2023/10/06

 

 

 


 ——手嶋純太、山岳賞! やりました! 山岳賞! 日本、日本人が再び栄光の表彰台に上ります、手嶋純太、イタリア・オクシタニーの山岳を獲りました——
 興奮冷めやらぬ様子で捲し立てる実況の声に、五歳の一月はすっかり聴き入っている。恐竜のパジャマを着たまま絨毯の上に正座をし、膝にキャベツを乗せた状態で、食い入るようにテレビの液晶を見ている。彼の目前では、アシッドグリーンのジャージを着た日本人選手が、ロードバイクに乗ったまま腕を広げて空中を仰いでいた。ヘルメットを飛び出したパーマヘアから、汗の飛沫が四方へ飛んだ。……はじめはため息をつき、リモコンでテレビのスイッチをオフにした。
「お母さん、何するの、やめてよ!」
 一月は顔をくしゃくしゃにして早速抗議に入る。
「もう遅い。また明日にしろ」
「あと少しだから!」
 六月、純太がはじめてワールドマッチで山岳賞を獲得してから、一月はすっかり自転車競技に夢中だった。当時ははじめもエキサイトが止まらず、彼を取り上げる中継やニュース番組を端から端まで録画し、折に触れて見返したものだったが、一月の執着はとりわけて異常だった。食事、睡眠、幼稚園にいるとき以外は、テレビに齧り付いて離れない。父親が山岳賞を獲得する瞬間を、昆布をしゃぶり続けるみたいに何度も何度も再生し、見る。付き合わされるはじめが、実況のセリフを覚えてしまうほど。
 咎められたにもかかわらず、一月は母親からリモコンを取り返し、再びスイッチを入れて続きを視聴しはじめてしまった。はじめはほとんど諦め、ソファにゆったりともたれて手元の作業を再開しようと試みた。かと思えば、
「おかあさま、おかあさま」
 上階から降りてくるスリッパの軽やかな足どり。古めかしいドアノブの回る音。清楚で慎ましい白椿のように成長しつつある娘の一陽は、右手に白いパニエのミディアムドレス、左手に黒のノースリーブ・ロングドレスを掲げて、はじめの前に躍り出た。
「どちらがよいとおもいますか?」
「……どちらも同じじゃないか」どちらにも一陽が好きそうな、キラキラと輝くラメがついている。
「わかっていませんね、おかあさま。くろはじゅんけつ、しろはきよらかさをひょうげんするのですよ」
 それなら、わたしにはくろがにあいますね、じゅんけつのじゅんはじゅんたおとうさまのじゅんですし、彼女はさっさと納得して、白のドレスを母親に押しつけた。揃いのデザインのリボンに、バレエシューズ、セボンスターのアクセサリーまで用意して、つけたり外したり、矯めつ眇めつしている。
 一月は周囲の子どもたちより格段に言葉が速かったが、近頃は一陽もなかなかのものだ。昨年のクリスマスに、大人の語彙を意識して、世界の姫君たちの童話集を買い与えたのが、うまく型に嵌ったらしい。純太譲りの明晰な頭脳のなすことだ。子どもたちを幼稚園に送り届ける際、他の母親たちに驚かれ、誉めそやされるので、はじめはそのことを誇らしく思っていた。
「おにいさまは、またテレビですか?」
 早々とドレスに着替えて、一陽が一月の隣に座した。山岳ラインを切る瞬間に夢中で、全く意に介さない兄のパジャマの袖を、「ねえ、おにいさま」、くいくい引っ張る。
「なに、ひなた」
「わたしとも、あそんでください、おにいさま」
「今いそがしい……」
「おにいさまは、わたしがきらい?」
 一月が明らかに言葉に窮した。妹はここぞとばかりに食い下がり、その胸にしがみついて戯れた。うとうと、寝ぼけ眼だったキャベツが飛び上がる。聡明な兄は、仕方なさそうにため息ひとつして、愛らしい妹に向き直った。
「……しょうがない。じゃあ、ジテンシャキョウギしよう。ひなたも、そうこから、じてんしゃ持ってきて」
「はい!」
「おい待て、待て二人とも」
 それぞれの襟首を掴み、ソファに引き倒した。一月はグロスベロアのクッションに尻をぶつけ、一陽はうまく母親の腕の中におさまった。「明日早いんだろう、もう寝なさい」
「でも、まだ九時だよ」
「九時は十分遅い」くりんとカールしたくせ毛の頭を撫で、不服そうにすがめられた青い目に視線を合わせる。「それに、明日はクリスマスだろう。遅くまで起きていて、サンタさんが来なくても良いのか」
 二人はにわかに顔を赤らめて、パッと視線を交えた。双方の瞳から、露骨にむくむくと好奇心が湧き出しているのを確認して、はじめは呆れて肩をすくめる。
「そうです。わたし、あしたのげきで、マリアさまのやくをやるの」
「わかってる。明日には衣装も完成させておくから」
「ひなた、はやくねないと、サンタさんがこない!」
「はい、おにいさま!」
 おやすみなさい! 挨拶もそこそこに、二人は我先にと階段を駆け上っていった。
 明日はクリスマス。神の子がこの世に誕生した聖なる日。そろそろ純太が帰宅するころと思って、家族でのパーティーはずっと先延ばしにしてきたのだが、明日はそうもいくまい、ケーキを食べたがって子どもたちが大騒ぎするだろうから。
 ソファに深くもたれかかり呼吸する。白いレースのカーテンが、窓の天辺からはじめの頭の上へ静かに流れている。薄いガラスの窓に蝋燭の小さな火が反射する。手作りのキルトのクッション、ソファカバー、四歳のころの子どもたちを描いた鉛筆画、家族写真、スイス製の、十九世紀にアメリカで流行ったというオルゴール、木製の糸紡ぎ機に壁つけの大きな本棚——今はウィル・デュラントの、世界文明の物語を読んでいるところだ——ラタン編みのブランケット入れ、使い途のない緑青がかった鳥籠、子供達が寝転がるためのシャギーラグ。手元にはロイヤルブルーのロングワンピース、明日一陽が舞台上で着るための衣装だ。せっかくだから、裾にビーズをたくさんつけてやろうと思ったのだ。
 まち針を抜き取り、針山に刺してあった刺繍針を再び抜き取る。穴あきビーズをいくつか通して、布の裏側へ針を潜らせ、再び表に出し……純太はどうしているだろうか? アメリカにいるなら、誰かと教会にでも行っているのかもしれない。あるいは、一も二もなく、トレーニングに勤しんでいるか。どちらにせよ、はじめのところに帰ってくることはない。

 夢を見なかったのか、それとも虚空の夢だったのか。それまで茫漠と闇を湛えていた視界に、ふと、白い光が滲んだ。その裾野までが冴え渡る、清らかな朝の光だった。湿っぽい無意識に浸っていた精神が洗われてゆく。すがすがしさが、果てしない遠方から胸の方まで、にじむように広がってくる。そのとき、呼吸のために薄く開いた唇に、何かぬくいものが触れたのを知った。続いて、豆だらけの硬い皮膚に額をくすぐられ、髪をやさしく撫でられた。なにやら懐かしい感覚、ふわふわと柔らかい幸福感。それが、はじめを眠りの漣の中から静かに引き上げた。
 雨が降っていた。しかし、薄絹を地上へ落としたような、繊細な雨だった。そうした感じの音がした。瞼をあければ、波の退いた砂浜のように淋しく陰った、青白い天井、それから……ああ、こちらを覗き込んでくる、その人の顔が美しい。窓からの光に縁取られて、パステル画の肖像画のように見える。幻のようで、作り物のような。
「じゅん——」
 唇の志向がかなわなかったのは、再びやってきた優しい唇がはじめの言葉をねんごろに塞いだからだった。はじめはまだ寝ぼけながらも、しかし身体の方は、ゆっくりと、慣れ親しんだ軽やかな重みに圧され、馴染んでいった。腕の中にしっかりと包まれたのがわかった。はじめも腕を背後にまわしてみたが、鍛え上げられた広い背にかなわなかったので、ただ肩甲骨のあたりに手のひらを置いた。
「ただいま、はじめ」
「純太……どうして?」
 はじめの薄い唇の上で、純太が笑う。「クリスマスだから」
「あ……」
「俺がプレゼントってな。会いたかったよ、はじめ。はじめは俺に会いたくなかった?」
「そんな……わけ、ない!」
 こんどはこちらから腕を引いて誘った。純太はソファに片膝だけをついて——はじめはあれから、ソファに座ったまま寝こけていたのだ——こちらに身を乗り出す姿勢ではじめの唇を貪った。夜色のパーマヘアが垂れてきて、夫妻がふれあう部分を外界から隠す。剥き出しになった鎖骨から、スパイスやサンダルウッド、南国の果物の香りが漂ってきて、脳髄のはたらきを鈍らせる。指で触れると、シャツの下で雄牛のような身体が張り詰めているのがわかって、はじめの喉を意図せず細い悲鳴が割った。
「純太……する? するの?」
 純太は答えなかった。無骨な指で、はじめの絹糸めいた髪をとってすいた。かと思えば、しなだれかかる重みで細い身体を押し倒し、そうして肘をついて身体を支えると、熱っぽい目で瞠目したまま徐に自身のシャツに手をかけ——
「おとうさん、おかえりなさい!」
 出し抜けに扉がばたんと開いて、子どもらが雪崩れ込んできた。
「ついにかえってきましたか、おとうさま。なにをしているんですか?」
「え! いやあ、……」
 はじめにのしかかった姿勢のまま、純太、何やらもごもごと言いたげにしているのを慌てて手のひらでおさまえた。「なにもしてない。二人とも、おはよう」
「おはよう、おかあさん、おとうさん」
 片腕に熊のぬいぐるみを抱えた一月は、起き抜けのまだおぼつかない足取りで、父親の腰に抱きつく。一陽も、母親の隣にやってきて「おかあさま」と抱っこをねだる。キャベツが尻尾を揺らして寄ってくる。昨日まで冷えて感じた部屋が、ひとときに明るく温かいものにさまがわりしたように、はじめは感じていた。
「ほんとはいやですが、おとうさまのこともだっこしてあげます。うれしいですか?」
「はいはい、一陽もただいま」
「おかえしは、ひゃくまんおくえんでおねがいします」
「ねえ、おとうさん、アメリカはどうだった? じてんしゃのはなしきかせてよ」
「おとうさま、ひゃくまんおくえんは?」
 そんな感じで、手嶋一家のクリスマスがようやく始まった。