VIII

 

 

ハイヒール

 

 その日、ジャック・アトラスはたいへんに上機嫌だった。ハイヒールにおぼつかない足でスキップしてしまうくらい。
 一体どれだけこの日を待ち望んだことだろう。日めくりカレンダーを引きちぎるたび、薄くなってゆく四月の重なりに、期待で心が引き絞られるように痛んだ。ふだんは気恥ずかしくて合わせることさえ躊躇うような華やかなドレスやハイヒールを片っ端から買い漁ったり、ああでもないこうでもないと言いながら多くのスタイリストに髪型を整えさせたりと、けさのジャックは熱病にでも侵されたかのようだった。おそらく、25年の短い半生のうちで、キングの職権をこれほどまでに濫用したのはおそらく今日限りであろう。秘書がよこした混乱と詮索のメール、それから巨額の電子請求書に「いつもの場所から引き落とせ」とだけ返し、改札口に立つジャックはうっそりと微笑む。
 遊星は、十七時三十分、待ち合わせ時刻きっかりにやってきた。
 細身のブラックスーツに揃いのベストを着こなし、つややかな牛革のダービーで足先を締めた、思わず卒倒してしまいそうなくらいかっこいいその男は、出会いがしらにジャックの身体を抱きしめた。それはもう、一番の宝物を他から隠すみたいに、力強くやさしい抱擁だった。そうして、腕の中で驚愕と喜びに震えるジャックの頬を無骨な指でそっと撫で、とびきり甘い声で……「ジャック」
 ジャックはそのとき、スプリングコートの下に背中と胸元を大きく開けた大胆なドレス姿を隠していたが、それ以上に遊星のこんな声音を他に漏らしてはならないと必死になった。しばらく会わない間に年嵩を深めた彼の声は、あまりにもセクシーだった。子犬のような目をして、ジャックの後ろでじっと押し黙っていた子どもの姿が彼女の脳裏によぎったが、また掻き抱かれてそれもあいまいにぼやけていく。目と鼻のすぐ先に、こんなにも会いたかった男の顔がある。興奮に濡れた唇、精悍な鼻梁、まゆ、ジャックが愛してやまない青い海のひとみ。
「久しいな、遊星」
「ああ、一年ぶりだ。ジャック。会いたかった。ジャック……」
「オレもだ」相変わらず、直に愛を打ち明けるほど柔順にはなれないが、精いっぱいの想いを込めてそのように言ってみる。
 遊星は幸せそうに頬を緩めた。そうしていると、陽を好む小動物を見ているような、奇妙な愛しさが湧いてくるのがふしぎだ。
 二人は連れ立って駅を出て、まず、遊星が手配していたオペラのナイトコンサートを観劇した。死刑に処されようとする画家の男と恋人の女の悲恋の物語だ。全編イタリア語で、それも発語が異様に早くジャックですら話を追うのに苦労しているのに、遊星は涼しい顔で役者たちの演技を眺めていた。機械やカードとの対話も手軽くこなす遊星なのだから、きっと外国の言語くらいお手のものなのだ。ジャックは欲目たっぷりの解釈に満足し、尊大に足を組み替える。
 コンサートが終わってオペラハウスの外に出ると、途端にぐうと腹が鳴った。遊星が嬉しそうに笑って、今度はフレンチレストランにジャックを誘った。
 その店はシティでも名のあるホテルの最上階に居を構え、なんとかとかいう有名な料理人や、かんとかとかいう栄誉ある賞をふくふくと抱えて、美食家たちの歓心を一心に受けているらしい。カップラーメンやうどんを愛するジャックには無関心な世界の話だが、それでも、ぎりぎりまで灯りを落としたムーディな雰囲気のテーブルに、居住まいを正して座る恋人の姿を鑑賞するのは悪くなかった。次々に運ばれてくるちまちましたコースを胃に流し込みながら、男らしい骨張った手が器用に銀のカトラリーを扱い、粛々と料理を口に運ぶ姿を盗み見る。偶然視線がかちあうたびに、彼はこちらが蕩けてしまうような微笑みをよこしてみせた。
 かなわない。本当に、かなわない。数年前まで、うぶで感じやすい青年の心を掌で弄ぶのがジャックの楽しみだったのに、いつのまにか手綱を握られ、手懐けられてしまっている。遊星のこなしのひとつ一つが、ずるいほどに女の官能に沁みわたる。おかげで、店を辞して表通りに出るころには、ジャックはすっかりからだの熱を持て余していた。

 夜の嫋々がほてった頬をくすぐる。スタイリストに細かく注文し、ミリ単位で揃えた前髪が、巻き上げられてきらきらと舞いあがる。
 アルコールでかすかに上気した遊星の硬質な指が、ジャックの掌を固く握っていた。手を繋ぎ、腕を組んだまま、情緒ある深更の都会を歩いた。慣れないヒールの音が、遊星のゆったりとした歩調に絡まってはずむ。
「寒くないか」
 ジャックの身体をジャケットの懐に収めるみたいにして抱き寄せながら、遊星が言う。「春といっても、夜はまだ冷えるから」
「問題ない。遊星、お前こそ」
「おれは、ジャックがいてくれるから、平気だ」
 さらに距離が縮まり、トンカビーンやバニラの芳醇な香り、そしてしっとりと汗ばんだ胸板の皮膚の気配が、鼻のすぐ先にやってくる。胸が締め上げられるような感覚が去来し、思わず瞼をぎゅっと閉じると、暗がりの中で遊星の質感がさらに明度を増した。まるで生娘だ。こんなさま、クロウなどに見られたら……。
 上品な大人たちの行き交う夜の繁華街は、無駄を省いたシンプルな証明と装飾で、暗闇の中にぼうっと浮かび上がっている。有名な企業の本社や、旧時代の面影を強く残す銀行の門構え。歩道脇に立つ男が観客に向かって芝居じみた一礼をし、トランペットを担いで揚々と吹くのはドン・コルレオーネの愛の様相だ。
 悠然とした短調のメロディが、身を寄せ合う恋人たちの情熱を優しく煽ってゆく。
「……遊星」