2020年6月23日


A-4

 

 

 キューバでは、過酷な労働と天然痘のためにインディオは全滅した。アトウェイは征服者に最後まで武力で抵抗した勇敢な主張だったが、結局、火あぶりで殺された。十代はその伝説のインディオを、奇妙な表情で眺めていた。そのビールのラベルにも告白の芽が宿っているのだろう、と遊星は思った。「ヨハン」と呼ばれる男との思い出がアトウェイにも宿っているのだ。
「これ、あんまり強くないんだな?」
 喉を鳴らして半分ほどビールを飲んでから十代は言った、アトウェイには、十四度、とか十七度とかいうアルコール度の非常に強いものもある。遊星が十代に渡したのは六・五度という、あまり強くないものだ。
「アトウェイと、もう一つ、ビールがあるだろ」
「クリスタル、ですか?」
「そう、緑色の缶のやつ」
ビールを全部飲み、空になった缶を握ったまま、十代はハイヒールを脱いで足をぶらぶらさせ、それからストッキングをくるぶしまで下した。腸詰にしたソーセージのように細く引き締まった脚のさきにはワインレッドカラーのマニキュアが塗ってあった。割れた詰めの赤い色がヴァラデロの景色の中でよく目だった。十代は自分の足元を見ながら、またくすくすと笑った。
「昔、よくキューバにきてたころ、あれは何回目のキューバだったかな、初めてクリスタルを買ったんだ、十代、自分で買って御覧、ってヨハンが言ったからオレはヨハンと食事に行くために買ったナイトドレスを着ていかにもチンピラ然としたタクシーの運転手に近づいた、エクスキューズミー、そいつが言って、オレは、アイ、ニード、クリスタル、売人は当然売っちゃくれないよ、やつらは用心深いからまずはマリファナから買わなきゃいけないんだ、麻薬捜査官から逃れるための策がそれさ。そうやってお互いに安心させないと買えない仕組みなんだ、そんなものはないと言われてオレは泣いた、往来の真ん中でだ、タクシーの運転手に女が縋り付いて泣くんだ、なぜなら身体はもうあの粉をいっぱいに身体に吸ってからヨハンに抱かれる喜びを知ってたからさ、ヨハンはホテルの窓からそんなオレをじっと見てるんだ、オレの安っぽいナイトドレスに覆われた身体の中で居場所のない熱が荒れ狂ってるのを、じっと、見てるんだ、こう、まるで全部抉り出すみたいに見るんだ、オレは泣きながら言う、ヨハンという男を知りませんか、オレはその人に命じられてここに来たんです、それがないとオレは死んでしまうんです、お願いします、だが運転手はそんなものはないと言う、オレはまた泣きながらそこをはなれて、せめて代用品を手に入れようと思う、ホテル街のはずれの浮浪者やらホームレスやらがたむろする廃ビル、その地下に降りて、バーがあるんだ、売人御用達のバーでヨハンは何度もオレをそこに連れて行ったから知っていた、女のバーテンダーに近づいて、アイ、ニード、クリスタル、だが売っちゃもらえなかった、何故ならそんな呼び名はこの国じゃ通用しないからさ、オレは下手に知識を詰め込んだだけの麻薬捜査官と勘違いされて男のバーテンダーに取り押さえられたが、そのころにはもうオレのあそこはぐちょぐちょだった、あらやだはしたない、たぶんそういう風に言われたんだな、そこの汚いハイヒールがおれのあそこを抉った、客が笑って、オレはまた泣きたくなった、ヨハン、ヨハン、そういうふうに名前を呼びながらオレは客にめちゃくちゃにされて、そうだ、あのときそうやってぼろ雑巾みたいに扱われていたオレを、ヨハンはカウンター席の端でじっと見ていたんだ、いつのまにいたんだろうって考えている暇などなかった、あいつの美しいエメラルド・グリーンの髪が蛍光灯の黄ばんだ光に反射してきれいだった、ヘドロの匂いのするバーの中でも、ヨハンはきれいだった、浅瀬色の目がオレを見ている、ヨハン! オレは叫んだ、叫びながらイった、なぜならあいつのことを愛していたからだ……」
 そういう話をしたあと、十代は、疲れたから少し横になる、と言って、ベッドに横たわり眠ったのだった。遊星は十代の寝息を聴きながら四十分近く、アトウェイのビールの缶をぼんやりと眺めていた。
 
 かなたの雲はゆっくりと近づいてきて、やがてビーチの上空を熱く覆った。フリスビーを楽しむ若い白人たちの濃い影が消えている。雨が降り出す気配はないが、曇ったビーチは急に活気を失い、物憂げな閉塞感に包まれた。夕暮れが混じ会こともあってホテルに戻る支度を始める観光客も多い。キューバ人の物売りたちも商売道具を片付け始めている。彼らが一日中ビーチを歩いて売ろうとするのは、黒珊瑚やオウムガイで作った装身具、大量の民都トラムでできるカクテルのダイキリトロピコーラというキューバで作られているコーラ、キューバサルサバンドのカセットテープ、そして手作りの楽器、そういうものだ。
 水平線のあたりでわずかに雲が途切れている箇所があって、そこだけが鈍くオレンジ色に輝いている。海の法から吹いている風は湿っていて少しずつ涼しくなっていく。遊星はベランダのガラス戸を半分閉め、エアコンの送風も最弱にした。十代は身体を横向きにして、手足をおりまげ、ぐっすりと眠っている。
 午前七時、日が完全に沈んで、シャワーがヴァラデロのビーチを軽く濡らした後で、十代は目を開けた。二時間と少し、眠ったことになる。
 目覚めて、ここがどこなのか、自分がどこにいるのかわからない、といった不安げな表情を見せていた十代は、ライティングデスクに座って雑誌を読んでいる遊星を見つけると、体を起こして、微笑んだ。唇がヨハンを呼んだ。部屋はとても静かで、羽虫の飛ぶ音や二人分の呼吸音、ランプが接触不良を起こして鳴らすじじじという音、それからエアコンのモーターの音などがそれぞれの領分をわきまえたかたちでその静寂を守っていた。さっきウエイターが運んできたウエルカムフルーツがテーブルに載っていて、甘ったるいのと酸っぱい匂いが部屋に満ちている。
「おはよ、遊星」
 三十分後に、十代はやっと声を出した、
「何か食べに行こう」
 デュポン財閥の旧邸に遊星は十代を案内した。シャワーを浴びて、濡れた髪のまま十代は紅色のミニのワンピースを着た。ストッキングは付けずに、くるぶしまでの短い革のブーツを履いている。ブーツには銀色の留め金がついて、デュポン邸のアラベスクのタイルによく似合った。
「ここはきれいなところだな」
「そうでしょう。きっとあなたも気に入ると思っていました」
「庭園がいい、よく手入れされている。オレはこういうのすきだぜ」
「そうですね。あのバラなど、いまのあなたにそっくりです、十代さん」
 二人はそういう話をしながら黒い服のウエイターに案内されて玄関の大広間を横切り、アンティックな投機を飾ったガラス棚のある廊下を歩いて、小さなボールルームを改装したレストランについた。客はほかに三組いて、十代は注目された。トップモデルのように均斉のとれた肢体に紅色のミニのワンピースをまとった、美しく若い東洋人の女、財閥の宮廷に非常にマッチしているようであり、非常に場違いなようにも見える。
「なにか強い酒を」
 十代は、七年もののラム酒をストレートで注文し、それを一息に飲んだ。白くて、薄い皮膚に包まれた喉を琥珀色のラムが滑り落ちていくのが見えるようだった。
「ヨハンは、こんなところにオレを連れて行かなかった」
 二杯めのラム酒を飲み干して、十代は言った。
「ヨハンは基本的に金を持たない主義で、ちょっとでも彼の目に届かないところに金が増えるとみんなどこかへやりたがる難儀な性格をしていた、切り取られた金はかわいそうな子供のところに行くこともあったしオレの装身具になることもあった、オレはいろいろなものを買ってもらったけどこういうところに連れていかれたことはない、ヨハンは自分で料理ができたし娯楽にはセックスがあればよかったからだ。だからいまこうしておまえと食事をしているのが奇妙に思えてならないんだ、何度も言うがオレは気を抜くとおまえにヨハンの影を見る、ヨハンがこんなところにおれをつれていったのだと錯覚してしまうだろう、だからこうして線を引こうとするのかもしれない。ヨハンがオレを連れて行くのはたいていが屋台のがましってくらいマズい飯屋か気のいいおばあちゃんが経営しているような小さい飲食店だった、あいつは食事をすることよりもそこの人間とオレを会話させるのが好きだったんだ、
 十代、ごらん、彼の顔に傷があるだろう、
 傷?
 そうだ、彼はキューバ独立戦争でホセ・マルティに従った勇敢な戦士なんだ、
 ホセ・マルティって誰だ?
 訊いてごらん、
オレはそのウエイターの男に話しかけてみた、一八五センチもあったヨハンが顔を上げなきゃ視線が合わないくらいの大柄な黒人の男だった、もうずいぶん歳がいっているように見えたがそんなこと気にさせないくらい大きくて、確かに顔には風化して引き攣れた切り傷のあとがあった。ホセ・マルティって誰なんだ?オレは何の前置きもなくそう訊いてしまった、気分を害したかもしれないと焦ったが別にそんなことはなかった、
 お嬢さん、ホセについて知りたいのかい、
 うん、
 ホセは英雄だよ。ホセ・マルティ、俺たちみんなの太陽だ、
後で知ったがホセはキューバ人にとっての神様みたいなもので、記念館やら像やらがそこかしこにあった、これでいいのか、って俺がヨハンに聞くと、ヨハンは満足そうにして俺の頭をなでてくれた、実際に何をした人なのかとかどうして英雄なのかとか聞きたいことはたくさんあったけどヨハンにそうされたらオレはもう屈服するしかなかった」
 十代は、チリ産の赤ワインを飲みながら、前菜、スープ、メインディッシュ、それにデザートまで、残さずにすべてきれいに食べた。前菜はランゴスティン、つまりロブスターのカクテルだった。スープはランゴスティンのクリームスープで、メインはランゴスティン一匹丸ごとのグリル、デザートははちみつに付け込んだ蒸しパンだった、十代は、おいしいのか不味いのか不明な表情のまま、それらをきれいに食べた。かなりの量だった。特にロブスターは、巨大で身が詰まっていて、遊星は少し残してしまった。十代は、空腹だったのだろうが、がつがつとむさぼったわけではない、はたで見るとフォークとナイフを上手に使って、時折ナプキンで口元をぬぐいながらほとんど優雅とも言える食べ方で食べた。この女だけがレストランに似合っている、と遊星は思った。
「なあ、遊星はどうしてこんな国にいるんだ?」
 巨大なランゴスティンの白い実をナイフで切りフォークで口元に運びながら十代はそんなことを聞いてきた。
「大学生って言ったら、まだ学生じゃないか。ええと、遊星、いくつ?」
「十九歳です」
「まだ未成年か。驚いたぜ。留学ってわけじゃなさそうだし、かといって留年しているようにはとてもじゃないけど見えないから」
「恋人と別れた傷心を癒やしに来たんです。別にこの国じゃなくても、どこでもよかった。大学には留学に行くと言って一年間の休暇を取っています」
「わるいやつ。まじめな優等生かと思ったら、おまえ、へえ、そうなのか。オレは大学に行かなかったんだ。ずっとヨハンのそばにいたから大学の雰囲気は知ってるけど、実際どうなんだ、大学は楽しいか?」
「はい。