2024/02/06

 


 背中から、公貴の手のひらの重みがふっと離れていく。彼はサイドテーブルの固定電話脇に置かれていた、ホテルのロゴの入ったメモ用紙を一枚切り取って、ボールペンで何か書き付けたのをはじめによこした。〇六からはじまり、以後二桁ずつ区切って表記された数字はフランス式の携帯電話番号だ。
 まあ、今夜はゆっくり休め、それだけ言い残して、彼ははじめのそばを離れた。その背中を呆然と見送るはじめだったが、おもむろに身体を捻り、固定電話へと重たい腕を伸ばした。青い筆跡をなぞる爪先がひどく凍えていた。国コード、三十三からダイヤルを押し込み、受話器をとる。明るく快活な声が応答するのに三コールもかからない。
「もしもし……わたしだ、青八木一。いま何してる? ……いや、公貴が、おまえの番号を教えてくれたから、ためしにかけてみただけ。それだけ……ほんとうにそれだけなんだ……」

 一日分の下着に生活必需品、チョコレートのかかったスナックピーナッツ、パスポートだけが入ったリュックサックと、ジミーチュウの巨大なショッパーを両腕に抱えたまま、後部座席の窓に額を押し付けていた。スカルノハッタ国際空港を出てからもう三十分近くそうしていた。中央ジャカルタに向かう大通りはひどく混雑し、自家用車やトラック、バスにアンコタ、オートバイなどが押し合いへし合いしている。各々が無遠慮に吐き出す排気ガスのために一時的に空気が澱み、道の向こうは白く霞んでよく見えない。一日と十二時間ぶりに眺めるジャカルタの街並みは、手垢に塗れた、猥雑なもののように、はじめには思われた。道路脇に植えられたプルメリアの灌木、白い花が茶色くなって枯れていた。
「あの人にいじめられたのね」
 マリーナベイ・サンズを出てからシンガポールを出国するまで、身重のはじめを慮って、公貴の細君が付き添ってくれていた。よほどひどい顔をしていたのだろう、クライスラーの無駄に広い車内で、並んで腰掛けていたとき彼女はそのようなことを言った。
「顔色が悪いわ。それに、この一日で少しやつれたみたい」
 木綿のハンカチで、冷や汗に濡れた首を優しく拭われる。穏やかで理知的な目が、はじめを慈しみ深く、見ていた。
「あの人の言うことを、間に受けてはいけませんよ。ほら、理にかなっているということが、かならずしも正解とは限らないでしょう? あの人がどう言おうとも、あなたの人生はあなたが選択するべきだわ」
「……公貴の言うことは正しい。わたしにも純子にも、子どもを育てるだけの能力はない。何か手を打つか、全てを諦めるかしなければ、わたしたちに未来はない」
「一人きりの腕の中に、たくさんのものを抱え込んでいるのですね。でも、ねえ、はじめさん、ひとつひとつ向き合わなければ、見えるものも見えないことだってありますよ。時間が必要です。純子さんと、会っておはなしなさい」
「純子と……」
「バリに行くのがいいと、以前、彼女に提案したことがあります。あなたにも同じことを思うわ。二人で旅行でもしたらどう。そうね、新しくてかっこいい車をレンタルして、ジャカルタから東へ、何日かかけてドライブするの。バリ本島へは、パニュワンギの街からフェリーが出ていますから、そこで車を降りて、二人で海を渡るのよ。素敵でしょう?」
 白昼夢の中で、彼女の上品な笑い声が、しばらく、寄せては返す波のように響いていた。タクシーが道路脇で停止する、そのブレーキ音で、はじめはふいに現実へと揺り戻される。メーターを止めた運転手に十万ルピア札を支払い、お釣り代わりのキャンディを受け取って、後部座席から外に出る。雨季特有の重く湿った風が、長く伸びた前髪をくすぐる。三角柱形の、青いガラス張りのビル、まるでホテルのエントランスのような、立派な正面玄関からロビーへと立ち入る。受付で在留カードを見せ、七階A病棟、ジュンコ・テシマとの面会希望の旨を伝えると、受付嬢がそっけない手つきで面会許可証を手渡してくる。エスカレーターから一度二階に上がり、すぐ右手側のエレベーターに乗り込んで七階のボタンを押す。つかのまの浮遊感。
 ほとんど一週間ぶりに、はじめは、この薄暗く陰気臭い精神科病棟に戻ってきた。いつものように、ナースステーション右の通路に入り、よく磨かれたリノリウム床を踏み締めて、純子の眠る病室をめざした。スニーカーの足は、いつしか走り出していた。患者の独り言、叫び声、心理療法師が患者を落ち着かせようと語る声、拳で壁をしきりに叩く音、神経質にカチャカチャと金具を鳴らす音、監視装置のピープ音、みな意識の外にあった。果たして、純子は覚醒状態にあった。まるで示し合わせたかのようなタイミングだ。看護師が、投与を終えた輸液バッグをとり外し、新しい鎮静剤を投与しようとする、まさにそのときだった。
「純子!」
 リュックもショッパーも床へ放り出し、半ば押しのけるようにして看護師の脇を抜け、投げ出した腕を漫然と眺めていた純子の身体を、思い切り抱きしめた。全身の肉という肉が落ち切って、干物のようになった身体からは、それでも快いふくよかな香りがした。
「…………はじめ?」
「純子、純子、純子!」
「どうしたの、はじめ? 何があったの?」
 ジャワ訛りのインドネシア語で、太った女看護師が何か言ったが、構わなかった。薄い肩に額を押し付けて擦り、ふたたび顔を上げて、状況を飲み込めない様子でぱちぱちと瞬きを繰り返す純子の顔を見た。伏した下睫毛が、肉のそげた頬へとけだるく重たい影を落としていた。
「純子、おはよう。調子はどう?」
 伸び切って、額の辺りでくるくると渦巻いている黒髪を、耳の方へそっと避けてやる。
「え……ふつう、かな……? というか、あたし、なんでこんなところにいるんだっけ?」
「細かいことは気にしないで。ここを出よう。看護師さん(ラワット)、この人、今日付けで退院させてください。純子、シャワーを浴びて、服を着替えてきて。荷物はわたしが支度してくるから」
「ずいぶん急ね。どこか行きたいところでもあるの?」
「うん」
 カーテンを開けると、すがすがしい朝の光が、埃っぽい病室の隅々までを白く浮かび上がらせた。純子が眩しそうに目をすがめ、額の上に骨っぽい手のひらをかざした。
「わたしも、仕事辞めてきたから。旅に出よう。バリに行こう」

 純子が、半ば押し切るような形で退院の手続きをしているあいだ、一度コストの自室に戻って旅支度をする。
 部屋は、相変わらず埃っぽくじめついていたが、かんぬきを引き抜いて窓を開ければ、白昼の光とともに強い風が吹き入ってきて床の埃を舞い上がらせた。箪笥から、二人で着まわしている定番のTシャツ、大きくエクスクラメーションマークの入ったものから、やたら高額だったトミーヒルフィガーのもの、子猫が三匹団子になったイラストの入ったもの、いちごオレの描かれたもの、判読不能の中国語が大きくプリントされたもの、男の子が三人で線路の上を歩く写真入りのもの、青い蝶が全面に飛んでいるものなどを一度に出して、無難なものから順に三つほど畳んで右に避けておく。ショートパンツは三種類、デニムと、黒と白がそれぞれ一つずつ、それから薄手のワンピース、靴はいつものスニーカー、サンダルも二セット、下着類、純子はおしゃれなセットのもの、はじめにはユニクロのスポーツ下着、薄手の靴下、サングラス、生理用品に基礎化粧品。すでに床は物に溢れて足の踏み場もなかったが、おしゃれな純子を見たくて、ラインナップにクリスタルを散りばめたディオールのショートドレスと、ジミーチュウのパンプスも追加する。
 体重をかけてなんとかスーツケースに全てを収めたら、シャワーを浴び、軽く髪を拭きながら今日のスタイルについて検討する。腹や肩口にアイレット刺繍の入った、白いレースワンピース……胸が突っかかって、ウエストが太く見えるので却下。大きな花柄が散りばめられたオールオーバーのドレス……柄が古臭いので却下。Vネックやスリットから肌が大きく露出するタイプの、バタフライスリーブ・ワンピース……いささか大胆すぎないかと思わないわけでもなかったが、はじめが大胆であればあるほど純子も喜ぶのだということを思いだし、思い切った選択に踏み込んだ。青いボヘミアン風のパターンに合わせて、編み上げのサンダルに、つばの広い麦わら帽子を選んだ。鏡の前で一回転、胸を強調するような扇情的なポーズをとってみる。恥ずかしい。しばらく扉の前でウロウロしていたが、意を決して、スーツケースを片手に家を飛び出した。
 午前九時半、ホスピタルの正面玄関に現れた純子は、まずはじめの開放的なスタイルを見、続いて彼女の操る車を見て、拍子抜けしたみたいな、素っ頓狂な声をあげた。
「なにこれ!」
「借りた。これで、ジャワの東まで行くの」
 平たいカーブを描くボンネットに開放的なコンバーチブル、強い日差しにつやつやと光を帯びる赤いボディ、はじめがレンタルショップで借りてきたのは、往年の名車、マツダロードスターだった。
「借りたって、あんた、こんな良い車……」
「純子、前、オープンカー乗ってみたいって言ってたから」
「それは、そうだけど」
「荷物後ろに入れて、乗って。まず買い物に行く」
 口を半開きにしたまま、トランクに少量の荷物を詰め込む純子を傍目にはじめは、カーオーディオに入っていたプレイリストを適当に再生した。インドネシアでも、日本でもない、どこか異国のラブソングをハスキーな女の声が歌った。ジャカルタから隣島にあたるバリ島まで、一二〇〇キロ、目的地以外さだかでない、およそ正気とは思えぬ旅だが、はじめにはなぜだか不可能ではないという確信があった。ここからひたすら東へと向かい、五百キロほどで中部ジャワ、スマランという街に到着する。そこからしばらく南下、緩やかな山道に入り、いつか二人で行ったボロブドゥールにほど近い、スラカルタ町を経由、ふたたび東へ向かってスラバヤ、パニュワンギ、港からフェリーに乗れば、一時間もしないうちにバリへと上陸できる。ウブドゥ、クタ、最南のワルワトゥ、さらに東のロンボク島、どこへ行ったって良い。純子と一緒なのだから。
 インドマレットに立ち寄って、スナック菓子を大量に買い込んだ。朝食を食いっぱぐれたという純子には、アヤムゴレンが六ピースと、ストロベリーチョコレートのドーナツ、クロワッサン、それからバナナひと房が、はじめからプレゼントされた。
「あたし、こんなに食べられない」文句を言いながらも、ホスピタルでの点滴生活ですっかり小さくなってしまった胃に、一生懸命栄養を詰め込もうと頬を膨らませる彼女は可愛かった。
 買い物を終え、ふたたびジャカルタ市外に出て、テレコム・ランドマーク・タワー付近のジャンクションから有料道路に入った。青いセンサーにEマネーカードを触れさせると、電光掲示板に赤く、一万ルピアの表示が出て、左右のゲートが上に跳ね上がった。思いのままにスピードを上げる。時速六十キロを超え、二人の長い髪は風の中に鳥の羽のように舞い上がる。
「だんだん、思い出してきた。あたし、暴れたのよ、あんたの前で……」
 フロントドアの淵に腕をかけ、バナナを齧りながら、ぎこちなく硬質な声で純子がポツリと言った。「ひどいこと言ったわね」
「いい。気にしてない」
「うそつき」
「……本当は、ちょっと気にしてるけど、でも純子のこと、わたしが一番よく知ってるから。わたしがわからないことは、純子にだってわからなくて仕方がないと思う」
「あんたのこと、愛してないって言ったのよ?」
 黒曜石色の美しい巻毛が耳横から流れて、純子の物憂げな顔、マリアのような目顔の形や、ビーナスのような伏目を隠した。リップを塗った赤い唇ばかりが、やりにくそうに言葉を紡ぐ。
「愛してるかどうかはわからないけど、大好きでしょ、純子、わたしのこと」
「どうしてそう思うの」
「エッチのとき、純子、いつもわたしのこと大好きって言うから」
「ああ……そういうこと……」
「それに、純子たまに、はじめがいないと死んじゃう、どこにも行かないで、っていう目をするの。かわいくて好き。わたしには、友情と愛情の違いとか、好きと愛してるの違いとか、よくわからないから、それでいい」
 市街地を一般道と並走し、チャワング・インターチェンジを通過したあたりで、周囲の景色は一変する。棕櫚やパームラジャなどの樹木林、百日紅、赤い飾り屋根の村が点在する中に、要塞のような形の工場が散見される。周囲からオートバイがほとんどいなくなった代わりに、長距離輸送のためのトラックや石油を運ぶタンクローリー、観光バス、自家用車が増え、制限速度も一度に跳ね上がる。それ自体が、家一軒分ほどもある巨大な広告看板、群がる子供達の写真に、英語で〈未来のために〉との付記がなされ、貧困層の子供への寄付を呼びかけている。
「あたしのこと、簡単に許せちゃうのね」
「許す、許さないの話じゃない。ぜんぶ純子が好きだからだよ」
「はじめは、あたしのことまだ愛してるの?」
「もちろん。純子、愛してる」
「取り返しのつかないことをしたと思ってるわ。処女のあんたを、無理やり男に抱かせたり、ひどい言葉を浴びせたりした。あたしがあんた以外の男と関係を持っていたことだって、もう知ってるでしょうね。それでもあんたの、あたしへの気持ちは変わらないの」
「うん」
「あんたってバカね」流れる髪の向こうで、寂しく眇めた目が瞬く。「いつか痛い目を見るわ、きっとそうよ……」
 金のドームを三つ戴いた、立派なドームの左横を時速百キロで通過する。二人のロードスターは今、ジャカルタ市街を出、西ジャワ州へと突入した。

 ヤシばたけを背景に広がる緑の棚田、静かに泥をたたえた沼、そこで腰を屈めて米を収穫する人々、枝を抱えて、畦道の悪路をバイクで走る人、たなびく白や黒の旗、インベーダーゲームのモンスターみたいな形の電信柱、オレンジの瓦葺きの小屋、風の形に靡いた棕櫚、彼方に見える山嶺は浅い藤色に染まって美しい。乾いたコンクリートの高速道路は彼方まで続く。純子は、素足を横に組んで、腕をフロントドアにかけた姿勢でぼんやりと向こうを眺めている。
 足下のゴミ袋には、バーベキュー味のポテトチップスの空袋に、バナナの皮が五本分。空腹も、そろそろ誤魔化しきれなくなってきた。次のレストエリアに入る決意をしっかりと固めたはじめは、程なくして、左手脇にレストエリア・KM228Αの表示を発見した。KM228Αというのは、ジャカルタから約二二八キロの距離にあるレストエリアである、という意味だ。ウィンカーを出して左折し、簡易礼拝所や雑貨店、コーヒーショップ、インドマレット、レストランなどで、ちょっとした街のような様相をなすレストエリアの駐車スペースにロードスターを停めた。
「純子、昼ごはんにしよう」
 各々手洗いを済ませたあと(自動水洗式でもないのに、二人で一万ルピアも徴収された)、インドマレットのスナックコーナーをのぞいたり、レストランのメニューを眺めたりして、結局、新しくできたらしい小さな定食屋に入ることを決めた。客足もまばらな時間帯で、カウンターでは若い少年が一人、昼寝を決め込んでいたが、二人が入店するとうっすら目を開けて注文を聞いてきた。壁に掛けられたメニューには、数十種類の品目、その中の半分は具材を選べるセットメニューになっている。純子は、バクソと呼ばれる、牛肉のすり身のミートボールのスープと、付け合わせの麺(ミー)、はじめは揚げエビ(ゴレンウダン)に白米、中華エビ煎餅(クルプック)をオーダーし、ソファ席に向かい合って座った。
 明るい黄色の壁に、なぜか、葛飾北斎〈神奈川沖浪裏〉が、大胆な筆致で模写されている。左上にはきちんと漢字の題字や署名までが書き写されている。少年が、ソスロのフルーツティーを二瓶、サービスだと言って出してくれた。
「気づいた? あの子、はじめのおっぱい見てたわよ」
「気にしすぎ」
「そういうはじめはもうちょっと頓着してよ。あんたが無防備なせいで、あたしがいつもどんな思いでいるか、わかって」
 注文した料理は、盆に乗って二人のところにすぐさま到着した。はじめの目の前で、可愛らしい赤い尻尾の出たエビの揚げ物が、ケチャップ・マニスに浸されてつやつやしていた。
「純子に、かわいいって思われたくて。でも気になるならもう着ない」
 尻尾をつまんで持ち上げた一尾を前歯でかじってみる。店の立地が海に近いからか、エビの方も臭みがなく、おいしい。
「すごくかわいい。はじめ、あんまりオシャレしないから、なおさらよ。でもそういうのはあたしと二人きりの時だけにして」
「かわいい? ほんと?」
「ほんと。そのワンピース、ベトナムにいたころに市場で買ったやつでしょ、そういうのは特にね、ぐっとくるものなの。だからこそ男には見せたくないのよ。あたしの言ってることわかる?」
「わかる」
 たしかに……純子が、真っ白な脚やうなじを露出させて、寄ってきた男に粉をかけられていたら、はじめもムッとしてしまうかもしれない。たとえそれが勘違い甚だしいことだったとしても。純子は器用にスプーンを使って、ミートボールと麺の両方を、まとめて口の中に放り込んだ。
「二人でちゃんとしたごはん食べるの、久しぶり」
「そもそも話すのが久しぶりよね。あたし、何週間あそこにいたの?」
「一ヶ月とちょっとくらい」
「はじめてじゃない? そんなに話さないでいたの……」
「そんなことない。大学行きはじめたころは、忙しくて、メールしかしてなかった気がする。それに、わたしは、寝てる純子にずっと話しかけてたから、あんまり実感ない」
「起こしてくれればよかったのに」
「医者が……いや、わたしが……純子と直接話す勇気がなくて。ごめん。もう少し早く迎えに行けばよかった」
「あたし、寝てるあいだ、あんたの夢を見てたのよ、たくさんね」クルプックを一つ、はじめの皿から浚いながら、純子、「成人式に行くか行かないかで揉めたの、覚えてる?」
「もちろん」
 純子二十歳、はじめはまだ十九歳だった冬、母校主催で成人式をするとの知らせが、公貴から純子にもたらされた。純子は行くのを散々渋ったが諭されて、結局一月初旬に格安航空のチケットを取っていた。しかし当日、スカルノハッタ国際空港に到着するその時になって突然、純子はタクシーの運転手に進路変更を命じ、二人が帰国することはなかった。
「はじめが珍しくヘソまげちゃって、あたし困ったのよね」
「ホテルのご馳走、食べたかったし……」
「あたしが作ってあげるって言ったじゃない」
「それとこれとは別」
「あのあと夜ご飯奢ってあげたし」
「屋台の……あそこのアヤム食べてお腹壊した」
「それは、はじめの店のチョイスがよくなかっただけじゃないの?」
 目の前でホテルのオードブルを取り上げられた挙句、腹を壊し、熱と悪寒に苛まれながらベッドで悶えるはじめのために、純子はバクソを作ってくれた。この店のものとは違って、ミートボールとスープに白米、パクチー、ライム、ニンニクや玉ねぎのチップなどが入っていて、熱っぽい身体にもやさしい味わいだったのを、今でもはっきりと思い出せる。
「懐かしいね」
 純子が微笑した。

 西ジャワから中部ジャワ州に入った。さとうきびやタロ芋の畑、バナナ農園、棚田なんかを後ろへと見送る二人に、夜の気配がたしかに迫ってきていた。有料道とは言っても、ジャカルタから離れれば離れるほど街路は少なくなり、道の状態も悪くなる。特にはじめのようなペーパードライバーにとって、夜間の運転は避けるに越したことはない。軽い渋滞に巻き込まれたということもあって、結局、KM391地点のレストエリアで車中泊をすることにした。
 インドマレットやレストランだけでなく、フードコート、スターバックスまで備えた大きなところで、簡易のモスクにはトラックドライバーや旅行中のイスラム教信者たちが大勢詰めかけて日没(マグリブ)の礼拝を行なっていた。手洗いも、プレハブ個室のきれいなところだった。大して空腹でもなかったので、インドマレットでスイカやパイナップルのカットフルーツを購入し、スターバックスにも立ち寄ってグリーンティ・フラペチーノを二人で半分こした。アカシアの植林が、日没後の、コバルトブルーから濃いオレンジ色のグラデーションの空に、黒く影絵のようになっているのを、アルミのベンチに座って二人眺めた。
「いまどのあたり?」
 はじめの右手からパイナップルを齧り取りながら、純子が訊いてきた。
「パテボンの南。今日にはスマランにつきたかったけど、渋滞があったから……」
「そう……この格好だと、夜は少し冷えそうね」
 駐車スペースには他に、緑や青に塗装されたタンクローリー、オレンジのトラック、見覚えのある日本車が何台か、その他自家用車、巨大な観光バスなどが泊まっているが、礼拝中であるためか人の姿はまばらだ。小さな店舗などは店員がおらず、店ががら空きになっているところもある。
「日没を、ただ眺めるだけなんていつぶりかしら」
「うん……きれい。描いてみたい」
「持ってきたの、スケッチブック?」
「持ってきたけど車の中」
「ちょうどいいわ。はじめのこと、独り占めしてるみたいで、うれしい」
「ほんと?」
 純子の胸元に潜り込んで、至近距離でその目を覗き込んだ。彼女の瞳は不自然なくらいに澄んでいて、向こう側の世界、彼女の精神世界までがすけて見えそうなほどだった。ゆったりとした瞬きを二、三度繰り返した後、彼女ははじめにとびきり優しい笑顔をよこしてみせた。
「本当よ」
 はじめは、細い首に両腕をまわし、ほんの少しだけ目を閉じて、大好きな純子とキスをする。ほっぺに。鼻の頭に。そして唇に。はじめ、と呼ぶ声を、唇の中に閉じ込めてしまう。これまで幾度か身体を重ねたにもかかわらず、奇妙な感慨が込み上げて胸郭の内側を微震させた。すぐに頭の芯がぼうっとなって、身体ぜんたいの力がすっかり抜けてしまうみたいだった。
「純子、純子」
「仕方のない子、大好きよ」
「じゅんこ」
 下唇を、熱い舌でやさしく舐められるとたまらない気持ちになった。バターのように溶けて一つになりたい。
 夜は車中泊をすることになる。ロードスターのソフトトップを閉め、申し訳程度のリクライニングを倒して、毛布にくるまって眠る。純子は助手席で、膝を抱えて眠ろうとしていたが、その身体はかすかに震えていた。鎮静剤が切れたいま、身体が薬による強制的な睡眠を求めているのだろうと、はじめは勘づいた。「眠れないの?」
「違うの、寒いのよ……」
 膝に頬を乗せて彼女が笑おうとした。はじめは、狭い車内で身を屈めるようにしながら立ち、ワンピースの背中のファスナーを開けた。ぎょっとして目を見開く純子の前で肩からワンピースを落とし、続いて、胸を締め付けていたスポーツ用のブラジャーを外してしまう。純子が何か言おうとするのを、視線だけ抑えて、さいごに……迷ったが、結局、ショーツまで脱いだ。純子の命令がなくとも従順に剃毛してきた無毛の恥丘が、駐車スペースの無機質な照明に白く光を帯びた。
「純子も脱いで」
「なに、したいの?」
「違うよ、一緒に寝るだけ。裸で寝たほうがあったかいから」
 純子が顔を赤くしながらシャツの前を開けるのを見ていると、反射的に膣が濡れてくる。しかし今日、傷ついた純子とセックスをするつもりは、はじめにはなかった。
 助手席に座る純子の膝をまたぐようにして腰掛け、痩せた身体にしがみつく。骨が浮き出てごつごつと隆起する背中をさすり、純子の身体から余計な力が抜けてきたのをみて、首筋や肩などにたくさん唇を寄せる。毛布を二枚重ねたのにくるまる。狭い。純子が、はじめの胸元に頬を寄せて、やわらかくて、あったかい、夢見心地につぶやいた。はじめにも、純子の薄い皮膚から彼女の拍動を感じていた。彼女が眠るまではじめは、日本の古い子守唄を歌った。

 翌朝八時にレストエリアを出て、九時半ごろには中部ジャワ州の州都スマランに到着した。十九世紀、オランダの手でインドネシア最初の鉄道が整備されて以来、インドネシア最大の都市の一つとして機能する、古き好き大都市だ。住民も、ジャワ人、オランダ人、中国人、アラビア人と幅広く、それに応じて、異国情緒ある建築や、世界各国のレパートリー豊かな料理屋などが揃う。スマランのシンボルとされるラワン・セウ、東インド鉄道会社の旧オフィスは、赤いドーム屋根や白亜の壁面のまばゆいオランダ様式建築だし、タイルで細かく装飾された両開き扉の美しい大覚寺道教の寺院だ。ガソリンを給油するついでに中華街へと立ち寄り、ルンピアと呼ばれる春巻きのようなものを食べた。
 主に観光バスやオートバイによる渋滞に難儀しながらスマラン市街を抜け、郊外で再び有料道路に乗る。ここからしばらくは緩やかな山道になり、標高も少しずつ上がっていくため、寒がりの純子のためにソフトトップを締めておいた。小さな丘や渓谷をいくつも越え、山間の街サラティガで休憩を取ったりしながら、マルバブ山、ムラピ山といった火山を傍目に進んだ。まだ日の高いうちに、スラカルタ、通称ソロの街に到着した。日本で言えば京都のような立ち位置にある、小さいが歴史ある文化の街だ。マンクヌガラン王宮やカスナナン王宮をはじめとする史跡、郊外にはミステリアスな雰囲気が漂うスクー寺院、ジャワ原人が発見されたサンギラン博物館、南に降ればボロブドゥールがある。
 街には霧がたち込めていた。公共駐車場にロードスターを停め、二人は昼食のための定食屋を探すついでに、フルーツジュースの屋台で薄いスイカのジュースを飲んだり、できたばかりだというパラゴンモールでおやつを買い込んだり、バティックという、インドネシアの伝統的なろうけつ染めの職人が集まるカウマン地区を見学したりした。石作りの狭い工房で、壮年の男性が半裸になって、ろうをつけた銅板を型押しして布に模様をつけている。女性たちは呉座の上にあぐらをかき、子供の腰ほどの高さの木枠にかけた布に直接、手書きで、ろうを垂らして緻密な絵柄を描きこむ。純子が、手伝いをしているらしい若い女性の一団に、この子と、おそろいでワンピースを仕立てたくて、素敵な布を探しているんだけど、と声をかけた。彼女たちが奥から出してきた中に、真っ白なシルクに、ネイビーブルーとゴールドで尾長鶏や花を点描しているのがあって、純子はそれを七万ルピアで買い上げた。チップにも同じ額を出した。
 購入した生地を、地元の仕立て屋に押し込んで、ようやく、昼食を食いっぱぐれたことに気がついた二人だった。結局、マンクヌガラン王宮付近に立地する、オマ・シンテン・ヘリテージホテルのレストランに落ち着いた。伝統的なオープンエアの木造建築、木目の美しいテーブルについて、牛テールスープ(ソトブントゥット)やアヤムゴレンを食べた。めずらしく、メニューにビンタンビールがあったので追加で注文し、二人で乾杯した。運転できないことに後から気づいたが、それでも良かった。急ぎ行くような旅ではないのだ。時間はまだ十分残されている。