2023/06/25

 

「行かなきゃ……おとうさんが!」
 スプリングの反発で細い身体が浮き上がり、おぼつかない足では体重を受け止め切れずに彼はよろめく。その肩を胸に受け止めたのはクリスだった。
「あなたが行ってどうなるの。一つの国が負けるっていうのは、もう打つ手が無いってことなのよ。内戦が起きたりみんな奴隷にされて連れて行かれたり、このあともいろんなことが起こるでしょうけど、なにひとつだってあなたにできることはないわ。行ったってむだに殺されるだけよ」
「離して……」
「抑えなさい。自分の無力を認識して、その上で力を蓄えるの。そのあいだ学園はきっとあなたを守るわ」
 クリスが淡々と語りかけるうちに、彼は力を無くしてゆき、しまいにはうつむき、よろよろと膝をついた。伏せた瞼からみるみるうちに涙の滴が膨らみ、張力を離れたぶんが大理石の床にこぼれた。訳がわからないといった様子で瞼を擦り、それでもなお流れる涙を不思議そうに見ていた彼だったが、そのうち両手で顔を覆った。かつて義姉にしてもらっていたように、クリスの腕に抱かれながら、彼は静かに、あるいは孤独に泣いた。
 ゴールドはそんなふたりを黙って見つめていた。そうして、今まさに殺されようとしているかもしれない彼の父親について思った。鈍く銀色に輝く刃先を首に押しつけられた黒髪の男、シルバーが大事に持っていた写真の、その人はやがてなつかしいゴールドの父親の顔にすり替わる。むしょうにイライラする、ここにいる誰一人として、シルバーのために何かできるものはいないのだ。

 冷ややかな暗闇の中で、骨張った線の細い指先が懸命にロザリオを握っている。十字架と五九個の小ぶりな真珠からなる円環、その一粒にふれ、普段人間がどれだけ神に恩寵をかけられているかということ、それから聖母マリアが祈りを神に取り次ぐことを思いながら祈る。それを球の数ぶん行う。硬い床にひざまづき、ベッドに肘をついて、血の滲むような祈りの修行に勤しむシルバーを、ゴールドは扉の前から見ていた。
 二月もの間に春がやってきて、シルバーは前よりもずっとやつれた。もともと華奢で繊細なところがあった彼だが、今はそれにこと拍車がかかり、今ではまるで死人が裁きを前にして祈っているようなありさまだった。そしてそのどちらについても、シルバーは知らない、知る由もないのだ、鏡も見なければ窓の外を見ることもなく、ただカーテンを閉め切った暗い部屋の中で祈り続けているのだから。授業に出ることはおろか、食事をしたり、誰かと会話したり、そういった人間として当たり前のことを断っているのだから。それが彼の精神をより不安定なものにした。
 げんにその朝も、昨晩ゴールドが置いていった粥の盆はそのままになっている。
「なあ……もういいだろ」
 古くなった粥を新しいものに取り替えながら、ゴールドは半ば独り言のように呟いた。
「クリスだって心配してたぜ、なあ、いい加減出てこいよ。おまえが祈ったって、どうせ神なんて居ねえんだから」
「うるさい!」
 布を割くような叫び声とともに、シルバーがグラスを掴んでこちらに投擲した。ゴールドの足元でガラスがいやな音を立てて砕け散る。
 シルバーの銀の星はぎらぎらと冷たい情熱に輝いていた。頬は肉が削げて骨の形が顕になり、唇は紫色に褪色してささくれだらけになっていた。肩ばかり荒い息に激しく逸っている。クリスはもうしばらく彼の顔を見ていないらしいが、こんな姿を見たら卒倒することだろう。
「なにもいらない、いいから出ていってくれ」
 ゴールドは物わかりよく、無言で部屋を辞した。
 覚えのある感情だ。信心深くやさしかった父親が死んだとき、ゴールドも同じようにして周囲にその鬱憤を示した。母親はそのときなにも言わずに放っておいてくれたが、スクールの同級生となるとそうは行かなかった。彼らは不調法にも噂を広め、錯乱するゴールドを揶揄し、また彼の父親を馬鹿にしさえした。ゴールドはそれに耐えられなかった。面白おかしくこの悲劇を吹聴する生徒のクラスに乗り込み、彼の胸ぐらを掴んで引き倒した。頬骨にヒビが入るほど、顔一面が膨れ上がって原型を失うほど殴りつけ、彼が泣いて許しを乞うまで続けた。教師が慌てて介入し、わけも聞かずにこの件を上に報告した。こうして、ゴールドはスクールから放校処分になった。
 ペテロ館のロビーを過ぎて回廊に出ると、クリスが落ち着かない様子で待っていた。彼女はゴールドを見つけると慌てた様子で駆け寄ってきた。ジャケットの襟で金の薔薇が誇らしく輝いている。「シルバー、どうだった?」
「……まあまあだな」
 適当に誤魔化してやり過ごそうとしたが、彼女はゴールドが持ち帰った粥の盆を見て賢しくすべてを悟ったようだった。ため息混じりに首を振って項垂れる。
「そう……」
「おまえが気にすることじゃないって。オレたちは、あいつが帰ってきたときにいつも通り迎えられるように準備しとくだけさ」
「ねえゴールド、わたしたち、このままなにもできずに見ていることしかできないのかな」
 両手で顔を覆って、クリスがその場にへたり込んだ。
「シルバーはあんなふうに苦しんでいるのに、わたしたちは見ているだけなの? なにもできないの?」
「目を逸らさず見ているのも勇気だ。おまえがそうやっていてくれるだけできっとあいつは救われてるさ」
「だいすきって言ってくれたの、シルバー、わたしのこと……」
 頼りなく震えながら嗚咽混じりに訴える。もうたくさんだ、友人が泣いているところを見るなど……華奢な女の肩を引き寄せ、努めて明るくゴールドは言う。
「なあ、どっか出かけようか」
「ゴールド」
「デートだデート! あいつがオレたち見て、自分も出たいって泣きついてくるくらい楽しいことしてやろうぜ」
 クリスはまだ何か言いたげだったが、ゴールドはかまわずに彼女の手を引いて立たせた。
「コート着て礼拝堂ン前に集合な!」
 シュロス湖畔、オークの森に囲まれた場所には小さなテニスクラブがあって、土曜日にはもっぱら生徒たちで賑わうのだが、その日の野外コートはガラ空きだった。一番コートのネットを挟んで、ジャケットを脱いでシャツだけになり、スラックスを捲り上げたゴールドと、スカートの下にハーフパンツを履いた格好のクリスが向かい合う。カフェ・テニスパラダイスの屋外スペースで、ビールを片手に談笑していた大人たちが、真に迫った二人の様子を不思議そうに眺めている。
「サーブは譲るぜ」
 ベースラインの後ろに立って、軽くストレッチをしながらゴールドが言った。
 ネットの向こうでは、テニスボールを手に取ったクリスが、深呼吸をして目を閉じた。彼女の空気が変わる。ゴールドは無意識のうちに背筋を伸ばし、彼女に意識を集中した。いつスマッシュを撃たれてもおかしくない。
 トスを上げるその一瞬で開かれた彼女の目、まるで獲物を狙う鷲のように鋭利だ。すぐさまラケットが振られ、放たれた白球は鋭く弾道を描き、やがてコートの隅ぎりぎりに落下しそうなところを、なんとか追いついたゴールドにフォアハンドで打ち返された。ゴクリスはバックサイドに下がってそれを見送り、勢い余った球はコートを囲むフェンスにぶつかって跳ね返る。
「やるじゃない。わたし、サーブには自信あるんだけどな」
「結局点取ってるくせになに言ってんだよ。次、次はぜってえ取るからな!」
 ゴールドは吠えた。顎で次のサーブを打つよう挑発する。カフェの大人たちが盛り上がり、ドイツ語で何か歓声を上げている。
 正午を越すまでふたりのゲームは続いた。結局、ゲームは六体六までもつれ込み、クリスの息切れを狙って二度のタイブレークを制したゴールドの勝利となった。いま、酔っ払った野次馬の大人たちに持たされたサンドイッチやビールやよくわからない果物などを抱えて、彼らはシュロス湖のふち、水の波が地面を濡らさない辺りの草地の上に座っている。
「悔しい! 絶対負けないと思ったのに」
 よくわからない果物のフサから実を一つとって口に放り込みながら、クリスは背中から芝生の上に倒れ込んだ。ゴールドも彼女の隣に寝転んでみる。空は青々と冴えて、ちぎれ雲が幾つかぷかりと浮いている。
「……これ山葡萄だわ。酸っぱい」
 ゴールドもクリスに倣って実を噛んでみた。爽やかな酸味が口の中に広がり、それにつられて、ゴールドの目にも酸い何かがにわかに駆け上がってきた。ギョッとしてクリスが身を起こす。「ちょっと、どうしたの」
「あー……悪い、なんかオレ……疲れたみたいだ」
「それはそうでしょう、だってシルバー……」
 言いかけたものをとどめて、彼女は絹のハンカチを取り出しゴールドの濡れた頬を拭ってくれた。気遣わしそうな眼差しが今は痛い。ゴールドが黙って首を振ると、彼女はそれ以上なにも言わずにそっとしておいてくれた。
 ふたりが帰路につくころにはシュロス湖の水面はすっかり山吹色に染まり、彼方の方から金箔を散らしたような光が的礫ときらめいていた。上級高等学校の生徒たちが集団でカヌーを漕いでいる。住宅街を抜けて学園の敷地内に戻り、クリスと別れてパウロ館に戻ろうとしたゴールドは、ふと何らかの予感を胸に抱いて、東のペテロ館の尖塔を眺めた。ゴールドの動物じみた視力は五階の屋根裏窓に、えもいわれぬ眼差しでこちらを見下ろしてくるシルバーを確かに捉えた。ゴールドは踵を返した。中庭を通ってパウロ館からの対角線上にあるペテロ館に入り、ロビーから螺旋階段を登ってシルバーの部屋に向かった。
 真鍮のノブに鍵はかかっていなかった。中に入ると、窓からの光で青白く翳った美しい顔が振り向いた。蝋細工のような薄暗い顔。シルバー。彼の目はひどく虚ろだ。焦点が合っていない。それでもシルバーはゴールドの姿を認めると、ほっとしたように格好を崩した。
「帰ってこないのかと思った」
 シルバーはよろめきながら立ち上がり、部屋を横断してゴールドに近寄ってきた。もはや骨ばかりの腕をゴールドの腰に回し、甘えるように鼻先を擦り付けてくる。
「そんな訳ないだろ」
「なあ……抱いてくれ」
 熱っぽく湿った声で囁かれて、ゴールドはハッと身を強張らせた。
「何……言ってんだよ」
「おまえがクリスといるんだと思ったら気が狂いそうだったんだ……もうどこにも行くな、おまえがほしい」
「どうしたんだよ、おまえちょっとおかしいぞ!」
 突き放そうとしたゴールドの腕をかわしながら器用に掴み、シルバーは力任せに彼をベッドに引き倒した。スプリングが激しく軋む。ゴールドは抵抗しようとしたが、両腕を強い力で押さえ込まれ、身体の上に馬乗りになられるともう動けない。飢えた獣のように唇を求めてくる。舌を絡め取られ、貪るように吸われる。息ができずもがいているあいだにスラックスを脱がされ、剥き出しになった下半身をまさぐられた。すぐそこに骨が突き出た、尻の皮膚が先端に触れた。
 そのときふいに、俯いたシルバーのシャツの胸から、彼のロザリオが音を立ててこぼれ落ちた。小粒の真珠が光を帯びて雨のように降ってきた。シルバーははっと身体を起こし、その顔色に畏ればかりを含ませた。細い身体が離れてゆく。ゴールドから後ずさる。ゴールドは半身を起こしてシルバーと向き合った。彼は、歔欷の形に下瞼を歪めたが涙は出なかった。
「オレは……なんてことを……」
「シルバー」
 名を呼んだだけで、彼はビクリと震えてさらに数歩後退った。
「来ないでくれ!」
 彼は後ろ手で扉を開き、できた隙間から猫のようにすり抜けて部屋を出ていった。ゴールドはしばらく呆然としていたが、すぐに慌て出してその後を追う。

「中庭にいるところを見たよ」
「旧礼拝堂にいるんじゃない? 彼氏、また上級生に付け狙われてるって聞いたぜ」
「図書館は? 図書委員でしょ、シルバーくん」
「町でも行ったんじゃない? ずっと部屋にこもってたんじゃあね、いい加減鬱憤も溜まるってものでしょ」
 すれ違う同級生たちが口々に情報をもたらすも、どれも的を得ないのでゴールドは難儀した。シルバーは春の風のようにすばしっこく、また捉えどころがなくて、校舎のどこをどう探しても見つけることができなかった。
 やがて日が暮れ、夕食の時間もとっくに過ぎ、何の収穫を得ることなくゴールドはパウロ館のロビーに帰ってきた。共有スペースのソファに座って友人たちと額を突き合わせながら、ジュリアンが課題のフランス語教本を睨みつけていたが、ゴールドの姿を認めるとパッと顔を上げて手を振った。おざなりに手を振りかえし、しかしいまだに脱力したままゴールドは螺旋階段を踏む。一歩一歩踏み出す足が重い。足首に氷の塊がまとわりついているような重たさだ。
 四階、自室にたどり着いて彼は、ドアノブの錠が外れていることに気がついた。ジュリアンが開けたままにしておいたのか、ため息まじりにノブを回しふと、彼の身体を奇妙な予感が充す。彼は音を立てずにドアを開けて閉め、後ろ手に鍵をかけ、ローファーから焦ったく室内ばきに履き替えて階段を登った。寝室には作業机とベッドが二つ、そのうちの右のベッドがゴールドのベッドだ。果たして、シルバーはそこにいた。かたくなに膝を抱え、顔を伏せて震えていた。ゴールドは静かに彼の傍に歩み寄り、床に片膝をついて、俯いたままの彼の顎をそっと掴んでこちらを向かせた。涙で濡れた銀の瞳が二つあった。
「どこに行こうかと、考えて」
 感傷のたっぷりと滲んだ声で、辿々しく彼が言う。
「いたんだ……でも、結局思いつかなかった。おまえのところに行くことしか……!」
「なあシルバー」
 ゴールドはそれ以上彼に何も言わせなかった。ただ、手を握った。シルバーはそのときびっくりして手を引っこめようとした。声を出さずに握りこまれた指だけがもがいた。だがゴールドはシルバーの手の皮膚をそっと捕まえておいて、決して揺るがなかった。怯えの脈が走る指へいたわるように触れる。骨の出っ張りが皮膚に突き刺さるのを確かめる。
 美しい顔がつくる驚きの表情が、脆い砂糖菓子をつついたときのようにほろりと崩れ、彼の下瞼から一掬の涙がこぼれた。ただほんとうにそれきりだった。しかしそのことで、ゴールドの過去から現在、未来に至るまで、いのちがけの信念や正義、孤独や憎しみを抱いたこと、それから、愛、すべからく満たされて、ゴールドの溌剌とした少年の目鼻立ちに充足の色が上った。シルバーがはっとして、慌てて視線を逸らそうとした。
「好きだ」
 シルバーは信じられないというふうに目を見開いた。漏れ出る嗚咽を押しとどめようと彼は必死で唇を歯を食いしばる。
「口先だけの愛情など不要だ」そっけなく言い捨て、なおも手指の拘束から逃れようとする。
「違う」
「他でもないおまえに、嘘なんてついてほしくない、性欲をどうこうしたいのなら、そんな言葉を持ち出して来なくても好きにオレを抱けばいい」
「違うって言ってるだろ。もうおまえのことは抱かない」
「なぜ!」
「何度も言ってるだろ、好きだからだよ。おまえを愛してるんだ」
 それまでゴールドの挙動のすべてを拒絶していた瞳に、桃色の花弁が張りついたほどのささやかなぬくもりが湧いた。涙がすっかり彼の頬を流れ去り、ようやく、彼はのろのろともう片手を持ち上げた。二つの手がゴールドの分厚い掌を挟む。まるでそれが自分の心臓であるかのようにシルバーは、大切に大切に、小さく繊細なふたつの手でゴールドの手を包み込んだ。
「オレは……事実、生まれたそのときから罪人だったんだ。だから呼吸をすることすらどうすればいいかわからなくて」
「シルバー」
「最後まで聞いてくれ。その息苦しさをどうにかしたくて主に縋った。きっとそうなんだ、最初はただ利害の一致でこうしていただけかもしれないんだ、でも、最近はほんとうに、かの人にはすごく感謝している。ブルーねえさんに、クリスに……おまえに、会えたから、ただそれだけで……神の法律が、欠けひとつない無謬のものだってこと、おまえが教えてくれたんだ」
 シルバーは、深い喜びから出た微笑を唇のほとりにぼんやりと含ませた。
「愛してる。おまえに会えてよかった」
 それは、ゴールドが長らく待ち望んでいた愛の言葉、確かにそうであるはずなのに、ゴールドの胸には不吉な予感が降りてくるのだった。彼の微笑の美しいこと、清らかであることが、いやに作り物めいていて無機質な感じがした。
 そのままキスをねだられて、ゴールドはそのとおりにしてやった。触れた唇がつめたいのに、彼はことさらにその予感を強めた。

 三月の終わり、イースターのために学園は十日あまりの休暇に入るが、ゴールドもまた父親の追悼ミサのために帰国することになった。念願かなってようやくシルバーと愛し合うようになったゴールドであるというのに、彼は晴れない気持ちのまま、去年の秋に初めて降り立ったユーバーリンゲン駅のホームにいた。ホームには、各駅停車でそれぞれの実家に帰る国内組の生徒たちが何人かと、チューリヒ行きの急行を待つゴールド、クリスタル、それから見送りのためにやってきたシルバーが待っていた。ほかにキャリーケースを抱えた観光客もちらほらと散見された。
「オレがいなくても泣くなよ」
 繋いだ手に力を込めてゴールド、すぐそばでほのかに赤らんだみずみずしい耳がらに囁いた。
「泣かない」
「寂しがりのくせに何言ってんだか」
 初春の、色素の薄い空から、すがすがしい檸檬色の光が降ってきてシルバーの鼻梁や痩せた頬、ゴールドに投げて寄越された微笑を天上のものにした。今まさに綻んだ若い薔薇のようだと思った。伸ばした指先で頬の骨格をさわる。彼はゆったりとまばたきをし、緊張のあまり汗ばむ手のひらに自ら擦り寄った。二人はお互いの瞳の中に同じ宇宙を見、どちらからともなく鼻先を近づけて、人目も憚らずねんごろに唇をくっつけた。
「ゴールド、彼氏、見ろよあんな顔して」
「姫! 王子! 末長くお幸せに!」
「うっせー黙ってろ!」
 遠巻きに二人を見ていた同級生たちがヤジを飛ばすのに、ゴールドは大声で報いる。彼らが黄色い声を上げながら散り散りに逃げてゆく。行儀が悪いとクリスが眉を顰める。そうはいっても、ゴールドは羞恥で真っ赤になって彼らから顔を背け、シルバーはといえば、ただ優しい表情で、自分のことを冷やかす彼らに別れの挨拶をした。それから、ゴールドの耳元に唇を寄せて、彼なりの愛の言葉を囁いた。
 彼がいっそしおらしすぎることに、ゴールドは強い不安を抱いていた。有史以来、美しいものには往々にして不幸がついてまわるものだった、チャイナのヨウキヒは国を滅ぼしたし、聖アグネスは十三歳で殉教した、そのきざしが、一途にゴールドのそばを離れずにいるシルバーの瞳の中にも確かに感じられるのだった。うちに来いよとゴールドは誘うのだが、受難週からイースターにかけての一週間余、毎日行われる終夜ミサに参列するから行けないという。
 ジリジリという耳障りなブザーとともに、ホームに列車が滑り込んできた。赤い貨物列車のような風体だが中は国境を超えてチューリヒにたどり着くまでを快適に過ごすことのできる個室車両だ。
 ゴールドが先に乗降口を上り、彼のエスコートでクリスも列車に乗り込んだ。彼女が場所を開けてくれたので、乗降口のへりに立ってゴールドは、シルバーとのしばしの別れを惜しんだ。
「気をつけて……チューリヒ駅はすごく迷うから」
「お前こそ、色々気をつけろよ。メシはちゃんと食えよな」
「わかっているさ」
「いーやわかってないね。だいたいおまえは……」
 言い募ろうとする唇は、踵を上げて背伸びしたシルバーの、掠めるような口づけによって閉じられた。ホームに残った同級生達から再び歓声が上がる。
「王子ー! どうぞご無事で! ご不在の間は我々が姫をお守り申し上げます!」
「だからうっせーンだよ!」
 照れ隠しに叫んでから、ゴールドは列車の扉が閉まる前にもう一度シルバーを抱き寄せた。繊細で、こづけばすぐにでも壊れやすそうな、汚れのない少年の身体を。
 胸と胸が軽くぶつかったそのとき、あっとシルバーが声を上げた。自らの制服のジャケット、そのボタンを一つずつ外してゆく。内側の赤いサテン、そこに縫い付けられた内ポケットの中を彼が探ると、軽やかな金属音とともに金の鎖がこぼれ落ちた。
「なんで……」
 それは冬のあの日、シルバーが去りゆく姉に手渡したはずの、家族の写真が入ったロケットだった。いとおしそうに蓋を外し、シルバーは写真に静かな視線を落とす。
 発車のベルが鳴り響く。ゴールドが慌てて扉の前から退くと、重い軋みと共にドアが閉ざされた。大慌てでひと車両分を踏破し、一番デッキに出て彼を探す。彼はまだ、ゴールドが去った後の乗降口を眺めていた。横顔が淋しい。
「シルバー!」
 列車が動き出し、急速に彼の姿が遠ざかる。
「手紙書くからよ!」
 速度のなす風の中で、ジャケットの裾から伸びたシルバーの片腕が白く涼しく輝いている。
 車両の中に戻り、切符の印字どおりの車室に入ると、クリスはすでに荷物台にすっかりキャリーケースを納めて座席に座り、すました顔でゲーテ詩集を開いていた。ソフトカバーの表紙に、紅薔薇を手のひらに乗せた裸身の天使が描かれている。扉を開けても彼女が無言だったので、ゴールドも寡黙なまま中に入り、少しばかりの荷物を彼女のキャリーケースのそばにおさめた。彼女の向かい、ビロードのふかふかな座席に沈み込む。
「シルバー、元気そうだったね」
 ズライカの歌、ドイツ語版に意識を向けたまま、思わずぽろりとこぼしてしまったという調子で彼女が呟く。
「ああ……うん……いいことだな」
「そういうんじゃなくて……不自然なくらい元気ってこと」
「まあ、そういう気分のこともあるだろ」
 列車はボーデン湖のほとりを北上し、ぐるりと湖を半周してスイス連邦に入る。雪の気配が濃くなってきた。窓の外は、針葉樹の冷たい緑と、もう春というのにわずかばかり凍りついた湖畔の白一色の世界だ。
「ところでおまえ家どこ?」
「ロサンゼルス……だからフランクフルトまで一緒ね」
 すくなくともフランクフルトまでは、寝こけていても無事に到着できるということだ。途端に気が抜けて、ゴールドは座席に深く背を預け、目を閉じて眠りの波に思いを馳せた。

 ニューヨーク、ペンシルバニア駅、モイニハン・トレインホールは、鉄骨を組んで作られたガラス張りのアトリウム天井から落ちる自然光で、広いホール全体を明るく演出するモダンなハブだ。シャンデリアの形式で吊り下げられた時計が十五時を指すころ、ゴールドは十一番線からエスカレーターでこの大空間に上がってきた。
 九月にこの灰色の大理石を踏んだときは、父親の死への遣る瀬無さと、母親のあまりにも物分かりの良い様子に、苛立ちばかりを持て余していた。神なんていないと断じるばかりだった。だが、どうだろう、今のゴールドの心は、シュロス湖の鏡の湖面のように凪いでいた。不安が水面で澱むばかりで、ほかは恐ろしいほどに静かだった。制服の裾の折れ目を直し、赤いリボン、神の贖罪の象徴を直して真っ直ぐに立つ。その姿勢のまま第八アベニューに続くフードホールを抜けて外に出ると、都会特有の内容雑多なざわめき、車のクラクションの音、春先だというのにじっとりと湿気を帯びた空気が、ゴールドの鼻先を直撃した。
 五車線もある第八アベニュー、ひしめきあう色とりどりの車、パルテノン神殿にも似た、無数の柱廊を備えた駅のファザード、そこから地上に流れるドレスの裾のような大階段、天辺には星条旗が誇らしく輝き、その向かいには、かつて父親が勤勉に働いていたエンパイヤステートビルが光の中に聳え立っている。巨大なマディソン・スクエア・ガーデン、歩道脇にハラルフードの屋台、南国フルーツジュースの屋台、テレビ会社の巨大なバス、発電カー、人種に関係なく人々は好きな服を着、好きな靴を履いて、好き好きに母国の言語を話しながら縦横無尽に行き交う。ゴールドにとってはひさびさの故郷の空気だ。厳粛でしんとしたセイラムの街では絶対に見られない景色だ。
「ゴールド」
 目の前に停車していた黄色いNYC(ニューヨークシティ)タクシーの後部座席が開き、白いロングワンピースの女性が顔を出した。
「かあさん!」
「おかえりなさい」
 大きなバッグを抱えたままなんとか車内に乗り込んで、座席に身を落ち着けてから、ゴールドは母の隣に座った。シートベルトを締める前に、彼女がぎゅっと抱きしめてくる。
「元気にしてた?」
「おう……」
「ああ、そうだ、あなたがお友だちできたって言うからてっきり連れてくるのかと思って、夕食三人分用意しちゃったわ。……まあいいでしょう」
 あまりものを気にしない母だ。相変わらずの彼女に、ゴールドにも自然笑みの波が寄せてくる。
 ゴールドの実家は、ニューヨーク中心部から程近く、東第九ストリート位置する巨大なタウンハウスだ。一家はその棟全体を所有していたが、母は維持費が嵩むのを面倒がり、それじゃあいっそ貸家にしてしまいましょうということになった。今では一階から四階に人が住み、その中に店舗も二、三混ざる。
 赤煉瓦にギリシャ復興様式がなごる美しいタウンハウス、ゴールドの実家の手前でタクシーに金を払い、母子は降車した。母に促されて大理石の階段を上り、無垢材の扉を開けると、寄木細工の堅木張りの床に白い壁、簡素なシャンデリアが美しいロビーに出る。エレベーターで五階まで行けばすぐにリビングに出るはずだが、ゴールドはこの半年ですっかり鍛えられた心身のアピールのため、階段で五階まで向かった。
「すごいわねえ」
 母がどことなく嬉しそうだ。
 玄関からまっすぐにリビングに入った。ロックビル大理石の暖炉に紺地のソファ、素朴な花を生けてあるガラスのローテーブル、そうしたものをゆとりを持って配置した空間だ。父親が仕事仲間から譲り受けたピアノや、名のある現代アート作家が描いた巨大なキャンバスなんかも飾られている。奥まった正面壁には二つ、九つ窓の可愛らしい窓が二つ、午後の光にキラキラと輝いている。左の扉を開けるとダイニング、そのさらに奥にキッチンとバスが左右に配置され、キッチンからバルコニーを超えて室内に入ると再びリビング、右の扉は両親の寝室のもので、左の扉がゴールドの自室に向かうものだ。
 雪崩れ込むみたいにして自室に入る。すっかり懐かしくなった本棚と机、椅子、さまざまなCDや楽譜、おもちゃを乗せたラック。カラフルな壁に貼られたポケモンのシール。シンダクイルのぬいぐるみ、ドラム、青い毛布のかけられたベッド。ボストンバッグを机の上に置き、ジャケットを脱いでいると、ノックの音とともに母が入ってきた。
「お買い物行きましょうか」
「いく!」
 リボンだけを器用に解き、ゴールドは母に追随する。
 一本大通りに出たところに、エピクリカン・マーケットという名前の、赤いビニール庇が印象的なマーケットストアがある。手前で花を、中では日用品や食品を販売しているごく普通のマーケットだが、菓子類の品揃えが多いので幼いゴールドはよくここに通ったものだった。奥に長く伸びた店の敷地に入り、菓子の棚へ走る。ガラスケースの中で売られるアイスや惣菜の類も見る。グラハムクラッカーとレイズポテトチップス、ひまわりのたね、レーズンなど、ドイツではとてもお目にかかれない類のスナックをたくさん買ってもらった。夜には母の得意料理・グレン風火山ハンバーグ(グレンというのはジャパニーズで赤という意味らしい)を振る舞われ、ゴールドはすっかり満足した。

 アセンション教会は、グリニッジ・ヴィレッジの中心部に建設された、ネオゴシック様式の美しいカトリック教会だ。交差リブやアーケード、ステンドグラスの高窓、小さな吊り下げ式の照明が立ち並ぶ奥に、復活したキリストの被昇天を描いたジョン・ラ・ファージの巨大なフレスコ画が飾られている。学園の礼拝堂は贅を凝らした作りになっていたが、こうした地元の慎ましやかな教会も悪くないと、いまのゴールドは思っていた。この日、母子は父のためにここで追悼ミサを行うことになっていた。
 信心深く親切な父の追悼ミサには、アメリカ全土からたくさんの残列者が訪れた。喪服を着た男女に、色々な制服を着た子供たちがちらほら混じる。母はミサの前、その全てに対してあいさつをし、遠くからやってきたことに対する感謝を述べた。以前であればそうはしなかっただろうが、ゴールドも、母に倣って一人一人と握手を交わした。
「君、ゴールドくん?」会う人会う人が、口々にそのような言葉をゴールドにかけた。「大人になったわね、見違えたわ」
 恋をすれば人は変わるのだ。ゴールドは胸を張ってそれに応えた。
 式はつつがなく進行した。参列者は皆神妙な顔で司祭の説教を聴き、聖体拝領に与った。福音朗読ではマタイの福音書が読まれた。わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい、そうすればあなたがたはやすらぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである——
 ……という旨を書き留めた便箋を破り捨てて、ゴールドは再び頭を抱えた。手紙一つに、こんなにも悩まされている。
 シルバーに手紙でも書こうと思い立ったのだ。出立の日、手紙でも書くと言ったくせに、結局五日も書けないでいるからだ。しかしいざ文面を考えようとなると、良い話題がなかなか思い浮かばない。そもそもこんなことを書いてシルバーが喜ぶのか、ゴールドの父親の追悼式をしたとか、ゴールドが見違えたとか言われたことを書いて? 今まで手紙に大まじめに取り組んだことのないゴールドは、なかなか答えを見つけられずに唸った。
 やあ、元気にしてるかいシルバーくん……いやいや、流石に他人行儀がすぎる。
 愛するシルバーへ、お前のいない日々が寂しいぜ……どうにも気障で恥ずかしい。
 背を後ろに倒して唸る。
 ふと、かばんに入れて持ち帰ってきた、あの大きくて分厚い聖書のことを思い出した。ゴールドは立ち上がってそれを取り、後ろから幾分かページをめくってみた。すぐに該当の箇所を発見し、彼の口角に知らず笑みが上る。
 書き上がったものを真っ白な封筒に入れ、のりをつけて蓋をした。一週間もすればきっと彼のもとに届くだろう。