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 オレはオレ自身の錯乱を整理したくてキューバにやって来たんだ、とその痩せた女は繰り返すばかりだった。きれいな女だった。だが、女はどこか破綻しており、そのために世の中の遍くから切りはなされているように見えた。ほとんどまばたきをしないし、目の焦点は合っていなくて、口元は常に薄ら笑いを浮かべて、最初に会ったとき遊星ははっきり狂っていると思った。
 女はバルセロナからの直行便でここヴァラデロに来たが、ツーリスト・カードなど入国に必要な書類はちゃんとそろっているにもかかわらず、その挙動がおかしかったために、ヴァラデロの、しかも空港の近くに住んでいる遊星に連絡があったというわけだ。遊星がキューバにやってきたのはつい一か月前で、きっかけは長年つきあっていた恋人との別離だった。巻いた赤毛のかわいかった恋人は遊星が結婚を考えだしたころになって、ごめんなさい、でもやっぱりあなたのこと幼馴染以上に考えられないの、と告げた。。彼の若い精神は悉く傷つき、割れて粉々になったガラスの上を踏み荒らされたような気分になって、ぬくい水たまりのような故郷からどことも知れぬ南国に旅立ち、最初はハバナからサンチャゴまで安ホテルを泊まり歩いてうろうろしていたのだが、どういうわけか今はヴァラデロに家を借りて住んでいる。職業は一応大学生なのだが、現在は留学という扱いで一年の休暇を取っているので、毎日サルサを横耳にじゆうに羽を伸ばす日々が続いている。ヴァラデロはキューバ随一の施設と規模を誇るリゾート地で、首都ハバナから車で二時間強という位置にあって、国際線が発着する空港も備えている。
 ハバナには大使館も含めて十数人の日本人が住んでいるが、遊星の知る限りヴァラデロにはひとりだけだ。二世や三世も含めればもっといる。ここには昔、デュポン財閥総帥の住居と広大な庭園があって、日本人の入植者が働いていた。
 遊星はお人よしではない。キューバという国はいろいろな意味で強烈な国で、十九歳のお人よしが住もうと思っても、ひょんなことですぐにはじき出されてしまうだろう。だから、もしその見るからにおかしな旅行客が男だったら、すでに三十万キロも走っているぼろぼろのメルセデスを走らせてこんなところに来なかっただろう。また、その旅行客が女優であると名乗り、それを裏付けるような容姿でなかったら、この旅行客は頭がおかしいから手に負えないとでも言って、さっさと家に帰っていた。しかし旅行客は女で、飛び切りの美人で、しかも自分のことを女優だと名乗った。
 女はがりがりに痩せて眼だけが大きく見えたが、とてつもなく美しい女だった。鼻筋はするりと通ってその頭にうすく光の筋を載せるほどだったし、切れ長な瞳は時間をかけて蒸かした甘いもの類を思わせた。棒切れのような細い脚には赤いハイヒールを履いていて、そのすぐにも折れそうな様子が、どうしようもなく男の欲を掻き立てるものだろうと遊星は思った。また、なんと表現すればいいものか、その女には妙な緊張感と、それから威厳のようなものがあった。
「おまえは誰だ? ヨハンの知り合いか?」
「いえ、俺はここに住んでいる日本人です」
 それが二人の、最初の会話だった。女は脚を組んで、人気のないヴァラデロ国際空港の入国管理官待合室にいた。遊星は顔をしかめた。部屋は病院のようなリノリウム張りでしかも管理官たちが吸うキューバのたばこの匂いでいっぱいだった。そんな臭く不愉快な部屋の中で、女は遊星に対してすっきりとはりのある声で問いかけた。
「俺は不動遊星。大学生です。あなたはどんなご用事でここへ?」
「なあ、ヨハンに伝えてくれないか、オレはオレ自身の錯乱を整理したくてキューバにひとりでやって来たんだ、オレははやいとここいつと決着をつけなくちゃなんなかったんだ、錯乱を整理するんだ、ヨハン」
 女はここに来る途中管理官にフランス語で話しかけていたらしいが、だれ一人彼女の言っていることを理解できなかった。だから遊星が呼ばれたというわけだ。しかしもしフランス語を解する管理官がいたとしても、彼女の言っていることは誰一人理解できなかったに違いない。
「ヨハンはサプライズがすきだって知ってたけどさすがに今日は遅すぎやしないか、いつのまにこんな男雇ったんだよ、ヨハンが言うならオレはいつだってなんでもするのに男なんて雇ってさ、ああでもそれじゃサプライズにならないもんな、オレも男に生まれてたらよかったけど男だったらちゃんとセックスもできないし街中で手つないだりすることもできないもんな、ところでおまえは誰なんだ? ヨハンの知り合いか?」
 入国目的さえわかれば解放してやれるんだがな、こわもてを崩した管理官が言ったが、もし女が今すぐ立ち上がってこの管理官にキスでもすればすべて解決するだろうにと遊星は幻想した。キューバの管理官はアメリカやカナダなんかよりもよっぽど実直でまじめだったが、いわゆるいい女というものに弱かった、それはこの国の性質かも知れないし、このむさくるしい職場に疲弊した男たちの悲しいさがかも知れなかった。
「観光にいらしたんですか?」
 と遊星は女に尋ねた。
「おまえはほんとうに誰なんだ、いいからヨハンに伝えてくれないか、ヨハンが言ったんだ、十代が行くならオレは先回りしてヴァラデロで待ってるよ、だから追いかけて来いよな、って、だからオレはここに来たんだ。いったいここはどこなんだ? オレはこんなところになにをしにきたんだ? いや、いわなくていい、わかってる、お願いだから答えないでくれ、そうだ、オレはオレ自身の錯乱を整理するためにこのキューバとかいう国にきたんだ、ヨハンはどこだ? おまえは誰なんだ」
 その女を残してさっさと帰るべきだったのだ。関わり合いになるべきではなかった。遊星には帰れば自らを迎えてくれる安息の我が家があったわけだし、現状の生活に満足していたので、べつに慈善活動じみた救済の手を女に差し伸べなくてもよかった。もっと言えば、彼は本物の女の肉の感触がなくても液晶画面で家族の写真を眺めていれば満足できる、そういう男だった。俺には手に負えない、そういうふうに正直に告げて部屋から出て、海沿いの道を走り、家に戻ってコーヒーでも沸かし、読書でもして、すべてを忘れることもできた。女の身柄は空港当局に拘束され、日本大使館の協力のもとにいずれパスポートに記載されている住所か本拠地に送還されるだろう。女の名前は遊城十代といった。ゆうきじゅうだい、ふしぎな響きの名前だった。
 しかし、そこで遊星は考えて、ヨハンとかいう人とはお知り合いではないし、俺は彼の使いではありません、と答えた。それは、会ってすぐに彼女のムードに魅き付けられたからだった。女には、気品と、相手にも緊張を強いる独特のオーラがあった。こんな女を言葉の通じない官憲の保護下に置くのは忍びない、と遊星は思ったのだった。
「そりゃあそうだ」あっけらかんとして、彼女が言う。瞬きひとつするともう彼女は別人だった。理知と機転に富んだ、賢い女の表情になっていた。
「ヨハンはもう死んだんだから」

 遊星は女の身元保証人になって、入管手続きと税関でのチェックを済ませ、スペイン人とドイツ人とベネズエラ人の団体客で混雑している空港を出て、彼女のツーリスト・カードにあるホテルまでメルセデスで送っていくことにした。身元保証人ということは、もし女がキューバに敵対する国のスパイだったというような場合には、遊星も日本へ強制送還されてしまう、ということだ。遊星は隣を歩く女の横顔を見てひやりとした。狂った女の仮面を取った女は、そういった職業に手を付けていてもおかしくはない、と遊星を不安にさせた。
 ヨハンは死んだ。沈黙に耐えかねたらしい女は、第一駐車場からメルセデスが運ばれてくるまでにそういうような話をした。
「ヨハンはすごくいいやつで、オレが知っている中でも一番のいい男だった、あれ以上の男には終生出会えないだろうと思わせるほどいい男だった、あいつはすごくやさしくて、最後までオレのそばにいてくれて、オレはあいつを愛していたんだ、たまによこしてみせる涼しげな流し目が好きだった、抱きしめてくれる腕が好きだった、だが死んだ、ほかの死んでもいいような人間を押しのけて、短い人生を全うしちまった、世の中には死んでいい人間と、そうでない人間と、死んだほうがいい人間とがいるが、ヨハンは生きていなければいけない人間だった。あいつとこの国で過ごした時間はオレに錯乱を与えた。例えばこの国には涙も詰まるほどきれいなピンク色の夕焼けとか心まで洗われるような雨季のスコールとかそういうのがあってヨハンはそれを愛してた、見ろよ、十代、キューバの夕日はきれいだろ、とか言って浜辺のど真ん中でオレの肩を抱くんだ、でもオレはヨハンしか見てないからうまくへんじができなくて、ああそうなのかとか生返事をするんだ、十代はばかだなあ、ヨハンは笑ってオレの頭をなでてくれる、十代はばかだけど世界一かわいいもんな、そういう風に言うときのあいつの顔がいちばんすきでオレはずっとずっと見とれてた、だから夕日のことは全然覚えてないんだ、夕日も、身体にねっとりと絡みつくような熱も、スコールも街並みもぜんぶだ、ただヨハンの笑った顔と錯乱だけが残った、オレは、この錯乱を整理するために、この国に来たんだ、自分を罰するためでも、旅行気分できたわけでも、ない」
 話し方に魅力的なリズムがあり、気持ちのいい声なので、遊星は、そして何を言っているかわからないはずの周りの観光客までもが、物音を立てず静まり返って彼女の話を聞いた。それは劇的なパフォーマンスで、まるで異様だった。映画の一シーンや白昼夢のようだった。
「恋人だったんですか?」
「わからない」
 そう答えると、彼女は話すのをやめてしまった。
 女は遊星のメルセデスに近づくと、恐ろしいほど自然な動作で、後部座席に近づき、乗り込んだ。つまり遊星は彼女のためにドアを開けてやったということだ。遊星は生まれてから今までそんなことはしたことがない。恋人がまだ遊星のところにいたときでさえ、彼女のために、どうぞ、なんて言って後部座席を開けてやったことなどなかった。十二月のキューバにしては太陽が強烈な日で、湿度も高く、暑さに慣れているはずの遊星も発展途上国の空港ならではのひどい混雑と無秩序な群衆の間を抜けてターミナルまで歩く間に、目がかすむほどの汗をかいてしまっていたが、彼女は違った。長袖の、手のひらを覆うタイプのブラックドレスと、黒のストッキングをはいているのに、一滴も汗をかいていなかった。そして、背筋をピンと伸ばして車の前に立たれれば、たぶん誰だってドアを開けるだろうという雰囲気があった。遊星は自分の、女のために愛車の後部座席を開けてしまった手と、ミラー越しにすました顔で発車を待つ女の顔を見比べて、ようやくアクセルを踏んだのだった。
 女のツーリスト・カードに載っていたホテルはカサ・クレマといって、スペイン資本の完成したばかりのところだった。海沿いのハイウェイを走りながら、遊星は彼女といくらか話をした。「中には何が入っているんですか」彼女の少ない荷物を見て、遊星が最初に切り出したのが、これだ。
「帽子だよ」
「帽子?」
「雨季が来ればここはずいぶん暑くなるだろう。日差しも強いし、皮膚によくない、ってヨハンが」
 無言で続きを促すと、彼女は遊星を見ないまま、ヴァラデロの海の青と水色がくっきり分かたれた、そのさかいにまなざしをむけたまま、言葉を継いだ。
「あとは羽織り。最初にここに来た時ヨハンがくれたやつ、オレたちはここに来るときまってヴァラデロにホテルを取ったけど、乾季は夜が冷えるから、身体を冷やしたりなんかしたらだめだ、って言って。どうせオレたちは夜が一番熱いタイプの人間だったし、羽織りはレースの穴だらけのやつで、そこまで使いやしなかったけど、いまはたぶん必要だ。あいつは自分がいなくなったときのことをちゃんとわかっていて、いつでも先回りしてオレにものを買った。帽子もそうだ。帽子も、ブランケットも、眼鏡もコンドームもある」
「コンドーム」
「おまえみたいなやつと出会ったときのためだよ。ヨハンは、オレを抱くときにゴムなんかつかったためしがなかった、それはオレがあいつのものだってちゃんと理解していて、そのうえでさらに征服するためだ、貪欲な女の身体を、まるでアリでもつぶしてやるみたいな気軽さで、こうして」細い指が輪を作り、「こうする、そうするとオレが喜ぶんだってちゃんと知ってるんだ、あいつはばかなオレを愛してたから、愛してたかどうかはわかんないけどたぶんそうだ、オレが単純なことで喜ぶとあいつも喜んだ、十代、十代はかわいいなってそればっかり、でもいやじゃないんだ。愛してるからさ。そんなヨハンが、オレにゴムを買ってくるんだよ」
 女の眼もとは涙ではないなにかで光っている、女がヨハンのことばをしゃべるとき、つながれていた糸が切れるように、突然別人の顔をするので、メルセデスのエアコンはもちろん壊れていたが、汗が冷たくなっていくのがわかった。女はヨハンの声でしゃべる、知らないが、おそらくそうだ。遊星はおかしくなりそうだった。それははるか昔の日本映画を思い出させた。京都のフィルムセンターとかそういう場所でしか見られない、溝口健二小津安二郎といった、そういう映画だ。主演女優はくぐもった声で明瞭に力強く話す、それは昔のマイクロフォンの性能に原因があるらしいが、奇妙な迫力があって、耳にまとわりついて離れない、という声としゃべり方になる、気品があるのだ。しかしどこか狂っているようにも聞こえる。
「ヨハンは、いじわるなんだ。オレはあいつ以外見ちゃいなかったのに、あいつはほかの誰かを好きになるオレを見てたよ……」

 部屋はベッドルームとリビングルーム、キッチン、バスルームを備え、何十キロにもわたる美しいヴァラデロ・ビーチを望む、ここでもいちばんに高いところだった。遊星は彼女を送り届けてやっただけではまだ飽き足らず、ごくしぜんにパスポートとツーリスト・カードを渡されホテルのチェックインを済ませ、荷物を運びこむところまで済ませてしまった。彼女のパスポートの写真はいまと寸分たがわぬ、がりがりの痩せた女が写っていた。ただいまよりもすこし血色がよく、はにかんだ表情には少女の恥じらいというものが見て取れた。親しい誰かに撮られたものなのだろう。遊星はヨハンにカメラを向けられてはにかむ、痩せた少女の姿を想像してみた。彼女は上半身に大きなシャツを着せられて、それ以外なにも身に着けることを許されておらず、彼女の股の間では絶えずローターが振動して彼女を苦しめる。撮るぞ、とヨハンが言う、その声だけで彼女は絶頂してしまう。その横に、几帳面な字でサインが書かれている。ユウキジュウダイ。意外にも、彼女の文字は半年間通信教育でペン字を学んだまじめな受付嬢の書いたようだった。彼女はロビーでヨーロピアン模様の三人掛けソファに座っている。つばの広い帽子が海からの風に揺らされて、まるで呼吸でもしているみたいに左右に揺れているのが奇妙だった。渦を巻く天井の模様を眺めたりほかの観光客の挙動を観察したりしていたが、遊星がすべてを終えて彼女に近づくと、座った姿勢のまま右手だけを差し出した。遊星はその手を取って腰を抱いた。誰かに何かをやらせるしぐさだけが自然だった。
 遊星はふと、なんで俺はこんなことをやっているんだ、ギャラをもらわなきゃ割に合わないぞ、と思い始めた。ユウキジュウダイは部屋に入るとオーシャン・ビューのダブルを見渡して、素敵、と声を出した。素敵、という言い方だが、非常に特殊だった。言葉はその意味からだいぶ外れた語られ方をすることがあって、そのお手本みたいな発声の仕方だった。たとえば恋人のために少ない生活費を貯金して旅行をプレゼントした男がいたとして、その恋人にチケットを渡したとき、今のような言い方で素敵、と言われたら、最悪の場合自殺するのではなかろうか。そういう言い方だった。遊星ははやいところこの女から離れて家に帰り、今度こそコーヒーを沸かして昼寝をしようと画策していたのだが、女の素敵、でその決意もだめになってしまった。彼女は人の決意をだめにする演技ができる、しかも、それを演技だと思わせずに。
「こっち来いよ」
 かろやかな声が、遊星をバルコニーへといざなった。ユウキジュウダイは白く塗られた竹編みの椅子に座って、また海を眺めていた。遊星は彼女の隣に座った。近くで見ると、薄く化粧を施された肌はぞっとするほどにすべらかで、日差しを浴びて皮膚の小さなしわ一つ一つが輝いて見えた。真っ白で小さな顔の中で唇だけが赤い。
 遊星はしばらくユウキジュウダイの顔を眺めていた。そして、彼女もまた、遊星の目を覗き込むように見返してくる。
「毎日海を見ている目だ」彼女がつぶやく。
 薄くすべらかな皮膚に覆われた、まるで今しがた作りあげられて、柔らかいブラシで粉を払われたばかりのようなふたつのやさしい手が、遊星の鋼と油ばかりを味わってきた掌へとそっと滑らされた。いたわるようなしぐさで豆だらけの硬い肌を繰り返しなぞり、長い指先で付け根のあたりを愛撫して、握っては離れ、また触れ合い、ぎゅっと強くこすり合わされて、離れる。遊星は、見慣れたものより一回りほど小さなその手を取り、新雪のつんとした温度を思わせる真っ白な手の甲へと、自らの乾いた脣を寄せた。まるで気高い女王に下男が畏れてするようだった。女は途端に表情を厳しいものに変え、遊星の手を強く振り払った。
「悪いけど、帽子を置いてきてくれないか」
 なにごともなかったように帽子を脱ぎ、遊星に手渡す。そして、遊星がベランダから部屋に戻り、帽子をベッドの上にそっと置こうとすると、ヴァラデロ・ビーチが凍り付いてしまいそうな悲鳴を上げた。遊星はびっくりして心臓を抑え、何があったのかと振り向いた。
「ベッドの上に帽子を置くと死んじまうんだぜ」
 ユウキジュウダイはベランダからそう叫んだ。
「ああ、まだ置いていないんだな、びっくりした」
 びっくりしたのはこっちだ、と思いながら帽子をライティングデスクに置いた。爆発物を扱うようにして置いた。
「おまえはあの映画を見ていないのか」
「映画?」
「ほら、『ドラッグストア・カウボーイ』だよ、あの映画の中でベッドの上に帽子を置いた女がヘロインの打ちすぎで死んだだろ?」
 その映画は見たことがなかった。そんな映画は知りません、と言ったが、ユウキジュウダイは海のほうに顔を向けて微笑んでいる、
「うそだよ」
 ユウキジュウダイはそんなことを言う。
「オレが女優だっていうの、嘘なんだ。なんてことない嘘だ。でも女優でいるあいだは本当に生きた心地がするよ、人間は普通に生きていても狂ってる、オレも、おまえもだ、ただヨハンだけがこの世でふつうだったんだ、ヨハンはこの世にあって天使みたいなやつだったからふつうでいられたんだ」
 彼女はまばたきをし、遊星のほうを一度も見なかった。過去のことを語ろうとするくせに、彼女は過去を見る目をしない。現代起こっていることか、未来にあるかもしれないことを見る目をする。そこにはふしぎな魅力があった。逆光で陰ったユウキジュウダイの横顔に、遊星は見入った。早く話を中断させて家に帰れ、そんな声が遊星の心のどこかで響いたが、身体はその部屋から一歩も動こうとしなかった。もっと彼女といっしょにいたいとさえ、遊星は思っていた、それはどこか倒錯的でマゾヒスティックな感情だった。
「ヨハンは、オレたちは、ヨハンは、ヨハンと一緒にいるときだけオレは人間でいられた、人間は普通は女優じゃないし女優でいなくても人間でいられる、でもオレは違う、オレは人間でも女優でもない、演技すればその両方でいた、ヨハンといるときは人間だった、なぜならそこにあいつの許容があったからだ。ヨハンはオレがなんであっても許してくれると言ったけど、あいつにはそうでないものもしぜんに人間にしてくれる力があった。オレは結局あいつに何もしてやれなかったけど、そういうふうに、オレたちの関係はみたされていた。物語があるだろう、人間はもともと四つの足と四つの手と二つの頭がある生き物で、地を這って生活していたのが、木の上の果実をとるために二つに分かれたんだって、だがどうしても半身のことが忘れられない人間は、やっとの思いでそいつを見つけたとき、運命の人、って呼ぶんだ。そんなバカげた話があってたまるかよ、でもヨハンはそういうのを本気で信じてた、キリストをいたく敬虔に信じたくらいだから、簡単に物事に真実を見ることができるんだろうな、そんなヨハンは長い時間をかけて物語を語った後、こう締めくくった、だから俺は、十代のことを運命だと言うんだ、ってね、オレはその通りだと思った、ヨハンが持たなかった澱をオレは持って生まれた、ヨハンは光に愛されて生まれた、そういうことだ、ヨハンは真実を分かっていただろうか、わかって言ったのならすごくいじわるだけど、いいんだ、同じものだって言ってくれたらうれしかった。ヨハン、世界で一番美しい男」
 告白をするあいだ、ユウキジュウダイはずっと微笑み続けていた、遊星は人間が長い時間微笑みをキープできることを知らなかった。言葉と言葉の合間に、また音節と音節の間に、ユウキジュウダイは〇.一ミリの狂いもなく同じ顔をして微笑む。「おまえは」彼女は間を置かずに続ける。
「運命を信じるか?」
「……信じません。運命だと思っていたひとはそうでなかった」
「ふつうはそうだ、運命なんか存在しない、運命、くそみたいなことば、人間をなめ切った傲岸なことば、でもヨハンがそれを言うとき、あまりにもだいじそうに発音するものだから、う、ん、め、い、発音するから、信じたくなる自分がいるんだ、運命ってやつがオレのまえにもきちんと存在していて、微笑んでくれるものなんだって信じたい自分がいるんだ、おまえにはそれがわかるか?オレは、わからない、いやわかるからこういう話をしているんだな、運命のことがわからなくても、ヨハンの前にひろがった運命のことを信じたい自分がいることはわかる、ヨハンはもう死んだ、でもヨハンは笑顔と錯乱だけを残した、笑顔と錯乱は、ヨハンになりうるだろうか?遊星、おまえ、遊星っていったな、オレにはおまえがヨハンに見えてならないことがある、ヨハンとほかの人間を比べることは罪だ、でもおまえはヨハンによく似てるんだ、顔とか、しゃべりかたじゃない、目だ、毎日海を見てる目だ、ヨハンがオレの上をいったりきたりする浅瀬なら、おまえはオレのうえに重たくのしかかる深海だよ、だからこうしてしゃべりたくもないことを延々としゃべってる、遊星、おまえは、運命を信じるか?オレがヨハンとこうしてもう一度出会ったことを、運命と呼ぶべきだと、そう思うか?」
 はじめに遊星の胸に去来したのはユウキジュウダイに初めて名を呼ばれる甘美で陰湿な喜びでも運命に投げかけられた問いの答えでもなく、この女は何を言っているんだ、という混乱だった。遊星はヨハンではない、そしてヨハンは遊星ではない、そしてその混乱は遊星のうちに都合よく作り替えられ、すなわち好意というものに置き換えられてしまったのだった、ヨハンと繰り返す甘い声、遊星は、その時点ですでに、ユウキジュウダイを愛していた。
 遊星はキューバに来て一週間がたったころに見たサンテリアと呼ばれる原始的な秘密宗教の儀式を思い出した。それはハバナから車で二時間ほど走った田舎の町で行われていた。もちろん日本人の大学生が気軽に招待されるものではない。ハバナのレストランで豚のすね肉のグリルを食べアトウェイというアルコール度数が異様に高いビールを飲んでいた時に、見るからにいかがわしいキューバ人の闇煙草売りが、十ドル出せばサンテリアの儀式に連れて行ってやると言ったのだ。その頃はサンテリアについて何も知らなかった。郷土芸能みたいなものだろう、そんな知識しかなかった。サンテリアには非常に多くの宗派というより種類があり、その実態を正確に把握している人は誰もいない。ハイチのヴードゥーもその一種だし、ブラジルにも同じようなものがある。アフリカの、ナイジェリア、コンゴ系の、ブラックマジックやホワイトマジックを含む、複雑極まる原始宗教で、奴隷たちは出身地の部族から切り離されて別々に住まわされたためにそれらはさらに細分化され多様化して継承されることになった。基本的には健康を願うものでたとえば薬草については大変な知識を持つが、当然呪術や占い師が登場することもあり、中には秘密結社に似た性格のサンテリアもある。それぞれが独自の打楽器やリズムパターンそれに歌や踊りを持ち、毎年決められた時期に儀式を行う。
「ヨハンは言った、十代、俺はおまえのそばにいる、ずっとだ、おまえが俺を呼ぶ限りオレはおまえのそばにいる、って、オレは嘘だと思った。だからあいつの枕をびしゃびしゃにぬらして泣いた、でもいまおまえの目にヨハンを見てるオレがいるのは、きっとそういうことなんだろうな」
 儀式と言っても一様ではなく、数万人が集まる大規模なものから一軒の家で十数人で行われるものまで様々だ。遊星が十ドルで招待されたのは最も小規模なタイプだった。小規模でも儀式は神聖なものだから、普通は金をとってツーリストに見せたりしない。だが、その昔黒人奴隷はお互いに助け合って生き延びようとしていたので、違う部族、あるいは違う周波でも、救いを求めて儀式に参加したがる者がいれば許可されることが多かった。そういう伝統を利用して、好奇心がありそうなツーリストを儀式に案内しようとする金目当てのガイドが存在するわけだ。遊星は一軒の家に案内され、打楽器の背後から踊り続ける何人かの黒人たちを眺めることになった。一人の、ひときわ体の大きな黒人がいた。彼は粗悪な布地の綿のズボンをはき、上半身は裸で、タイルを敷いた十畳ほどの広さの居間で踊っていたが、明らかにトランス状態にあった。彼はすでに二時間以上踊り続けている、とガイドが教えてくれた。男の足から血が流れていた。床のタイルはところどころむけたところがあり、その淵で足の皮膚を傷つけたのだろうと遊星は思った。部外者をシャットアウトするために窓も全て閉められて、隣室には煮えたぎった鍋が炭火にかけてあり、部屋は恐るべき暑さだった。鍋の中はよく見えなかったが匂いからすると動物の臓物のようだった。すぐにポロシャツが汗でべっとりと肌に張り付いたが、遊星は足から血を流して踊り続ける男を見ているうちに暑さを感じなくなっていた。男は陶酔して顔にはうっすらと微笑みを浮かべていたが、知覚を放棄していたわけではなかったらしい、その証拠に、お前は誰だ、というようにしばらく遊星を見た。遊星はガイドによってサンテリアの研究をする日本人学生と紹介されたが、部屋の空気を乱す異端者であることに変わりはなく、男はその気配に敏感に気が付いたのだった。やがて男は、左手と右足、右手と左足をそれぞれ上と横に振り上げるというシンプルで美しいステップを続けながら遊星の前まで近づいた。そして遊星を見下ろし、踊り続け、汗がはじけ飛んで遊星の顔にかかった。そうやって一時間近く踊っていた。圧倒的な緊張感と、妙に冷めた感じが遊星と男の間にあって、遊星は凍り付いたように動けなかった。トランス状態で、神と交信しようとする人間は覚醒の極みにあるのだと初めて知った。もし間違ってその踊りを中断させてしまうようなことがあれば、その男に、ではなく、彼が交信しようとしているものに殺されてしまうだろう、と遊星は思った。
 ユウキジュウダイのしゃべるのは、あの男の踊りに似ていた。彼女はしゃべり続けることで、彼女のどこかにいるヨハンと交信しようとしていた。
 どうすれば彼女の告白を止められるだろうか?遊星は、このヴァラデロのホテル群のはずれにある、デュポン財閥の旧邸を改造したレストランで、ロブスターとスペインワインを楽しみながら、もっと普通な感じで告白の続きを聞けたらどんなにいいだろう、と思っていた。自分でも信じられないことに、遊星は彼女の告白の内容に興味を持ってしまったのだった。たとえば遊星が耳をふさいだり、声を上げたりする、そういうことをすると、とりあえず告白はやむ。だが、ユウキジュウダイはきっと二度と本質的な話をしなくなるだろう。それでもいいじゃないか、今すぐベランダから立ち去って部屋を出ていきこの女から離れて二度と近づくな、という遊星の中の声はもうほとんど聞こえなくなるほど小さくなっていた。
「ヨハンはそこにいる、涙も詰まるほどきれいなピンク色の夕焼けとか心まで洗われるような雨季のスコールとかそういうののなかにヨハンがいるんだ、これは錯乱だろうか?なんでもいい、オレはヨハンに会いにきたのかもしれない、ヨハンがいなくなって、半身がいなくなった本能的な苦しみから逃れようとしてこの国に来たのかもしれない、おまえ、遊星、おまえに会うためだ、おまえは頭のおかしいオレを空港から脱出させるためにわざわざ車を走らせてここに来たんだ、それは運命とよんでもおかしくはないような、そういうものなんじゃないか、ヨハンはわかっていてオレにう、ん、め、い、をのこしたんだ、そうだろ、ヨハン、そうだと言ってくれ。……そんな顔するなよ遊星、ちゃんとわかってるさ、おまえはヨハンじゃないんだ。不動遊星。いい名前だな。遊星?」
 遊星は、彼女の肩をつかみ、驚いて半開きになったこぶりな赤い唇へ噛みつくようにキスをした。ユウキジュウダイは抵抗しなかった。ヴァラデロ・ビーチの水平線のかなたに、暗い銀色の雲が沸き上がり、それが徐々にこちらに近づきつつあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 女優はベッドで眠っている。
 服を着たまま、ベッドカバーの上で、身体を横向きにして、目を閉じたかと思うとすぐに寝息が聞こえてきた。
 告白がやみ、遊星が彼女の上からそっと離れると、十代は、あっ、と息を吐いて、照れたように笑い、背伸びをして、何か飲みたいな、と言った。まるで、カット、の声がかかった後に、自らの演技に照れる俳優みたいだった。遊星は部屋の冷蔵庫からビールとコーラを出し、ベランダに持って行った。どちらにしますか? と聞くと、十代は、また声を出して笑った。それは人間としてごく自然な、やさしい笑い方だった。
「ビールに決まってるじゃないか」
遊星はキューバのビール、アトウェイの缶を手渡した。十代は飲む前に缶に描かれたインディアンの顔の絵をしばらく眺めた。
「アトウェイ?」
「そうです」
「おまえ、この絵のインディアン、だれだか知ってるのか?」
「アトウェイという名前の首長です」
「この人は殺されたんだ」
「知っています、焼き殺されたんです、死刑で」
「最後までスペイン人に抵抗して」
「その通りです」
 キューバでは、過酷な労働と天然痘のためにインディオは全滅した。アトウェイは征服者に最後まで武力で抵抗した勇敢な首長だったが、結局、火あぶりで殺された。十代はその伝説のインディオを、奇妙な表情で眺めていた。そのビールのラベルにも告白の芽が宿っているのだろう、と遊星は思った。「ヨハン」と呼ばれる男との思い出がアトウェイにも宿っているのだ。
「これ、あんまり強くないんだ?」
 喉を鳴らして半分ほどビールを飲んでから十代は言った、アトウェイには、十四度、とか十七度とかいうアルコール度の非常に強いものもある。遊星が十代に渡したのは六・五度という、あまり強くないものだ。
「アトウェイと、もう一つ、ビールがあるだろ」
「クリスタル、ですか?」
「そう、緑色の缶のやつ」
ビールを全部飲み、空になった缶を握ったまま、十代はハイヒールを脱いで足をぶらぶらさせ、それからストッキングをくるぶしまで下した。腸詰にしたソーセージのように細く引き締まった脚のさきにはワインレッドカラーのマニキュアが塗ってあった。割れた爪の赤い色がヴァラデロの景色の中でよく目だった。十代は自分の足元を見ながら、またくすくすと笑った。
「昔、よくキューバにきてたころ、あれは何回目のキューバだったかな、初めてクリスタルを買ったんだ、十代、自分で買って御覧、ってヨハンが言ったからオレはヨハンと食事に行くために買ったナイトドレスを着ていかにもチンピラ然としたタクシーの運転手に近づいた、キャンアイヘルプユー、そいつが言って、オレは、アイ、ニード、クリスタル、売人は当然売っちゃくれないよ、やつらは用心深いからまずはマリファナから買わなきゃいけないんだ、麻薬捜査官から逃れるための策がそれさ。そうやってお互いに安心させないと買えない仕組みなんだ、そんなものはないと言われてオレは泣いた、往来の真ん中でだ、タクシーの運転手に女が縋り付いて泣くんだ、なぜなら身体はもうあの粉をいっぱいに身体に吸ってからヨハンに抱かれる喜びを知ってたからさ、ヨハンはホテルの窓からそんなオレをじっと見てるんだ、オレの安っぽいナイトドレスに覆われた身体の中で居場所のない熱が荒れ狂ってるのを、じっと、見てるんだ、こう、まるで全部抉り出すみたいに見るんだ、オレは泣きながら言う、ヨハンという男を知りませんか、オレはその人に命じられてここに来たんです、それがないとオレは死んでしまうんです、お願いします、だが運転手はそんな人は知らないと言う、オレはまた泣きながらそこをはなれて、せめて代用品を手に入れようと思う、ホテル街のはずれの浮浪者やらホームレスやらがたむろする廃ビル、その地下に降りて、バーがあるんだ、売人御用達のバーでヨハンは何度もオレをそこに連れて行ったから知っていた、女のバーテンダーに近づいて、アイ、ニード、クリスタル、だが売っちゃもらえなかった、何故ならそんな呼び名はこの国じゃ通用しないからさ、オレは下手に知識を詰め込んだだけの麻薬捜査官と勘違いされて男のバーテンダーに取り押さえられたが、そのころにはもうオレのあそこはぐちょぐちょだった、あらやだはしたない、たぶんそういう風に言われたんだな、そこの汚いハイヒールがおれのあそこを蹴った、客が笑って、オレはまた泣きたくなった、ヨハン、ヨハン、そういうふうに名前を呼びながらオレは客にめちゃくちゃにされて、そうだ、あのときそうやってぼろ雑巾みたいに扱われていたオレを、ヨハンはカウンター席の端でじっと見ていたんだ、いつのまにいたんだろうって考えている暇なんてなかった、あいつの美しいエメラルド・グリーンの髪が蛍光灯の黄ばんだ光に反射してきれいだった、ヘドロの匂いのするバーの中でも、ヨハンはきれいだった、浅瀬色の目がオレを見ている、ヨハン! オレは叫んだ、叫びながらイった、なぜならあいつのことを愛していたからだ……」
 そういう話をしたあと、十代は、疲れたから少し横になる、と言って、ベッドに横たわり眠ったのだった。遊星は十代の寝息を聴きながら四十分近く、アトウェイのビールの缶をぼんやりと眺めていた。
 
 かなたの雲はゆっくりと近づいてきて、やがてビーチの上空を熱く覆った。フリスビーを楽しむ若い白人たちの濃い影が消えている。雨が降り出す気配はないが、曇ったビーチは急に活気を失い、物憂げな閉塞感に包まれた。夕暮れが間近いこともあってホテルに戻る支度を始める観光客も多い。キューバ人の物売りたちも商売道具を片付け始めている。彼らが一日中ビーチを歩いて売ろうとするのは、黒珊瑚やオウムガイで作った装身具、大量の民都トラムでできるカクテルのダイキリトロピコーラというキューバで作られているコーラ、キューバサルサバンドのカセットテープ、そして手作りの楽器、そういうものだ。
 水平線のあたりでわずかに雲が途切れている箇所があって、そこだけが鈍くオレンジ色に輝いている。海の法から吹いている風は湿っていて少しずつ涼しくなっていく。遊星はベランダのガラス戸を半分閉め、エアコンの送風も最弱にした。十代は身体を横向きにして、手足をおりまげ、ぐっすりと眠っている。
 午前七時、日が完全に沈んで、シャワーがヴァラデロのビーチを軽く濡らした後で、十代は目を開けた。二時間と少し、眠ったことになる。
 目覚めて、ここがどこなのか、自分がどこにいるのかわからない、といった不安げな表情を見せていた十代は、ライティングデスクに座って雑誌を読んでいる遊星を見つけると、体を起こして、微笑んだ。唇がヨハンを呼んだ。部屋はとても静かで、羽虫の飛ぶ音や二人分の呼吸音、ランプが接触不良を起こして鳴らすじじじという音、それからエアコンのモーターの音などがそれぞれの領分をわきまえたかたちでその静寂を守っていた。さっきウエイターが運んできたウエルカムフルーツがテーブルに載っていて、甘ったるいのと酸っぱい匂いが部屋に満ちている。
「おはよ、遊星」
 三十分後に、十代はやっと声を出した、
「何か食べに行こう」
 デュポン財閥の旧邸に遊星は十代を案内した。シャワーを浴びて、濡れた髪のまま十代は紅色のミニのワンピースを着た。ストッキングは付けずに、くるぶしまでの短い革のブーツを履いている。ブーツには銀色の留め金がついて、デュポン邸のアラベスクのタイルによく似合った。
「ここはきれいなところだな」
「そうでしょう。きっとあなたも気に入ると思っていました」
「庭園がいい、よく手入れされている。オレはこういうのすきだぜ」
「そうですね。あのバラなど、いまのあなたにそっくりです、十代さん」
 二人はそういう話をしながら黒い服のウエイターに案内されて玄関の大広間を横切り、アンティックな陶器を飾ったガラス棚のある廊下を歩いて、小さなボールルームを改装したレストランについた。客はほかに三組いて、十代は注目された。トップモデルのように均斉のとれた肢体に紅色のミニのワンピースをまとった、美しく若い東洋人の女、財閥の旧邸に非常にマッチしているようであり、非常に場違いなようにも見える。
「なにか強い酒を」
 十代は、七年もののラム酒をストレートで注文し、それを一息に飲んだ。白くて、薄い皮膚に包まれた喉を琥珀色のラムが滑り落ちていくのが見えるようだった。
「ヨハンは、こんなところにオレを連れて行かなかった」
 二杯めのラム酒を飲み干して、十代は言った。
「ヨハンは基本的に金を持たない主義で、ちょっとでも彼の目に届かないところに金が増えるとみんなどこかへやりたがる難儀な性格をしていた、切り取られた金はかわいそうな子供のところに行くこともあったしオレの装身具になることもあった、オレはいろいろなものを買ってもらったけどこういうところに連れていかれたことはない、ヨハンは自分で料理ができたし娯楽にはセックスがあればよかったからだ。だからいまこうしておまえと食事をしているのが奇妙に思えてならないんだ、何度も言うがオレは気を抜くとおまえにヨハンの影を見る、ヨハンがこんなところにおれを連れて行こうとしたのだと錯覚してしまうだろう、だからこうして線を引こうとするのかもしれない。ヨハンがオレを連れて行くのはたいていが屋台のがましってくらいマズい飯屋か気のいいおばあちゃんが経営しているような小さい飲食店だった、あいつは食事をすることよりもそこの人間とオレを会話させるのが好きだったんだ、
 十代、ごらん、彼の顔に傷があるだろう、
 傷?
 そうだ、彼はキューバ独立戦争でホセ・マルティに従った勇敢な戦士なんだ、
 ホセ・マルティって誰だ?
 訊いてごらん、
オレはそのウエイターの男に話しかけてみた、一八五センチもあったヨハンが顔を上げなきゃ視線が合わないくらいの大柄な黒人の男だった、もうずいぶん歳がいっているように見えたがそんなこと気にさせないくらい大きくて、確かに顔には風化して引き攣れた切り傷のあとがあった。ホセ・マルティって誰なんだ?オレは何の前置きもなくそう訊いてしまった、気分を害したかもしれないと焦ったが別にそんなことはなかった、
 お嬢さん、ホセについて知りたいのかい、
 うん、
 ホセは英雄だよ、ホセ・マルティ、俺たちみんなの太陽だ、
後で知ったがホセはキューバ人にとっての神様みたいなもので、記念館やら像やらがそこかしこにあった、百合の花に名前がついているのを見たこともある、これでいいのか、って俺がヨハンに聞くと、ヨハンは満足そうにして俺の頭をなでてくれた、実際に何をした人なのかとかどうして英雄なのかとか聞きたいことはたくさんあったけどヨハンにそうされたらオレはもう屈服するしかなかった」
 十代は、チリ産の赤ワインを飲みながら、前菜、スープ、メインディッシュ、それにデザートまで、残さずにすべてきれいに食べた。前菜はランゴスティン、つまりロブスターのカクテルだった。スープはランゴスティンのクリームスープで、メインはランゴスティン一匹丸ごとのグリル、デザートははちみつに付け込んだ蒸しパンだった。十代は、おいしいのか不味いのか不明な表情のまま、それらをきれいに食べた。かなりの量だった。特にロブスターは、巨大で身が詰まっていて、遊星は少し残してしまった。十代は、空腹だったのだろうが、がつがつとむさぼったわけではない、はたで見るとフォークとナイフを上手に使って、時折ナプキンで口元をぬぐいながらほとんど優雅とも言える食べ方で食べた。この女だけがレストランに似合っている、と遊星は思った。
「なあ、遊星はどうしてこの国に来たんだ?」
 巨大なランゴスティンの白い身をナイフで切りフォークで口元に運びながら十代はそんなことを聞いてきた。
「大学生って言ったら、まだ学生じゃないか。ええと、遊星、いくつ?」
「十九歳です」
「まだ未成年か。驚いたぜ。留学ってわけじゃなさそうだし、かといって留年しているようにはとてもじゃないけど見えないから」
「恋人と別れた傷心を癒やしに来たんです。別にこの国じゃなくても、どこでもよかった。大学には留学に行くと言って一年間の休暇を取っています」
「わるいやつ。まじめな優等生かと思ったら、おまえ、へえ、そうなのか。オレは大学に行かなかったんだ。ずっとヨハンのそばにいたから大学の雰囲気は知ってるけど、実際どうなんだ」
「研究するのは、高校時代に想像していたよりずっと楽しいです。同じ志を持った仲間と、愛してくれる女の子がいてとても幸せだった」
「女の子?」
「ここに来る前に別れました」
 ふうん、そりゃ災難だったな、と言って、十代は一定のペースでロブスターの身を食べ続ける。ほかの客が、それも男たちが遊星のほうを時々羨ましそうに見た。彼らが連れている女よりも十代のほうが数段美しいからだ。熱帯のリゾート地では十代のような真っ白な肌は本来似合わないが、レストランの中では違った。十代はその白く滑らかナ波多方緊張感を促すオーラを発して、ほかの、よく日焼けした女たちの存在を平凡で希薄なものに変えた。大理石やワインやレストランに等級があるように、人間の女にもランクがあるのだとその場に居合わせた者たちに思い知らせる強さと美しさを十代は持っている。遊星は恐ろしくなった、こうして話しているだけで、遊星は「ヨハン」に罰せられる危険を案じた。十代はそんな恐れなど存ぜぬといった様子で、遊星の目を見て話し続ける。
「オレはもう何度もこの国に来てるけど、遊星ははじめてか?」
「はい。彼女の記憶から逃れたいと、その一心だったので。できれば思い出のない、知らない土地が良かったんです。思い出せば、それこそ首をつってしまいそうだった」
「……なんというか、おまえ、一途だなあ」
 十代のその笑顔が、遊星にはまぶしかった。あんなに執心していたはずの恋人との思い出が、きよらかな水に洗われ、純度を取り戻していく、遊星はこんな笑い方をする女を知らない。演技しているときの、一ミリも狂いのない笑いとは違って、汚いものや穢れたものを一切許さない、そうであれば粉々に砕いて純度の高いものに再構成させるような、そういう厳しい笑い方だった。
「一途な男はお嫌いですか」
 追い立てられたような気分になって、遊星は言った。まぶしすぎて眼がつぶれそうだ、と思った。
「好きだぜ」
 遊星が手洗いに立ち、帰ってくると、一人になった十代は別の男に声をかけられて首をかしげていた。男は、おきれいですね、と十代をほめ、十代はありがとう、と返事をした。男の言葉がまるで響いていないのは明らかだった、美しい彼女はヨハン以外のどうでもいい相手からの言われ慣れた言葉になど興味もないのだ。遊星は彼女の笑っているのを見た。面白がっている。
 彼女は男と二、三言葉を交わし、遊星の目の前で店を出た。あとでわかったことだが、遊星が財布を開けるころには、レストランの会計はすべてすんでいた。
 
 ホテルの部屋から電話をかけてみることにした。キューバの電話事情は最悪で、遊星の家にも電話はあるが、外国人専用回線ではないので国際電話はもちろんのこと、市内電話もかかりにくい。
 遊星は十代に鍵を預かっていた。ロックを解除して部屋に入り、スラックスのポケットから紙切れを取り出し、眺めた。十代の帽子の裏に挟まっていたものだ。何十回、何百回と開けて、そのたびに几帳面に折りたたみなおしたのだろう、ファクシミリ用紙独特の光沢はすでに消えかかり、表面は黄色く変色していて、折り目は破れかけていた。遊星は何度も十代の不在を確かめ、折り目でちぎれないように丁寧に紙切れを開けた。スタンドの明かりで、ヨハン・アンデルセン、という文字が見えた。
 八回のコールのあとで、低い、不機嫌そうな女の声が聞こえた。
「ママ?」
「え?」
「もうかけてこないでって言ったでしょ、わたし、結婚したのよ。大丈夫だからもうやめて」
「失礼ですが、アンデルセンさんですか?」
 遊星は声が大きくなった。雑音が多く、相手の声は聞き取りにくい。
「え?」
「もしもし、実は今、キューバからこの電話をかけています」
「何をおっしゃっているのかよくわからないわ、あなたは誰?」
 声が聞きとりにくい。キューバでは、電話はいつ切れてしまうかわからない不安定な通信手段だ。遊星の実家は長野にあるが、キューバからの電話を母親が切ってしまったことが何度もあった。交信状態の悪い電話は基本的に相手に不快感を与えるらしい。
「俺は不動といいます、大学生で、キューバに留学しているものです」
「ママじゃないの?それはママの電話でしょ?」
「ママというのは、ユウキジュウダイさんのことですか?」
「そうよ。そして、わたしはあなたのことを知らないわ」
 電話口の女は十代の名前に反応した。しかし、不機嫌そうな声は変わらない。
「誰かは知らないけどママに伝えてちょうだい。パパはもう死んだ。わたしはもうママの子じゃないし、この家もママのものではない。もう電話してこないで、って。ママ、そこにいるんでしょう?」
「いえ、俺は独断であなたに電話をかけたんです。十代さんはいません」
「あなた本当は誰なの?」
あなたがどんなうそをついてもわたしにはわかるのよ、女の言葉にはそういうニュアンスが含まれている。この電話を早く終わらせたいと遊星は考え始めていた。
「ママと寝たの?」
「十代さんと、ですか?」
「そうよ」
「いいえ」
「じゃあ、あなたはママとどういう関係なんですか?」
「知り合いです」
「名前をもう一度言ってくれる?」
「俺ですか、不動です」
「本当にキューバなの?」
 本当に、ママがキューバにいるの、と、そう問われているような気がした。遊星は喉と胃のあたりに強い不快感を覚えた。恥ずかしさとか自己嫌悪とかコンプレックスとか理由のない不安とか、そういうマイナスの神経をポイントで攻撃してくるようなしゃべり方だった。催眠術をかけられたようになって、遊星はベッドの端に座り込んでしまった。
「そうです、キューバです」
 はやくこの電話を終えたい一心で、やっと声を出した。
「ふーん、そういえばこの、微妙な音声信号の遅れと。やや音楽的な雑音がそれっぽいわね、キューバなのね」
「そうです」
「たばこの包み紙みたいなセロファンを左手でくしゃくしゃってもんで受話器に近づけながら話すと人工的に雑音を作れるのよ、あなた今、セロファン紙を片手に握ってない?」
「え?」
「雑音を作ってない?」
「そんなことはしていません」
キューバのどこ?」
「ヴァラデロという街です」
「ヴァラデロ、ああ、きれいな海があるところね、古いお城みたいな、オレンジ色のレンガ造りの家のある海岸で、三人で泳いだ記憶があるわ、ものすごくビーチが長いのよね、五キロ? もっとだったかしら」
「二十キロです」
ハバナじゃないのね」
「ヴァラデロです」
「ビーチサイドのホテル?」
「そうです」
「海は見える?」
「目の前にあります」
「ちょっと、受話器を海に向けて、波の音を聞かせてくれませんか?」
「わかりました」
「懐かしいヴァラデロの、波の音を少し聞いてみたの」
「わかりました、ちょっと待ってください」
 遊星は電話を移動させ、受話器をベランダに突き出して海のほうに向けた。
「もしもし、聞こえましたか?」
 電話は、切れていた。
 
 日付が変わってしばらくしてから、十代は帰ってきた。ミニドレスから露出したすべらかな項からバニラビーンズのボディソープの匂いがして、それはこのホテルには置いていないものだった。遊星はシャワーを浴びて着替えているところだったが、ドアのノックを聞くと、裸のまま彼女を出迎えた。
 十代は裸の遊星を見ると特に詮索もなくそのわきをすり抜けて部屋に入っていった、肩に掛けていたピンクゴールドのハンドバッグを奥のベッドに放り投げ、靴を脱いでベッドのサイドテーブルの下に入れ、息を大きく吐き出しながら身体を投げ出して唸った。
「遊星」
 ため息交じりに遊星の名前を呼ぶ。
「何か飲み物をくれないか」
「水でいいですか?」
「そうしてくれ」
 彼女はだいぶ酔いが回っているようで耳から首筋に至るまでが赤かった。そのラインの上に、露骨な鬱血痕があるのを見て、遊星は顔をしかめた。コップを置き、十代のほうへ歩み寄る。
「どこへ行ってたんですか」
「どこだっていいだろ」
「教えてくれないといやです」
 十代は壁に押し付けられて、不機嫌そうに眉を上げた。それは遊星への嫌悪感というよりは、眠たいから寝かせろよ、という不満に近いように思われた。ベッドサイドのランプだけが光源になっていて、彼女の小さな顔や弱々しく力を失った手首、化粧の落ちた唇などが、こまやかにオレンジ色に輝いて見えた。久しく味わっていない女の身体だ、と、遊星の本能が耳の下のあたりでさざめいた。
 抱き上げると、細い身体はとても軽く、とてもではないが先ほどのロブスターの身を間食した女の肉体とは思えなかった。抱きしめれば折れるどころか小麦粉のように崩れてしまいそうだ、と遊星は夢想した。
「あの男に抱かれたのか。俺というのがいながら」
「おまえ、なんのつもりだよ」
「好きです」
「へえ?」
「出会ったばかりのあんな男に抱かれるなど許さない、オレのところにいてください、十代さん、好きです」
「おかしなことをいうんだな」十代は、笑わなかった。「おまえだって、今日出会ったばかりの他人じゃないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、非常に奇妙な夢を見た。遊星の夢はたいてい平凡だが、その夜は違った。疲れていて、それも変な疲れだった。頭というか、神経というか、今まで使ったことのない部分が消耗していた。具体的に言うと、目と、右のこめかみと、脳の奥のほうだ。身体は強く睡眠を要求していて、何十回となく眠りに引き込まれそうになるが、十代の背中のイメージがそれを破る、その繰り返しだった。
 彼女の背中は濡れていた。年季の入った蛍光灯の照明で、髪の生え際のあたりから背骨の隆起にかけてを白くてからせているのが、なんとも形容し難く、エロティックだった。すべらかで美しい、真っ白な背中。それとなく上気した形の良い耳。その凄艶な雪原の上に、ぽつぽつと椿の花弁が散らされている。遊星はこの背中をすぐ好きになった。唇を押し付けるとほのかに血色を滲ませ、呼吸にも肉慾が篭りだすのがなんともいじらしく、熱っぽかった。潤みきったヴァギナを甚振り、きれいなかたちをした乳房に顔を埋めていたりすることももちろん好かったが、ともすればあの背中を思い出し、どうしようもなく愛おしくなって指を走らせるものだった。雪原はどこまでも広がっていた。
ああ!彼女は遊星を見ないまま、後ろから挿れられて身体を仰け反らせた。ああ、ああ、ああ!甘く喘ぐたびに、背中の皮膚は緊張し、緩み、また緊張した。まるでそれじたいが、遊星に媚び、誘い、歓待しているかのようだった。美しいイメージ、つまり、昨夜の出来事なのだが、どうやっても消すことできず、最後には怖くなってきた。気になることがあった夜にそのことを忘れて眠りにつくいい方法を昔祖父に聞いた。目を閉じたときそういうものはたいてい映像としてあらわれる、それを、例えば井戸の底や深い谷に落とすのだ。何度かそういうことをやると、ばかばかしくなって、緊張しきった神経が心地よく緩む、脳と身体が一瞬リラックスして、そういうとき口元は微笑んでいる。そういう神経の裂け目を作ってやると、眠りはそこに入り込んできてくれるのだ。遊星は後片付けをすべて終えてから、そのやり方を何百回と試したが駄目だった。深い井戸の底から、十代の声が、遊星、と呼んだ。それは彼女がセックスをしているあいだ切羽詰まって縋り付いた男の名前ではなく、レストランで向かい合って食事をした男の名だ、そんな気がした。
 もう明け方近くだったのではないかと思う。二、三時間眠って、その夢を見た。ハバナだと思われる、原色のペンキで塗られたバルコニーに遊星はいる、強い香料の匂い、キューバの女が好むバニラに似た匂いがどこかから漂ってくる。外は日差しが強くて、あらゆるものの影が強い。外から家の中に目を戻すと、あるいはそれとは逆に視線を変えても、強いめまいが起きる。バルコニーだから、遊星は二階にいることになるが、家の中で行われていることをあえて見ないようにしている。音楽が聞こえているので、たぶんダンスのレッスンとかそんなものだが遊星は見ない。また目をつぶっているわけでもなくて、見ない。何も見ないという意思で、見ないようにしていた。バルコニーの下で、何か残酷なことが行われる予感がする。ヴァニラの香りのように、その組成が科学的にわかっている物質の、細かな粒子として、予感が漂ってくる。その予感に導かれるようにして、遊星はバルコニーの下の通りを見下ろす。そこには、ほとんど牛ほどの背丈の大きな山羊と、ターバンを巻いた老人がいた。老人は片方の手にナイフをもっている。半月形の、細く長いナイフだ。遊星は何が起こるかわかっているが、目をそらすことができない。老人は、その動作を何十年も毎日やってきたというような滑らかなやり方で、ナイフで山羊の首を落とした。遊星は前もって知っていたからこれが斬首だとわかったのであって、老人はただ山羊の首をやさしくなでただけに見えた。それにずいぶん長い間、山羊の首は胴体から離れることなく、一滴の地も流れなかった。首が地面に落ちる寸前まで、八木は首を動かして、青い草を食んでいた。地面に転がった山羊の首を見て、遊星は絶句した。山羊の首の断面に人間の顔が埋まっていたからだ。そうなんだ、というふうにターバンを巻いた老人が、遊星に向かって笑いかけ、うなずいた。こいつはさっき人を食ったばかりなんだよ。山羊の首に埋まっている人の顔は何か消火器から出続ける分泌液で溶けかかっていた。溶けた顔の残骸はクリーム色の汁となって山羊の首からの地とまじりあい昼間の地面へと流れ出て、ターバンを巻いた老人の影と見分けがつかなくなった……
 
 遊星がようやく起床するころには彼女はシャワーを浴び終わっていて、寝ぼけ眼で体を起こした遊星を見ると、空いてるぜ、と微笑みさえよこしてみせた。それは自らの領域を一晩のうちに許し、不躾な土足の世話をしてやった女が浮かべる、一種の愛情を含んだ笑みだった。遊星はおかしくなりそうだと思った、この女と、まさか同衾することになるとは、強烈な罪悪感と後悔が一度に襲ってきたが、顔を覗き込まれ、キスをされると、それすらどうでもよくなってしまうのがなんとも恐ろしかった。
 彼女はまだ裸だった。リネンカーテンの、半分空いた隙間から差した朝日が光芒を作り、彼女の白い身体のすべてを照らしていた。浅黒さにほと縁遠く、この常夏の地でむごいほど色白の肌は、冷泉の潮にたえず洗われて滑らかに引締っている。お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、芙蓉色の一双の蕾をもちあげていた。まるで名工が王に献上すべく作り上げた賭命の彫刻の、今まさに磨き上げられたばかりのようだ。彼女の強い魅力に思考すら手放した遊星が最初に行ったのは、彼女の身体を持ち上げて、強く抱きしめることだった。
「どうしたんだよ」
 くすぐったそうに笑いながら、十代は抱き返してくれる。それは遊星に過ぎ去った幸福な日々を連想させたが、それすらもう問題ではなかった、柔らかい身体を抱くと、まるでふわふわの羽毛を何枚も重ねた上を歩いているみたいに、おぼつかない心地になった。あつくるしいぜ、と、十代は軽く抵抗したが、本気で抜け出そうとはしていないみたいだった。
「おはようございます」
「うん、おはよ」
「よく眠れましたか?」
「おまえの腕が枕にしてはものすごくかたいこと以外は、快適だったぜ」
「そうですか、それは、すみません」
「電話したんだろ?」
「……はい」
 昨日遊星が無断でヨハン・アンデルセンの電話番号にコールしたことについて言っているのだということはあきらかだった、彼女はちゃんと気づいていたのだ。
「で、欲しい情報は手に入ったか?」
「いえ、ただあなたの娘と名乗る女性につながっただけでした」
「その子はアンナ。ヨハンの娘だ」
「ヨハン、さんは、ご結婚されていたんですか?」
「里子だよ」
 アンナという固有名詞は十代の顔をさみしく、醜くした。睡眠不足にもかかわらずきのうとは比べ物にならないくらい十代の前でリラックスできるようになったのは、応対に慣れたわけではなく、彼女が抱えているさみしさに気づいたからだ。ほかの人間にも共通にあるものをその人が持っていることがわかれば、安心できて、それがリラックスにつながる。
「アンナとは来た時からそりが合わなかった。オレはヨハンが取られた気がして悔しくて、アンナはやっとできた父親にいかがわしい愛人がいることが許せなかったんだ。それでもママと呼んでくれてうれしかった。この国にも何度も三人で来たし、分かり合えると思うときもあった、手をつなげばつなぎ返してくれた、そういう関係だったんだ。でもヨハンが死んで、オレたちには何のかかわりもなくなって結局絶縁した、ただヨハンとの思い出の家は正式な相続人のあいつに引き渡されてもう二度と入れない、アンナは最近結婚したみたいで自分の父親の愛人を夫に紹介することを怖がっている、違うんだ、ちゃんとおまえの父親を愛してる、おまえのことも愛してるよ、って伝えたかったけどおれたちには時間がなかった。ヨハンが死に急ぎすぎたんだいまだってちゃんと伝えたい。でもオレはもうヨハンのことしか覚えていない、あいつのことしかみていなくて、あいつの、笑顔と錯乱、それだけだ、それだけしかオレにはない」
「きちんとはなせば、わかってもらえるときがきますよ」
「いいんだ」彼女は音もなく息をつめた。そこにあるのは、海外で暮らす日本人の女の顔によくある、独特の寂しさだった。「わかってる」
「なあ、遊星」
「なんですか」
「オレは今年で六〇になる」
 十代は遊星の驚く顔をまじかに見ながらそう言った。十代の顔は、きのうとは少し変わっていた、その変化は何かを覚悟したような目つきであったり、固く引き結ばれた唇であったりした。
「四か月前は五十九だった。その一年前は五十八だ。オレはおまえが思うほどきれいな人間じゃないんだ。ほんとうはこうして抱かれる権利もない、やさしいおまえの腕の中で眠ってそういうことがわかったよ、おまえは、ヨハンじゃない、それなのにオレが覚えているヨハンのふりをする、オレはもういい年したおばさんなのに、むかしの出来事から逃れられずにずっと、ずっとだ、出会った時からずっとお前に甘えている、こんなオレを軽蔑するだろう、してくれていいんだぜ」
「十代さん」
「おまえの腕がオレをとらえて、抱きしめられたとき、オレはオルガズムの絶頂にいながらヨハンのことを考えていた、オレを置いていったヨハンのことを考えていた、ヨハンだけじゃない、友達も先生も知り合いも、いずれオレを置いていく、おまえもだよ、遊星、おまえもきっとそうなるさ、理由はもう覚えちゃいない、大事な出来事、人生の転機になるような大事な出来事だったはずなのに覚えていないのはきっと脳が覚えていたくないからなんだって思ってる、よっぽど怖い出来事だったんだ、ただずっとこのままなんだって告白した時のヨハンの顔は覚えてるよ、
 ええ、じゃあ十代、死ねないのか、
 そういうことになるみたいだ、
 エクスタシーをいっぱいやってもそれはだめってことなのか、
 ごめん、ヨハン、
 まったくだぜ、俺を一人にするつもりか?
でも結局オレが一人になったよ、ヨハンは、ヨハンは生きていたころには手に入れられなかった美しさを得て、オレのところを離れていった、オレはヨハンの不在を受け入れられない、だからおまえに、ごめん、遊星、ごめんな」
 十代はうなだれて、もう一度、ごめん、と言った。彼女の美しい唇と目許は涙ではない何かで濡れて光っていた。
「へんなんだ、遊星、オレはおまえに、なにをしてほしいのかわからなくなってる、ヨハンとしてそばにいてほしいのか世話をしてほしいのか、それともただ単に不動遊星としてそばにいてほしいのか、わからない、でも少なくとも昨日は悪い気分じゃなかった。むしろ幸せだったと思う」
 十代は指を組み、ひざの上でぎゅっと結んだ。骨ばって皮膚の薄さがわかるのは、十代が痩せているからだ。強くやりすぎて爪が食い込む白い手の甲が赤色ばんでくるので、遊星はそのうえに自らの手のひらを重ね、細くたよりない肩を自分のほうへ優しく引き寄せた。至近距離で目が合い、十代の瞳の中に、遊星が映っているのがみえ、それは遊星に歓喜と激情をもたらした。顎を救い、見つめあう、十代は表情を変えないまま浅い呼吸を繰り返していたが、まるで人形が傾けられて目を閉じるときのようなしぐさで、その睫をそっと頬へ向けた。遊星の指が薄く色気づいた肉を行き来する、そして薄く開いた唇へ、やさしくキスをした。
 そして長い沈黙が二人に訪れた。二人はまるで愛し合う恋人同士のように、事実愛し合っているのだと遊星は思った、何度も何度も触れては離れ、互いの存在が、同じ世界に存在しているということを確かめた。彼女のうるんだ瞳の表面から下瞼へにじむように涙が伝い、それは裸の胸の上をしっとりと濡らした。
「今、はっきり聞きますが、俺のことは必要ないんですか、もしあなたが必要ないと思っているのなら、今、言ってください、俺は帰ります」
 距離を取ってすぐ、まだぼんやりと、うっとりと遊星の顔を見る女の肩をつかんで、そのように言った、彼女は、遊星をしばらく眺めて、やさしく微笑み、悲しそうに首を振った。その間、海からの風でブロンドに近い茶髪が揺れ、顔を覆っていた濃い影がまるで生き物のように動いた。最高のライティング効果を持った魅力的なしぐさだったが、遊星は冷静さを保った。女優は、誰かを演じるときだけ、女優としての力を発揮するのだ。
「そんなことない」
「ならそれだけでいいんですよ、どうかあなたのお役に立たせてください、十代さん、年が何ですか、たとえあなたがなんであろうと、俺には関係ない。あなたを愛しているのだから」
「でも」
「だから他人なんて悲しいこと言わないでください」
 手の甲にキスをしながら遊星がそう懇願すると、十代は、まだ引きずってんのかよ、と笑う。
「わかったよ」
 そう十代は言った。
「お前にアテンドを頼もうと思う」

 朝食のあと、散歩に誘う十代をビーチに残して遊星が部屋に戻ったのは、アンナ・アンデルセンに再び電話をかけるためだった。それは彼女にアテンドを任された身としての責任感からかもしれないし、はたまた一人の男として、愛する女を守ってやりたいという身勝手欲望からかもしれなかったが、とにかく遊星は十代に部屋へ戻る旨を伝え、黒のロングワンピースを着て鍔の広い帽子をかぶった魅力的な彼女をビーチに残して、鍵を借り受け、こうしてひとり固定電話の前に立っている。
 電話は特に何も変わったところはなかったが、用紙排出口から、まあたらしいファクシミリ用紙が出ているのを発見した。とりあげるとそれはまだ排出されたばかりのようで、文字の上を指でなぞると、黒いインクがかすれた尾を引いた。
 
 十代へ、
 手紙を読んだ、
 馬鹿なことを言うんだな、
 愛が不滅だとか、そんなこと誰が教えたんだ、
 不滅なものは偽物だ、 
 不滅なものなど、どこにもないんだ、
 これは、一時期を共に生きた男からの最後のサジェッション、最後の愛情の一滴だと思ってくれ、
 甘えてはいけない、
 十代、
 自分自身なんかどこにもいないんだよ、
 いるのは、仕事とともにある自分、他人の隣にいる自分、誰かに抱かれている自分、関係性の中でおびえ、ある一瞬歓喜に震える自分だけだ、
 無人島に行ってごらん、
 思い出にふけるときと、救助されるであろう未来を考えるとき以外は、自分なんかどこにもいないことに気づくだろう、
 俺とまだ一緒にいたい?
 ふざけたことを言うんじゃない、
 十代、言ったじゃないか、
 俺はそこにいる、
 お前が見つめる先に、俺はずっとずっといたじゃないか、
 俺の不在を受け入れろ、
 おまえがなにを思おうが、だれといようが、俺はずっとお前のそばにいるよ、
                              ヨハン・アンデルセン
 
 日付は約一年前で、手紙の最後には自立を促すアンナの付記があった。ヨハンは死ぬ前に自分の行く先を悟り、十代に手紙を書いたが、今まで届かずにアンナの手元にあったのだ、
 俺の不在を受け入れろ、
 遊星はヨハンの返信を読んでわけのわからない嫉妬を覚えた。ヨハンと十代の関係が濃密で、それが実質の支配と被支配に貫かれているからではない。積極的にお互いの不在を受け入れようとしてそれを果たせないでいるからでもない。遊星は、アメリカ西海岸、メキシコを経て音楽に対する考え方が変わった。L・Aであるラップグループの写真を撮っていた。ダウンタウンの黒人ゲットーで人気のあった破滅的で破壊的なラップでメンバーは全員二十代の初めだったが、遊星が写真を撮り始めてから半年後に三人がエイズを発症し一ヶ月の間に三人とも死んだ。L・Aで最も過激だと評判だったそのグループは三人のメンバーを失って当然消滅してしまい、残りの二人もその三か月後に死んだ、エイズではなく、スーパーマーケットに強盗に入って自警団に撃たれたのだった。彼らは、音楽におけるメロディを憎んでいた。ラップやハウスは大体機械的なビートや騒音に近い電子音がそのサウンドの大部分を占めている。メロディは干渉を発生させる装置であり、基本的には旧世界とそれに属する有産階級と最下層民のものだとラップやハウスのミュージシャンは知っているのだ、遊星はその態度を潔いと思ったが、ずっと聞き続けるのは苦痛だったし、何より日本人の彼とは相いれないコンセプトだった。キューバの音楽は違った。キューバには信じられない種類の音楽があり、それらは分断されていない、一部のくだらないメッセージソングを除けば、キューバの音楽は凶暴なビートに支えられている、そしてそれは、永遠に終わらないものとして演奏される。アレグロ。アンダンテ、アレグロ――またはアレグロアダージョ、アンダンテ・カンタービレというような旧世界の音楽の物語性から最も遠いビートだ、キューバのビートにはまってしまってから遊星はその原型とされるナイジェリア・ヨルドのパーカッションも聞いた。明らかな違いはキューバのほうが複雑でしかも厳密だということだ、今もその生まれた土地に住むものよりも、古郷や土地から切り離されたもののほうが強くビートを求める、すべてのシンコペーションを明らかにして、ピンポイントでそれを際立たさねばならないのだ。もちろんキューバにもメロディはある、ヨハンと十代の関係性は、キューバ音楽におけるメロディに似ている、感情の奴隷にも奴隷の感情にもならない、ただ複数のビートを連絡させるものとして、ある。だからそれは常にシンプルだ。ヨハンの手紙は、的確でシンプルだった。非常に残酷な感じもした。これは最後のサジェッションだ、最後の愛情の一滴だ、ヨハンはそう書いていた。最後、愛情、一滴、ふつうそんな言葉が三つも出てきたら人はみんな笑ってしまう、しかしヨハンの言葉は誠実で、嘘がない、ヨハンのサジェッションは不在を受け入れろということだった、遊星はこの手紙を、十代に渡すわけにはいかないと思った。
 帰ってこないでね、
 アンナの言葉は乱雑に締めくくられている、
 十代の帰る場所にはそこにはない、と遊星は声に出して言った。なぜなら今日から遊星が彼女の帰る場所だからだ。