センチメンタル・フラグメンツ

 

 

 

センチメンタル・フラグメンツ


 そのとき、親弘は白く結露した窓のそばに座って、三年前の日付がついた少年漫画雑誌の巻頭カラーを緩慢にめくっていた。何をするでもない、ゆるやかな日曜の午後。部屋でダラダラと過ごすのにも飽きてきて、かといって外出するには時の流れが穏やかすぎて、どう過ごすかということにすらうまく頭が回らない、そんな休日。
 後ろでは、ポットから噴き出る蒸気音や恋人のまりなが忙しく働き回る足音がするものの、会話はない。喧嘩をしたというわけではないが、前のように逐一愛を囁くのも違うような気がして、まりなとはかれこれ半年もの間こうした付かず離れずの関係を保ってきた。十年近い付き合いの彼女とももう静かに終わりゆくばかりなのかもしれない。別れを選択するほど軽い愛情ではないはずで、しかし結婚にも踏み切れずにいる、自分の内側の柔らかく臆病な部分を持て余す親弘である。
 ヒーローの台詞にまだら模様の影が散る。親弘は顔をあげ、外で雪が降り始めたことを知った。
 軽やかな銀色の結晶が、ぶあつい曇り雲の隙間からこぼれる光を含んでまたたいた。その反射のまぶしさに、彼はふと楽しかった少年時代に立ち返り、彼と、まりな、そしてそこにいたはずのもう一人の少年をたしかに幻視した。雪玉を投げた投げないで転げながら揉み合う二人を、銀の、それこそ雪や北極の星の色の目をすがめて見ながら、まるで子供をたしなめる親の顔をして微笑む少年のことを。少年は、もはや二人のそばにはなかったが、親弘が、またまりながあらがいようのない逆境に立たされたとき、それでも心を奮い立たせるのはいつも彼のその瞳の光だった。親弘やまりなの髪一本までを愛おしく得難いもののように見るのだ、その時はただくすぐったく、心もとなく思ったが、今思えば、それは日常のあらゆる要素から切り離された彼の精一杯の求愛だった。どれだけ言葉を重ね、肉と肉を擦り合わせても、彼の——沈黙を、打ち消すことはできなかった。
 親弘の精神は回想の中にしんしんしんと落ちていく。灰紫色の薄暗がりの中に、痩せて骨の浮き上がった生白い肋が浮かんでくる。手のひらで脇の皮膚をくすぐると、親弘の耳元で小さく嗚咽がはじけた。そう、はじめて抱いたとき、彼は泣いたのだ、春の花びらを重ねたような薄い下瞼に慎ましく涙を滲ませて、幸せだ、と言った。泣き顔どころか、笑顔すら珍物扱いされていた彼の、涙。まりなのやわらかい指が彼の頬を拭った。親弘は、指先まで茹だるような気分になって、彼が生来抱えてきた辛苦を思うままに揺さぶった。
 あのとき彼がどんな思いで自分の幸福を告白したのか、成人した今であっても、親弘には説明がつかない。
 庭に茂った南天燭の中で燃えるような赤毛が翻る。孤独な彼の名前は小銀といった。

 

 雪の日、素性の知れない子供を抱いて訪ねてきたのは小銀だった そのときすでに最後に会ってから五年が経過していた 親弘は……その子供が小銀の子供だとすぐに気がついた 
小銀は、相変わらず目の覚めるような赤い長髪を天鵞絨のコートの中に靡かせ、少し老けた様子の美貌で笑みの形を模っていた 後からやってきたまりなは彼を見るとわっと慌てたようになり、腕を引いて彼を部屋の中に引き入れた 唇がほの赤い 雪道の中一人歩いてきたのは火を見るより明らかだった 
「蜜月だった」 
小銀は子供の母親について多くは語らず、ただポツリとそう言って退けた。雪の日特有の不気味なほどの静けさ、曇天に希釈された朝の光の中で、キリストを抱いた聖母の憂いを冠して、小銀の不幸せは鋭く輝いていた。 
親弘は小銀の肩をソファに押し倒し、噛み付くようなキスをした。ささくれひとつない粘膜にありふれた幸福の残り香が漂っている。シャツのボタン留めを解くと、なめらかな頸からこぼれる銀の十字架に、まりながハッと息を呑んだ。 
「お前、神なんか……」 
小銀は首を振る。 
「あいつが信じた。きっと今もそこにいる」 
まりなが、仰向けになった小銀にもう一つキスをした。 
「まりな……泣いてるのか」 
「あなたが泣かないから」 
困ったような小銀 親弘はまりなにも優しいキスをして宥めた 

 子供の頃は、チョコレートケーキかショートケーキかでずっと悩んでいられたし、最終的に両方選んでしまう、これも全く問題のないことだった。 
しかし、大人になり、分別と引き換えに無謀さを失って、二つどころか、一つでさえ胃もたれを起こしてしまう昨今である。現に親弘は今、暗がりの中で秘めやかに吐息を絡ませる男女を見て、昂るどころか卒倒しそうな思いでいる。 
小銀は嗚咽のやまないまりなの肩をゆるやかに抱え、骨張った中指で濡れた膣をほぐしていた 手入れのされた爪が、膣壁の上を擦る、親弘も知っていることだがそこは少女時代からまりなの弱点だった 二人の男に丁寧に開発されたのだ まりなは首を後ろに傾げ、浅く湿った息を頻りに吐き出した 青い目が遠くの灯台にも似てちかちかと 
激しく昂らせるための動きというよりは、心底気を遣って労っているような 細君にも同じようにしたに違いない 
そう思ったらもうたまらなくて、親弘も小銀の背後に回った 「どうだよ」血の気の薄い真っ白な首の皮膚を吸い上げながらささやく 普段は長い髪に隠された柔らかい耳、これは小銀の急所だ 
「いらない」 
「そのままぶち込むぜ」 
「構わない……」 
陰茎をねじ込んでわかった、洗浄してある 女の膣にも似て、しかし種を異にする粘膜、粒立った肉に引きずられ、親弘は思わず低く唸った 
「あ、……親弘」 
甘くうわずった小銀の声 その拍子に変なところを擦ったのか、まりなが 
「小銀……」 
「いれてやれよ、お前だってしんどいだろ」 
「嫌だ」 
「あんだよ、今更義理立てか?」 
「ちがう……まりなは、お前の、俺はもう昔みたいにやれない」 
親弘は鼻を鳴らして小銀から出ていき、まりなにいれた 涙を流して喜ぶ 
「親弘、小銀、すきよ」 
「俺もだ」 
震えるまりなの唇に小銀がキスをする 
親弘は、宗教画みたいだ、なんて柄にもないことを思いながら、サイドテーブルのウイスキー瓶を引っつかんで飲んだ やってらんねえ 
途中でゴムを忘れたと気付いたが止まれずに射精した 

小銀は口でまりなを愛した 
愛液や、奥から垂れてくる親弘の精液を啜った 放逐されてまもない精液は白く濁って、小銀の唇を汚した 
親弘は散々迷って、結局もう一度小銀にいれた「なあ余計なこと考えんなよな」 
「お前がどうこうしたって贖われる罪があるもんかよ」 
「子どもは俺を恨むかもしれない」 
「怖いか」 
首を振る くしゃくしゃの前髪が揺れた 
「不思議な気分だ。静かなんだ」 
「小銀」まりなの女の手が小銀の頬に触れる 「悲しいっていうのよ」
「言葉にしたら終わってしまいそうで」
親弘は彼の背中を思い切り抱いてやった。「わかってるっつーの」そのまま抱いていると、不意に、首の後ろで控えめな嗚咽が弾けた 
「親弘、愛している」 
「ああ俺もだよ、お前も、まりなも、お前のかみさんも、あのチビのこともな」 


「不足なく愛してやれたらと思っていた。俺がそうしてほしかったから」 
囁く声は秘めやかで、冷たい 
「そんなところまで似なくてよかったのに」 
子どもが目を覚ます……おとうさん? 


小銀はいつだって大事なことを言わない  
夕方、空っぽのベッドに十字架が残されて、キリストが処刑されたあとのゴルゴダの丘はこんな風だったろうと思った 
「結婚しよう」 
 待たせて、悪かった。少し声が震えて、喉の奥で笑った。 
 立ち止まって、困ったように微笑みながら、泣かないのよ、とまりながいつしか雫の伝う俺の頬に触れる。そういうまりなもまた、泣きそうに、眉を寄せていた。 

 

 

 

 

 

 十年余前のこと、八ヶ岳の麓に父が別荘を買った。一帯が避暑地として活用されている場所だったので、その隣にも同様に別荘があった。白っぽくペンキの塗られた、木造の、芝居か何かのセットかと思うほど綺麗な家、玄関には小さく素朴なポーチが設けられていて、そこから土の上に降りる低い階段は、座って外を眺めるのにちょうど良いように思われた。そこには、いつもくたびれた感じのセーターを着ている五十歳ほどの男性と、まだ若いらしい彼の息子が二人で暮らしていた。
 息子はどこか外国の血を継いだクオーターだというので、人参色の赤毛を肩まで伸ばしていた。寡黙だったが、赤毛のアンみたいだと妹に言われた翌日、おさげに結った状態で私たちの家におかずの差し入れにやってくるような、子供みたいな一面もあった。夏のあいだ私と妹はそこに通って、父親が自室で弾いているらしいチェロの音を聴きながら、息子の作った昼食に預かったり、夏休みの宿題を見てもらったりした。
 ある日、おもしろ漢字ドリル(ひろうの項に、手を合わせてひろうから拾、と書いてあったのだけ覚えている)を終わらせるために、私は彼らの家にいた。妹は母とアウトレットに出かけるというのでいなかった。サロンは静かだった。窓からの琥珀色の光で色褪せた床は明るく輝き、その上で、私が鉛筆を紙の上に走らせる音や、息子の指が紙面を軽く叩く音ばかりが無音の冷たさを和らげた。いくらかページをこなしたところで、息子が言った。
「休憩にしよう」
 小さい私は喜ぶ。彼の作るレモンアイスティー、甘かったからむしろジュースの部類だったかもしれないが、とにかく美味しいのだ。ロックアイスを入れたグラスに濃いめに淹れた紅茶を注ぎ、レモン果汁と炭酸水で割る。気泡の弾けるティーソーダに、透明なシロップが渦を描きながらグラスの底へ落ちて行く。シロップ一つでいいか、うん、私の答えに息子は、
「お父さん、病気なんだ」
 ティーソーダに視線を伏せたまま、不意に声のトーンを落とした。出し抜けにそんなことを言うので、私は、脈絡を把握できないまま首を傾げた。
「脳に、このくらいの腫瘍があるんだそうだ」彼は親指と人差し指で輪っかをつくって示してみせた。「これがレモンくらいの大きさになったら……もしかしたらそれより前に、頭がおかしくなって、何も考えられなくなってしまうかもしれない」
「しゅよう」
「悪いものの塊ってこと」
「治らないの」
 悲しく微笑し、彼は首を振った。
 祖父も祖母も、離縁した親類の彼も、あまりにも元気だったので、当時私は有機物が滅びゆくものという純然たる事実に少しも見当がついていなかった。まして、それが身を引き裂かれるような激しい悲痛を伴うものであるということを、どうして知り得ただろう? 今なら、わかる、祖父はコロナ禍で一人亡くなり、祖母は闘病の末眠るように亡くなった。親類の男は言葉にするのも憚られるほど壮絶な死に方をした。その度に葬式で号泣したわたしは、そのとき、泣くのを必死に堪えながらも、なんとか作ったらしい笑顔を前にして、何の反応も返すことができなかった。
 グラスが空になるころに、表で呼び鈴が鳴って、息子が私を過ぎて玄関に出た。髪が、男性にしてはいやに華奢な肩にこぼれる。
「おかえりなさい、お父さん」
 次の夏、その家には別の家族が住んでいた。夫婦と、妹と同い年の娘、サロンに面した窓には子供の落書きがデカデカと飾られ、ポーチからの階段は華やかな色の花でいっぱいだった。蝶に、蜂に、娘が餌を撒くので野生の鳥もたくさんその家を訪れた。彼らは三年間そこで暮らしたあと、またどこかに引っ越していき、家はすっかり取り壊されて終った。

 

 

 

 

 

 

 カチャは、まだうまく聞き取ることのできないラジオを、一心不乱に聴いている。不自然なほどに冷たい目だ。彼女はこうして、理解するのに焦れと憤懣を感じずにはいられない早口の日本語の中に、自分の名前がはっきりと響き渡る日が来るのではないかと怯えている。 
 戦争はもう一年半にも及ぶ。はじめは両国の国家主席のみを対象とした報道が盛んになされたが、時が過ぎるにつれそれだけではネタに不足しはじめ、やがてその周辺人物、とりわけ血縁者がねんごろに取り扱われるようになっていた。親弘に戦争はわからない。ラジオを聞いたところで、海を遠く隔てた国の事情などわかったものじゃないし、なにより彼は中学の社会科科目を蔑視の目で見ていた。高校には行っていなかった。彼の社会、つまり、わかばハイツの二◯一号室、足立区郊外の寂れた町並み、ラーメン鳳凰堂の厨房で起きたこと、彼にはもったいないくらい美しい恋人、それ以外は割とどうでもよかったし、そうしたものに注意を払ったところでうまくやれるわけじゃない、というのが彼の持論だった。 
 ただカチャは違う。うまくやるかやらないかじゃない。自分の存在と誇りをかけて、彼女は近い将来アナウンサーの早口に乗って告げられるだろう彼女の名前、そしてその向こうで煌めく父親のまなざしに向き合っている。 
 外ではじわじわと蝉が鳴き、空調のないこの狭い部屋を余計に暑くさせた。ラジオ番組がニュースから歌番組に切り替わったのを確認して、親弘はこれを切り、汗でベトついたシャツを脱いだ。カチャは無言だったが、すべてわかっているというふうに立ち上がり、脱衣所に引っ込んだかと思えば、厚手のタオルを三枚ほど抱えて帰ってきた。 
 敷きっぱなしの布団の上で向かい合う。カチャが親弘のズボンの前を焦ったくくつろげ、ボクサーをずり下げて頭をもたげはじめた陰茎にかぶりつくのを、親弘は静かに見下ろした。触れた粘膜が熱い。まだ熱が下がり切っていないのだ。 

 ラーメン鳳凰堂の勝手口のゴミ置き場で残飯を漁っている少年がカチャだった。痩せて肉がなく、重たく伸びた前髪の下でぎらつく目が獣のようだったから、最初は男の浮浪者かと思った。 
 親弘が怒鳴りつけても、彼女は動じなかった。というより、親弘がなぜ怒っているのかわからなかったのだ、そのときの彼女は向こうの言葉しか理解しなかった。親弘の大声が店長を勝手口から引き摺り出したが、彼は気の良い人だったので、身体を覆う襤褸のみを財産として持つこの女に、温かい出汁と少しばかりの糠漬けを与えて落ち着かせようとつとめた。あとから聞いたことだが、本土から貿易船に忍び込んで十二時間、うたた寝しているあいだに貨物は列車に連ねられ、竹ノ塚の駅に着いたところを脱出して合計二十時間、飲まず食わずでいたらしい。店長の親切をすっかり空にしたあと、鳳凰堂でもっとも上等な、七五〇円もする豚骨ラーメンまで平らげて、彼女はようやく人に立ち戻り、なにかしゃべり始めた。親弘も店長も日本語しかわからなかったので、隣のタクシー会社事務所に協力を要請したところ、職員のひとりが知り合いのカザフスタン人留学生を呼んできてようやく彼女が何を話しているのかということが判明した。「警察には連絡するな」要するにこういうことだった。
「なんだ、てめえ、世話んなっといて第一声がそれかよ」
「あたしはそこのゴミでじゅうぶんだったのに、この人が勝手に憐れんで施してきた。見返りを求められても迷惑だ」
 実直な留学生は親弘の粗雑な口調をどう訳すか難儀していたが、女のほうが勝手に親弘の悪意を読み取って報いた。「あんたのことはもっと気に食わない。あたしと、この人の間に、何の関係もないあんたが、口を挟んでこないでくれるかな」
「俺はこの店のジュウギョウインだ」
「この人の奴隷ってこと」
「けんかなら買うけど」
 留学生はけんかをвойна(ヴァイナー、戦争)と訳した。色素の薄い目をまぶたが切れるほど見開いて女が親弘を睨みつけた。
「なあおい親弘やめろよ、相手女の子だろ」店長は冷静に親弘を制し、女に向き合ってたずねた。「名前は?」
 女の名前、カタリナ・クリヴォノギフ、親弘は長ったらしい名前が嫌いなのでカチャと呼ぶことにした。

 午後、カチャが親弘を射精させたあと、恋人が訪ねてきた。
「よお、小銀」
 カチャを押し入れの中に閉じ込めて彼女を迎えた。大学帰りの彼女は、髪を高いところで一つに束ねてうなじの薄い皮膚を熱気の中に晒し、丈の短いホットパンツから細い脚をむき出しにして、鉄製の外廊にしなやかな竹の佇まいで立っていた。そうして、美しい顔にうっすらと涼しく微笑さえ浮かべていたが、親弘は並外れた嗅覚を持ってして彼女の内側の肉がすでに濡れていることを悟った。親弘が彼女の肩を抱いて汗ばむ鎖骨にキスをすると、そのにおいはいよいよ強くなった。
 重たそうなリュックが靴箱の横にたてて置かれる。スニーカー、謹厳な白靴下を脱ぎ、桜色の爪が慎ましく指に重なる小さな足がふたつ明白なものになる。それがさっきカチャがひざまづいていたあたりの床をぺたぺたと歩き回った。麦茶いるか、いらない、でもお前かお赤いぜ……白々しく言うこと、笑い出しそうになるのを抑え、親弘は彼女が湿りを持て余して縋り付いてくるのを待った。が、彼女はあの微笑みをキープしたまま布団の上に膝をつき、「ほんとに大丈夫ださっきそこでお茶を買ったから」その顔にまったくそぐわぬ震え声で言った。
 親弘はカーテンを閉めきり、正座する彼女の横にぴったりとくっついて座って、やわらかく外に迫り出した胸を揉んだ。下着を外してきたらしくシャツの上からでも勃起した乳頭を簡単に摘めるありさまだった。彼女は平静を装おうとしているようだが、踵の上で腰を揺らしておこなう秘かで浅ましい自慰に親弘が気づかないはずがなかった。
「もうすぐ夏休みだろお、どこか旅行にでも行こうぜ」
「……マレーシアがいい」
「お、良いチョイス。どうせならシンガポールにも行きてえ」
「悪くない……けど、おい。親弘。ちかひろっ」
「ん」
 後ろから覗きこんだ顔はかわいそうなくらい紅潮し、こちらを伺う目までが熱にあてられて潤んでいた。布団にまで垂れた分泌液が白く濁って粘ついているのがいっそ哀れなくらいだ。
「暑いから、親弘……」
 蒲柳の身体がついに親弘の肩にしなだれかかる。彼女の全身は汗ばんで濡れていたがきっとそれは暑さのためだけではない。期待のために薄い唇はかすかに震え、湿った呼気をひっきりなしに吐き出している。熱くざらついた舌が親弘の首のあたりを必死に舐める。それでもまだ、親弘は我慢する。飢えは抑えておけるだけ抑えておくのがよい。乳頭をはなれて外郭を指先でつついたり、脇の下のやわらかい肉を撫で回したりする。しかし笑みばかりは抑えても口角へ駆け上る。
 恋人の手がついに親弘の腹筋に触れたとき、彼はその不躾な手首を思い切り掴んで引き留めた。
「なんだよ」
「わかってるくせにきくな」
「言葉にしてくれないとわかんねえな」
「おまえ——」
「言ってくれたらなんでもしてやるから」
 親弘には彼女のすべてが見えている。思考も、感情も、理性も、おさえきれない欲求も、すべて筒抜けである。そしてそれを正しく把握し、その上で赦している。許容している。だから、彼女は恥も外聞もなく、ただこう言わざるをえない。
「舐めて」
「なにを」
「おまんこ……」
 言い終わるより早く、親弘は彼女の身体を布団の上に押し倒していた。焦れて先をせく指でホットパンツのボタンを外し、ジッパーを下ろして、彼女の脚から引き摺り下ろす。快活な印象の服装とはそぐわない、風俗嬢が好んでつけるような黒いレースの、クロッチ部分が裂けたデザインのショーツが露わになる。いまさら手のひらで覆って隠そうとする無粋な手を男性の力を持ってして引き剥がし、恥じらう彼女の声すら聞きとれぬ忘我の地平で、親弘はにおいたつ陰唇、淫猥に潤んだ膣口へ、思いのままに齧り付いた。
「あっ」
 悲鳴を上げて彼女は、間髪入れずに襲いくる快楽から逃れようと腰をくねらせ、それがかえって親弘に恥部を擦り付けることになるのだった。親弘はもはやほくそ笑みを隠すこともなく、たっぷりと熟した肉ひだを左右に分けながら、ぽっかりと開いた女の穴を丹念に舐る。甘酸っぱい粘液が多量に分泌されて親弘の高い鼻梁や唇を汚す。
 今すぐにでも襲い掛かりたい男の獣性をいっそう縛り、親弘は彼女がもっとも望むようにしてやった。つまり、さきほどから鼻先を何度もかすり、また彼女本人も意図してそのようにしているはずの、とがりきった小ぶりな陰核を、歯と歯とでやさしく噛んだ。上がる悲鳴、尿道から間歇的に塩っぽい分泌物が吹き出し、親弘はそこに唇をつけて余すことなく吸い上げた。
「いや……いや、恥ずかしい」
 泣き言を漏らしながら彼女はなおも潮を吹く。親弘は顔に、火花が散るような動物的な美しさをひらめかせ、自らの前で途方もなく無力なものとなった恋人の陰核を無情にも弄び続けた。甘噛みしたかと思えば、すぼめた唇で吸ってみせ、尖らせた舌で触れて細かく震わせる。彼女の下半身がいよいよ無様に痙攣を始める。親弘がとどめとばかりにその勃起しきった突起を押しつぶしたとき、恋人はとうとう、喉も詰まるような悲鳴とともに果てた。
 脱力する恋人を途方もなく残酷な気持ちで見下ろして、親弘はうっそりと微笑した。そう、彼女のこの哀れな臓器は、親弘に底なしの快楽を与え、親弘の子を孕むただそれだけのために存在する。ほかのどの用途に使われることもないというのに、この臓器のために彼女は一ヶ月に一度濁った血を吐き出し、寝込むほどの苦痛にさらされる。親弘は苦しむ彼女を善良ぶって看病してやり、七日経てば、またこの臓器を思うままにして愉悦する。
「大丈夫か」
「うん……」
 冷徹に謀計を巡らせている親弘であると知らずに、彼女は差し伸べられた手に愛おしそうに寄り添い、熱い頬で擦り寄った。愛していないわけではないのだ……この世の誰よりも、彼女が好き、ほんとうだ。彼は指を頬からつうと口許まで這わせ、呼吸のためにかすかに開かれた唇に、人差し指と中指をゆっくりと差し入れた。舌を掴んで引っ張り出す。そのまま、二本の指で挟み込み、しごくように上下させる。
「お、ひふ」
 彼女は親弘の名を呼ぼうとしたが、言葉にならなかった。口の端からたらりと唾液がこぼれて布団カバーを濡らす。彼女は涙を溜めた目でこちらを見つめて解放を哀願する。「いいか」ひそやかに低めた声で、親弘は彼女の耳柄に命令を吹き込んだ、「これ挿れて待ってろ、俺、夕メシの買い物に行ってくるから」ショッキングピンクの電動ディルド、そこかしこにイボがたち、敏感な彼女の膣壁を擦ってめちゃくちゃに刺激するだろうもの、親弘が戸棚からそれを取り出した瞬間、過去の調教の記憶を顧みて彼女が青ざめる。
 弱々しく抵抗する身体を押さえつけて股を開かせ、十分に湿り気を帯びた膣穴に一息にねじ込んだ。無理に拡張されて骨盤が軋み、彼女はことさらに顔を歪めた。薔薇色に上気したほほをやさしく愛撫する。後ろ手で縛り、押し入れに背を向けさせるかたちで布団の上に転がす。そのまま、ものをしまうふりをして彼女の後ろにまわり、押し入れの仕切りを細く開けて中の様子を確かめた。暗く狭い、じめついた空間で、カチャは涙を流しながら股を濡らしていた。親弘の陰茎はともかく、女が快楽に乱れ狂うさまなど見たことがないに違いない、この生意気な小娘は。「俺がいないからって外に出るなよ、わかるな」
「あの子に何したの」縺れもつれの英語でカチャがささやく。
「あいつがしたいようにしてやっただけだよ」
「嘘つき。泣いてるじゃないか」
 バイブが激しく振動し、膣肉を刺激する音で恋人は二人の会話に気づく様子もない。親弘は満足げに目を細め、口角をひどく意地悪くつりあげて、押し入れの仕切りを閉めた。
 親弘は、すでに何度か気をやって布団カバーを湿らせる恋人を背後に、わかばハイツ二◯一号室を辞した。サンダルの足で外廊を渡り、階段を降りて地上へ降りる。奥の母屋に住む大家が駐車スペースを箒で熱心に掃除していたが、親弘に気がつくと、上品に腰を曲げてあいさつをした。「ごきげんよう」「こんにちは、利江さん」彼女のそばを過ぎるとようやく車道に出る。
 さて、彼は海外渡航を多数の趣味の一つに認識していたが、その際により手軽に交信する手段としてアマチュア無線の資格を所持していた。彼がイヤホン型の小型無線機を耳に装着すると、あらかじめ自宅に設置してあるトランシーバーが聞き取った室内の音声が、彼の耳に直接流れ込んできた。
 外を豆腐屋が回る音、やかましいほどの蝉の鳴き声の中に、淫猥な女の声がかすかに混じっている。すでに喉にかかった、プライドも臆面もないメスの獣の声、彼女は誰もいないのをいいことに思う存分乱れ狂っているというわけだ。
『ち、ちかひろ、ぉ……お、っおおぉ、ひぉっ』
 無線を通して、快楽のためにタガが外れ痙攣し続ける身体の動きが手に取るようにわかる。
 彼女の媚肉に突き刺さったディルドのモーターが間断なく回転し、いまもなお、彼女を苛んでいる。辛いだろう、口惜しいだろう、メスの本懐を果たせず、ただ無機物に蹂躙される気分はどうだ。手足を動かすこともままならず芋虫のようにのたうち回る、美しい彼女のことを思うと親弘は内臓までを洗われるような深い感慨に打たれるのだった。往来だというのに舌なめずりが抑えられない。
『おおっ、ぉ……は、激しい……ひっ、ひっひぃっ、お、おっ、おぐぅっ! い、イッちゃう、また、ま、まんこでぇ、イクっ!』
 親弘はうっとりと空を見上げた。夏の雲が真っ白に燃えている。

 歩いて三百メートルほどの地点に、オレンジのクローバーに緑地のロゴが印象的なライフ竹の塚店がある。親弘はそこで野菜を買い、ついでにビールも三缶ほど買い上げたが、無線の向こうの恋人の悲鳴がさらなる熱を帯びるのを待ちたいと思い、続いてラーメン鳳凰堂にも立ち寄った。店主の厚意で、ビールと引き換えに豚骨ラーメンをいただいた。麺を啜り終わった時ようやく、恋人が親弘に許しを乞い始めたので、親弘は立ち上がって店主にいとまを申し出た。
 玄関扉の錠を開いてすぐ、親弘の鼻先にじっとりとこもった女の匂いがたちこめた。冷蔵庫に野菜とビールを入れ、ビニール袋を縛ってこれも戸棚の中に入れた後でようやく恋人に近寄ると、彼女は汗と尿と白濁した膣液でずぶ濡れた布団カバーの上で、なおも激しく振動するディルドに狂ったように身体をくねらせていた。手足を縛るロープがことさらに彼女を無様なものにした。親弘が戻ってきたことに気づいて顔を上げ、彼女が希望と涙に塗れた目で親弘を見る。「ご、めんなさ、ちかひろ」
 声はすでに掠れてほとんど聞き取れない。頼んでもいないのに、彼女はサンダルを脱いだばかりの親弘の素足を懸命に舐めた。足の指一本一本を薄い唇でしゃぶり、踵の裏までを小さい舌で湿らせるように愛撫する。親弘はひどく優しい表情を作って彼女のところにかがみ込み、脚の拘束を解き、赤くなった紐の跡を指で撫でた。かと思えば再び立ち上がって、恋人の唾液で濡れた足先で、膣穴に埋まったディルドを乱暴に掻き回した。
「お、ふぅうっ!」
 勃起した陰核までもがディルドの肢の部分に押しつけられ、びくんと全身を痙攣させて彼女は達した。そこでようやくモーターの電池が切れてディルドが停止した。

 

 

 

 長く続いた赤い荒野もそろそろ終着だ。宙の方へ手を差し伸べるような形で切りだった崖の向こうに、光の帯が幾筋も揺れて輝く海が見える。最初にそれを見つけたのはまりなだった。極めて健康的な生活習慣によって子どもの頃から一切損なわれることのなかった視力が、荒野の終わり、それからその向こうへ無窮に広がる海の広がりを確かめた。オープンカーのフロントガラスに手をかけ、大きく身を乗り出して、彼女は歓声を上げた。
「あぶない!」
 運転席から白い腕がぬっと伸びてきて、洗いざらされた柄もののシャツ裾を強く引いた。まりなは悲鳴を上げて、そのまま後ろにひっくり返った。座席の頭おきに背中を強くぶつけて涙目になる。
「何するの!」
「何するのはこっちのセリフだ、ばか! 落ちたらどうするんだ」
 ハンドルを握って正面を向き、繊細な薄い唇に煙草を咥えたまま、小銀が器用にまりなを叱りつける。まりなは彼女を愛していたので、背中をぶつけたことはいったん不問ということにして、おとなしく助手席に納まった。彼女はまりなを一瞥し、大人しく従ったことを確かめてすぐ視線を正面に戻した。ディオールのバタフライ・サングラスのふちがきらりと夏の白昼の光を帯びる。流れる風に吹かれて、無造作に巻いた赤毛が勢いよく後ろに散らばる。
「海が見えたの」跳ねっけのある髪を指でもてあそびながら、まりな、「だからもう少し見たいなと思って」
「崖のそばにモーテルがあるから、そこで見ればいい。飲食店もあるはずだな」
「ビール飲んでもいい?」
「仕方ないな」
 やったあ、まりなが彼女に抱きつくと、今度こそ運転が大きく乱れた。またお小言を頂戴する前に、剥き出しになった生白い首にかじりつく。そのまま唇をぴったりとくっつけ、鼻で汗ばむ皮膚のにおいを嗅ぐ。夏を過ぎて熟れきった花、彼女の身体の香りに、男ものの香水のにおいが混ざる。小銀はあまり身なりに気を遣わない。身だしなみが悪いというわけではないが、女のように着飾りたいと思っていない。化粧もしない。それでも、彼女はこんなにも魅力的だった。
 崖の先にある店は、飲食店というより、ここ一帯によくある質の悪いカフェーといったありさまだった。客がどことも構わず煙草を吸うので窓も壁も煤だらけだったし、テーブルも椅子もがたがきて不安定なものばかりだった。言葉は通じない。それでも、身振り手振りを交えて注文を終えて席につくと、疲労がどっと押し寄せて来た。それでもビールばかりは瓶詰めになっている比較的新鮮なもので、冷たく、炭酸もまだ少しばかり残っていた。まりなはネグラモデロ、小銀はコーヒーとミートパイを注文した。彼女のいつものセレクトだった。
 尻の小さい黒人のウェイトレスが、盆に乗せて運んできた。大してうまそうでもないのに、小銀は泥みたいなコーヒーとミートパイを表情もなく黙々と食べた。さて、キッチンで調理を担当しているらしい太った男の店員が、ジロジロとこちらに視線をやっているのに気づかないふたりではない。この国では、彼女のような、美人で色の白い女に需要があるらしい。代金とチップを渡して店を出、ついでモーテルに入りカウンターに向かうと、さっきの男の店員が出てきた。
 男は嫌いだ、と、まりなは思う。粘着質で寂しがりやで、夢見がちだ。まりなには幼なじみの男の子がいたが彼もたいがいそんな感じだったと思う。もうしばらく顔も見ていないから、具体的には思い出せそうにないけれど。
 室外機のモーター音が殊更に気に触るような夜半、駐車場、つまりふたりがとった部屋の壁を挟んだ向こうで、何者かが金属の部品をこじ開ける音がした。はっと顔を見合わせ、ベッドから外に出たふたりが駆けつければ、もう誰もいなかったが、オープンカーの給油口が開け放たれていた。ほぼ満タンにしておいたはずのガソリンがない、トランクを覗けば備蓄分もまとめて持ち去られている。まりなが憤慨する横で、小銀はフロントガラスに貼り付けられていたレシートのような白い紙を睨みつけていた。どうしたの? 聞くまでもなく、振り返って彼女が微笑した。
「すこし外す」
 物分かりの良いふりをして頷く、それ以外に、まりなに何ができただろう? ガソリンがなければ帰れない、帰れないということは、ここで死ぬということだ。死ぬわけにはいかないので、頷く、それだけだった。
「いいのか行かせてよ、ぜったい無事じゃすまないぜ」
 建物の角に消える彼女の、ほっそりとした頼りない背中を見送って、まりなの隣にいた男の幽霊が言う。首を振って否定の意を示せば、彼は口角を吊り上げてまりなを嘲笑した。
「ずいぶん利口なんだな。情けねえこった」
「いいの……あなたになんて一生わからないことだわ」
「そりゃ、そうだなあ」
 幽霊にわかるわけがない、一生なんて、彼にははじめから存在しないのだ。
 薄い壁越しにかすかに聞き取れる物音が途切れたと思ったら、彼女が戻ってきた。酒に酔った感じでふらつきながら、ドアを開けて迎えたまりなの胸元に、紐を解いた花束のように落ちてくる。体温が高く、呼吸も脈も早い、それなのに身体は異常なほど震えている。皮膚からあの好ましい香りが失われ、代わりに強いマリファナの匂いがする。まりなも同じようにぶるぶる震えながらその身体を抱いた。冷たくて嫌な汗が全身に滲んだ。
「ガソリンは……戻ってるはずだ」
「うん、うん」
「まりな……」
 キスをねだられてそのとおりにした。脱がせるまでもなく彼女は裸だったから、その薄っぺらな肉体を薄っぺらなベッドに引き倒して、まずは緩んだ膣口から大量に注がれた大量の精液をかき出した。ぬめぬめとした白い粘液の中であの男の精子が無数に泳いでいるのかと思うと、鳩尾のあたりに堪えきれない吐き気が訪れた。涙も流れた。彼女が乾ききって泣くことすらできないのが悔しかった。ああ、あんなにも欲しかった彼女がいま、手の中にあるというのに、こんなにも苦痛と不安ばかりなのはなぜ? ふたりの間に束ねられたものが不幸せの花ばかりなのはなぜ? 
 あざだらけの乳房、乳頭を吸い、生理的に濡れる陰唇を弄る。陰核を指先で強く擦ると小銀は短く息を呑んで達したが、声を上げることもなければ、快感を貪るでもなかった。彼女の肩にすがりながら、まりなは大声で泣いた。
 モーテルを出るさいの見送りは、男ではなく、あの色の黒いウェイトレスだった。彼女が金を払っているあいだに車を確認しに行くと、給油口にもトランクにもガソリンが戻っていた。それを確認し、冷えた心のまま助手席に戻る。ふいに隣から声がしたかと思ったら、幽霊がにやにや笑いで運転席に納まっていた。小麦色の腕を座席のふちにかけ、もう片腕で頬杖をつきながら、脚を組んで座っている。
「まだ、戻る気にならねえか」
 存外に冷たく言われて、まりなは俯いた。
「あなたに何がわかるの……」
「さあな、だが、俺は行く。うまくやれよ。まりな」
 苦々しい思いで、どの口が、と吐き捨てる。車の収納を開けて探り、取り出した新品の煙草に火をつけて思い切り吸う。すぐに咳き込んだが、煙を吐き出すと心は少し落ち着いた。
「あなただって……だめなの、どうして、連絡も寄越さないで! どうしろって言うのよ!」
「だから、うまくやれ、って言ってるんだ」
「……」
 チェックアウトを終えた小銀が戻ってくる。美しい赤毛が強い陽光に輝く。そして、彼女に視線をやった一瞬の隙に、幽霊は消えた。視線を再び隣の席に向けた時には、既に姿は見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 長野県木曽郡の南部に位置する山間の村、舟樫村が、吉野まりなの故郷だ。東を木曽山脈、西を阿寺山地に挟まれ、JR舟樫駅と県道十九号線以外に外界への扉を持たないこの閉鎖的空間に彼女は生まれた。人口およそ五百人ほど、そのうちのほとんどが高齢者、彼女と同い年の子どもは近所に住む金子親弘ただひとり、それも小学校に進学するまでお互いがお互いの存在を知らなかった。小学校と中学校は村の中にあったが、高校は電車で三十分ほどかかる上松町まで出向かなければなかった。そこで榊小銀に出会った、彼女もまた舟樫村の生まれで、しかし中学までは東京から呼び寄せた家庭教師に勉強を見てもらっていたらしい。親弘は彼女にすっかり惚れ込み、まりなが知らないうちに二人でとっとと籍を入れてしまった。
 舟樫村の人々は、大地主の娘である小銀を眼下のたんこぶと嫌い、その一方で親弘とまりなが結婚して村に住み着き子どもを増やすことを期待していたので、二人の結婚は歓迎されなかった。そういうわけで、二人は卒業と同時に東京に出ることを決めたらしかったが、まだ二年も余裕があるということで村で好き好きに遊んでいる姿が見られた。上松町の、県道沿いにあるラブホテルに出入りすることもしばしばだったが、教師もホテルの支配人も榊家に土地を握られているためとても口出しできないのだった。子どもができ、五か月めに流れた。しばらく沈んでいた二人も、時が経てば殊更に熱っぽく、激烈に愛し合うようになった。まりなはそれを微妙な気分で眺めていた。それでよかったのだが。この状況はなんだろう?
 目を覚ましたまりなは、自分が全裸で床に転がされているのだということにすぐ気がついた。慌てて手で身体を覆おうとするも、何かで手首を後ろにくくられているらしく身動きが取れない。脚は自由に動く。そこでようやく、周りの状況を確認する余裕が彼女に訪れた。
 けばけばしくカラフルな色取りの天井、四方全面ガラス張りの壁、安っぽい赤の絨毯を貼った床。まりなが今転がっているのはここだ。電源の落ちたテレビ、首振り式の扇風機、目と鼻の先に大きなベッド。その上で、裸になって絡み合う親弘と小銀。乳房を震わせ、身をくねらせて抵抗のそぶりを見せる小銀の濡れた陰唇、そこへ盛んに出入りする勃起した陰茎を目撃して、まりなは腹の底から大声を出して叫んだ。
「お、目えさめたか」
 網の中に囚われた哀れな魚のようにもがく幼馴染を見下ろし、愉快そうに口角を吊り上げて親弘が笑う。「わりいな、ちっと待ってろよ」言いながら、ただでさえ細く壊れそうな小銀の身体を布団の上へ強く押しつけて腰を振った。上から圧力をかけて押し潰されて、彼女は、まりなの愛する彼女は、喉にかかったあえやかな声で嗚咽する。圧倒的な上位種族が、かよわく小さな生き物を鋭い牙を持ってして捕食するようなセックス。肉を断たれ、骨を砕かれて、女は自分がなすすべなく劣等種だということを思い知らされる。いつも涼しいまなじりで、どんな理不尽にも、どんな不条理にも立ち向かってゆく勇敢な彼女。透き通るような美しい皮膚にかすかな血色をのぼらせながら、親しげにまりなに微笑んでくれる彼女。その彼女が、恥も外聞もなく泣き叫び、男に助けを求めている。腰をくねらせて男に媚びへつらい、濡れた肉を持ってして男を歓待している。汗みずくになりながら、涙と生理的な洟水に凛とした顔を濡らしながら、屈服させられる悦びに耽溺している。
 すべらかな背中をそらして彼女が絶叫する。親弘が満足げに息をつく。それでも屈強なままの彼の陰茎が引き抜かれて、弛んだ膣口はねばついた精液を大量に吐き出した。尿道からは断続的に透明な体液を漏らしている。あまりにも無様な女の痴態に、激しい興奮と拒絶感を持て余してまりなはその場に嘔吐した。親弘が半笑いでベッドから降りてくる。全裸の小銀やまりなとは対照的に、彼はまだ制服のスラックスを履いたままだ。
「なに笑ってるのよ、あ……なたのせいでしょ、こんなところに連れてきてどうするつもり」
「おーこわ。そう怒るなよ、悪いけど今回のユダは俺じゃないぜ、なあ?」
 肩をすくめて親弘が視線を投げかけたのは、ベッドの上で脱力したままの哀れな小銀だった。彼女はぐったりとして焦点の定まらない瞳でまりなを見た。可憐に微笑む。
「まりなが……わたしのせいで、ずっと前に進めないでいるって、親弘がいうから、だから……」
「そういうわけだから、今日は俺たちがおまえを抱いてやる」
「は……いや、やめて、離して!」
 親弘に抱え上げられてまりなは喚いたが、この部屋自体に防音処理がされているということは容易く想像できたし(いくら田舎の建築とはいえラブホテルなのだ)、後ろ手に縛られた状態で逃げようとしたところでたかが知れている。そのまま小銀が横たわるベッドの上に転がされた。
「まりな」
 ほっそりとした冷たい指が、さらに何か言い募ろうとするまりなの唇をそっとおさまえた。視界いっぱいに広がる、早朝の新雪でこしらえたような、白く静謐な小銀の美貌。鼻先が触れ合うほどの距離で見る彼女の瞳の中では、まりなが小さくなって怯えていた。
「まりな、大丈夫だ。怖がらないで」
 ふっくらと柔らかな唇が、まりなの唇に重たく触れた。冷たい舌の感触を下唇に感じてまりなは小さく悲鳴をあげた。神経質な粘膜をやさしく愛撫される、頭が甘く痺れる。小銀、まりなが愛するたった一人の女の子、手に入れたいと願いながらも、先に男に掠め取られてしまった愛おしい彼女。その彼女が、こんなふうにまりなを愛してくれるなんて。
 夢にまで見た彼女とのキス。舌は歯の内側に入ってきて、歯茎を舐めまわし、口蓋をくすぐり、喉の奥で怯えるまりなの舌に絡んだ。彼女の唾液は蜜のように甘い。しぜん、まりなも夢中になってゆく。彼女のふわふわの髪をかき抱き、積極的に舌を絡め返した。
「はいストップ! 俺のこと忘れてんなよな」
 親弘の乱暴な手がまりなの夢を邪魔する。彼は、軽く息の上がった小銀に軽くキスをして抱き締めると、振り返ってまりなの唇を奪った。小銀のものとは違う、かさついた熱い唇が、まりなの唇を吸う。雑で荒々しい口づけ。すぐに舌が侵入してきて口腔内を掻き回し、音を立てて唾液を泡立てるのが、塞がれた耳がらの中で克明に響く。頭の芯まで親弘に犯されている。まりなはぎゅっと目を瞑って恥じいる。
「はは、かわいー顔」
 ようやく唇を離した親弘が、舌なめずりをしながら、ひどく意地悪な顔でまりなを見下ろした。「そうしてると最高にそそるぜ、委員長さん」
「親弘、あまりまりなをいじめるな」
 優しい小銀は、まりなの手首を拘束していた麻紐を解いてくれた。きつく痕のついたそこにキスをされ、くすぐったさに思わずあえやかな声が漏れた。