2020年7月18日

B-3

「アキ、まだ何か言いたいことがあるのか」
「いいえ、遊星、告白するわ、私あなたのことがまだ好きだったの、あなたと別れたこと今でも後悔してる、あなたと別れてからあなたがやさしくしてくれたこととかかけてくれた言葉とか思い出してむなしくなったわ、どうして振っちゃったんだろうって、ごめんなさい遊星、だから帰ってきて、もう一度やり直してほしいの、あなたがそのジュウダイさんをすきならもうそれでもいいわ、ただ私をもういちど女として見て、遊星、遊星?」

 気づくと遊星は眠っていて目を覚ますと夜になっていた。彼は寝返りを打ち眠る十代を眺め、そのうつくしいまぶたやベッドサイドの明かりに照らされてぼんやりと光を戴く鼻頭などを見た。洗いざらされたようなむだのないシルエットを描くうなじから耳裏にかけて遊星が色濃く濃厚に愛した証拠が残っていた。シーツは彼女の腹までをしか隠しておらず、彼女の、何もかもに取り残された孤独で美しいからだ、その乳房が遊星の前に露出されている。音をつけてしゃぶりつくと彼女はいつも首を振ってよがる。しかし今はどうしてかそんな気分になれなかった。彼女は無防備に、遊星のわきのあたりに頭を載せて安らかに呼吸を繰り返していた。
 遊星は彼女の栗色の髪を小さな頭にそっとなでつけた。ずっと、こうして眠るのが夢だった。彼女は用心深かった。近くで見ていると、彼女は男を魅了し甘く誘いながら、どこかで愚かな生き物を眺めるようにつめたく見下している感じがした、つけた仮面の奥で常に人をうかがっているようだった、しかもそうと気づかせずに万物を欺く演技ができる。出会ってから数日は、彼女は遊星と共寝をするときに寝顔を見せたりなんかしなかった。いつも起きるのは彼女が先で、シャワーを浴びた手の素肌で遊星を誘惑した。しかし、今、彼女は遊星の腕の中で安らかに眠っている、子供のようにあどけない表情で、起きているときのふるまい、たとえばヨハンについて語る唇や貪欲に遊星を受け入れる子宮など、そういうものを感じさせない、ミルクを飲んで満足した赤ん坊の顔をして眠っていた。やっとこんな日々がやってきたと遊星は思った。彼女の帰る場所が自分であるように、自分の帰る場所もまた、彼女なのではないかと、そういう風に考えられるようになったのだ。
「ん……、遊星?」
 頭をなでられて気持ちよさそうに目を細めながら、彼女は遊星をぼんやりと見つめた。遊星は彼女のすべらかな手の甲にキスをし、自分でも驚くほどやさしい声で彼女に挨拶をした。
「おはようございます」
「ゆうせ……今何時?」
「二三時です。十代さん、飲みに行きませんか?」
 七年物のラムをストレートで二杯立て続けに飲んだ。喉と胃が気持ちよく熱くなったが全然酔えない。バーは吹き抜けになったロビーフロアの一番奥まった場所にある。夜のヴァラデロビーチから冷えて乾燥した風が吹いてくる。
 フロアには二人と黒人のバーテンダー以外に誰もおらず、奇妙に静まり返っている。遊星はそっと十代の横顔を盗み見た。小ぶりな真珠を二つ耳たぶの上に着け、足首まである黒のドレスを身に纏うと、昼間のかわいらしく淫乱な彼女の姿は鳴りを潜め、遊星の心底ほれ込んだ、美しく気高い、しかしどこか破綻を見せる女優の姿が浮かび上がってくるようだった。カウンターの天井に取り付けられた淡いオレンジの照明が彼女の長い睫を照らしている。十代はけなげにも遊星に注文を頼み、彼はドライマティーニをロックで割ったものを彼女のために用意させた。強い酒を飲み、彼女はすぐに遊星を求めた。
 チェックインカウンターのすぐ横にある手洗いに入って、よく掃除のされた個室の、マリンブルーのタイル壁に彼女の肩を押し付けた。冷えた石の感触に十代はひくりと息をのみ、しかしそれも一瞬で、すぐにドレスの裾を太ももまで引き上げて遊星の官能を誘った。
「ヨハンがな」
 遊星が乳房に触れるのを受け入れながら、彼女は耳元に語り掛けてきた。
「オレをトイレで抱くとき、いつも、オレに口ですることを要求した、オレがじゃないぞ、あいつがしたがって、オレはその要求を受け入れた、オレはヨハンの顔は見れないのにただ気持ちいいだけで終わるからそういうのは好きじゃなかったんだけど、ヨハンが喜ぶからいいやと思った、きみがするいつものじゃなくて、ずっと、それだけでおわるんだ、オレは嫌がって途中から泣いちまうんだよ、だってヨハンの顔が見たいんだ、でもヨハンは許してくれなくて、そのうち気持ちよくてオレはもっと大声で泣く……」
 遊星がかがんで彼女の性器を愛撫すると、彼女はいつもより少しばかり高い声で泣いた。
 彼女を先に部屋に返し、遊星だけが残ってさっきのラムの残りを飲んでいると、笑いながらバーテンダーが話しかけてきた。彼は、あの女は恋人なのか、と聞いてきた。
「それが何か?」
「悪かったな、見るつもりはなかったんだ、ただ気になってな、あれは誰なんだ?」
「女優だよ」
 とびきりのな。スペイン語をしゃべっただけで遊星はほっとした。そのバーテンダーと会話するだけで、なにかどろどろした重いものが身体から出ていくような感じがした。言葉には大変な力がある。女優は言葉で遊星に魔法をかけたのだ。
 遊星はかいつまんで彼女の話をした。美しい人だが、美しすぎて、どこか変にも思えるんだ。元恋人と話をしてから遊星の心の中にはどこか不快な違和感が残っていた。
キューバ人か?」
「日本人だ」
「あんたのことは見たことがある、このあたりに住んでいるんだろう」
「そうだ、俺は学生だ、ここには留学に来ている」
「なぜあの女をカルドーソのところに連れて行かないんだい」
「カルドーソとは誰なんだ?」
「占い師だ、チャンゴーと話ができる」
 チャンゴーというのはアフロの神の中の一人だ。
「カルドーソは物事をはっきりさせるんだ、その人間が本当は何者なのかはっきりさせる、カルドーソはチャンゴーの力を借りて、その人間があるべき姿を示す、それ以外にはその人にはありえないという姿を見せてくれる」
 その女は女優なんだが女優でも大丈夫だろうか、と遊星は聞いた。
「その女が本当は何者なのかわかるよ」
 バーテンダーはそういって何度もうなずいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 チャンゴーというのは雷の神だ。サンテリア、つまりキューバンウードゥーは個人あるいは集団の信仰であり、同時に、より一般化されて芸能としても残っている。
「どのくらい、かかるのか」
 と遊星はバーテンダーに聞いた。
「おまえたちの場合、外国人だから、当然ドルで払うことになる、この前スペイン人が千ドル払ったと聞いたな、女優なんだから、そのくらいの金は持っているだろう」
「あんたはカルドーソに診てもらったことがあるのか」
「冗談を言わないでくれよ、俺みたいなバーテンのどこに金があるっていうんだ」
「それは、すまなかったな」
「おまえもついでにカルドーソに診てもらえばいいじゃないか」
 バーテンダーが、四敗目のラムを遊星のグラスに注ぎながら言う。
「千ドル払えば、きっとおまえのことも診てくれると思うよ」
 カルドーソというシャーマンは何も未来を占うわけではなく、その人が本来何者であるかを示すのだという。遊星のスペイン語ではその詳しい意味が分からない。
「それは、職業なのか」
 そう遊星は聞いた。あなたは女優には向いていない、例えばそういうことを言われるのだろうか。
「職業のことを言う場合もあるが、それだけではない、俺は人の話を聞いただけなので詳しいことは知らないが、俺たちは、一つの肉と一つの精神ですべての人生を生きているわけではない、その中のどれが本当の自分なのか、カルドーソは教えてくれる」
「例えば人殺しの俺がいて、カルドーソがそれを本当の俺だと言ったら、どうすればいいんだ」
 遊星がそう言うと、おまえは怖がっているんだなと、バーテンダーは笑った。もし俺だったら、とバーテンダーはカウンターから身をのりだし遊星の耳元にささやいた。
「もし俺だったら、何事もはっきりさせたほうがいいと思うね、カルドーソに限らず、ほかのシャーマンに関しても、いいことばかり言うわけではない、聞いた話だが、カルドーソに診てもらった人間の中には自分の命日を教えてもらったやつもいるそうだ、どんな方法で聞いたのかはしらないが、俺はそれでもいいと思うけどね、物事ははっきりしたほうがいい」
 遊星はそのバーテンダーに五ドルのチップをやって、カルドーソというシャーマンの住所を聞いた。カルドーソはハバナの旧市街に住んでいた。
 部屋に戻ると、十代はすでに眠っていた。遊星のジャケットを握りしめていたので、その背中を抱きすくめるようにして遊星も眠った。
 
 エアコンの壊れたメルセデスの窓を開けると、生温い風が吹き込んでくる。ヴァラデロからハバナまでの道は、ハイウェイという名称がついているが、路面から一瞬も目が離せない。あちこちでコンクリートに亀裂が入り、舗装が割け、大小の穴が無数にある。中央分離帯もないし、路肩も大きく崩れている箇所がある。だが景色は悪くない。ハイウェイの両側には延々と遥か彼方までサトウキビ畑が広がり、農民がマチェーテと呼ばれる半月型の鎌を持って悠然と馬を進め、いたるところで牛やヤギが草を食んでいる。
 遊星はそのようすを横目で眺めてため息をついた。喜びからのため息だ。
「あのさ」
 ハバナに行こうと思うんですがどうですか、今朝、そういう風に切り出した遊星の弁解を、声を上げることで十代は阻んだ。
「どうしたんですか」
「赤ちゃんができたんだけど」彼女は言いにくそうに首を曲げ、遊星の手を握ってつぶやく。
 遊星が何か言おうとする前に、十代は矢継ぎ早に言葉を並べてみせた。
「その、けさ、遊星がトイレに行っている間、どうしても気分が悪くてベッドから出られなくて。最初は病気だと思ったんだけど、なんだか体験したことのない気持ち悪さでさ、胃がひっくり返って本当のオレが中に入っていってしまうみたいな、そういうきもちわるさだったんだ。で、もしかしてって思って確認してみたら、できてて、あの、遊星がそこまでやるきじゃなかったってことはわかってるんだ、きみ、すごく生真面目だろう、拒絶されたらどうしようって思って、それで言えずにいたんだけど、俺ばっかり一人でうれしくて、その」
 冗談だろうか?しかし十代の表情は真剣で、その目じりにはかすかに涙がにじんでいた。「きみとオレの子だよ」
 彼女は遊星を見た。下瞼は赤く色づき、この予想もしなかった喜びに上気してふわりと優しい温度を呈していた。
「ほんとうに?」
「オレがきみに嘘を言うとでも?」
 白い手を取って、その温度を確かめる、丸みを帯びた細い腰は触れても何の変化もないように思われた。しかし、その手のひらにめぐる血潮の中には確かに遊星の遺伝子が入りこんでいて、彼女の薄い腹の中に、実るものを実らせた、という。
 抱きしめてみると、彼女は珍しく嫌がった。赤ちゃん、つぶれちゃうから、と抵抗する。
「十代さん」
「遊星……」
「十代さん!」
 朝の陽ざしが差してきて光芒を作るなかに二人は立って、しばらく抱きしめあっていた。
 十代がほほえんだ。そして、遊星の首のあたりに頭を載せ、深く息を吐いた。それはまるで人間が安心した時にやる呼吸だった。
「うれしいです」
「本当に?」
「はい。あなたと、俺の子ですか、実感がわくとなんだかうれしくなるものですね。よかった。あなたの願いをかなえることができてよかったです」
「遊星!」
 大好き、と叫んで、十代は遊星の肩を突き飛ばしベッドへと雪崩こんだ。
 目が痛くなるような青い空を雲が非常な速さで流れている。風はサトウキビやオリーブの灌木を揺らし、草原全体、丘陵ぜんたいがやさしく波を打っているようだ。
 一時間ほど走って、シェンフエゴスという街を通り過ぎた。美しい歴史的な街で、コロニアルな建物の周りを運河が巡り、その上を名前のわからない白い水鳥が一斉に舞い上がる。町を右手に見ながら走っていると、十代は、オレはここに来たことがある、と言った。
「ここはなんていう町なんだ」
 シェンフエゴスです、と遊星は教えた。
「ここで、古い古い、バンドを見たんだ、メンバーはおじいちゃんばっかりで、ギタリストは目が不自由だった、が、とてもロマンチックな演奏をした、演奏は子どものころに見た社交ダンスのおねえさんを連想させた、オレはメンバーの一人と踊ったんだ」
「それは、どこかのナイトクラブですか?」
「いや、どこかの、まるで夢のように美しいボタニカルガーデンだった」
「パティオ?」
「そう、小さな噴水があって、緑に覆われていて、白い壁の向こうには濃いブルーの空があって、白い壁だから空の青が目立ってとてもきれいなんだ、昼間だった、それも真昼だったんだろうな、スカートのすそをひらひらさせながら踊っていて、影がものすごく短かったのを覚えているから、近所の人たちがみんな集まってきて、レモネードやワインや、そのほかのお酒を飲んで、みんな踊っていて、とても楽しそうだった」
「それは誰かのパーティーか何かだったんですか」
「いや、違う、ヨハンがキューバの音源を集めていて、音楽家はヨハンのために演奏したんだ、どこの町に行ってもミュージシャンや歌手やバンドがヨハンのために音楽を披露した」
 横目で助手席の十代を見ると、窓の外を眺めながら、涙を流していた。涙はほおの薄い皮膚の上を流れ、細い顎を伝って、まるで雨だれのように垂れていた。十代は、自分が泣いていることに気づいていないようだった。涙を拭こうとしない。化粧の上に涙の筋ができていた。十代は表情を変えずに、つまり顔をゆがめたりすることなく、また声を出すこともなく、シェンフエゴスを通り過ぎるまで泣いていた。
 道路には、子供連れや、荷物を持った人が立っている。ハバナへ行くバスもあるが、いつ通るかわからない。ヒッチハイクをする人々の中には軍人も目立つ。ハイウェイを通る車の数は決して多くない。時々荷台に人をいっぱいに乗せたトラックが通る。
「昔、この道路を、夜に通ったことがある」
 十代がそう言った。窓からの強い風で涙が乾いて、顔にピエロのような線ができてしまっている。だが、遊星は十代の顔をきれいだと思った。
「信じられなかった」
 十代は、かすかな微笑みを浮かべて言った。
「夜の空を覆いつくすように、星が輝いていたの」

 シェンフエゴスの町を過ぎると、道路の両側の景色は赤土と草とオリーブのまばらな林に戻った。道路は強い日差しに照らされ、まるで銀色のレフ板のように輝いてサングラスをしても目を細めなくてはならなかった。十代は身体を伸ばすようにして、開け放した窓からの風に髪を揺らしながら遊星との対話に興じている。
 遊星は陽炎が立つ前方の道路に危険な穴がないか目を凝らし、風に乗って運ばれてくる強い草いきれの匂いを嗅ぎながら、十代の言葉に相槌を打った。彼女の話題はもっぱら遊星との子どものことになっていた。「遊星は、子ども好きか?」町を過ぎてだいぶ過ぎるころには、そういうことを嬉しそうに身を乗り出して聞く彼女の姿があった。遊星はいとしいものを見る目で優しい笑みを浮かべ、頷いた。
「はい」
「男の子と女の子、どっちがいい?」
「あなたとの子ならどちらでも。ああ、でも男の子だとあなたをもっていかれてしまうかもしれないから、女の子がいいです」
「なに言ってるんだよ、馬鹿だなあ、遊星は」
 牛の群れが道路を横断していた。遊星はメルセデスのスピードを緩め徐行したが、対向してやってきたトラックは激しくクラクションを鳴らし牛の群れの間をすり抜けるようにしてそのまま通り過ぎた。トラックのせいで牛は一度隊列を乱したが、ヤシの葉で編んだ帽子をかぶった牛追いの二人の少年は何事もなかったようにゆっくりと道路を渡った。一人はマチェーテというサトウキビ狩り用の半月型の鎌を持ち、背丈の低いもう一人はオリーブの小枝をもって牛を追い立てていた。二人は一つのマンゴーを手渡しながら交互に運んでいる、マンゴーは熟れていて彼らの小さな手の上でつるつると滑った。
 遊星は親になった自分と十代の姿を想像した。そうすると、二人の少年の背を追ってゆったりとついていく、一組の夫婦の姿が浮かび上がってきた。男性はグアヤベラというキューバの民族衣装に身を包んでおり、傍らで二人の少年を見つめる女性の肩を抱いて悠然と歩いていた。女性の腹は大きく膨れており、妊娠していることは明らかで、少年たちの弟か妹になる子供がいるのだろうと遊星は思った。
 彼らは少年たちに追いつくと、二人の手に新しいマンゴーをやった。そして四人で道の向こうへと消えていった。十代は、赤土の草原からオリーブの灌木の間に牛の群れが連なっていくのをずっと見ていた。灰色の牛たちはその間一度も鳴かなかった。こうやって車で走っていても、キューバでは何もかもが、色と輪郭のはっきりとした残像となって目の裏側に刻まれるような気がする。空はあらゆるものを圧倒して青く、かなたまで広がる大地は目を刺すような赤だ。樹木は、グリースで濡れているかのように濃い緑を際立たせている。
「このあたりに、公園があるだろう」
 牛たちの群れが消えていなくなると、干からびた道路のひびを数えながら、十代はそういうようなことを聞いてきた。
「公園ですか」
「公園があるところなら、安心して育てられると思わないか」
 十代の話し方は穏やかで、混乱も少ない。何百回と一人で練習した台詞や出来事ではなく、ふと思い出したことを話しているからだろうと遊星は思った。
「真夜中に、その公園でひとりのおばあさんに出会ったんだ」
「おばあさん?」
「そう、やせていて、パンクロッカーみたいな黒いシャツを着たおばあさん、ヨハンが音源を集めるために尋ねた、伝説の吟遊詩人だ」
 なまえはイザベラと言うらしい。ヨハンは十代を伴ってヴァラデロからシェンフエゴスへ行き、その帰りにイザベラの家へ寄った。彼女の家は坂道にあり、もう真夜中だったが、娘と名乗る人が出てきて、イザベラはこの時間はいつもすぐ近くの公園にいる、と教えてくれた。ヨハンと十代は車を降りて歩くことにした。坂道を横に折れ路地のような細い通りを歩いた。雨が降った後で地面は湿ってぬかるみ、十代はヨハンの腕にしがみつきながら足を進めなければならなかった。イザベラの家から教えられた公園まで、街頭は一本もなく、わずかに明かりが漏れている家が二軒あるだけだった。フィレンツェやウィーンの旧市街に似た中世の様式の、レンガが半ば崩れかけた街並みが、弱々しい黄色の明かりと、点滅するブルーの明かりに照らし出されていた。目が暗さに慣れてくると、町全体が、夢の中に沈んでいるように見えた。路地の両側に建物が密集しているために、空は一部しか見えなかった。細長い長方形に切り取られた空を、雲が滑っていくように流れていた。白っぽく見える厚い雲だった。
 こういう場所では、と歩きながらヨハンが言った。こういう場所では、夜を近くで感じることができる、ふつう南の国の夜は柔らかくて暖かいし、北の国の夜は硬く、とがっている感じがするものだ。でもここは違う。キューバの、夢のような南国の夜は、昼間のうちに人々が吐き出した呼気を思い切り吸い込んだせいで湿っていて窮屈だ。粘ついた液体になってしまった空気を取り入れ、なまった身体をむりに動かそうとすると、夜がいきもののようにしてこの街に横たわっているのだとわかる。今俺たちは夜のいろいろな器官に触れながら歩いているんだ。そういうことをヨハンは十代に言った。夜がいきものだと人生の中で何度感じることができるかと俺はときどき思うことがある。
 公園はまるで夜という生き物の陰部のようだった。暗く、湿っていて、いろいろなものが混じったいやらしく甘い匂いがしていた。熟しすぎて捨てられた果物、どこか茂みの中で死んでいる小動物、ビンが割れて地面にしみこむ強い酒、貝殻を砕いて作った砂の石灰質、夜光虫の群れ、風を受けて呼吸する肉の厚い植物、それらが混じったような匂いだった。こんな暗いところでどうやってビデオカメラを回せって言うんだ、と笑いながらヨハンが十代に言った。映るのは亡霊だけかもしれない。
 イザベラはベンチに座って酔いつぶれていたが、二人を見つけると立ち上がった。キューバの伝説的な吟遊詩人というより、パンクロッカーのようだと十代は思った。右手にギターを持ち、真っ暗な公園でサングラスをかけ、背が高く、痩せていて、無地の黒いティーシャツを着て、黒のジーンズをはき、すり切れた革のサンダルを履いていた。この国では弦を自由に買うことができない、とそういうようなことをいいながらイザベラは二人に近づいた。あなたたちはどうしてこんな時間に来たんだ、わたしはもうくたびれてしまった、ヨハンがイザベラを抱きしめて、あなたに日本から会いに来たんです、と耳元で言った。するとふいにイザベラがヨハンを突き飛ばすようにした。拍子にギターの弦がなって気味の悪い音を立てた。イザベラは頭の毛を逆立ててヨハンや十代を汚い言葉でののしった。あまりに汚い言葉だったから、そのスペイン語は十代にもヨハンにも理解できなかった。そのあと、彼女は乱れた格好のまま十代の前に歩いてきて、ヨハンを顎で示し、あなたはこの男を愛しているのか、と言った。
 正直に答えろ、ヨハンが十代にささやいた。彼女はすぐに嘘を見抜く。嘘をついたとわかると絶対にうたわない。わたしは、と十代は、知っている限りのスペイン語を組み合わせてイザベラに言った。膝は震え、十代の顎から汗が伝った。
 わたしは、彼を、愛しています。
 イザベラはそれを聞くと、顔をゆがませて怒った。十代は混乱した。オレは嘘を言ったのか?オレはほんとうはヨハンを愛していないんだろうか、これでこのおばあさんはもう歌を歌ってくれないのではないか、イザベラはまた二人をののしった後、酒があったら飲ませて欲しい、と言った。ヨハンが、バッグに入れていた七年物のカリビアンクラブ・ラムの封を切って、まずサンテリアのまじないをした。新しいボトルの封を開けるときは、野外だったら地面に、室内だったら部屋の隅に、神のための一滴をこぼさなくてはならないのだ。ヨハンの儀式を見たイザベラは、それを指さして笑った。
 ひどくかすれた声で笑うイザベラをヨハンはじっと眺めていた。それは悲しいものを見るときの目だと十代は思った。イザベラは純粋で強い人のように十代には思えた。だからどうしてヨハンがそういう目でイザベラを見るのか十代にはわからなかった。ヨハンはビデオの準備を始めた。こんなに暗いのに撮れるのだろうかと十代は思った。ビデオカメラが三脚に固定されようとしているのを見て、イザベラが空を指さした。人差し指が月の光に照らされ、またすぐに雲の影に覆われた。雨になるから、あの建物の影に行こう、イザベラは公園のすぐ横の建物のテラスを指さした。その建物は民家ではないようだった。作りが大きいし、屋根も高い。町の図書館だとイザベラが教えた。
 図書館は大きな白い石を積み上げたアラベスクの作りで、ちょうど一回と二階の間に、建物をめぐっている階段がせり出したような形でテラスがあった。こういうところに勝手に入って行っていいんでしょうか、十代は、錠が壊れているらしい鉄製の扉をイザベラがこじ開けるのを見てそう言った。ヨハンがそれに対して何か言おうとしたとき、ニュアンスで分かったのか、イザベラが、気にしなくてもいい、と十代の手を取って、案内するように石の階段までエスコートしてくれた。わたしはここで何十回もコンサートしてるんだから。植物と貝と天使の模様がある鉄製の門から石の階段まで歩く間、イザベラは十代の手を握りながら短い曲をハミングした。ハミングする声も、酒でやられた喉から出るようにひどくかすれていて、この人は本当に歌えるのだろうかと十代は思った。石の階段は二人並んで上がるには幅が狭すぎたから、十代が先頭で一人ずつ上がることになった。階段に足をかける前にイザベラが、はいていたサンダルを脱ぎ、まねをするようにと十代の足を指さした。とても気持ちのいい石で作ってある、ここを素足で歩くのはこの町でも贅沢なこと。目が慣れてきて十代にはイザベラのハミングする口元が見えた。十代が靴を脱ぐときイザベラが初めてサングラスを外した。
 ハバナまであと七十キロというところにファストフードのドライブインのような新しい店ができていて、遊星と十代はそこで休んだ。遊星はアイスクリームを食べ、十代はその場でサトウキビを絞ったジュースを飲んだ。鉄のローラーが上下に並んでいて、その間に数本のサトウキビがさしこまれ、上半身裸の男が汗びっしょりになってハンドルを回しローラーを回転させる。サトウキビから搾り出た汁は機械の下に置かれたブリキの桶にたまる。そのサトウキビのジュース屋はドライブインの建物の外にあって、ヤシの葉で編んだ屋根とブルーのペンキを塗ったコンクリートのカウンターの間に撮りかふぉが下げてあり、中には緑色の跳人クリーム色のくちばしのオウムがいた。オウムはサトウキビの搾りかすと茶色に変色した何かの肉の塊をつついていた。聞きもしないのに、店員がサトウキビを絞る手を休めて、それはネズミの肉だ、と教えてくれた。十代はゆっくりとサトウキビのジュースを飲み、ネズミの肉を食べるオウムを眺めた。ヤシの葉を編んで作られた屋根から光が薄く漏れて、十代の顔に細かいハイライトができていた。遊星はその顔を写真に撮りたいと思った。女の顔を撮りたいと思うのは本当に久しぶりだった。
 イザベラは十代の足をじっと見ていた。十代は自分の足が嫌いだった。ヨハンは十代とセックスするときに、その足を舐めることがあった。またよくアンナと十代の足を比べて、アンナの足をきれいだとほめることがあった。十代は車に戻ってからも話し続ける。石で作った階段を上り始めて、本当に足の裏が気持ちよかった。冷たくて、乾いていて、ちょうどいい具合にざらざらしていた。一段一段の階段の端に肉厚な植物の鉢植えが置いてあって、十代が触れると、ぷりぷりと身を震わせた。生暖かく湿った風が吹いてきて十代の髪をさらい、やがて乾いた石にかすかな斑点ができ始めた。それまでキューバで何度となく見たものすごいシャワーが来るのかなと十代は思った。雨が、降り始めるのではなく、町全体が嵐の中に迷い込んだような、あっという間に道路が川のようになり、雨粒が車のフロントガラスに砕けちるように落ちてくるキューバのシャワー。十代の心を読んだかのように、ここの雨は優しい、とイザベラがつぶやいた。
 イザベラはテラスで、「ラグリマス・ネグラス」をうたった。黒い涙という意味の歌で、ヨハンがリクエストしたものだった。イザベラの声はそれまで十代が聞いたどの歌手とも違っていた。トロンボーンのような声だった。鼻にかかっていて、柔らかく、豊かで、かすかにかすれていて、そして金属的だった。テラスからは、白とクリーム色とオレンジ色の建物の連なりが夜に沈んでいるのがよく見えた。十代はその景色とイザベラのしわだらけの細い喉とを交互に見た。喉の血管が、高い音を出すたびに震えた。喉の奥に、声帯ではなく中世の鐘があってそれが鳴っているのだと十代は思った。イザベラが黒い涙を歌い終わり、ヨハンと十代が拍手をすると、イザベラは突然怒り出した。わたしは歌い終わった、次はあなたたちの番だ、だいたいあなたはなんなんだ、そう大きな声できかれて、十代は答えられなかった。ヨハンの恋人ではなかったからだ。イザベラは高い耳障りな声で笑った。売春婦だ、売春婦がやってきたんだ私はね、朝の儀式で最低の売春婦が来るってわかっていたんだよ、会う前からね、十代はやめてください、と言った。するとイザベラは売春婦が泣いている、と叫んだ。ヨハンは、十代、彼女に何を聞かれても答えるんじゃない、と言った。十代はどうしてヨハンが自分を止めるのか、なぜイザベラが怒り出したのか全く分からなかった。イザベラはわめき続けている。声は金属的で、聞いていると脳みそまでを引っ掻き回されるような気分だった。どうしてこんな男と一緒にいるんだ、おまえは男を愛しているといったがそれは嘘だ、耐えきれなくなって、やめてください、と十代が顔を上げると、口に含んだラムを思い切り顔に浴びせかけられた。あんたは呪われている、そういって、イザベラはギターを抱えて階段を下りて行った。
 その夜、ヨハンを二度射精させたあと、十代は彼に言われた。なぜ言う通りにしなかったんだ?十代は、
 耐えられなかった、オレがヨハンを愛していることを、否定されるのが怖かった、
 でも、十代、本当はオレのことなんか愛していないんじゃないか、
 どうしてそんなこというんだよ、
 だって、おまえはさみしがりやだからさ、イザベラと一緒だ、
 オレをあんなのと一緒にするのか、
 ちがうよ、でも、あのばあさんはさみしがり屋なんだよ、あれが歌手だ、あれが本当の歌手なんだよ、十代、あれくらいの声帯を持っている人間はこの世にごまんといる、でもああいう声で歌えるのは五人といない、そういうものだ、十代、おまえはさみしがりやで、ばかだからかわいいんだ、でもな、いつかおまえは俺のところを離れてほかの誰かの恋人になる、これは予言だ、遊城十代、おまえは俺のなんなんだ?
 十代は答えられなかった。
 二人は様々な形でセックスをした。ラム酒を飲み、ひどく酔って、ヨハンは幾度となく十代にきいた。おまえは俺のなんなんだ。アンナがよく、あなたはパパの奴隷よ、と言っていたのを十代は思い出した。だから十代は答えた。ヨハンはまじめな顔になって、おまえは奴隷じゃない、と十代に言った。
「お前は奴隷なんかじゃない」
「それじゃオレはおまえのなんなんだよ」
「少なくとも、奴隷じゃない」
 十代が、本当は何なのかわからないけど、でもオレはおまえの奴隷でもあるんだよ、それだけは確かなことなんだ、というと、ヨハンは、悲しそうな表情になった。
 夕方になり、道路の凹凸もよく見えなくなったので、遊星は小さなホテルで一晩を明かすことを十代に提案し、十代はそれを許可した。一番小さな部屋を取って、そこにはベッドとテーブルだけがある簡素な部屋だったが、愛し合うふたりにとってはそんなことはどうでもよかった。大きく海のほうに開けた窓からはウインドサーフィンを楽しむ数人の若者の姿と、宵闇に黒ずんだ島々が見える。かなたのほうに悠然とココ島の隆起が浮かんでいた。
 遊星と十代はそこで何度かのセックスを楽しんだ。途中でウエルカムフルーツのパイナップルのみずみずしい味わいを楽しみ、切り落とされた芯でしばらく遊んでから、口と手とで奉仕をさせ、かつてない情熱的な情交を楽しんだ。
 遊星が目を覚ますとすでに真夜中になっていた。たちならぶ灌木から虫の声がまるで壊れた蓄音機を無理やり動かしているみたいに響いてくる。
 体を起こせば、どこかから歌が聞こえてくるので、一瞬、遊星はイザベラのことを想像した。なぜならその歌は鼻にかかっていて、柔らかく、豊かで、かすかにかすれていて、そして金属的だったからだ。しかし、すぐに違うとわかった。声が高い。しかも、はりがあって若々しく聞こえる。聞き覚えのある、真鍮のベルのような声だ。汚れたショーツが、バスルームに入った遊星のすぐ足元に落ちている。彼はその上を黙って通り過ぎ、十代のいるシャワーボックスへ向かった、ガラスでできた壁面は曇っていて中を伺い知ることはできなかった。
「十代さん」
 歌が止んだ。
 彼女は床に座り込んだままシャワー水に打たれていた。青い透明なガラスタイルを嵌め込んた美しい意匠の石床は精液で汚れ、水が押し流そうとするのと混ざって排水溝へ道が続いている。マニキュアでルージュに塗られた指先は身体を洗うわけでもなく、白くなった膝の上に軽く触れるばかり。
「ゆうせい。おはよ」見上げてくる目はぎとぎとに濁りきって、表面ばかりつやめいてみえた。
「おはようございます」
「うん。起こしちゃって悪かったな」
「ディナーの予約を取っていたので、何れは起きなければと思っていたんです。あなたのことも起こすつもりだったので」
「ディナー?」
「ホテルのレストランです」
 彼女は、ふうん、と気の無い返事を返すと、シャツを着たままの遊星の腕を掴みシャワーボックスの中に引きずり込んだ。はだかの足がぬめった精液に触れていやな音を立てた。「でももう行く気なんかない。そうだろ」
 ひえた背中が胸板に押し付けられる。この身体を抱くとき、遊星はいつも罰せられるのではないかと思った、それくらい魅力的な身体だった、痩せていたが、ほんとうにすべらかだった。濡れた髪が耳の後ろで縮こまっている。首から肩にかけてが上気して赤い。白魚の、鱗でびっしりと覆われた銀色の腹を思わせるすべらかな乳房が、彼女の細い腕から零れ落ちんばかりになっていて、遊星はその奥に彼女のどうしようもない熱情がみえるような気がした。股の間から精液を垂れ流しぬるいシャワーを浴び続け、どういうわけか彼女は興奮していたのだ。
 遊星はぴったりと閉じられていた十代の膝に触れ、そっと広げてやった。するといろいろなものが流れ落ち、タイルを汚したので、いやらしいですね、と言ってやった。そのままあらわになった頸にキスをしてやる。やさしく、こどもにするような幼いふれあいを繰り返しながら、股座を弄る。十代は恥ずかしそうにうつむいて笑う、そして震える舌で声を出そうとする。
「そうです、十代さん、あなたが俺をおちょくるような真似をするから、俺はディナーなんかどうでもよくなりました。俺にはあなたしかいないのに、あなたが、あなたもそうじゃなかったんですか」
「なんのことだかさっぱりわかんねえな」
「言ったでしょう。あなたを愛しているんです。俺には、あなたしかいないんです」
 十代はけたたましく笑って、細い腕を遊星の首に絡ませた。耳元で熱い呼吸が繰り返され遊星はにわかに自分の内側から熱が吹き上がる感覚を覚えた。遊星は張り付いた十代の体を引き剥がした。そしてびっくりして目をまん丸に見開いたその小さな頭を乱暴に引き寄せて、かじりつくようにキスをした。呼吸すら許さぬ、嵐のようなキス。唇同士がぶつかり、離れてはまた零距離をとる、歯と歯が触れ合うほど深く深く、十代が暴れても、その腕をとって硝子におしつけ動きを封じた。とても嬉しそうな声を上げながら彼女は肩を震わせて絶頂した。
 朝、遊星がべとべとになったベッドの上で眠気を追い出すのに苦心していると、バスルームから悲鳴が上がった。あまりにも大きな悲鳴だったので彼はノックもせずに脱衣所に飛び込んだ。どうしましたか、と遊星は叫んだ。十代は喉のあたりで悲鳴になり損なった息を上下させながら、裸のまま遊星の腕にしがみついてきた。汗ばんだその肉体に欲情する暇はなかった、十代の指差す先を見やると、タイル床の上で黒い塊がもぞもぞと蠢いているのがわかった。注視すれば、それは何万匹という蟻の群れだった。脱ぎ捨てたショーツのかたちに盛り上がっている。
 その蟻は開け放たれた窓の桟から入ってきて、ひび割れた石の壁から彼女の足元までに列をなしていた。塊は不規則に動き、せわしなく形を変えた。表面に無数の突起があり、時折細やかに音を立てながら、それはまるで強い日の光で顕れた影のようにも見えた。十代はとうとう泣き出してしまった。ここを出ましょう、と遊星は言った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ハバナについてしばらくしても、ふたりはカルドーソに会えなかった。彼の住所は変わっていて、教えられた家に行くと、そこでは太った女と三人の子どもが一枚のピザを取り合っていた。部屋の中では火がたかれていて、ペルシアのタペストリーが、暖炉の周りをオレンジや茶色やクリーム色に飾っていた。前にここに住んでいた人を知りませんか、と遊星は聞いた。知ってるけど、行先までは知らないよ、と女は答えた。この国では、誰も去るものの存在など意に介さない。
 ハバナに滞在しているうちに、十代は三か月を迎え、腹が目立つようになり、物好きな日本人の旅行客に話しかけられることもしばしばである。遊星は南国で気が浮かれている男から彼女を守るのに躍起になったが、彼女はそのたびに、馬鹿だなあ、遊星、とおもしろそうに言った。「オレはおまえしかみてないよ」優美な曲線を描く桃色の唇が、そういうことをうそぶく。
「あなたはまたそういうことを……」
「ほんとだぜ」
「知ってますよ、十代さん」
「ん」
 レジデンシア・サンタ・クララというホテルのスイートルームは、もっぱらふたりの愛の巣だった。床や壁には独特の模様が描かれていて、ピカソの落書きのような絵画がベッドの後ろに飾られている、ハバナでも一番の部屋だった。そして二人の間には常にセックスがあった。食事をとり美しい旧市街を見て回り海と浜辺を行き来して遊ぶ時間以外のすべてをふたりはセックスに捧げた。朝起きてすぐにシャワールームで、そのあと運ばれてくる朝食をとってからすぐにベッドにもぐりこみ、昼食を忘れ、夕方が過ぎて美しいトパーズ色の空の上に厚い雲が浮かぶころになってようやく夕食を取る、そうしてまた朝方までベッドの中にいる、その繰り返しだ。十代の性器を舐めながら遊星がマスターベーションをすることもあったし、十代が遊星を射精させることもあった。そうして怠惰な日々は過ぎていき、ふたりは一つのものより深くまじりあったが、それでお互いのことに飽きたり、きらいになったりすることがなかったのは不思議なことだった。
 ある朝、クリスタルの残りを全部吸って激しいセックスに興じたあと、遊星がベッドでまどろんでいると、久方ぶりに携帯のバイブレーションが鳴った。発信元はわからなかったが、電話番号には覚えがあった。上半身だけで起き上がり、まだ眠りから抜け出せていない十代を残してベランダに出る。
「もしもし?」
 その声には聞き覚えがあった。まだ甘い少女の名残が残る、サクランボのような女性の声だ。
「あなたが不動遊星ね」
 アンナ・アンデルセンだった。