2022/12/20

 

 

 

 あれから、二人はジョニーの大学寮に共に住み、卒業とともに結婚した。サン・マルコ寺院にて行われた結婚式には、日本からはるばる渡欧してきた百合子の兄や両親、友人たちと、イタリア全土からジョニーの親族や友人たち、それから全く関係のない野次馬が合わせて三百人ほど集まり、初老の司祭が驚いて腰を抜かすほど盛大に、絢爛に行われた。
 目を閉じれば、結婚式の全貌が瞼の裏に鮮明によみがえる。
 ジョニーは純白のモーニングを着、胸元に百合のブートニアを誇らしげに飾って、祭壇前にて花嫁を待っていた。
 揃いのお仕着せに身を包んだ聖歌隊の子供たちが歌うグレゴリオ聖歌と、二十三人の学士たちが茫漠と響かせる演奏がギリシャ十字型の寺院のすみずみまでを響き渡る。五つの円蓋《クーポロ》や細かな彫刻の施された左右のインポスト柱は煌びやかな金のモザイクで余すことなく覆われ、聖マリヤや天使、十二使徒たちが随所で誇らしげに微笑している。幾何学模様を描く大理石の床には礼拝のための膝置きがついた木の長椅子が所狭しと並べられ、そのすべてに、夫婦の友人知人らが詰めてかけている。みな花嫁の可憐な名に因んだ銀の百合を胸に飾り、ベルベットで装丁された立派な聖歌集をその右手に携えている。
 司教について祭壇のそばに控えていた修道士が、花嫁の入場を高らかに宣言した。
 正面奥の両開き戸が厳かに開き、光の向こうからブラックスーツを上品に着こなした遊星が現れる。そして、その左腕につかまって、美しい百合子が姿を見せた。
 花嫁は、その豊頰にとろけるような微笑を湛え、見る人をうっとりさせた。偏屈で名を馳せる骨董品屋の老爺も、部下の畏怖を一身に集める強面の軍人も、今日ばかりはこの美しく清らかな花嫁に感嘆のため息をつくほかなかった。
 ヴァレンティノのデザイナーが彼女のためだけにあつらえたオートクチュールドレスは、細く真っ白なうなじからなだらかなプリンセスシルエットの先までをギュピールレースで緻密に覆う、繊細かつ壮麗なしあがりだ。三メートルにも及ぶロングトレーンには百個超のクリスタルが散りばめられ、寺院内のかすかな灯りを反射してまばゆく輝いている。小さな足を包むのはクリスチャン・ルブタンのアイコニックなスティレットヒール、それも靴裏を鮮やかなブルーに仕立て直した特別なもの。かわいらしく桃色にはにかむ耳殻を飾るのはティアドロップのダイヤモンドピアス。ビーズ刺繍の入ったマリヤベールは、彼女が兄の傍らを静々と歩むたびに揺れてきらめいた。
 濃紺に金の刺繍をあしらったロングカーペットを踏破し、花嫁のやわらかな手は遊星の左腕からジョニーの左手のひらに預けられる。彼女が祭壇前に上がると、音楽が止み、子供たちは修道士の案内で祭壇の両側に整列した。人々は息を殺し、寺院に深い静寂が訪れる。
 祭壇は花に溢れ、聖人たちの小さな彫像と共に祀られた黒檀の十字架でさえ、真っ白なミモザで飾られていた。司教の肩越しに聖マルコの棺と黄金のパラ・ドーロを盗み見ることができたが、これもギプソフィラやデルフィニウムで閑麗に縁取られていた。
 司教は神の福音としてマルコ書十章を朗読し、そのあとに夫婦はあらためて婚礼の儀に与った互いの姿に向き合った。彼の花嫁、百合子は至上の喜びに頬をほてらせ、そのつぶらに見開かれた青い目でジョニーを、ジョニーだけを一心に見つめていた。薄く化粧を施された花顔はこの世の誰よりも幸福そうで、あまりにも華麗だった。
 ベールを指で軽く抑え、軽く瞼を閉じた彼女の唇に、ジョニーはそっと誓いのキスを落とす。
 その瞬間から、百合子は、ジョニーにとってたった一人の守るべき人だ。

 焼きすぎたフレンチトーストを必死の思いで完食したあと、二人は朝の散歩に出かけることにした。いつもの身支度を終え、シャープなペッパーコーンの香りを全身に振ったジョニーが脱衣所を出ると、白いサンドレスに身を包んだ天使のような百合子が待っていた。耳元には二度目のクリスマスに贈った小ぶりなブルーパールが揺れている。
「お待たせ。待った?」
「いいえ」
 同じ家で暮らしていても、デートに遅れてきた残念な男のように振る舞うのが、ジョニーは好きだった。左腕を差し出すと、嫋々たる右腕がそっと絡められる。
 黄色いスクーターに乗って丘を下る。ここパレルモ郊外の新居から、彼女のお気に入りのビーチまでは三十分もかからない。その間、ジョニーは背中にぴったりとくっついた彼女の身体のやわらかさやその温もり、首の後ろにふきかかる小さな呼吸が穏やかであることを楽しんだ。乾季も盛りを迎えた八月の日差しの中、二人は一陣の風になって潮騒の香りと戯れた。
「見てください、鴎ですよ!」
 パレルモ市街を走り抜け、クリストーフォロ・コロンボ海岸道に差しかかったところで、百合子が歓声をあげた。時速45キロで走るスクーターにほとんど並走する形で、鴎が一匹、白い羽を広げて滑空している。
「目がつぶらで、お腹もニョッキみたいで、とってもかわいいです!」
「ほんとだ! でも百合子の方がずっとずっと可愛い!」
「ばか!」
 一度冷静になれば恥ずかしくて死んでしまいそうな会話を大声で交わす。激しい風のためにかき消されないようにということなのだが、運が良いのか悪いのか、その時ちょうど、左車線から真っ赤なオープンカーがスクーターを追い越した。
「Siete così innamorati!(お熱いこと!)」
 上品に口元を手のひらで覆いながら、運転席の老婦人が二人に向かって笑いかけた。何か言い返すまもなく、車は時速90キロの超高速で走り去った。
 二人はしばらく口を開けてぽかんとしていたが、彼女のイタリア語をいち早く理解したジョニーが頬に血を上らせ、遅れて事態を察した百合子も耳までを真っ赤にして恥じいった。
「……、ごめんね」
「はい……」
 ジョニーは胸ポケットに引っ掛けておいたサングラスをそれとはなしにかけ、百合子は額をジョニーのシャツの肩に埋め、何やらもぞもぞ言った。頭上で鴎がくうと鳴く。

 午前七時のモンデッロ・ビーチはさすがに人もまばらだ。弓形を描く白い砂浜には開店準備が進む屋台が二、三と、サーフボードを抱えて張り切る若者が何人かいるばかりだ。海原はさわやかなエメラルドグリーンを湛えて澄み渡り、ガッロ山の伏せて寝ている亀のような輪郭は、抜けるような青さの晴空とみごとなコントラストを演出している。
 薄桃色の花をつけたキョウチクトウの木陰にスクーターを停めて、二人は砂浜に出た。サンダルを脱ぎ、裸足になると、まだ冷たい砂の感触がひんやりと皮膚に触れた。