悪夢

 

 

 

 痛い。
 痛い。痛い。……痛い。
 うまく呼吸ができない。痛くて苦しくてもがいても、身体が灰色の鉛になったかのように重たくて、うまく動かせない。小さくて透明で冷たくて、鋭い歯を持った生き物が、わたしの全身を這い回っているのだ。手も足も、胃も、腸も、骨も神経も肉も皮膚も、脳も子宮も、あらゆる場所に取り憑き、牙を立てて、わたしの全てを食い潰そうとしている。わたしをわたしでなくそうとしている。
 このままでは、愛おしいあの人のことも忘れてしまう。
 ……あの人はどこ?
 名前を呼んでも返事がない。温かな抱擁も、優しいキスもない。涙が次々に溢れてきて頬を濡らすけれど、拭ってくれる人はどこにもいない。わたしは真っ暗な夜の闇の中にひとりぼっち。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続けている。一匹が、その小さな体をうねらせながら、膣の中に入ってきた。気持ちが悪い。嘔吐感を必死に喉の奥にとどめながら、わたしは必死な思いで膣に指を入れ、その一匹の居場所を探った。指は何の手応えを得ることもなく、ただ濡れた肉の壁を左右に擦る。気持ちいい。
 気持ちいい。痛い。痛い。気持ちいい。気持ちいい。
 わたしの膣は、自分の指にあの人の幻想を結びつけて濡れていた。あの人はわたしを抱くとき、いつも優しく時間をかけて入り口をほぐしてくれる。指を入れてすぐの硬い部分から、ひだの立つ天井部分、緩やかに広がった奥の空間。ゆるく勃ち上がったクリトリス貞淑ぶって小さく縮こまる尿道口。指の腹のざらついた部分で、あの人を求めてぐずる粘膜をくまなく愛撫する。あの人がいつもしてくれるように。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続ける。わたしの指は、敏感で弱気でかわいそうな女の器官を慰める。痛みからか、快感からか、わたしの唇からは湿った呼吸がひっきりなしに漏れた。
「あ……お、っひ、あっ、あっ、あっ」
 苦痛と歓びがないまぜになる。寂しくて、訳がわからなくて、わたしはさらに泣いた。

 ひとつの瞬きののち、わたしは素敵な花畑の中に立っていた。
 生き物も、夜も、みんななかったみたいにきれいな花畑だった。白くて可憐なスノードロップ、慎ましやかなチューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、小さな池には小さな睡蓮の花が浮かび、灌木の枝には花蘇芳がいっぱいについている。花びらと小さな葉の向こうには、ハートや星の模様がついたウサギのぬいぐるみが、小さな身体で転がって遊んでいる。空は薄い紫とピンクの混ざったかわいいパステルカラーだ。
「わあ……!」
 嘘みたいだ。痛いのも苦しいのも、気持ちいいのも、みんなどこかに消えてしまった。残ったのはうきうきと高鳴る心と、分不相応に軽やかな身体だけ。
 楽しくて、舞踏会のお姫さまみたいにくるりとターンすると、次の瞬間にはわたしの身体はかわいいドレスに包まれていた。胸元には薔薇の飾りと大きなリボン、腰から足元までをたっぷりと華やかに彩るフリル。健康そうな腕を覆う上品なイリュージョンレース。左手の薬指にきらめくのは、王子さまがくれた金の指輪だ。踵を上げると、キラキラと宝石のように輝くピンクのガラスの靴が、足にぴったりはまっているのに気がついた。
 頭がふわふわする。ゆらゆらする。楽しい。楽しい!
 ちぐはぐなワルツを踊りながら、ウサギたちに近づく。ステップを踏むたびに花は潰れてしまうけれど、仕方のないことだ。
 ウサギたちは、わたしに気づくと、ぴょんぴょん跳ねながら挨拶をした。それから、彼らの向こうに鬱蒼と茂る、深い森の中を指し示す。
「どうしたの? なにかいるの?」
 光るきのこや奇妙にねじ曲がった木々の中。こちらに背を向けて、誰かが立っている。白い軍服に青いベルベットのマント。スラリとした長身。あの人だ。わたしの、王子さま!
「ジョニー!」
 ウサギたちの群れをかき分けて、わたしはあの人に駆け寄った。彼は、まだわたしに気づいていないようで、その横顔に悲しい空気を漂わせている。でも、もう大丈夫。だってわたしがついているもの。
 彼の背中に飛びつこうとして、不意に、ドレスの裾を後ろに引っ張られた。
 振り返る。裾に噛み付いてわたしを押しとどめたのは、猫のぬいぐるみだった。すみれ色の二つの目がわたしをじっと見ている。鋭い犬歯が、裾のフリルにしっかりと噛み付いている。
「……、むー」
 ひどい。あの人のもとに行こうとするわたしを邪魔するなんて。
 わたしはしゃがんで、ネコと視線を合わせた。そうして、両手でその身体を持ち上げる。ネコの身体は、思ったよりもずっと重くて大きくて、ずっしりしていた。向けられた視線に困惑が混ざる。
「悪い子には、おしおきですよ!」
 そのとぼけた額を、軽く指で爪弾く。
 すると、ネコのぬいぐるみはポンと煙を立てて消え、代わりにたくさんのキャンディが降ってきた。カラフルな包み紙を纏った、さまざまなフレーバーのキャンディ。
 すごい、すごい! ここのぬいぐるみたちは、弾くとキャンディになるのだ。試しに一粒口に入れると、甘くて、ちょっと酸っぱくて、とても幸せな味がした。わたしは嬉しくなって、あの人のもとに行くことも忘れて、ウサギたちの方に踵を返した。
 くるくる踊る。夢見心地のダンス。ウサギたちもみーんな弾いて、キャンディにして、そうしたらあの人は、……わたしを抱きしめてくれるだろうか。

 ずるずると黄色い脳髄を啜る、神経をちぎって貼り合わせて、ばらばらになった骨は深海魚の夢の中、くらくらと血管を漂いわたしは果てを散歩する、あの人とたったひとつのいのちを分け合ったような気分になるのはなぜ、つよくておおきくてずっとこわかった彼がこんなにも弱くて脆くて矮小な存在だとわかってわたしはうれしくなった、わたしはずっと彼を慕いながら心の底で恐れていたいつかわたしからみんな奪い去ってしまうのではないかと、ああ、あの人も、兄さんもおとうさんもおかあさんも、わたしは臆病で、あの人の首筋に巻きつくわたしの腕はただの木偶だ、彼は背が高くて勇気があって美しかったから、でもわたしのほうがずっと強くておおきくてそう、神秘を戴き得る器など人間の中にはひとつとしてないのだ、あの人の死。官能。嫉妬。束縛。永遠。憂鬱。滅亡。裏切り。わたしはずっとずっと<わたしたち>に喰らわれる痛みと苦痛に耐えて鋭い牙とささくれた鱗とで引き裂かれ食いちぎられなんどもなんどもなんども、いつかいとおしくてだいすきであの人を食べてしまうかもしれない、風船みたいに膨らんで破裂する、からだはぼろぼろ、こころはゆらゆら、これは報いだ あく ああ、彼の命はこんなにもおいしい……