2024/01/27

 

 

 

 青い真珠が一粒、清潔なシーツの上に横たわっているものと思われた。
 純子はためらいとやましさの浜辺に、畏怖の波が押し寄せてくるのを、心中に確かに感じていた。彼女の美しさはたびたび純子をそのような思いに駆り立てた。分厚い遮光カーテンの外は夏まっさかり、湿気を帯びて重たくなった亜熱帯の空気が都市全体に滞留し、森から追いやられた蝉がコンクリートの壁で窮屈そうに鳴き、ほとんど直上の太陽が、人やものをみんなバーベキュー台にかけている、そうした季節が猛威を振るう中、青八木一は、いっそ冷たさすら覚えるほどの怜悧な美徳をたたえて、床上にて恋人を待っていた。
 薄いドアの向こうで、エレベーターのチンと鳴る音がする。男女カップルの下世話な会話が通り過ぎる。そうした俗世のものから遠ざかるかのように、一歩、純子はベッドへと近づいた。うつ伏せになっていたはじめが、首をもたげて純子を見た。ねじを絞ったウォールランプの、かすかなオレンジ色の光が、彼女の小麦色の髪やまつ毛の上に幻想的に踊った。
「純子、おいで」
 前のめりになった身体を膝で支えると、安物のベッドはそれだけで悲鳴をあげた。プリーツスカートの重厚な生地から伸びた、白妙のような色の腿に、腰を挟まれて引き寄せられる。肉の柔らかさに声をあげる間もなく、つんと尖らせた悪戯な唇に退路をふさがれて、純子はただ目を閉じ、彼女の唾液の味を脳の底まで染み渡らせる。日々の練習のあと、空腹を持て余し、恥も外聞も忘れて肉を貪ることに終始する、彼女の唇。口許へ垂れたソースをなんとはなしに舐めとる肉厚な舌。骨をとらえ、繊維を剥ぎ取る犬歯、取り込んだものをすり潰す奥歯、そうしたものの姿形を、自らの舌を持ってしてたしかめる。はじめとのキスはちょっとおっかない。
 貪り食うように二つの唇が交接し、靴下を脱ぎ捨てた生足どうしも、同様にからみあった。純子の、骨と皮ばかりの貧相な鷺脚は、はじめの柔らかい肉に包まれ汗で濡れた。甘い痺れと渇き。境界なく混じり合う女たちの呼気。そのうち、二人の肌を隔てるあらゆるものが邪魔と感じられて、純子は目の前の身体から制服を奪い去ろうと動いた。リボンをほどき、ボタンを取ってブラウスを脱がせてしまうと、豊かに成熟した乳房が小気味よくまろびでた。すぐさま乳頭に齧り付いて啜った。
「純子、純子」
 我を忘れた子供のような純子の頭を、はじめの脚が柔らかく拘束した。可愛らしいつまさきが純子の肩の後ろでせわしなく宙を掻いている。
「はじめのおっぱい、おいしい」
「ん……ん……」
「大好き。吸ってると出てくるの、かわいいのよ」
 硬くなった乳頭の側面を舌で押し潰し、かすかに色づいた乳輪を前歯で食む。谷間に鼻先を突っ込んで大きく深呼吸をしては、ふっと息を吐くと、それだけではじめがせつない呻き声をあげた。頭の動きにあわせて、肉惑的な輪郭の腰がもどかしく揺れる。思わずといった様子で擦り合わせられる両膝に、ぬるついた膣液が滑り落ちてくる。
「純子……わたしもしたいよ」
「いいわ、来なさい」
 震えるはじめの指を手伝って、純子も、自らブラウスをはだけてゆく。骨の浮いた肋の上に、そっけなく乗った薄い乳房、自分ではあまり好きではないが、はじめは純子の腰に抱きつくと、嬉しそうに乳頭を吸った。まだ男を知らない、あいまいで核心をつかない愛撫が、純子にはこの上なく愛おしい。
「おいしい?」
「うん……おいし、純子、大好き」
「あたしも」
 純子の胸元に、無邪気に戯れるはじめの、股の間に脚をくぐり込ませた。膝頭を持ち上げて探るような動きを取ると、尾瀬の湿地を思わせる豊かなぬかるみが、すぐさま布越しに滲んできた。
「や! やだ、やだあ」
 ぐずりながらも、はじめはあられもなく両脚を拡げて純子を挑発しにかかる。泣き顔は小さな子どものものなのに、熟れた身体はとても無垢からはかけ離れている。倒錯した感興が純子の喉元にまで迫り上がってきた。
「感じてるの? パンツの中から、くちゅくちゅ聞こえるよ」
「やだ、純子、意地悪しないで……」
「気持ちいいでしょ。ね、素直になりなよ、べつにはじめてってわけでもないんだし」
 はじめは答えない。堅くつぶった目から、涙が一筋、薄くかけたアイシャドウのラメを頬まで運んだ。
 自動運転のエアコンが、部屋の気温の変動を感じ取ったか、風量を一段上げた感じがする。背中に吹き付ける風が冷たい。膣までがからからに乾いていくようだ。反して、はじめはすっかり全身の皮膚を桃色に上気させ、甘ったれた喉声で嗚咽している。健康的に肉のついた手指が、ピンクのマニキュアでさりげなくはなやいだつま先が、シーツの上で感じやすい生き物のように悶えている。
「素直になれないはじめのパンツ、破いてやろうかな。そうしたら、あんた、ノーパンで家に帰るんだよ。いいの?」
 純子への接待を忘れ、役立たずの木偶と化したはじめの耳がらに囁きこむ。
「むり……やだ……」
「正直に言いなさいよ。あたしにこうされて、どうなのか、これからどうして欲しいのか」
「うん……ん……じゅんこ」
 人差し指の腹で、堪え性のない股を乱暴にさすると、はじめは夢見ごこちでこくこくと首肯した。
「ねえ、はじめ」
「純子……きもちいい。だいすき。もっとして」
 従順な共犯者の顔を仰ぎ見ると、神仏めいた穏やかな表情で彼女は目を細めていた。
 最後のインターハイが終わり、よるべなく泳ぎ出した心、卒業を前にして少しずつ降りてくる不安や疑念といったものから遠ざかり、二人は視線から、吐息から、皮膚から混ざり合う。純子の言葉がはじめの官能の炉を燃え上がらせ、はじめのあえやかな悲鳴が、純子の本能を理性から解いていく。愛の言葉をささやく代わりに、なりふりかまわぬ肉のふれあいで激情を示した。濡れた部分で擦れ、乾いた部分でつながり合った。
「はじめ、あたしたち世界の終わりまで一緒よ、愛してる」
 純子がそう言うと、はじめが答えた。
「わたしも、愛してる、純子」
 眼球の裏で白い光が弾ける。

 純子は、高校の渡り廊下の、組み木の特徴的な床に、言葉もなく立ち尽くしていた。
 大判のガラス窓から、赤い西陽が真っ直ぐに、制服を着た純子に突き刺さった。頬や頸が爛れたように熱く痛んだ。心拍が酷く落ち着かない。握り込んだ手のひらにじくじくと汗をかいている。最終下校時刻を回り、校内は生徒の気配もなくひっそりとしていたが、それだけに、背後から差し向けられた強い意識を、純子は背中へと克明に感じていた。
「帰らないの」
 やっとの思いで吐き出した言葉は、年頃の少女らしい怯えを伴ったものだった。震えていたのだ。
「俺に頼みがあるんだろう」
 ぞっとするほど低い、押しこもった男の声が、淡々と答えた。
「心当たりないんだけど」
「俺にはある。お前は回りくどいが、わかりにくいというほどじゃない」
「あるとして、あんたはどうしてくれるの。古賀」
 部室棟を背後に、男子生徒が、仰々しく包帯で覆った左肩を庇って立っている。古賀公貴は酷薄に、純子を嘲笑した。
「無論、その要求を呑むつもりだ、手嶋。俺たちはたった三人きりの同期だからな」
「——生真面目なあんたに、うまくできるとは思えないんだけど」
「できるさ」傲岸不遜に鼻を鳴らし、公貴、「今までお前が指で絡め取った男たちのようにな。なぜ俺が、その輪の中に入らなければならないのか、理解したくもないが」
 眼鏡越しに、冷たい目が赫々と光を帯びる。純子は、自身ですらそれと気づかないうちに、教室棟へと上履きの足を後退させていた。身体中が冷たい汗で覆われていて不愉快だった。
「細かいことはこの際いいさ。さっさと済ませよう」
 長身がずんと純子の目前に迫る。無防備な手首を掴まれて、上履きが床板を擦る。つんのめるようにして、公貴に引きずられるまま、来た道を遡る。
 一年四組の教室で、制服を脱ぎ、痩せた身体のすべてを公貴に見せた。汗に塗れながら膣穴を開き、彼の大きな性器をその中へ入れた。公貴は純子をもののように乱暴に扱い、純子は、瞼をきつく閉じたまま一度として公貴に視界を許さなかった。瞼の裏には、清らかなはじめの微笑を刻みつけていた。純子の意に反して、男を歓待しようと降ってきた子宮口を乱暴に塞がれ、すがりついた窓はいてつくように冷たい。冬もたけなわ、素肌には厳しく凍みる晩だった。
 ことの終わりには、公貴と折り重なるようにして床に倒れていた。
「……あんたが、はじめに一番近しい男だからよ」
 手のひらで顔を覆ったまま、指の間からひきしぼるような声で言った。公貴が、右手指で神妙そうにとがった顎を触る。
「それは、さっきの、俺の問いかけに対する答えか」
「そうよ。あんたって最低」
「お前が勝手に吐いたんだろう」
 どこかが、しくしくと痛む。壁一面に不揃いの「雲海」の字が張り付いたこの教室で、息をすることすら億劫だ。のそのそと身体を起こすと、デオドラントのミントの香る無骨な指が、裸の肩にブラウスを優しくかけおとした。勝手に、などという乱暴な言葉を吐きながら、公貴の顔には、耐え難い暗愁が押し包まれているのだった。
 腕を伸ばし、裸の左胸、迫り出した肋骨に公貴の頬を押し付けた。彼は何も言わなかった。
「古賀、あんたの存在は、あたしにとっては最後の砦だったのよ」
「……自分で台無しにしたくせに」
 眼鏡を外したこの男の、伏せた睫毛が存外に長いこと、きっと、はじめですら知らないだろう。短い髪を梳き、血管の浮いた首、傷ついた左肩に、つとめて軽く触れる。
「あの子を受け入れられない」
 本心だった。
「ほんとうに愛しているのに……」


   ナッシング・トゥ・マイネーム


 あれから秋が来て、冬が過ぎ去り、また春になって、デスクの上で小さな影が舞った。顔を上げると、影の正体が窓から入り込んだ黄色い蝶であることが分かった。手のひらでそっと捕まえると、包み込んだ手の中で翅がまたたいて、むず痒くいたたまれない思いがした。窓から外に出してやると蝶は飛び去り、イスティラクル・モスクのオベリスクの方角へ、見えなくなった。二十五歳の純子はその様子を、寡黙なまま、見ていた。
 ラップトップのテキストアプリでは、美しく奔放な十七歳の少女が、同窓生の女子生徒をいたずらに弄ぶさまがあけすけに描かれていたが、キャレットは七日前から同じところを打ち続けている。少女は無邪気にも同窓生の肩に小さな頭を預けたまま、動かない。焦れて純子はレッドブルのプルタブを開け、薄い炭酸液を勢いよくあおるが、直ぐにでも無用の二万ルピアになることは自明とすら思われた。
 東南アジア、インドネシア。日本から遠く離れた、赤道直下の熱帯の国で、手嶋純子の人生は、どうしようもなく停滞している。
 このままでは押しつぶされてしまうと、危機感に駆り立てられて日本を脱出したのが、十九歳のころ。かねてより、日本の風土に自分にそぐわないものを感じてていたうえ、一般入学試験で進学した都立大学の気風にも馴染めていなかった。青八木一は、純子の決意を聞くやいなや頷き、純子のしたいようにすればいい、と言った。
「純子と、世界の終わりまで一緒にいる、そういう約束だから」
 とはいえ彼女は、一年の浪人の末、念願叶って都内の芸術大学に進学したばかりだった。純子は、自らの彼女への執着と、大人としての理性を天秤にかけ、重たく左へ傾いたのを指で押し返したりまでして、結局、一人で旅券を取り、一人で家を出た。出発ロビーのさみしいベンチで一人、搭乗受付を待っていたが、はじめはいつの間にその隣に座っていた。自らの腰ほどもある大きなスーツケースに肘をついて、愛らしい琥珀色の目で、純子を眺めていた。
 ハノイ、クアラルンプール、シンガポールを経由して、中央ジャカルタに落ち着いた。猥雑で窮屈な土地だが、空っぽの純子にはむしろ相応しいものだろうと思われた。一月十万ルピアの、コストと呼ばれる賃貸アパートに詰め込まれ、純子は観光客向けホテルのレストランに、はじめは土着広告会社のデザイン部門に、薄給で雇われた。理想と幸福に程近い生活であると思う。誰よりも愛おしく美しい恋人と、一つ屋根の下で暮らしているのだから。しかし純子は日を追うごとに、加速度的に病んでいく自らを確かめていた。はじめとの関係は、ほとんど時をおかずして常軌を逸したものとなっていった。

 およそひと月前、六年ぶりに日本へと帰国する運びとなったのは、高校で同級生だった古賀公貴に、名指しで呼び出されたからだった。
 公貴とは、はじめと三人でよくつるんだ仲だった。インドネシア渡航する際に、純子はアドレス帳からはじめ以外の全ての連絡先を削除し着信拒否に設定したのだが、今でも手を替え品を替え、しつこくコンタクトを取ってくる物好きなやつだった。やれ病気してないかだの、はじめに優しくしているかだの、スマトラ島で大規模なデモが起きているらしいから近寄るなだの、カリマンタン島の地価が急上昇しているから買っておけだの、こちらが何の返信もよこさないというのに、三日おきのペースでメールを打ってくる。大手コンサルティング会社に就職し、昨年にはついに所帯を持つに至った彼だ、多忙であるに違いないのに、海の向こうの旧友のことにも細やかに心を配る、彼の生真面目さを純子は嫌いではなかった。だから、言いにくそうに告げられた彼の申し出にも、
「いいわよ」
 そう答えた。
「いやにあっさりしてるな、ふつう何か、あるだろう、他に」 
「あたしたち、もうそういう、回りくどい仲でもないでしょ、それとも断った方が良かった?」 
「いや……」 
 公貴は、田舎のチェーン・レストランにそぐわぬスキャバルの黒いプルーネラ織りで全身を引き締め、腕に真新しいオイスター・パーペチュアルなんてつけていたが、純子と目があうとやりにくそうに強肩をすくめるのが、学生の時の仕草そのままでおかしかった。所在なく放り出された彼の右手に、薄っぺらい身体の、いかにも幸薄そうな女が、言葉もなく寄り添う。
「結婚祝いもまだだしね。良い機会でしょ」
「わざわざエアメールで招待状を出したのに、お前、来なかったからな」
「そうだったかしら。あっちだと、郵便がうまく来ないこともあるし。そういう事務作業は全部はじめに任せてるから、あたし、よく把握してないのよね」
「メールでも知らせたぞ」
「じゃあ行きたくなかったんだ」
 純子の露骨な言い草に、慣れっこの公貴はともかく、女の方が鼻白む。立ち上がりかけた彼女の肩を、こいつはこういうやつなんだ、とばかりに、骨ばった手のひらがなだめた。
 ワイシャツに黒のタイを結んだ若いウエイトレスが、盆を両手によたよたとテーブルに近づいて、赤肉のステーキ、カルボナーラ、ハニーバターのホットケーキにいちごミルクのソルベージュを、一つ残らず純子の前に並べ、丸めた伝票をプラスティックの筒に突っ込んだ。去ろうとする彼女に、直截的で愛想のない口調で公貴が、ホットコーヒーをオーダーした。彼の妻は何も注文しなかった。
 春の午後、当たり障りのない晩晴の光の中で、眼鏡の奥の細い目がしばらく、食事を摂る純子を見ていた。いつかの部活帰り、はじめと三人でこの店のボックス席に収まり、空腹の促すままに暴食したことを、思い出しているのかもしれない。
「それで、日取りはいつにするの?」
 早々にステーキを片付けた純子が切り出す。「急かしてるわけじゃないのよ。帰りの飛行機を決めちゃいたいから」 
「おまえが良いなら明日にでも。まさか快諾されるとは思ってなかったから、何も準備してないんだが」 
「あたしは、やること済ませれば、もう帰ってもいいのよね?」
「ああ。書類手続きなんかは全てこちらに任せてくれていい」
「わかった」
「ありがとう、散々迷ったが、おまえに相談して良かった。兎にも角にも何か礼をさせてくれ」 
「別にいいわよ。結婚祝いだって言ったでしょ」
「そういうわけにはいかない」
 大義そうに眼鏡のブリッジを押し上げる左手指に、マリッジリングが炯然ときらめく。
「お前は俺たち夫婦の恩人だ、純子。俺にできることならなんでもしよう。言ってみろ」
「公貴って、昔っから超絶くそ真面目よね。損な性格」
「そういうお前は捻くれ者だな。何も成長が見られない」
「失礼な男」
「難儀な女」
「ねえ、当てがないわけじゃないのよ。でも超絶くそ真面目のあんたにそれができる?」
 ソルベージュをマドラーでかき混ぜると、赤い氷の粒が白い練乳と混ざって、境界からピンク色になっていく。小さな氷のとがりに光が通って、純子の鼻先に青く乱反射する。公貴が深く呼吸するのが、顔を伏せている純子にもありありと知れた。また、女が不安がって、夫の肩にますます縋りついているだろうということも。
ブレンドコーヒーでございます」
 公貴は黙って左手でカップの取っ手をつまみ、口許に運んだ。
「できるさ」
 白くたちのぼる煙の中で、上品な唇が微笑みの形をとった。つくづく底知れぬ男だった。
「俺たちは地獄の果てまで、共犯者だからな」

 何も書けないまま夜になった。せっかくの休日を無為に過ごした、という実感が、重石となって純子の肩にどっとのしかかる。
 外では、重厚な歌にも似たアザーンが、定刻を迎えたイスラム教信者たちに対して礼拝(サラート)を呼びかけている。このコストの、すぐ向かいにモスクがあり、二階部分にアザーンのための拡声器が取り付けられているので、太いバリトンボイスは窓を閉めていてもよく響く。びりびりと、振動が床からデスクから純子の骨張りの身体を揺さぶり、彼女は辟易として立ち上がった。五十センチもないところに置いたセミダブルベッドに突っ伏し、薄い毛布をかぶって、神の国への誘いからのがれた。
 三十分もしないうちに、表の戸鍵が降りる音、スニーカーの靴底がタイル床を踏み込む気配がして、純子は愛する女の帰宅を悟った。
「おかえり」
「ただいま、純子」
 布団から突き出した手を、はじめの、ひやりとした小さな右手にそっと包まれる。ついで、繊細な唇が爪先を掠める感覚。毛布を跳ね除けると、純子は身体を捻ってようよう起き上がり、ベッドの縁に腰掛けて革のライダースを脱ごうとしているはじめの背後に腕を回した。
「寂しかった」
 純子の、甘ったれた泣き言を、はじめは笑わない。ほっそりと優美な首を回して、ねんごろなキスをくれる。
「寝てたの? 起こしてごめん」
「いや……ぼんやりしてただけよ。はじめ、身体が冷たいわ」
「走ってきたから、汗ですこし冷えたかも。でも大丈夫」
 唇同士で触れ合いながら、零距離で、秘密を打ち明けるような囁き声で会話する。これほどまでに近しいところで眺めていても、はじめの涼しげな美貌は、まったく完全無欠だった。長い睫毛に縁どられた鋭いまなじり、トパーズ色の香気たつ虹彩、こぶりな鼻と健康的な朱色の唇。若い豹の鋭さとしなやかさ。それでいて、甘いミルク色の靄を、目元口元に豊かに滴らせているのが無垢だった。純子の、鬱屈とした劣等感も、彼女の前では憚るほかない。
「ごはんはもう食べた?」
「まだ。昼から何も食べてないのよ」
「そうだと思って、スーパー・インドで色々買ってきた。一緒に食べよ」
「うん……」
 彼女が抱えてきた巨大なビニール袋から出てくるのは、日本のカップラーメンにも似たカラフルなポップミー、ココナッツジュース、バナナ、マンゴーやスイカなどのフルーツ、大豆を発酵して揚げたテンペ、ポテトチップス、オレオ味のポッキー、乾麺のインドミー、乾麺のミースダップ……二人いて、そのどちらもインスタント麺の割合に疑問を抱かない。他者から見れば、いっそ異様なほどだろう。
 居室は狭く、キッチンはおろか調理台すら存在しないので、廊下に出て一階に降り、コスト共用のキッチンスペースを利用する。ポップミーのためにカセットコンロで湯を沸かしながら、水道会社のマグネットやキャラクターのシールなんかがゴテゴテと貼り付けられた背の低い冷蔵庫を覗き込んでみる。一昨日ここに入れた牛乳のパックが空になっている。そのかわり、屋台で売り叩かれている類の揚げチキン(アヤムゴレン)がいくつか、大皿に詰め込まれていたので、二つほど拝借し、ケチャップ・マニスをぶちまけたのにかじりついた。
「仕事はどうなの」
「うん……こんど、中国の偉い人とイベントをやるからって、ポスターのデザインを任せてもらえることになった。でも中国のことあまりわからない……」
 沸騰した湯を、プラスティックカップの中の麺(ミー)に注ぐと、すぐに湯気が立ち上ってきて純子の鼻先にただよう。
「純子は今日どうだった」
 ポップミー・カリー・アヤムに付属しているのは、揚げ玉ねぎと調味油、粉末スープに、サンバルと呼ばれる大量の香辛料、その全てを考えなしに突っ込んで蓋を閉じ、備え付けのカトラリーで塞ぐ。
「そうね、とくに何も」
「明日から仕事でしょ。ゆっくり休めた?」
「ん……」
 調理台で三分を待つ純子の背中に、はじめがぴったりとくっついてきた。
 肩越しに振り返り、顔を傾けて薄く唇を開く。背伸びしたはじめが純子の下唇を食み、舌を入れてきて、彼女の甘い唾液が喉の方へ流れ込んでくる。純子も同じようにする。
「何するの、ここ、外だけど」
「だって純子、寒そうだから……こうしたら暖かいでしょ」
「そうね、でももう三分たったわよ」
 はじめは長い前髪の向こうで、切れ長の美しい目を毬のように見開いている。
「だめ?」
「ダメなわけないじゃない」
 はじめに向き直り、無防備に緩んだTシャツの裾から手を入れて、柔らかい腹を撫でた。耳の横で息を呑む気配がした。そうする間にも純子の指は侵略を進める。腹から肋、脇の柔らかい肉を触って、すこしずつ核心に近づいてゆく。
「あっ、あ、純子」
「牛乳がもうないみたいだから……」
 スポーツ下着を押し上げて、ずっしりと質量のある乳房を揉みしだいた。
「はじめのおっぱい貰っちゃおうかな」
「変態」
「変態はどっちよ」
 はじめは耳を赤くしてうつむき、うにみたいな小さな舌で唇を舐めた。