XIII

 

 


 生まれてこのかた、特別仲がいい友人も、まして恋人なんて、いたためしがなかった。そのことについて、私本人も、あまり気にしなかった。それでも、親戚のお姉さんが、結婚はしておくべきだわ、と言ったから、女子大を卒業したあとすぐに婚活をはじめた。私と言ったら、無器量で、会話も下手で、目つきが悪くて性格も暗い。五人の男の人とお見合いして、断られて、六人目でようやく、私と結婚しても良いという人が現れた。古賀公貴さん。国立大学卒、商社勤め、私なんかが結婚できるのが不思議なくらいの、えりぬきのエリート。デートとは名ばかりの、目的を達成するためだけの行楽に出て、相手の欠点が耐え難いものでないことを確認して、帰りがけに婚姻届を出した。私は、青八木一子から、古賀一子になった。
 新居、新興団地の一室、狭い寝室ではじめて身体をつなげたとき、ああ、こんなものだったんだ、と思った。人間が生殖することくらい知っていたけど、そのほかは何も知らなかったから……ちょっと夢を見ていたのかも……ほとんど柔らかいままの夫の陰茎がお腹の中を出入りして、生臭い精液を出されて、それを二回ほどやった。ぜんぜん気持ちいいとか、なかったし、のしかかってくる身体が重くて、広げられた股や皮膚が痛くて、すごく泣きたい気持ちになった。でも、子どもは欲しいし、夫の実家もそれを望んでいた。相談して、月に二回くらいはそういう時間を作ろうということになった。
 毎月、第二日曜日と、第四日曜日だけ、夫が家に帰ってくる。気合を入れて作ったご馳走を当然のように腹に入れ、世間話もそこそこに彼は私を寝室に連れていく。部屋が明るくて嫌なのに、服を脱がされて、寝かされて、適当にほぐされた穴に夫が入ってくる。今度こそって思うのに、生理は毎月ちゃんとやってくる。まだ続くのかとため息をつきながら、海外にいる夫に報告の電話をかける。だいたい出ないから留守電を入れる。彩りも、変化もない、原因のわからない吐き気だけが強く染みついた日々。このままじゃだめだと思って、私は、開いたり閉じたりして、くしゃくしゃになったチラシの番号に電話をかけた。

 千葉駅の東口で待ち合わせをすることになった。ロータリーを出たり入ったりする市営バスを眺めて待った。県庁所在地といっても夜は治安が悪いし、特に東口は繁華街だからすごく警戒していたけど、心配しなくたって、可愛くも美しくもない私に声をかける物好きなんていなかった。マフラーに赤い鼻をくっつけて、風に舞い上がるぽさぽさの前髪を眺めていた。
「いちこちゃん?」
 七時きっかりに、彼は現れた。声だけで、おととい電話に出た人だとわかった。
「ジュンです。待たせてごめんね」
 無言のまま顎を引いて、私は、少し背の高い彼を見上げた。私なんかを抱いても良いというだけあって、よっぽど趣味が悪い人なんだろうなと思っていたけど、目の前の彼はふつうの、ふつうのというのも変かもしれないけど、モデルか、俳優みたいにかっこいい人だった。キムタク? ケンティー? さいきんの芸能人のこと、知らないけど。鼻が高くて、眉がキリッとしていて、髪の毛はくるくるパーマで、子どもみたいな目をしているのに、濡れた赤い唇がエッチな感じだった。くすんだ緑のハイネックの首に、シルバーのネックレスをしているのを見つけて、私は彼の顔じゃなくてそのネックレスのチェーンばかり見ていた。
「寒くない?」
「……、……えと、べつに……」
 やっと絞り出した、蚊の鳴くような声。恥ずかしくてみじめで俯くのに、彼は文句も言わず、私の指を優しく握ってくれた。
「でも、指、冷えてる。ずっと待ってたんだね」
「……」
「行こっか。ホテルまで手繋いでていい?」
 肯定も否定もしないのに、彼は勝手に私の手を取って、上等そうなコートのポケットに入れた。
 子どもみたいで恥ずかしい。今夜、私はこの人に抱かれるのに。厳密に言えば、入れたり、出したりしないから……抱かれるというか、いじくられるというかなんだけど。だから不倫じゃない。あくまで公貴さんのために、私は、この人に女にしてもらう。公貴さんの子供をつつがなく産むために、彼の施術をうけるのだ。
「おねがい、あるの」
 歩きながらボソボソと呟いた私を、彼は、静かに見下ろしていた。
「名前呼ばないで。私、古賀一子だから。古賀さんって呼んで」

 お店に電話してジュンさんが出たとき、私は、自分がすごく汚れたものになったように思えて、怖くて悲しくて泣いてしまった。
 もう長らくセラピストをやっているけど、電話の段階で泣いちゃったの、奥さんがはじめてだよ、と電話口で彼は笑った。それから施術は不倫じゃないよとも教えてくれた。エアコンが壊れて、修理を外注したり、家事代行を頼んだり、タクシーで駅まで運んでもらったり、整骨院でマッサージしてもらうのと同じだよって。ぐずぐず鼻を鳴らしながら、優しい彼に私も"業務委託"した。
 夫とのセックスで感じない。子供がほしいのに、痛くて、気持ち悪くて、セックスに積極的になれない。でも夫は、こんな私を受け入れてくれた人だから、正直なことを言って困らせたくない。夫とのセックスが初めてだから、よくわからないけど、感じるようになったら、たぶん、もう少し積極的になれると思う。感じるようになりたい。子供ができやすいからだになりたい。的を得ない自分の話が恥ずかしかった。オナニーはするの? と聞かれて、よくわからなくて聞き返してしまったのも恥ずかしかった(ひとりセックスのことらしい)。彼は、じゃあ俺が行くよと言ってくれた。サイトを紹介してくれたけど、男の人たちのプロフィールがたくさん載ったページを見ても、良いとか悪いとかよくわからなかったので、おねがいすることにした。
 彼が選んだ、天蓋付きベッドの部屋に入る。ラブホテルって入ったことなかったし、公貴さんもそういうのあまり好きじゃないみたいだったから、余計に緊張した。手を握って宥めてもらいながら、硬くて小さい椅子に座って、カウンセリングシートを書いた。体調はどうですか? げんき、たぶん。重点的にマッサージしてほしいところはありますか? わからない。女性向け性感マッサージの経験はありますか? ありません。責められたいところはありますか? ……膣。好きな香りは? レモン……とか、オレンジとか。照明の明るさは? 明るいのは嫌。されたくないことは? キス。
 準備している間、お風呂に入っておいでと言われて、シャワールームに放り込まれた。広いジャグジーバスには、すでにお湯が張ってあって……いつの間に準備したんだろう、白い温泉の素が入っていた。すごくいい匂いがする。シャワーを浴びて、お風呂に入って一息ついて、ほどよくふやけたところで、足湯状態のまま全身の毛を剃った。もともと毛の薄い方だし、股には生えてさえいなかったから、赤ちゃんみたいで恥ずかしいけど、このときばかりはかえってよかった。全身鏡の中に、カリカリに痩せた生白い身体が立っていて、これが夫以外の男のひとに抱かれる身体なんだって思ったら、また涙が出そうになった。
「古賀さん、おかえり」
 バスローブに包まれた浅ましい身体は、部屋に戻ってすぐ、上半身だけ裸になったジュンさんの腕の中に閉じ込められた。部屋は、ひな祭りのぼんぼりみたいな形の照明が二つ、おだやかに光っているの以外は、うっすらと暗かった。いいにおいのアロマも焚いてある。一泊四千円の安いホテルなのに、なんだか異世界みたいだ。ハグも気持ちいい。ジュンさんの身体からは、ジャスミンのお茶みたいな香りがする。
「……ジュンさん」
「ジュンでいいよ。お茶沸かしたんだけど、飲む?」
「えと、だいじょうぶ」
「じゃあ、はじめるな。ベッドの上にうつ伏せになって」
 バスローブを脱いで、胸を下にしてシーツの上に寝た。剥き出しの背中に、タオルか何かがかけられる感じがした。さいしょは、マッサージから。リラックスしていないと気持ちよくなれないから、まずはマッサージで血流を良くして、股を濡らすんだって。
「肩凝ってるな、仕事なに?」
 首のうら周りにオイルを塗りながら、ジュンさんが聞いた。
「……しごと……してない。主婦……」
 肩甲骨のあたりに、彼の手で温められたオイルがぬるぬる塗り広げられる。あったかくてぼーっとした。ふしぎだ、さっき会ったばかりの人と、こんなことしてるなんて。
「でも主婦ってサラリーマンより大変だって聞くよ。二十四時間働かなきゃいけないから」
「たぶん、私は……えと、夫のほうが、たいへんだと思う。いまアメリカに行ってて、日本にいない……」
「へえ、すごいんだね。研究者かなにか?」
「商社……の人。何してるかは、あんまり……知らない」
肘から手まで、猫を撫でるみたいな手つきで触られる。キッチンに立ってばかりで固くなった足を、大きな手に包み込まれる。マッサージがうまい。私より私のことを知っているみたいだ。エステみたいだ。どんどん眠たくなってくる。うとうとしていたら、足の指の間に、オイルまみれの指が滑り込んできた。あ、と声を上げそうになったのを、頑張って堪えた。「声我慢しなくて良いよ」彼が言った。
 濡れた手は、すねから上へと昇ってきて、ふくらはぎを撫でさすってから、ゆっくりと太ももに移動した。敏感な薄い皮膚を指で触られて、ふ、と息がもれる。ろくに肉もついていないのに、硬い指が触れるのが、狂いそうなほど気持ちいい。しぜん、びくびくと、伸ばした足が痙攣する。びっくりした猫みたいに首を伸ばした私を見て、彼が後ろで、くすくす笑うのがわかった。
「気持ちいい?」
 耳の近くで、ジュンさんの低い声が言った。さっきまでの雑談とは全然違う、熱っぽくて、湿った声だった。返事を待たず、今度は手のひらが、内ももへ、じれったいほどゆっくりと上がってきた。恥ずかしくて耳が燃えるように熱い。背中がぞくぞくとして落ち着かない。お腹が熱い。こんなのはじめてだ。
「……っひあ……!」
 思わず声が出た。股からでてきた何かが、私の内ももをつうっと伝っていったからだった。
「よかった、ちゃんと濡れてる」
「……、え」
「セックスで感じられないって、言ってたでしょ。でも今、膣が濡れてるってことは、古賀さんが感じてるってことなんだよ」
 そう言って、ジュンさんは、私の身体を仰向けにした。私ははっとした。タオルもないまま、つんと尖った乳首も、薄っぺらい胸も、浮き出た肋骨も、突っ張った脚も……はしたなく濡れた股も、ぜんぶぜんぶジュンさんに見られている。
「やだ。やだっ」
「だいじょうぶ。俺にまかせて」
 太い親指で、股の入り口の敏感なところをすりすり撫でられる。寝かせた指の節が、すごく敏感なところに引っかかって、声がとまらなくなって、がんばったけど我慢できなくて、布団を噛んで声を我慢しようとしたら、口の中に彼の左指が入ってきた。舌をいじくられながら、入り口をひたすら優しく触られた。くちゅくちゅ恥ずかしい音がする。はずかしいのに、どんどんとろけていく。さっきからお腹の内側に、くすぐったいような焦れったいような感覚がずっとある。舌を引き出されたまま、泣いてるみたいな声を出す。やだあ、やめてえ、子供みたいに繰り返す私を無視して、ジュンさんは、クリトリスもすりすり撫でてくれた。
 ジュンさんの顔は、くるくるの髪の毛がカーテンのようにかかってよく見えなかった。筋肉のついた分厚い肩にしがみつきながら、しあわせと、恥ずかしい気持ちで嗚咽した。


 俺は、純太。手嶋純太。ジュンってついてるくせに、あんまり純じゃない。自分で言うのもなんだけど、性格は最悪だ。陰湿で、臆病で、視野が狭くて、見栄っ張り。親に黙って女風セラピストなんてやってるし。もう二十五だし、一人暮らししてるし、親とか関係ない、んだろうけど。でもこうして、見ず知らずの女の人の股を触っているとき、ふと、我にかえることがある。
 べつに、昼職がうまくいってないわけじゃない。電気作業員の仕事は悪くない。就職して三年、市営住宅を二つ三つ丸ごと任されているし、最近第一種電気工事士の資格をとって、大きなビルとか、ショッピングモールとかの案件もやらせてもらえるようになった。給料は三〇万たらず、わりと良いレストランで食べられるくらいボーナスがもらえることもある。それでも……胸に引っかかるものがデカすぎて、俺は、女の人の優しさに漬け込んでいる。最悪だ。
 俺を呼ぶお客さんは、だいたい三十代から五十代くらい。既婚が圧倒的に多い。というのも、俺は旦那とうまくいっていない、また旦那との生活に飽き飽きしている大人のお姉さんを、甘やかしたり、はたまた彼女たちに甘えたりすることが、すごく得意なセラピストらしい。俺も若い子より、彼女たちのほうを扱いやすく感じてたから、年上女性の依頼を積極的に受けてきた。
 古賀一子は、そんな俺のところに、泣きながら電話をかけてきた。
 かわいいとか、かわいくないとかいう前に、扱いやすそうだなと思った。リピートしてくれそうだとも。彼女は俺とタメで、でも人妻で、旦那とのセックスに不満があるタイプの客だった。それで、旦那以外との経験がなかった。とりあえず会ってみよ……そう思って千葉駅に行ったら、案の定、小さくておどおどしてて、騙されやすそうな女の子が待っていた。茶髪でおかっぱ。髪はぼさぼさで化粧っけもない。一言でいえば地味。しかも、声ちっさすぎ。電話でも思ったけど。
 まあ仕事だし、さっさとホテル行って適当に済ませよ、と思って、俺は彼女と手を繋いだ。彼女は終始寂しそうな目をして、雨上がりの繁華街を歩いていた。
 気づいたら、彼女は、とろとろになって失神していた。膝立ちになって震える俺の前で。俺はありえないほど興奮して、時間ずっとすぎてんのに、彼女の身体をいじくり回していた。ずっと名刺に、昼職の、緊急用の携帯番号をアホみたいに書き込んで、緩慢にひらいた小さな手に握らせた。プロとして完全に失格だ。それでもまだ……気のせいだと思ってた。
 何を? 彼女に惹かれる自分をだ。