2023/06/14


 クリスの冷えた指が傷口に触れて、霧吹きで消毒液を吹きかけたのにゴールドは唸る。ベッドに寝かされた格好のまま彼女の手をよけて身を捩る。動かないで、叱咤されて仕方なくじっとしていると、彼女は黙々と治療を済ませ、最後に顔の汚れを白いレースのハンカチで落としてくれた。
「もう……こんなになるまで、いったい彼に何を言ったの」
 ゴールドは緘黙する。
 あのあと、騒ぎを聞きつけてやってきた教諭たちの手によってゴールドとシルバーは北塔二階、生徒評議会室に連行された。カート・ハーンの原則に基づいたセイラムの民主主義精神に従って、学園内で起きた生徒の問題行動は、選挙で選ばれた生徒で構成される生徒評議会によって処理される決まりになっている。二人もまた、暴力沙汰を起こして生徒たちの健全な学校生活を妨げたことに対して、議会が決定した処罰を受けなければならない。
 今年の議会は七名、ペテロ館寮監のグリーンと副監のレッド、三年のファーク、マリア館寮監のブルーと副監エリカ、一年のクリスタル、それから修道会から派遣された修道女みならいのイエロー、彼女は議会の決定をキリスト教精神に基づいて監督するために置かれた副メンバーだが、とにもかくにも二人の命運はこの七人の手に委ねられた。議会室の上座にグリーン、左右に男女別に分かれた生徒たちが座し、二人はグリーンに向かい合う形で下座に通された。事情聴取は双方の黙秘によって流れ、議会の検討によって処罰を決定する段になって、柔らかそうな栗毛に碧眼の女、ブルーが訴えた。
「あの子が何のわけもなく人を殴るなんてこと、あるわけがないわ。きっと何か理由があるのよ」
「同意します」と、クリスタル。「普段の彼が信心深く品行方正な生徒であることは、グリーンさんもご承知のことと思います。叙情酌量を求めます」
「しかし彼は……その、素行が良いわけではありません。ただの痴情のもつれということは?」
 ファークが挙手をして言うのを、ブルーは鋭い目つきで睨みつけた。ゴールドは彼女がシルバーを胸に抱いていた女だということにここでようやく気がついた。
「シルバーがあんなバカを好きになるわけないでしょ!」
「感情的になるな。この件に関して申し開きはあるか、ゴールド?」
 立ちあがろうとする彼女を左手だけで制しながら、グリーンが視線をこちらによこす。
「ないです。悪いのはオレす」
「グリーン、あいつ血が出てる。早く治療しないと」レッドがきやすいふうにグリーンの方をゆする。
「そんなことはわかっている、早く終わらせるぞ。シルバー、何か言っておきたいことは?」
「……いえ」
「決定(エントシャイドゥング)。ゴールド、シルバー、両名は一週間の謹慎処分とする。これは生徒評議会議長グリーンおよび議員六名による決定である」
「決定(エントシャイドゥング)。両名は早急に自室に戻り、懺悔のための祈り、灰の十字架のしるしをおこないなさい。これはズィーリオス修道院イエローによる決定である。……ただし、ゴールドさんは治療を優先してくださいね」
 イエローの穏やかでやさしい声が議会を閉じた。ゴールドはクリスに付き添われて医務室に運ばれ、シルバーはペテロ館の自室に戻ったようだった。今ごろ聖書を開いて敬虔に祈りを捧げていることだろう。
「心配だわ。ゴールドってば授業も真面目に聞かないしすぐにこうして喧嘩するし、先生にも突っかかっては怒られているし。ちゃんと卒業する気あるの?」
「言うなっての、オレなりに事情があんの。お前こそ夕メシ食いに行かなくていいのかよ?」
 薄いカーテン越しに見られる月はすでに明るい。救急箱を閉じてクリスは、忘れてたわ、丸椅子から慌てた様子で腰を上げる。
「それじゃあ、わたし行くね。大人しくしてるのよ!」
 彼女が後ろ手で扉を閉めると、医務室は途端に陰気臭く静かなものになった。天井の大理石、キリストが天に上げられるさまを描いたフレスコ画を無心で眺めながら、ゴールドは頬の痛みがふたたびぶり返してくるのを感じていた。ちりちりと焼けるような痛み。いまでも骨の上によみがえる圧迫感。シルバーの涙。殺してやる、悲痛な叫び声。いままでゴールドが胸の内で持て余していた、シルバーへの求心は、これは彼に対する横暴な愛情がなすものだった。そのことを自覚したいま、ゴールドはいったいどうするべきなのだろう。彼に謝る? しかし再び彼を訪れたところで、謝罪に応じてもらうどころか、言葉を交わしてもらうことすら難しいに違いない。あのとき、シルバーはひどく傷ついていた。
 食堂に向かう生徒たちの談笑が、廊下を伝ってここまで響いてくる。手持ち無沙汰になり、彼は何とはなしに寝返りを打った。……そのときだった。表の戸が控えめに打たれたのは。
 ゴールドは起きあがり、ベッドの下に脱ぎ捨ててあった制服のジャケットを羽織った。誰だ、こんな時分に。生徒たちはいまごろ夕食にありついているころだろうし、それは教諭陣も同様だ。クリスが忘れ物でも取りに帰ったのだろうか。カーペットの敷かれた床に裸足を下ろし、歩み寄るより前に、音を立ててドアが開かれた。
「おまえ——」
 うすづきの中でもあざやかな赤毛、硝子よりもよっぽどすきとおる白練の肌。海の星の瞳。美しい彼、シルバー、シャツの前をきっちりと閉めた制服姿で、分厚い聖書を片手に静謐な廊下に立っていた。すっかり青ざめた顔色だったが、ゴールドの姿を見とめると、彼はどこか安心したような、心もとないような表情になって微笑した。「ぐあいはどうだ」片手でドアを閉め、当然のように医務室の中へ入ってくる。
「あ、いや、べつに……」
「そうか。悪かったな」
 ベッドの縁を手のひらで軽く払い、彼は当然のようにそこへ腰かけた。痩せた身体のわずかな重みにもベッドは音を立ててきしんだ。
「なんでおまえが謝るんだよ、悪いのはオレだろ」
「らしくもないな、どうした。いささか強く打ちすぎたか」
「というか、なんで来たんだよ。殺してやりたいくらい憎いんじゃなかったか」
「懺悔のための祈りは済ませたか」赤のサテンで装丁した表紙を恭しい手つきで開きながら、シルバー、「どうせまだだろう」
「だからなんだよ」
「オレもまだ。一緒に済ませてしまわないか」
「あのな、オレは……神ってやつを信じてねんだ」
「それはそれ、議会の決定は決定だ」
 シルバーの嫋やかな指に促され、なめらかにページが繰られていく。
「神よ、わたしの献げものは砕かれた心、あなたは悔い改める心を見捨てられません」
 水のように清められた少年の声が詩篇を取り上げた。とっとと済ませるつもりらしい。その後ろに、ゴールドはしぶしぶついてゆく。
「父なる神と、主イエス・キリストの恵みと憐れみと平安が、……おまえとともにありますように」
「また、あなたとともにありますように」
 彼は繊細な唇に厳格な言葉を蓄えながら、おだやかな顔つきで微笑みさえした。薄暗い室内で彼の薔薇色のほほ、白い額、銀の星の瞳がほの明るい。ああ、ゴールドは感極まって、すんでのところで泣いてしまうところだった、ただ彼のこの顔が見たかったのだ、友人に対して向けられる、親愛に満ちた衒いのない表情。
「すまねえ」
 言葉は何の突っかかりもなく、ごく自然にゴールドの舌を離れた。
 彼はゴールドの謝罪にも神色自若として、ただ静かな眼差しだけを返した。そのためにゴールドは余計に決まりのない気分になって、枕を抱いてみたり、脚を組み替えたりしながら、所在なく言葉を探した。
「ネックレス壊したこと、そんでもっておまえをひどい言葉で罵倒したこと……オレは、おまえと……ただちっと喋ってみたかっただけなんだ。そんだけのこと、うまく言えなくて、ごめん」
 リネンのカーテンが翻り、その間激から、胡粉色の月が顔をだしてシルバーの頬からあご、首までの天性の輪郭をほのかに照らし出した。ふいに、柔らかいてのひらがゴールドの手首を握り、存外に温度の高いその皮膚に彼は動揺した。その姿勢のままシルバーは祈った。
「主よ憐れみをお与えください。ゴールド、彼女はオレの姉さんだ」
「は」
「この学園の初等部に編入したとき、オレは孤独だった。英語もドイツ語も理解せず日常会話すらままならなかった。初等部四年だった彼女だけがオレを気にかけてくれた。手を引いて、言語や作法、神に祈ることを教えてくれた。そばにいてくれた。姉さんが気にしないなら、彼女とオレの関係を、誰に誤解されても平気だったが」
 彼は居心地悪そうにため息をついたが、手と手を握る力は緩む気配がない。
「どうしてかな。お前にあしように勘繰られるのは嫌だった」
「そうんならおまえ、オレたち良いダチになれるんじゃないか、なあ」
 ゴールドが歯を見せて笑うと、シルバーも、ぎこちなく口角を上げて見せた。

 ——かあさん
 ごきげんよう なかなかお手紙出しませんでほんとにごめんなさい
 家のみんなはげんきですか エーたろうはまた悪戯してるんじゃないですか
 ボクは学校を謹慎になりましたが良い友だちができました
 もうすぐクリスマスですね ドイツ語ではヴァイナハテンというそうです、授業で習いました
 また近くなったらカードを出しますね
 それじゃ、愛をこめて ゴールド

 彼は緩慢な字つきで手紙を書き終えたが、最後署名を書き添える段になって、途端につまらない気分になってこれを破り捨てた。一枚二千ペニヒもする上質な便箋、ジュリアンに借り受けたもの、しかしばらばらの紙屑になってしまえば幾ばくの価値もありはしない。万年筆の先を紙で拭い、屑を籠にまとめて放り込んで、暇をもてあました彼はベッドにごろりと寝転がった。はっきり言って、ゴールドは退屈していた。
 謹慎二日目。初日は、授業に出なくても良いし、口うるさいグリーンや宗教学の教諭にも会わなくて済むと両手を上げて喜んだものだったが、夜になるころにはこれをすっかり撤回する羽目になっていた。ジュリアンは授業に出かけていていないし、厳格な学園の寮に娯楽などあるはずもない。唯一持ち込みを許可されたトランプだって相手がいないのでは話にならない。ゴールドにできることは、適当に料理をして空腹を紛らわすこと、天蓋の木目を眺めること、出すあてもない手紙を書くことくらいだ。自宅に残してきたテレビゲームがひどく恋しい。
 少しばかりのうたた寝のあと、ようやく何か食べる気になって、彼はのそのそとベッドを出て階下に降った。
 冷蔵庫には、たまごが二つ、レタスサラダ、バイエルン州の伝統的な茹でるタイプのソーセージ、バターひとかけ、眠れない夜のためのコニャック……その中からソーセージを取り出して、鍋の中に沸かしておいた熱湯の中に塩とまとめて放り込む。茹だったのを皿に取っておいて、粗熱をとっている間にフライパンに油をひいて、そこに軽く解いたたまごを落とす。半熟になったところでソーセージをざく切りにして混ぜる。粗挽き故障を振りかける。
 テーブルについてフォークを取りながら、この日何度目かも分からない溜息をつく。一人の食卓は味気ない。この一月で、友人たちと大騒ぎしながら摂る食事に、彼はすっかり慣れてしまったのだった。胡椒をたっぷりかけたはずのスクランブルエッグも、どこか薄味に感じられる。
 ふと、冷蔵庫の中に半量近く残ったコニャックの存在、その琥珀色を思い出し、ゴールドは椅子から立ち上がった。そうだ、同じだけ暇を持て余しているはずのものが、この学園には一人いるではないか。
「規則違反だ」
 ペテロ館二階から五階までの部屋を一つ一つ周り、それぞれ呼び鈴を鳴らして回るという荒技の末にようやくシルバーの部屋を割り当てたゴールドを、本人は至って冷淡に迎え入れた。
「言うなって、ダチだろ。良いもん持ってきたからさ」
「……、アルコールは法律違反だが」
「まーお堅いこと言いなさんな、入るぜ」
 シルバーの部屋は、五階の、ペテロ館においては寮監室にあたる場所にあった。信心深い神の子羊たちが集まるパウロ館には寮監じたいが不要ということで、各々自分の生活は自分で律し、空いた寮監室は何故かシルバーに割り当てられているというわけらしかった。薔薇と天使を浮き彫りにしたマホガニーの堅牢な扉の印象に反して、中は至って簡素な屋根裏部屋だった。白い大理石の床に白い壁紙、ズィーリオス城の中庭や校舎、礼拝堂などを一望する両開きの窓、小さな作業机に本棚、木を組んだだけの質素な寝台。南向きの壁に飾られた木製の十字架、それから聖マリアの肖像は、彼の深くひたむきな信仰を思わせる。
 自室にあって、彼はシャツにスラックスとリラックスした格好でいた。袖がまくられて剥き出しになった腕がゴールドのために作業机から椅子をひいてくれた。
「まあ乾杯と行こうや」
「いや……少し待ってくれ。課題を済ませてしまいたいから」
 ゴールドの誘いに断りを入れてベッドに腰を下ろし、彼は鞄の中からなにがしかの辞典と、ハードカバーのおもたそうな聖書を取り出した。彼が開いたのを覗いてみるとどうやらギリシア語だ。アルファからオメガまで、見慣れない文字がずらりと並んでいる。
 ガラス張りの戸棚から紅茶のためのカップを二つ、そのうちの一つに少しばかり、琥珀色のアルコールを注いで、ゴールドはこれをちょっと舐めてみた。オークの樽の中で何年もじっくりと熟成された蒸留酒だ、レモンやハーブ、スパイスのほか、かすかな木材の匂いも混ざって鼻先で芳醇に香る。彼はすっかりいい気分になって、シルバーの隣に座り、その背に重たくもたれかかった。
「ゴールドおもい」前屈姿勢になりながら、苦しそうな声でシルバーが訴える。
「いいだろお、なあギリシア語楽しい?」
新約聖書ギリシア語で書かれた。当時ヘレニズム世界で流行したコイネーと呼ばれる種類のもので、現代ギリシア語とは異なるが、それでも英語やドイツ語で読むよりはキリストの素の言葉により肉薄することができる」
「素の言葉に近づいて、それがなんなんだよ」
「英語では愛をただラヴとだけ訳すが、ギリシア新約聖書においては三種類の愛が定義される。それぞれ種別の異なるものだ、たった一つの言葉に無理やり集約できるものではない。このように、聖書を正しく理解するためには、粗悪な英語、過飾のドイツ語ではなく、当時の価値観により近いものを共有するギリシア語で読むのが適当だ」
 生真面目なシルバーの演説を聞きながら、ゴールドはまたコニャックを舐めた。
旧約聖書においては古代ヘブライ語が用いられるが、ヘブライ文字の理解は非常に難解だ。よって、底本から史上初めて翻訳されたギリシア語がここでも重宝されるというわけだ」
「なあ、おまえがそんなにも神さまを愛してるの、なんでだ」
 シルバーが顔を上げ、なぜそんなことを聞くんだとばかりの表情でまばたきをした。ゴールドは、促されて居心地悪く言葉を継ぎたす。
「神さまは偉大ですなんでもできますっていうけどよ、オレはやっこさんが何かしてくれたことなんて一度もないと思ってる、ていうか、いないだろ、オレの父さんはおまえみてえに毎日毎日真面目に祈ってたけど、結局長患いに勝てなくてあっというまに死んじまった。ほんとは大したことないんじゃないか? お祈りしたって時間の無駄じゃないのか?」
「前提として、おまえは認識を違えている。一つ、オレは別に、願いを叶えてほしくて神を信奉しているのではない。二つ、神は便利な魔法じゃない。祈りは物理的な現象を呼び起こすものではなく、人間が本当に一人になったときに、それでも生きる希望を見出すためにその存在の中で控えているものだ。神はオレたちの苦痛に対して沈黙を貫くが、何も存在しないわけじゃない、沈黙しているというかたちこそが神そのものなんだ。幸せなおまえにだって、死ぬときにはわかるさ」
 話を終えて、シルバーはゴールドの背にもたれかかり返した。彼の長い髪が首にかかってゴールドはくすぐったく笑った。
「気が変わった。オレにもすこしくれ」
「強いぜ」
「かまわない。前後不覚になりたい気分なんだ」
 ゴールドが人差し指でわずかばかり掬った分を、シルバーが舐めた。やわらかい桃色の唇が神経の多い指先を掠めるような軽さで触れる。そのとき、指先から熱い口腔、薄く白い皮膚に包まれた細い喉を通って腹の中へ落ちてゆくわずかばかりのアルコールに、ゴールドは共感して思わず鼻先を赤らめた。むせ返るような強い香りに、彼がにわかに喉を詰まらせてむせた。
「おいおい、こんなぶんので……」
「はじめてなんだ」
 もうアルコールが全身に回ったのか……うっとりとまなじりを下げ、シルバーは頬を赤らめた。

 次の日、彼の部屋を訪ねると、大きなチェス盤が用意されていた。黒と白の大理石を交互にはめて方形を作った盤に、それぞれ金と銀に塗装された駒が並べられて朝の光にしんしんと光を帯びていた。
「どうせ来ると思って、姉さんに借りた」
 銀のクイーンの駒の底ばかりが不自然に剥げているが、彼女は女王遣いだったのだろうか。
 シルバーはチェスがうまく、例の姉さんと日常的に打ち合いをしているのだとすぐに知れた。彼はビショップ、僧侶の駒を巧みに打ち、わざと打ち筋をぼかしてゴールドを撹乱させた。対してゴールドはチェスなど遊んだ試しがない、かろうじて父親と何度かオセロをプレイした程度だが、ルールも勝利条件も異なるこのゲームにずいぶん苦心させられた。しかし、はじめは負けばかりだった彼も、ルールを覚えれば次第に勝ちすじが見えてきて、持ち前の運と勝負力でポツポツと白星を上げるようになってきた。これにはシルバーも興味をそそられたようで、ゴールドが持ち込んだソーセージやチーズをつまみ食いしながら、二人は夕べになるまで絶えず盤を鳴らし続けた。
「チェスは、もともとインドで遊ばれていたチャトランガというゲームが源流で、そのときは僧侶や女王の代わりに象や馬がいたんだ。しかし、これが西欧で流行したさいにキリスト教の文化を吸収して、駒の役職が変化したほか、その形も十字架をあしらったものなどに変わっていったらしい」
「ふーん……チェック」
「ふ、そんなところに置いていいのか。チェックだ」
「ぐあ、やるな」
 負け越したことに納得がいかなかったゴールドは翌日も彼の部屋をおとずれた。朝早くに訪問したにもかかわらず、彼はきっちりと制服を身につけてゴールドの来訪を待っていた。午前中を対局に終始し(このころには、ゴールドが勝つことも珍しくなくなっていた)、午後には故郷に手紙を書くというシルバーに付き合って、ゴールドも母に向けてまじめに手紙を書こうという気になっていた。
 彼は作業机に、そっけない白地の便箋とブルーブラックのインク瓶を広げ、つやつやとした金の先をそなえたつけペンで几帳面な字を書いた。
 おとうさん、
 ゴールドも隣に屈んで、彼に借りた便箋に万年筆の先をくっつけたまま、流れるような筆記体が紙の白さの中に滲んでゆくのを見ていた。
 セイラムは、ラビリントの桜の樹も真っ赤になるころです、そちらはいかがですか、もう雪が降っていますか ラテン語は対格支配の前置詞に入りました、場所ひとつをとっても無数の単語があって難儀しています
「なに見てるんだ」
 彼は唇をとがらせて、不満そうな声で言った。ゴールドが彼の字を眺めていたのは、たしかに美しい字体だが、その青さがひどく病んでいるように思われたからだった。
「出身、北のほうか」
「ああ……一年中土が凍ってる」
「戦争してるだろ? 無事だといいな」
 彼はしばらくのあいだ黙りこくっていたが、やがてあいまいな感情を目によぎらせ、首を横に振った。
 その夜には彼の部屋に泊まり込むことにした、ゴールドが勝手に決めたことだが。一度パウロ館の自室に戻り、パジャマ姿でグリーンの点呼をやり過ごしてから、再び部屋を出てペテロ館に戻ってきた。彼はくるぶしまである丈の長いネグリジェでゴールドを迎え入れた。ワンピースにも似て、美しい彼はまるで天使の少女のように、ゴールドの前に清潔で愛らしく、まるで幽眇として立っていた。
 小さなベッドの中に二人して潜り込む。「狭くないか」彼が身を捩ると、雪が降る前の大気や、白いジャスミンの花にも似たにおいが香った。
「別に」
「そうか」
 近距離で彼の声は低められて甘い。やわらかい少年の身体がゴールドに寄り添った。ゴールドはすぐに寝入ったが、ふしぎとあの夢は見なかった。

「神さま——」
 夢のない、ただ茫漠と暗闇だけが広がる眠りを、悲痛な叫び声がちりぢりに引き裂いた。
 鋭く尖った眠りのかけらが落ちてゆく中、ゴールドは跳ね起きた。その隣でシルバーも、目を限界まで見開き、額にびっしりと汗をかいた状態で起きていた。唇は血の気が引いて震え、下瞼からはひっきりなしに涙がこぼれる。顔色も真っ青だ。手に触れて、その身体がひどく冷えていることを知った。
「シルバー、シルバーどうした」
「あ、あ……?」
「大丈夫か。息できるか」
 シルバーは喉をそらして喘いだ。何か訴えようとしているが、胸がつかえて、舌もうまく回らないようだった。痙攣する指先ばかりが弱々しくゴールドに縋る。ゴールドは夢中になってシルバーの薄い肩をかき抱き、その唇にねんごろなキスをした。
 はじめて触れる皮膚は淡雪をつぶすようなやわらかさだった。つめたく、しっとりとして、やさしく食めばかすかに涙の香りがした。甘い。彼の嗚咽がなかなか落ち着かないのを見てとって、ゴールドは何度も何度も、やわらかな粘膜を吸い上げては舐めた。彼の湿った呼気とゴールドのため息が混ざる。彼の潤んだ瞳がゴールドの目に視点を結ぶ。嗚咽の嵐が去ったあと、彼はゴールドの肩に頭を預け、くたりと全身の力を抜いた。
「だいじょうぶか、オレがわかるか」
「ゴールド……」
 さいごに彼が、ゴールドの頬に触れるだけのキスを浴びせた。「ごめん、ありがとう」
「どうしたんだよ」
「悪い……夢を見ていたみたいだ」
「夢?」
「なんでもない。今、何時だ」
 午前三時だ。まだ起きるには早い時間だから、もうちょっと寝てろよ、そのように言うと、彼は素直にうなずいて再び布団に潜り込んだ。胎児のように身体を丸める。赤い頭のつむじを眺めているうちに再び眠気がやってきて、ゴールドも彼のそばに寄り添って眠った。