2023/10/02

 

 

 


 長い冬がすぎ、この家にも春がやってきた。
 鶯の赤ちゃんが鳴くのにも先んじて、クラブアップルの低木に、白、ピンク、赤藤色と、それは見事な花が咲く。追随するようにして野薔薇、まるでそれ自体が花束であるかのように立派な、こがね色の雄蕊の冠をいただいて、白く小柄な花弁を開く。黄色やアプリコット色の水仙、葉には毒があると教えたら二人して怖がっていたっけ。ナデシコ、クロッカス、タイム、ピンクの芝桜に紫のオダマギ、八重咲の芍薬の小径、勿忘草、デルフィニウム、目も覚めるような、あざやかなヴァイオレットのライラック……薔薇にも色々あって、強いダマスク香が特徴的なマダム・ハーディー、薬種屋の薔薇との異名を持つ椿色のガリカ、ロサ・ギガンティアは、ミャンマーの高原からやってきた剣弁咲きの蔓薔薇、ローズマリーは……薔薇ではなくてハーブだけれど……小柄で可憐なナスターチウム、薄紫のカンパニュラ・ラクティフローラ、もうすぐ盛りも終わるスイートピーの家族。白いポピー……鋭く突きとおるような痛みが右手指に走って、はじめは思考するよりも早く手のひらを翻した。冷たい新雪の色をした、ほっそりとした人差し指から手首にかけてを、血の滴が滴り、やがて薄い皮膚を離れた。ポピーは蕊を中心にじんわりと赤らんで、リメンブランス・ポピーになった。
 刺繍針が、人差し指の肉をかすかに貫いている。ふたたび指先で膨れ上がる血を慌ててティッシュで覆った。明日のために、半年かけて繕ってきた花のブラウス、汚してだいなしにするわけにはいかない。刺繍枠に抑えてある薄桃色のものと、それからすでに繕い終えた、淡青のものが壁にかけてあるのを眺めて、はじめはようやく、二次被害を避けたことにほっとため息をつく。ここははじめのアトリエ。壁に沿って置かれたアンティークのテーブル、それからゆったりと幅のあるロッキングチェア、肩にかけた羊毛のケープに鼻先をうずめてリラックスしてみる。もはや予断を許さない手許を照らすのは、古い水差しを作り変えたかさつきの電気スタンド、その隣に、なつかしい、小さくてふくふくとした指がくれた小ぶりの松ぼっくり、出しっぱなしのパレット、絵筆、行方不明になる直前に撮影したボーダーコリーの”キャベツ”の写真。友人の結婚式次第も、端のよれた鶴の折り紙も一緒くたにしたレター入れは、ヴェネツィア郊外の骨董品屋で見つけた、ハンドルを引き出して蓋を開けるもの。銀の燭台。このテーブルのヘリに、小さな指が二十本ならんでいたときのことを思いだせば、瞼の裏がじんわりと温まる。
 カーテンはマリメッコのプケッティ・パターン、左手で端を持ち上げると、格子窓の薄いガラス越しに初春の冷気が顔を直撃する。見れば、冴えざえとしたミッドナイトブルーの空から、いままさに、白い妖精が地上に降りてくるところだった。やけに寒いと思ったら雪が降っていたのだ……これが終雪になるだろうけど。そろそろ血もおさまってきた指で、刺繍枠を掴んだまま、立ち上がってストーブをつけるか考える。電源を入れるのに、はじめの身長ほどもある八十号を二枚、壁に立てかけているのから退けなければならない。動いたらよほどに寒いだろうし。靴下のつま先を揺らして悩んでいたら、立て付けの悪い扉の蝶番が開く音が背後でした、と同時に、心地よいハイバリトンがつむじの上にやわらかくふってきた。
「はじめ」広東産の陶器のティーカップを二つ、ポットを一つ、盆に乗せて、尋ねてきたのはねぼけまなこの夫だった。「まだ寝ないのか」
 はじめがパレットと鉛筆たてを避けて空いたスペースに盆を滑らせ、部屋のはじから引いてきたスツールに腰掛けて、彼は静かにはじめを見た。はじめは言葉に代え、顎を引いて首肯した。出会った十代の少年の頃から、着実に歳を重ねた彼の、いとおしい顔を見た。年月が経つにつれ、もとの激しく烈々とした性根は鳴りをひそめ、精悍に、また静穏に、老いてきた彼だった。どこか異国の血筋を思わせる影の深い面立ちは、聡慧な美しさをたたえて夜の青に燃え、しかしその目尻にはそう遠くない死の兆しがこっくりと刻まれていた。針を布にとめて、自由になった手のひらで彼の癖毛を撫でた。彼は泣きそうな顔で、はじめの指に頭をゆだね、きっとはじめも同じように目元を歪ませていただろうが、カップから上る白い湯烟がそれを深夜の秘密にした。
「うん」
「もう夜も遅いぜ」
「あした……に、まにあいたいから」言葉が充ちるのを待たず、スパイスの香る熱い皮膚が、声をふくんだままのはじめの唇を訪れた。今もなお愛し合う夫婦の、何処に行くあてもない口づけだった。
「純太——」
 たくましい腕にしっかりと抱かれる。夫の鷹揚な胸の中で、はじめはひっそりと嘆息する。オレンジ色の灯りの中でポピーの赤がつやつやと光っているのを見る。まだ頭の中にあるカンタベリーベルズ。デイジー。クロッカス、待雪草、マリーゴールド、瓔珞百合。明日、このひと組の夫婦のもとから、いとおしい二人の子どもたちが、巣立つことになっていた。