2020年6月30日

B-2
「どう思ってんの?」
部屋を取っているホテルへと車を走らせる遊星の横顔に、神妙そうな声で十代が問いかけた、美しい彼女はまだ裸だった。何がですか、と遊星は答える。
「いや、オレ赤ちゃん欲しいんだけど」
「それはまた唐突な申し出ですね……」
「いつもおねがいしてるじゃん」
「それもそうですね。しかしどうして今?」
「うん、遊星、どう思うかなって」
「俺は、別に」
「ヨハンは、そういうのすごく嫌がったんだ。子ども? 俺はいやだよ、そういうの、ってさ、どうしてなのかはいまだによくわからない、ヨハンの言うことにオレは逆らえないから、そんなことはいまやもうどうでもいいんだけどさ、ただヨハンは養子を取るほどオレに子供を産ませることが嫌だったみたいだ、それでずいぶんと苦しい思いをしたのはおまえも知ってるだろ、だからオレはセックスのあといつもヨハンのがこぼれないように横になってみた、いろいろと迷信を信じてキャベツを食べたりもしたんだけど結局特に何も起こらなくて今オレに子どもはいない、どうしてだか、わかるか? わかるわけないな、何故ならオレにもわからないんだからさ」
 ホテルについて、部屋に帰ってからも十代はしゃべり続けた、
「どうして、できてくれないんだろう、一度でいいから自分の子供をこの腕に抱いてみたかった、ミルクを上げて、ママだよって呼び掛けてみたいと思っていた、でも子供はできないしヨハンは言うんだ、
 子ども? 何言ってるんだよ、
 でも、ヨハン、
 俺はおまえがいれば十分だよ、
 そうだよな、ありがとう、ヨハン、
いつもそうだ、いつもそうしてヨハンは話を終わらせてしまう、ヨハンは、ずるい、そういえばオレがあきらめることをよくわかっていた、ヨハンをすきなオレを知っていた、ヨハンのことを好きなのはいつものことだったけど、その時ばかりは、いや、その時も好きだった、大好きだったよ、今も好きだ、ヨハン」
 十代がヨハンの台詞をしゃべるとき、幼児番組の女性司会が鬼とかサルとかお爺さんの声の吹き替えをするときのように、わざとらしくデフォルメしてしゃべるので、最初吹き出しそうになり、そのあとで奇妙な心持に陥った。十代の帽子を受け取り、移動するために上に着せていたジャケットを受け取って、遊星は彼女にキスをした。しかし彼女は話すのをやめない。
「なあ十代、十代、俺と一緒にいるのが不満ならそういえよ、いいか、ものごとってやつはな、はっきりいわないとつたわらないんだよ、思ってるだけじゃ伝わらないんだ、はっきり言えよ、そしたらもう別れるよ、オレはあいつが喜んでいるところを見るのが好きだったんだ、だから首を振って、そんなことない、ただ可能性の話をしていただけなんだ、そう言った、言葉にすればそれは本当にように感じられてきてたしかにヨハンといる間それは本当だった、オレはただヨハンといればそれでよくて赤ちゃんが欲しいだなんてそれ以降思いもしなくなった、たまに通りがかった家族を見て切なくなるだけだった、遊星はどう思う? オレが赤ちゃんが欲しいと言ったら嫌がるか? そうだとしてもオレはきっとお前に従うよ、なぜなら、おまえはオレの、」
 遊星はフルーツのかごからマンゴーを取って裸でベランダの椅子に座る彼女のためにナイフで皮をむいた。マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれていやな音を立てた。ビーチでは大勢のツーリストが日光浴を楽しんでいる、海で泳ぐもの、飲み物や土産物を売るキューバ人、バレーボールやフリスビーを楽しむ旅行客、白い波が寄せては砕ける音がここまで響いてくるが、十代の話を聞いていると、それらはまるでシンセサイザで作った合成音のように聞こえてしまう。遊星はマンゴーを無心になって剥いた、マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれて嫌な音を立てた。遊星の手は果汁でべとついてマンゴーも滑った、そのあいだも十代の告白は続く、
「オレの大事な、」
 マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれて嫌な音を立てた、
「クリスタルの効果がまだ抜けてないんだ」
 十代は言う。
「あなたの、なんですか」
「クリスタルの効果がまだ抜けてないんだ」
「俺はあなたのことを愛しているんだ」
「オレもだよ」
 本当だろうか?
「クリスタルの効果がまだ抜けてないんだ」
 マンゴーは赤く熟していて少しでも強く握るとつぶれて嫌な音を立てた、
「もう一回しよう」十代の柔らかな胸が、狭い視界を覆う。

 忘れたわけではなかったが、久々に電話した幼馴染の声は、あんなに恋い焦がれていたのが嘘のように褪せて聞こえた。
「遊星、あなた騙されてるのよ」彼女は言った。
「切ってもいいか?」
「待って、まだ切らないで、あのね遊星、わたしはあなたのことを心配していっているのよ、きっとそれ結婚詐欺か何かよ、いい、あなたとよりを戻そうなんて思ってないし、判断を後悔したことなんかないけど、そんな馬のいい話なんかないって思うの」
「十代さんを悪く言うな」
「だから、遊星、あなたどこかおかしいわ」
 彼女は理性的で知的な女性だった、遊星の、少しひねった話も飽きずに聞いてくれる、数少ない知り合いだった。だからこそ、残念だ、と遊星は思った。十代さんの魅力がわからないのか。
「先ほども言ったが、十代さんは、そんないかがわしい存在ではない、この世にあって俺が見つけた天使なんだ、あれ以上の女性には終生出会えないだろうと思わせるほど素敵な女性なんだ、すごくやさしくて、いつも俺のそばにいてくれて、愛しているんだ」
「遊星……」