Makuai

 

 

 

 光の中で、私はゆったりと覚醒の入江に漕ぎ着ける。
 さわやかな早朝の風に吹かれ、真鍮のベルが快い音を立てる。裏庭の林檎をつつきにやってきた小鳥のおしゃべりが楽しげに耳殻をくすぐる。音もなく枝を離れて散る紅葉の気配、朝暾にあたためられ、かすかに熱を帯びる鼻先の感覚。ほのかに花の香りがするのは、窓辺にほころぶ秋薔薇が盛りだからだ。
 寝ぼけ眼を擦りながら、私は寝返りを打とうとした。そうして、肩のあたりに、なにやらかわいらしい重みがちょんと乗っているのを発見した。

 妻は私の襟をあどけなく掴んだまま、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
 愛おしさに耐えかね、私の右手は彼女の頬をそっと撫でていた。花びらのように薄いまぶたや、しずかな広がりを湛えたすべらかな額、ゆるく三つ編みにした豊かな黒髪を、指の腹で慈しむ。寝言の形を留めたやわらかな唇に接吻すると、妻は、私に応えようとかすかに顎を動かした。
「おはよう、ゾーイ」
 美しい彼女の名前はゾーイ・オートノミー。私の、たった一人の妻。世界でいちばん愛しい人。
 名前を呼ぶと、彼女はうっすらと瞼を持ち上げ、まだ眠たげな瞳で私を見上げた。虹彩の一条まで透き通る海の瞳が、窓からの明かりを受けてきらりと輝く。
 とろんと垂れたまなじりのあたりに何度も唇を寄せる。妻はそのたびにまつ毛をゆったりと上下させ、やがてひとつ小さなあくびをすると、私にやさしい微笑をよこしてみせた。
「はい。おはようございます、アネモニ」
 こうして私も、眠りの国から自分の名前を取り戻す。……アネモニ・オートノミー。今年で二十四になる。

 彼女と初めて出会った日を、昨日のことのように思い出す。
 第一印象は最悪だった。研究発表のための論文作成に追われ徹夜を重ねていた彼女と、当時つきあっていた恋人にすげなく振られたばかりの私は、図書棟に一冊しかない資料をめぐって口論になった。今思えば交代で閲覧するなりやりようはいくらでもあっただろうが、お互い追い詰められ、気が立っていたのが悪かった。当時は目の前の彼女が仇か何かのように見えたものだ。もっとも、結局はこうして夫婦のかたちに収まっているわけだが。
「何を笑っているのですか」
 焼きたてのパンケーキにジャムをたっぷりと塗りつけながら、拗ねた表情で妻が言う。
「初めて君に会ったときのことを思い出していた」
「その話はやめてください。恥ずかしいでしょう、もう……」
 あの日、髪をぼさぼさに逆立て、皺だらけの白衣の中に細身の身体を縮こまらせていた少女は、いま、私の目の前でこんなにも幸せそうに笑うのだ。小さな青い薔薇をあしらったドレス、一度目の結婚記念日に贈ったカメオブローチ、そしてしなやかな左薬指に嵌ったダイヤモンドとプラチナの指輪、すべてが彼女をより美しくきらびやかにする。
 妻は私に態度を改める予定がないのを俊敏に察知すると、深くため息をつきながら私の皿を引き寄せた。三さじ分のキイチゴジャムが少し焦げた方のパンケーキにもたらされる。
「……あ」
 不意に、彼女の指がカトラリーを取り落とした。ジャムがついたままのバターナイフが床を滑る。
 彼女は慌てて身をかがめ、テーブルの下に手を伸ばしたが、座ったままの姿勢では指先がわずかに届かない。
 私は立ち上がり、なおも腕を伸ばそうとする彼女を押しとどめて、バターナイフを拾い上げた。
 替えのものを取りに、キッチンに戻ることにする。
 妻は左脚が悪い。杖がなければ歩くこともままならず、それだっても体力と精神力を要する。だから、一日の大半を車椅子やベッドの上に縛り付けられた状態で過ごした。美しいが、弱く、壊れやすい存在だ。私が守ってやらなければ。
 妻は車椅子の上に座ったまま、取り残されたような表情で私を見上げる。その顔は私に奇妙な予感をもたらした。

 朝食を終え、外出の支度も済んだころに、表のベルが鳴った。
「旦那さま、お迎えにあがりました」
 ドアを開けると、見慣れた顔の男が深々と礼をした。私たちの本邸は山麓の市街地にあり、この男はそこで長く勤めている使用人だ。
 杖をついてキッチンから出てきた妻が、コートを肩に掛けてくれる。小さな唇が艶を帯びてキスをねだり、私はそれに応えた。彼女の顎をすくい上げ、柔らかい粘膜をついばむ。
「それじゃあ、行ってくる。日が暮れるまでには帰るよ」
「……お気をつけて」
 男とふたり、連れ立って外へ出る。十一月の風が、薔薇や竜胆やツルアジサイの芳醇な香りを浚い、私たちの鼻先に届けてくれる。秋もたけなわを迎えたこの美しい庭は、プロポーズのとき私が贈り、以降妻が大切に育ててきたものだ。
 鈴なりに実をつけたクラブアップルの木を通り過ぎるころ、彼は重々しく口を割った。
「奥さま、またお痩せになりましたね」
「君もそう思うか」
「はい。……難儀なものです。ここはまだ落ち着いていますが、市井の医院は襲撃され、或いは患者で溢れてどこも機能不全です。次に発作が起こればどうなるか」

 正体不明の致死ウイルスが蔓延しだしてからもうずいぶんになる。
 生きたまま肉体が腐り果て、死んでなおゾンビのように彷徨うはめになる悍ましいウイルス。人類はこの未曾有の大災害になすすべもなく屈服し、震えながら滅びの時を待っている。
 急速な人口減少や感染者の急増による諸機関の不具は、さまざまな病を抱えた妻には致命的な事態だった。週に一度医師の診察を必要としていた彼女は、もう三ヶ月もの間どこにもかかれないままだ。このままでは常備薬が切れるのもそう遠い話ではない。
「言うな。仮定の話は好きじゃない」
 私は、かろうじてそう言うことしかできなかった。
 まばらな寒牡丹の小径を抜けて、私たちは殺風景な山道に出る。彼女の夢の外側だ。路肩に寄せて停まった車の後部座席に乗り込むと、男は素早く運転席に回り、エンジンをかけた。
 車は山地を早急に脱し、市街に入る。例年この時期になると星を象った赤や緑の飾りで騒がしくなりはじめる街も、今年はどこか陰気な雰囲気で満ちている。バックミラー越しに、彼が私を一瞥した。足元にはいつものように戦闘服と通信機とが用意されていて、私はそれらを手早く装備する。
 そうだ。憂いや感傷にため息をついている場合ではない。残された時間は少ない。通信機を基幹中継局に接続すると、堰を切ったようにさまざまな場所から通信が入った。物資支援要請、援軍要請、大規模な感染者集団の通知。まだ朝早いにもかかわらず、東部ではすでに激しい抗争が始まっている。
 私はその全てに周波数を合わせ、必要事項を通達、指示し、それからこう付け加えた。
「私たちが守護すべきものはすべてだ。なんとしても生きて帰還しろ。己を生かし、他を守る……それが我々、パグメの使命。忘れるな」

 ——私がその誓いに身を投じたとき、ウイルスの脅威はまだ人類の頭上に掲げられたほんの篝火に過ぎなかった。友はすべてを投げ出すと粋ぶる私の肩を抑え、滔々と言い聞かせたものだった。己を生かし、他を守るもの。パグメとはそういうものだ。
 いつか酒を飲み交わした時のように、皮膚の破れた指と指で、滴る血液を交えた。
 左耳の陥没をたしかめる。今は亡き友の眼差しの幻想とともに、ふしぎな安寧が、私の心を訪れた。

 死の瞬間まではっきりと意識を残していたその人の、悔恨に満ちた眼を記憶に深く刻んだ。忘れられるはずもない。明日は自らも同じ運命を辿るかも知れないのだ。
 重たく湿ったカメリアの芳香が心を鬱屈とさせる。
 私が再び妻のもとに帰宅するころには、すでに深夜になっていた。彼女はベッドにいて、激しい咳嗽の名残がその喉にあった。高熱で頬や額は赤く火照り、うっすらと発汗さえしているというのに、表情には生気がほとんど感じられない。ベッドサイドに近寄ると、潤んで輝く瞳が私をぼんやりと見上げた。
「あなた。おかえりなさい。……お夕食の準備、まだできていないんです。ごめんなさい」
 頼りなく喘鳴しながら、か細い声で殊勝なことを言う。
「そんなことは気にしなくて良いんだ。それより、具合は」
「大丈夫です。さっきまで気持ちよくお昼寝をしていたの」
 震える唇が水を求めていた。私は、サイドチェストの水差しからいくぶんかを口に含み、少しずつ彼女の唇に運んだ。熱を帯びたやわらかい舌に緩慢に迎え入れられる。
 くったりと力を失った蒲柳の身体を拭い、綿の夜着に替えてやる。私に、横に抱かれながら、彼女はふとこんなことを言った。
「あなたの子を抱く夢を見ました」
 私ははっとした。恐慌と混乱のさなか、腹の子を失ってから、妻はずっとその話を避け続けていたのだ。
 手のひらで頬に触れると、彼女はいじらしくもすり寄ってきた。
「女の子でした。おとなしくて、物静かな子ですけれど、笑うととても可愛いの。わたしは彼女を膝に抱っこして、おそろいの三つ編みを作ってあげたんです」
 最後はほとんどささやき声だった。嬉しかった、とつぶやく彼女の眦から、不覚の涙が溢れ、静かに流れた。
「何も言わなくていい。もうお休み」
「いいえ……、いいえ、アネモニ。罪深いわたしを、どうか強く抱きしめて。離さないでください」
 ……、罪?

 妻の肌に溺れゆく私の視界を、猫がよぎる。
 仄暗い窓辺。背筋が凍るような、赤い目の黒猫だ。目が合うと、猫はさっと踵を返し、夜闇の向こうへ紛れて行った。

 

 ……花は枯れるしケーキは腐る。当たり前のことだ。

 亡骸が届けられた。彼女の行きつけのカフェテリアからでも、勤め先の研究所からでもなく、名前も知らない国家機関からだ。
 目の前が真っ暗になったと思ったら、次の瞬間には花の中に立っていた。彼女の庭。薄紫や白の芝桜、チューリップにすみれ、ヒヤシンスは花茎をおもたそうに擡げ、パンジーはベルベットのような花弁を愛らしく広げている。グラニーズボンネット……オダマギの優雅で華やかな装い。屋根の上までを桃色に彩るライラック、神経質な瓔珞百合のまだ固い蕾。ハナダイコン、勿忘草、ショウキウツギ。ついこの間まで赤い果実をたっぷりと実らせていたクラブアップルの灌木に八重咲きの花がついていて、知らぬうちに春が来たのだと悟る。
 彼女がひときわ熱心に心を傾けた、前庭のカンパニュラが咲き乱れる中に、その亡骸は横たえられていた。
 手足は箒の肢のように痩せ、皮膚は血の気が失せてほの青い。それでもなお、妻は美しかった。すべてが嘘なのではないかと思うほど。
 滅びをなんとか凌いだ数人の使用人と、彼女の同僚とおぼしき白衣の男が私の背後に立っていた。男は前に進み出て、真珠のロザリオを彼女の細い手に握らせた。
「ミスター・オートノミーですね。今回のことは、私も残念に思います。彼女は我々の中でも一際優秀な研究者でした」
 私は言葉もなく彼の顔を眺めた。
「しかし、あなたは幸福だ。パグメは実に迅速に、必要最小限の損傷にて事を済ませた。おかげで彼女は美しいままです。噂には、感染者を惨殺する恐ろしい集団も存在するとか、なんとか。この前も、ドクター・ジーンのご令孫が無惨な姿で見つかったという話で……」
「待ってくれ。彼女を殺したのは」
「ええ、パグメです。アネモニ・パグメ・オートノミー。あなたの奥方もまたウイルスに羅漢し、あなたがたのうちの一人に殺害されました」
 うそだ。
 嘘だ……
 錯乱に囚われ、私は妻の亡骸に縋った。あまりにも冷たい皮膚。嘘だ。私は、山奥のこの美しい庭に彼女を閉じ込めて、そうすることで守っていたはずだった。誰よりも大切に……籠の小鳥のような弱く壊れやすい彼女を、大切に、大切にしてきたはずだった。他のことは、本当はどうでもよかったのだ。彼女の愛するもの……人間、思い出の街、愛すべき故国、すべてを守りたかった、それだけなのに。
 私が彼女を殺した?
「ご安心ください。あなたは感染者ではない……今は、まだ」
 そんなことはどうでも良い!
 男を振り返ろうと身を捩った私は、啜り泣く使用人たちの肩越しに——彼女の穏やかな夢に入りこんだ感染者たちの姿を、見た。忌々しい、腐り果てた肉塊ども。やつらは、清らかな彼女を奪っただけでは飽き足らず、彼女の慈しんだこの庭をも破壊し尽くそうとしている。
「やめろ……やめろ!」

 妻は、籠の小鳥ではなかったのだ。
 誰よりも強く、真っ直ぐに人間の可能性を信じ、彼女は賭けに出た。たとえそれが虚弱な我が身を削り、また感染のリスクに晒すことになったとしても、その信念が揺らぐことはなかっただろう。
 ウイルスパンデミックを受け、合衆国をはじめとした複数の国家が人類の滅亡を確信した。そして彼らは、各々の確執を捨て去り、結託して、長らく御伽噺の領域のものでしかなかった超未来技術の開発に乗り出した。ハイバネーション、人間の冷凍保存だ。妻はその開発チームに選抜され、物理学者として研究に携わっていた。希望を、願いをつなぐために……私の全く預かり知らぬところで。
 死してなお貫かれる彼女の義を、しかし私は受け入れることができなかった。自暴自棄になり、戦闘に明け暮れるようになった。マシンガンを片手に、肉を断ち、骨を砕いている間は、何も考えずに済むのだ。装備を外し、横になって休んでいる時間こそ、私には苦痛だった。
 目を閉じれば、暗いまぶたの裏側に優しい笑顔が浮かんでくる。鼻先にはおだやかな呼吸の幻想が、指には優美なてのひらの幻想が訪れ、本当は一人きりの私をより惨めな、哀れなものにする。……あなた、泣いているの……眠りの淵で実体を失い、朦朧とする意識のすぐそばで、誰かが囁いた。
 泣いてなどいない。涙を絞るほどの力も、もう残されていないのだ。
 ——私は何のために生きながらえているのだろう?
 その日、私たちは現地部隊の要請を受けて大学校舎の廃墟に乗り込んだ。過ぎ去った日常が懐かしいのか、彼らは生前によく訪れた場所に集まりやすい。錆び付いて滑りの悪くなった入口扉を破壊し、講堂ホール跡に突入すると、座席についていた人影が一斉に振り返った。一人残らず感染者だ。救いはない。
 皮肉なものだが、人間は庇うもののないときにこそその力を十全に発揮することができる。理性に先んじて、一番大切なものを取りこぼした無力な腕が敵の殲滅のために動いた。死してなお恋人を庇おうとする男。揃いも揃って眼球を失った女子学生の群れ。腐敗のために生物の原型すら失い、それでもなお何かを求めて這い回る誰か。一人残らず、着実に、息の根を止める。
 ホール前方までをあらかた回り、思考する余裕が生まれたころ、出し抜けに、背後で弱々しいうめき声を聞いた。
「おとうさあん」
 女の子の声だった。泣いている。生存者だろうか。脳裏を残酷な空想がいくつもよぎる。父を失った少女。妻を失った男。空想は同情の元に結実し、私は、彼女を顧みることに決めた。
 その、心に吹き込んだ風のような一瞬の隙が、戦場では命取りになる。
 私が振り返ったのはたしかに少女だったが、死んでいた。右手には小さいが肉を断つには十分に鋭い小型のナイフ。向き合う私の心臓を確実に捉えている。ガンを構えようとして、弾がもうないことに気が付く。昨夜込め忘れて、今朝点検を怠った。ああ、君は、私を喰らうつもりか? あるいは、私を父だと思って、一人にするなと強請っているのか。どうだっていいだろう。生の意義がもう存在しないのだから、死に与えられる意味だってさして重要ではない。
 私はこの数秒の間に、自らの生命を放棄する心を固めていた。少女の腐った右手が無邪気に縋ってくる。瞼を閉じる。神よ。私は——……
「あなた……生きて」
 そのとき、意識の深層にか、無意識の果てにか、私はあの女の声を聞いていた。
 ナイフの鋒が服を裂く感覚が恐ろしく緩慢に神経系を登ったが、私はそんなことに構う余裕を失っていた。不可思議なことだ。物理の秩序にも、神の摂理にも外れて、その声は私の耳にはっきりと響いた。胸が引き絞られるような思いがする。息が詰まる。苦しい。なぜ……人間をやめた私の心がこんなにも痛い?
 今度はもっと明朗に、声は私の全身に響き渡った。
「生きて」

 

 鍵の持ち主を永遠に失い、あの庭は荒れ果ててもう形もないはずだが、そのとき私はたしかに花の中にいた。白い釣鐘草の群れが視力の限りまで続く。碧天の空は透明に澄み渡っている。
 死装束に身を包み、女は白昼の月を仰ぐ。かすかな風が彼女の黒髪を浚い、うなじの非現実的なまでに白いのを詳らかにした。これは死のきわの夢だろうか? 腕を伸ばせば、彼女はこちらを振り返り、はなやかな笑顔を見せた。不具の左脚が軽やかにステップを踏む。
「花もケーキも、望めばきっと手に入るものでした。でも、私はあなたがくれたもの、わたしにだけ与えられたやさしい罪を大切にしたかった」
「……ゾーイ」
「花は枯れるしケーキは腐ります。でも罪は永遠に……千年経っても、きっとわたしを忘れない。わたしも忘れません、あなたと、あなたのくれたすべてのものを」
 伸ばした指先をゆるく掴まれ、引き寄せられる。柔らかい胸に受け止められて、私は……やっと自分が一人では何もできない迷子の子どもだったのだと気づいた。私だけではない、人はみなそうだ。たった一人で生まれて、何をするべきかわからず、同じだけ孤独な誰かに寄りかかってかろうじて息をする。だが、彼女が彼女だけの道を見いだし、殉教したいま、私の前にもまた、真っ直ぐに道が拓かれた。光さす道。
 たおやかな指に額を撫でられて、私は熱くため息をついた。ゆるく開いたまぶたの裏が無性に痛み、遅れて、下瞼を滲むように伝うのが涙だと気づいた。
「ゾーイ、聞いてくれ」
「はい」
「私は、君にした約束を何ひとつ守れなかった。だが今この手で……ひとつだけ叶えられる。私にほんとうの命を与えたのは君だ。生きながらえた意味も、どうか君に与えてほしい」
「……アネモニ、もしもう一度出会えても」
 涙で視界がぼやける。光の中で、彼女がどんな顔で微笑んでいたのか思い出せない、
「わたしを愛して。花の美しさを教えて。この星を、みんなを守って。どうか後悔しないで……」
「ああ」
「嬉しい。あなた、大好き」
 強く抱きしめられ、触れ合った場所から彼女の命が流れ込んでくる。私の血潮を、五臓六腑を、何処かにある私たちの故郷を、四天を渡り、その確信が私の迷いを振り払った。手のひらが熱い。全身が燃えるようだ。手を伸ばすと、おぼつかない視界の中で確実に握り返された。
 さよならだ。
 唇に何かが触れたかと思ったら——まばたきとともに涙の粒が弾けて、視界が急に晴れた——それは花びらだった。釣鐘草の可憐な花冠が、唇の皮膚に軽く擦れ、風に揺れて跳ね上がった。身体を起こすと、そこには漠々と花畑が続くばかりで、美しく愛おしいあの女の姿など見る影もなかった。
「私たちなら大丈夫だ。どんなことがあっても……大丈夫」
 どこからか鐘の音が聞こえてくる。
「大丈夫……」

 

 夜半、はっきりしない意識の波間でぼんやりしていたら、急に、ばちん、と音を立てて、左ピアスの留め具が外れた。壊れた……ようだ。
 特に思い入れがあるわけではないが、コールドスリープから目覚めるより前から持っていた貴重なものの一つだ。少しだけ残念、なのかもしれない。破片を拾って掲げると、真鍮の薬莢が月の光を反射して鈍く金色に輝く。
「どうかしましたか」
 ぼくの腕を枕にして寝ていたニグーがモゾモゾとこちらに寝返りを打ち、薄目を開けて訊ねてきた。寝ぼけ眼でも、彼(彼女かもしれない)の瞳ははっとするような金色だ。彼の視線に絡めとられると、ぼくは急に、そのピアスが取るに足らないものに思えてきて、無造作にベッドサイドに放り投げてしまった。
「ピアスが壊れちゃったみたい」
「ふうん……じゃあ、私のをつけると良いですよ」
「え?」
「半分あげます」
 そうつぶやくなり彼はまた目を閉じてしまう。狸寝入りなのか、本当に寝てしまったのか、涼しげな面立ちのその顔からは読み取れない。そういう人だ、彼は。飄々として掴みどころがないが、どこか愛嬌があって、憎めない。
「きみはずるいなあ」
 夜はまだ明けない。

 

 友が死んだとき、その灰は海に撒いた。だからこの海が彼の墓だ。
 数ヶ月前までは、火葬も挙げられないまま放り出された感染者の遺体で、この浜辺一帯が腐臭で満ちていた。だが、波が寄せては返しているうちに、それすらもいずこかに行ってしまったらしい。だからいまは私一人だ。細かな泡の立つ波打ち際に裸足を浸すと、ひどく冷たくて、それがかえって鈍くなった私の神経系を洗った。
「次はいつここに来ることになるのか。十年後か、百年後か。新しい技術というのは、挙動がわからないだけに難儀するものだな」
 煤だらけの白衣が翻る。まるで鳥の羽のようだと思ったら、頭上でほんとうに鳥の鳴き声がして、真っ白な鳩が水平線の方に滑っていった。
「それでも……これからも、私は君の友だ。永遠に」
 小さくなって行く影の向こう、朝日が渺々たる波の彼方に昇る。光の領域が滅びた街の隅々に広がり、夜が後退していく。
 ……彼女の植えた花が育つ。私たちの守るこの星で
 私は、——ぼくは

 いまも彼女との約束を守っている。