2023/04/28

 

 レンテンアグン市場は、インドネシアの伝統的な露天商で形成される公設市場である。近年営業形態が変わり、人々は巨大な倉庫の中でテントや仮設店舗を建てて営業を行なっているが、商品のラインナップはほとんど変わらない。銀の腕輪やネックレス、時計、五千ルピアにも満たない安価な服飾品、壁にびっしりと掛かったサンダル、出どころのわからない土産物……地下は食料品売り場になっているが、店はことさらに小規模なものが多く、しかも密集している。カラフルな熱帯魚、白や茶色や薄緑色の殻の卵、ココア飲料の五つ綴りの小袋、チョコレートケーキ、味噌菓子、スイカやバナナなどの果物、虹色の棒キャンディ、麺類、スナック、老爺が脇目も振らず剥き続けるのはココナッツの硬い皮、それにかぶりつく痩せ細った野良猫、脚がついたままの鶏生肉にはハエが盛んにたかっている。耐え難いほどの異臭、生ものが腐敗し発酵する匂いに、小銀はおぼつかない足取りで歩いた。ふらつくたびに親弘は不安そうな目でこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫かよ」
「ああ……」
「外で待っててもいいぜ」
 彼はそう言うが、小銀は一秒でも長く彼と一緒にいたいのだった。気丈に首を振ってみせ、繋いだ手を強く握りなおす。
 キャベツ、アボカド、ピーナッツバターにココナッツミルク、卵、最後に親弘のためのタバコを買う。洒落た黒の小箱に箔押しでDJI SAM SOEと印字されたものだ。それから地上に戻り、出口付近で銀細工の店に立ち寄った。赤いヒジャヴをつけた店番の老婆は、二人の姿を見ると、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
「Anda datang dengan pasanganmu hari ini? Istri cantik!」
「奥さんきれいですね、ってさ、gadisku paling penting」
「なんて言ったんだ」
「きれいだろ、俺の一番大事な女だよ、って言ったんだ。せっかくだしなんか買ってやるよ、奥さん」
 恥ずかしい。嬉しい。大好きだ。顔が熱い、身体が熱い。頬や鼻先に熱が集まってきてじくじくとたぎる。にわかに手のひらが汗ばんでくるのが恥ずかしくて、さも商品を選ぶためですとばかりに手を離した。
 ……すぐに冷たい寂しさがじわりと胸に溢れ、腕を組み直した。親弘は気にした様子もなく、彼女の腰を引き寄せて密着してくる。
 ショーケースの中で、波を模して整然と並んだ銀細工たちが繊細に光を放っている。誰とも知れない男の名前が彫られた腕輪、真珠のついたピアス、バレッタ、髪留め、貝殻の飾りをゴテゴテとつけた重たそうなネックレス。スカルノ元大統領の顔を模ったブローチまである。
「どうせパチモンだ、本物のお嬢さんにはものたりねえか」
「これがいい」
 無数の品々の中から小銀が取り上げたのは、蓮の花がリングに咲いた、小ぶりな指輪だった。小銀の細い指に引っかかって輝くその指輪を、親弘が検分でもするみたいに見る。飾りとリングの接着が粗雑で、肝心の蓮の花びらもところどころ歪んでいる。明らかな粗悪品、子供向けのおもちゃにもほど近いものだ。不思議そうな彼に、指で隣を示し、小銀のたくらみを教えた。
「一緒につけたい」
「は」
 同じ意匠で、もっと大きめに作られた一つ。男女が揃いでつけるためのデザイン。
「お前、かわいいやつ……」
 親弘はしわくちゃの十万ルピア札で二つまとめて買い上げた。大きい方を自分でつけてしまうと、小さい方を、恭しく小銀の指にはめてくれた。左手の、薬指だ。あまりの幸福に言葉が出ない。

 手を繋ぎ、揃って同じ指輪をつけた二人を、矢崎夫人はすべて承知といったふうに出迎えた。
「お帰りなさい。親弘さん、買ってきたものをデヴァンにわたしてくださる?」
「はいよ」
「あの……なにか手伝いましょうか」
「いいのですよ、ゆっくりしていて。もうすぐお夕飯ができますからね」
 表で靴を脱ぎ、裸足で室内に入る。白い大理石の床はひやりとして冷たい。
 矢崎家の応接間は広々とした吹き抜けで、幾何学模様のデザインパネルや木で作られた伝統的な船の模型、アジアンラタンのパーテーションなどが趣味よく配置されていた。ガラス張りの本棚は、〈日本占領下のジャワ農村の変容〉、〈戦後日本=インドネシア関係史〉、〈インドネシア破傷風事件の真相〉と、インドネシア社会に関する学術書ばかりだ。窓辺では良い匂いの香がたかれ、レースキルトの敷かれたローテーブルにはみずみずしいフランパジニの枝が飾られている。夫人の細やかな機微と気品の感じられる美しい家だ。小銀は所在なく椰子編みのソファに座り、バティック柄のクッションを胸に抱き締めてみた。
 紐暖簾をかき分け、ダイニングから親弘が戻ってきた。それから、ゴロゴロと喉を鳴らしながら彼の右脚に擦り寄る子猫。白くてふわふわで、触れればずいぶん気持ちが良いだろう彼女は、親弘にすっかり懐いているようだった。
「めずらしー、借りてきた猫状態の小銀」
「ばか、おまえのせいだ」
「百合ちゃん、夕めしできたって。案内すっから」
 子猫を抱いて引き返す親弘の背中を追いかける。
 ダイニングに通され、大テーブルのはじの席に案内された。親弘が右手側に、夫人はその向かい、小銀の目の前には矢崎氏と思われる長身の男性が脚を組んで座っていた。小銀と目が合うと、その人は柔らかく笑ってみせる。青い目や彫りの深い顔立ちは西洋的な印象をもたらすが、笑顔やその他の表情の作り方は東洋人ふうだ。
 キッチンからよく焼けた肌の若者が食器やカトラリーを持って現れ、それぞれの手前に配膳していく。陶器の大皿には、バナナの葉に盛り付けられた混ぜ野菜とピーナッツソース、チャーハンにも似たナシゴレン、スライスされたライム、スパイスの香るスープ、カットフルーツ。それぞれ好きなものを取り分けて食べろということらしい。彼は最後に子猫にも生の小エビを与えると、恭しく礼の姿勢をとり、踵を返してキッチンに戻っていった。
「デヴァンも一緒に食べていけばいいのに」夫人がため息をつく。
 食事は和やかに、つつがなく進む。小銀はあまり食べる気になれず、カットフルーツをちまちまと摘んでばかりいたが、代わりにたくさんの話をして夫妻を喜ばせた。タクシーの中で聞いた、また親弘との買い出しの帰りにも聞いたイスラム教徒たちの祈りへのいざない、アザーンの話は、もっぱら四人の話題の種になった。
ムスリムの人たちは、一日に五回クルアーンと呼ばれる祈りを唱える時間があるんだよ。裏に大きな建物があったでしょ? あれがモスク、みんなあそこに集まって、神さまにお祈りをする。そしてアザーンは、これからクルアーン読むよっていう合図なんだ」
「お前が聞いたのはズフルにアスル、正午と午後の祈りのだな」
 矢崎氏が言うのに、親弘が言葉を加える。
「そうです、親弘さん、もうすっかり覚えましたね」と、夫人。
「おかげさまで。伊達に三ヶ月もいないっすよ」
インドネシア語もとても上手だし……やっぱり海外慣れしていると違うのかしら。夫なんて、レストランで注文できるようになるまで二年もかかったのよ」
「僕の話は余計だよ、百合子」
「海外慣れ?」
 親弘が?
「あら……ご存じないの。親弘さんは小さい頃からいろいろな国に行かれていたと言う話ですよ。一昨年はカンボジアで海洋保護のボランティアをしていたんですって。それから……」
「百合ちゃん」
 親弘が、らしくない表情、苦いものを噛み潰したような顔で夫人の話をさしどめる。その目に、再会の時に見たあの緑色がまたよぎるのを見て、小銀はにわかに湧いて溢れる不安を持て余した。
「親弘」
「なんでもねえよ、大した話じゃない……」
「親弘!」
「なんでもねえって」
 首を横にふり、雑に誤魔化そうとする親弘が、途端に遠いもののように思われて怖かった。
 小銀は、親弘と出会ってから今に至るまで、自分のパーソナリティに関すること、家族や友人のこと、その日あったこと、誰にも話していないような秘密や悩み事、コンプレックス、ほくろや性感帯の位置に至るまで、どんな情報でも包み隠さず開示してきた、つもりだ。嘘をついたことがなければ、欺瞞を口にしたこともない。文字通り身体と心の全てを捧げ、委ねた。親弘を信頼し、愛していたからこそ、そのように振る舞うことができたのだ。
 しかし親弘はそうではないのか? 小銀にすら話せないようなことなのか? それとも、信頼も愛情もないから話せないのか? 矢崎夫妻には話せたのに?
 不安の雲はもやもやと腹の中に広がり、急速に膨れ上がって、入り切らなかった分が喉まで迫り上がってきた。気分が悪い、ひどく眩暈がする、吐きそうだ。……悪阻が来たのだ、このタイミングで。
 小銀は彼の顔を見ていられなくなり、おぼつかない足で席を立った。
「す、みません、ちょっと、トイレに」
 返事を待たずにその場を離れ、よろめきながらダイニングを出る。キッチンからデヴァンが出てきてトイレまで手を引いてくれる。背中でドアを閉め、便器の前で膝をつくと、堪えきれない嘔吐感が込み上げてきた。小銀は生理的な涙を流しながら、胃液だけになるまで腹の中のものを全て吐き出した。
 ぐずぐずと嗚咽する。女々しい。情けない。そうだ、小銀とて、まだ話せていないことがあるではないか。子どもができたのだと、その子を産みたいのだと、彼女はまだ、親弘に明かせずにいる。
 歯を食いしばり、鼻を啜る小銀の背に、誰かの手が優しく置かれた。
「赤ちゃんがいるのね」
 矢崎夫人だ。いたわるような微笑を薄い唇の上に結んで、静かに小銀を見下ろしていた。
「親弘さんとの? ……そう、それは、つらかったですね。彼があんなでは、あなたも簡単には言い出せなかったでしょう」
「あ……」
「大丈夫、無理に話さなくてもいいんですよ。少しは落ち着いた?」
 首肯すると、夫人はふわりと身を屈め、冷たいタオルで汚れた口許を拭ってくれた。ひんやりと水が皮膚に浸透するのが気持ち良い。緊張していた意識の糸がふっと緩む。
「客間を用意してあります。長旅で疲れたでしょう、今日はもうお休みなさい」

 タイル模様の天井の四辺では、薄墨色の闇が集まって凝り固まっている。手持ち無沙汰の小銀は、ベッドに仰向けに寝かされたまま、その様子をぼんやりと眺めた。
 先ほど、精がつくようにと夫人が鶏がゆを持って来てくれたのだが、ひと匙も喉を通らず、結局持ち帰らせてしまう羽目になった。夫人は不平も言わず、ただ小銀の額の汗を拭い、布団を整えて、ゆっくり休んでね、と言ってくれた。やさしく労ってくれた。小銀はもうずいぶん前から母親のない身だが、もし彼女が存命だったらこんなふうだったのかもしれない、と思った。そう歳の変わらない妙齢の女性に対して抱く印象としてはちぐはぐなものかもしれないが。
 花の刺繍が施された、ふかふかの枕に顔を埋める。アロマオイルのよい香りがする。夫人が着せてくれた絹のパジャマが心地よい。だが、身体はすっかり疲弊し、一刻も早い入眠を望んでいるというのに、頭のほうが妙に冴えてうまく眠れないのだった。緩慢に寝返りを打ちながら、小銀は、親弘について考えた。
 親弘……愛しいひと。小銀を、一番大事な女だとそう言って、左手の薬指に指輪をはめてくれた彼。今だって、睡蓮の指輪は小銀の指にはまったままだ。手で触って確認する。嘘ではない。でも、あの時彼は不安がる小銀から目を逸らしたのだ。そのことを思うと、小銀の胸は暗愁で押しつぶされそうになる。
 何もしないでいると、思考は悪い方へと転がり落ちていくばかりである。なんとはなしに右手をパジャマの下へ滑り込ませてみる。ショーツはしっとりと濡れはじめていた。おかしなことだ、いやな想像ばかりしながら、小銀は感じていたのだった。淫乱……低く、熱っぽい親弘の声を幻聴する。
 親弘は、いつもどんなふうに抱いてくれただろうか。
 そのとき、さまざまな情報に押し殺されてすっかりないものになっていたはずの性欲が、堰を切って溢れ、小銀の指先までを満たした。手のひらに汗が滲む。下肢に甘い痺れが走る。よそのベッドの上でいけないいけないと思いながらも、布の上から勃起した陰核の形をたしかめて、あとはかたなしだった。
 シーツの中ではしたなく足を開き、ショーツに手を突っ込んで弄る。親指と中指を器用に使って包皮を剥き、敏感な先端を露出させて、そこにつま先で軽く触れる。堪えるまもなく甘い吐息がこぼれた。夢中になって扱く。つまむ。揺すって、捻って、爪でぎゅっと挟む。腰を浮かせ、尻を揺らして身悶える。
 唇を噛み締め、声を立てないよう、ひめやかに指を動かす。セックスのとき、やさしく理性的な親弘はしばしば獲物を狙う獣のようになって、熱烈に、あるいは背筋がよだつほど冷酷に、彼女を追い詰めるのだった。湿った声が耳のそばによみがえる、ぜってえ離さねえ、小銀、俺のものだ、俺のだ……他の誰にだってやるもんか……彼に問いたい、それはほんとう? 心からそう思って言ったのか? いま、ただ愛情を甘く問いただすためだけに、小銀は親弘に抱かれたかった。
「は、は、は、っうあ」
 もう堪えきれない、右手で陰核を愛する一方で、左手指を三本まとめて膣口にねじ込んだ。好いところに触れられるよう姿勢を変えながら、ゆっくりと指でかき回す。手前の方で腹側に向けて折り曲げると、指輪の突っかかりがやわらかい肉にありありと食い込んで、彼女は息をのんだ。
「親弘!」
 親弘……
 脳の神経がほつれて、全身の血が沸騰して……忘我の果てで幸福をほしいままに味わう……かと思えば、次の瞬間にはまた冷たい床の上でぼんやりと天井を眺めていた。全身が弛緩し、頭がくらくらと揺れていた。
 一人で快楽を極め、余計に際立つ親弘の不在である。ただ彼の子を孕んだ子宮が物欲しさのあまりに夜泣きしている。ばかばかしい。濡れた指をパジャマの裾で雑に拭い、布団に潜り込んで眠ろうとしたそのとき、背後でノブが回る音がした。続いて、人の気配。
「お前。呼んだろ、俺のこと」
「き」心臓が凍りつく。「聞いてたのか」
「いや」
 小銀はおもむろに身体の向きを変え、顔を半分シーツに埋めた状態で、上目遣いになってその人を見た。開いたドアの隙間から漏れたオレンジ色の光が、暗がりの中に彼の鼻梁や頬や唇をほのかに浮かび上がらせていた。
 豆だらけの手が音もなく伸びてきて、小銀の額に触れた。「ちょっと熱あんのか……?」硬い指先の皮膚が前髪を撫で上げ、壊れ物にさわるみたいに眉や瞼にすべる。頬を包まれる。小銀はその手に自らの手を添え、すり寄って甘えた。指輪のつるつるとした表面が冷たい。
「……俺、昔っから日本じゃないところに行くのが好きだったんだよ。親は必要な分だけ金払ってくれたしさ、なんも考えず、一人でいろんなところに行った。シリア、アラスカ、グリーンランド……はダチのいる寄宿学校に行ったんだがお偉いさんの銅像に登ったら一日で退学になった……キューバ、インド、タイ、フィリピン……からマレーシア、百合ちゃんたちに出会ったのはここだな、そんでカンボジアだろ? 去年のことだ、ダイビングの資格とって、そのまま現地の海洋保護団体に参加したんだ。ロンサムレム島っつうとこの海に潜ってな、ツーリストどもが置いてったゴミをひたすら取る、でも正直ボランテイアなんておまけだったよ、そこはな、めちゃくちゃ珊瑚が綺麗なんだ、絵の具で塗りたくったみてえな色の魚がウヨウヨ泳いでてな、デカい貝なんかもいてな、息するとブワって泡が立って、俺はこの世で一番幸せな男なんじゃないかって、そう思ったんだ……」
 彼の声は滑らかで、淀みなかった。海の果てしなさが小銀の心にも押し寄せてきた。潮騒の音に、少しずつ意識がほどけてゆく。
「お前のこと、好きなんだ、ほんとだぜ。お前の胸——」パジャマのボタンをいくつか外されて、彼は、そこにやわらかく頬を寄せた。「——小さくてやわっこい胸、かたい肋骨の上に耳くっつけてると、心臓の音が沁みてきて、俺は思い出す。世界で一番幸せだって思ったあん時のこと。な、恥ずくてよ、そんなこと言えねえだろ、夕めしの席でさ。ごめんな。お前がびっくりして、不安がってたことわかったよ、でも……いや、言い訳なんていいよな。ダメな彼氏だな、俺……好きなんだよ、カッコつけてえんだよ、恥ずくて言えないこといっぱいあんだよ……小銀? 寝ちまったのか、お前……」

 

「小銀のばか! もう、心配したのよ!」
 まりながそう言うのも全く仕方のない話だった。昨日の朝にやりとりをしてから丸一日、電話はおろか、メッセージの一つも寄越さなかったのだから。
 顔を見せろとせがむ彼女のためにビデオ通話モードに切り替える。起き抜けの小銀はパジャマ姿に寝癖をつけたままのだらしない姿だが、画面に映るまりなはすっかり化粧を済ませて、春らしい桃色のブラウスを身につけている。黒髪を高い位置でまとめているのが清々しい。小さな耳たぶには、桜の形をした石のピアスが揺れていた。
「電話かけたしラインもしたのに……本当に気づかなかっただけなの? 拉致されていたとかではなくて?」
「本当さ、まりなは心配性だな。私は元気だ。親弘にも会えたし」
「え? 親弘?」
「おう、まりな。久しぶり」
 小銀のそば、ベッドに腰掛けていた親弘が画面に現れ、まりなが悲鳴をあげた。
「親弘、あなた生きてたのね、というかどうして小銀のベッドにいるの! ま、まさか、あなた、彼女を……」
「きゃんきゃんうるせーよ、学級委員かっつうの。俺と小銀がしっぽり良い仲なのは周知の事実だろ? な、小銀、俺たち昨晩はお楽しみだったよな?」
「不潔! 最低! 今すぐ彼女から離れて!」
「落ち着け、まりな。昨晩は本当に何もなかった」
「昨晩はって何よ、これが落ち着いていられますか!」
 顔全体を真っ赤にして憤るまりなはかわいい。おかしくなって、笑った。

 まりなとの通話を終えるころに、ズフルのためのアザーンが流れてきて、すでに正午を過ぎていることを知った。小銀の横で怠惰に転がりながら親弘が、昼メシは外で食わないか、と言う。
「知り合いが作るミーがうまいんだ。お前に食わせてやりたくてさ。百合ちゃんにはもう言ってあるから」
 ミーとは、インドネシアにおける麺類のことだ。炒めて作る焼きそばのようなミーゴレンや、鶏だしで味を作るミーアヤムなどが代表的だ。彼がそう説明するのにつられて腹がなり、小銀は頬をほてらせて恥じ入った。
 ベッドを出る。百合子が整えた客間は、窓から差しそめた昼の光に洗われて清らかに静まっていた。薄手のレースカーテンが音もなく翻る。イスラムの神話を模ったカーペットの絵柄に光が散る。窓辺の名も知れぬ花は、大粒の露をいただいてまばゆく煌めいている。親弘が、部屋を出しなにこちらを顧みたので、小銀はゆっくりと瞬きすることで、このさわやかな目覚めにふさわしい気つけを要求した。戻ってきた彼にすぐさま腰を抱かれ、首の後ろを大きな掌で固定されて……二艘の舟を隣り合わせたような唇が、小銀の繊細な感覚器官を優しく愛撫した。
 肉厚な舌が歯の合わせからぬるりと入ってきて、上顎、彼の手ですっかり敏感になった粘膜に触れられる。ねっとりと、容赦なく、別の唾液腺で作られた体液の味を教え込まれる。小さな器官から快楽がはじけ、全身に広がり、脳のシナプスが麻痺して、ああ、彼の、凪いだ海のようにおだやかな二つの目が、明るいうちから痴態を晒す小銀を見ている。とろけて焦点の合わない小銀の目から、歓びに打ち震える唇、舌、朝の新雪のような肌、余すことなく、見ている。彼の腕の中で、小銀はうっとりと力を抜いた。
 腰が立たなくなってしまったので、親弘に着替えさせてもらうことにした。昨日小銀が放り出したスーツケースは部屋の隅に立てて置かれていて、その中から、彼は柄もののTシャツとデニムのホットパンツを選んだ。パジャマを脱がされ、まるでセックスをする時のように恭しく、ゆっくりと脱がされて……かと思えば子供にするみたいな雑な手つきでシャツを着せられた。パンツを履くときなど目を逸らしさえした。
「その……さすがによ、百合ちゃんちだし。あとで。あとでな……お前を抱きてえ」
 小銀の腹の前でベルトを締めながら、熱情をたっぷりとたたえた瞳で、彼はそう言った。夢見心地で頷く。
 親弘が部屋を出ていったあと、ふと、スマホにメッセージ通知がきていることに気がついた。まりなだ。
〈さっきはごめんなさい。動揺してしまって、親弘にはひどいこと言っちゃった〉
 涙を流す人の顔の絵文字に、しおらしく項垂れるまりなの姿が想像される。
〈気にしてない。親弘も元気そうでよかったって笑ってた〉
〈ほんとに?〉
 小銀がメッセージを送り返すと、すぐに既読がつき、返事が返ってきた。
〈でもそうよね、考えてみれば、あなたたちもうずいぶん前からそういう関係だったんだものね。赤ちゃんもいるし〉
 息を呑む。寝ぼけついでにすっかり忘れていた。小銀の腹にはいま、親弘の子がいるのだ。

 

 二人連れ立って玄関を出ると、矢崎夫人が花に水をやっているところだった。白日の中で、ほっそりとした身体が絹のキャミソールドレスに透けていた。小銀が朝の挨拶をすると、彼女は振り返り、莞爾として微笑んだ。
「まあ、小銀さん。おはようございます。昨日は眠れました?」
「おかげさまで。あの、少し出かけてきます」
「気をつけて。……ああ、デヴァンがいまお昼休憩中なの、もし会ったらよろしくお願いしますね」
 親弘のいうミーの店は、二人が再会したモスクの近くにあった。礼拝中で静まり返る路地裏、その一角に建つ小さなモスグリーンの壁の建物がそれだ。といっても、店というよりはごく普通の民家の風体で、その段差や柵、道路などに客が座って、出される料理を食べるといったありさまだった。
 小銀が段差に座り、親弘はその下に腰を下ろして小銀の脚を背もたれにした。恰幅の良い女主人がタバコを吸いながら出てきて、親弘からの注文を受けた。彼女が去ると、ちょうど百日紅の木の影になっているところに、洗いざらされたシャツを着た、いかにも現地人らしい趣の男が座っているのが見えた。デヴァンだ。
「Hei」
 こちらに気づいて、彼はミーを啜りながら実直に頭を垂れた。昼食中だったらしい。
「Kemarilah」
 親弘が何か呼びかけ、デヴァンはすこしのためらいののち、歩いてきて小銀の隣に腰を下ろした。近くでよく見ると、彼は美しい青年だった。凹凸のあるエキゾチックな顔に豊かな黒髪、褐色の肌、くっきりとした二重まぶた。瞳の青さは、行きの飛行機で見たジャカルタ湾の青い海を思わせる。しかも、
「You may speak in English to me(英語で話してくださっても構いませんよ)」
 英語も話せるのだ。発音も非常にはっきりとしていて聞き取りやすく、流暢だった。
『デヴァン、昨日はどうも』
『こんにちは、チカヒロさん、コギンさん。こんなところでお会いするとは奇遇ですね』
『お前が勧めてくれたとこ、こいつにも紹介したくてさ』
『それは光栄です』
 笑うと目尻にくしゃっとした笑いじわが寄る。
『お前、英語も話せたんだな。なんで言ってくんなかったんだよ、一生懸命インドネシア語使っちまっただろ』
『まだ勉強中なので』
『それにしちゃうますぎねえ? 矢崎さんに教えてもらってんだろ?』
『いいえ、大学で。奥さまが通わせてくださっているんです』
『百合ちゃんが?』
 デヴァンときやすく話していたはずの親弘が、嘘だろお、と背を逸らして仰天した。知らなかったらしい。小銀も、目の前の彼と、それから先ほどやさしい顔で使用人の名を口にした夫人の顔を交互に顧み、両者の関係をうまく接続できずに首を傾げた。
 木々の間から、モスクの向こうから風がさやさやと吹きこみ、三人の髪を巻き上げる。湿った風だ。脚をむき出しにした状態の小銀にはすこし肌寒いくらいだ。
 困り顔のデヴァンの鼻先にちらちらと木漏れ日が降ってくる。
『奥さまは、……十年前、ジャカルタ郊外の、売春宿の集まる赤線地帯に、研究のためにおいでになりました。たったお一人で。そのとき奥さまはまだ学士課程の女学生で、私は十にも満たない子どもでした』
 例の女主人が大きな盆を持って戻ってきて、小銀と親弘に麺や牛肉の入ったボウルと肉団子スープを寄越した。麺を手でスープにつけて食べるのだ。
『突然尋ねてきた奥さまを女たちはずいぶん持て余しました。夜は稼ぎどきですから、金にならない女の子ひとりに構っている暇はなかったのです。そこで、当時そこで下働きをしていた私が、彼女を連れて店の営業形態や警察との内通についてお話しすることになりました。
 奥さまは私という存在にすっかり驚かれて、こんな仕事やめてしまいなさい、子どもがやることではありませんと、そう諭されました。しかし私にはここ以外に行くところがなかった。幼い売春婦が、行きずりの観光客とつくった子どもです、もちろん父の行方はもう分かりませんし、母は病に伏しわずかばかりの私の稼ぎだけが頼りでした。その日、彼女は十万ルピア札を礼として私に含め、朝方ホテルに帰られました。私はそこに残りました。
 しかし次の日、奥さまは私のところに戻ってこられたのです。そして、ご自分のところに来ないか、とおっしゃった。御身は卒業したら結婚してインドネシアに住むのだ、そのとき、身の回りの世話をする家政夫がほしいと。私の母にも補助を出すと。私はすぐに返事をすることができませんでした。でも……いま、こうして彼女のもとで働かせていただいている』
 デヴァンは言葉を切って、椀のスープを飲んだ。その間も、二人は言葉もなく、ただ彼の一挙手一投足に意識を注いでいた。
『私が働き始めてから一年もしないうちに、母が亡くなり、私は名実ともにみなしごになりました。奥さまも旦那さまも、私に本当の子どものように接してくださり、やがて学校にも通わせていただけるようになりました。そのとき、養子にならないかと、そうご提案くださったのは、確か旦那さまだったと思います。
 私はお断りしました。こんなによくしていただいているのに、これ以上はとても望めない。それに、私は、インドネシア人であり、ムスリムである自分に誇りを持っていました。私の生まれた土地はインドネシア、私が死ぬ土地もインドネシア、信じる神はアッラー、従うべき預言者ムハンマドなのです。恐れながら申し上げると、お二人は静かにそれを受け入れてくださいました。でも、せめて大学までは行くようにと、そうおっしゃるので、今はインドネシア大学の学生として勉強させていただいております』
『そうか』
 親弘が、鼻の下を擦りながら、屈託なく笑った。
『お前、好きなんだな。百合ちゃんのこと』
『とんでもないことです。私にはとてももったいない女性ですし、第一、旦那さまがおいでになりますから』
 即答しながらも、デヴァンの表情は愛おしいその人への哀傷に翳りを帯びている。今からでも、彼女の手を引いて遠くへ逃げられたなら——
『このくそばか、へたれ野郎、そんなだからいつまで経っても彼女できねんだよ。男なら奪うか潔く諦めるかしろよ。おい小銀、早く食っちまおうぜ、こいつに話させてたらいつまで経っても食い終わらねえ』
『失礼ですね』
『お前もとっとと食えよ、愛しの奥さまが呼んでたぜ』
 親弘の指がデヴァンの腕から肉団子をつまみ、さらに言い募ろうとする口に容赦なくつっこんだ。
 小銀も肉団子をつまんで口に入れ、麺をすする。トマトベースのスープに牛肉の旨味がよく染み込んでいておいしい。パクチーにも似た小さな葉っぱは、……親弘の椀にこっそり移しておいた。

 

「Siang, Tikahiro!」
「Tikahiro, Layanan sudah selesai, ayo bermain!」
Itu gadis kemarin, pacar Tikahiro!」
「Cium dia, cium!」
 正午の礼拝が終わったようだ。モスクの表扉が開き、タギーヤを被った男の子やヒジャヴを被った女の子たちがわらわらと群になって出てきた。中学生くらいの背丈の子から五歳にも満たない様子の幼児までいるが、みな親弘を見つけると、現地の言葉で口々に何か言いながら纏わりついてくる。ティカヒロ、ティカヒロと、小銀にはそれしか聞き取れないが。
 親弘は最後の麺を啜り切ってから、にやにやしながら小銀のそばに寄ってきた。かと思えば、いきなり唇を奪われた。スープの塩っけの残る舌が下唇を舐めてくる。子どもたちの間からわっと歓声が上がる。
「俺はChikahiroだっつの」
 小銀の肩を抱きこんで、勝ち誇った笑みで胸を張る親弘である。
 その日はこの地域一帯で定められた地域奉仕の日で、礼拝を終えた子どもたちと女性たち、それから仕事を持たない男性たちがおのおの周辺の清掃をするのだという。小銀と、それから親弘も、子どもたちの集団を引き連れて、蛍光緑の水が溜まった側溝の掃除に取り掛かった。昨日は横目で見ただけで気が付かなかったが、よく見ると粉ジュースの小袋やプラスチックストロー、落ち葉などがヘドロと絡まってひどいありさまだった。一週間前にも掃除したんだけどな、後ろ髪を掻きながら親弘がぼやいた。
 風はいよいよ冷たくなり、湿り気も強くなってきた。どんよりとした鼠色の雨雲がにわかに集まってくる様子はスコールを予感させる。だが、子どもらはみな泥まみれになりながら楽しそうに働き、それは親弘も同様だった。トングでゴミを大量に拾い、透明の袋にどんどん詰め込んでいく。
「Lihatlah Tikahiro ular-ular mati!」
「うわ! ばっかお前、Marah aku!」
 ヘドロの中から取り上げたヘビの死骸を、親弘の目の前でぶらぶらさせて笑う女の子。怒ったふりをしながら自分もしっかり楽しんでいるはずの親弘。その様子を無心で眺めながら、ふと、小銀は彼にこんなことを尋ねていた。
「子ども、すきなのか」
 親弘がこちらを振り向く。彼のTシャツが風に吹かれて捲れ上がり、精悍に絞られた臍下、陽に焼けて引き締まった腹筋をのぞかせる。
 そこでようやく、しまった、と思った。これでは彼との子どもが欲しいと言っているようなものではないか。それにあんな、あからさまに男性性を見せつけられてしまっては、小銀も妙な気分になってしまう。慌てて的外れな言葉を継ぎ足し、誤魔化そうとする小銀を不思議そうに見ながら、おう、と親弘。
「子どもは嘘つかないし、無邪気だからな。つまんねえ大人よりか万倍好きだぜ」
「そ、そうか」
「聞いてねえだろお前。……あんだよ、顔赤くして」
「ちが……ちょっ、何をするんだ!」
 いきなり視界が急に高くなる。抱き上げられたのだ、お姫様抱っこで、親弘に。抗議しようと彼の顔を見て、その頬が熱っぽく上気しているのに気がついた。男らしくつりあがった眉をぎゅっと寄せ、唇を固く結んで、小銀だけを熱心に見つめている。人差し指が伸びてきて、小銀の唇をいやに優しくなぞった。ついで、キス。先ほどのお遊びのものとは違う、雄が番の雌を我が物にし支配下に置くためのキス。
 下唇のやわらかい部分を甘噛みされて、開いた隙間からすかさず恋に熱された舌がねじ込まれた。歯茎の裏をくすぐり、舌のざらつきを確かめ、かと思えば、息もできないほど激しくをねぶられる。舌だけで口内粘膜のすべて、小銀の消化器官のすべてを確かめようとするような執拗な動き。
「うるせえ、さっきからちょくちょく煽ってきやがって。もう我慢できねえ」
 そう言うなり、親弘は小銀を抱いたまま駆け出した。子どもたちが囃したてる声を背中で聞きながら路地を抜け、モスクの敷地に入り、裏庭の庇が迫り出した部分に入る。草の上に小銀を横たえる。モスクの裏といえば、ミフラーブが設置される方角、イスラムにおいて聖地とされるメッカの方角である。
 逡巡のまもなく、親弘が覆いかぶさってくる。それだけで骨の髄まで溶けてしまいそうな、視線、それから熱い手のひら。彼の腰がホットパンツの股に押しつけられて、小銀は、……我に帰った。打った鉄のように硬い。熱い。脈打っている。小銀を、抱こうとしている。
「……だめだ!」
 両腕をつっぱり、必死になって彼の肩を押しとどめた。
 そのとき、親弘の両目に……不安と恐怖がよぎったことを、小銀は見逃さなかった。が、後には引けない。
「な、んでだよ。あの日か? でもお前、朝は良いって言ってくれたよな」
「なんでもない。……本当になんでもないんだ。でも、今日はしたくない」
「無理やりしようってんじゃない、ただ訳を知りたいだけだ。な、教えてくれよ、俺がなんか悪いことしたのか」
「ちがう」
「じゃあなんだ? まさかお前、もう俺のこと」
「違う!」
「小銀!」
「違うんだ! そんな、のじゃなくて、ただ……」
「なんだよ!」
「おまえの子どもが!」言った。「……いるから、だめだ」
「どこに」
「ここに……」
 小銀の手のひらが腹を覆うのを見て、親弘は、
 親弘は。

 

 ——スコールがやってきて、町を、モスクを、遠い子どもたちの歓声を、静かに覆う。屋根から流れた水は庇から注がれ、親弘の髪や背を濡らし、小銀の頬に滴り落ちてくる。
 小銀は緘黙する。親弘も、おそろしいほどに寡黙である。ただ、なにか大きな痛み、蒼惶に顔を歪めたままでいる。砂を噛むような時間がゆく。心にしんしんと霜が降りてくる。幸福は糠星と化し、大切に胸の中で育てていた夢もまた、ひそと死にゆくものとなる。歓迎されない命にいったいどれほどの価値があるものか。
 ふるえる唇で、そうか、とだけ、親弘が言った。
「……もういい」
 どうしたら良いのかわからない。だが、これ以上親弘のそばにいたくないことは確かだ。小銀は立ち上がった。無数の雨粒の中に飛び出した。
「待てよ、お前、泣いて——」
「くるな!」
 腰を上げかけた彼は、そのままの姿勢で、取り残された子供の顔をして、小銀を見送った。もう見ていられなった。
 振り返らずに走った。