夜中の薔薇

 

 

 

 母はほんとうの母親ではない。
 真実を知ったとき、少年の胸は深い安堵の中に落ち込んだ。
 それなりに美しい顔に生まれたとは思うが、成績は中の中、五十メートル七.五秒、あたりさわりのない現実に飾られながらも、少年は普通ではなかった。母を愛していた。骨ばった白い手、箸の先で触れれば粉々に崩れて飛んでいきそうな、繊細な背中、卑屈に釣り上がった猫目、残酷な少女性。不安定でアンビバレンツな彼女に惹かれた。彼女を抱き、その腹に白っぽい精液を流し込むことが、異端でなければなんだというのだろう。
「事故で死んだのよ」
 告白には、ただ、そうですか、と答えた。
「何か他にないの、気にならないの」
 母はそう言うが、身勝手にも夭折したその母親のことも、所在の知れない父親のことも、別世界のもののように感じられ首を振った。それより、目の前で窮屈そうに丸まった母の身体、突き出した腕の間で小さな乳房が潰れているのが、よっぽど気になった。言葉に代えて少年は、母の左手へねんごろに触れた。

 拒まれない。だから中に出す。はじめは少しばかりの倫理観から避妊具をつけていたが、あるとき、どうせ不妊だしいいのよ、と言われてからは、一度の例外もなく生の肉にありつく。
「中に出します、いいですね」
 唇は紳士ぶって同意など得ようとするが形ばかりだ。
 六月も中ごろ、紫陽花の陰鬱な色が、母の伏せた瞼の上にもあった。彼女が、自分を通して、異なる何かを追いかけようとしていることを知っていた。あんたは男に生まれてよかったのよと言われたことがある。そのくせ、抱き合って眠るとき、硬いとか生臭いとか文句を言う。解放の間際ふいに髪を掴まれて、いくらか抜けた。握りしめた指のあいだにずいぶん伸びた金色の毛が流動した。
 意識は闇のほうへ沈み込み、金色は波のように寄せたり引いたりした。波打ち際に女がいた。歳のころは、十七か十八か、小さな耳の横で銀色の風がつじを巻き、ふくよかな身体には青い花が咲いていた。
 その人と、言葉を交わすよりも早く、朝がやってきた。

 どこにでもある家だが、南向きにお茶のためのサンルームが増設されていて、母はそれを気に入っていた。(何をしているのかよく知らないが)仕事をしているようなそぶりのとき、野良猫と昼寝をするとき、下世話なゴシップ誌を読むとき、そこにいた。昼下がりの琥珀色の澄明が、うねる黒髪の上で踊るのを見るのが好きだった。
「身寄りがなかったのね」
 はじめ、何の話だろうと思った。「だから、赤ちゃんがいるとわかったとき、まともな引取り手がなかった。そして不幸なことに、あたしだけはそこにいたの」
「理由は? あなたは慈善活動なんかするタチじゃないでしょう」
「あんたと、その母親が孤独だったのは、あたしのせいだから」
「孤独?」
根腐れした花はちぎって捨てるでしょ。見ていられなかったのよ」
 孤独を感じるのは、母が、今日は生理だから触れてくれるなと、抱き合うことを拒むそのときだけだ。いつでも彼女の肉に接続していたかった。そうだとしても、もう十分満たされているのに。
 その人はどうだったのだろう?

 家庭教師がやってくる。大した客もない寂れた家に、のりの効いたオーダースーツを着、重厚なアンティーク時計をつけてやってくる。
 母はいつも、彼女の義子にさほど関心を払わないが、教育に関しては少しばかりの顧慮を見せた。知己であるというこの男に、一月に二回、ただ働きをさせる。当初は、母の身勝手に是非もなく従う男に対して不信ばかり募らせていた少年だったが、三月もしないうちに真相は知れた。この男もまた、母を愛していたのだ。
 もう寝たのか、と尋ねると、彼はあからさまに眉を顰めて応酬した。「あの人も、おまえも、ねじくれすぎだ。そういうふうに、彼女が育てたんだろうが」
「俺と母はほんとうの親子じゃありません。寝たんですか? そうでなければあなたには、俺の面倒を見る理由がない」
「罪滅ぼしなんだ」
 暗い部屋で、男の、おそろしく美しい顔が、深夜の月面のように白い光を帯びていた。鼻や眉間のおうとつには薄青い影が音もなく滞留した。
「あの人が愛したものを、奪った、俺が。あの人を愛していたからだ。それこそ大義であると思っていた」
「母が? 愛したもの?」
 母の寂しい横顔を思い出す。愛、はじめからそんなものはないのだとばかりに、意地悪く釣り上がった薄い唇。
「おまえじゃない。俺でもない」
 穏やかな口調で、男は続けた。
「おまえの母親は生きている」

 図書館に行くと嘘をついて家を出た。電車をいくつも乗り継いで、自動券売機も改札機もない、小さな木造の駅舎で降りた。ノアザミのまだらに咲く野原を西に向かって歩く。細い風の束が、首の後ろで金色の髪と戯れる。
 目的地は、丘陵の中腹にあった。子どものためのつくりものみたいに小さな、緑の屋根の家、西洋人が明治期に作った別邸であるというその家は、積極的な治療を放棄した患者のためのサナトリウムだった。
 初老の看護師が少年をエントランスから病棟に導く。日当たりの良い南向きの部屋はその人の宇宙だった。薄いレースのカーテンが斜陽と風とを孕み、古い木の床へ放流する。あいまいに結ばれたリボンの細工。背の低い木製のスツールに、刺し掛けの刺繍。寝心地の悪そうなパイプベッドの上に、ひとり、女が寝ていた。
 ちょうど、鎮静剤の点滴を入れたばかりなんです、看護師が言う。
 何か大きな期待を裏切られたような気になって俯いた。薄い院衣一枚を、骨と皮ばかりの身体にまとっただけの、見窄らしく小さなその人が、自分の母親であるとはとても信じがたかった。
 看護師がカモミールティーを出してくれた。娯楽に乏しいこの場所で、女が喜んだ数少ないお気に入りの一つなのだという話だった。
「ほんとうは、こんなところにいつまでも寝かせておく必要はないの。でも、尋ねてくる方もいらっしゃらないのに、わざわざ起きていてもらうのも心苦しいでしょう」
「からだを、病んでいるんですか、その……母は」
「まあ」角砂糖を弄ぶ指にも、動揺は伝播した。「それじゃあ、あなたが……」
 スツールの上を示して看護師は、少年に、刺繍枠を手にとるように促した。手触りのよい薄手のタオル生地に、コバルトブルーの刺繍糸で小さな薔薇が刺してあった。
「それはこのかたが、生まれてくる赤ちゃんのために繕っているお洋服です。ちいさいでしょう。古いでしょう。おいくつになるの、あなたは?」
「今年十四になります」
「そう、十四ね、十四年ものあいだ未完なの、それ。十四年ものあいだ、ずっと、お腹の中に小さな赤ちゃんを抱いているつもりでいるのよ、このかた……」

 青い蝶が、鋭いピンの先に貫かれ、ビロードの箱底に縫い留められている。
 蝶は古来から死の象徴として取り扱われてきたものと、誰かが言っていたのが、首の裏側へふいに蘇る。でも死を形容するには、翅はあまりにもみずみずしく瑠璃色の香気を帯び、ガラスの蓋の方へついと伸びた触覚など黒くつやつやとして、まるで飴を漉いて作った細工もののようだと思った。
 十七歳の、まだ清潔な制服に身を包んでいたころの母が、その上へ、静かに折り重なった。
 愛し合っていたのだろうか。あさましく熱烈に? 夕暮れどき、日没に向かって重たく頭を垂れた花弁のような、よるべのない皮膚に、ふっくらと血色を帯びた柔らかそうな唇が触れていた。青い蝶、古いパイプベッドの中に寝かされていた病身、少年の夢の中へたびたび迷い込んできたあの女が、不安と孤独に押し潰されんばかりの母の心をやわらかく慰撫する。
「怖いの」
 差し伸べられた手のひらに縋りつきながら、母は寡黙に落涙した。
 濡れた頬を拭ってやりたい。近づこうとして、愛し合う二人とこちらとを隔てる、薄いガラス膜に激しく身体を打ちつける。
「何も変わらない。大丈夫。ずっと一緒だよ」
 結ばれないことは光速にも似て、二人の間へ恒久的に横たわる。今日この時を持って、母の中でその人の存在は滅びゆくものとなる。
「大丈夫……」

 アリバイ工作のために図書館へ立ち寄り、生物図鑑を借りて、帰宅する。
 足取りは重たい。飢えている。渇いている。いますぐ、あの家でひとりよがりに蹲っているだろう母の身体を押し倒し、心ゆくまで貪り尽くしたいと思う。
 果たして母は、菩提樹の幹のような裸体に何も纏わないまま、床上にて少年を待っていた。
 盃の中の羽虫のように、肉欲と、根拠のない焦燥に溺れる。両腕を掴んで拘束する。慣らしもせず、勃起したものを旱魃地帯に押し込んだ。摩擦で血が滲み、彼女は悲鳴をあげた。
「嘘をつきましたね、俺に。こんなにも愛しているのにあなたは、俺を、信頼しない。なぜですか」
巨大な畏怖に悴む指で、細い首を絞めあげる。
「俺がまだ子どもだから? あなたの実子ではないから?」
 痛い、やめて、離して、半開きの唇がそのようなことを言う。
「あの女を隠しておきたかったんですね。知られたくなかったんでしょう、誰にも。息子である俺にさえも。だから薬漬けにして、あんな田舎の箱の中にいつまでも縛り付けているんでしょう」
 酸欠のために黒い目は、研磨したばかりの黒曜石みたいに乾いている。血の巡りが悪く顔の皮膚は病的なほどに青白い。反して、女の器官は、強引な侵入をもよろこびかすかに湿りはじめている。
「恨みます、あなたを。不条理を振り翳して、俺を苦しめて、陶酔するあなたを。あなたがほんとうの母であればよかった。ほんとうの母でなくてよかった。あの女を殺してしまいたい。そうすれば、あなたには、俺だけを愛するか、俺から立ち去るかの二択しかなくなる。あなたの弱さを知っています。永遠の愛などない。あの女が死ねば、今度こそあなたは一人だ」
「いいわ」
 ふいに、母が微笑した。
 氷でできた花みたいに、その人は、いやに透明な存在のように見えた。
 かなたからやってきた雨雲は、にわかに街全体を灰色に覆い、やがてしとしとと雨を降らせはじめた。年季の入ったすりガラスの窓にも、強い風に流された雨粒がぶつかって細かく音を立てた。
 理性の指先に弾かれて、母から身体を離す。心拍が弾む。冷たい汗が背を流れる。自分は、なんという恐ろしいことを。

 雨音がひどく眠れない夜だった。鍋で沸騰させたような激情より、温かくありふれた親愛を傾けられたいと思って、母の床に入った。未就学の子どもみたいにじゃれて甘えても、彼女は何も言わなかった。
 やわらかい手のひらに額を撫でられながら眠り、翌朝、無人のベッドで跳ね起きた。かすかに開いた窓の隙間から、湿った夏の花の香りが漂っていた。家中のものをひっくり返しながら彼女を探し、期待は何度も打ち砕かれ、胸中では彼女の不在ばかりで結晶化を進行させた。果たして、サンルームの屑籠を覗き込んだ少年は、使い捨ての妊娠検査薬を発見した。判定枠にくっきりと、赤いしるしが浮かび上がっていた。
 母は、この家から永遠に立ち去った。機嫌を損ねて家出をすることは、そう珍しいことではなかったが、今回の出奔は明確に破鏡であると少年は知っていた。

 梅雨が終わるころ、家庭教師の男と、トラットリアのオープンスペースで昼食をとっていた。
 誰か知り合いと、外で食事をする、という普通のことを、ついこのあいだまでしたことがなかった。はじめはメニューの読み方から学ばなければならなかった。注文するとき、ウエイターに一皿分の小銭を渡そうとして、嗜められたこともある。あの人は、母親になるには不格すぎたと、たびたび苦く笑う男だった。
「どうなんだ、学校は」
 アペリティーヴォの発泡酒で唇を濡らしながら男は、まるでほんとうの父親のようなことを口にした。
「普通です。あなたに教わっていたころと、たいして変わりません」
「寮に入ったんだろ」
「別に……」白ワインで蒸したムール貝の、黒いつやつやした殻をつつきながら、「……食事が美味しくなりました。母は、料理が下手だったので」
 下手というより、うまくなる気がなかったのだ。その理由を探ろうとする心は、自然と内側に塞ぎこんでいく。
「あの人にだしにされたんだ。俺は。もうお役ごめんだ。これからどう生きていけば良いのか、わからない」
「そう落ち込むな。一緒に考えるために、あの人は、俺を、おまえのところに残したんだ」
愛する女と、癖毛の子どもと、高原の家で幸福に暮らす母を夢想する。愛し合う二人の、ロマンティックで屈託のない夢が、そのまま結晶したかのような美しい家。上品な丸窓に、草原の映るキッチンでは、銅のポットがさかんにわいている。オーブンからチェリーパイの甘い香りがする。真っ白なテーブルクロスの上には、ウェッジウッドの、ヘビイチゴティーセット、つやつやきらめく銀のカトラリー、青薔薇のあしらわれた平皿が几帳面に整えられている。慎ましい寝室には、麗しいアーチ窓、開け放っておくと、真鍮のベルが清らかに鳴り、編みレースのカーテンが音もなく揺れる。十四年かけて彼女は、ようやく、彼女の身勝手な夢を叶えたのかもしれない。
「好きなものを頼みなさい。食べなければ、力はつかない」
「はい。……お、父さん」
 男は、存外に優しく、息子に向かって微笑みかけた。日差しが強いためにうまく目が開けられない。