次第どおりの台詞を吐く。
「父と子と聖霊のみ名によって」
 これに報いて生徒たちが、アーメン、と合唱し、祭典はつつがなく始まった。自らの罪を告白し悔い改めるための〈回心の祈り〉、神からの赦しをこう〈いつくしみの讃歌〉を、ゴールドは寝て過ごし、何度もジュリアンにつつかれた。赦しを得たことに対する喜びをうたう〈栄光の讃歌〉に差しかかるころには、寝言を言って周囲に睨まれるありさまだった。
 様子が変わったのは、〈ことばの典礼〉に入り、聖書朗読が行われる段に入ったときのことだった。生徒たちがにわかにざわつきはじめたのだ。ゴールドも寝入りながらもそれに気づき、薄目を開けて祭壇の方を見やった。天使のものを模した白いお仕着せを着た、小柄な生徒が一人、朗読台に上がったところだった。彼は意味ありげな眼差しを生徒たちに投げかけると、赤いサテンで装丁された大判の聖書を開いて声を張った。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いを愛し合いなさい」
 別段、その生徒が特別だとか、朗読の内容が際立っていたとか、そういうわけではない。彼はどこにでもいる生徒だったし、福音はヨハネによる福音十五章、こうした場ではごくありふれたものだった。しかしゴールドは目を開けた状態で再び閉じることができなかった。
「……これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
 彼が美しかったからだ。遠目から見ても際立つ白い肌、蝋燭の光を反射して艶やかに肩へ流れる赤毛。瞳は天の金属の銀にきらめき、豊頰は神の言葉をたどる喜びに薔薇色に上気して、唇は花びらを張り合わせたかのように繊細で、薄い。ときおり覗く舌が熟れた果実のように赤い。耳や手指など、そのほかのパーツもまるで人形の部品のように小さくてかわいらしかった。また、彼の声にも、聞く者を陶然とさせる力があった。朗々と響くようで、それでいて時折訪れる甘く柔らかい吐息が耳の奥をくすぐる。少年でありながら少女の幽眇ささえ感じさせる、まるで神話から抜け出てきたかのような、麗しい生徒だった。
 ゴールドはぼんやりとした意識のままその姿に見入り、その声に聞き入った。彼が聖書をめくる音さえ耳に心地よかった。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」
 朗読を終えて、彼は自分の額、口、胸に十字架のしるしをした。それからふと顔を上げ、そこでゴールドは彼と目が合った。
 一瞬だった。ほんの少し、まばたきをする程度の時間。それでも、彼は確かに微笑んだ、ゴールドに向かって。……そのように思われた。ゴールドが正気にかえるのを待たず、彼はくるりと背を向けて朗読台から降りてしまった。
 生徒たちは再び嘘のように静まり返り、祭儀もまた何事もなかったように続いたが、ゴールドはの後も、その笑みの意味を考えた。彼は誰で、なぜ自分に微笑みかけたのか。そして自分は、どうしてこれほどまでに心惹かれているのだろうか。そう、ゴールドはひどく彼に求心していた。特別仲の良い友人がいたわけでもなければ恋もしたことがないゴールドにとって、こんな気持ちははじめてだった。司教の説教のあいだも、キリストが最後の晩餐でパンと葡萄酒を弟子に配ったことを祝福する、ミサで最も重要な儀式〈感謝の典礼〉のあいだも、ゴールドの頭はあの少年のことでいっぱいだった。
 ただし、ゴールドは切り替えの早い男だった。ミサが終わり、食堂に移動するまでは少年のことばかり考えていたが、テーブルについて、食事が運ばれてきた途端に忘れた。仔牛の揚げ焼きシュニッツェル、肉団子スープにも似たレバークネーデル・ズッペ、それから白やオリーブ色の珍しいソーセージ。小麦パン、プレッツェル、アップルパイの親戚アプフェルシュトゥルーデル。大皿から各自好きなだけ取り分けるビュッフェ形式だったのが、そのテーブルのほとんどをゴールドが平らげてしまい、同卓の生徒たちは仕方なく他のテーブルに応援を要請しに行くのだった。
「ゴールドくんてば食いしん坊でやんすねえ」ジュリアンが苦笑する。
「仕方ねえだろ、昨日の夜から何も食べてねんだ」
「ほどほどにするでやんすよ」
 シュトーレンを両手に掴んで頬張りながら、ゴールドはふと、さっきの少年の姿を食堂の隅に捉えた。彼は一人で、柘榴の実をちまちまと口に入れていた。
「あいつ。あの派手な赤毛のやつ、誰?」
 尋ねられてジュリアンは言い淀んだ。「シルバーくんでやんす」ぼそぼそと、秘密の話をするときの小声でゴールドに耳打ちする。
「ペテロ館生で、中等学校からの内部進学組でやんすよ。ここじゃ結構有名でやんす。顔が綺麗だから、初等学校のころはフロイラインって呼ばれて、周りからチヤホヤされて……でもあまりいい噂はないみたいで」
「女か?」
「いや、男の子でやんす」
「ふーん……」
 ペテロ館は、パウロ館と対をなす男子寮で、神学校への進学を志す生徒たちの寮だ。パウロ館と比べて厳格なものが多く(それにしてもグリーンよりひどいのはいない、とそのときのゴールドは思っていた)授業内容も宗教科目に特化してハイレベルである。つまり、あの少年、シルバーもまた、司祭になることをを志して学園に通っているというわけだ。ゴールドはにわかに彼に対する興味を失った。彼は、神とかいうないものを信仰して、ないもののために人生を捧げようとしているのだ。とんでもない愚か者だ。ユーバーリンゲンにいた目つきの悪い老人と同質のものだ。
 食事を終えたあとは寮ごとに分かれて各教室に散り、天井のフレスコ画に描かれた幼いキリストと聖母マリアに見下ろされながら、ジュリアンを含めた同級生たちの自己紹介を聞いた。ゴールドが展開したニューヨークやマンハッタンの話は、ドイツから出たことのない箱入りの少年たちを大いに喜ばせた。

 入学式後の授業をひと通り終えて夜、ゴールドは……迷っていた。
 学園の北にバレーボールコートがあるというので見に行き、雨晒しの空き地が広がっているばかりだったのにがっかりした帰り、庭園に迷い込んで出られなくなったのだ。庭園はラビリントとあだなされるほど入り組んだもので、その複雑さたるや、庭図なしではたとえ四年生でもたやすく出られないほどだった。
 赤や黄色のシンビジュームにステルンベルギア、リコリス金木犀、ブーケンビリアは金属のアーチやアイアンフェンスに蔓を巻き、レースフラワーは小さく可憐な白い花をいっぱいに咲かせている。鉢に寄せて植えてあるのはサフラン、ダリア、水を溜めた瓶の中で八重咲きになっているのが睡蓮。小さく実をつけているのはシュウメイギク。桃色やオレンジ、青、紫など、さまざまな色どりを見せるのはプリムラ。秋薔薇やサルビアの大ぶりな花房がこちらに垂れかかり、先へ進もうとするゴールドの行手を阻む。
 薄暮の中、茂るミナ・ロバータの花穂をかき分けながら彼は焦った。このままでは一生寮に戻れないどころか、母国アメリカに帰って母の顔を見ることもままならないと考えたのだ。そういうわけで、背後から声をかけられたとき、彼は天の助けとばかりに喜んだ。振り返ったところに立っていたのは、朝方庭園の清掃をしていたポニーテールの修道女だった。ヴェールをしていないから、正確には修道女の要件を満たさない見習いといったところか。
「どうかしたんですか?」
 棕櫚ぼうきを握ったまま、首を傾げて彼女が言う。ゴールドは自他共に認める女好きだが、目の前の少女はまだ幼く、彼の守備範囲を大きく外していたので、彼はいっそすぎるほど冷静にそれに報いた。
「迷っちまった。ここから出たいんだが」
「それは大変ですね、よければご案内しましょうか」
「頼む」
 彼女はイエローと名乗った。ゴールドの一つ年上、十五歳で、学園に在籍していれば下級高等学校の二年にあたる。ナーゴルト川に沿って繁栄するカルプという街の出身である。両親は他界したがとおつ年上の叔父がいて、ともども釣りが好きである。こちらは名乗りもしていないのに、こんなにも個人情報を開示して良いものかと他人事ながら不安になるゴールドだったが、彼の肩より少し低い位置で柔らかく口角を上げるイエローを見ていると、そんなことはどうってことないように感じられるのがふしぎだった。
 彼女の手引きで天然の迷路を歩き回って、どうにか庭園を抜けたゴールドだったが、そこからが問題だった。彼女は庭園からゴールドを連れ出しはしたが、出たのは校舎のある西方角ではなく、さらに離れた南方角だった。おまけにイエローは、良いことをしたとすっかり満足し、ではボクはこれで、と引き止める間も無く庭園の中に戻って行ってしまった。今から彼女を追って引き返しても、また迷うのが関の山だ。ゴールドは右も左も分からぬ場所に放り出されたといったところだった。あたりを見回し、ふと行手に光があるのを見つけて、彼は仕方なしにそちらへ歩いて行くことにした。誰か人がいるのなら、校舎の方角くらいは教えてくれるだろう。
 すっかり日が落ちて、暗い紺色に帷を降ろした空に、満月がそこだけ穴を開けたみたいにポッカリと浮かんでいる。名も知れぬ虫の鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。湿った草を踏み分け進むにつれ光は次第に周囲の詳細までを見せるようになり、そこに建っているのが小さな聖堂だということまでわかってきた。昼間の礼拝堂より幾分か背が低く小規模で、装飾も少ない。両開き式の扉を挟んで向かい合う聖母マリアマグダラのマリアのステンドグラスから、色とりどりの光がポーチから階段へかけてを明るく照らしている。
 彼は半ば駆け足になってポーチをのぼり、扉に張り付いた。鍵はかかっていなかった。押せば扉は簡単に開き、煤と少しばかりの黴のにおいが彼を聖域に迎え入れた。中は静かだった。高い天井に奥まった空間、赤く長い絨毯が足元から祭壇の方まで長く続いている。のっぺらぼうの聖人の行列を描いたステンドグラスを通して弱々しい光が射し込んできているが、祭壇の蝋燭を除いて近代的な照明を持たない石の教会のなかは暗く、美しい黒に支配されている。そう、蝋燭が灯されているのだ。実を乗り出して中を覗き込む彼の目は、祭壇の前でひざまづく人影をはっきりと捉えていた。肩甲骨までを流れる、目が覚めるような赤い髪。生白い手足。黒いジャケットにスラックス。細い指をしっかと組んで祈っている。シルバーだった。ゴールドは息をのんだ。さながら、ヤコブの息子、敬虔な少年ヨセフが、自らを地獄に突き落とした兄たちのために祈っているかのようなきよらかさだった。
 ゴールドの足音を鋭敏に察知し、シルバーが振り向いた。暗がりのなかで彼の銀の瞳ばかりが奇しく輝いた。ローファーの足が近づいてくるもゴールドは動けなかった。祭壇の、左の蝋燭が消えて灰紫の煙が上がった。シルバーが近づいてくる。鼻先がふれあうほど近づいてようやく、彼がゴールドと同じくらいの背丈であることが知れた。遠目で見るよりも、彼がはるかに美しい少年であることが知れた。だがそのことこそ、今は恐ろしい。ヴェールを被った女神の石膏像を思わせる、ミステリアス、美と年嵩の不均衡、神話的な敢え無さ。ゴールドの胸に沸き起こる畏れと陶酔。彼の繊細な唇に、かの微笑がふたたび蓄えられた。かと思えば、ふいに彼が爪先立ちになり、ゴールドの肩にやさしく触れて——その唇、糸でくくったような小さな唇、みずみずしい桃の果実の色をした唇が、ゴールドの唇へと軽く触れていた。
 キスをされた。それも、唇にだ。女の子にさえ許したことなどなかったのに!
「何すんだ——」半ば放心状態のまま、ゴールドは薄い胸に手をついて彼を離した。「てめえ、ホモかよ!」
 彼は何も言わないまま、事態が想定と大きく外れていることにようやく検討がついた様子で目を眇めた。細い指が自身の顎に触る。それから、
「おまえ、オレに朝手紙をよこしただろう」
「人違いだ!」
「それは……悪かったな……だがそういうことであればとっとと出ていけ。面倒なことになる」
 ゴールドは、扉の方へ身体を押し返そうとする彼に喚き散らして反抗したが、ふと扉の向こうで靴底が石段を踏む音を聞いて動きを止めた。シルバーもまた同様にその音を知覚したようだ。顔色を変えると、ゴールドの隙をついて口を塞ぎ、祭壇の方へ戻って、裏側の、中に落ち窪んだ空洞へと押し込んだ。なおも声を上げようとするのを人差し指だけで押し止められる。
「しっ、静かにしろ。頼むから」
 シルバーの懇願にゴールドがしぶしぶ肯んじたとき、扉が開いて、誰かが聖堂の中に入ってきた。彼は何事もなかったように踵を返してその誰かを迎えた。
「君がシルバー?」どうやら男だ。声が若いので学園の生徒だろうとたやすく見当がついた。
「はい」
 しおらしく低めた声が静かに応答する。
 ゴールドはつとめて音を立てずに顔だけを祭壇の外に出し、話し声のする方をうかがった。長身の男子生徒が、シルバーの細い腰を抱き、その顎を掬ってキスをするところだった。叫び声を上げなかっただけゴールドは利口者だ。事情はすぐに知れた。男女交際を厳格に禁じられた学園で、シルバー、この美しく寡黙な少年は男めかけのように立ち回り、年長の学生の慰みになっているのだ。
 男子生徒にジャケットを脱がされ、シャツの中に手を入れられて、シルバーはあえやかな吐息をつく。悩ましく寄るまゆ、うっとりと閉じた瞼、切なげに引き結ばれた口角。まるで恋をしているかのような。しかし、シルバーの表情にはどこかしら作り物めいたところがあった。あの、微笑と同じ匂いのするものだ。
 彼は自ら絨毯の上に膝をついて、男子生徒のスラックスの前を開けた。慣れた仕草で顔をうずめる。男子生徒は、その様を見て、興奮している。清廉潔白で品行方正の<ruby>美少年<rt>フロイライン</rt></ruby>が、奴隷のようにひざまづいて服従している。ゴールドは吐き気をもよおした。また実際、胃酸が喉のあたりまで迫り上がってきたのをなんとかとどめた。「君みたいな子が……いけないな。でも、かわいいね……」
 そのときゴールドの胸に沸き起こったのは怒りだった。それとわずかばかりの嫉妬、得体の知れないモヤモヤとした感情。彼はわざと音を立てて、しかし所在を知られぬよう身をかがめた姿勢で祭壇を出、クワイヤを通って裏口から聖堂を出た。
「誰かいるのかい?」
「さあ……ネズミでも忍び込んだのじゃないですか」
 扉ごしにそうした会話が聞こえてくるのも、ことさらにゴールドを不快にした。