2023/05/03

 

   流浪するジュムア

「赤ちゃんってどうしてこんなに可愛いのかしら」
 うっとりとしてそう呟くのはまりなだ。ウサギの耳のついた白い産衣を着せられ、つぶらな瞳で自分を抱く女を見上げる阿響を、たまらないとばかりに強く抱きしめる。阿響は泣きも喚きもせず、まりなの腕の中でおとなしくしている。
「ひとつだけ惜しいのは、この子に親弘の血が流れてるってことね。彼みたいな不良になったらどうしましょう。ね、阿響くん?」
「おいこら、だれが不良だって?」
 椰子編みのソファにどっかりと腰掛けた親弘が、口角をひくつかせながらまりなを睨む。彼が斜め読みしていた育児雑誌がローテーブルに軽く叩きつけられ、けばけばしい黄緑色のケーキを乗せた花柄の大皿や、すっかり汗をかいたアイスコーヒーのグラスなんかが危うく揺れる。
 まりなはすっかり涼しい顔で、あら、と反駁の準備を整えた。
「あなたのことに決まってるでしょ。清らかな彼女を早々に汚したばかりか、子どもまで孕ませたあなたのことよ」
「……お前もしかしてまだ怒ってんの?」
「怒ってないとでも思ってるの? わたしから彼女を奪っておいて」
「だから逆恨みだって何度も言ってんだろうが!」
 彼があまりに必死になるものだから、まりなは思わず声を上げて笑っていた。目の前の女が笑うのがおもしろいのか、阿響も一緒になって可憐に笑う。母親生写しの色素の薄い目がきゅっと細まるさまがなんとも愛らしい。
 紐暖簾をかき分け、ピサンゴレン、揚げバナナを持った小銀が応接間に入ってくる。親弘との二人目の子どもを妊娠している彼女はいよいよ臨月を迎え、ことさらにやつれた頬に、幸福の薔薇色を滲ませているさまが美しかった。だが、特にこうして家事のために動き回る際は、バティックワンピースを押し上げる腹を窮屈そうに持て余している。慌てて駆け寄ろうとして、阿響を抱えたままであることを思い出したまりなは、ダイニングから遅れて飛び出してきた若い青年の姿に目を見張った。浅黒く焼けた肌、短く整えた黒髪。現地人だ。晴れた夏の日の海を思わせる青い瞳と一瞬目があって、まりなは自分でもそうと気づかないうちに、喉の奥で短く悲鳴をあげていた。
「私がやります、小銀、あなたは座っていてください」
 流暢な日本語。青年は小銀からスマートに皿を奪ってしまうと、もう片手で彼女の繊細な手を取り、親弘の隣にゆっくりと座らせた。それから、どことなく居心地の悪そうな小銀に構わず、配膳を済ませると、彼は再びダイニングに引っ込んでしまう。
「小銀、あの人はどなた?」
 今日初めて二人の新居を訪れたまりなだ、知らない顔があって当然だった。彼女が本人に聞こえないようにと小声で尋ねると、小銀はまりなの大好きな微笑をもってそれに報いた。
「友人だ、この家のオーナー夫婦が雇った家政夫なんだが、二人の日本出向の間は私たちのもとに留まってくれることになった。親切だし、日本語も上手だから、特に今はとても助かっている」
「俺が何にもしてないってわけじゃねえんだぜ」妻の肩を大事そうに抱き寄せながら、親弘、「なんか手伝おうとしても、全部あいつが先回りしてんだ。おかげで俺はぐうたらするしか仕事がない」
「おまえにも、仕事、あるじゃないか。調査報告書の提出は済んだのか? 東南アジア学会セミナーの準備は?」
「あー……明日な、明日」
「昨日もそう言っていたが」
 闊達で破天荒な親弘も、新妻の前では途方もなく無力であるらしい。しおらしく肩を落として項垂れ……かと思えば、出し抜けに顔を上げて妻を振り返り、大きな幅のある声で抗弁した。
「そういうお前はどうなんだ、キョウに繕ってやるって言ってた服できたのかよ? 一ヶ月たっても上がってこねえじゃんか」
「うるさい、それとこれとは話が違う」
「だいたいおめえ、専業主婦のくせに家事がダメすぎなんだよ。洗濯機まで壊しやがって。かわいすぎんだろ、いい加減賠償請求すんぞ」
「私から金をせびったところで、財布の紐は同じだぞ。お前こそ、阿響の前でへらへらと締まりなく笑うのをやめろ、かっこよくて敵わない。このままでは生活に支障が出る」
「おうおう、やる気か? その腹で?」
「上等だ。表に出るがいい」
 飽きもせずにいちゃいちゃと。まりなはため息をつき、心なしか甘ったるい唾液を飲み下した。
 まりなとて、榊小銀に懸想していた身だ。彼女が別の男に種をつけられて産んだ子供を抱いて何も感じないわけがない。しかし、それ以上に、彼女はまりなの親友なのだ。淡白なように見えて、自分のことを二の次にしてしまうほど優しい小銀が幸福であることを、まりなは何よりも望んでいた。
 まりなは白樺に小さな桃色の花をペイントしたベビーベッドに阿響を寝かせると、揃ってソファから立ち上がり、庭に出ようとする二人を押しとどめる。
「親弘、やめなさい、彼女は身重なのよ。あなたもあなただわ小銀、いつまでも少女のような気分でいてはだめ。もうすぐ二人のお母さんになるのよ」
「邪魔すんなよなあ、いちゃついてんだからよお」
「いちゃつくならもっと平和的にお願いします。もう、父親がこんなで、阿響くんの将来が本当に心配だわ」
「心配すんな。俺がこんなだっても関係ねえ、キョウはいい子だ」
 一人息子に視線をやりながらそう呟く彼の横顔が、憑き物が取れたみたいにさわやかだったので、一瞬、まりなは呆れを忘れた。

 親弘のはからいで、女二人、レンテンアグンの近隣都市・デポックで夕食を摂ることになった。タクシーで三十分ほどの距離を南下すると、車やバイクでひどく混雑する通り沿いに、ガラス張りの一階部分と寄木細工を思わせる装飾が印象的なビルが見えてきた。ザ・マルゴホテル、この一帯では最も上等なホテルだ。その背後には、上に摘んでひねった布のような形の前衛的なオブジェを備えたマルゴシティ・ショッピングモールもある。
「マルゴシティには寿司屋もあるんだが、あまり日本的でないのがかえって面白いんだ。明日親弘たちと四人で行こう」
 窓に寄りかかり、暗くなりはじめた街に視線をやる彼女は、昼間とは打って変わって、黒いレースをスカート部分に用いた都会的なマタニティドレスに身を包んでいる。その細く骨ばった背を、つややかな赤毛が流れていくのが、岸壁に連なって花が咲いているようでとてもきれいだった。そうだね、頷いて、それとなく彼女の手を握ってみた。すべらかな手のひらの皮膚が吸い付くようだ。胸が熱くなった。
 美しい彼女は、それでも他の男の妻なのだ。まりなのものにはならない。
「まりな?」
「んふふ、甘えてみただけ。だめかしら?」
「仕方ないな……子どもがもう一人増えたみたいだ」
 笑いながらも、優しい彼女はまりなの手を振り払うことはしなかった。
 親友を全面的に信頼し、母のように甘やかしたり、娘のように甘えたりする彼女は、まりなが彼女に対して肉的な欲を抱いていると知らない。抱きしめたら折れそうな、肉の薄い肩をシートに押し付けて、舌まで蕩けるようなキスをしながらドレスの前を破いてしまいたいと、青い血管までがつまびらかに透き通る薄い皮膚を啄みながら、子を孕んで大きく膨らんだ乳房を揉み、潤んで濡れる膣に思うままに触れてみたいと、欲していることを知らない。知っていればきっとこんな顔で笑わない。手を握られて、平気でいられるわけがない。
 小銀は擦り寄るまりなの髪をプラトニックな愛情を湛えた手で撫でてくれた。ホテル前の噴水のそばでタクシーを降り、雨を燃した無数のクリスタルが光を反射して輝く絢爛なロビーを通り過ぎて、レストランのある三十階を目指してエレベーターに乗っている間も、繋いだ手を離さないでいてくれた。乗り合った西洋人の男性二人が、まりなと彼女について、恋人同士だろうかとフランス語で噂しているのを聴きながら(まりなは大学でフランス語を履修しているのだ)、絡めた指をより強く握った。
 レストランはMプール&ビストロという名前で、名のとおり、プールサイドにそのままレストランが併設された、変わった様式のところだった。カウンター席やソファ席、テーブルがなく大きなクッションだけが置かれた席、ビーチチェア席など、さまざまな形で食事ができるようになっている。プールはラグジュアリーな雰囲気のスパで、奥では小さな滝まで流れているが、泳いでいる人は誰もいない。ブルーグリーンのライトアップが水中からレストラン全体の空間をほのかに照らしている。
 二人は、デポックのにぎやかな夜景を望む窓のそばのテーブル席を選び、向かい合って座った。まりなはチャプチャイと呼ばれるインドネシア風八宝菜にナシゴレン、それからジャケットポテトと大胆な量を注文したが、食の細い小銀は蟹のサンドイッチに小さなサラダのみにとどめていた。
 もちろん、アルコールも欠かせない。初めは妊娠を理由に飲酒を遠慮していた小銀も、まりなが次々に飲むので少しくらいはと手を伸ばし、結局深酒している。インドネシアで広く流通するビンタンビールにバリ産のぶどうを用いて作られたハッテンワイン、食事が終わったあとはカウンター席に移動して各々好みのカクテルをオーダーした。まりなはジンデイジー、小銀はグランドスラム
「まりな、話を聞いてくれないか」
 まりなが細身のカクテルグラスを空にする頃、すっかり据わった目で、彼女はこう切り出した。
「親弘のことなんだが」
「どうしたの?」
「激しいんだ」
「何が」
「その、夜……」
 アルコールのためか、それともいじらしい羞恥のためか、目の縁を赤くしながら、まりなの目を直視できずに俯く小銀。
 全身の毛がよだつ。彼女の言わんとしていることを察知したその時、腹の中のものをみな嘔吐してしまわなかった自分を、まりなは心の底から褒めてやりたいと思った。ほどよく酩酊した彼女はそんなまりなの様子にも一向に見当がつかない様子で、相槌も待たずに話し続ける。
「安定期に入って、医者にセックスを許されてからもうほぼ毎晩だ、さすがにいれるのは遠慮しているみたいなんだが、その代わりとばかりに前戯だけで何度も何度も……このままでは身が持たない。気持ち良過ぎて死んでしまう」
 まりなはまだ二十歳を過ぎてまもない少女だ。同級生である小銀も、それは同じことのはず。
 しかし彼女はすでに男に破瓜を許し、あろうことかその子どもを孕んでさえいる。今も、まりなの知らないところで毎晩抱かれているのだという。そうした事実を改めて目の前に突きつけられて、まりなの胸に充満したのは恐怖と不安だった。親友が、男の芽を植え付けられて知らないものになってしまったのではないかという恐怖、そして、そのように感じる自分の頭がおかしいだけなのではないかという不安。
 まりなは処女だった。男に裸を見せたことも、身体を許したこともない。好意を抱いたことすらない。結婚するまで貞操を守ることこそが品性と、高校性教育ではじめて人間の発生を学んだ時から今に至るまで、変わることなく信じてきた。それが異質なのではないかと、次々に違う生き物になってゆく少女たちの中で、男と結婚するかもわからないまりなははぐれものになってしまうのかと、恐ろしかった。
「それで、どうしたらいいと思う?」
 アルコールがまわり、弱気になったらしい彼女の上目遣いがつややかだ。下瞼と目のさかい、ピンク色の粘膜が生々しい。この美しい親友を汚している親弘が憎い。羨ましい。地球上に、彼女と同じように男を知った女たちが満ちているのが悍ましい。彼女を愛している。ひくつく瞼の裏で、軟体の虫が蛍光色のたまごを産んでいる様が浮かんできた。
 まりなは自分がどんな顔をしているのかわかっていた。ひどい顔だ。
「そうね、夫婦なんだから、ちゃんと相談して、お互いの合意の上で方針を定めるべきよね、……」
「まりな?」
「ご、ごめんなさい、ちょっと、お手洗いに行ってくるわね。大丈夫、すぐ戻るから」
 よろけながら席を立ち、逃げるようにして化粧室に向かった。鏡に映るまりなの顔は真っ青だった。首の後ろで結い上げた黒髪、黒い目、コバルトブルーのハイネックドレス。一般的な東洋人の女の姿。震える手で口紅を塗り直し、鏡に笑いかける。それが自分の実像であるという確信が湧かない。知らない人と向かい合っているみたいだ。
 化粧室にいたのは五分足らずのことだったかもしれないし、三十分はそうしていたかもしれない。ドアを押し開けて廊下に出た瞬間、パンプスのヒールが折れる嫌な音がして、次にまばたきをした時にはもう身体が傾いていた。何か漠然とした、諦めのようなものが頭をよぎる。何者かに受け止められたような気がしたところで意識が途切れた。

 朝のさわやかな風に吹かれ、レースカーテンが音もなく翻る。タイル模様の天井に、薄い硝子窓で屈折した七色の光が散り、それが眠るまりなの瞼にも眩しく反射する。
 自分の部屋ではなく、親友とその夫の、異国の家で目を覚ましたことを悟ったまりなは、起き抜けのおぼつかない思考を持て余しながら半身を起こした。ドレスを着ていたはずの身体はやわらかい絹のパジャマに包まれ、解かれた髪はさらさらと肩に落ちてくる。シーツの中の素足は暖かくて気持ちが良い。どことなく上機嫌に伸びをしようとしたまりなは、ふと、スツールに座り、ベッドの淵に顔を突っ伏して寝ている若い男の姿に悲鳴をあげた。
「あ、あ、あなた!」
「ん……おはようございます」
 むくりと起き上がり、眩しそうにしばしばと瞬きを繰り返す青い目。焼けた肌。間違いない、昨日小銀に紹介された家政夫の男だ。
 まりなの鼻先をいやな想像が次々に現れては消える。小銀の相談に参りに参った自分は、ここに帰ってきて、酔ったところをこの男に連れ込まれたのではないか。それとも、錯乱の末に自分が連れ込んだのか。ドレスを脱がせ、パジャマを着替えさせたのはこの男なのではないか。髪が解けているのはこの男に組み敷かれたからではないのか。
 彫りの深い精悍な顔で、彼は安心した様子で微笑んだ。まなじりが緩む様子がどことなく無防備だ。
「ああ……ごめんなさい。昨日、あなたをここに寝かせたとき、一緒になって眠ってしまったようです。具合はいかがですか?」
 なんの毒気もなくそう聞いてくるので、思わず首を縦に振ってしまう。
「それはよかった。では、朝食をお作りしましょう」
「待って。どうしてあなたがここにいたの?」
「覚えていないのですか? あなたがトイレの前で倒れたとき、私は、小銀の要請を受けてあのホテルにいたんです。あなたは意識がなかった上に、とても顔色が悪かった。そこで、私と小銀はあなたを連れて、タクシーでこの家に戻ってきたんです」
「それについてはありがとう。でも、私が聞きたいのはそんなことじゃないの」張り上げる声は、意図せず鋭いものになってしまう。「どうして私の部屋で寝てしまうようなことがあるの? あなたはこの部屋で何をしていたの?」
 まりなの問いに、彼はわずかにたじろいだ。怜悧な青い瞳が困惑に揺れる。
 居心地の悪い静けさが二人の上に降りてくる。車のクラクションの音や、狭い隙間を風が通り抜ける笛のような音、草木が擦れる音などが、その間に断続的に差し挟まる。彼は視線を自らの膝の上にやり、まりなは息を潜めて相手の出方を窺う。背中を冷や汗が流れる感覚がある。やがて、意を決した様子で、彼はおずおずと口を開いた。
「……昨晩、あなたをこの部屋の運んでからずっと、あなたの寝ている顔を見ていました」
 彼の言葉の意味をすぐに理解できなかった。呆気にとられるまりなの目の前で、彼は居心地が悪そうに俯く。
「わたしの?」
「はい」
 ふいに、こちらを強く見据えた青い目が外からの光に強くきらめいて、眩しさのあまりまりなは目をすがめた。
「きれいだったので」

 品行方正、謹厳実直な委員長。クラスのヒロイン。周囲からの吉野まりなの評価といったら、おおむねそんなところだ。
 だが今ナシゴレンをかきこむ彼女の姿といったら凄まじかった。天敵の追随を逃れて疾走する動物の形相だった。床に寝そべり、阿響を赤いビュイックのおもちゃで遊ばせていた親弘が、何も聞けずに引き攣った笑顔になる。分厚い赤ちゃん命名辞典を真剣な顔つきでめくる小銀だけが、この異様な空気の中で平然としている。
(落ち着いてまりな、これは罠よ)銀のカトラリーを強く握りしめながら、彼女は自分を必死に宥めた。(この胸のざわざわとした感じは、間違いなく嫌悪感、そうよ。あんなセリフを平然と吐くなんて、あの人頭がおかしいんだわ)
 だが思考は小川から大雨の後の濁流になり、波にもまれ岩にぶつかり、あらぬ方向へと流されてゆくのだった。あの家政夫は、もしかしてまりなのことが好きなのではないか。まりなの帰国まであと三日ほど時間があるが、その間に、愛の告白を受けてうっかり恋人同士になってしまうのではないか。そうしたら、あの美しい青い目に見つめられて、キスをしたり、密着して身体を触り合ったり……上背のある彼は、きっとシャツの中に逞しい肉体を隠しているのだ、それに触れて、くすぐりあったりなんてして、それから……
「そりゃねえよ」
 出し抜けに後ろから男の声が降ってきて、まりなは悲鳴をあげた。
 阿響を片腕に抱いた親弘が、にやにやと意地悪く口角を上げながらこちらを見下ろしていた。にわかに鼻先に熱が集まってくる。狼狽えながら、呂律もろくにまわらない舌でどうにか言葉を吐き出す。
「な、んで……わ、わ、わたし、声に出てた?」
「いや。でも考えてることなんとなくわかるぜ、あいつ、デヴァンのことだろ?」
 フォークに突き刺した小エビを口に入れたまま、まりなは真っ赤になって黙り込んでしまう。
「図星かよ。俺としちゃ喜ばしい限りだが、あいつ、奥さまにお熱だからな」
「奥さま?」
「人妻だよ、もう十年来の片思いだ」
 親弘の節くれだった人差し指が、木のシェルフの上に慎ましく置かれた小さな写真立てを示した。
 フォークを置いて椅子から立ち上がり、もうところどころ色の抜けたその写真を覗き込んだ。まりなと同じくらいの年頃の、桃色のワンピースを着た女が、現地人らしい少年を抱いて柔らかく微笑していた。少年は病的に痩せほそり、頬はこけ、手足も骨が浮いていたが、女に寄り添って幸福そうだった。浅黒く焼けた顔の中で青い目がばかりがきらきらと輝いていた。
 聞かずともすぐにわかる。彼は、まりなの寝顔をきれいだと言って笑った、あの青年だ。
「旦那と仲良いし、間違いなんか起こりようもないんだからいい加減諦めろって言うんだけどな。そんなんじゃねえって聞く耳もたねんだ。バカだよ、あいつも、お前も」
「理屈じゃ納得のいかないことだってあるわ。恋は特に……ってあなた、なんでわたしもその中に入れるのよ」
「好きなんだろ、小銀のこと」
「……」
 驚き、呆気に取られ……慌てて弁明しようと口を開いたまりなを、あっさりと、曇りのない笑顔でさえぎりながら、彼は首を逸らして向こうに座る彼の妻を見た。
 小銀は、ソファの腕かけに寄りかかって頬杖をつき、脚を揃えた格好で、女の子の名前一覧に静かにまなざしをむけていた。集中のあまり薄い唇はほのかに開かれ、その上にうっすらと微笑の像が結ばれていた。伸びた赤毛が俯く彼女の背や肩や腕のほうに流れ、そこに透けた太陽の光が、白い肌に華やかな色のもやを落としている。作りもののような鼻梁、頬、細い手足、華奢な首。冷たい美貌。まりなは無性に泣きたくなった。白くにごった男の精液で膣を汚されてもなお、彼女はこんなにもきれいで、そしてまりなは彼女のことが大好きだった。品性がそのまま人間の美しさにつながるのだというまりなの無心の信仰を、彼女はその存在一つでめちゃくちゃにしてしまう。
「知っていて何も言わなかったの?」
「言うほうが変じゃねえかよ」
「わたしが……彼女の心を奪ってしまうかもしれないとは思わないの? 彼女と阿響くんをさらって逃げてしまうかもしれないって、考えなかったの?」
「あいつは俺なしじゃ生きていけねえし、俺に興味のないあいつを、お前は好きになれねえ」小銀に視線をやったまま、不自然なほど優しく、甘ったるい声で、親弘はつぶやいた。「俺が、そういうふうにしたからな」
「あなた、最低よ」
「世の中そういうもんだろ」
 涼しい顔でのたまう彼の鼻を、赤のビュイックが強打した。阿響だ。なんの他意も悪意もない攻撃で彼は激しく鼻血を出して男前を台無しにし、まりなも、そこでようやく長年の溜飲を下すに至った。

 まりなにあてがわれたのは二階の客間だが、その隣は夫婦の寝室として使われている部屋で、耳をすませば細かい会話の内容からものがぶつかる音までつまびらかに把握することができた。そのために、眠ろうと目を閉じてから睡眠に入るまでのあいだ、視覚以外の五感に意識が集中するタイミングで、それまで喧嘩するみたいに戯れあっていた夫婦の間に妙な静けさが降りるのを、まりなは確かに知覚してしまった。二人分の体重を支えてスプリングが軋む音、熱っぽく鼻にかかった吐息。何もかもがあまりにも薄く、冷たくできているような彼女の、あえやかな悲鳴。躊躇いがちに名前を呼ぶ声、詰めた息遣いが語尾でもみ消され、きっと……キスを、している。そう……、嫉妬と恐怖にすっかり堪えて、まりなは音を立てないようにそっとベッドを脱げ出した。
 吹き抜けの階段から応接間に降りたまりなは、蝋燭のかすかな光の中、ソファに腰掛け、昼の間小銀が熱心に読んでいた命名辞典をめくる彼を見た。彼はリラックスした雰囲気の黒の開襟シャツを身につけ、気だるげに髪をかき上げながらページをめくっていた。空いた襟ぐりからたくましく張り詰めた胸筋を目にし、慌てて視線を外したが、その拍子に階段から足を踏み外しそうになって、まりなは慌てた。彼がさっと顔を上げる。
「ああ……まりなさん」
「邪魔してごめんね。ええと、何を読んでいるの?」
「日本人の赤ちゃんの名前がたくさん載っている本です」彼は、どことなくてれた様子で、おもたそうなハードカバーを持ち上げてみせた。「名前は、独特な読み方をする漢字が多いので勉強になります。まりなさんは?」
「眠れないから、外に散歩にでも行こうかと思ったの」
 まりなが言うと、彼はそれと知れないほど薄く微笑して表紙を閉じた。
「私も行きます。夜のレンテンアグンは、少し危険なので」
 三日月の明るい夜だった。気温はこの時期にしては低めだが湿度があり、歩けばすぐに汗をかくだろうと思われた。日本の田舎で聞くような虫の鳴き声、いまだに道路を埋め尽くしているだろう車のクラクション、すぐそばを流れる小川のせせらぎ。さまざまな音で満ちているというのに、どうしてか、耳が痛くなるほど静かだと感じていた。隣で歩く彼の心臓の音が聞こえるかも知れないと思うほどに。
 はじめは一歩後ろを歩いていた彼だが、まりなが路地の奥へ奥へと歩いていくにつれて距離を詰め、最後には五本の指でしっかりと左手を握られていた。奇妙なことに、まりなもそれを当然のように思い、二人は恋人同士のように手を繋いで歩いた。
「親弘って、よく考えれば変な読み方するわよね」
 まりなが言うと、彼も控えめに首肯し、答える。
「親は、ちかとは読まないですね、普通」
「ええ、でも小銀はもっと不思議な名前。どうしてそんな名前になったのかしら」
「お母さまが銀と書いてしろと読む少し変わったお名前だったそうです。そんな彼女から生まれた小児なので、小銀。名付け親はお父さまと」
「何それ」
 二人して顔を見合わせ、笑う。
「ねえ……あなたが好きな女性って、どんなひとなの?」
「そうですね。とても頭の良い、優しい女性だと思います。私のようなものにも分け隔てなく接してくださる……それなのに、とても手の届かない人です」
「わかるわ。物理的に距離が近くても、心が届くことは決してないの。理不尽よ。ほんの少し見つけるのが遅かった、ただそれだけなのに」
「あなたも、叶わない恋をしているんですね」
 彼の言葉に、まりなは曖昧に首を振った。「どうかしら……本当は恋ですらないかもしれないわ。ちっぽけで醜い執着かもしれない」
「あなたはとてもきれいです」
「ありがとう。ねえ……」
 まりなはサンダルの足を止め、彼を振り仰いだ。彼の青い目に見つめられると、周囲の情報が一切意味のないものになって、静かに遠ざかってゆくような気がした。隔離されてゆくような気がした。人は日常を一瞬で通り過ぎる。全て夢のようだ、小銀のことも、親弘のことも、彼のことも。
 抱きついても彼は抵抗しない。まりなの、細い女の腕のなすがままにされている。
「わたしたち、どこまで行けるかしら」
「まりなさん」
「連れて行って。逃げ出してしまいましょうよ。このままだとわたしもあなたも、すっかり気が狂って、一番好きな人を殺してしまうわ。そうね、あの月はどう、月に行って、陽の当たらない冷たくて暗いところにずっといるの……」
「どこへだって行けます」
 冴え冴えと青く、静かな声で彼が言った。腰に腕を回され、強く、抱きしめられて泣きたくなった。

 逃避行が実行されることはなかった。夜の町を響き渡る阿響の泣き声に弾かれたようになって、反射的に足をそちらに差し向け、結局、二人は帰宅した。
 夫婦の寝室は、破水しうずくまる小銀と、慌てる親弘、両親の異様な雰囲気に泣き叫ぶ阿響とで、実に混沌としていた。彼がすぐに小銀に駆け寄ってベッドに横たわらせ、まりなは阿響を抱き上げて優しくあやしてなだめた。何の役にも立たない親弘に発破をかけ、入院に必要な諸々の荷物を整えて夫婦を外に送り出した。小銀が落ちついた後には、彼はあり合わせのもので弁当を作って荷物に紛れ込ませていた。
「それじゃ、阿響くんはこちらで預かっているから。小銀をよろしくね」
 明け方、運転席で左ハンドルを握る親弘は、二度目の出産なだけあって少しばかりの余裕を残しているようだった。汗まみれの顔で頷き、笑顔すら寄越してみせた。
「まかせろ」
「事故にも気をつけて。慌ててはだめ、冷静に運転するのよ」
「わかってるって」
 親弘が諸書類の最終確認を行なっている間、後部座席の小銀にも声をかけた。彼女はただでさえ白い顔色をさらに真っ青にしながらも、期待と興奮で頬ばかり紅潮させていた。まりなが窓の中に手を入れると、彼女の震える指がそれを捕まえ、強く握り返してきた。
「小銀」
「まりな……」
 彼女は何か言いたげに唇をもぞつかせたが、結局何も言葉にならずに沈黙した。不安そうな目が見上げてくる。まりなはそんな彼女を安心させたくて、結んだ唇をほどき、つとめて優しく笑いかけてみせた。
「気をつけて」
 小銀も、うっすらと微笑した。
 親弘がレバーをドライブに入れる。まりなが腕をひくと、車は早急に走り出した。小銀の姿ももすぐに見えなくなった。道の向こうに車のテールランプが小さくなってゆくのに伴い、まりなも、何もかもから遠ざかってゆく。小銀、親弘。愛、執着、嫉妬、恐怖。永遠の夢が一瞬のうちに塵となって消え去ったあと、途方に暮れた心はおもいのほか静かだった。みるみるうちに滲む涙を手の甲で拭って、ため息、その時不意にもう片方の手を握られて、すぐそばに彼がいたことを知った。
 横のほうから、豊かに茂った枝葉をくぐりぬけて、白っぽい太陽の光がしんしんしんと差し込んでくる。
 こうして、まりなの恋はようやく終わった。