スイス

 


 恋人がその窓辺をフリードニヒの絵画のようだと褒めたとき、遊星の呼吸はひとたび、その職分を忘れた。舌は震え、指先にまで緊張が走り、彼女のかわいらしい褒め言葉に対して気の利いた答えをよこす余裕すら失った。
 彼女のすみれ色の瞳が光に満ちた部屋を一巡して、落ち着いた木目の本棚や日に焼けた背表紙、太陽光で一定のリズムを打ち続ける金属のおもちゃ、小ぶりな花瓶からレモンの香気のように溢れ出るミモザの小さな花、白い漆喰の壁をゆったりと覆う異国風情のタペストリをひととおり見て、またあの夢のような窓辺を眺めた。窓は春の際限なきあかるさに瑠璃色に輝き、モスグリーンの湖や気取った白鳥の群れ、琥珀色に色づく広葉樹の森を美しく飾り立てる。彼女は、この窓辺に身を寄せ、自分が子供らに絵本を聞かせてやったり、星を見たり、遊星とひめやかな愛の交歓を楽しむさまを想像しているのだ。気に入った、と彼女は微笑んだ。
「遊星、早くここで暮らしたい。いつになる。どうせもうここにはお前しかいないのだろう……」
 そうだ、と遊星は思う。この家にはもう誰もいない。父も、母も、妹も……そして遊星自身ですら、この家を去ろうとしている。
 遊星はここにいてはいけないのだ。
 恋人には打ち明けられずにいるが、この家は、近いうちに引き払う。そのあとは……ここではないどこかで、彼女と二人、慎ましやかに暮らしてゆくつもりだ……。

 物心ついてすぐのころだ、妹ができたのは。ひとつ年下の妹。遊星よりひとまわり小柄で、痩せぎすで、おとなしく夢見がちな妹。遊星にそっくりの妹。
 子どものころは守るべき存在が増えたことに高揚を覚え、疑問もなく彼女の手を引いて歩いたが、長じればその異常性はすぐに知れた。彼女は、遊星の母親が産んだ娘ではない。どこからか拾われてきたみなしごである。その上、不動一家は当時父親の赴任のためにドイツで暮らしていて、彼女はそこの子どもだった。それなのに、遊星にそっくりなのだ。
 そのころ、妹はその内気なたちゆえにエレメンタリスクールで不当な扱いを受けていたが、ついに階段から突き落とされて右目と両腕をすっかり失った。脚はかろうじて両方残ったが、顔や腕に気を取られているうちに傷口から膿が周り、そのうち左脚も切り落とす事になった。
 金属の義手に左脚、顔の右半分を覆う無機質な鉄の仮面。ゆっくりと女のかたちに開花しつつあるほっそりとした首から背にかけてのライン、痩せた脚のみずみずしく白い皮膚、長いまつ毛に伏せられた海のひとみ、薄く椿色のほほ。倒錯的でアンバランスなつやに、遊星はより恐怖の念を強め、結果的に彼女を遠ざけた。彼女はスクールにも行かず、外に出ることすらいとうようになって、両親の献身的な介護を受けながらひっそりと生きていた。

 遊星が十三になるころ、一家はスイスに越してきた。山中に人々がより集まってできた、小さな村の一軒家。遊星にとっての運命の家。
 一・二階にリビングや両親の部屋が配置され、三階の小さな屋根裏部屋が兄妹のためにあてがわれた。両親は、遊星が妹のことを恐れていると知って、同じ部屋を与えることで改善を図ろうとしていた。
 その部屋には美しい窓辺があり、そう、ちょうどマダム・カロリーネが眺めたドレスデンのような、湖のある上品な景色を見渡すことができた。
「遊星、遊星、ごらんなさい。あれはコブハクチョウ。あれは、まあ、かわいい。イエスズメですね。ドイツにいたのより、少しちいさい」
 妹は義足のつま先をぐっと伸ばして、窓の外へと身を乗り出した。遠くの湖畔を歩く鳥を数えながら、鼻歌でも歌うみたいに遊星へと語りかけてくる。
「そんなに身を乗り出すと危ない」
「いいじゃないですか。どうせ、私はこの家から出ることもないのです。せめて、外を見るくらい、かまわないでしょう」
 妹があんまりに窓からの景色を気に入ったようなので、両親は彼女に大きなロッキングチェアを買い与えた。妹はその上に座って、ぶあつい外国語の本を熱心に読んだり、もこもこの羊毛でブランケットを編んだり、頬杖をついてただ時間のうつろいを楽しんだりしながら、長い一日を過ごした。