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   ファム・ファタール

 

 ジョニーは今まさに身繕いを終えるところだ。まだしっとりと湿った上半身を、下ろし立てのシャツで包んでしまえば出来上がりだ。のんびり屋の祖母が通院の予定を思い出してから今に至るまでの二十分の間に、彼は実に迅速かつ手際よく自らの身なりを整えてきた。シャワーを浴び、バスタオルで身体を吹くのもそこそこにドライヤーをセットして髪を乾かし、グリースで後ろに撫で付けた。洗面台横のガラス棚から迷いなくアトラス社のオーデコロンを選び、手首と腹にそれぞれ一吹きずつふりかけた。若いセコイアのような長い足は黒のパンツでエレガントに引き締め、腰回りはレザーのリングベルトで飾った。
 彼はハンガーからシャツを外す前に、姿見の前にやってきて一度自分の身体の隅々までを検分した。十九歳の青年の輪郭はたくましく、磨かれたばかりの鉱石さながらの重々しさと鋭さに漲っていた。剥き出しになった体幹はよくなめした革を張ったように滑らかで美しい筋骨に覆われ、軽く動かすと鞭のごとくよく撓る。覗き込んだ顔はラテン民族らしいエキゾチックな魅力に満ち溢れ、特に少し垂れたまなじりなどは、彼という人間の印象をやさしく柔和なものにした。有り体に言って、彼は魅力的な男だった。
 皮膚にニキビひとつないことを確認すると、彼は満足し、ようやくシャツに手を伸ばして袖を通した。糊の効いた真っ白なオックスフォード生地は、彼の雄牛のような肉体の凹凸によく馴染んだ。最後に再び棚を開け、お気に入りのスポーツウォッチを左手首に嵌めて、鏡の中の自分に向かってウインクする。それで支度はおしまいだ。
「ジョニー、ジョニー」
 階下から、ようやく重い腰を上げたらしい祖母の呼ぶ声がする。
 彼はゆったりとバスルームを出て、長身を縮めるようにしながら狭い階段を降りた。祖母はソファの上で彼女の手提げの中身を確認していた。
「おばあちゃん。準備はできてるよ。なにか手伝うことはある?」
「いつもありがとう。それじゃあ、部屋から杖を取ってきてくれるかしら」
 祖母はこの数年で急に老いて、最近では杖がなければ数十歩歩くこともままならないほどだった。ジョニーがこの家に滞在するのは毎年夏季休暇の間に限るが、大学に進学し、春季休暇の期間も伸びた分もっと顔を出してやらなければ、と彼は思っていた。
 帽子を被り、杖を右手に収めた祖母を伴って彼は家を出た。
 外はすっかり夏の陽気だ。海から吹く湿った風に、オリーブの硬い葉がそよぐ。青以外の色を漉してしまったかのような空には雲ひとつない。ゆるやかな下り坂を覆う煉瓦は陽気に焼かれてすっかり乾燥していたし、高草の茂みは手がつけられないほど伸び切ってしまっている。彼はたまらずサングラスをかけ、日傘をさして祖母の方に傾けた。
 モンレアーレの街から、祖母のかかりつけがあるパレルモまではプルマンという長距離バスで移動する。チケットを切り、冷房の効いた車内に乗り込んだ彼は、やっと人心ついた気分でため息をついた。プルマンは二人を乗せるとすぐに発車し、祖母は揺られて五分もしないうちにジョニーの肩で眠りについた。彼は唯一の話し相手を失い、すぐに退屈した。窓に額をピッタリとくっつけ、代わり映えのない田舎の景色を眺める。
 モンレアーレでの日々は相変わらず退屈だ。刺激に欠けていた。到着してからしばらくのうちは、一年ご無沙汰していた近所の住民に挨拶をしたり、パレルモやチェファルーに足を伸ばして土産物を買い込んだりしたものだが、それにもすぐに飽きがやってきた。大学の友人たちはみな夏の道楽に忙しく、電話をかけてももっぱら留守番電話につながった。街を歩くおしゃれな女の子たちに声を掛けることもなかった。女の子たちの方では、ハンサムな彼を振り返り噂話の一つや二つたち起こることも珍しくなかったのだが、彼自身が純朴な質であるせいで、見ず知らずの異性をデートに誘うなんて発想にそもそも至らないのだった。きちんとした出会い、きちんとした交流を経てやっとデートなり食事なりに誘うことができるのだ、本気でそう思っていた。結局、彼の無聊の慰めは、友人のパラドックスに会いに行くことくらいにとどまった。
 パラドックスは祖母が通う診療所の息子で、地元の大学に通う医学生だ。気難しく、怒りん坊で、疑問や不満があるとむっつり黙り込んでしまう難儀なやつだが、努力に裏付けられた秀才で、こと医学に対しては誰よりも真摯だった。なにより、どんなに忙しくても顔を出せば手を止めて話を聞いてくれる彼の生真面目でお人好しなところをジョニーはとても気に入っていた。
 今日は土曜日。多忙な医学生といえども、休日くらいは羽を休めたいものだろう。祖母が検診を受けている間、彼をジェラテリアに誘って日頃のよしなしごとを聞いてもらおう。そうして、もし彼にも不満や鬱憤が溜まっていたら、仕方がないから聞いて慰めてあげよう。ジョニーはそう思っていた。いたのだが。
「悪いけど、息子は今日外に出ていてね」
 世話になっている祖母のかかりつけ医、パラドックスの父親のそんな一言で、ジョニーのその日の予定はみんな白紙になってしまった。彼は一人パレルモの雑踏に放り出されることとなった。
 パラドックスは退屈している友を放って一体何をしているのだろう。拗ねて唇を尖らせながら、観光客でごった返すマクエダ通りを手持ち無沙汰に歩く。ロマネスクの色を強く残した宝石のような街並みも、活気あふれる市場も、荘厳たる大聖堂、快く蹄鉄を響かせる馬車も見古してしまって新鮮味がなく、それが輪をかけてジョニーを面白くない気分にさせた。露店で牛の肺バーガーを買ったが、暑さもあいまって口の中でパサつくのですぐに飽きてしまう。
 なんて災難な日なんだ、ジョニーはため息をつく。だが、のちの彼は、今日という日を振り返ってこんなふうに言うようになる……「運命の日だ。僕という人間が生まれた、人生二度目の誕生日だ」。
 あてもなく、だらだらと歩いていると、不意に目の前の人垣がふっとひらけたような感じがした。感じがしただけで、実際には錯覚だったのかもしれないが、ともかく、そのときのジョニーはそんなふうに思った。その中から、一人の女の子が、ジョニーの前に躍り出た。かと思えば、石畳の欠けた部分にサンダルのつま先を引っ掛け、こちらに向かって勢いよく倒れ込んできた。
 ジョニーは思わず、彼女のことを胸に受け止めていた。
 彼女のつむじから、ふわりと花の香りが漂う。柔らかい肉の重みが、ジョニーの上半身に緩やかにかかる。
 抱き止めようとして背中に触れたとき、その身体があまりにも薄っぺらいことに気づいて、何か触れてはいけないものに触れてしまったときの罪悪感が彼の胸にのぼった。肩身ひとつ取っても、ジョニーより一回りも二回りも華奢だった。だから彼はそのままの姿勢で、女の子が自分から立ち上がるまで待った。果たして、彼女はたっぷり五秒の後にジョニーの胸から小さな頭を上げた。その、自分を見上げてくる彼女の顔を見て、ジョニーは今まで体験したことのない奇妙な感覚に囚われた。
 彼女はとてもきれいな女の子だった。ジョニーはまず、優美な青色を湛える二つの虹彩に目を奪われた。それらは小さな海をそのまま瞳の空間に映し取ったかのように深く、透き通っていて、夏の強い日光を浴びると星の光度できらめいた。瞳に吸い込まれていたジョニーの意識はやがて拡散し、彼女の小さな顔や、細っこい身体全体に及んだ。青白い瞼はくっきりとした二重と長いまつげに縁取られ、鼻はつんとすましていて、唇はまるで水辺にほころぶ桃色の花弁のように薄く、繊細な血色に色づいている。濡羽色の艶やかな髪が編まれて肩のほうに流してあるのが清楚だった。丸い顎から細い首筋へかけては特に透き通るほどに白く、その色は快晴の日の満月の輝きを思わせた。黄色い小花を散らしたワンピースから伸びた手足も細くて、思わず折ってみたくなるほどだった。何もかもが精巧な人形のように上品で、小さく、可愛らしくて、爪でこづいただけでも壊れてしまいそうに見えた。
 ジョニーは彼女に見惚れた。喉は呼吸を忘れ、心臓ですら鼓動を打つことを忘れた。
 女の子はしばらくぼんやりとジョニーを見上げていたが、いくつかの瞬きのあと、慌てて立ち上がりジョニーから離れた。すっかり狼狽えた様子で頭を下げられ、ジョニーの方にもようやく正常な思考が戻ってくる。
「受け止めてくださり、ありがとうございます」
 訛りも淀みもない、美しいキングスイングリッシュだった。ジョニーも、夏の間に遠ざかりかけた英語語彙を引き摺り出して彼女に応える。
「気にしないで。怪我はない?」
「はい、おかげさまで」
「それはよかった。でも、なんだってあんなに急いでいたんだい?」
 ジョニーがそう尋ねると、彼女はにわかに顔を赤くし、口籠った。所在なさげにおさげの結び目を触りながら、視線を足先に泳がせる。
「その……実は、家族と逸れて迷子になってしまったんです」
 十七にもなって、恥ずかしいですよね、仕方なさそうに微笑む彼女はボッティチェッリの絵画よりずっと可憐だ。
 マクエダ通りは、比較的開けた明快な道路になっているが、そこから一、二本裏に入れば旧市街の複雑な迷路が待ち受けている。彼女は地元の人間というふうでもないし、一人で歩けば迷ってしまうのも仕方がないだろう。
「そうだな、もしよかったら、僕も一緒に君の家族を探してもいいかな。きっと、君のガイドがわりくらいにはなれると思うんだ」
 それは困っている女の子を放っておけないというおせっかい心や、ジョニーがいま現在非常に退屈しているということに起因する決断ではあったが、何より、彼は彼女の手を今離してしまうにはあまりにも惜しいと考えていた。彼女ともっと話したい、彼女のことをもっと知りたい、わけもなく湧き上がってくる感情にジョニーの奥手な部分は簡単に押し流されてしまったのだった。
「本当ですか! よろしくお願いします!」
 女の子は嬉しそうにジョニーの手を握り、「……あっ」すぐに自らの大胆な行為に気づき、恥じらって指を解いた。
「ごめんなさい。でも、とても嬉しいです。地図も標識も読めなくて、どうしたらいいものかと途方に暮れていたので……」
「そういうことなら任せて。きっと君を家族のもとに送り届けるよ」
「頼もしい。ありがとうございます」
「僕はジョニー。君の名前を聞いても良い?」
 彼女は慎ましくはにかみ、
「百合子といいます。不動百合子です」

 果たして、百合子の家族はマクエダ通りから一本外れた大通り、ローマ通りの群衆の中から見つかった。
 彼らは食いしん坊の末娘が食べ物の匂いに釣られたのではないかと飲食店の集まるエリアを訪ね歩いていた。最初にこちらに気がついたのは、ジョニーと同じくらいの歳の頃の青年だった。線の細い妹とは対照的に、男らしくがっしりとした身体つきをしていたが、青みがかった瞳の色やいやらしいところのない清純な顔立ちは彼女に生写しだった。彼は行き交う人々の間を器用にすり抜け、短く切り揃えた黒髪をくしゃくしゃにしながらこちらにやってきた。
「百合子!」
「遊星兄さん……!」
 ジョニーの元を離れ、転がるように走り出した彼女を、青年は強く抱きしめる。「よかった。一体どこに行ってたんだ、心配したじゃないか」
「ごめんなさい。人混みに流されて、迷子になってしまったんです。でも、あちらの彼が案内してくれて」
 彼らが操る異国の言語はジョニーには馴染みのないものだったが、青年が百合子の頬を優しく撫でるのを見て、彼こそが百合子が探していた家族の一人なのだとすぐに勘づいた。
 青年は百合子の合図で背後に控えたジョニーの存在に気づき、軽く頭を下げた。お互いに手を差し伸べて握手をする。彼の手のひらは分厚く、ところどころにできた豆が硬く盛り上がっていた。
「不動遊星だ。妹を案内してくれたんだってな、ありがとう」
「ジョニー・ボレッリです。どういたしまして。お役に立ててよかったよ」
「礼になるかはわからないが、そこで買ったマジパンがあるからもらってくれ。それじゃあ、俺たちはこれで」
「あっ」
 遊星はジョニーの手のひらにマジパンのパッケージを手渡すと、もう一度頭を下げ、妹の肩を抱いてくるりとこちらに背を向けた。人混みの向こうに、兄妹とそっくりな男女が寄り添いながら二人を待っているのが見えた。百合子が首だけで振り返り、小さく手を振ってくれる。彼女の名前を呼んで引き留めようか、そんなことを悩んでいるうちに、兄妹は人混みに紛れ、やがて見えなくなった。

 それからほどなくして、検診が終わったと連絡があり、ジョニーは診療所に祖母を迎えに戻った。
 帰りのプルマンの中でも、彼は手持ち無沙汰だった。その間、今日出会ったあの女の子のことを考えた。美しく、気立の良さそうな人だった。ユリコ・フドウ、不動百合子。どんな子なのだろう。どこから、何のためにパレルモにやってきたのだろう。何が好きで、何が嫌いなのだろう。そんなことを考えているうちに、ジョニーの頭の中は彼女のことでいっぱいになってしまった。
 プルマンがモンレアーレに到着し、傾き始めた西日の中で家路を急ぐ間も、また家に着いて、キッチンにて忙しく鍋をかき混ぜている間も、ジョニーは彼女のことばかり考えていた。おかげでリゾットは底が焦げてカリカリになってしまった。心配する祖母にマジパンの包みを押し付け、ベッドに潜り込んでも、彼は百合子の面影を瞼の裏から消し去ることができないでいた。

「私は君の惚気を聞くために呼ばれたのかね、要するに」
「惚気じゃないよ。あの子は別に僕の恋人ってわけじゃないもの……」
 ジョニーの重たいため息は、エスプレッソのまろやかな黒色の中にゆっくりと沈んでいく。
 パラドックスは、思い悩む友人のことなんか存ぜぬといった顔で、生クリームをたっぷり浮かべたアイスココアを啜りながら、もう片手でダ・ヴィンチの解剖手稿図鑑をめくっている。
「恋愛話も惚気話もそう変わらん。大体なんなのだ、そうウジウジと、思い悩むくらいならさっさと逢引の一つでも取り付けてしまえ」
「連絡先聞くの忘れちゃったんだよ。名前しか知らないんだ。どこに住んでるのか、何のためにパレルモに来たのか、そもそもまだこの国にいるのかすらわからないんだ」「大敗北ではないか」
 初めのうちは真面目に話を聞いていてくれたはずのこの友人も、一時間超に渡るジョニーの泣き言にほとほと辟易しているようだった。先ほどから受け答えが雑になってきているのは、決して気のせいではないだろう。
 ジョニーは……あれからどうしても彼女、百合子のことが忘れられず、この数日の間に何度もパレルモを訪れていた。町中を走り回り、主要な観光地や公共施設、ホテルなどを手がかりもなく探したが、彼女やその兄の姿を見ることはついぞなかった。そういうわけで、友の力を借りようとカフェテリアに誘ったのだが、当然、何か情報が得られるはずもない。憂鬱と、生クリームココアの請求書だけがテーブルに山積していくばかりだ。
「だいたい、君は奥手すぎるのだよ。兄ともども食事に誘うなりすればよかったものを」
 パラドックスはなんでもない風にそんなことを言う。彼女いたことないくせに……呟けば、切長の目に鋭く睨まれた。
「初対面でも、誘って良いものかなあ」
「今回の場合は特に問題はなかろう」
「うん、じゃあ頑張って誘ってみる。ついでにもう一回探しに行ってみる」
「そうしたまえ」
 ジョニーは勢いよく席を立ち、元気よく店を出た。窓の向こうでパラドックスが仕方なさそうに肩をすくめているのが見える。
 二人の気に入りのカフェテリアはトリノ通りの終わりごろにあって、ジョニーはその裏を左に曲がることで百合子が家族と落ち合ったローマ通りに入った。夕方になり、人も車もまばらになってきた大通りを緩慢な足取りで歩く。やがて見慣れた十字路に出たところでふと思い立って、彼は少し寄り道をすることにした。
 棕櫚の木の立ち並ぶ細い路地を渡る。その、表通りとは異なる意趣の雰囲気に、ジョニーの胸はだんだんと高鳴ってきた。なんだか本当に彼女と再会できてしまう気がする。そしてこうした予感は、しばしば現実となって彼の前に現れるのだ。
 路地を抜け、少し開けた教会前広場に出ると、右手側に小さなレストランがあることに気がついた。由緒ある館の一角を改装して作られたもので、広場に迫り出す形でオープンテラスが設けられている。その、テラス席の一つに、上品なコバルトブルーのショートドレスを着てちょこんと座っている百合子の姿を、彼は見た。
 テーブルを挟んで向かいには、同じ色のタイをソフィスティケートに締めた遊星、それから二人の隣にそれぞれ彼らの両親が座っている。四人はイワシのパスタを分け合いながら、ゆったりと、和やかに談笑していた。テーブルの左右に配置された蝋燭が、この麗しく暖かな家族の様子をやさしく照らしている。ジョニーは息を詰めてその姿を眺めた。
 会いたい会いたいと気持ちばかりはやらせて、実際彼女を前にしたとき、どんなふうに声をかければいいのか、ジョニーにはわからなかった。彼女のこととなると、ジョニーはどうにもおかしくなってしまうのだった。十九年の間蓄積してきた知識や経験は、恋の前には何の役にも立たない無用の長物と化すのだった。
「ジョニー?」
 だから、彼女がふとこちらに気づいて、名前を呼んでくれたとき、ジョニーはあまりにもうれしくて、思わず泣きそうになるほどだった。
「ジョニーですよね? こんなところで会えるなんて」
「奇遇だね。こんばんは、百合子」
 ちっとも奇遇じゃない。ずっと探していたのだ。
「こんばんは。ねえ、どうかこちらにいらしてくださいな」
 立ちあがろうと腰を浮かせたものの、都雅な彼女は食事の席を離れることができず、結局ジョニーを家族の食卓に手招いた。四人の興味を一身に集め、萎縮しながらも、ジョニーは百合子のそばに近づく。
 彼女はジョニーの腕に軽く触れながら、彼女の家族に視線を配った。
「おとうさん、おかあさん、紹介しますね。こちらの方が、先日迷っていた私を案内してくれたジョニーです」
「これはこれは、ご親切に、どうもありがとう。娘がお世話になりました。立ち話もなんだし、よかったら一緒に食べて行かないかい?」
 遊星にそっくりな顔立ちににこやかな笑顔を浮かべ、使われていない端の席を示したのは兄妹の父親だ。気さくな雰囲気だが、のりの効いたワイシャツを着こなす姿にはどこか格調があった。
 ジョニーが彼の誘いに甘えて席に着くと、ウエイターがやってきてよく磨かれた銀のカトラリーを置いて行った。ちょうど左側に座っている遊星がこちらに身を乗り出し、ジョニーに手のひらを差し出した。
「また会えて嬉しいぞ、ジョニー」
「遊星、ありがとう。僕もだよ」
 再び握手をする。
「ジョニーさん、パスタはお好き? どんどん食べてね、この人ったら、調子に乗ってたくさん頼みすぎたのよ」そう言ってため息をつくのは、遊星の隣に座る彼らの母親だ。小柄で、駒鳥のような可愛らしい雰囲気の人だった。向かいの父親へしかたなさそうに視線を流したかと思えば、ジョニーの取り皿に大量のパスタを盛って寄越してくる。
「ありがとうございます、大好きです。いただきます」
「無理しないでくださいね」
 右側の百合子が、一生懸命上半身を伸ばしてジョニーの耳元にそう囁いた。健気で愛らしい気遣いに、心臓が変な鳴り方をする。
 その後、母親が嘆いたとおりに、大量のシチリア料理と、上等そうなワイン瓶が二本も運ばれてきた。
「百合子はあれから君の話ばかりでね、おとうさんは気が気じゃなかったんだ。一体どんな青年がうちの娘のハートを射止めたのかとね」
 ワインを煽り、上機嫌な父親はそんなふうに娘を揶揄う。
「ち、ちがいます。私はただ、きちんとしたお礼もしないままお別れしてしまったことが心残りだっただけで……」
「今日こうして会って安心したよ。実に誠実そうな青年じゃないか。でも百合子、国際結婚は大変だぞう。僕は今までたくさんのインターナショナルカップルに会ってきたけど、みんな随分苦労したみたいだった」
「おとうさんってば、もう! からかわないでください!」
 顔を真っ赤にして頬を膨らませる末娘を、三人は楽しげに、微笑ましげに眺めていた。ジョニーの顔にも自然、喜色が浮かぶ。
 晩餐は楽しく愉快に進行した。ジョニーは当初の緊張を忘れ、この家族の一員になったかのように積極的に会話に参加し、同じだけ笑った。
 特に遊星とは会話が弾んだ。彼はジョニーと同じ十九歳で、工学部に通う大学生だった。
「それじゃあジョニーは今大学で電子工学の勉強をしているのか」
「うん。昔から機械いじりが好きでさ。遊星は?」
「宇宙工学専攻だ。探査機の新型エンジンを開発するのが夢なんだ」
「へえ、すごい! 将来遊星の作ったエンジンが飛ぶようになるかもしれないってこと?」
「まあ、そんなものだな」
 二人はすっかり意気投合し、メールアドレスと電話番号を交換するまでに至った。彼らの議論は、蚊帳の外にされた百合子が拗ねて兄のデザートを食べてしまうまで続いた。

 食事を終えてしばらくしたころ、その時はやってきた。不動夫婦が会計のために席を離れ、ほぼ同時に遊星が手洗いに行ったので、ジョニーと百合子は二人でテーブルに残されたのだ。
 さっきまで大口を開けて笑い、ふざけて冗談を言い合ったりもしたのに、いざ二人きりになると、やはりどうしたらいいのかわからなかった。ワインで適度に温められた頬や手のひらが、夜の風の冷たさを顕然と拾う。心臓ががなりたててうるさい。横目で百合子を見やれば、彼女もまた、所在なさげに指を膝の上で遊ばせながら、パンプスのつま先の上に視線を泳がせていた。
「あ、あのね」
 口をついて出た声は若干震えていて格好がつかない。それでも彼女は顔をあげ、その青く澄んだまなこでジョニーを見つめた。ジョニーもまた、目を逸らさずに彼女の顔、しわのない眉間の辺りを凝視した。
「明日、空いてないかな」
「明日……ですか?」
「うん。明日がダメなら、明後日でもいい。僕に君の一日をくれないかな」
 合点が行かない様子で、彼女は小さく首をかしげる
「君のことがもっと知りたい。僕とデートしてほしいんだ」
 恥ずかしくて情けなくて、死んでしまいそうだが、ともあれ、言えた。結んだ唇から安堵のため息が漏れる。鼻の先に、居心地の悪い熱が集まってくる。
 百合子はパッと頬を染め、小さな顎を引いて俯いてしまった。しかしすぐに再び視線をジョニーにむけ、大袈裟なところのない、無邪気なはにかみを浮かべて、小さく頷いて見せた。「もちろんです」消え入りそうな声だが、確かに彼女はそう言った。
「私も……、もっとあなたのことを知りたいと、そう思っていたんです」
 そう笑う彼女の可憐なことといったら、なかった。
 ジョニーの胸の中で、幸福感と期待と高揚と不安とが、渦を巻き、もつれ合い、ぶつかり合って、彼の理性を押し流す。なんてかわいい人だろう! もう少し、遊星が戻ってくるのが遅かったら、ジョニーはきっと彼女を抱きしめて、口づけのひとつでもしていたに違いない。
 それから、彼女ともメールアドレスを交換し、両親に礼を言ってレストランを離れてからも、ジョニーのそうしたお祭り気分は尾を引いた。暗い停留所のベンチでプルマンを待ちながら、彼はパラドックスに電話をかけた。
「惚気はもうたくさんだ!」
 そう怒鳴られ、乱暴に通話を切られても、ジョニーは果てしなくご機嫌だった。

 翌朝、ジョニーは早朝五時半に起床した。
 決戦は四時間半後、十時きっかりに彼は百合子とパレルモ・プレトーリア広場で落ち合う。プルマンでの移動に約一時間ほどかかるとして、全ての支度を三時間半の間に済ませなければならない。
 彼はまずシャワールームに入ると、いつもの倍以上の時間をかけて念入りにシャンプーをした。勿体ぶってなかなか使わないボタニカルのヘアコンディショナーを手のひらにたっぷり注いで、豊かで艶やかな髪をゆっくりと労ってやる。髪からほのかにサンダルウッドの気配が漂うようになったのを確認して、今度はその長躯をシャワージェルで隅々まで磨いた。
 シャワーを終えた彼はタオルで全身の水分を拭き取ったあと、肌のコンディションチェックに入る。姿見を熱心に見つめながら、無駄な産毛を剃り落とし、ローションやモイスチャライザーで肌のきめを整えていく。
 相変わらずニキビもシミもない、健康な皮膚をキープできていることを確かめて、彼はようやく整髪に手をつけた。ドライヤーに乾かされ、豊かに広がった髪をヘアオイルで流してやる。ブラシで丁寧に寝癖をとることも忘れない。それから、一度寝室に戻り、クローゼットを開けて、彼が持っている中でも最も上等な黒のオープンカラーシャツとジーンズを選んで袖を通した。腕にはお気に入りのスポーツウォッチ、襟をくつろげた首周りにはシルバーチェーンのネックレス、腰回りには細身のメッシュベルトを、まるで鎧でも着込んでいくかのような厳粛さでつけていった。
 仕上げにパルファンでマンダリンやトンカビーンの香りを手首に強く刻んだら、身だしなみは完璧だ。いつものように鏡の中の自分に向かってウィンクしようとしたが、今日ばかりはうまく行かなかった。
 時計は七時半を差している。まだ幾分か余裕があることに安堵して、彼はバスルームを辞し、祖母が待つ階下へ降りていった。
「おはよう、おばあちゃん」
「ジョニー、おはよう。今日は早いのね」
 祖母はちょうどオーブンでコルネットを焼き上げたところだった。共に食卓につき、ビスケットやエスプレッソと一緒に簡素な朝食を済ませる。
 八時過ぎ、ジョニーは家を出た。
 百合子との待ち合わせの時間に合うように、数本遅いものに乗ってもよかったが、はやる気持ちを抑えきれず結局八時十分のプルマンに乗って彼はパレルモに出発した。誰もいない車内で落ち着いてデートコースのおさらいをするつもりが、早起きのためにうとうとと船を漕いでしまい、目が覚めた時にはもう既に停留所は目前だった。
 彼はがっかりしたが、まだ約束の時間までは三十分以上時間がある。百合子を待つ間、優雅にコーヒーでも飲みながら復習すれば良い。そのように考えていたジョニーを、しかし嬉しい誤算が待っていた。
 停留所からマクエダ通りを六〇〇メートルほど北上したところにプレトーリア広場はある。ルネッサンスの彫刻家が手がけた噴水と三〇を超える裸体彫刻の数々は、パレルモという町を代表するシンボルの一つだ。周囲ではたくさんの人々が待ち合わせをしたり、屋台やスタンドを覗いたりしていたが、その中に一際清楚で美しい少女の姿があった。まだ九時半を過ぎてもいないのにだ。
 彼女の姿を見留めた瞬間、一晩経って落ち着いたはずのジョニーの心臓は再び早鐘を打ち始めた。細胞は期待と一抹の不安に泡立ち、喉は浮き足立って何度も何度も熱い唾液を飲み下した。
 ジョニーのためにおしゃれをしてきた彼女は、それはもう、筆舌に尽くし難いほどかわいかった。遠目から見ても、彼女が一番輝いている、ジョニーは本気でそう思った。気を張っているのか、真っ直ぐに背筋を伸ばし直立した姿勢で視線をあちこちに泳がせる彼女。胸元にレース細工をあしらったサマードレスに小さな黄色い花のイヤリング、アドリアブルーのサンダル、どれも彼女の細く壊れやすそうな身体にとても似合っている。まるで今日のためにあつらえられたかのようだ。髪は耳の後ろから丁寧に編み込まれ、肩のあたりにリボンで留めてあるのがまたなんともいじらしかった。
 ジョニーはどうにも落ち着くことができず、一度彼女から離れてジェラテリアに立ち寄り、レモンジェラートを二人分購入した。それからまた広場に戻ってきて、たたらを踏み、ようやく意を決して噴水の前で待つ百合子の元へと踏み出した。
「お待たせ」
 緊張のあまり、声が妙な方向に裏返る。弾かれたように彼女が顔を上げる。その柔らかそうな頬がじわじわと熱を帯びていくのを見て、ジョニーの胸中にも遅れて羞恥がやってきた。二人してお互いから視線を外す。
「い、いいえ……私が早く来過ぎてしまっただけですから」
「うん。君と過ごす時間が三十分も増えて嬉しい」
「はい……」
 恥じらい、軽く伏せられた長いまつ毛には軽くマスカラが施されている。瞼には薄くラメの入ったベージュのアイシャドウ、小さく慎ましやかな唇には、光沢のある薔薇色のリップグロスが薄く塗られていた。どれも、最初に出会った時の彼女にはなかったものだ。
「……僕のためにおしゃれしてきてくれたの?」
 感動のあまり、全く用意していなかった言葉がつい唇からこぼれ落ちた。
 彼女の顔はすっかり焼けぼっくいの色に染まりきり、長い指が一生懸命にそれを隠した。
「ええ。その、はい、母に手伝ってもらったのですけど……あなたの隣に立つなら、きちんとしなければと思いまして。変じゃありませんか?」
「変じゃない。世界で一番かわいいよ」
「あ……」つぶらな瞳がじわりと潤む。
 ジョニーは彼女を愛おしく思う気持ちを必死に押し殺して、その手を取り、すでに溶け始めたジェラートをひとつ握らせた。
「行こうか」
 それから、もう片方の手には、ジョニー自身の右手を。固く骨張った男の手に触れられて、うぶで照れ屋な彼女の左手はびくりと飛び跳ねて腰の後ろに逃げようと動いた。追いかけることはせず、ただ手のひらを広げて待ってみる。すると、このかわいい小さな手はおずおずと引き返してきて、遠慮がちにジョニーの右手に寄り添った。胸がいっぱいになり、思わず強くぎゅうとにぎり込めてしまう。
「あ、ごめんっ」
「もう、ジョニーってば」
 ジェラートを口許にやりながら軽く笑う彼女が愛しい。冷たいレモン味を舌の上に染み込ませながら、ジョニーはこの耐え難いほどの幸せに胸を震わせていた。

 それからの二人は、パレルモの名だたる観光名所を次々に訪れた。金色のモザイクで飾られた圧巻の天蓋を誇るパラディーナ礼拝堂、パレルモの歴代王を祀る霊廟カテドラーレ、シチリア最古のビザンチン様式を残すマルトラーナ教会。南北からの幾度とない侵略の結果生まれた「世界一美しいイスラムの街」は、異郷からやってきた百合子を大いに楽しませた。ジョニーが自宅の庭の花を紹介するかのごとくこれらの由来や歴史の話をすると、彼女はその度に大きく頷き、拍手をして喜んだ。
 彼女が特に興味を示したのは、シチリア州立考古学博物館に収められたセリヌンテ神殿遺跡の彫刻の展示だった。メドゥーサを退治するペルセウスやエンケラドスと戦うアテナ、ゼウスとヘラの結婚など、ギリシア神話の主要な物語が表現されるその巨大な彫刻の中の一部分に、彼女は熱心な視線を向けた。
「どうしたの?」
「これ……何でしょう」
 それは、マストに縛り付けられたオデュッセウスと、彼を取り囲む半人半魚の怪物、セイレーンたちの彫刻だった。
 このオデュッセウスという男は、海路での旅の帰り、部下に命じて自らをマストに縛り付けた。するとそこにセイレーンと呼ばれる半人半魚の怪物が現れ、彼を惑わし誘い込んで、海に引き摺り込もうと歌を歌い始めた。オデュッセウスはセイレーンたちのもとへ行こうと暴れたが、耳栓をした部下たちがさらに強く彼を縛るので、結局海に連れ去られることなく、セイレーンたちも去っていった、という。
「イタリアでは、セイレーンは今も地中海に住んでいると信じられているんだ。もっとも、今じゃ誰も見たって人はいないんだけどね」
 ジョニーの解説を聞き、百合子は神妙に頷いていた。
 昼食時には、馴染みのトラットリアに落ち着いた。ウニのマリーナリングイネクルマエビのグリルを注文し、二人で分け合って食べた。彼女はイタリア語をほとんど理解することができず、ジョニーが注文から会計までのほとんどを担当したのだが、些細なやりとり一つでも彼女が尊敬の眼差しを投げかけてくれるのがくすぐったくて、つい余計なことまでウエイターに喋ってしまった。
 
 斜陽がティレニア海の水面に金色の影を落とすころ、二人は中心街から離れ、パレルモ港の桟橋に立っていた。
 小さな旅客船が汽笛を上げながら港に滑り込んでくる。ハッチから乗務員が器用に桟橋の方へと飛び移り、スロープ状の橋を渡す。彼らの誘導を受け、ドレスアップした人々が次々に船へと乗り込んでいく。
「あの……これは?」
 なんのことだかさっぱりわかりません、という顔をした百合子が、困り眉でジョニーを見上げた。
「今夜ここで船上パーティーをやるんだよ。さあ、僕らも行こう」
「でも私、パーティーにふさわしい格好ではありませんし、それに……」
「大丈夫、大丈夫」
 戸惑う彼女の手を取り、ジョニーも客船に乗り込む。
 黒い制服のボーイが二人に近づき、チケットを見せるように指示した。ジョニーが昨晩取ったばかりのチケットを二枚手渡すと、彼はその内容を検分し、軽く頷いて半券を切った。後ろに控えていた女性コンシェルジュを手招くと、深々と頭を下げて挨拶の礼を取る。
「シニョーレ・ボレッリ、ようこそおいでくださいました。それではお召し替えのお手伝いをさせていただきます」
「ジョニー?」
「彼女が案内してくれるから、君は着替えておいで。ドレスは僕が選んだんだけど、気に入らなければ別のものをリクエストしてね」
「まあ……!」
 驚き、息を呑む彼女に、ジョニーの気分は瞬く間に浮き足だった。

 ものの十分の後、彼は甲板にて夕暮れの海を眺めていた。
 黒のタキシードに磨き立ての革靴、ブルーのリボンタイで全身をシックに統一した彼は、周囲の女性たちの視線を一身に集めた。タイトなスラックスが彼の長い脚によくにあった。
 彼は牢獄の中で光明を待つような気持ちで、彼のプリンセスが甲板に出てくるのを待った。さっきから船内に通じる両開き扉が開くたびにちらちらと視線をやるのだが、出てくるのは料理を運んできたシェフやさまざまな銘柄の蒸留酒を抱えたバーテンダー、忙しなく動き回るボーイたちばかりで、期待に窶した彼の心臓はすでに限界を迎えつつあった。彼は女性のドレスなど選んだことがない。今回が初めてだ。その初めて、最も大切な初めてで躓いたのではないかと、無駄に気を揉んでいるのだった。
 もう限界だ、パラドックスに電話をかけてやろう、そう思いたちポケットを探ろうとしたその時、不意に甲板の人々の空気が変わった。
 ボーイのエスコートを受け、百合子が甲板へとやってきた。
 潮をたっぷりと含んだ北風が、彼女の貞淑な前髪を軽く巻き上げる。あらわになった少女の優美な面差しに、その場にいた誰もが目を奪われた。
 ビクトリアヴァイオレットのイブニングドレスは、彼女をこの船の王女の座に据えた。蝶や花をあしらったレースが開かれた華奢なデコルテを飾り、ベルベットの光沢は宇宙のように奥深く、足元に揃えて置かれたオープントゥパンプスまでを優雅に流れている。焼き上げられたばかりの陶磁器のような耳たぶには大粒のサファイアが輝き、編み下ろしでまとめた黒髪は真珠とシルバーのヘッドドレスに飾られ、その佇まいはさながら神話に登場する美の女神だ。楚々とした雰囲気のかんばせは、ピンクベージュのアイシャドウや深いローズレッドのリップに彩られ、夜の趣にしっとりと身を委ねていた。
 人々はみな彼女の美しさに感嘆のため息をつき、あるいはその清廉さに心打たれた。
 彼女は投げかけられる視線に居心地の悪そうな表情を見せたが、その中から惚けたように自分を見つめるジョニーの姿を発見すると、ボーイのそばを離れて嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お待たせしました」
 伏し目がちに見上げてくる、その身体を一心に抱きしめたい衝動をなんとか抑えながら、ジョニーは彼女の婉麗であることを褒めた。
「きれいだよ、百合子。すごく似合ってる」
「ありがとうございます。ジョニーが選んでくれたドレスのおかげです。とっても素敵なドレス、私には勿体無いくらい」
 くるりと軽やかにターンし、ドレスの広がりを楽しむ百合子だったが、ふと思い出したようにジョニーを振り返り、その眦を血色に染めた。
「それから……その、ジョニーも、とても似合っています」
「え、ほんと? 嬉しいな」
「ええ。世界で一番かっこいいです」
 なんということだろう! この、世界で一番美しく可憐な少女が、ジョニーのことを世界で一番かっこいいと褒めたのだ。天にも昇る心地とはまさにこのことだ。ジョニーはある限りの理性をかき集め、生き急ぎそうになる自分を抑え込まなければならなかった。
「ジョニー? どうかしましたか?」
「な、なんでもないよ。ほら、パーティーが始まる、行こう」
 手のひらを差し伸べれば、朝よりもずっと慣れた様子の小さな手が、ゆっくりと伸び、絡められた。
 甲板ではイタリアンやフレンチ、中華料理などのビュッフェやバーカウンターが整えられ、地元の交響楽団がジャズワルツを演奏した。絞られた照明の中で人々はめいめいに楽しんだ。
 二人は点心で軽く小腹を満たしたあと、どちらからともなく手をとってゆったりとした三拍子の旋律の中に身を投じた。彼女は社交ダンスの心得があり、ステップも完璧にこなしたが、履き慣れない靴のせいか何度もつまづきそうになり、その度にジョニーが受け止めた。申し訳なさそうに、また恥ずかしそうに踊り続ける彼女がいとけなく、もう一度転んでくれないものかと意地悪にも願わずにはいられなかった。
 二、三曲踊ったあと、彼らは輪から外れ、薄暗い甲板の淵へとやってきた。
 月明かりのひときわ明るい夜だ。ティレニア海は静かに凪ぎ、かなたにはサルデーニャ島のシルエットが浮かんでいる。水面から拡散する光が、百合子の首筋の白さを夜闇の中に薄ぼんやりと浮かび上がらせる。
 ジョニーはバーカウンターに立ち寄り、ベリーニという名前の桃のカクテルをオーダーしてから、海を眺める彼女のもとに戻ってきた。
「お帰りなさい。ジュースですか?」
「いや、お酒だよ。試してみるかい?」
「いいえ。……あの、やっぱり、少しいただけますか」
「もちろん。甘いから飲みやすいと思うよ」
 彼女は背の低い欄干に腕を乗せた姿勢のままグラスを受け取り、一口だけを唇に含んだ。「本当だ、さわやかで優しい甘さですね。美味しい」
「気に入ったみたいでよかったよ」
 はい、と彼女がグラスを返してくれたので、ジョニーは残りをゆっくりと飲み干し、空になったものを近くにいたボーイの盆に置いた。手持ち無沙汰になった右腕に、少し体温が上がった様子の彼女が寄り添ってくる。やわらかい肌の重みとあたたかさが、ジャケット越しにじんわりとジョニーの上腕を慰めた。
「百合子」
「なんだか夢の中にいるようで……信じられないくらい幸せな一日でした」
「本当に?」
「ええ……」
 緩慢に瞬きをしながら、彼女は月を眺めている。その横顔がとても寂しく所在なさげなものに思えて、ジョニーはついに、彼女の芒の穂のような身体を腕の中にとらえていた。
「ジョニー……?」
「百合子。百合子、百合子……」
 華奢な肩を両腕でしっかりとかかえ、夢中になってその名前を耳許に囁く。長身のジョニーと、小柄な彼女ではどこもかしこもちぐはぐで、抱き合ってもなかなか丈が合わないのだが、それでも身を寄せ合えば驚くほどしっくりと彼女の輪郭を感じることができた。
 彼女の手が遠慮がちにジョニーの肩に置かれ、ほんの小さな力で引き離される。首を上げるジョニーの視界いっぱいに、顔全体を熱らせた美しい少女の姿が映る。輝く瞳はじわりと熱を帯びてうるみ、唇はつやつやと柔らかな果実のように潤っている。
 彼はもう待てなかった。羞恥も不安も凌駕して、百合子への愛しさが全身に溢れてやまなかった。
「大好き」
「ジョニー、待って」
「君のことが大好きだ……」
 ジョニーはその小さな顎先を捉えると、親指のはらで持ち上げるようにして固定し、薄く慎ましやかにふくらんだ唇に自らの唇をそっと押し当てた。
 濡れた皮膚がしっとりと吸い付くように触れる。長いまつ毛の羽ばたきを下瞼の薄い部分にたしかに感じる。彼女の吐息は熱っぽく、ジョニーの下唇をくすぐり、それがまたなんとも心地よく愉快なのだった。閉じた瞼は、唇が触れ合うたびに微かに震える。小さな身体は未知の感覚に震えていたが、ジョニーがさらに強い力で引き寄せると、ついに細い腕が伸びてきて彼の背中をしっかりと抱いた。
「わ、私も」
 唇の空隙に、ふっと囁かれる。
「私も、あなたのことが……」

 その時、強い風がティレニア海を走り抜け、煽られた海面が大きく波を立てた。船体が強く揺れ、その拍子に、ジョニーの腕の中にいたはずの彼女の身体は欄干の外へと投げ出されていた。
 あまりに一瞬の出来事だったので、誰も反応することができなかった。先ほどまで彼女の身体を胸にしっかりとかかえていたジョニーでさえ、抱き止めることはおろか、放り出された腕を掴むことすらままならなかった。伸ばした指の先で青いドレスの裾が翻ったかと思うと、その身体は呆気なく黒い波の只中へと吸い込まれていった。
「百合子! ゆりこっ」
 欄干から身を乗り出し、彼女が落ちていった方に目を凝らす。あの美しく真っ白な身体は一向に浮かび上がってこない。ジョニーの胸はにわかに不安に満たされ、心臓は嫌な音を立てて全身の血流を早めた。状況を把握し乗務員が駆け寄ってきた頃には、彼の頭はすっかり混線し、良くない方向へ舵を取り始めていた。
 ジャケットを脱ぎ、その上にスポーツウォッチを乱暴に放る。リボンタイは半ばむしりとるくらいの乱暴さで外した。靴を脱いで欄干に足をかけると、後ろから乗務員たちの制止の声が上がった。
「シニョール、危険です、離れてください!」
「彼女が落ちたんだ、浮かんでこないんだ」
「あっ、ちょっと!」
 甲板に引き戻そうと伸ばされる腕を振り払い、彼は夜の真っ黒な海へ一直線に身を投じた。

 泡が立つ。
 重力に従い水面へと強く引き寄せられていた身体は、水に入ったことで水圧の縛りを受け、ぐんと減速した。ジョニーはしばらくぎゅっと目を瞑っていたが、自らの使命を思い出し、恐る恐るその瞼を開いた。
 月明かりだけが薄青く光を注ぐ水の中、彼は百合子を見た。彼女はジョニーのすぐそばにいた。水中にいても、彼女は変わらず優美で、可憐で、言葉にならないほど美しかった。
 頼りない指先が伸びてきて、ジョニーの頬をそっとくすぐる。彼はその冷たく滑らかな感覚に身を任せようとして、ふと、触れた指先が薄く海の色を透かしているのに気が付いた。
 彼女の四肢は半透明に透け、はつかに青白く輝いていた。ジョニーにまなざしを注ぐ瞳は海の色に強く輝き、瞬きのたびに冬の星のようにまたたいた。髪は海流の中で緩やかに拡散し、唇は恐れで微かに震え、拒絶への不安が、彼にも見てとれた。
 彼は水の中で百合子に近づき、怯える身体をそっと抱き寄せた。彼女はともすれば泣いてしまうのではないかというほど憂わしげな表情を浮かべていたが、ジョニーが寄り添うと、瞼を閉じてその身を委ねてきた。

 どのくらい泳いだだろうか……、やっと浜辺に着く頃には、二人ともへとへとに疲れ果てていた。波打ち際の細かな砂の感触を掌の上に確かめ、ジョニーはようやく安堵のため息をついた。
 すぐ傍では、全身濡れ鼠になった百合子が、喉の奥の小骨を憂うような表情でジョニーを見下ろしていた。面影はそのまま夜の海を思わせた。指の先も、脚も元のように人間らしい有色の皮膚の姿を呈していたが、不安だけはどうしても彼女の胸中を去らないようだった。
「私、人魚なんです」
 小鳥のように顫えながら、彼女はそう告白した。
 ジョニーは彼女の、生まれてこのかた星屑しか口にしたことがないような、頼りなく、細っこい身体をあらためて強く抱きしめた。「それがどうした。君が好きだ。愛してる」
 腕の中で、彼女は静かに泣いた。瞳が潤んできたかと思うと、張力を離れた大粒の涙が下瞼に滲んで、流星のごとく顎下までを駆けた。いくつもいくつも、堪えてきたものをはじけさせたかのように、涙は彼女の柔らかな頬を滑る。唇で悲しい雨だれを拭ってやる。彼女は自らを閉じ込める大きな身体を抱きしめ返すと、もう二度と離れたくないとばかりに、ぴったりとその胸を預けた。
 濡れた瞳の投げかけるまなざしと、ジョニーの視線が絡まり合う。二人は自然に鼻先を近づけ、それと同じ速度で瞼を閉じ、やがて再びお互いの唇を出逢わせるのだった。潮の香りの残るやわらかな皮膚がそっと触れ、結ばれ、擦れあう。湖を渡る二そうの小舟のように、ゆるやかに揺蕩う。ジョニーの歯が彼女の小さな下唇を食むと、彼女は浅い息を吐き出し、ますます強くしがみついてきた。
「好きです、ジョニー、あなたが大好き……」
 口づけと口づけのあいだに、彼女の唇が切実に囁いた。
「私を離さないで。そばにいて」
「約束しよう。永久に、君のそばにいるよ」
「嬉しい……」
 涙まじりのささやきはジョニーの皮膚から全身の血管へと染み渡り、やがて心臓に集まってきて永遠の結晶になった。結晶は彼女の瞳の輝きを受けてキラキラと虹色の光を放ち、ジョニーの胸をやさしく、暖かく照らした。
 息継ぎのために離れ、その数秒のいとまさえ惜しいとばかりにまたも唇の感覚を浴びせ合う。
 ジョニーは自らの存在と未来とをかけて、愛する女の唇の熱を貪った。

 不動一家は、八月末までをパレルモの街で過ごすことになっていた。その短な時間の間に、愛し合う二人の身の上にさまざまな出来事があった。
 まず、百合子の家族に恋人として紹介された。この日、ジョニーは人生で最も緊張し心を張り詰めさせていたに違いない。彼らが滞在するグランドホテルのディナーホールに通され、左手に兄、右手に彼女の母親、正面に父親が座した状態で、彼らと夕食を共にした。伝統的なイタリアンのフルコースが供され、そのどれもが贅を尽くした上等なものだったが、緊張のあまりジョニーには何の味も感じられなかった。
 意外にも、彼女の両親はジョニーの存在を早い段階で受け入れてくれた。父親などは、初めて会った時からこうなる気がしてたんだよね、などと言って彼の妻を苦笑させていた。問題は彼女の兄、遊星だ。彼は妹に恋人ができたという事実をどうしても受け入れられないようで、最後までジョニーを拒絶するような姿勢を崩さなかった。
「お前は信頼に値する男だ。真面目だし出自学歴も申し分ないし、何よりとても誠実だ。是非今後も友人として付き合いを続けていきたいと、俺はそう思っている。だがそれとこれとは別だ。俺のたった一人の大切な妹を、そうやすやすと渡すわけにはいかないんだ」
「遊星、君が百合子を大切に思う気持ちはよくわかってる。でも僕だって譲れない。百合子は、やっと見つけた、たった一人の大好きな女の子なんだ。彼女を幸せにしたい。いや、絶対に幸せにする。命が尽きるその日まで、僕という存在を彼女のために使うつもりだ。だから……」
「それでも! 理屈じゃないんだ……ジョニー、わかるか、百合子は昔俺に言ってくれたんだ、『兄さん大好き。兄さんと結婚する』と! その百合子が他の男のものになるなんて……ジョニーが素晴らしい人だということも、きっと百合子を幸せにしてくれるだろうこともわかってる。でもこればかりは本当に、どうしようもないことなんだ! わかってくれ!」
「に、兄さんっ」
 遊星の訴えは最後には涙声になり、懇願になった。百合子は慌てふためいた様子で幼い自分の言動を暴露する兄を制止しようとし、父親はそんな子供たちの様子を鷹揚に笑った。
「百合子行かないでくれ……俺を一人ぼっちにしないでくれ……」
「ひ、ひとりぼっちだなんて。兄さんが早くジャックに告白しないのがいけないんじゃありませんか!」
「う」
 どうやら遊星にも想い人がいて、しかしまだ愛を伝えあぐねているらしい。百合子の一言で硬直し、黙り込んでしまう。脇腹を突かれて途端に静かになった兄を横目に、百合子はダメ押しとばかりにジョニーの肩にぴっとりと寄り添う姿勢をとり、こう言い放った。
「私はジョニーと一緒にいたいんです。兄さんとは結婚しません!」
 これが決定打となった。遊星はあえなく撃沈し、テーブルに突っ伏すと動かなくなった。
 百合子をパラドックスに引き合わせたときも、ちょっとした悶着があった。意地悪な彼はジョニーのそばにちょこんと座った百合子を見るなり、「君はジョニーには勿体無い女性だ」などと宣った。
「ちょっと、パラドックス!」
「この男はどうしようもないへたれだ。救いようのない根性無し、筋金入りの甲斐性なしだ。君に苦労をかけることは必然と言ってもいい。彼より私にしておきたまえ」
 いつものカフェの、いつものソファ席に泰然と足を組んで、彼は思ってもいないことをスラスラと口にした。友人が困っているのを見て楽しんでいるのだ。つくづく性格が悪い、ジョニーは頭を抱えたが、聡明な百合子はすぐに彼の本意を見抜いて軽やかに反論した。
「あなたはやさしい方なのですね。でも心配は無用です。恋する女にとって、恋人の不始末を引き受けることは何よりも楽しい娯楽の一つなのですから」
「ほう」
「すでに出来上がったものに対して心を尽くして何が楽しいというのでしょう。あなたが生クリーム入りアイスココアを何度もお代わりするのと同じことですよ、パラドックス
「完敗だ。ジョニー、君は全くとんでもない女を捕まえたものだな」
 パラドックスが愉快そうに微笑むのを、ジョニーは久しぶりに見た。
 最後に、ジョニーの祖母に百合子を紹介した際には、祖母が俄然張り切ってしまい、花嫁修行と題したお節介を働かれる羽目になった。祖母は自らの七〇年余の生涯の間に記憶してきたすべてのイタリア料理のレシピを、百合子がパレルモに滞在する間に教えきるのだと言って、彼女を家に呼んではキッチンにて料理指導に勤しんだ。百合子は百合子で、とても真面目な気性の少女だったので、祖母をおばあさまと呼び慕いよく学んだ。おかげでジョニーは恋人とのデートの時間を祖母に横取りされる形になり、一度は拗ねて臍を曲げるのだが、愛しい彼女が達成感に満ちた笑顔と共にキッチンから手料理を持ってきてくれると、たちまち機嫌も直ってしまうのだからおかしかった。
 こうして、恋人たちの鮮やかで濃密な夏はあっという間に過ぎていった。気づけば、一家が母国に帰る日が翌日に迫っていた。

『やあ、もう寝た?』
 後ろ髪引かれるような思いで最後のデートを終えたその日の晩、ジョニーは彼女にそんなメッセージを送信した。
 すぐに既読がつき、軽快な通知音とともに返信が返ってくる。
『いいえ。両親も兄も少し前に寝てしまったのですが、私だけなぜか眠れなくて』
『僕もだよ。ねえ、窓を開けて、バルコニーに出てきてくれないかな』
『良いですけど、どうして?』
『良いから、良いから』
 最後のメッセージに既読がついてからしばらく待っていると、目の前に建つ大きなホテルの二階の窓が控えめに開き、中からネグリジェ姿の百合子が顔を覗かせた。半開きになった唇の丸みや大きく開いたネックからのぞくなめらかなデコルテ、降ろした髪の隙間にちらつく滑らかなうなじの皮膚などが、月明にぼんやりと白く浮かび上がる。彼女はリラックスした様子でぼんやりとほの明るい夜空を眺めた。それから思い出したように携帯端末を取り出したので、ジョニーは慌てて頭上の彼女に呼びかけた。
「こんばんは、Principessa(お姫さま)」
「まあ……!」
 彼女はバルコニーに飛び出してきて欄干から身をいっぱいに乗り出し、すぐにホテル正面に立つジョニーの姿を発見した。ジョニーが手を振ると、優雅に手を振りかえしながら笑顔を見せる。
「驚きました。こんな夜更けにどうしたのですか?」
「君の顔を見たかったから、じゃだめかな」
「いいえ、いいえ、とても嬉しいです。私もちょうど、あなたに会いたいと思っていたんですから」
 バルコニー越しに二人はうっとりと見つめ合い、その姿かたちを網膜にまで焼き付けようと努めた。
 明日、別れの時がやってくる。それは永遠の別れではなかったが、若く未熟な二人にとっては永遠にも等しい隔たりと言って差し支えのないものだった。この夏、毎日のように手を繋ぎ、唇を触れ合わせることができたのに、明日が過ぎればそれは手の届かない幻になる。海を隔てて暮らす愛しい人を思いながら、彼女の心変わりや倦に怯えて退屈な日々を過ごさなければならなくなる。
 次に会えるのは、早くても春季休暇の間になるだろう。それまでの半年間、彼女がそばにいない時間を過ごさなければならないと思うと、ジョニーの胸には重い暗雲が立ち込めるのだった。
「……そばに行っても良いですか」
 物憂げに眼下を見下ろしていた百合子が不意にそう尋ねたので、ジョニーは無言で顎をそらし、肯定の意を示した。
 彼女はネグリジェの裾を翻してバルコニーから窓の隙間に滑り込み、そのまま部屋の中へと消えていった。かと思えば、薄ぼんやりとした照明だけが残されたロビーの螺旋階段を、十二時を目前にしたシンデレラのように転げ降り、裸足のまま外へと飛び出してきた。前のめりになって走ってくる愛しい身体を受け止め、息が止まるほどぎゅっと抱きしめる。
「ジョニー、ジョニー」
「百合子……」
 たっぷりと涙を含んだ海の瞳、その内側を彩る虹彩のきらめきを覗き込む。彼女はゆっくりと瞬きを繰り返したあと、薄い瞼をそっと閉じ、つやつやと潤った唇を小鳥がするように突き出した。ジョニーは零距離で吐息の熱さを楽しんだあと、愛しい彼女へ一思いに接吻を浴びせた。
 彼女はジョニーの長身に合わせて必死に背伸びをする。その身体を抱き上げ、さらに深く溶け合おうとする。お互いの高鳴る心臓の鼓動を合図に、踊るように何度も重なる唇……熱を帯びた舌が彼女の行儀の良い歯並びを軽く叩き、怯んで僅かに空いた隙間に滑り込んで、うぶな少女の舌先を労わるように撫でた。彼女は鼻でくぐもった呼吸をしながら、頬に涙の筋を幾重にも滲ませ、ますます必死にジョニーの背中に縋りついた。
「愛しています。離れたくない」
「僕もだ。君を誰からも隠して、僕ひとりのものにしてしまいたいよ」
「そうして……私をあなたのものにして……」
 まなざしの糸は名残惜しく絡まり合い、その燻りが、二人を再び口づけへと駆り立てた。ワインをグラスに注ぎ足すかのごとく、もう一度、また一度、幾度も幾度も、飽きることなくお互いの味を官能に染み渡らせた。彼女のやわらかい頬が、膨らみはじめた慎ましい乳房が、無駄なく引き締まった腹が、柔らかく迫り出した腰が、あの日半透明に透き通った不思議な作りの四肢が、余すことなくジョニーの全身に預けられていた。街の明かりも、時折過ぎる車通りも湯気を通して見たように朦朧となり、二人はいよいよ夢と現実との境界を失いつつあった。
「次の春、今度は僕が君の国に行こう。大学を卒業するまでには君を迎える支度を済ませておく。待っていてくれるかい」
 くったりと肩に頭を預ける恋人のかわいい耳殻に、ジョニーはそう囁いた。
 彼女は首を持ち上げることも横に振ることもなく、ただジョニーの首のあたりに顔を埋めて小さく嗚咽した。ジョニーはたっぷりと注がれる水のような月光の中で、彼女の薄墨色に光る長い髪に指を通し、慈しみを込めて何度も繰り返し撫でた。
 北西の浜辺から冷たい潮風が吹いてきて抱き合う二人を包み、お互いを除いてこの世の何とも接続しない孤独な生き物にする。
 このまま風のひとひらになり、波や雲や無数の星の中でひとつ溶け合えたらと、二人願わずにはいられないのだった。

 黄昏時のパレルモ中央駅は、夏季休暇を終え、故郷に帰ろうとする観光客や本州の人々でごった返している。妻や恋人と見つめ合う男たち、家族との別離を惜しむ若者、今生の別れを覚悟して抱き合う老いらくの友人同士……みなそれぞれに、これから待ち受けている長い別れの日々に想いを馳せ、それぞれの郷愁に浸っているようだった。
 ジョニーもまた、不動一家を見送りにプラットホームにやってきていた。一家は迫る午後六時、寝台列車に乗ってパレルモから国際空港のあるローマへと移動し、その足で故郷に帰国する。この三十九日間、まるで本当の家族のようによくしてくれた兄妹の両親や親しく語り合った遊星、そしてあらん限りの力を注ぎ愛した百合子と、ここで別れなければならない。ともすれば口に出してしまいそうなほど膨れ上がった寂しさを喉の奥に押しとどめ、ジョニーは彼らに笑顔を見せた。
「おとうさん、おかあさん、ありがとうございました。遊星、元気でね。連絡待ってるよ」
「ジョニーこそ、たまには連絡してくれよ。身体に気をつけて」
 遊星が近づいてきて、初めて会った時のように右手を差し出した。ジョニーはその手を握り返し、強く握力を込めて長い別れへの思いを伝えた。それから、頬を寄せ合い、左右で一度ずつチークキスを交わす。いつも気丈な彼の、妹によくにた眼差しが少し潤んでいるのがおかしかった。
「百合子」
 最後に、ジョニーは愛しい彼女を呼んだ。
 百合子は兄の後ろにぽつんと立っていたが、手招くと、立ち歩きを覚えた赤ん坊のような足取りで駆け寄り、ジョニーの胸にしがみついてきた。左右のおさげが彼女の方の上で可憐に揺れる。抱きしめ返した背中は相変わらず小さくて、手のひらを滑らせれば、盛り上がった背骨の山脈の感触が確かに返ってくる。
「百合子。大好きだ。遠くにいても、ずっと君のことを想ってる」
「……」
「キスしてもいい?」
 彼女は頬をジョニーの鳩尾のあたりに強く擦り付けながら、弱々しく首を横に振った。そうしてますます強く、恋人の胸に顔を埋めるのだった。
 発車のベルがけたたましく鳴り響く。
 一家は最後にジョニーへ愛情に満ちた眼差しを投げかけると、こちらに背を向け、列車に乗り込むべく乗降口の方へと歩いて行った。その姿も、人混みに押し流されて瞬く間に見えなくなった。ジョニーはしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くす以外の選択肢を持たなかった。
 車掌が乗客たちの乗車を確認し、駅員に合図をして列車のドアを一斉に閉じる。見送りの人々が列車の方に殺到し、それぞれの言葉で窓の向こうの愛する人々との別れを惜しむ。
 出し抜けに、一号車前方の扉が開き、デッキに遊星が躍り出てきた。彼は何かジョニーに向かって叫んだが、列車が圧搾空気を抜く音や、人々の話し声が彼の声をもみ消したので、ジョニーは何も聞き取ることができなかった。列車はそのままプラットホームを離れ、線路を軋ませながらゆっくりと速度を上げて、やがて瞬く間に見えなくなった。ジョニーはひとり、人混みの中に取り残された。
 ……かに思えた。
 ふと、馴染んだ気配を背後に感じ、彼はひとたび呼吸を止めた。すぐには振り返らなかった。振り返り、そこに何もないことが知れれば、手放したものの重さをより強く実感してしまう、そう思ったからだ。だが、その予感はいつまでも彼の胸を去らなかった。まさか。いや、そんなはずは。しかし……彼の皮膚、感覚器官、細胞組織をこれほどまでにいたずらに、甘くくすぐるのは……。
 彼は深く呼吸をつき、恐る恐る、慎重に振り返った。
 帰路に着く人々の波の中、一度は覚悟して手を離したはずの愛しい少女が立っていた。旅行鞄を膝の前に抱え、ちょっとはにかんだような微笑みを浮かべて、彼女はジョニーの目をまっすぐに見上げていた。
「ジョニー」期待と、ほんの少しの畏怖を孕んだ囁き声が、ジョニーの耳を確かにくすぐる。
「ごめんなさい。私、やっぱり待てません。あなたのそばにいたい。かたときも離れたくないんです」
 庇を抜けて差してきた夏の山吹色の残光が、彼女の美しい顔をつまびらかに輝かせる。思慮深くおだやかな碧眼、二重に折り重なった薄いまぶた、つんとすました鼻先、花の色の唇。控えめに浮かび上がる奥ゆかしく楚々たる嫣然。
 たしかに、彼女は百合子だった。愛しい人、世界でたったひとり、ジョニーが守りたいと心から思った女性。
「百合子!」
 これまで幾度となく確かめてきた小さな身体のかたちが、今もまた同様に、ジョニーの腕の中に抱かれた。
「結婚しよう、百合子。君は永遠に僕のものだ」
「はい……はい、喜んで」
 彼女の頬を歓喜の涙が滲むように伝う。誰もいなくなったプラットホームで二人は固く抱き合い、万感の思いを乗せて互いの唇に触れる。
 こうして、恋人たちは互いの魂の名のもとに強く結ばれた。彼らは祝福されていた。すべてが満ち足りてあまりあり、足りないもの、疑わしきものはひとつとしてなかった。
 ……今、この時に限っては。