ジャック。俺の名はジャック・アトラス。呟きは長い汽笛に攫われ、自分の耳にすら届かなかった。
 港は人でごった返している。ついさっき、白くて大きな旅客船がずっと向こうからやってきて、桟橋に観光客を吐き出していったからだ。人々はジャックのそばを通り過ぎるとき、怪訝そうな顔をする。そうして、慌てたようにそっぽを向き、何事もなかったように近しい人とおしゃべりをしながら通り過ぎてゆく。ジャックは一人取り残される。
 冷たい風が、ジャックの長い横髪と、手の中の一枚の便箋をはためかせた。指先が赤くなっている。手袋を買うべきだったかもしれない。ジャックは、ほんの数日前まで自分の名前すら忘れていたのに、いま、霜焼けのことや、手袋のことを覚えている。文字の読み方や、船の乗り方、時計の見方のことも。
 手紙……、何度も読み返した。今もまた、暗礁の只中で必死に羅針盤に縋るみたいに、几帳面なネイビーブルーの文字を追いかけている。でも、誰が、なんのためにこの手紙を書いたのか、ジャックは知らない。

 ジャック、おはよう。無事に生まれ変わって一日目だな。
 お前は生まれ変わったんだ、もう不安なことも、恐ろしいこともない。新しい人生、好きに生きてほしい。
 どうしたらいいのか分からなければ、お前の行くべき場所の住所と、そこまでの切符を用意したから、使ってくれ。そこに、お前の力になってくれる人物がいる。信頼のおける人だ。
 それから、お前の一番大切なものは、ベッドのそばのサイドチェストの上にある。大切にしてくれ。きっと、彼らがお前を守ってくれる。
 それじゃ、さよなら。……になっ……れ、俺の……

 インクが滲んで、最後の一行が読めなかった。
 あの日の朝、ジャックはベッドに寝かされていた。まず天井があった。そして自分の手のひら。ランプ。テーブル。椅子。花柄の剥げた壁紙。白い大理石のキッチン。整然とした木目の食器棚。そして、横たわっていたベッド。
 随分と長く眠っていたようだった。
 サイドチェストには束になった40枚の紙束があって、すぐにそれがデュエルモンスターズのカードであることを思い出した。デッキトップは真っ白な枠に赤いドラゴンの描かれたカード、レッド・デーモンズ・ドラゴンのカードだ。つるつるした表面を撫でていると頭がぼうっとした。
 誰なんだ?

 電車と船を乗りついで辿り着いたのは、海の見えるあたたかい街だった。
 のっぽの椰子が海岸線沿いに何本も立っていて、風が吹くと細い葉が擦れ合ってさやさやと優しい音を立てる。浜辺近くには白いヨットやボートが日の光に照らされて真珠のように輝き、水面には長くて細いビルと長い橋の像がはっきりと照り返っている。赤やピンク色の花がたくさん咲いた対岸の公園では、カップルや親子連れの人々がニコニコしながら散歩している。まだ一月だというのに、この国にはもう春が来ている。
 空を見上げると真っ白な鳥が飛んでいた。あれは、カモメといって海辺によくいる渡鳥だ。手を伸ばしたら掴めそうだ。トランクを置いて、欄干から身を乗り出した。
「ジャック?」
 若い男の声に呼び止められ、振り返る。