2023/05/03


 ふしぎと、涙は出なかった。代わりに、胸の奥底から笑いの衝動が込み上げてきて、小銀は親弘の首に腕を回し、背を後ろに反らして呵呵した。風が髪を巻き上げる。星が尾を引き彗星になる。快哉。この瞬間のために生まれてきた。たった一言告げられるために、飛行機に乗り、足場の悪い道を踏みこえ、彼のところまでやってきた。
「おいこら、なに笑ってやがる。俺は本気で……」
「親弘、お前は、……お前はとんでもないろくでなしで、親にも愛されず捨てられて、態度は軽薄だし人の心もわからないし、おまけに救いようのない大馬鹿者だ」
「てめ、それ以上言ったら本気でぶつぞ」
「この調子では、もう地球上でお前の面倒を見られるのは私だけだな。仕方ないからそばにいてやる」
 ヘルメット越し、ライダーズ・ジャケットのやわらかな黒革が秘めやかに輝く、彼の背中に頬を押し当てる。熱い。まるで内側に太陽を飼っているみたいな身体だ。
「いやか?」
 誰も聞くもののない、果てしない星空と長い滑走路の中心で、小銀は親弘に聞いた。
「いやなもんか。望むところだぜ」
 親弘が答えた。

 バイクは、インドネシア独立を象徴する巨大なオベリスクパルテノン神殿を模した白亜の国立博物館を通り過ぎ、堀に囲まれた公園の敷地に入った。棕櫚や背の低い椰子が並ぶ道を低速で走ると、やがて右手にコバルトブルーの石を嵌め込んだ金字の立て看板が目に入る。インドネシア語と、這う蛇のようなアラビア文字で何か書かれている。親弘の肩越しに行く手を見ると、古代ギリシアの神殿を思わせる無数の柱と、星と三日月を組み合わせたイスラムの象徴的な装飾、白亜のドーム、ミナレットと呼ばれるのっぽの塔を備えた建築物が見えてきた。それが金やエメラルドのライトアップを施され真夜中の天下に幻想的に聳え立っていた。モスクだ、それもとんでもなく巨大な。時刻は深夜帯にさしかかり、広い敷地の中に人っ子一人見当たらないのが奇妙だが、それにしても、小銀はこの地に想いを寄せる信者たちの息遣いを首の後ろで確かに感じていた。
 親弘は正面駐車場、小柄なタマリンドのそばにバイクを停めると、ヘルメットを脱いでこのモスクを見上げた。長身の彼でさえ首を大きく反らさなければ天辺を確かめることができないほど、モスクは巨大だった。現代建築の奇抜さを十全に発揮しながらも、古典的なビザンティン建築を確かに踏襲した、荘厳で美しいモスク。「イスティクラル・モスク」、緩慢に瞬きを繰り返しながら、親弘がつぶやいた。「お前がインドネシアに来たら、絶対に連れて行こうと思ってた」
「きれいだ」
 親弘のそばに寄り添い、小銀もまた、月明かりにきらめくイスラムのシンボルを見上げた。
 陽が落ちているとはいえまだ湿気の多い南国の空気があたりに充満していたが、親弘はジャケットを脱ぐと、剥き出しになった小銀の肩にそっと覆い掛けてくれた。彼の匂いがする。袖口に軽く鼻を押しつけて吸い込むと、彼はちょっと照れたように肩をすくめて、小銀の腰を優しく引き寄せた。こめかみにキスが降ってきたかと思えば、思い切り吸われて意図しない声が出た。
 入場時間はもう終わっているというので、彼の案内で裏口から入った。東南アジア最大のイスラムの聖地は、これまた奇妙なことに、異教徒に対して裏の門をいとも簡単に開放した。警備もなく、木製のくたびれた靴箱が雑に置かれているのみである。靴を脱ぎ、裸足で入場すると、すぐに広大な中庭・サハンに出る。長い長い回廊に三方を囲まれた、茶色の煉瓦を敷き詰めただけの広場だが、足を進めるごとに冷たく厳かな気配が皮膚を通って全身を満たしてゆくのが確かにわかるのだった。恐れにも似た畏怖を抱き、小銀はますます親弘のそばについて歩いた。
「理不尽なことが多すぎるんだよな」
 ゆるやかな大気の移動に前髪をかき乱されながら、親弘はひとりごちる。
「俺のこと、デヴァンのこと、おまえの母さんのこと……イスラムの親の間に生まれたこの国の大多数の人間どものことも、俺にとっちゃそうだ。男は家を守れ、女は従順でいろ、馬鹿みてえだろ。でも実際その星の下に生まれたからにゃ、人生はそれだけなんだ。たった一つだ。誰かに哀れまれる筋合なんかねえ、俺たちは、それを正しいと思って生きてるんだからよ……」
 正面にモスク本体である礼拝堂が見える。無数の石柱の間をつなぐようにして、さまざまな形の四角形を組み合わせて作られた金属製の幾何学模様が施されている。その足下から中に入ると、小銀はいよいよ深い感慨に打たれた。内部は暗く、耳が痛くなるほどに静かだが、広大だった。余すことなく敷き詰められた、目にもけざやかな真紅のカーペット。純白の石の壁、天井近くに几帳面に並ぶ無数の小窓。正円のドームを泰然として支える十本の柱。三角形を組んだような形でドームを支える柱は中の光を微かに反射して、その一本一本が宇宙を満たす星の代わりになった。
 親弘が指先を絡めてきて、二人は手を繋いだ。吐く息すら震えていた。鷹揚にアーチを描くミフラーブの前で膝をつく。
「すんません、こんな時間に。今日は俺の彼女を連れてきました」
 言いながら、彼は両手と額を床につけた。小銀も慌てて彼の真似をする。
「あんたが本当にいるものかどうか、俺にはわかりません。いるんなら早よ助けろやって、そう思ったこともあります。でも、俺の大切な人たちが、あんたのところで喜んで祈ってるので、俺はうれしいです。あんたのためにあいつらがなすこと、話す言葉、作るものが美しいので、俺はうれしいです。あいつらがあんたを大切にしてるので、俺もあんたが大事です。いつもありがとう」
 親弘の祈りはイスラムの礼拝の作法を丸切り無視したとんでもないものだったが、朗々として、高いドームの天辺にどこまでも響いた。手のひらが燃えるように熱い。
「こいつは、偏屈だし、臆病だし、俺の傷を的確に抉ってくるいやなやつですけど、俺の大事な、たったひとりの女の子です。あんたが俺の大切な人たちを大事にしてるように、こいつのことも大事にしてやってください。そんで、俺たちの子ども、小さい赤ん坊のことも……お願いします。ああ、そうともさ、二人のためなら、俺はなんだってできるんだ……」

 かれはアッラー、ただひとりのお方。
 アッラーは、だれのことも必要としない。
 アッラーはだれかを産むことも、だれかから生まれることもしない。
 かれはアッラー、比類なきお方。

 廊下ほどの広さしかない部屋の、ほとんどの面積を占有するダブルベッド、そこに二人なだれるようにして倒れこんだ。もうなにものも二人を阻むことなどできない。車のクラクションの音も、壊れかけた室外機のファンが回る音も、照明の暗さも、なにもかも問題にならない。シャツの合わせを器用に開かれ、顕になった鎖骨のくぼみの影を、親弘の唇が音を立てて啜った。
「いれねえ、いれねえから、確かめさせろ」
 彼の声だけで固くとがった乳頭を揉むように吸われる。破けそうなほど薄い、病的に白い皮膚を圧迫する肋骨、その出っ張りを宥めるようにまさぐられる。ついにすべてのボタンが外され、晒された身重の腹……三か月めに差しかかり、かすかに膨らんできた腹を見て、彼は感無量とばかりに深く呼吸した。
「触っていいか」
「うん」
 首肯すると、硬い手のひらがふくらみに確かめるように触れ、ためつすがめつ、撫でたり、つついたり、軽くつねったりする。小銀が痛がって身を捩ると、とたんに臆病な子どもの顔になって、ああ、と吐息した。
「いるんだな、ほんとによ……」
 まだ滑らかに腹筋の線を残す腹をなぞり、彼は小銀の臍を探り当てる。優しく引っ掻かれてあえやかな声が漏れる。
 親弘は小銀の両脚をつかみ、股の間に顔を埋めて、夜泣きする膣口に鼻先を近づけた。何度もキスをして、舌で舐めて、頬ずりした。陰核を歯で擦られたさいには錯乱も頂点に達し、彼の頭を脚で押さえつけ、短い髪に手を入れてかき乱しながら何度も何度も彼の名を呼んだ。具体的なタイミングを知覚できずとも、何度か絶頂していることはたしかだった。
 曖昧になってゆく意識の奥底で、膣肉が彼の人差し指を受け入れたと知った。音を立てて抜き差しを繰り返しながら、熱っぽくおぼつかない声で、彼が喚いた。
「あちい、やらかい、いれたら最高に気持ちいいだろうな……小銀、愛してる……ああくそ、いれてえ、畜生、いれてえ、早くいれてえよ」
 ふと、その眦から、小さな涙がこぼれ落ちるのを見た。

 

   Fajr ——ファジュル、薄明

 はじめて彼の双眸と向き合った、その日のことははっきりと覚えている。
 去年の六月のことだ。学内で毎年恒例の英語スピーチコンテストが開催され、他の出場者に大差をつけて親弘が優勝した。それまで、クラスメイトのほとんどの間で共有されていた彼の印象は、留年寸前の落第生、体育以外はてんでダメ、絵に描いたようなバカキャラ、というところだったから、その快挙は少なからず皆を驚かせた。
 長い話を終えて頭を下げた彼を、スタンディングオベーションで絶賛する生徒たちの中で、小銀はすっかり放心しきって指を動かすことすらままならなかった。朗々として、聴衆の緊張すら強いた低い彼の声に、底知れぬ孤独が薫っていることを、ホールの照明が作り出すかすかな薄闇の中で小銀はたしかに嗅ぎ取っていた。埃の積もった、行き場のない黒橡の孤独が、住み着く先を探して一斉に放たれたという感じだった。そして小銀はたしかにそれを受け取った。薄い胸の中に大切に仕舞い込んでいた。
 鳴り止まぬ拍手に包まれながら壇上を降りる親弘が、ふと、小銀を見る。そのまなざしが一閃、小銀の心臓を突き通り、まばゆいばかりの光を放って、やがて背中でほろほろと霧散した。彼女は立ち上がり、今もなお拍手を送る同級生たちの波を抜けてホールを飛び出し、楽屋口に走った。果たして、親弘はそこにいた。言葉もなく近づき——手を握られ、腰を引き寄せられて、ささくれ立った唇の皮膚に、生まれてはじめて接吻を許した。六月の霧雨がしとしとと、若い二人の肌を濡らす。このとき、二人は会話はおろか、視線をかわし合ったこともなかった。命にも数えられない物質だった頃を除けばほとんど初対面だった。
 彼は小銀の肩をほとんど強引に抱くようにしてその場から浚った。肩で息をするほどに神経を昂らせ、全身がわざとらしく思えるほど震えていた。耳を押し付けられた形になった彼の胸のあたり、きっちりと留められた学生服のむこうで、彼の全身は冷たい汗に濡れていた。
 彼のかびくさいベッドの上で血を流した。小銀は清くなくなり、親弘も、少年の透明な蛹を脱ぎ捨てて一人の男になった。皮膚の薄いところを容赦なく歯で抉られ、背中に回された腕が内臓を圧迫し、瞳が、暗がりの中でもはっきりと己の意志をたたえたその瞳が、子どもの小銀が抱えていたつまらない妄執を粉々に打ち砕いた。小銀も彼の喉仏に噛み付いたが、皮がめくれて、ピンク色の粘膜を剥き出しにしただけだった。その上から必死に舐めて唾液を染み込ませた。ベッドの上から、脱衣所、風呂場、汗を流してからキッチン、洗面台の上、少しの水を飲んでふたたびベッド、夜明けにはベランダに出た。遠く郵便配達のバイクの音を聞きながら、喉が枯れるまで彼の名前を叫んだ。
「俺、親弘っていうんだけど」
 薄明。手入れされないまますっかり枯れ果てた花のプランターに座り込み、裸のままの彼が言う。親弘と小銀の、事実上初めての会話である。
「あんた、サカキコキン」
「小銀だ」
「あんまやわっこくねえ、おっぱいないし。女ってより痩せた男って感じ」
「女のように扱われるのは不愉快だ。女の身体、女の髪、女の制服、みなこの町で生きていくためのていの良い種別でしかない。私が望んだものじゃない」
「でも、声。好き」
「はあ?」
「お前が俺のこと呼ぶ声。すげー好き、好み。そそる」
「帰る」
 生まれたままの姿で立ち上がると、ちょうど、彼の家の前で犬を散歩させていた男と目があった。慎ましやかな乳房も、白い肌を埋め尽くす夥しい数のあざも、無毛の恥部も、全て男の前に晒されていた。男が目を逸らす。犬が吠える。憤る小銀の腕を引きよせ、まあ待てよ、親弘は腕の中に彼女の痩躯を閉じ込めた。……小銀、
「行くな」
「……離せよ」
「決めてんだ、やるなら全部自分のためにすんだって……誰かのためとか何かのためとか俺には恥ずかしくて言えねえ……でもよ、いま、お前のそばにいたいって、お前の力になりたいって思ってる俺はなんだ? 理性とか精神とかそんなのなしに、夢見心地にお前を欲しがる俺はいったいなんだ? 知りてえんだ、気になるんだ、それがさ……わけとかねえ、言葉になんかなんねえよ……」
「夢は覚めるものだ。ひととき楽しむことができればそれで十分だ」
「わりいけど、夢で終わらせる気はさらさらねえよ」
 暁の光が差しそめて、親弘の瞳に金色の絶望が光る。わけもなくきれいだと思った。
「聞かせろ。お前はどうしたい?」