はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
何が起きたのか、幼い少年には理解が及ばなかった。ただこの一秒にも満たない短い時間のあいだに、彼は闇の中で誰かの絶望と悔恨の果てに共感し、その一端を血管や神経や細胞組織のうちにたしかに引き受けていた。
「あいつは膝を折った。でも、仕方のないことだったんだ。人間はもともと、そう強い生き物じゃないから……やつらとは違うんだ」
たおやかな指が涙の滴を拭い、ジョニーの顔を柔らかく包んだ。覗き込む双眸は邪心も虚飾もなく、それぞれ奇妙でちぐはぐな色に輝いていたが、長いまつ毛が何度か瞬きを繰り返すと、もとの甘いユーカリ蜂蜜の色に落ち着いた。優美な唇が皮肉をたたえて曖昧に歪む。
「オレはあいつの願いを聞いて、輪に輪を重ねた不条理から逃してやった。たどり着く先は無窮だ。決して光が射すことはないが、これ以上暗がりに転げ落ちる必要もない。オレの命がある限りは、少なくとも」
「君は神さまなの?」
何もかも理解できない中で、少年の唇が自然に放ったのはそんな一言だった。
彼はその首を緩慢に振る。
「神は人間の良心の形だ。俺は……そんな良いものじゃない……」
ジョニー・ボレッリはどこにでもいる、ごく普通の少年だ。イタリア・ヴェネツィアの街に生まれ、朗らかな気性の人々に囲まれて半生を何不自由なく過ごしてきた。
そんな彼は、十三歳の誕生日を迎えたこの年の夏季休暇、初めて一人旅の許可をもぎ取った。行き先はシチリア州モンレアーレに住む祖母の家だ。サンタルチア駅からナポリまでを電車で五時間、さらにそこから夜行列車で九時間行けば、シチリア州都パレルモにたどり着く。パレルモのホテルで夜を明かしたあと、朝早くに出る市バスに乗って一時間待ち、ようやくモンレアーレだ。何もかも自分きりで行わなければならない旅は少年に疲労と緊張を強いたが、それでも一枚だけのチケットを車掌が切ってくれた時には心が躍ったし、何度も目にしているはずの車窓からの景色も、どこか新鮮で珍しいもののように思われた。楽しい夏になる、ジョニーはそう確信していた。初めのうちだけは。
高鳴る胸を持て余していられたのは、祖母に迎えられ、豪勢な夕食を楽しんで、布団に潜り込んで眠りにつくまでだった。
翌日から、彼は一変してこの夏の行楽に失望した。とにかく退屈なのだ。モンレアーレはさまざまな文化遺産と歴史的建造物を誇る美しいノルマン芸術の街だが、行き交うのは観光客ばかりで、地元住民、特に子どもが少なく、遊び相手に事欠いた。この地において、ともに裸足で海を駆け、虫を追って林に分け入る友人を、彼は持たなかった。優しい祖母は老いていて、連れて行ってくれるところといえば毎週日曜日に赴く大聖堂くらいのものだ。それも数時間黙るか歌うかつまらない説教を聞くかのミサがもれなくついてくる。家から持ち込んだ漫画本も、課題の読書感想作文もすっかり済んでしまって、彼は瞬く間に倦怠の沼へと転がり落ちた。
ある日の夜、ジョニーは表の扉の方から何か叩くような物音を聞いた。
そのとき、彼は火のない暖炉の前のソファにだらしなく身を投げ出しながら、おやつのカンノーロを手持ち無沙汰に貪っていた。その日は夏期には珍しい雨の日で、それも一日中降り通したものだから、彼はこれ以上底がないと思うほどの退屈に身をやつしていた。祖母の家にはテレビもなければラジオもないのだ。一体これでどう毎日を過ごすのかと疑問に思うほどだったが、祖母は冬に向けて新しいセーターを編むのに夢中で、彼の退屈なんか知りもしないのだった。
そんな折に、珍しい来客だ。しかもこんな雨の夜に。ジョニーは光よりも早く飛び起きてどたどたと居間を駆け抜け、年季の入った木の扉に張り付いた。
「はぁい、今開けます」
手元と足元にひとつずつついたかんぬきを焦ったく引き抜き、勢いよく押し開く。
そして拍子抜けした。
玄関に所在なさげに立っていたのは、一人の若者だった。どう見てもアジア人だが、黒いシャツに色落ちした赤いジャケットを羽織り、後ろで一つに括った茶髪が煤汚れているのが彼を見窄らしい下人のように見せた。デニムパンツやブーツがほつれだらけなのもいけない。それでいて、顔だけは女のように綺麗なのが実に奇妙だった。
「やあ、こんばんは。いい夜だな」
男は強い雨脚にさらされ、ずぶ濡れになりながらそんなことを言った。英語訛りの強いイタリア語だったが、非常に流暢だった。
「そう怖がるなって。悪かったよ。家の人いる?」
彼がついだ言葉に、ジョニーは自分が拳を強く握り込めていたことに遅れて気がついた。男を警戒し、いざという時のために防衛の準備をしていたのだ。気づくと同時に心臓がバクバクと鳴り出した。この街に来てから久しぶりに感じる感情の変化だ。
「ジョニー、どうかしたの?」
「あ、おばあちゃん、来ちゃだめだ」
来客に気づいた祖母が居間から出てきたのを、ジョニーは必死に隠そうとした。少年のほんの小さな抵抗を、男は小動物の威嚇行動を眺めているみたいに笑う。
お人好しの祖母は男に気づくと、慌てて近寄ってきて彼を玄関に招き入れた。
「どうしたっていうの、そんなに濡れて。風邪をひいてしまうわ」
「突然ごめん、おばあちゃん」申し訳なさそうに頭を掻きながら、男は祖母に頭を下げる。「オレ、この辺を歩いて回ってる旅人なんだけど、今夜予約してたホテルが急にキャンセルになっちまって、宿無しなんだ。野宿しようかとも思ったけど、雨でどこもびしょびしょでさ。もしよかったら、雨が止むまでのあいだここで休ませてくれないかな」
男はジョニーの目には胡散臭い詐欺師の如く映ったが、祖母はどこまでも信心深い神の使徒で、常に奉仕の精神に満ち溢れていた。
「もちろんよ。せっかくなら泊まっていくといいわ。これから晩御飯にしようと思っていたところなの、あなたも一緒にいただきましょう」
「ありがとう。ほんと、助かった」
「そうと決まれば、まずはシャワーね。ジョニー、彼をバスルームに案内してあげて……この子はジョニー。わたしの孫なの」
「よろしくな、ジョニー」
男の右手が差し出される。
ジョニーはその、ずぶ濡れの右手を、恐る恐る握り返した。彼の手は平べったく、指もほっそりとしていて、まるで年頃の娘のもののようだった。
祖母が持ってきたバスタオルに包まれた男を、二階のバスルームに連れていく。彼は慣れない足取りでジョニーの後ろをついて歩きながら、キリストの肖像画や壁掛けの飾り皿、天井からぶら下がったドライフラワーなどを物珍しそうに見渡した。夜の雨の中で恐ろしい悪魔のように思われたその男は、家内のあたたかな照明の下ではごく普通の少年であるように見えた。背丈もジョニーや祖母とそう変わらないし、感謝して浮かべる笑顔はどこかあどけない。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
会話のない道行きに痺れを切らし、ジョニーは彼に尋ねていた。
彼はしばらく、遠い昔に置いてきた記憶を探るような目をしてから、答えた。
「遊城十代……ジュウダイ・ユーキ、だよ」
結論から言って、ジョニーは十代のことを本当に好きになった。
彼という人間は実に面白く、機知に富んでいて、彼が夕食のつまみに話す冒険譚も素晴らしいものだった。退屈していたジョニーにとって、彼の話は最高のエンターテイメントだった。
「それで、飛行機はどうなったの? 十代は大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃなかったら、今こうしてジョニーに会えないだろ。……結局その飛行機はサハラ砂漠のど真ん中に無事着陸したんだ。でも、天井がバキバキで、もう二度と離陸できないってことがわかった。どうしようもないから、オレは歩いてモロッコまで行ったんだ」
祖母が焼き上げたイワシのベッカフィーコを美味しそうに、なんでもなさそうに咀嚼しながら、彼は語る。
「サハラ砂漠は、昼は地獄みたいに暑いくせに、夜になると南極かってくらい冷え込む。そうすると、空の星がびっくりするほど綺麗に見えるんだ。風が吹くとチロチロ光って、何か小声でお喋りしてるみたいだった」
彼の語り口は独特のリズムと抑揚があって、まるで昔の王様の演説をビデオテープから聞いているような、そんな感覚をジョニーに与えた。彼がこの声で語れば、ペッパピグの子供騙しの物語も、古い神話のようになるに違いないと思った。ジョニーも祖母も食事の手を止めて、彼の物語に聞き入った。
夜が更け、草木も動物も眠りに落ち、静まり返る時間がやってきた。ジョニーは十代に自分のベッドの半分を貸すことにした。さっきの話の続きを聞かせてもらおうと考えたのだ。
しかし、寝巻きに着替えると言って一度バスルームに入った彼は、二十分経っても戻ってこなかった。
「わたしももう寝るからね。おやすみ、ジョニー」
ノックとともに部屋に入ってきたのは祖母だった。いつものようにおやすみのキスをしてもらう。彼女はそのまま自分の寝室に行こうと一度は背中を向けたが、彼がいないことに気が付き、改めてこちらに視線を向けた。
「着替えるって言ったっきり、帰ってこないんだ」ジョニーは不満をいっぱいに含んだ声でぼやく。「話の続きをしてくれるっていったのに」
「もしかしたら、何か困ったことがあったのかもしれないわね。ジョニー、様子を見てきてあげて」
「うん」
ルームシューズに、眠気で温められた足先を突っ込む。
廊下にも、吹き抜けから覗く階下の居間にも彼の姿はない。やはり、バスルームで困ったことに遭遇したのかもしれない。彼は廊下を渡って突き当たりのバスルームにたどり着き、薄い扉にそっと耳を寄せてみた。なんの音も聞こえない。再びシャワーを浴びているというわけではなさそうだ。
「十代?」
名前を呼びながら、扉をゆっくりと押し開けた。
案の定、十代はそこにいた。こちらに背を向け、鏡に向かってすっくと佇んでいた。ジョニーは安堵のため息をついたが、何度かの瞬きのあと、自分の視界に巣食う強烈な違和感を自覚した。直感に鋭い針が一本突き刺さり、そこから静電気が弾けたような、そんな感覚。
十代が振り返る。
彼は下半身だけを寝巻きのズボンで包み、上半身は何もつけていなかった。邪魔だてするもののない、剥き出しの肩身。細く、存外に華奢なその身体は……左右非対称だった。臍のラインを中心に、左右で異なるかたちをしているのだ。
左半身は、ごく普通の健康な少年のものだった。平らに張り付いた胸筋、引き締まった微かな腹筋のライン、しなやかに薄く筋肉を帯びた腕。
しかし、右半身は……そのどれも持ち合わせていない。白い盃のようにふくらんだ小さな胸。しなやかにくびれた腹。なよやかに伸びる細く頼りなさそうな腕。ジョニーも知っている。それは、女の形だった。
十代は、右半身に女、左半身に男の身体を持っていた。
ジョニーは息を詰めた。常識と理解の軌道を大きく外れた目の前の生き物に目を瞠り、それが趣味の悪い夢なのではないかと、興奮のあまり脳が混乱して妄想を始めたのではないかと、躍起になって空想特有の綻びを探した。だが、彼の肉体はたしかに現実のもので、外界にむかって健康そうに張り詰めていた。
「ごめん」
十代のため息が、放心するジョニーの思考を現実へと引きずり戻す。「変なもの見せたな」
彼の謝罪に返す言葉を、ジョニーは持たなかった。何か言おうとしても、うまく考えがまとまらないのだ。
十代は寝巻きを手に取り、上から被ってその奇妙な身体を完全に隠した。
「まあ、落ち着けよ。まずはお前の部屋に行こう。話はそれからだ」
手を引かれて寝室に戻り、ベッドに腰掛ける。十代は部屋の隅にある木のスツールを引っ張ってきて放心するジョニーの正面に置き、それに座った。膝に揃えて置かれた二つの手は、注意深く観察しなければわからないが、よく見るとちぐはぐだった。左手はわずかに骨張って、皮膚も硬そうなのに対して、最初にジョニーが握手をした右手は細く柔らかな形をしていた。
「オレは魔女なんだ」
ジョニーの目を、枯葉色の目で真っ直ぐに見つめながら、十代はそんなふうに言った。
「……魔女?」
「そう、魔女だ」
「魔法が使えるってこと?」
小さな頭が横にふれる。そういえば、身体はこんなにもはっきりと分かれているのに、彼の顔は几帳面なほどに対称だった。見ていると気分が悪くなりそうなくらい、完全で冷たい美が備わっていた。
「魔法という言葉が、科学にはなしえない奇跡の所業を指すとするならば、オレは魔法が使えないってことになるな」
「言ってること、難しくてわからないよ」
「そうだな……要するに、人を生き返らせたりとか歴史を変えたりとか、そういう感じのミラクルは起こせないってことだ。やろうと思えばできるのかもしれないけど、今まで誰も試したことがないし、これからもきっとない。宇宙が物理の支配を受けているうちは、そういうことをしても意味がないんだ」
思考がまとまらない。彼の言葉が何一つ頭に入ってこないのだ。
「でも、お前の目に見えないものが見えるし、お前の耳に聞こえないものが聞こえる。魔女っていうのはそういう存在だ」
十代の右手の指先が、ジョニーの前髪を跳ね上げ、額に優しくさわった。
「僕の目に見えないもの」
「そう。たとえばそれは、お前の運命だ」
「僕の未来がわかるの!」
「落ち着けよ。わかるっていうのとはちょっと違う。魔女は基本的に観測するだけだ」
やがて、男の左手も右手に追随し、ジョニーの頬に触れる。二枚の、異なる性質を持つてのひらが、十三歳の少年の顔を水のように包む。
十代が鼻先をぐっと近づけて、至近距離で覗き込んできた。月夜の美術館にたった一つ置かれた白い胸像を思わせる顔、ベールを透かしてみるような、何か怪しい美しさをたたえた顔が、呼吸さえ交わるほど近くにあった。彼の美しさは欲も感動も呼ばない。ただ、ジョニーが今まで経験したことのない殊勝な感情……畏怖が、モーゼが岩を杖で打ってもたらした湧き水のように、ジョニーの胸中を静かに満たした。
「見たいか」
薄い唇がそう囁く。
「見たい……」
「いいぜ」
十代は微笑んだ。皮肉で、意地悪で、運命さえも翻弄する悪魔のように、笑った。そうして、瞼をしばたかせたかと思うと、次の瞬間には左右異なる色をたたえた瞳がジョニーを覗き込んでいた。
一呼吸の間に闇が視界を覆う。
愛と無に満ちた優しい闇。柔らかくて、温かくて……遠くから聞く汽笛のような深い音が、一定のリズムで聞こえてくる、これは心臓の鼓動の音。鼻をくすぐるのは羊水のにおい。
闇は女の子宮の形をしていた。ジョニーはその形を知っていた。だが、同時に去来したのは、安心でも愛着でもなく、底なしの絶望と悔恨だった。胸の内側から身体全体を腐食せんとする、冷たく、粘り気のある情動。その貌を自らの中に認めたとき、彼は自我の実在すら憂いた。こんなものが、自分の中にあっていいはずがない。抉り出し、潰してやろうと胸を掻きむしろうとして、今の自分に腕も手もないことを思い出す。実態がない。
——どこで間違えた?
低い男の声が言う。
——いいや、間違えたのではない。最初からだ。最初から、あってはならないことだった。
闇はやがて形を変え、ただの無感動な空洞になり、苦しみ悶えるジョニーを中心に急速な収縮を始めた。迫り来る影に怯え、震えながら、ジョニーはふと、懐かしい感覚を得た。絶望と悔恨のどちらでもない。潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ。
何かが右頬を伝う感覚で、彼は再び、彼の現実を取り戻した。
十代の柔らかい指が、それをやさしく拭ってくれる。涙だ。ジョニーは泣いていた。一秒にも満たない僅かな時間の間に、彼はその男と深い部分で共鳴し、組織を男の心の形に定義しなおしたのだ。
「
訳のわからないことを、十代は言う。懺悔のようでも、ただの告解のようでもある。
手のひらに包まれた頬が温かい。ようやく人心ついた感じがする。ジョニーが自らの実態に帰り着くと同時に、十代の瞳も、もとの人間らしい色を取り戻していた。
「オレはあいつの願いを聞いて、輪に輪を重ねた不条理から逃してやった。たどり着く先は無窮だ。決して光が射すことはないが、これ以上暗がりに転げ落ちる必要もない。オレの命がある限りは、少なくとも」
「君は神さまなの?」
十代は首を横に振った。悲しい目だ。そんな単語聞きたくない、とでも言いたげな目。
「神は人間の良心の形だ。オレは……そんな良いものじゃない……」
その真意を問いただすことは、できなかった。
翌朝、目覚めたジョニーの傍らに、共に眠りについたはずの十代の姿はなかった。
早くに起きていた祖母によれば、彼は朝食のワッフルを丸々三枚平らげ、日も登らないうちに家を出て行ったそうだ。結局ジョニーは、わくわくするような冒険譚の続きも、十代の本当の正体についても聞くことなく、あの謎めいた不思議な人を見失った。
その後、ジョニーは彼のことを急速に忘れていった。はじめは毎晩確かめるように脳裏に確かめていたはずのあの不可思議な出来事のことも、日を重ねるうちに靄をかけたように掴み所のないものになっていき、やがて思い出すこともなくなった。十代の名前すら、祖母がその名を挙げてようやくかすかに頭をよぎる、そんな程度のものになっていた。
ジョニーはつつがなく、彼の退屈な日々に帰っていったのだ。