2023/06/08

 

 

 七時ごろには聖堂を出たというのに、彼がパウロ館の自室に戻るころには十一時を過ぎていた。彼は果敢にもラビリントに再挑戦し、四時間あまりかかって勝利を収めたというわけだ。だが、新品のジャケットにはばらの葉がまとわりつき、シャツに至ってはとげに引っかかったらしい、小さく穴が開いているしまつだった。部屋では、すでにパジャマに着替えたジュリアンと、あのいまいましいグリーンが待っていた。消灯時間を過ぎてもゴールドが帰らないので、寮全体の消灯を待っていたらしかった。
 意外にも彼は同情的だった。九月の恒例だ、喉だけで笑って、彼は部屋を辞した。
「消灯!」
 彼の命令が朗々と響き、館ぜんたいの明かりが落とされる。暗闇のなかでジュリアンが暖炉に火を入れたので、その明かりだけを頼りに、ゴールドはリボンをほどき制服を脱いだ。「なあ……」ガウンを羽織りながら、毛布にくるまってマグを啜るジュリアンに話しかける。「……シルバーってやつ、彼氏はさ、いつもああなのか」
「ああ、って?」
「男とセックスしてんのかってことだよ」
 ジュリアンはむせた。
「な、なんてこと言うでやんすか!」
「事実なんだからいいだろ、おまえも知ったふうだけど」
「……シルバーくんが、上級生とねんごろだってことは、口に出さないだけでみんな知ってるでやんす。でも、誰も何も言えずにいるのは……このことが学園に知れて彼が謹慎になったあと、誰がかわりになるかという問題があるからで」
「要するにあいつは人柱ってわけだな」
「あけすけに言えば」
「気に食わねえ」
 舌打ち混じりにゴールドは吐き捨てた。暖炉の中でぱちんと火花が上がる。……赤やオレンジ、紫と色を変えながら揺れる炎の中に、彼はシルバーの花顔を見た。薄い唇が微笑の形をとる。銀の星の目がスッと細まり、いとおしいものを見るときの表情で、シルバーが笑う。ゴールドは首を振って立ち上がり、キッチンに向かった。ニューヨークから持ち込んだウイスキーを温めたミルクに混ぜ、マグに溜めたのを一度に飲んだ。
 ほどよくアルコールが回り、眠気が漣のようになってゴールドの頭に押し寄せる。神経系が痺れてきて、視界もぼやけ……彼は二階に上がって右のベッドに倒れこみ、毛布をかぶって目を閉じた。ゴールドは夢を見た。

「ゴールド、すきだ」
 薄紫色の霧の中で、ゴールドは上半身だけ起こした格好のシルバーの腰に腕を回して横たわっていた。両者とも生まれたままの姿で、しかし特にそれをふしぎには感じていないらしかった。シルバーは、逆光のために青く陰った美しい顔に心からの喜びの表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。骨ばかりの細い指がゴールドの前髪をよけ、額を撫でて、その上に唇が降りてくる。ゴールドはくすぐったくて笑う。
「すきだ……」
 彼の声がこだまするなかで目が覚めた。
 スプリングが軋むほど勢いよく跳ね起き、あたりを見回す。俺は誰だ? ゴールド、十四歳。ここはどこだ? ドイツ、学園、寮の部屋。部屋の中は薄暗いが、閉じたカーテンから床へわずかに漏れる光のためにほのかにその実像を確かめることができた。隣のベッドでは毛布にくるまって眠るジュリアン、彼が脱ぎ捨てたらしい室内ばき、火の消えた蝋燭、ベッドサイドに立てて置かれたマグ。部屋付きらしいラテン語旧約聖書、壁にかかった木の十字架。彼はふらふらと立ち上がり、カーテンを開けて外のながめに思いを馳せた。のどかな田園地帯、雄大なボーデン湖。かなたには金星がきらめく。しかし、そうまでしてもこの錯乱を追い出すことは叶わなかった。ああ、オレは、なんという夢を!
 どこかで鐘の音がする。
 顔に光がかかり、覚醒に漕ぎ着けたのだろう。ジュリアンがむにゃむにゃと起き出したかと思えば……サイドテーブルに置かれた彼の腕時計を一目見て急に飛び上がった。「たいへんでやんす!」毛布を放り出し、あたふたと室内ばきを履きながら焦っている。
「どうした?」
「ミサが六時からあるでやんしょ、ゴールドくんも急いで着替えるでやんす!」
 時刻は五時四十分、たいした寝坊でもないとゴールドは思ったが、ジュリアンに促されてしぶしぶ支度に取り掛かった。バスルームに行って冷水で顔を洗い、相変わらず若い肌にはニキビひとつないことを確認してからグリースで髪を、特に前髪を整える。ガウンを脱いで洗濯籠に入れ、代わりにシャツやスラックスを身につける。昨日葉をつけたジャケットは窓の外ではたいてから袖を通した。リボンは、少々曲がった結び方になってしまったがまあ良いだろう。
 最後にもう一度髪型を確認してから彼はバスルームを出た。ジュリアンはもうすっかり準備を整え扉の前で待っていた。おっと、危ない、聖書と聖歌集を忘れるところだった。
 四階から一階までを駆け足で下り、ロビーから回廊へ出ると、同級生たちの一団が礼拝堂に向かおうとするのに遭遇した。おはよう、エルマが声をかけてくる、それから優等生のルッツ、ベルリンから来たネポムク……みなゴールドが昨日友人になった少年たちだ。
「おはよう」
「おはよう、ゴールド」
「おう、おはよ。みんな元気そうだな」
「君もね」
 ネポムクが肩を組んできて、ジュリアンのやつ、どうせ今日も寝坊したんだろ? にやにやしながら耳打ちしてくる。
「や、オレもそんなもん」
「なんだ君もかよ、モーニングコールはご入用ですか?」
 少年たちがどっと笑う。
 一緒になって腹を抱えながらゴールドは、前方を一人で歩くシルバーの姿を見た。心臓が凍りつく——今朝方の夢が蘇る、彼の背筋を冷や汗が流れ落ちる。シルバーは相変わらず女のように長い赤毛を後ろに垂らし、すらりと背骨を伸ばして歩いている。夢の中では闇に半ば隠されていた、彼の端正な顔、今は暁の光のなかで細部に至るまでつまびらかにされている。視線を感じたらしい彼が振り返り、その銀の目と視線が合った。
「よお——」少年たちの一群から抜け出し、わざとらしく高めた声でゴールド、「いまいましい男めかけめ、昨日はよく眠れたかい?」
「ちょっと、ゴールドくん!」
 ジュリアンが咎めるも、それを振り払ってゴールドはまた一歩彼に近づいた。彼は笑んだ。唇の端を吊り上げて目を細めただけの、ひどく皮肉っぽい笑い方だったが、それでも彼は笑った。
「ああ……おかげさまでな」
「男のチンポしゃぶって安眠しましたってか? そりゃあよかったな」
 少年たちがざわつく。
「おまえにオレの行動についてとやかく言われる義理はないはずだが」
「義理がありゃいいのかよ? 手前のケツにぶち込んでやりゃあいいってか? そんなに欲しいんならお望みどおりファックしてやるよ」
 シルバーの流麗な眉がぴくりと動いた。「……ふん、編入生が知った口を」
「田舎もんのお坊ちゃんに言われる筋合いねえぜ」
「お前に何がわかる」
「わかりたくもねえや、男に股かっぴらくおめかけのことなんてよ」
「こちらこそ願い下げだ。絡むな、程度が知れるぞ」
「手前……!」
 きっちりと閉じたシャツの胸元を掴んで引き上げ、ゴールドはシルバーを思い切り睨みつけて威圧した。シルバーのほうも実に涼しい顔で、しかし眼差しばかり鋭いままゴールドを正面から見返した。その瞳のきらめきに、ふと、ゴールドの脳裏に、夢の中の彼のことが再び思い出された。夢の中でシルバーはこう言ったのだ……「ゴールド、すきだ」
「うるせえッ」
 薄い肩を力の限り押し、ゴールドはシルバーを突き飛ばした。彼はたたらを踏んでよろめき、尻から勢いよく床に倒れ込んだ。
「シルバーくん!」
 ジュリアンが駆け寄ってシルバーの肩を起こす。腰をしたたかに打ちつけたらしく、シルバーは眉を寄せ歯を食いしばったが、そのために彼の美貌が損なわれるということはなかった。「大丈夫でやんすか?」親切なジュリアンに頷き返しながらも、目だけはゴールドのほうを見上げる。彼は嘲笑していた。短気で怒りっぽい、自分の感情すらコントロールできない猿だと馬鹿にしていた。ゴールドの頭に再び血がのぼる。掴みかかろうとして、後ろ襟を勢いよく引かれた。
 目の前で柔和そうな赤い目がまばたきしたかと思うと、手加減のいっさい働かない拳骨が、ゴールドの頭を直撃していた。あまりの衝撃に背骨が撓んだかと思われた。痛む頭を抱えてうずくまる。
「い……ってえ! 何すんだ!」
「何すんだじゃないだろ? 喧嘩するな! ほらシルバー立って、大丈夫か?」
「はい、レッド先輩……」
「おまえもだぞシルバー。ズィーリオスの生徒は往来で喧嘩なんかしない、そうだろ」
 シルバーは取り乱しもせずに頷き、その人に手を引かれて立ち上がった。短く切り揃えた黒髪に赤い目、ジャケットの襟に誇らしく輝く金の薔薇……この人が副監のレッドか。後ろでおどおどしながらルッツが控えている、きっと彼が呼んできたのだ。熱くなっていたのが一気に冷めて、ゴールドは床に尻をついたまま背を後ろに倒した。天井を神経質なほど埋め尽くす化粧漆喰、壁に並ぶキリストや信徒たちの絵画に意識を漂わせながら、オレはいったい何をしていたんだ? どうしてこんなにもやつがひっかかるんだ? 考える。

 ミサに続いて朝食を終えれば、休憩時間を挟んで八時、ようやく授業がはじまる。一限につき四十五分授業、最後の九限目が終わるころには十六時をすぎることになるが、授業内容は実に多彩で、生徒を飽きさせないための工夫が凝らされている。一限目は数学、二限目は地理で、ここまではペテロ館のクラスメイトと机を並べて授業が行われていたが、三限目のラテン語は選択科目であるために、パウロ館およびマリア館の同級生徒たちと合同で授業が行われることになる。
 マリア館というのは名の通り女性のための寮で、数は少ないが熱心な女生徒たちが共同で生活している。それを聞きつけてゴールドは色めきたった。男ばかりでむさ苦しい二日間だったがそれももう終わりだ、可愛い女の子を見つけて、彼女と良い仲になってやるのだ。……そんな彼のもくろみを、神が汲み取ったのかいなか、ともかく、ラテン語の授業における彼の隣の席は、かわいらしい雰囲気の女生徒だった。
「はじめまして、だよね? クリスタルといいます。よければクリスって呼んで」
 淡く青みがかった黒髪にすきとおった水色の虹彩、固い蕾のようなところがあるものの、無垢で清楚な笑顔。ワンピースの裾からすっと伸びた長い脚。差し出された白く柔らかそうな手のひら。取り分けて美人というわけではないが、ニューヨークでさんざん可愛い女の子を見てきたゴールドの目にもひときわ輝いて見える、クリスはそんな女の子だった。だから騙されていた。そもそも、彼女のジャケットの胸元にも金の薔薇が差してあるのを見て、ゴールドは警戒するべきだったのだ。
 担当教諭のジークフリートが入ってきた瞬間、彼女は勢いよく起立し、礼、号令をかけた。そのときからおかしいなとは思っていたが、以降も彼女は、やれ姿勢が悪いだの、返事をする声が小さいだのと、母親か姑かのようにゴールドの授業態度にケチをつけてくるのだった。ゴールドもそれにすっかり嫌気がさして、彼女から距離をおいて授業を受けることになってしまった。
 四限は生物、再び館別の授業に戻り、ゴールドたちは校舎北の葡萄畑で葡萄の実の観察をした。収穫祭の時期になったらもっと実が大きくなって、そうすればマリア館の女の子たちがこれを踏んでワインにするのだ。五限はドイツ語(ゴールドはこれにいちばん難儀した)、昼食をはさんで六限化学、七限政治、問題は八限だった。宗教の時限だ。
 ふたたび他館との合同授業というので教室を移動したところ、左最前列の席に、例の赤毛が座っていた。シルバーだ。宗教の時限は下級高等学校の四学年、つまり百人弱の生徒が大教室に集められ、座席の順も自由となっている。彼は長身の上級生たちに囲まれて、女のように口を手で覆って笑っていた。それを遠巻きにしてマリア館のミーハーな少女たちが座り、またそれを遠巻きにして少年たちがぽつぽつ座っているというありさまだった。
「——このように、キリストの奇跡は社会学の視点からより現実的に紐解くことができる。では、そこの赤毛の君、マタイ九章二十七節、イエスが盲人二人を癒したというのは……」
「はい……当時のイスラエルは城郭都市がほとんどで、領地を割り当てられた役人が強い実権を持ってして民衆を支配していました。役人は医師のようにも振る舞い、都合の悪い者を病人扱いして城壁の外に追い出し……」
 ゴールドの機嫌が、シルバーを前にして殊更に悪くなるのは、彼を嫌う理由をまったく見出せないからでもあった。彼は優秀で信心深く、女性にも人気があり、また美しかった。男性同性愛者であること、誰とでも関係を持つことは、独り身である以上決して悪いことではない。だというのに、彼をけぎらいし……その一方でわけもなく求心する自分が、ゴールドには腹立たしくて仕方がなかった。
 彼は肘をつき、前方で教諭の質問にすらすらと答えるシルバーの背中を眺めた。細くて頼りなさそうな背中、昨晩も男どもにいいようにされたはずの背中だ。やがてシルバーが答弁を終えると、教諭は彼をほめて着席させた。
「では次、……編入生! 何をぼっとしてる、君だよ、君! マルコ一章二十一節、キリストが汚れた霊に取りつかれた男を癒やしたというのは、一体どういうことだね!」
「さあ、ぼくわかりません……土下座でもしたンじゃないですかね」
「土下座って、霊にか!」
「ええ……」
 十五時五分、授業終了を告げる鐘が鳴り、生徒たちはわっと教室の外へと群がった。九限に授業がないので大はしゃぎするものもいれば、急減のために支度を急ぐものもいる。ゴールドも廊下に出ようとしてふと、シルバーが、隣の上級生に何か耳打ちされているのを見た。生徒たちのざわめきのためにうまく聞き取れないが、何を言われているかについてはなんとなく予想がつく。
 十七時少し前、一人パウロ館に戻り、自室のある四階までへとへとになりながら上ってきたゴールドは、五階から密やかなくすくす笑いを聞いて立ち止まった。グリーンでも、おそらくレッドでもない、三、四人、声変わりを済ませた男たちの囁き声の中で、未成熟な少年の声が通る。彼は奇妙な確信に満たされ、部屋に戻そうとしていた教本の類を踊り場に寄せて置くと、足音を忍ばせて階段を上りはじめた。
 五階の敷地は、寮監室と、その他使われていない小部屋がいくつかを除き、ほとんどを上級生のためのサロンに開放されている。紅茶の葉と給湯器、乾ものの駄菓子などが用意され、適度に腹を満たしつつ談笑に興じることができる。たしか、内装も美しかった。七つの窓が円を描く壁に沿って配置され、そこから、外からの光が大理石の床へ燦々と差し込み、部屋全体を明るく照らすのだ。間の柱は、石膏で作られた天使の像や草花の紋様、古高ドイツ語で書かれた詩歌などでびっしりと埋め尽くされていた。調度品についても、ドイツで古くから用いられる一流のものがそろえられ、ソファやローテーブルだけでなく、カウチ、クッション、暖炉などにも、手の込んだ上等なアンティーク品だ。しかしゴールドは、一目見た時からその部屋が気に入らなかった。
 フロアに足を踏み入れたそのときから、ゴールドの鼻はむっとこもった甘ったるい香りを知覚した。これは……香の匂いだ。火をつけて香りを出すタイプのものだ。それから、その強い匂いにかきされそうなほど微弱な紅茶の葉の香り、たばこの煙。早足で廊下を歩き、金の取っ手がついた扉に張り付いて中の音を聞こうとつとめる。まず聞こえてきたのは、またしても、男たちの耳障りなくすくす笑い、それから少年の啜り泣きにもにた息遣い。
 扉は鍵がかかっていなかった。内側へ押し込むと、両開き式の扉の片方がわずかに開いて、その隙間から中が伺えるようになった。シルバーは、あんのじょう少年の声はシルバーのものだったわけだが、二十世紀初期の流行を思わせる絹のドレスを着せられ、男子生徒のひとりの手で膝に乗せられていた。彼がシルバーのドレスの裾をたくし上げ、顕になった真っ白な太腿を教務用の鞭で、どこで手に入れたのだか、激しく打つたび、シルバーはうけた負荷を受け流すみたいにして鼻から息を抜いた。そうして痛みに耐えながら、同時に快楽を感じているはずだった……彼の目! 熱っぽく潤み、涙を流しさえしているその目が、彼の身体のどの部分よりも雄弁だった。頬を染め、唇を歪め、時折首を反らしてうめきながら、彼はさらに泣いた。
「さあ……お姫さま、そのままではいけないよ、わかるね……ぼくを愛していると、そう言ってくれ」
 男子生徒がそう言い、周りの生徒たちも、あるものは茶を啜りながら、あるものはタバコの煙を吸いながらくすくす笑いで取り囲む。火を炊くための陶器の皿に香が増やされてもやが立つ。シルバーはただ頑なに、静かに、目を閉じた。
「神さまよりも愛していると、Jaヤー、言っておくれ、シルバー」
「——お許しください」
 ようやく口を開いたかと思えば、まろびでた吐息混じりの一言に、ゴールドは舌打ちをした。彼氏、まだ神とかいうものに縋り付いているのだ、馬鹿馬鹿しい! シルバーは、少年たちの期待する答えをついぞ言わなかった。彼はただ目を閉じたまま尻に鞭打ちを受け、白い脚で男の身体を挟み、終始身体をぶるぶるさせていた。しまいには気を飛ばして失神し、男の腕の中でぐったりとして動かなくなった。そのすべてをゴールドは見ていた。
 音を立てないよう扉を閉め切り、廊下を引き返す途中でグリーンに会った。そのとき、シルバーのことを、彼が陵辱されているのだということをよっぽど言おうかと考えたが、結局、そうはしなかった。